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2014年9月30日火曜日

"正義"という「主人のシニフィアン」(バディウ=ジジェク)


バディウは時折、"正義"を主人のシニフィアンとするように提案する。"自由"や"民主主義"のようなあまりにもひどくイデオロギー的に意味付けられ過ぎた概念のかわりにすべきだというものだ。しかしながら正義についても同様な問題に直面しないだろうか。プラトン(バティウの主要な参照)は正義を次のような状態とする、すなわちその状態においては、どの個別の決断も全体性の内部、世界の社会秩序の内部にて、適切な場所を占めると。これはまさに協調組合主義者の反平等主義的モットーではないか。とすれば、もし"正義"を根源的な束縛解放を目指す政治の主人のシニフィアンに格上げしようとするなら多くの付加的な説明が必要となる。(私訳)

41 Badiou, Théorie du sujet, p. 176, as translated in Bosteels, “Force of Nonlaw,” p. 1913. Badiou sometimes proposes “justice” as the Master‐Signifier that should replace all‐too‐heavily ideologically invested notions like “freedom” or “democracy”—but do we not encounter the same problem with justice? Plato (Badiou's main reference) determines justice as the state in which every particular determination occupies its proper place within its totality, within the global social order. Is this not the corporatist anti‐egalitarian motto par excellence? A lot of additional explanation is thus needed if “justice” is to be elevated into the Master‐Signifier of radical emancipatory politics.(ZIZEK"LESS THAN NOTHING")

上の文は、次の文の注である。

As we have said, Badiou supplements the “Sophoclean” couple anxiety‐superego (Antigone‐Creon) with the “Aeschylean” couple of courage and justice (Orestes‐Athena): while the Sophoclean universe remains caught in the cycle of violence and revenge, Aeschylus opens up the possibility of a new law which will break the cycle. However, Badiou insists that all four are necessary constituents of a Truth‐Event: “The courage of the scission of the laws, the anxiety of an opaque persecution, the superego of the blood‐thirsty Erinyes, and finally justice according to the consistency of the new—four concepts to articulate the subject.”41 (CHAPTER 12 The Foursome of Terror, Anxiety, Courage … and Enthusiasm)

バディウの書を読んでいるわけではないので、やや分かにくいのだが、注の文章はバディウの「正義」の主人のシニフィアンを批判(=吟味)していることはわかる。

正義という概念は、主人のシニフィアンになりがたいということだろう。
なぜなら、自由や民主主義と同様、
すでに過剰に意味づけられた概念だから、
という見解であるように読める。

プラトンの正義とは次のようであった。


彼は『国家』のなかで次のように説いています。一人の人間の中には、魂の三つの 部分――理性、精神、欲求――とそれぞれに関係する三つの徳――知恵、勇気、節制―― があり、それぞれが互いと適切な関係を保っている。社会における正義も同じようなもの だ。社会では、それぞれの階級が、他の階級の邪魔をすることなく、それぞれの性質にふ さわしい仕事をこなすことで、それぞれの階級独自の徳を行使している。知恵と理性にあ たる階級は統治にたずさわり、勇気と精神にあたる階級は軍事にたずさわり、残りの部分、 つまり特別な精神や知性はないが節制にすぐれている階級は農業や単純作業にたずさわる。 正義とは、こうした構成要素の間に調和がとれていることなのだ、と。(ナンシー・フレイザー「正義〔正しさ〕について――プラトン、ロールズそしてイシグロに学ぶ」ーー「正義とは不快の打破である」)


プラトンの『国家』における「正義」はこれだけではない、という見解もあるだろうが、やはり『国家』における対話を読めば、ほぼこういう「正義」概念である、とすることができる。

たとえば『国家』には、上の「正義」概念以上に驚くべきエリート偏重の主張がなされている。

「最もすぐれた男たちは最もすぐれた女たちと、できるだけしばしば交わらなければならないし、最も劣った男たちと最も劣った女たちは、その逆でなければならない。また一方から生まれた子供たちは育て、他方のこどもたちは育ててはならない。もしこの羊の群れが、できるだけ優秀なままであるべきならばね。そしてすべてこうしたことは、支配者たち自身以外には気づかれないように行わなければならないーーもし守護者たちの群がまた、できるだけ仲間割れしないように計らおうとするならば」

(……)
「さらにまた若者たちのなかで、戦争その他の機会にすぐれた働きを示す者たちには、他のさまざまの恩典と褒賞とともに、とくに婦人たちと共寝する許しを、他の者よりも多く与えなければならない。同時にまたそのことにかこつけて、できるだけたくさんの子種がそのような人々からるつくられるようにするためにもね」
(……)

「で、ぼくの思うには、すぐれた人々の子供は、その役職の者たちがこれを受け取って囲い〔保育所〕へ運び、国の一隅に隔離されて住んでいる保母たちの手に委ねるだろう。他方、劣った者たちの子供や、また他方の者たちの子で欠陥児が生まれた場合には、これをしかるべき仕方で秘密のうちにかくし去ってしまうだろう」

(……)
「またこの役目の人たちは、育児の世話をとりしきるだろう。母親たちの乳が張ったときには保育所へ連れてくるが、その際どの母親にも自分の子がわからぬように、万全の措置を講ずるだろう。そして母親たちだけでは足りなければ、乳の出る他の女たちを見つけてくるだろう。また母親たち自身についても、適度の時間だけ授乳させるように配慮して、寝ずの番やその他の骨折り仕事は、乳母や保母たちにやらせるようにするだろう」

――プラトン『国家』藤沢令夫訳 岩波文庫 上 第5巻「妻女と子供の共有」p367-369
…………

ところで主人のシニフィアンとはそもそもなにか。

ラカンは、‘master signifiers’(主人のシニフィアン)を
‘points de capiton’(クッションの綴じ目)と呼んだ。
どの「主人のシニフィアン」も瘤のようなものであり、
知識、信念、実践などを縫い合わせて、
それらが横にずれることを止め、
それらの意味を固定する(ジジェク)。
”なにが主人のシニフィアンを構成するのかといえば、
《語りの残りの部分、一連の知識やコード、
信念から孤立化されることによってである》(Fink 1995)。
この“empty”(空の)シニフィアン(主人のシニフィアン)が、
正確な意味を持たないことによって、
《雑多な観点、相相剋する意味作用のチェーン、
ある特定な状況に付随する独特の解釈を、
ひとつの共通なラベルの下に、固定し保証してくれる》(Stavrakakis 1999)
たとえば、certainty, the good, risk, growth, globalisation, 
multiculturalism, sustainability, responsibility, rationality等々が
”master signifiers“である。

この役割を担うには、「正義」JUSTICEは、
既に過剰な意味が付加されてしまっているということだろう。

以下はプラトン起源だと思われるロールズの『正義論』への
ジャン=ピエール・デュピ(日本では震災後『ツナミの小形而上学』にて名が知れた)
の批判を援用しつつのジジェクの文章である。


ヒステリー患者にとって一番の問題は、自分が何者であるか(自分の真の欲望)と、他人は自分をどう見て、自分の何を欲望しているのかを、いかに区別するかである。このことはわれわれをラカンのもうひとつの公式、「人間の欲望は他者の欲望である」へと導く。ラカンにとって、人間の欲望の根本的な袋小路は、それが、主体に属しているという意味でも対象に属しているという意味でも、他者の欲望だということである。人間の欲望は他者の欲望であり、他者から欲望されたいという欲望であり、何よりも他者が欲望しているものへの欲望である。アウグスティヌスがよく承知していたように、羨望と怨恨とが人間の欲望の本質的構成要素である。ラカンがしばしば引用していた『告白』の一節を思い出してみよう。アウグスティヌスはそこで、母親の乳房を吸っている弟に嫉妬している幼児を描いている。

 私自身、幼児が、まだ口もきけないのに、嫉妬しているのを見て、知っています。
 青い顔をして、きつい目つきで乳兄弟を睨みつけていました。[『告白』第一巻第七章]

ジャン=ピエール・デュピはこの洞察にもとづいて、ジョン・ローズの正義論に対する納得のいく批判を展開している。ロールズ的な正しい社会のモデルにおいては、不平等は、社会階級の底辺にいる人びとにとっても利益になりさえすれば、また、その不平等が相続した階層にはもとづいておらず、偶然的で重要でないとみなされる自然な不平等にもとづいている限り、許される。ロールズが見落としているのは、そうした社会が必ずや怨恨の爆発の諸条件を生み出すだろうということである。そうした社会では、私の低い地位はまったく正当なものであることを私は知っているだろうし、自分の失敗を社会的不正のせいにすることはできないだろう。

 ロールズが提唱するのは階層が自然な特性として合法化されるような恐ろしい社会モデルである。そこには、あるスロヴェニアの農夫の物語に含まれた単純な教訓が欠けている。その農夫は善良な魔女からこう言われる。「なんでも望みを叶えてやろう。でも言っておくが、お前の隣人には同じことを二倍叶えてやるぞ」。農夫は一瞬考えてから、悪賢そうな微笑を浮かべ、魔女に言う。「おれの眼をひとつ取ってくれ」。今日の保守主義者たちですら、ロールズの正義の概念を支持するだろう。2005年十二月、新しく選ばれた英国保守党の党首デイヴィッド・キャメロンは、保守党を恵まれない人びとの擁護者に変えるつもりだと述べ、こう宣言した。「あらゆる政治にとっての試金石は、もてない者、すなわち社会の底辺にいる人びとに対して何ができるかということであるべきだ」。不平等が人間外の盲目的な力から生じたと考えれば、不平等を受け入れるのがずっと楽になる、と指摘したフリードリヒ・ハイエクですら、この点では正しかった。したがって、自由主義資本主義における成功あるいは失敗の「不合理性」の良い点は(市場は計り知れない運命の近代版だという古くからのモチーフを思い出そう)、そのおかげで私は自分の失敗(あるいは成功)を、「自分にふさわしくない」、偶然的なものだと見なせるということである。まさに資本主義の不正そのものが、資本主義のもっとも重要な特徴であり、これのおかげで、資本主義は大多数の人びとにとって許容できるものなのだ。(ジジェク『ラカンはこう読め!』

で、「自由」や「民主主義」、あるいは「正義」にかわる
主人のシニフィアン探さなくちゃな

チェーザレ・ボルジアを至高の君主とした
マキャベリの運(ファルトゥナfortuna)/力(ヴィルトゥVirtù)の
ヴィルトゥ(有能性:気概と正義のミックス)なんてのはどうだい?
ーー「プラトンとフロイトの野生の馬
バディウがいう”couple of courage and justice”だよな

《古人は四つの徳をおしえた。すなわち、彼らは自己把持の四つの敵をみとめていたということだ。もっともおそるべき敵は恐怖である。というのは、恐怖は行動も思想もゆがめてしまうから。それゆえ、勇気こそ徳の第一の面、もっとも尊敬される面となる。もし正義がつねに勇気の相のもとにあらわれるならば、正義はなお大きいものとなろう。》(アラン『四つの徳』

ーーというわけだ。

善とは何か? ――権力の感情を、権力への意志を、権力自身において高めるすべてのもの。
劣悪とは何か? ――弱さから由来するすべてのもの。
幸福とは何か? ――権力が生長するということの、抵抗が超克されるということの感情。
満足ではなくて、より以上の権力。総じて平和ではなくて、戦い。徳ではなくて、有能性(ルネッサンス式の徳、Virtù 道徳に拘束されない徳)。(ニーチェ『反キリスト者』)

ヴィルトゥが主人のシニフィアンだって? まさか!
ニーチェはこのあと次のように書いてんだから

弱者や出来そこないどもは徹底的に没落すべきである。これすなわち、私たちの人間愛の第一命題。そしてそのうえ彼らの徹底的没落に助力してやるべきである。

なんらかの背徳にもまして有害なものは何か? --すべての出来そこないや弱者どもへの同情を実行することーーキリスト教・・・

自己を語る遠まわしのファシズム批判の方法

なんでおまえらえらそうに言うわりになんの役にも立たないの?」にて、
町山智浩氏のツイートを拾ってから、
すこし彼の発言に注目しているのだけれど、
本日(20140.9.30 PM2;00前後)次のように発言されている。

@TomoMachi: 差別や独裁、ファシズムへの反対デモで「潰せ」という表現を使うのがおかしいのは、「潰す」は力や数で少数派や弱者を圧殺するファシズムや差別の考え方だからです。「潰す」という行為を肯定した途端に自らがファシズムに陥ります。スターリニズムやポルポトの失敗から学んでください。

@TomoMachi: 普通は「ファシズム倒せ」ですよ。「潰せ」は権力者、強者側のレトリックですよ。

@TomoMachi: 「潰す」というのは上から下に、大きな者が小さな者に対してやる行為です。でも革命や抵抗というのは、下から上、弱く小さな者たちが強く大きな者に挑む戦いです。それは「潰す」ことではないでしょう。

ーーで、たちまち「カウンター」運動やその共感者たちだろう、町山氏の過去の記事を
探し出して、次のようなツイートをしている。

@sangituyama: “@lautrea: 町山さんいいファシズム批判してますね。 「一般の人がダマされる前に共闘し、全力をあげて徹底的に叩き潰しておかないとならない。大変だけど」 http://t.co/4Fiq0eOleF”.

《@royterek 町山さんへのリスペクト感一挙に増した。》!


実際この記事はよいことが書かれている。
記念に、冒頭箇所をいくらか割愛して、すこし長めに貼り付ける。(2004-03-07)

かつてヒットラーが出てきた時、ドイツは民主的なワイマール共和国で、
最初はかなりの人がヒットラーを見て「あんなものにダマされるのはよほどのバカだけだ」と、たかをくくっていた。

そしたら、いつの間にか国民に圧倒的に支持され、
ヒットラーを批判する人は少数者として封殺されてしまう事態になった。

ヒットラーを例に挙げるのは大げさに聞こえるかもしれないが、
こういったことは会社の内部でもあるでしょう?
口がうまくて立ち回りのうまいだけの奴が同じ会社にいて、
「あいつは実力もないし、本当は思いやりもないから、どうせみんないつか気づいてくれるさ」とたかをくくっていると、
そいつがどんどん出世して、
マジメに働いてた方はバカを見るわけですよ。
人を見る目がある人というのは、実際はそんなに多くない。

インチキをインチキだとすぐにわかるカンのいい人はたいていシニカルで現実にあまり期待していないので、

「ほうっておこう」「無視しよう」「自分の仕事に専念しよう」ということになりがちだ。自分も含めて。

しかしインチキに気づかない人々はすぐにノせられてしまうし、そちらのほうが圧倒的に人数が多いので、

あっという間にヒットラーに政権取らせたり、村上が「これほどまでに多くの人に愛されたアーティストはいなかった」なんて大物になってしまうのだ。

だから、こういうインチキな連中が出てきた時は、インチキを感じた人々はシニカルにならず、面倒くさいしお金にならないけれども頑張って、一般の人がダマされる前に共闘し、全力をあげて徹底的に叩き潰しておかないとならない。大変だけど。

そうしておかないと、インチキがわからない圧倒的多数の人たちが彼らを認めたときには、我々は少数派として発言力を失い、

彼らがほしいままに文化や政治や経済を搾取するのを見ているしかなくなってしまう。そうなってからでは遅いのだ。

ーーというわけで、若いひとたち、町山氏をせめちゃいけない!
これはごく標準的な「心理学」の問題にすぎない
フロイトやラカンの「精神分析学」を持ち出す必要など毛頭ない

プルーストでいい。

……自己を語る一つの遠まわしの方法であるかのように、人が語るのはつねにそうした他人の欠点で、それは罪がゆるされるよろこびに告白するよろこびを加えるものなのだ。それにまた、われわれの性格を示す特徴につねに注意を向けているわれわれは、ほかの何にも増して、その点の注意を他人のなかに向けるように思われる。(プルースト「花咲く乙女たちのかげに」 Ⅱ 井上究一郎訳)
人は自分に似ているものをいやがるのがならわしであって、外部から見たわれわれ自身の欠点は、われわれをやりきれなくする。自分の欠点を正直にさらけだす年齢を過ぎて、たとえば、この上なく燃え上がる瞬間でもつめたい顔をするようになった人は、もしも誰かほかのもっと若い人かもっと正直な人かもっとまぬけな人が、おなじ欠点をさらけだしたとすると、こんどはその欠点を、以前にも増してどんなにかひどく忌みきらうことであろう! 感受性の強い人で、自分自身がおさえている涙を他人の目に見てやりきれなくなる人がいるものだ。愛情があっても、またときには愛情が大きければ大きいほど、分裂が家族を支配することになるのは、あまりにも類似点が大きすぎるせいである。(プルースト「囚われの女」)
性格の法則を研究する場合でさえ、われわれはまじめな人間を選んでも、浮薄な人間を選んでも、べつに変わりなく性格の法則を研究できるのだ、あたかも解剖学教室の助手が、ばかな人間の屍体についても、才能ある人間の屍体についても、おなじように解剖学の法則を研究できるように。つまり精神を支配する大法則は、血液の循環または腎臓の排泄の法則とおなじく、個人の知的価値によって異なることはほとんどないのである。(プルースト「見出された時」)

かりにもし精神分析を参照したいなら、前期フロイト程度でよいのだ。

……他人に対する一連の非難は、同様な内容をもった、一連の自己非難の存在を予想させるのである。個々の非難を、それを語った当人に戻してみることこそ、必要なのである。自己非難から自分を守るために、他人に対して同じ非難をあびせるこのやり方は、何かこばみがたい自動的なものがある。その典型は、子供の「しっぺい返し」にみられる。すなわち、子供を嘘つきとして責めると、即座に、「お前こそ嘘つきだ」という答が返ってくる。大人なら、相手の非難をいい返そうとする場合、相手の本当の弱点を探し求めており、同一の内容を繰り返すことには主眼をおかないであろう。パラノイアでは、このような他人への非難の投影は、内容を変更することなく行われ、したがってまた現実から遊離しており、妄想形成の過程として顕にされるのである。

ドラの自分の父に対する非難も、後で個々についてしめすように、ぜんぜん同一の内容をもった自己非難に「裏打ちされ」、「二重にされ」ていた。(フロイト『あるヒステリー患者の分析の断片』(症例ドラ))


※追記:《日本人のサポーターのやり方が韓国系に対する反感を拡げないように慎重にして欲しい》

ソウル・フラワー・ユニオン ‏@soulflowerunion
まあそういわず、潰しましょうよ。RT @TomoMachi 差別や独裁、ファシズムへの反対デモで「潰せ」という表現を使うのがおかしいのは、「潰す」は力や数で少数派や弱者を圧殺するファシズムや差別の考え方だからです。「潰す」という行為を肯定した途端に自らがファシズムに陥ります…

町山智浩‏@TomoMachi
韓国系である出自を明らかにして差別に対して発言して攻撃や脅迫の矢面に立ってきた自分ですが、日本人のサポーターのやり方が韓国系に対する反感を拡げないように慎重にして欲しいだけです。@soulflowerunion

ソウル・フラワー・ユニオン ‏@soulflowerunion @TomoMachi 了解しました。町山さん、是非一度、若者達のデモやカウンターの現場、取材して下さい。また新たな感慨も抱かれると思います。ちなみに、俺はずっと町山さんの本、読ませていただいてます。町山ファン 笑

町山智浩‏@TomoMachi
@soulflowerunion 僕は高校まで韓国名でしたので差別は身をもって体験していますし、文章や放送を通して訴えるのが自分の役割だと思っているのですが作品をクリエイトしている中川さんがそうおっしゃるなら一度お邪魔したいと思います

彼らはこうやって「一度お邪魔したいと思います」--という言質を引き出したわけだ。


「正義とは不快の打破である」

蓮實重彦)僕は非常に影響を受けやすい人間だと思う。というより、どちらかというと物真似がうまくて、いわゆるバスティッシュは他人にひけをとらないつもりです。たとえば、バルトの模倣で一冊の本は書けるだろうし、ヤコブソンの模倣で言語学の論文を一つ書きあげる自身があるのです。吉本隆明の詩も一晩で二、三篇は書けますね。事実、一度やってみて自分でこわくなって捨てちゃったけど、絵の方でいう贋作の才能があるんです。いわゆるアカデミックな学術論文だって、アカデミズムの連中よりずっとうまく書けるという自信がある。僕はボルヘスをつまらないと思うのは、ボルヘスよりうまくボルヘス的な短篇が書けちゃうからなんです。だから、モデルということになると、僕には無限にある。文体を模倣するんじゃあなく、言葉の生き方においてそっくりになっちゃうということです。だから逆に、影響ってことに関しては非常に厳しいし、また意識的だといえる。たとえば、デリダは絶対に真似もしないし、影響も受けていない。先ほどいったフーコー的な不快さという点からすると、デリダの文章は不快なんです。(柄谷行人との対談集『闘争のエチカ』PP.200-201)

元東大総長が、1988年にこんなことをオッシャッテイル。
バルトやヤコブソン、吉本隆明やボルヘスの話は
ここでは、いったん聞かないふりをするとしても、

ーーいや、少しだけ思いを馳せれば、
これはツイッターで拾って出典は明らかでないのだが

私は小説作品として(「探究」シリーズを)読んでいる。彼(柄谷行人)は『探究Ⅱ』を、デカルトとスピノザと3人で書いている。しかも、ワープロを使って。(蓮實重彦)

などともオッシャッテイルようだ。
これはデカルトとスピノザのパクリといっているわけではなく
テクストは「引用の織物」なのであり、

(もちろん「引用の織物」の捕捉はあるから、文句言う前に
リンク先読んどいてくれよな)

またテクストは「小説」のように読まなくちゃいけない
と言っているはずだ。
すなわちこういうことだろう、

ここにあるいっさいは、小説の一登場人物によって語られているものと見なされるべきである。(『彼自身によるロラン・バルト』)

ただし『闘争のエチカ』の発言と並べて読むと、いっそう「興味深い」ねえ
なにが「興味深い」のは敢えて書かないでおくけど


ところで、《いわゆるアカデミックな学術論文だって、
アカデミズムの連中よりずっとうまく書けるという自信がある》
などという言明は、
学術論文(すくなくとも人文系の)などほとんど贋作にすぎない、
と言っていることにならないか?


いやいやオレは門外漢で、そんな失礼なことはケッシテ言わない。
きっとオリジナリティいっぱいの「学術論文」はたーくさんあるんだろ

《あらゆる『創造』の九九パーセントは、音楽であれ思想であれ、模倣だ。窃盗、多かれ少なかれ意識して》(ニーチェ 遺稿)

ニーチェ以上のオリジナリティのね

ーーで、最近の「剽窃」談義というのはなんだろう、学者先生のみなさん!
あれは、コピペを禁止しているだけなんだろうか。

たとえば「優雅な置き換え」ってあるよな
それはもちろん許しちゃうということだろうか

これは学術論文ではないのだが
大澤真幸のジジェクの優雅な置き換えってのは、
学術論文の世界では許されるのだろうか

ジジェクの『斜めから見る』を優雅に置き換えているサンプルはここにある
論文指導要項そのⅠ:「コピペはやめて優雅に置きかえなさい」

さてここでの文脈とはまったく”関係なしに”、次の文をも引用しておこう。

畏れのなさからくるはしたなさは、あるときそれが一人歩きして、見なくとも語れるという安易さをあられもなく肯定してしまう。ジジェクも陥っているその無惨さについては、加藤幹郎が『「ブレードランナー」論序説』で厳しく批判していますが、ジジェク派というかその無邪気なエピゴーネンは、できればものなど見ずにやりすごしたい人類の思惑と矛盾なく共鳴しあってしまう。ジジェクに騙される連中は馬鹿として放っといていいと思っているんですが・・・・・(蓮實重彦『新潮』2005年5月号より

…………

などということが書きたいわけではない。

実はすこしまえ野間易通にかかわるなかで「正義」などという語彙を
口にしてしまったので、次の文を探していただけだ。


蓮實)僕にとってのフーコーの偉大さは、彼が知識人でありながら、生涯を通じて、何ひとつ指針らしいものを残さなかったことに尽きています。共同体に受け容れられるような行動の方針は一つも示さなかった。ただし、一貫して一つの闘争を戦いぬいていたのであり、そのことが指針といえばいえるかもしれない。それは何かというと、彼の戦いが、不快なものをめぐって、ただその一点をめぐって展開されたという点です。彼は、社会的な不正に対して正義の立場から戦ったのではない。ましてや、社会的な不正に対して戦う義務感など持っていなかった。僕の驚きは、正しくないことに対して批判を加えるべきだという知識人的な郷愁の徹底した不在です。たとえば、それをサルトルと比較してみれば明らかでしょう。サルトルの倫理は、彼の正義の理念と切り離しえない。

不快さに対するフーコー的な戦いというのはまったく理不尽なものです。彼は、監禁という状態が不快であるからこれを論じ、これと戦う。不正に対して正義の反抗を試みているわけじゃあない。だから、フーコーを論じる日本人の多くが、彼の社会的な行動に一つの指針を見ているけど、そんな愚かな話はない。彼のコメニイ擁護なんて理不尽そのものでしょう。しかし、あれはまったく政治的なものではなく、快=不快の原理だけの問題なのです。だから、それを全体化するとまったく役に立たない。その意味じゃあ、フーコーは知識人的ではないわけです。

僕が一番好きなフーコーの書物は『知の考古学』だけど、あれは徹底した不快さへの戦いですよね。言説という現実をめぐって世間一般に行きわたっている無感覚に対する不快感の表明以外の何ものでもない。またそうした不快感なしに何ごとかを論じうる人々への不快感の表明でもあるでしょう。フーコーの倫理は、その不快さに対する戦いからくるから、理不尽であり、無責任である。つまり全体化された理論には絶対にならない。そのかわり、柄谷さんのいう「生きながらの積極性」といったものが言葉にみなぎるわけです。フーコーを論じる日本人の言葉に、この不快さに対する戦いが見えますか。感じられないでしょう。それは、不快さに対する戦いを不正に対する戦いに利用しようとするさもしい根性が働いているからです。だから、フーコーの倫理を素通りしてしまうのだし、そのことで自分が何を失っているかにも無自覚なのです。不快さに対する戦いの倫理性は理不尽でありながらも自分を実験台にするという積極性を持っている。(『闘争のエチカ』P197

やっぱり、「正義」じゃなくて「不快さ」なんじゃないか、出発点は。
どうだい? ロールズの『正義論』やら
デリダの「脱構築の正義」が好きな政治学の先生たちよ



◆ナンシー・フレイザー「正義〔正しさ〕について――プラトン、ロールズそしてイシグロに学ぶ」

正義〔正しさ〕は、さまざまな徳〔よい特質〕のなかでも特別な地位を占めています。 はるか古代、しばしば正義は徳の主人、つまりそれ以外の徳すべてを秩序づける唯一の徳 だと考えられていました。プラトンにとって、正義とはまさにこの支配的な地位にありま した。彼は『国家』のなかで次のように説いています。一人の人間の中には、魂の三つの 部分――理性、精神、欲求――とそれぞれに関係する三つの徳――知恵、勇気、節制―― があり、それぞれが互いと適切な関係を保っている。社会における正義も同じようなもの だ。社会では、それぞれの階級が、他の階級の邪魔をすることなく、それぞれの性質にふ さわしい仕事をこなすことで、それぞれの階級独自の徳を行使している。知恵と理性にあ たる階級は統治にたずさわり、勇気と精神にあたる階級は軍事にたずさわり、残りの部分、 つまり特別な精神や知性はないが節制にすぐれている階級は農業や単純作業にたずさわる。 正義とは、こうした構成要素の間に調和がとれていることなのだ、と。

 現在のほとんどの哲学者は、プラトンの視点を細かな点で否定しています。それぞれ全 く違う生活をおくる永続的な統治階級、永続的な軍事階級そして永続的な労働者階級の三 つにがっちりと階層化している、これが正しい社会だ、などと信じている人は今日では皆 無でしょう。ただし、多くの哲学者は、プラトンの次の思想は受け入れます。すなわち、 正義は多くの徳のうちの単なるひとつではなく、徳の主人、あるいは超越的な徳として特 殊な地位にあるのだ、という思想です。この構想の一つのバージョンが、ロールズの執筆 した『正議論』にあらわれています。その本でロールズは、「真理が思考体系にとって第 一の徳であるように、正義は社会制度にとって第一の徳である」と述べています。そ こで彼が言わんとしているのは、正義が最上級の徳であるということではなく、むしろ、 正義はそれ以外の徳すべてを発展させる基礎を保障する、根底的な徳であるということな のです。理論的には、さまざまな社会編成からさまざまな徳を見つけることができます― ―例えば、その徳は効率的であることだったり、秩序的であることだったり、調和的であ ることだったり、ケア的であることだったり、高貴であることだったりするかもしれませ ん。しかし、そうした徳を実現できるかどうかは、ある前提条件、すなわち、そこで問題 となっているその社会編成が正しい〔正義にかなっている〕という前提条件にかかってい ます。したがって、正義とは次の意味で第一の徳であるといえます。すなわち、それ以外 の徳が社会的にも個人的にも発育できるだけの肥えた土壌を私たちが作ろうと思った場合、 そもそも構造化された不正義を打倒することによってしかそれは為し得ないのです。

 私の見立てどおり、ロールズのこの考えが正しいとすれば、そこでの社会編成を評価す ること、これが私たちの問うべき最初の問題となります。すなわち、その社会編成は正し いのか?と。それに答えるには、ロールズの別の知見が参考になるでしょう。すなわち、 「正義の第一の主題は、社会の基礎構造である」。この文章は私たちの関心を、社会生活 についてすぐ思い浮かぶような雑多な特徴から離れさせ、それらの根底にある文法原理へ と向かわせます。文法原理というのは、社会活動の基本的な語られ方〔言葉の用いられ 方〕を定めている制度化されたグランド・ルール〔社会の土台にある規則〕のことです。 このルールが正しく秩序立てられている場合にのみ、その他のより直接に体感できるよう な日常生活の側面も正しくなれるのです。確かにロールズの正義に関する見方は、――プ ラトンのそれと同様に――問題がないとはいえません。正義というものをもっぱら配分的な関係のなかで判断できるとする考えは、「原初状態」という道具立てと同様に、窮屈す ぎます。とはいえ、本論との関係では、正義を検討するにあたっては社会の基礎構造に焦 点をあてるべきだ、というロールズの考えに依拠することにします。このアプローチにつ いて説明し、その威力をお伝えするため、カズオ・イシグロの小説『わたしを離さない で』を取り上げたいと思います。

本書はどのような洞察を私たちに示してくれているのでしょう? その最も重要なもの は、正義についてその否定を通じて考えさせるという点です。プラトンとは違い、イシグ ロは何らかの正しい社会秩序というものを提示しようとはしません。そのかわりに、これ は絶対に正しくないと読者が考えるようなひとつの社会秩序を冷徹に描き出します。これ が重要なポイントの一つです。つまり、正義〔正しさ〕をじかに体験することは決してで きないということです。反対に、私たちは不正義を体験しますし、むしろその体験を通じ てしか、正義という考えを形作ることができないのです。不正義だと思われるものの性質 をしっかり見定めることからしか、そのオルタナティブへの感覚を得ることはできません。 不正義を打倒するものが何かをじっくり考えるときにしか、さもなくば抽象的になりがちな私たちの正義概念に具体的な内容を盛り込むことはできません。したがって、「正義と は何ぞや?」というソクラテスの問いには、こう答えることができます。正義とは、不正義の打破である、と。

《正義とは、不正義の打破である》とあるな
優雅に置き換えて、「正義とは不快の打破である」としておくよ


で、ヘイトスピーチやネオナチってのは、
「正義論」教えている学者センセは「不快」じゃないのかねえ
寡聞のせいか、彼らはこの場に及んでも、オトナシイように見えるのだけど

人が何ごとかを語るのは、そのことが生起しつつある瞬間から視線をそらせるためである。(蓮實重彦『物語批判序説』)
人がかくも熱心に言葉をとり交し合って止まないのは、背後にさし迫った沈黙の深淵を忘れるためではなかったか? (浅田彰『構造と力』)

まさか「正義」を語るのは、不正義が生起しつつある瞬間から視線をそらせるためじゃないだろうな。



※附記:デリダの「正義としての脱構築」をめぐるジジェクのコメント。

Even Derrida's notion of “deconstruction as justice” seems to rely on a utopian hope which sustains the specter of “infinite justice,” forever postponed, always to come, but nonetheless here as the ultimate horizon of our activity.
In Derrida, this logic of totalizing exception finds its highest expression in the formula of justice as the “indeconstructible condition of deconstruction”: everything can be deconstructed—with the exception of the indeconstructible condition of deconstruction itself. Perhaps it is this very gesture of a violent equalization of the entire field, against which one's own position as Exception is then formulated, which is the most elementary gesture of metaphysics.(ZIZEK”LESS THAN NOTHING”)

だからといってローティのプラグマティズムがいいわけでもないようだな。

ジジェクは、「マルクスへの回帰」という口当たりのよいスローガンを唱えることでしばしばマルクス主義を脱政治化してしまう最近の左翼の傾向を批判し、あえて「レーニンへの回帰」を主張する。(もちろん、同じことはフロイトとラカンの関係についても言えるだろう。)こうして、シニシズム批判から出発したジジェクは、あえてパウロ的あるいはレーニン的なドグマティズムを選び取るところまで至りついたのである。だが、問題は、ジジェクのシニシズム批判そのもの、したがってまたドグマティズムを選び取るというジェスチュアそのものが、きわめてシニカルであるということだ。それは形式的なジェスチュアであって、ドグマの内容は何でもいいということになりかねない。現に、なぜレーニンであって、スターリンではなく、マオではないのかという内容的な論証は、ほとんど与えられないだろう。実のところ、60年代末のラカン=アルチュセール主義過激派は、同じようなドグマティズムに基づいてマオを選んだのだった。当時の過激派の生き残りであるバディウと、バディウ(そしてミレール――ただしジジェクは本書で師のミレールさえラカンのドグマを相対化しすぎているといって批判している)の影響を受けたジジェクは、30年以上たったいま、マオとは言わないまでも、結局はほとんど同じことを繰り返しているように見える。もちろん、ローティに代表されるポストモダン相対主義が政治固有の次元を部分的社会工学へと解消してしまっているという批判は正しい。また、ラカン=アルチュセール主義過激派(観念論との闘争において唯物論の立場に立つことが哲学の任務である)に抵抗して、より重層的な判断の必要性を説いていたデリダ(第一のフェーズでは観念論と唯物論の優劣を逆転する必要があるが、第二のフェーズでは観念論と唯物論の対立の基盤そのものを脱構築する必要がある)も、今となってみれば、実際面ではとりあえず社会民主主義的な漸進的改良を支持する一方、理論面ではアポリアに直面しての不可能な決断といったものを神秘化するばかりという両極分解の様相を呈し、政治固有の次元を取り逃がしていると言えるかもしれない。そのような相対主義や(事実上の)オブスキュランティズムに対し、悪役の責めを負うことを覚悟してあえてドグマティックな現実への介入を行なわなければならないというジジェクの立場は、分かりすぎるほどよく分かる。しかし、それが60年代のヨーロッパのマオイズムと同じ極端な主観主義のネガなのではないか、あるいは、現在支配的なポストモダン相対主義のネガなのではないかという疑いを、われわれはどうしても払拭することができないのである。(パウロ=レーニン的ドグマティズムの復活?――ジジェクの『信仰について』/浅田彰)
まあ、ヒュームからプラグマティズムに至るアングロ=サクソン的な伝統が再び優位になっているということでしょう。およそ、ファウンデーショナリズム(基礎付け主義)というのは、いわば神学の世俗化に過ぎず、有害でしかない。そのようなファウンデーションを自己言及的なパラドクスに追い込んで脱構築するなどと言っても、いわば否定神学的な観念の遊戯を出ない。そもそも、ファウンデーションなしに、複数の独立したゲームを並列的にプレイしてみて、それぞれがそこそこうまくいけばいいではないか、と。そういうローティ流のプラグマティズムが、いまもっとも支配的な哲学――というか反哲学でしょう。それが人工知能論などから見た「心の社会」論などともフィットするわけですね。

しかし、多少とも哲学的な立場からすると、それですべてが片付くとはとても思えません。もちろん、いまさら超越論的なものを天下り式に持ってくることはできない。けれども、カントの言った超越論的統覚だって、予定調和的に与えられているのではなく、あくまでXとしてあるわけですからね。あるいは、時代は下るけれど、ジャネが水平の解離を強調したのに対して、フロイトは強引に垂直も抑圧によって無意識まで含めた統合を図ろうとし、ラカンはそれをされに徹底して体系化しようとした、それを思弁的に過ぎると言って批判するのは簡単だけれど、逆にそれなしではものすごく単純な経験論とプラグマティズムに戻ってしまうという危惧があるわけです。(浅田彰ーー「強い視差 parallax」、あるいは「超越論的」


2014年9月29日月曜日

ドストエフスキーの《非ユークリッド》的語り

おまえ、馬鹿だなあ
騙されるなっていっただろう
コメントへの応答だって架空かもしれねえじゃないか
ドストエフスキーの《非ユークリッド》的語りのバクリだとか、な

《いや諸君、諸君はこう思ってるんじゃないかな、わたしがなにか諸君のまえに懺悔し、しかも許しを乞うているとね……諸君はそう思っているに違いない……ところが、言っておきますがね、諸君がどう思おうと、わたしにはどうでもいいんだ》

ーー以前、削除してしまった記事、貼り付けておくよ

…………

◆『ドストエフスキー』[著]山城むつみ [評者]奥泉光(作家)より。

本書で著者が分析の主要な武器としたのは、バフチンの「ラズノグラーシエ」なる概念である。「異和」と訳してよいこのロシア語こそがドストエフスキーを読み解く鍵であると著者はいう。では「ラズノグラーシエ」とは何か?

 たとえば、ここに死の床にある男がいる。彼は自分の人生は満足すべきものであったと考えている。そこへ誰かがやってきて、「あなたの人生は満足できるものだった」という。もちろん男はそう思っているわけだし、その声に当然唱和するはずである。ところが、自分でそう思っているにもかかわらず、他人から同じことをいわれたとたん、男は激しい異和に襲われてしまう。他者の声で言葉が響くとき、同じ言葉であるのに、まるで違う、むしろ正反対の意味を帯びて聴こえてしまうのだ。ドストエフスキーの小説の人物たちは、たえずこの「異和=ラズノグラーシエ」にさらされる。つまり自己と他者の間には越え難い閾(しきい)があって、言葉の意味は閾の強烈な磁場のなかでねじ曲がり、言葉が予想のつかぬ運動をして渦巻くのが、ドストエフスキーの小説のあの熱感の秘密だと著者は解析する。

 さらに興味深いのは、小説作者のかたりですら、この異和を引き起こす事実である。死の床にある男。彼の内面を作者はもちろん描ける。透明なかたりでもって、「自分の人生は満足すべきものだった」と男に内語させることは容易だ。ところがドストエフスキーの人物たちは、そうしたニュートラルな作者の声にすら異和を覚える! 彼らは「違う」と作者に向かって反発する。作家が人物の内心を描くという行為そのものが、人物のありかたを揺るがしてしまうのだ。結果、小説はどこへ向かうか分からぬものになり、作家は自己の創造した人物たちとの「対話」をひたすら続けるほかなく、目指す場所へと至る奇跡を祈り願いながら言葉の秘境をさまよい歩く。


◆バフチン「ドストエフスキイ論」(柄谷行人『探求Ⅰ』より)。

この予想して先廻りすることには独特の構造上の特徴がある。それは悪しき無限となる。相手の応答に先廻りするということは結局自分のために最後の言葉を保留すると同じことである。最後の言葉とは主人が他者の視線や言葉から完全に独立している、他者の意見や評価に全く無関心であるということを現わすものでなければならぬ。ところが主人公は、自分がひとの前で懺悔し、ひとの許しを乞い、ひとの判断や評価に頭をさげ、自分の確信はひとの是認や承認を必要していると、ひとが考えはすまいかということをなによりも恐れているのである。こういう傾向を持っているので彼は他者の応答に先廻りする。ところが答えを予想し、その先をこすことによって彼は新たに相手(と自分自身)にむかって自分は相手から独立していないのだということを示しているわけだ。彼は自分がひとの意見を恐れていると、ひとが思いはしないかと恐れる。だがこの恐れによって彼は自分が他者の意識に依存し、自分自身の判断に安んじることはできないことを示しているに他ならない。彼は自分の反駁によって自分が反駁しようとしたことを肯定していることになり、しかしそのことを自分で承知している。ここからきりのない堂々廻りが始まり、そのなかへ主人公の自己意識と言葉がまきこまれていう。《いや諸君、諸君はこう思ってるんじゃないかな、わたしがなにか諸君のまえに懺悔し、しかも許しを乞うているとね……諸君はそう思っているに違いない……ところが、言っておきますがね、諸君がどう思おうと、わたしにはどうでもいいんだ》である。(バフチン「ドストエフスキイ論」新谷敬三郎訳)

《これは過剰な自意識というものとはちがっている。また、サルトルがいったように、対自存在に対して抗おうとすることともちがっている。《他者》は、「地獄とは他者」(サルトル)よいうような他者ではない。バフチンが、ドストエフスキーの人物たちは他者によってモノ化されてしまう意識の「自由」をぎりぎりのところで確保しようとするのだというとき、どうもサルトル的にみえてくることは否定しがたい。

しかし、実際はその逆のように思われる。彼らが「語る」のは、他者を「説得する」(教える)ことにほかならない。たんに事実言明的constantiveな語りは、彼らにはありえない。《他者》とは、いわば、言語ゲーム(規則)を異にする者のことである。彼らは、何かをしゃべればそれが他者に或る意味(規則)で理解(誤解)されてしまうということを惧れている。だが、彼ら自身のなかに、明示しうるような規則(意味)もないのである。ドストエフスキーの人物たちを緊張させているのは、「教える」ことに存するパラドックスなのだ。

ドストエフスキーの小説が対話的なのは、人物たちが対立しあい多様な意見を「語る」からではなく、そんな意味ではもはや「語り」えないからである。われわれは、言語ゲームを共有するかぎりで語り合うことができ、対立することさえできるだろう。が、もしそうでないとしたら、「他者に語る」ことは戦慄すべき事柄である。ドストエフスキーの人物たちは、誰もが相互にこのような《他者》に直面しあっている。ここでは、客観的な言明も、私的な内面もありえない。むろん、そこから生じる涯しない饒舌の対極に、沈黙(ソーニャ、ムイシキン、ゾシマ長老)がある。だが、この沈黙も、饒舌と同様に、“他者”とのあいだにひらかれた「深淵」(キルケゴール)を飛びこえようとする言語行為なのである。

「人間を他者の言葉、他者の意識との関係において設定することが実にドストエフスキイの全作品を貫く根本テーマである」と、バフチンはいう。「他者の言葉」とは、くりかえしいうが、異なった言語ゲームである。同一の言語ゲームに立つかぎり、どんな対立や葛藤があろうと、モノローグ(独我論)的である。逆にいえば、ダイアローグ、あるいはポリフォニックなものとは、声や視点を多数化することによって得られるのではなく、もはやいわゆる対話が不可能な地点において「他者に語る」ことから生じるのである。逆に、そのような他者の前でのみ、自己の単独性が存する。》(柄谷行人『探求Ⅰ』P168-170)


……今日まで批評家や研究者はドストエフスキーの主人公たちの思想にとらわれてきた。作家の創作の意志は明確な理論的認識にまで達していない。思うにポリフォニイ小説の迷宮に入りこんだ人びとはみんなそこに道を発見できず、個々の声たちの背後に全体を聞きとれないでいる。しばしば全体の漠然たる輪郭すら捉えられず、声たちを結び合わす芸術の原理は全く耳に入らない。ひとはそれぞれ勝手にドストエフスキイの最後の言葉をあげつらい、しかもみんな一様にそれをひとつの言葉、ひとつの声、ひとつの抑揚〔アクセント〕だと思いこんでいる始末だが、そこに根本の間違いがある。ポリフォニイ小説の言葉を超え、声を超え、アクセントを超えた統一の世界は未開拓のままに残されている。(バフチン『ドストエフスキイ論』)

《ぼくはドストエフスキーのなかに、人間の魂の、度はずれに深い、だがあちこちの地点に孤立している、いくつかの井戸を見出します……あの道化役者たちも、『夜警』の人間とおなじように、照明と服装の効果でしか幻想的ではなく、ほんとうはどこにでもいる普通の人間なのかもしれません。……ただぼくをうんざりさせるのはね、人がドストエフスキーについて語ったり書いたりしているあの肩肘をいからせたいかめしさですよ。あなたは彼の諸人物の内面で演じている自尊心と誇の役割に注意したことがある? 彼にとっては、愛と過度のにくしみも、善意とうらぎりも、内気と傲岸不遜も、いわば自尊心が強くて誇が高いという一つの性質をあらわす二つの状態にすぎないのです。そんな自尊心と誇が、グラーヤや、ナスターシャや、ミーチャが顎ひげをひっぱる大尉や、アリョーシャの敵=味方のクラソートキンに、現実のままの自分の《正体》を人に見せることを禁じているというわけなのです……ドストエフスキーといえばね、さっきはぼくはあなたが思うほど彼から一転してトルストイのことを話しているわけではなく、トルストイはじつは大いにドストエフスキーをまねているのですよ。ドストエフスキーのなかには、やがてトルストイのなかで満面のほころびを見せるものが、まだしかめっ面をした、不平そうな顔で、たくさん詰まっているのです。ドストエフスキーのなかには、やがて弟子たちによって晴れやかにされる、プリミティヴ派のもつさきがけの不機嫌さがあるのでしょうね。》(プルースト「囚われの女」井上究一郎訳)

……それはカーニバル独特の時間であり、まるで歴史の時間から飛び出し、カーニバル独特の法則によって流れ、急激な転換と変身とを無限に内包しているところの時間である。かかる時間――もっとも、厳密にいうとカーニバルの時間ではなく、カーニバル化した時間――こそドストエフスキーが彼独自の芸術的課題を解決するのに必要だったのである。彼がその内部の深い意味を描き出したところの閾のうえや広場での事件、あるいはラスコリニコフ、ムイシュキン、スタヴローギン、イワン・カラマーゾフといった主人公たちは日常の生物学的、歴史的時間では明らかにすることのできないものであった。いやポリフォニイそのものが、それぞれ全権を有し、しかも内的に完結することのない意識たちの相互作用の事件として、時間や空間の全く別な芸術的概念、ドストエフスキイ自身の表現を用いると、《非ユークリッド》的概念を要求したのである。(同バフチン『ドストエフスキイ論』)

…………

◆ジャック=アラン・ミレール『エル・ピロポ El Piropo』より

人間の伝達においては、受信者がメッセージを後からそれを発信する者に送るのです。受信者が送るのというのは根本的には彼がメッセージの意味を決定するからです。他者に話すということは決して我々自身が言っていることを我々が分かっているということではありません。他者だけが我々にそれを知らせてくれるのです。そしてそれゆえに我々は互いに話し合うのです。それも常に内容のある情報を伝えるためとは限りません。むしろ相手から我々自身が何であるかを教わるためなのです。こういう理由からディスクールにおいて はつねに喚喩および隠喩が混じり合い、語るにおいて我々はいつも自分自身を越えたとこ ろに追いやられるのです。誰かの言うことを文字通りに取ることは大変失礼にさえ当たり ます。 というのは、 意味 sens は、 意味があるのは常にその彼方ですから、 むしろその人が 言うことの奥を聞き取らなければいけないのです。
主体、語る主体は自分自身で言っていることの主人ではありません。彼が語るとき、彼が言語を使用していると考えるときは、実は言語が彼を使用しているのです。彼が語るときには常に彼自身が言う以上のことを言います。自分が欲している以上のことを言うのです。そしてそのうえ、常に他のことを言います。こういう理由からディスクールにおいてはつねに喚喩および隠喩が混じり合い、語るにおいて我々はいつも自分自身を越えたところに追いやられるのです。誰かの言うことを文字通りに取ることは大変失礼にさえ当たります。というのは、意味sensは、意味があるのは常にその彼方ですから、むしろその人が言うことの奥を聞き取らなければいけないのです。


◆柄谷行人『探求Ⅰ』より

言葉が話し相手に向けられていることの意味は、はかりしれないほど大きい。実際、言葉は二面的な行為なのである。それは、それが誰のものであるかということと、それが誰のためのものであるかということの、二つに同等に規定されている。それは、言葉として、まさに、話し手と聞き手の相互関係の所産なのである。あらゆる言葉は、《他の者》に対する関係における《ある者》を表現する。言葉のなかでわたしは、他者の見地にみずからに形をあたえる。と言うことは結局、みずからの共同体の見地からみずからを表現する。言葉とは、私と他者とのあいだに渡されたかけ橋なのである。もしそのかけ橋の片方の端が私に立脚しているとすれば、他方の端は話し相手に立脚している。言葉とは、話し手と話し相手の共通の領土なのである。

だが話し手とはいったいなにものであろうか? たとえ言葉が全面的にはその者に属さないーー、いわば、彼と話し相手の境界ゾーンであるーーにしても、やはりたっぷり半分は言葉は話し手に属している。(パプチン「マルクス主義と言語哲学」桑野隆訳)

いうまでもなく、彼は、話し手と話し相手の両方が同時にみえるような「客観的」立場に立っているのではない。むしろ、“対話”とは「命がけの飛躍」であり、「私と他者とのあいだに渡されたかけ橋」は、それを渡るというより飛びこえるほかないものだといわねばならない。「言葉が話し相手に向けられているということ」は、話し手自身にとって「意味している」という特殊な内的経験などは存在しない、ということを意味する。フッサールがいうような「孤独な心的生活」においては、意味というものが“意味をなさない”のだ。そのかぎりで、“対話”は、独我論(方法的独我論=現象学)に対する決定的な批判の視点となりうるだろう。それは、われわれが「教える」側の視点と読んだものにほかならない。

パプチンは、近代の哲学・言語学・心理学・文学などは、すべてモノローグ的であり、単一体系性のなかに閉ざされているといっている。それに対して、彼は、ポリフォニックな、多数体系性を対置する。個人の意識に問いただすかぎり、われわれが見出すのは、きまって単一(均衡)体系である。ニーチェがいうように、「私たちが意識するすべてのものは、徹頭徹尾、まず調整され、単純化され、図式化され、解釈されている」(『権力の意志』)からだ。しかし、多数(不均衡)体系を、たんにそれに対置するだけでは、何もいったことにならない。P21-22

柄谷行人は後年、次のように書いている。

前期ウィトゲンシュタインは、「語りえないものについては沈黙しなければならない」と書いている(『論理哲学論考』)。その場合、「語りえないもの」とは、宗教と芸術である。この点で、ウィトゲンシュタインがカント的であることは容易に指摘しうる。(……)

しかし、後期ウィトゲンシュタインはどうか。『哲学探究』における言語ゲーム論では、科学・道徳・芸術といった領域的区分が廃棄されている。それは彼がカント的なものから遠ざかったように見えさせる。しかし、すでに述べてきたように、カントの「批判」の核心がそのような区分に関係なく、他者を持ち込むことにあったとすれば、むしろ後期ウィトゲンシュタインのほうがはるかにカント的なのだ。その「他者」は、経験的にありふれているにもかかわらず、超越論的に見いだされたものである。(柄谷行人『トランスクリティーク』)

これはカントの「無限判断」、ヴィトゲンシュタインの「家族的類似性」、さらにはジジェクによればラカンの非-全体の論理に関係する(参照:「密閉した全体じゃない」)。

ドストエフスキーの「他者」が超越論的な他者であるなら、ドストエフスキー小説の語り口は超越論的であるといえるだろうし(もちろんそれだけではない)、それは「無限判断」、「家族的類似性」、「非-全体の論理」にもかかわる。

カントの哲学は超越論的――超越的とは区別されるーーと呼ばれている。超越論的態度とは、わかりやすくいえば、われわれが意識しないような、経験に先行する形式を明るみにだすことである。(柄谷行人『トランスクリティーク』P17)

「超越論的」とは、すなわち、《自分が暗黙に前提している諸条件そのものを吟味にかけるということ》であり、《超越的、つまりメタレヴェルに立って見下すものではなく、自己自身に関係していくもの》(柄谷発話 『闘争のエチカ』P53)ということになる。

ここで浅田彰の発言を挿入しよう(共同討議『トラウマと解離』 2001)。

メディア環境がどんどん解離的な状況を作り出す方向に向かっているのは、よく言われるとおりで、かなりの程度まで事実だろうと思います。メディアに接続することで、ここにいる自分とメディア空間の中の自分が多数多様なペルソナーー場合によっては性を年齢も異なったーーを演じ分けることができる、云々。

また逆に、そこから人間自身の捉え方も変わってくるんですね。統一性のもった心身で手ごたえのある世界を体験する、それこそがリアリティだと言うけれど、哲学的に反省してみれば、実はそれもヴァーチュアル・リアリティのひとつに過ぎない、と。

そもそも、人工知能のパイオニアのミンスキーが『心の社会』という表現を使っているように、心というのは多数のモジュールないしエージェントが統一的なプログラムなしに並列して走っているようなもので、その中には意識としてドミナントになるものもあるけれど、それとは別のリズムで意識には上らないまま動いているものもある、その総体が心なんだ、と。(……)人口知能で複数のモジュールを並列的に走らせる実験から逆に類推して、人間だって同じようなものだと考えるわけです。

こうした流れが、フロイトからジャネへの退行にもつながるわけでしょうし、柄谷行人流に言えばカントからヒュームへの退行につながるわけでしょう。ヒュームは、自己というのは多数の知覚の束だ、いわば蚊柱のようなものだ、と考えている。自己の一貫性と言ったって、選挙で内閣が替わっても外国との約束は引き継ぐという程度のものだ、と。ヒュームによるそういう徹底的な解体の後に、カントが、超越論的統覚Xという、いわばどこにもないものを持ってきて、新たな統合を図るわけですね。(……)

まあ、ヒュームからプラグマティズムに至るアングロ=サクソン的な伝統が再び優位になっているということでしょう。およそ、ファウンデーショナリズム(基礎付け主義)というのは、いわば神学の世俗化に過ぎず、有害でしかない。そのようなファウンデーションを自己言及的なパラドクスに追い込んで脱構築するなどと言っても、いわば否定神学的な観念の遊戯を出ない。そもそも、ファウンデーションなしに、複数の独立したゲームを並列的にプレイしてみて、それぞれがそこそこうまくいけばいいではないか、と。そういうローティ流のプラグマティズムが、いまもっとも支配的な哲学――というか反哲学でしょう。それが人工知能論などから見た「心の社会」論などともフィットするわけですね。

しかし、多少とも哲学的な立場からすると、それですべてが片付くとはとても思えません。もちろん、いまさら超越論的なものを天下り式に持ってくることはできない。けれども、カントの言った超越論的統覚だって、予定調和的に与えられているのではなく、あくまでXとしてあるわけですからね。あるいは、時代は下るけれど、ジャネが水平の解離を強調したのに対して、フロイトは強引に垂直も抑圧によって無意識まで含めた統合を図ろうとし、ラカンはそれをされに徹底して体系化しようとした、それを思弁的に過ぎると言って批判するのは簡単だけれど、逆にそれなしではものすごく単純な経験論とプラグマティズムに戻ってしまうという危惧があるわけです。


木村敏『時間と自己』より

われわれはドストエフスキーから多くのことを学ぶことができる。彼の作品に登場する多数の人物は、ムイシュキンやキリーロフのような癲癇患者だけでなく、全員がこの「現在の優位性」とでもいうべき特徴をそなえている。作中の人物がすべて作家の分身であってみれば、これはちっとも不思議なことではない。一例だけをあげれば、『悪霊』に登場する美貌の令嬢リザヴェータ……彼女にとって、過去・現在・未来の一貫した流れとしての一つの人生などというものは「見たくもない」ものなのである。彼女はスタヴローギンと駆け落ちして一夜の情事を経験した翌朝、「ぼくはいま、きのうよりもきみを愛している」というスタヴローギンに向って、「なんて奇妙な愛情告白かしら!きのううだのきょうだのと、なんでそんな比較が必要なの?」という。彼女は「自分がほんの一瞬間しか持続できない女だとわかっているので、」思いきって決心して「全人生をあの一時間きっかり〔の情事〕に賭けてしまった」のである。

一般に、ドストエフスキーの描く人物はいずれも他人に対して、ときには自分の生命を脅かすような危険な相手に対してすら不思議に無警戒で、分裂病親和者にみられるような他者の未知性に対する恐怖感は稀薄である。また、メランコリー親和者に特徴的な、既成の型の中での役割的対人関係も、彼の作品のどこを探しても見当たらない。彼の描く対人関係は、すべて現在眼の前にいる人との現在の瞬間における直接的な深い連帯感によって支えられている。

ドストエフスキーの意識における現在のこの豊かさは、彼がアウラ体験において死の側から生を眺めたときの壮麗な光景と、どこかで深くつながっているのではあるまいか。死は、生の側から未知の可能性として眺められたときには、身を縮まる恐怖の源となるだろう。しかしもし死を現在直接に生きることができるなら、それはこの上なく輝かしいものであるに違いない。(木村敏『時間と自己』P150)







何もしないことのエクスキューズ

またなんたら言ってくるヤツがいるがね
コメントもらったら、一応は読んでみることはするよ、オレは
返事するかどうかは気分しだいさ

コメント欄など閉じたらいいようなもんだが、
設定変更ができなくてね

このブログアカウント、何度もパスワードを換えてください、
という警告があって、それに従って何度も換えたんだが、
そうしたら最後に換えたパスワードを失念してしまったのだな
予備携帯連絡にも応答がなくて、たぶん電話番号も間違えて入力したんだろうが。

いずれにせよオレに反論しても致し方ないぜ
野間易通、ツイッターやってんだから直接文句入れたらいいだろ?


…………

@kdxn: 「正義感」というのは、たとえば痴漢にあってる女の人を見たら痴漢を捕まえるとか、無理なら車掌や警察に通報するとか、そういうときの感覚を言う。そう考えると、疑うべき「正義」と疑いのない「正義」があるとわかるはずなのに、「正義感は目を曇らせる」とか言ってるやつはそのへんが雑い。

まあ、この主張からすると、オレは「正義」の人じゃないがね。
痴漢やいじめは何度か見過してきているからな
というかそれが皆さん同様、オレの「常態」さ


池で溺れている少年、あるいはいじめられようとしている少女を目撃した場合に、見て見ぬふりをして立ち去るか、敢えて救助に向かうかの決定が紙一重となる瞬間がある。この瞬間にどちらかを選択した場合に、その後の行動は、別の選択の際にありえた場合と、それこそハサミ状に拡大してゆく。卑怯と勇気とはしばしば紙一重に接近する。私は孟子の「惻隠〔みてしのびざる〕の情」と自己保存の計算との絞め木にかけられる。一般に私は、救助に向かうのは最後までやりとおす決意とその現実的な裏付けとが私にある場合であるとしてきた。(中井久夫「卑怯と勇気とはしばしば紙一重」)

一度、見過してしまうと、こうなっちまうんだろうな、ハサミ状の拡大さ。

それは、《半分は、ふだんの構えによって決まるが、半分は、いったん一つの構えを取ると、それを取りつづける傾向が強い。》

古人は四つの徳をおしえた。すなわち、彼らは自己把持の四つの敵をみとめていたということだ。もっともおそるべき敵は恐怖である。というのは、恐怖は行動も思想もゆがめてしまうから。それゆえ、勇気こそ徳の第一の面、もっとも尊敬される面となる。もし正義がつねに勇気の相のもとにあらわれるならば、正義はなお大きいものとなろう。(アラン『四つの徳』

ーーこれはプラトンの『国家』起源の話だがね
「チョークの粉がつくる雲の中で教師然としているアラン」(ラカン)
の引用でいまは胡麻化しておくよ

ここでオレの悪い癖で、
マキャベリ=ニーチェの「徳」なんてことは言わないでおくよ
ーーいや、すこしだけ言わざるをえないな

マキャベリの「運ファルトゥナfortuna/力(ヴィルトゥVirtù)」
におけるヴィルトゥ(気概+正義)

「正義」とは実は気概に大きくかかわるもので、
野間易通の「正義」は、「ヴィルトゥ」や「徳」と「翻訳」したいところだな。
すなわち《有能性(ルネッサンス式の徳、Virtù 道徳に拘束されない徳)》(ニーチェ)


野間易通は「ヘイトスピーチ」への「カウンター」をめぐる文脈で
あのようにツイートしているはずだが、
そしていくら在特会に罵倒を駆使しても「オレは正しい」。
安倍死ね! といっても「オレは正しい」、と。

一般に「正義われにあり」とか「自分こそ」という気がするときは、一歩下がって考えなお してみてからでも遅くない。そういうときは視野の幅が狭くなっていることが多い。(中井久夫)

そして、中井久夫のいう入念な自己吟味を搔い潜ったあとの
男の言葉だと「錯覚」に閉じこもり得るのさ、オレには。


要するに次の図が彼の主張を的確に表わしているんだな



「旧「レイシストをしばき隊」<首謀者>野間易通」より


これは罵倒でも「相互性」があるかどうかを指摘しているんだよ

いじめといじめでないものとの間にはっきり一線を引いておく必要がある。冗談やからかいやふざけやたわむれが一切いじめなのではない。いじめでないかどうかを見分けるもっとも簡単な基準は、そこに相互性があるかどうかである。鬼ごっこを取り上げてみよう。鬼がジャンケンか何かのルールに従って交替するのが普通の鬼ごっこである。もし鬼が誰それと最初から決められていれば、それはいじめである。荷物を持ち合うにも、使い走りでさえも、相互性があればよく、なければいじめである。

鬼ごっこでは、いじめ型になると面白くなるくるはずだが、その代わり増大するのは一部の者にとっては権力感である。多数の者にとっては犠牲者にならなくてやかったという安心感である。多くの者は権力側につくことのよさをそこで学ぶ。(中井久夫「いじめの政治学」ーーマジョリティの「選択的非注意」

で、野間易通は次のように言ってんだから、貴君は貴君なりになんたらの「正義論」--きみのはロールズじゃなくて、ローティらしいがーー言及しないで、まずは文句いったらいいじゃないか

@kdxn: ルソーだのロールズだのカントだのを持ちだして語るのが正義論で、日常の人間心理のしょーもない話はそれとは別、みたいに考えてるから、明らかな不正義を目の前にしても固まって終わりなんだよ。正義が観念の中にしか存在してないんだよね。

まあローティを持ち出したかったら持ち出したらいいさ、
リベラル・アイロニストってやつだろ
だいたいオレはローティなんて知らないからな
ただジジェクや浅田彰のボロクソ批判を知ってるだけさ
《ローティ流のプラグマティズムが、いまもっとも支配的な哲学――というか反哲学》(浅田彰)

ローティにとって、リベラルとは「残酷さこそ私たちがなしうる最悪のことだと考える人びと」のことである。また、アイロニストとは、自分にとって重要な信念や欲求が、時間と偶然の範囲を超えた何ものか、つまり〈真理〉に関連しているのだという考えを捨て去る人のことである。(寛容・普遍性・肯定―「正義論」の脱構築―稲田真人)

ーーってことらしいな
「残酷さこそ私たちがなしうる最悪のことだと考える人びと」だったら
死ね! っていったらダメなんだろ、どんな場合もな

オレはこっちのほうが好みなだけさ

なにひとつまっとうな人間としてものを考えようとしないやつらは、生きてても目ざわりになるから首でもくくって死ね、そうすれば皮でもはいで肉を犬にでもくれてやる、と思った……(中上健次『鳥のように獣のように』)

というわけで、オレに反論するなよな
オレは次のようなことを語る野間易通に「惚れ惚れ」してしまっただけさ
一応は、デモの猥雑な補充物としての「享楽」もおさえつつの
「惚れ惚れ」のつもりだがね

野間易通は運動の「中心者」になることをしきりに避けてようとしている、
「議論しないこと」と「ほっとく」能力という主張から
権力の中心となることを避けようとしていると読めるからな

would it not the true task be precisely to get rid of the very mystique of the PLACE of power? The Parallax of the Critique of Political Economy


反ヘイト集団“しばき隊”は正義なのか? 首謀者・野間易通に直撃!

しばき隊に対する批判的言説への反論は、マスコミ以外にも向けられる。一部の「左翼」 勢力もまた、野間たちに対して「いちゃもんをつけてくる」という。いわく、「ポストモダン、ポ ストコロニアリズムの泥沼のなかで何が正しいのか分からなくなった人たち」。

「彼らはなんでも必要以上に相対的に見る癖がついている。『断罪している我々のほうに も問題があるのだ』みたいなことを言いたがる。ヘイトスピーチ規制法をどうするのか、とい うことに対するマスメディアや知識人の反応も近いものがある。ようは、何もしないことのエクスキューズでしょう。俺は朝日新聞に対して『自分たちのほうに正義がある』とはっきり言 った。ヘイトスピーチ対カウンターというのは“正義と正義のぶつかり合い”ではない。この 問題をそういうふうに捉える時点であなたたちは間違ってますよ。追及しているわけでもな んでもなく、たんに無難なコメントを出しているにすぎない」 見せかけの公平さを装うことは、たしかに「無難」かもしれない。だが、それが報道の精神 ではないのか。

「いや、それは思考停止。判断をしていない。報道は公正であるべきで、“見せかけの公 平さ”なんてものに意味はない。マイノリティを攻撃して差別し、排除しようとする在特会を 叩くことこそが、社会的に見て“公正”であり公平さを重視した態度にきまっているでしょう。 しかし彼らを叩くと、自分たちに攻撃の矛先が向く。それが面倒だからやらないだけでしょ。だから、一応公平に書きましたよ、みたいな形式をとる。これによってなにが起きるか。そ れは、議論の当事者になることの放棄です。マスコミは“議論すべきだ”と言うが、自身は その議論に参加ないわけ。そのうえに公正なジャッジすらできない」

野間はこれまでずっと、「冷笑主義者」の「どっちもどっち論者」と戦ってきたと語る。彼ら は「自分をリベラルだと思って」おり、「正義と言っている側にもじつは不正義があるのだ」と いう話を好む。たしかに、思い当たる節がないわけではない。だがそれでも、ひとつの立 場を絶対的な正義と位置づけることが危険性を孕むのは、歴史的に明らかだ。

「そらそうかもしらんけどさ。今、『正義のなかにも不正義がある』と言うのがそんなに重要で すか? あれだけひどいレイシズムが蔓延しているなかで、それを正そうとする人たちだっ て聖人君子ではない。ポリティカリー・インコレクトな場合もあるでしょう。レイシズムの方が 不正義としては断然問題が大きいのに、『ニューズウィーク』の深田のように『正義の中に も不正義が…』ってことばかり言いたがるのって、単なるサボりでしょ。何がいちばんの問 題か。それをちゃんと共有していこうよ。賢くない人であればあるほど、ちゃんとそれができ るわけです。ヘイトスピーチはおかしいと分かる。自分はちょっと賢いぞ、と思ってるような、 でも実際にはアホなやつらが、いろいろとこねくり回して『本当の正義などないのだ』みた いな、クソくだらない結論に至って悦に入る。安い理屈で価値の相対化をする前に、もっと 普通に考えろよということです」

野間によれば、この「価値の相対化」こそが、在特会的なるものを生み出す背景になっ ているという。

「在特会自体も、そういう価値相対主義の上でなりたっている。〈「反差別」という差別が暴 走する〉を書いた深田政彦みたいなやつはレイシストだとは言わないが、そうした価値観 の混乱こそが今の日本のレイシズムの温床であり、本体でもあるんだよね。ようするに、ポ ストモダンの失敗例なんです」

ーーで、わかるだろうな
きみだけではなく、この記事自体が
「何もしないことのエクスキューズ」であることが。

ただオレの言いたいのは、何かをしかかっている若者を
何もしないように誘う言葉だけはやめとけよ、ということだけさ


行為とは、不可能なことをなす身振りであるだけでなく、可能と思われるものの座標軸そのものを変えてしまう、社会的現実への介入でもあるのだ。行為は善を超えているだけではない。何が善であるのか定義し直すものでもあるのだ。(ジジェク「メランコリーと行為」『批評空間』2001 Ⅲ―1所収ーー「なんでおまえらえらそうに言うわりになんの役にも立たないの?」)

ーーとだけ引用するのはマズイかな
肝要なのは、入念な自己吟味を搔い潜ったあとの「行為」だからな

人は何かを変えるために行動するだけでなく、何かが起きるのを阻止するために、つまり何ひとつ変わらないようにするために、行動することもある。これが強迫神経症者の典型的な戦略である。現実界的なことが起きるのを阻止するために、彼は狂ったように能動的になる。たとえばある集団の内部でなんらかの緊張が爆発しそうなとき、強迫神経症者はひっきりなしにしゃべり続ける。そうしないと、気まずい沈黙が支配し、みんながあからさまに緊張に立ち向かってしまうと思うからだ。(……)

今日の進歩的な政治の多くにおいてすら、危険なのは受動性ではなく似非能動性、すなわち能動的に参加しなければならないという強迫感である。人びとは何にでも口を出し、「何かをする」ことに努め、学者たちは無意味な討論に参加する。本当に難しいのは一歩下がって身を引くことである。権力者たちはしばしば沈黙よりも危険な参加をより好む。われわれを対話に引き込み、われわれの不吉な受動性を壊すために。何も変化しないようにするために、われわれは四六時中能動的でいる。このような相互受動的な状態に対する、真の批判への第一歩は、受動性の中に引き篭もり、参加を拒否することだ。この最初の一歩が、真の能動性への、すなわち状況の座標を実際に変化させる行為への道を切り開く。(ジジェク『ラカンはこう読め!』P54)



2014年9月28日日曜日

「左翼っぽいこと書いてるくせに、真摯な「左翼」を罵倒」だって?

偽の現場主義が支える物語的な真実の限界」にコメント貰ってるがね
飛んで火にいる夏の虫だから、無視せずに応答しとくよ

左翼っぽいこと書いてるくせに、真摯な「左翼」を罵倒だって?

ーーああすまなかったね
でもそんなの、ほかにもいくらでもあるぜ
たとえばこれもそうだな→ 「経済なき道徳は寝言

このところ顕揚している野間易通だって、
「消費税反対」の主張ってのは彼の「現場主義の限界」だね
結局、弱者の首をしめる見解じゃないか、あれは

オレはフリードマンの「負の消費税」か、
BIかしかないんじゃないかという考えだな

前から言ってるけど、人口構造も逆ピラミッド状態で、制度をいくらいじったって、年金制度が維持できる訳もない今、ベーシック・インカムのようなドラスティックな方法を取る必要があると改めて痛感するね(田中康夫「憂国呆談」)

参照:「見えざる手(Invisible Hand)」と「消費税」(岩井克人)

それか、早く消費税20~25パーセントに上げて
しかも社会保障費三割カットしないとどうしようもないんじゃないか

日本の財政は、世界一の超高齢社会の運営をしていくにあたり、極めて低い国民負担率と潤沢な引退層向け社会保障給付という点で最大の問題を抱えてしまっている。つまり、困窮した現役層への移転支出や将来への投資ではなく、引退層への資金移転のために財政赤字が大きいという特徴を有している。(「DIR30年プロジェクト「超高齢日本の30年展望」」(大和総研2013)より)

社会保障費カットなんて選挙でかわるわけがないんだから
老人が大半を占める選挙でさ
若い者たちが「搾取」されるのが続くだけさ

(インフレ政策で年金スライド制やめて実質三割カットなんだろうか
深謀遠慮の「誠実な」高級財務官僚が考えている「効果的な」施策のひとつは)

経済学的に考えたときに、一般的な家計において
最大の保有資産は公的年金の受給権です。

今約束されている年金が受け取れるのであれば、
それが最大の資産になるはずです。
ところが、そこが保証されていません。》(池尾和人


(ネオナチの猖獗なんてのも根にはこれがあるんじゃないかと憶測するぐらいでね
まあそんなことはこっそりしかいえないのだが)

アタリ氏は「国家債務がソブリンリスク(政府債務の信認危機)になるのは物理的現象である」とし、「過剰な公的債務に対する解決策は今も昔も8つしかない」と言う。すなわち、増税、歳出削減、経済成長、低金利、インフレ、戦争、外資導入、そしてデフォルトである。そして、「これら8つの戦略は、時と場合に応じてすべて利用されてきたし、これからも利用されるだろう」とも述べている。(……)

現にアタリ氏自身も「(公的債務に対して)採用される戦略は常にインフレである」と述べている。お金をたくさん刷って、あるいは日銀が吸収している資金を市場に供給して貨幣価値を下げ、借金をチャラにしてしまいしょう、というわけだ。(資料:「財政破綻」、 「ハイパーインフレ」関連

「戦争」の選択肢とりつつあるの、このせいじゃないか、実のところは。
戦争だけはやめとけよ、デフォルトのほうがましだぜ


まあこれは高みの見物ってところで、
日本に住んでたら消費税増反対してるさ、もちろん!

消費税大幅増と社会保障費三割カットしないと
どうあがいてもデフォルトの道しかないってのは
有能な「経済学者」であればーーもちろん例外の見解はあるけれどーー
分かっていて、だがなかなか言い出せないだけさ

彼らも経済学者である前に高齢者もしくは高齢者予備軍だからな
ひっそりと「逃げ切る」つもりだったのさ
アベノミクス反対なんてのもさ、資産・貯蓄の目減り政策だからな

むしろデフレ期待が支配的だからこそ、GDPの2倍もの政府債務を抱えていてもいまは「平穏無事」なのです。冗談でも、リフレ派のような主張はしない方が安全です。われわれの世代は、もしかすると「逃げ切れる」かもしれないのだから...(これは、本気か冗談か!?)(ある財政破綻のシナリオ--池尾和人2009.10ーーアベノミクスの博打

…………

「公共的合意」じゃあラチがあかないんだよ

…ハーバーマスは、公共的合意あるいは間主観性によって、カント的な倫理学を超えられると考えてきた。しかし、彼らは他者を、今ここにいる者たち、しかも規則を共有している者たちに限定している。死者や未来の人たちが考慮に入っていないのだ。

たとえば、今日、カントを否定し功利主義の立場から考えてきた倫理学者たちが、環境問題に関して、或るアポリアに直面している。現在の人間は快適な文明生活を享受するために大量の廃棄物を出すが、それを将来の世代が引き受けることになる。現在生きている大人たちの「公共的合意」は成立するだろう、それがまだ西洋や先進国の間に限定されているとしても。しかし、未来の人間との対話や合意はありえない。(柄谷行人『トランスクリティーク』P191-192)

《人々が自由なのは、たんに政治的選挙において「代表するもの」を選ぶことだけである。そして、実際は、普通選挙とは、国家機構(軍・官僚)がすでに決定していることに「公共的合意」を与えるための手の込んだ儀式でしかない。》(柄谷行人『トランスクリティーク』p230-231)

まあたまには選挙で「奇跡」が起こることもあるけれど、
社会保障政策変更の奇跡は起こりえないな。

《中長期の課題は、短期の課題が片付くまで棚上げにしておきましょうという話は成り立たない。》(池尾和人「経済再生の鍵は不確実性の解消」2011 fis.nri.co.jp/ja-JP/knowledge/thoughtleader/2011/201111.html )

簡単に「政治家が悪い」という批判は責任ある態度だとは思いません。

 しかしながら事実問題として、政治がそういった役割から逃げている状態が続いたことが財政赤字の累積となっています。負担の配分をしようとする時、今生きている人たちの間でしようとしても、い ろいろ文句が出て調整できないので、まだ生まれていない、だから文句も言えない将来世代に負担を押しつけることをやってきたわけです。(経済再生 の鍵は 不確実性の解消 (池尾和人 大崎貞和)ーー野村総合研究所 金融ITイノベーション研究部2011ーー二十一世紀の歴史の退行と家族、あるいは社会保障)


マジョリティの「選択的非注意」

いじめといじめでないものとの間にはっきり一線を引いておく必要がある。冗談やからかいやふざけやたわむれが一切いじめなのではない。いじめでないかどうかを見分けるもっとも簡単な基準は、そこに相互性があるかどうかである。鬼ごっこを取り上げてみよう。鬼がジャンケンか何かのルールに従って交替するのが普通の鬼ごっこである。もし鬼が誰それと最初から決められていれば、それはいじめである。荷物を持ち合うにも、使い走りでさえも、相互性があればよく、なければいじめである。

鬼ごっこでは、いじめ型になると面白くなるくるはずだが、その代わり増大するのは一部の者にとっては権力感である。多数の者にとっては犠牲者にならなくてやかったという安心感である。多くの者は権力側につくことのよさをそこで学ぶ。(中井久夫「いじめの政治学」)


排外デモで、“go home! ”というのは、いじめさ
相互性がないからな
(もっともイジメだけではないだろうことは重々わかっているつもりだが)

ということは誰かがすでに言っているだろうと思い
ネット検索してみると
なんとかの松島みどり「法務大臣」がオッシャッテイルではないか

「ヘイトスピーチの最たるものは子どものいじめ」とさ
で、《不見識発言に非難殺到》だって?

インテリ諸子はいったん嫌うとなんでも非難ってわけじゃないだろうな
それともオレが「不見識」なんだろうか?

誰か味方がいないかとさらに探せば
「男組」――レイシストデモの「カウンター」の連中が
 「ヘイトスピーチはいじめだ」声明しているじゃないか

反ヘイト活動でも、野間たちは怒りの感情を大いに利用した。しばき隊の支持者が歩道か ら中指を立てて拡声器で罵声を浴びせ、“実戦”を担う男組が刺青をちらつかせて在特会 デモに肉薄し、にらんで怒鳴りつける。その暴力的な画像をネットで拡散して炎上させ、さ らに動員をかけていく。男組“副長”の石野雅之は、自分たちを汚れ役だと自任している。 実際、去年から今年にかけて暴行や傷害の罪で“組長”らが検挙されている。こうした暴力 の嵐の中で在特会デモは衰退し、かつては数百人規模だったデモも今や固定メンバーし か集まらなくなった。中止になることもしばしばだ。(旧「レイシストをしばき隊」<首謀者>野間易通


松島みどり大臣は男組をパクっただけじゃないのか

ヘイトスピーチをする人々に対しては“目の前で行われている「いじめ」に「おい、それ止めろ!」と私たちは言い続けます。差別やいじめに対して難しい理屈は要らないのです。(釈放された「男組」 差別ない社会目指すと改めて宣言

どうだい、インテリ諸子よ
ツイッターで脊髄反応的に語ってしまったことを批判するつもりはないさ
さしあたっての急務は、
きみたちが単なる馬鹿であるかどうかの穿鑿にあるわけではないし、
また脊髄反応装置としてのツイッターの恐ろしさは、
とても馬鹿とは思えない人間の思考をも
無償の饒舌化する点にあるのだからな

ーーというのはもちろんパクリさ

だが、さしあたっての急務は、『文章読本』の著者(丸谷才一:引用者)が単なる馬鹿であるかどうかの穿鑿にあるわけではないし、また、教育装置としての風景の恐ろしさは、とても馬鹿とは思えない人間の思考をも「知」的に分節化する点にあるのだから、いましばらくは、現代の風景論的な展開にいま少しつきあわねばならない。それは存在から「知」を奪い、あらゆる人間を痴呆化させるからではなく、むしろ「知」の流通を活性化させながら思考の体系化をめざすかにみえて、逆に思考を単調なる物語の一挿話としてそ知らぬ顔で分節化し、イメージによる相互汚染を普遍性と錯覚させてしまう点が恐ろしいのだ。(蓮實重彦「風景を超えて」『表層批評宣言』所収) 

さて急務のほうは、傍観者の「選択的非注意」のほうだな

いじめは次第に「透明化」して周囲の眼に見えなくなってゆく。

一部は、傍観者の共謀によるものである。古都風景の中の電信柱が「見えない」ように、繁華街のホームレスが「見えない」ように、そして善良なドイツ人の強制収容所が「見えなかった」ように「選択的非注意 selective inatension」という人間の心理的メカニズムによって、いじめが行われていても、それが自然の一部、風景の一部としか見えなくなる。あるいは全く見えなくなる。(「いじめの政治学」)

嫌韓・嫌中本は売れるので、国際空港であろうと目立つところに置く」のたぐいは今では至る所にあるのであって、「善良」なひとたちは「選択的非注意」で対応しているのじゃないか。

ちがうかい?、傍観者の「優等生」たちよ
みずから「日本人」というマジョリティーに同化して

浅田) 「逃走」とは簡単に言うと「マイノリティーになること」。在日韓国・朝鮮人へのヘイトスピーチのように、自分を「日本人」というマジョリティーに同化しようとすることで、激烈な排除が生まれる。しかし、自分も別の次元ではマイノリティーだと気づけば、対話や合意なしでも共存は可能になる。

そこで、「優等生」は、ネットを使って声なき声を拾い上げ対話を密にするなど、民主主義のバージョンアップを目指す。それはそれでいい。しかし、「優等生」が「マイノリティーの声に耳を傾けよう」と熱弁をふるっているとき、そんな議論自体に耐えられなくて黙って出て行くのが真のマイノリティーたる「不良」でしょう。「切断」の思想は、そうやって対話から逃げる自由を重視する「不良」のすすめだと思います。

千葉) そうですね。「不良」というのは、社会の多様性の別名ですから。対話を工夫することは必要だとしても、そもそも必要なのは、誰だって様々な面で「不良」でありうる、マイノリティーでありうるという自覚を活性化することである、と。「優等生」の良かれと思っての接続拡大の訴えからも「切断」される自由を認めなければ、「優等生」のその「良かれ」は機能しないということになるでしょう。多様な「不良」を擁護する、それが「切断」の哲学ですね。(つながりすぎ社会を生きる 浅田彰さん×千葉雅也さん 2013.12)

ここでは敢えて「不良」や「切断」なんてことはいわないさ
ただ「選択的非注意」やら
《「見たくないもの」を見ない〈心の習慣〉》(丸山真男)やらは
なんとかならないものだろうかね、

それに松島みどり大臣発言を批判する大学教師らしきおっさん、お嬢さんよ
同じ人に対して同じように怒りをぶつけ
同じ人に対して同じように賞賛する
脊髄反応装置に浸りきったツイートの
「相互汚染作用」の餌食ってわけじゃないだろうな
まさか《世の中で一番始末に悪い馬鹿、背景に学問も持った馬鹿》(小林秀雄)
というわけではあるまい

ただツイッターにて集団ヒステリーになってるだけだろ?

《だれも、ひとりひとりみると/かなり賢く、ものわかりがよい/だが、一緒になると/すぐ、馬鹿になってしまう》(シラー フロイト『集団心理学と自我の分析』より孫引き

現代日本の精神構造は、中世の魔女裁判のときやヒットラーのユダヤ人迫害のときの精神構造とそれほど隔たったものではない。ほとんどの人は安心してみんなと同じ言葉をみんなと同じように語る。同じ人に対して同じように怒りをぶつける。同じ人に対して同じように賞賛する。(『醜い日本の私』中島義道)

ーーと書くオレもきみらのツイートの前後の文脈を読まずに
こう書いてんだから同じ穴の狢かもな
ツイッターだけでなくブログも似たようなものさ


……もろもろのオピニオン誌の凋落は、「あたしなんかより頭の悪い人たちが書いているんだから、あんなもん読む気がしない」といういささか性急ではあるがその現実性を否定しがたい社会的な力学と無縁でない。そんな状況下で、人がなお他人のブログをあれこれ読んだりするのは、それが「あたしなんかより頭の悪い人たちが書いている」という安心感を無責任に享受しうる数少ない媒体だからにほかならず、「羞恥心」のお馬鹿さんトリオのときならぬ隆盛とオピニオン誌の凋落とはまったく矛盾しない現象なのだ。〔蓮實重彦「時限装置と無限連鎖」)

安心感を無責任に享受させてしまったかな
でも「厚顔無恥」の「無限連鎖」だけはやめとけよ

…………

非常に多くのものが権力欲の道具になりうる。教育も治療も介護も布教もーー。多くの宗教がこれまで権力欲を最大の煩悩として問題にしてこなかったとすれば、これは実に不思議である。むろん、権力欲自体を消滅させることはできない。その制御が問題であるが、個人、家庭から国家、国際社会まで、人類は権力欲をコントロールする道筋を見いだしているとはいいがたい。差別は純粋に権力欲の問題である。より下位のものがいることを確認するのは自らが支配の梯子を登るよりも楽であり容易であり、また競争とちがって結果が裏目に出ることがまずない。差別された者、抑圧されている者がしばしば差別者になる機微の一つでもある。(「いじめの政治学」)

中井久夫の「いじめの政治学」というのは、
中井版フロイトの『集団心理学と自我の分析』みたいなものだからな、
ラカンが「ヒトラー大躍進への序文」と評した論文さ
日本のネオナチ躍進の序文として読んだほうがいいかもな

いじめが権力に関係しているからには、必ず政治学がある。子どもにおけるいじめの政治学はなかなか精巧であって、子どもが政治的存在であるという面を持つことを教えてくれる。子ども社会は実に政治化された社会である。すべての大人が政治的社会をまず子どもとして子ども時代に経験することからみれば、少年少女の政治社会のほうが政治社会の原型なのかもしれない。

いじめはなぜわかりにくいか。それは、ある一定の順序を以て進行するからであり、この順序が実に政治的に巧妙なのである。ここに書けば政治屋が悪用するのではないかとちょっと心配なほどである

私は仮にいじめの過程を「孤立化」「無力化」「透明化」の三段階に分けてみた。(……)これは実は政治的隷従、すなわち奴隷化の過程なのである。(「いじめの政治学」)

ネオナチ猖獗を「透明化」するのだけはやめとけよな
すなわち「選択的非注意」に憩うのだけは。


※附記:現在の自民党のイメージ


二〇世紀の数々の政治体制のまれにみる統合。

自由主義から飢える自由(格差是認)、高価な過ちを犯す自由(たとえば経済のために原発再稼動)、戦争の自由(徴兵制復活やら核軍備など)。共産主義から国民の羊化と情報統制、強制収容所化。民主主義から名もない一般大衆の付和雷同的「衆愚」とレイシズム(異質なものの排除)。ファシズムから独裁と大衆の喝采(ヒステリー的な態度によって主人を選出。誤りを犯すことがわかっているような無能な主人が選ばれる)。資本主義からバブルと剥き出しな資本の利害。ケインズ主義から自己循環論法(美人投票論、合理性のパラドックス)。自民党からかつてのその名前。


2014年9月27日土曜日

なんだろねこの一種独特の「ぬるさ」は

@erunenn: 「ぬるい」なぁ。この国のレイシズムへの憤りってのは、まだまだ。少なくとも、在特会および共闘差別団体のデモ街宣を動画で見たら理屈だけこねてアゴだけ動かしてる場合じゃないんだけどなぁ。なんなんだろねこの一種独特の「ぬるさ」は。カウンターは少なくともその点「鋭敏」だよな。

erunennさんのプロフィール欄に次のようにある、《在日コリアン三世 大阪市・鶴橋安寧・レイシズムは人類の恥であり害悪》


その国の友なる詩人は私に告げた。この列島の文化は曖昧模糊として春のようであり、かの半島の文化はまさにものの輪郭すべてがくっきりとさだかな、凛冽たる秋“カウル”であると。その空は、秋に冴え返って深く青く凛として透明であるという。きみは春風駘蕩たるこの列島の春のふんいきの中に、まさしくかの半島の秋の凛冽たる気を包んでいた。少年の俤を残すきみの軽やかさの中には堅固な意志と非妥協的な誠実があった。(「安克昌先生を悼む」『時のしずく』所収

さぞかし曖昧模糊として春のような日本人気質に苛立っておられるのだろう。

上の追悼の対象安克昌氏は阪神・淡路大震災のおり、神戸大学精神神経科にて陣頭指揮をとった方だ(中井久夫は、私は裏方にすぎなかった、という意味のことを書いている)。よく読まれた中井久夫編の『1995年一月・神戸』には、安克昌氏の「被災地のカルテ」という論がある。

《安克昌先生は、二〇〇〇年十二月二日、四〇歳に四日を残してその短き生涯を閉じられた。その恨みを恨みとして、その思いを思いとする人々が今ここに集まっておられる。不肖、私、葬儀委員長として、皆様とともに愛惜、追慕の念を、まず、ご遺族にささげたいと申し上げます》

…………

もっとも単純に韓国人の「堅固な意志と非妥協的な誠実」気質をひたすら顕揚するものではない。ただ「春風駘蕩」たる多くの日本人は、韓国人の爪の垢でも煎じて飲むべきだと言っているだけである。

ネットで読んだ新聞のインタビューで、先生は、韓国では人がすぐに激しいデモや抗議に奔ることを批判しておられた。それを読んだとき、私とはまるで違うなと思った。私は日本で、むやみやたらにデモをするように説いてきた。なぜなら、日本にはデモも抗議活動もないからだ。原発震災以来、デモが生まれたが、韓国でならこんな程度ですむはずがない。要するに、キム教授と私のいうことは正反対のように見えるが、さほど違っているわけではない。彼も日本のような状態にあれば、私と同じようにいうだろう。(……)

一般に、日本社会では、公開の議論ではなく、事前の「根回し」によって決まる。人々は「世間」の動向を気にし、「空気」を読みながら行動する。このような人たちが、激しいデモや抗議活動に向かうことはめったにない。

私から見ると、韓国にあるような大胆な活動性が望ましいが、キム教授から見ると、むしろそのことが墓穴を掘る結果に終わることが多かった。韓国では激しい行動をしない者が非難されるが、それはなぜか、という新聞記者の問いに対して、教授は、つぎのように応えている。《知行合一という考え方が伝統的に強調されてきたからだと思う。知っているなら即刻行動に移さなければならないとされていた。行動が人生の全てを決定するわけではない。文明社会では行動とは別に、思考の伝統も必要だ》。日本と対照的に、韓国ではむしろ、もっと慎重に「空気」を読みながら行動すべきだということになるのかもしれない。(柄谷行人「キム・ウチャン(金禹昌)教授との対話に向けて」

ここでの文脈からはずれるが、韓国社会はおどろくべき難題が日本と同様(ひょっとしたらそれ以上に)山積しつつある。→ 資料:韓国の自殺率と出生率


…………


小田嶋隆氏、若い二人にメンションもらって黙っちゃたじゃないか(2014.9.27 PM200前後)。

小田嶋隆 ‏@tako_ashi

見解や路線の違いは、人が100人いれば100通りあるわけで、目標は同じなのにやり方が違っていたり、同じ理想を共有しているながら感覚が合わなかったりする人々を、いちいち罵倒したり嘲笑したりしていたら、結局、敵を利することになるんではないかということを昨日来申し上げているわけだが。
手塚空 ‏@aibery

それはいま小田嶋さんがやっていることじゃないですか? 「ファシストに死ねという奴はファシストだ」みたいな安易な揶揄をやって。小田嶋さんが自分たちと隔たっているとか敵だとか考えている党派的なカウンターはほとんどいないと思いますよ。 @tako_ashi
ken ‏@kenkenir

@tako_ashi それを小田嶋さんがやってるから、みんな反論してるんだってことは、まぁ、ダブスタを自称されてるからわかんないんでしょうね。

 おっと、と書いたところで、《「なんじゃらほい」が自粛対象語入りしたことをお知らせします》(PM:3:00頃)また呟きはじめた。

深遠に見せかけた挑発的な気の利いたジョークのガラクタに、道義的な義憤というスパイスを加えている(……)。真実など、ここでは重要ではない。重要なのは影響力である。これこそ今日のファストフード的な知的消費者が望んでいたものだ。道義的な義憤を織り交ぜた、単純で分かりやすい定式である。人々を楽しませ、道徳的に気分を良くさせるのだ。(ジジェク

 彼のような「文化人」を、わたくしはマッタク否定するわけではない。憩いも必要なのだから。

現代ではストオリイは小説にあるだけではない。宗教もお話であり、批評もお話であると私は書いたが、政治も科学も歴史もお話になろうとしている。ラジオや テレビは一日中、料理や事件や宇宙について、甘いお話を流し続け、われわれは過去についてお話を作り上げ、お話で未来を占っている。

これらのお話を破壊しないものが、最も慰安的であるが、現実にもわれわれの内部にもお話の及ばない極地は存在する。人間はそこに止ることは出来ないにしても、常にその存在を意識していなければならない。だからこの不透明な部分を志向するお話が、よいお話である、というのが私の偏見である。(大岡昇平『常識的文学論』)

内田樹氏は「たいへん濃い」メンバー4名(内田樹、小田嶋隆、平川克美、町山智浩)としているようだが、彼ら全員をまとめて「文化人」の典型と呼ぶつもりはない。小田嶋隆氏にだって、文化人と呼んだら失礼にあたるかもしれない。

ときにはトッテモ役に立つこともあるのだろうから。

鈴木健(『なめらかな社会とその敵』の著者)の震災直後のツイートがいまでもとても印象に残っている。

要は専門家のもっている専門てほんとに狭くって、世界に数人〜数十人しか分かる人がいない。それでも業界外に位置づけを説明するために自分が数千人から数十万人のコミュニティに属しているように説明する。素人から期待される質問に答えようとするととたんに擬似専門家になる。

《学者でもタレントでもない「きわめて厄介な」ヌエのような存在》はいまではいたるところにいる。


…………


◆附記:柄谷行人『死語をめぐって』

…中野重治は「芸術家の立場」というエッセイで注目すべきことをいっている。まず彼は芸術家と職人を対比する。この場合、「職人」という語は、中野がつけ加えていっているように、芸人や農民、あるいはすべての職業人をもふくんでいる。いわば、それは、どの「職」にも固有のスキルと、それに伴う責任感やプライドをもつ者のことである。

《職人は、ある枠のなかに安住し、あるいはこの枠を到着目標とする。彼らは枠をやぶろうとしないのみならず、そもそも枠に気づかない。それに対して、芸術家は、この枠を突破しようとする。しかし、その結果はわからない。《職人の場合、その努力は何かの結果を約束する。約束された結果への努力が職人の仕事になる。約束されていない結果への努力が芸術家の仕事になる。》

中野のこの区別は、ある意味でロマン派以後の考えのようにみえる。しかし、実は彼はそれ以前の状態で考えている。たとえば、中野はこの「芸術家」と「職人」の関係を上下において見ていない。《職業としての一人の大工と、職業としての一人の建築芸術家があるわけではない。そういう上下はない》。しかし、職業としての上下はなくても、芸術家と職人の上下関係は本質的にある。《ある人は職業として芸術家となって行ってつまりは職人になる。あるひとは職業として職人になって行ってつまりは芸術家になる。識別に困難はあるが、実際にはそれがある》。たとえば、中野は、職人として始めて芸術家に至った例として、樋口一葉や二葉亭四迷をあげている。

いうまでもなく、一葉や四迷は芸術家という意識をもっていない。同じことが、イタリアのルネッサンスの芸術家についていえる。彼らは職人として始めて、その「特権的な才能」ゆえに、ロマン派以後なら芸術家と呼ばれるものになった。しかし、彼ら自身は芸術家とは考えていなかった。つまり、中野がここでいう芸術家とは、芸術家という観念が出現する以前の”芸術家”である。ところで、中野は、ここで芸術家でもなく職人でもない芸能人というものをもちこむ。

《芸術家とならべて考える言葉に職人というのがある。たいていは、芸術家は職人よりも上のもの、職人は芸術家よりも下のものとなっている。芸術家とならべて考えるもう一つの言葉に芸能人というのがある。 芸能人という言葉はあたらしい。それは、芸術家よりもあたらしく、ほんとうをいえば、言葉としてどの程度安定したものか、いったい安定するものかどうかさえすでにうたがわしい。しかし、とにかく、日本の現在でその言葉はあり、それは、なにかの程度で何かをいいあてている。そしてたいていは、芸術家は芸能人よりも上のもの、芸能人は芸術家よりも下のものとなっている。》(「芸術家の立場」)

芸能人という言葉は、事実この当時はまだ新しかったけれども、今日ではむしろ中野がいったとは違った意味で「安定」している。そもそも職人や芸人が消滅してしまったからだ。したがって、中野がいう「芸能人」は今日われわれがいう芸能人とは別であることに留意すべきである(むしろ「文化人」という語がそれに該当している)。ここで中野が意味するのは、芸術家でも職人でもないタイプ、職人に対しては芸術家といい、芸術家に対しては職人というタイプである。それは「枠」を自覚し越えるようなふりをするが、実際は職人と同じ枠のなかに安住しており、しかも職人のような責任をもたない。中野は、これを「きわめて厄介なえせ芸術家」と呼んでいる。なぜなら、彼らを芸術家の立場から批判しようとすれば、自分は職人であり大衆に向かっているのだというだろうし、職人の立場からみれば、彼らは自分は芸術家なのだというだろうから。中野はこういっている。

《そこへさらに例の芸能人が混じってくる、職業として芸術家になって行って、芸術家にも職人にもなるのでなくて芸能人になる。部分的にか全面的にか、とにかく人間にたいして人間的に責任を取るものとしてのコースを進んで、しかし部分的にも全面的にも責任をおわぬものとなって行く。ここの、今の、芸術家に取っても職人にとっても共通の、しかし芸術家に取って特に大きい共通の危険がある、この危険ななかで、芸術家が職人とともに彼自身を見失う。》(「芸術家の立場」)

こうした「芸能人」のなかに、中野はむろん学者や知識人をいれている。中野がこの「芸能人」という言葉が「何かの程度で何かをいいあてている」と書いたとき、彼はたしかに何かをいいあてていたといってよい。というのは、まさにこの時期「大衆社会」という言葉があらわれ、且つその言葉が「いいあてている」ような現象が出現していたからだ。

中野がこれを書いた1960年以降、芸術家あるいは知識人は失墜した。かといって、職人あるいは大衆が自立したわけではない。そのかわり知識人でも大衆でもないような大衆があらわれた。それは中野がいう「芸能人」に対応しているといってよい。べつの言葉でいえば、ハイ・カルチャアでもなくロー・カルチャアでもない、サブ・カルチュアが中心になって行った。むろん、それがもっと顕著になるのは八〇年代である。この時期、中野のいう「芸能人」にあたるものは、ニューアカデミズムと呼ばれている。学者であり且つタレントである、というより、正確にいえば、学者でもタレントでもない「きわめて厄介な」ヌエのような存在。しかし、これまでの「知」あるいは「知識人」の形態を打ち破るものであるかに見える、このニュー・アカデミズムはべつに「あたらしい」ものではない。それは近代の知を越える「暗黙知」や「身体技法」や「共通感覚」や「ニュー・サイエンス」を唱えるが、これらは旧来の反知性主義に新たな知的彩りを与えたものにすぎない。そして、彼らは新哲学者と同様に、典型的な知識人なのである。



2014年9月26日金曜日

「なんでおまえらえらそうに言うわりになんの役にも立たないの?」

昨日からツイッターで、在特会とカウンターの
「どっちもどっち」論が賑わっているな
日本の政治に無知の身で「反応的」に書くのは、
マズイに決まってんだが
たまにはやってみたくなるものだ。
ただしよい子はやらないように、と忠告しておくよ

彼の書くものの中には、二種類のテキストがある。テクストⅠは反応的(反作用的)であり、その動因となっているものは、さまざまな憤慨、恐怖、内心での反論、軽い偏執病、防衛、いさかいである。テクストⅡは能動的(作用的)であり、その動因は、快楽である。しかし、書かれ、訂正され、“文体”の虚構に順応するにつれて、テクストⅠそれ自体も能動的となっていく。そうなると、それはみずからの反応性の表皮を失い、その反応性は、わずか、ところどころに斑(ささやかな丸括弧にかこまれた斑点)としてしか残らない。(『彼自身によるロラン・バルト』)

…………

@TomoMachi: だからさ「安倍死ね」とか言っちゃ在特会と同じだってば。大多数の人の支持は得られないってば。政権を本気で変えたいなら大多数の支持を得なきゃならないでしょ。それを考えない運動なら、本気じゃない。ただのオナニーだよ。@bcxxx.

「大多数の人」ってなんだ?
まずは「何もしない人」だな

@TomoMachi「何もしない人」を批判するのではなく、そういう大多数の人々の支持を得ないと社会は変えられませんよ。 RT @royterek: 「そういうやり方では人は増えないよ」とだけ言って自分では何もしない人たちについては偽善的なものしか感じません。

嫌韓・嫌中本が売れているらしいが
それを購入する連中がマジョリティかどうかは断言しないでおこう。
だがたとえば丸善や三省堂のていたらくを
見て見ぬふりするのがマジョリティには相違ない。
嫌韓・嫌中本は売れるので、国際空港であろうと目立つところに置く」だって?

ところで教師や研究者はマジョリティだろうか

何もしないなら黙ってろ、黙ってるのが嫌なら何かしろ、という性質の話の筈。偉そうにTwitterでどっちもどっち論を繰り返し、動いているのは指先のみ。いま大学人がいかに信用失墜しているか新聞でも眺めればわかる筈なのに、そのざまか。民衆は学び、君を見ているぞ、「ケンキューシャ」諸君。(佐々木中)

学者やケンキューシャ諸君も「大多数の人」の仲間だろうよ


フロイトの選挙投票の選好(フロイトの手紙によれば、彼の選挙区にリベラルな候補者が立候補したときの例外を除いて、通例は投票しなかった)は、それゆえ、単なる個人的な事柄ではない。それはフロイトの理論に立脚している。フロイトのリベラルな中立性の限界は、1934年に明らかになった。それは、ドルフースがオーストリアを支配して、共同体国家(職業共同体)を押しつけたときのことだ。そのときウィーンの郊外で武装した衝突が起った(とくにカール マルクス ホーフの周辺の、社会民主主義の誇りであった巨大な労働者のハウジングプロジェクトにて)。この情景は超現実主義的な様相がないわけではない。ウィーンの中心部では、有名なカフェでの生活は通常通りだった(ドルフース自身、この日常性を擁護した)、他方、一マイルそこら離れた場所では、兵士たちが労働者の区画を爆撃していた。この状況下、精神分析学連合はそのメンバーに衝突から距離をとるように指令していた。すなわち事実上はドルフースに与することであり、彼ら自身、四年後のナチの占領にいささかの貢献をしたわけだ。(ジジェク『LESS THAN NOTHIG』私訳)

フロイトだってこうだからな
「学者」という人種はこんなものさ

《学者というものは、精神上の中流階級に属している以上、真の“偉大な”問題や疑問符を直視するのにはまるで向いていないということは、階級序列の法則から言って当然の帰結である。加えて、彼らの気概、また彼らの眼光は、とうていそこには及ばない。》(ニーチェ『悦ばしき知』)

・排外主義にしろ戦争準備政権にしろ、つまりは「我われの問題」としてはとらえていない、ということだ。自分たちとは関係ない別世界のお話し。リアリティへの眼差し以前の、無関心と無知と無自覚。

・でも、それも仕方ないことだとも思う。例えば、アベノミクスで経済の上向き期待感を与えてくれるならば、起きるかどうか不確かな戦争への傾斜の怖れなんかに気をとめるだろうか。この政策なら明日の給料がすこしでも上がって、すこしでも生活が楽になるかもしれないと思わせてくれるなら、安倍政権の欺瞞と虚偽に目が向くだろうか。

・みんなみんな自分の食べることで精一杯。余裕なんてありゃしない。無関心と無知と無自覚なんて言われたら腹が立つ。だってみんな精一杯生きてるんだから。甘く見てはならないとか高をくくってはならないとか、「日常」をねつ造するメディアに流されないようになんて言われても、財布の中身のほうが大切に決ってる。(社会思想史を研究しているらしい若い研究者のツイートを「翻訳」したもの→元ツイート

で、このような「 大多数の人」の支持を得るというのは、
「カウンター運動者」の振舞いを見ているかぎりはすこぶる困難さ

・「『私たちは決して許しません』と呼び掛けるのではなく、『ふざけるな、 ボケ』と叫んだほうが人は集まる」

・理路整然とした「上品な左派リベ ラル」の抗議行動は「たとえ正論でも人の心に響かない」と答え、「何言ってるんだ、バカヤ ロー」と叫ぶのが「正常な反応」だ

・しばき隊はどんどん罵倒するのが基本 方針。 僕がよく使う言葉は、『人間のクズ』『日本の恥』などですが、もっと罵倒の技術を磨かねば、 と考えています」

・「カウンター行動は、これまで上品な左派リベラルの人も試みてきました。 ところが悲しいことに、『私たちはこのような排外主義を決して許すことはできません』とい った理路整然とした口調では、 たとえ正論でも人の心に響かない」

・「公道で『朝鮮人は殺せ』『たたき出せ』と叫び続ける人々を目の前にして、冷静でいる方 がおかしい。 むしろ『何言っているんだ、バカヤロー』と叫ぶのが正常な反応ではないか。レイシストに 直接怒りをぶつけたい、 という思いの人々が新大久保に集まっています」(野間易通語録

というわけで、次のような連中がうじゃじゃ這い出てくる。

闘ってるやつらを皮肉な目で傍観しながら、「やれやれ」と肩をすくめてみせる、去勢されたアイロニカルな自意識ね。いまやこれがマジョリティなんだなァ。(浅田彰『憂国呆談』)

さて冒頭の町山智浩氏のツイートに戻れば
マジョリティの支持を得ないと「政権」は変わらないだって?
ご尤も、なんという「正論」!


オレはもちろん反差別が差別の温床になることを知ってるさ。
そんなの誰もが知っていることだよ。
問題はそこではないのさ。
問題は、果たして差別の温床となりうる反差別運動をしないで
差別、排外主義、ヘイトスピーチを止めうるかどうかということだぜ。



「安倍死ね」がダメだったらこんなのはどうだろう?

@sosodesumus: 安倍のアホづら見るだけでは済まなくなった。虫酸の虫と吐き気だけでは済まなくなった。たいしたもんだよ、幽霊じじい共にきりきり舞いさせられているこんな幼稚なアホが首相とは!今日は災厄の日だ!!! 馬鹿とキチガイによる、ばかのための、のうたりんの政治。こんな責任を誰が分かち合うのか。(鈴木創士)

これも町山氏にはダメかね?

白状しろよ。
いつも下痢がちの安倍のケツを、いったい何人のクソバエ記者たちがペロペロと舐めてきたことか。
安倍の官房副長官時代、しきりにかれにとりいり、テレビへ大学へと請じ入れては、言いたい放題をゆるしたのはだれであったか。
田原総一朗、故筑紫哲也らではなかったか。(辺見庸

あるいは「生きてても目ざわりになるから首でもくくって死ね」(中上健次)なんてのはどうだい?

さて言わせてもらえば、問題は 「マジョリティ」の支持を得ることではないのだよ

@royterek .@TomoMachi あくまでデモへの参加という点ではという意味です。3・11以降の社会的抗議の高まりの中で、穏当な表現のデモはことごとく「ただのお祭り騒ぎ」などと揶揄されてきました。少なくとも直接動員という点では、ストレートな抗議の方が好まれることは官邸前抗議以来の常識です。

 湿った瞳を交わし合い頷き合って「絆」やら「寄り添う」とかいってる
共感の共同体の連中がマジョリティなんだぜ

真の敵は在特会でもネオナチの連中でもなく、
「共感の共同体」に憩い切っている連中、
《「見たくないもの」を見ない〈心の習慣〉》(丸山真男)
をもった「大多数の人」なんじゃないかい? 
あのマジョリティの大半はひそかなレイシストだったらどうだろう
もっとも、かつての岩井克人のように
ぼくは日本人は百パーセント、レイシストだと思いますよ
とまでは言わないでおくが。

この共同体では人々は慰め合い哀れみ合うことはしても、災害の原因となる条件を解明したり災害の原因を生み出したありその危険性を隠蔽した者たちを探し出し、糾問し、処罰することは行われない。(酒井直樹「共感の共同体批判」

いまも進行中だからな
「協力・相互依存」の「無責任の体系」の歯車がスムーズに動いているぜ
「事を荒立てる」かわりに、
「『仲良し同士』の慰安感を維持することが全てに優先」させるってことが。

数十年前、ある婦人が、ブルックリンの大きなアパートメントの中庭でゆっくりと打たれて嬲り殺しになった。窓から何が起こっているのかをはっきりと見た七十人以上の目撃者がいたのだが、ひとりも警察を呼ばなかった。どうしてそうしなかったのか? のちの取調べでの大方の言い訳は、どの目撃者もだれか他の人がすでに報告しているだろうと思い込んでいたというものだ。この事実は、道徳的な臆病とかエゴイスティックな無関心のたんなる言い訳として、道徳的に払いのけるわけにはいかない。ここでわれわれの直面していることもまた、大文字の他者の機能である。今度は、ラカンの「知っていると想定された主体」ではなく、「警察を呼ぶと想定された主体」とでも呼ぶべきものである。(私意訳)

Some decades ago, a woman was slowly beaten to death in the courtyard of a big apartment block in Brooklyn; of the more than seventy witnesses who clearly saw what was going on from their windows, not one called the police. Why not? As the later investigation established, the most prevalent excuse by far was that each witness thought someone else would surely have already reported it. This fact should not be dismissed moralistically as a mere excuse for moral cowardice and egotistic indifference: what we encounter here is also a function of the big Other—this time not as Lacan’s “subject supposed to know,” but as what one might call “the subject supposed to call the police.”(ZIZEK“LESS THAN NOTHING”)

※ 「知っていると想定された主体」については、<ラカン派の「転移」のいろいろ>を参照。


「嬲り殺し」の高みの見物と似たようなもんじゃないのか、
たとえば「在特会」やら「ネオナチ」の動きをほうっておくのは。

湿った瞳を交わし合うのみで、
誰かがネオナチをとめてくれると想定しているだけの
去勢された子羊たちが「マジョリティ」ではないか

それともこっち系かね
ネオナチや在特会は「ほんとうの問題」を提起している
とひそかに思っている類だってマジョリティかもな

彼らは、ル・ペンについて、受け入れがたい思想 を流布する者だと言いながら、「しかし...」とことばを継ぐ。こうやって、ル・ペンが「ほんとうの問題」を提起していると言外に述べようとする。そうしてそのことによってル・ペンの提起した問題を自分たちがとりあげることを可能にする。中道リベラル は、根本的には、人間の顔をしたル・ペン主義だ。(ジジェク『資本主義の論理は自由の制限を導く』2006

共感の共同体に憩っている手合いってのが、
田母神を「ほんとうの問題」を提起しているなどと言い出す
その境界線を跨ぐまでに半歩ほどしかないかもな、
いやもう越えているのかい?

「具体的に憲法を取り戻す。国軍を創設する。歴史を取り戻す。つまり東京裁判史観から脱却する。教育を再建する。このような今、国民が熱望している緊急課題、そしてもちろん領土を守る。拉致された国民を救い出す。これを具体的に実行できる国家体制をつくるということは、国民の総意なくしてはできない。その先頭に田母神俊雄閣下になっていただくということだ」(田母神氏「タブーない政治を」

いずれにせよ、正義の味方くんやら正論くんたちよ
ひとことでいうと、なんでおまえらえらそうに言うわりになんの役にも立たないの?
ってことだよ、とくに町山智浩やら彼のツイートを大量RTしている手合いというのは。

オレが役に立っているなどと自惚れるつもりはないがね
すくなくともヘイトスピーチやネオナチへの「カウンター」運動者を
微力ながらサポートしたい心持はあるな
そしてそれに反する言葉には反吐をはきかけたいね

@kdxn: 外に出られないとして、なんでツイッターでネトウヨのデマを批判したりネトウヨに攻撃されてるマイノリティをサポートしたりせずに、カウンターの論評ばっかりえんえんとやってんだよってことだよ。RT @heboya: 誰でも彼でも、ほいほい外に出れる人間だと思うなよ!

@kdxn: ひとことでいうと、なんでおまえらえらそうに言うわりになんの役にも立たないの?ってことです。「意図」がないことが問題。本当に無神経だと思う。RT @heboya: 居丈高に要求するような意図はまったくありませんでしたが、そのように感じられたのでしたら、その点申し訳ありませんでした。(野間易通)


あるいは次のようなことをことあるごとにつぶやく手合いがあまたいるんだが
(貴君らふたりにはなんの怨みもない、サンプルとして使わせてもらうだけだからな)

@ueyamakzk「意図がなくても差別だ」というのは、 まったく同じことが、左翼・リベラルについて言えます。意図として「差別に反対している」ことは、その人の言動が差別に反対していることを保証しません。

(以上の主張は、tweetやブログで何度かくり返していますが、折にふれて提示するつもりです。主観的には「差別に反対する」意図を持った人たちが、これほど露骨に差別の温床になり、あるいは差別の増幅装置にすらなっていることが、あまりに放置されています。)
@unorthodox_TW: 私が危惧するのはやはり、他の差別者が「ヘイトスピーチ」のみを殊更に非難してみせて自分の差別性の隠れ蓑にすることであり、差別の問題を語るにあたってそれはゼロどころかマイナスの影響しか及ぼさない、ということです。 @dattarakinchan

ーー「なんでおまえらえらそうに言うわりになんの役にも立たないの?」
ってわけでもないだろう、お二人さん
そろそろ役に立ったらどうだい?

それともただの「善良」なひとなのかい?

まことに、わたしはしばしばあの虚弱者たちを笑った。かれらは、自分の手足が弱々しく萎えているので、自分を善良だと思っている。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』手塚富雄訳)


《@kdxn: 「カウンター」は、行動であり態度のことであって、サークルやグループではないんだよね。日本中でレイシストやファシストにカウンターしてる人のほとんどは、俺の知り合いでも友達でもないし、今後も一生知り合うことがない人たち。そして俺を嫌いな人も大量にいる。これが普通でしょ。》(「議論しないこと」と「ほっとく」能力


繰り返せば、いま問われるべきは、
「大多数の人の支持を得」ることではないのさ
たとえばマスコミの記者だって、
「安倍のケツを、ペロペロと舐めてる」手合いがマジョリティなんだから


「行動「であり「態度」ーー、それが「大多数の人」の思考の牢獄の座標軸を
わずかでも揺り動かす可能性をもつ。

公的というより私的、言語的(シンボリック)というより前言語的(イマジナリー)、父権的というより母性的なレヴェルで構成される共感の共同体。......それ はむしろ、われわれを柔らかく、しかし抗しがたい力で束縛する不可視の牢獄と化している。それがハードな国家幻想に収束していく可能性はたしかに小さくなったかもしれないとしても、だからといってソフトな閉塞に陥らない という保証はどこにもないのである。(浅田彰「むずかしい批評」(『すばる』1988 年 7 月号

真の敵はこのソフトな閉塞の奈落の底へと吸引する
「共感の共同体」の不可視の牢獄なのでではないか。

カウンターの動きにおける「おみこしの熱狂気質」の傾斜に十分に心を配りつつ
ムラ社会の無責任性、ヒットラーが羨望したといわれる会社主義corporatism
すなわちいつのまにかそうなる「なあなあ主義」に抵抗しなくちゃな

《その国の友なる詩人は私に告げた。この列島の文化は曖昧模糊として春のようであり、かの半島の文化はまさにものの輪郭すべてがくっきりとさだかな、凛冽たる秋“カウル”であると。その空は、秋に冴え返って深く青く凛として透明であるという。きみは春風駘蕩たるこの列島の春のふんいきの中に、まさしくかの半島の秋の凛冽たる気を包んでいた。少年の俤を残すきみの軽やかさの中には堅固な意志と非妥協的な誠実があった。》(中井久夫

行為とは、不可能なことをなす身振りであるだけでなく、可能と思われるものの座標軸そのものを変えてしまう、社会的現実への介入でもあるのだ。行為は善を超えているだけではない。何が善であるのか定義し直すものでもあるのだ。(ジジェク「メランコリーと行為」『批評空間』2001 Ⅲ―1所収)

《根源的悪とは、最も極端な場合、規範を乱暴に破ることではなく、パトローギッシュな理由(感性的動因による配慮(罰の恐れ、ナルシシスティックな満足、仲間からの賞賛等々:引用者)から規範に服従することなのである。間違った理由から正しいことを行うこと、自分の利益になるから法に従うということは、たんに法を侵犯するよりもはるかに悪いことなのだ。》(同ジジェクーーデモの猥雑な補充物としての「享楽」


根源的悪とは、パトローギッシュな理由から、「安倍死ね」という罵倒を、社会的規範に反するとして批判することだ、と言っておこう。



…………

※追記:ははあ、町山氏だけでなく「リベラル」なおっちゃんがぞくぞく湧いている。


◆小田嶋隆氏と野間易通氏(2014.9.26 4.30PM前後のツイート)

@tako_ashi: 「行動もしてないヤツが文句言うなよ」てなことを言って、行動に加わってくれるかもしれない人間を敵にまわすことで、あの人たちはいったい何を達成したいのだろうか。永遠に「行動する勇気を持った少数者であるオレ」であり続けたいということなのか?
@kdxn: 「反ヘイト程度のことでいちいち誰かの運動に "加わ" らずに自分でやる人が増える事態」ですかね。客商売じゃないので。RT @tako_ashi: 行動に加わってくれるかもしれない人間を敵にまわすことで、あの人たちはいったい何を達成したいのだろうか。

@kdxn: こういうこと言う人って必ず最初の段階で大きな間違いをおかしています。RT @tako_ashi: 行動しないマジョリティーを軽蔑→主張に共通する部分があっても路線の異なるメンバーを排除→セクト化→カルト化→テロ化 まあ、一本道ですよ。

@kdxn: その「大きな間違い」とは、「行動しないマジョリティーを軽蔑」の部分で、ここは正しくは「行動しないでトンチンカンな論評ばかりやりたがるマジョリティーを軽蔑」です。単に行動しないだけの人は単に誘われたりするだけです。@tako_ashi

@kdxn: さらにもうひとつの大きな間違いは「主張に共通する部分があっても路線の異なるメンバーを排除」ってところで、そもそも排除する主体も枠組みもないのに、何から排除されるというのか。あなたたちは単に反批判されているにすぎない。@tako_ashi

@kdxn: 同じ組織の「メンバー」でもないアカの他人に単にネット上で反批判された程度のことで「セクト化→カルト化→テロ化」とか陳腐極まりないこと書くのやめてほしいです。もう飽きた。それとも「メンバー」にならないと何もできないの? @tako_ashi

ーーさあ、貴殿たちも、よーく考えてみよう 、
どちらがわれわれの社会の「悪」なのか

町山氏も小田嶋氏も相対的にいえばマジョリティに好まれている書き手なのだろう。

深遠に見せかけた挑発的な気の利いたジョークのガラクタに、道義的な義憤というスパイスを加えている(……)。真実など、ここでは重要ではない。重要なのは影響力である。これこそ今日のファストフード的な知的消費者が望んでいたものだ。道義的な義憤を織り交ぜた、単純で分かりやすい定式である。人々を楽しませ、道徳的に気分を良くさせるのだ。(ジジェク

ーーこんな書き手というべきかどうかを判断するほどには、わたくしは彼らのことを知らないが。


※参照:寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか



この〈オカマホリ〉!

@yoshimichi_bot: 私が道徳的に善いとされていることに従うのは、大多数が善いと思っていることに自分の行為を合わせたほうが、生きるのに便利だから、社会から排斥されないから、つまり快だからであり、それ以上の意味はない。(中島義道『生きるのも死ぬのもイヤなきみへ』)

――わるくない、なかなか巧みな剽窃だ。

さて、前にもいったように、実生活にとっては、きわめて不確実とわかっている意見にでも、それが疑いえぬものであるかのように従うことが、ときとして必要であると、私はずっと前から気づいていた。(……)けっきょくのところ、われわれに確信を与えているものは、確かな認識であるよりもむしろはるかにより多く習慣であり先例であること、しかもそれにもかかわらず少し発見しにく真理については、それらの発見者が一国民の全体であるよりもただ一人の人であるということのほうがはるかに真実らしく思われるのだから、そういう真理にとっては賛成者の数の多いことはなんら有効な証明ではないのだ、ということを知った。(デカルト『方法序説』)

すこしまえ次の文を拾ったのだが、こっちの「剽窃」よりもよい。

ナチスを最も熱心に支持したのは、公務員であり教師であり科学者であり実直な勤労者であった。当時の社会で最も真面目で清潔で勤勉な人々がヒトラーの演説に涙を流し、ユダヤ人という不真面目で不潔で怠惰な「寄生虫」に激しい嫌悪感を噴出させたのである。(『差別感情の哲学』中島義道)
ナチによる大量虐殺に加担したのは熱狂者でもサディストでも殺人狂でもない。自分の私生活の安全こそが何よりも大切な、ごく普通の家庭の父親達だ。彼らは年金や妻子の生活保障を確保するためには、人間の尊厳を犠牲にしてもちっとも構わなかったのだ。(ハンナ・アーレント)

二番目のほうは「剽窃」と言えるのかどうかさえ危うい。

剽窃は、自分の文に他人の文を溶け込ませてこれを消滅させようとする。希釈による掠め取りである。文体模写(パスティッシュ)は逆に他人の肉を纏って、その人に見せかける。こちらは役者の演技練習に似ている。しかしこの練習において自らが偽者であることを洩らすのは、パスティッシュの実践者ではなく、模作それ自体だ。この巧妙な文学的手管は、しかも、<文体>を模倣しようとすればするほど、気づかれやすくなる。つまり、剽窃による奪取とは違って、ジェラール・ジュネットが言うように(『パランプセスト』)、パスティッシュはつねに、これはXがYを真似たテクストであるという<契約>を暗黙の前提にしているのである。パスティッシュはなにがなんでもパスティッシュだと悟られなければならない。さもないと、著者が書いた正真正銘のテクスト、つまり手本となるテクストそのものになってしまう。(ジャン=リュック・エニグ『剽窃の弁明』)

どうも次のような気味もいささかある。

どこかで小耳にはさんだことの退屈な反復にすぎない言葉をこともなげに口にしながら、 なおも自分を例外的な存在であるとひそかに信じ、 しかもそう信じることの典型的な例外性が、 複数の無名性を代弁しつつ、 自分の所属している集団にとって有効な予言たりうるはずだと思いこんでいる人たちがあたりを埋めつくしている。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』)

…………

マンフレート・エーガーは、ニーチェを「受容の天才」と呼んでいる。最近の著書『ニーチェとバイロイトの受難劇』においては、「盗みの天才」とも。ニーチェ自身、その遺稿には、《あらゆる『創造』の九九パーセントは、音楽であれ思想であれ、模倣だ。窃盗、多かれ少なかれ意識して》とある。

ニーチェとディオニュソス : ニーチェのバッハオーフェン受容』(谷本愼介)によれば、ニーチェの『悲劇の誕生』のディオニソス賛は、バッハオーフェンの影響下で書かれている。バッハオーフェンの「バッコス的世界観」は、ニーチェによって「ディオニュソス的世界観」と書き換えられている。バッコスはもちろんディオニソスのことであり、古代ギリシャ・ローマ人たちは、深夜に得体の知れない物音が通過したら「あ、バッカス(ディオニュソス)の楽隊が通る」とした。会話の不意の途切れを「あ、天使が通る」という伝である。どの程度ニーチェが「盗み」を働いているかは、バッハオーフェンとニーチェの論文を並べつつの比較対照がなされている。

で、こういうことを書いて何を言おうとするわけでもない。

コピペはやめて優雅に置きかえなさい」、大澤真幸がジジェクを置きかけえたようにーー、などと言うつもりもない。

《自分の曲があるとすると、たぶん僕のオリジナリティは5パーセントあればいい方じゃないか。》(坂本龍一 於シンポジウム「『倫理21』と『可能なるコミュニズム』」)ーーニーチェはオリジナリティは1パーセントと言っているが、坂本龍一は5パーセントと言っている。やや不遜気味だとはいえ今は喉頭癌治療のおりでもあり許さなくてはならない。

という次第で私はここに、現代のぶよぶよの大頭ども(ロートレアモンの言葉)に向けて手短な美学を、つまり剽窃のエロティシズムを素描したいと思う。というのも、私はこれまで剽窃し、また剽窃されてきたが、この〈オカマホリ〉! とか、よくも魂を奪ったな! とか、俺の実体を盗みやがって! とか、そんなくだらないことを叫んだためしはないからである。私は他人の傘下で、他人の傾きに沿って、他人の仕立てで(縫い子が言うような意味において)それぞれの本を書いてきた。しかしそこにはまた手当たり次第、気の向くままに耽った周辺的な読書の記憶が加わっている。そうした読書のなかで私は文の断片を、ときには語を掠め取ってきたが、こんどはその掠め取った文や語のほうが、知らぬがままに行きたがっている場所へと私を引っ張っていってくれた。こうして、すでに書かれた文が、私の未来のエクリチュールになっていったのである。というのも、文章はつねにそれ固有の意味以外にも無数のことを語っていて、剽窃とはアナモルフォーズ〔意図的に歪めて描いた絵画〕の技法以外のなにものでもないのだから。(ジャン=リュック・エニグ『剽窃の弁明』)

間違っても無粋に、この〈オカマホリ〉! などと叫んではならない。

でも、《剽窃とはアナモルフォーズ〔意図的に歪めて描いた絵画〕の技法以外のなにものでもない》だって? 

それにしては素直すぎる「剽窃」が多すぎる。

たとえばつぎの文は、ひどく素直な「剽窃」か。
いや他人の肉を纏ったパスティッシュに決まっている。

そもそもわたくしがわたくしと書くとき、いつも同じわたくしであるとはどうやって確信できよう。わたくしが素直にうけいれがたく思っているのは、昨日のわたくしと今日のわたくしがあっさりと同一人物だと信じこんでしまう、人びとの信じやすさなのである。ここでは和訳すれば閉じた眼という意味の仏語が当ブログの最初の行に大きく示されているだけであり、しかもそのあとには一人称単数の場合はなかば虚構と書かれているではないか。そこにはまた海外住まいとも書かれており、たとえばわたくしはすくなくとも日常会話としては使うことの稀になった日本語を懐かしみ忘れないようにするためだけに虚構の書き手として一人称単数代名詞の「わたくし」を使ってここでの日記を日課として強制しているのかもしれぬ。他のブログやSNSでみられるような夜郎自大の「自己主張」の言葉のつらなりから遠くはなれた書き物であること、自己同一性の無邪気な確信をたやすくは共有してほしくないために、わざわざ「なかば虚構」であるという言葉が示されているのではなかろうか。また他の可能性だってかんがえられる。日本語を学びつつある息子や妻がわたくしの代りにここに日本語で書かれた文章を写経していることだってありうるのだ。そこにときおりわたくしという一人称単数単数代名詞で感想というのか見解というのかが書かれていたら、それがこのわたくしではなく彼らが書いている可能性だってどうしてかんがえられないことがありえよう。


…………

わたくしは日常会話で一人称単数代名詞を使用するときーーいまは滅多に日本語を使うことはないのだがーー、「僕」という、たまには「私〔わたし〕」と言う。たまには「俺」と言った。

ーーところで、「常用漢字音訓表」(1981年10月1日内閣告示)によれば、私の読み方は次のごとくだそうだ。

「私」の読み方として、訓の「わたくし」と音の「シ」が掲げられています。「わたし」という読み方は認められていません。「わたし」と表したいときは、ひらがな表記になります。(「私」の読み方

で、何が言いたいわけでもない。

「僕」やら「私」という一人称単数代名詞を使わないようにしているだけだ。
使用するのは、「わたくし」であったり、「オレ」であったり
--「俺」とも書かないーー
「小生」であったり、「アタシ」であったりする。

「わたくし」としたり「オレ」としたりすれば、
わずかなりとも自分との距離がとれる気になる。
元来の気質「夜郎自大」がいささかでも隠蔽できるのではないか
という「錯覚」に閉じこもり得る。

ーーというのは古井由吉のパクリさ


わたしは聴く耳をもつ者たちに警告の歌をうたってきかせる」(ヘルダーリン)より

「私」という人称を使い出したんです。……そうしたらなぜだか書けるんです。今から考えてみると、この「私」というのはこのわたしじゃないんです。この現実のわたしは、ふだんでは「私」という人称は使いません。「ぼく」という人称を選びます。この現実のわたしは、ふだんでは「私」という人称は使いません。「ぼく」という人称を選びます。だけど「ぼく」という人称を作品中で使う場合、かえってしらじらと自分から離れていくんです。(中略)

…… この場合の「わたし」というのは、わたし個人というよりも、一般の「私」ですね。わたし個人の観念でもない。わたし個人というよりも、もっと強いものです。だから自分に密着するということをいったんあきらめたわけです。「私」という人称を使ったら、自分からやや離れたところで、とにもかくにも表現できる。で、書いているとどこかでこの「わたし」がでる。この按配を見つけて物が書けるようになったわけです。 (『「私」という白道』)
「私」が「私」を客観する時の、その主体も「私」ですね。客体としての「私」があって、主体としての「私」がある。客体としての「私」を分解していけば、当然、主体としての「私」も分解しなくてはならない。主体としての「私」がアルキメデスの支点みたいな、系からはずれた所にいるわけではないんで、自分を分析していくぶんだけ、分析していく自分もやはり変質していく。ひょっとして「私」というのは、ある程度以上は客観できないもの、分解できない何ものかなのかもしれない。しかし「私」を分解していくというのも近代の文学においては宿命みたいなもので、「私」を描く以上は分解に向かう。その時、主体としての「私」はどこにあるのか。(中略)この「私」をどう限定するか。「私」を超えるものにどういう態度をとるか。それによって現代の文体は決まってくると思うんです。 (古井由吉『ムージル観念のエロス』)

どうだい、そこの「夜郎自大」くん。
試してみたらどうだい?
はしたない自意識の尻尾がすこしは隠せるかもしれないぜ

私は、「私」という語を口にするたびに想像的なもののうちにいることになる。(ロラン・バルト『声の肌理: 1962-1980年の対談集』)

ツイート削除癖のある貴君たちの繊細さは認めるよ

(私はきのう書いたことをきょう読み直す)、印象は悪い。それは持ちが悪い。腐りやすい食物のように、一日経つごとに、変質し、傷み、まずくなる。わざとらしい《誠実さ》、芸術的に凡庸な《率直さ》に気づき、意気阻喪する。さらに悪いことに、私は、自分では全然望んでいなかった《ポーズ》を認めて、嫌気がさし、いらいらする。(痛みやすい果実

最近、記憶力減退が目立ってきたな
「腐りやすい果実」で検索してしまってなかなか見つからなかったのだな
でもそれはそれでいいさ
思いがけない果実に行き当たることが出来る場合もあるから。

ロマン主義的なるものとはこの世のなかでもっとも心温まるものであり、民衆の内面の感情の深処から生まれた、もっとも好ましいもの自体ではないでしょうか?疑う余地はありません。それはこの瞬間までは新鮮ではちきれんばかりに健康な果実ですけれども、並みはずれて潰れやすく腐りやすい果実なのです。適切な時に味わうならば、正真正銘の清涼感を与えてくれますが、時を逸してしまうと、これを味わう人類に腐敗と死を蔓延させる果実となるのです。ロマン主義的なるものは魂の奇跡です―― 最高の魂の奇跡となるのは、良心なき美を目にし、この美の祝福に浴したときでありましょうが、ロマン主義的なるものは、責任をもって問題と取り組もうとする生に対する善意の立場からすれば、至当な根拠から疑惑の目で見られるようになり、良心の究極の判決に従って行う自己克服の対象となってまいります。(トーマス・マンーー1924 ニーチェ記念講演)

さてなんの話だったか
「つけひげ」の話だな
一人称単数代名詞などに過敏になっても
どうせ「つけひげ」ははがれちまうかもな

私は、発表のはじめに、大きなつけひげをつける。しかし、私自身のパロールの波(……)に少しずつひたされて、私はひげが皆の前でぼろぼろとはがれていくのを感ずる。何か《洒落た》考察によって聴衆をほほえませるや否や、何か進歩主義的な常套句で聴衆を安心させるや否や、私はこうした挑発の迎合性を感ずる。私はヒステリー的欲動を遺憾に思う。遅まきながら、人に媚びる言述よりいかめしい言述の方が好ましく思われ、ヒステリー的欲動を元に戻したいと思う(しかし、逆の場合には、ヒステリー的に思えるのは、言述の《厳しさ》の方である)。実際、私の考察にある微笑が応じ、私の威嚇にある賛意が応じると、私は、ただちに、このような共犯の意思表示は、馬鹿者か、追従者によるものと思い込む(私は、今、想像上の過程を描写しているのだ)。反応を求め、つい反応を挑発してしまう私だが、私が警戒心を抱くには、私に反応するだけで十分である。

そして、どのような反応をも冷まし、あるいは、遠ざけるような言述を続けていても、そのために自分が一層正確である(音楽的な意味で)とは感じられない。なぜなら、そのときは、私は自分のパロールの孤独さを自賛し、使命を持った言述(学問、真理、等)というアリバイをそれに与えなければならないからである。(ロラン・バルト「作家・知識人・教師」『テクストの出口』所収)

おのれの発話が他人にウケてしまったとき
つまり、「何か《洒落た》考察によって聴衆をほほえませ」てしまったとき
なにか莫迦なこと言ったんじゃないか、あれは媚態だったんじゃないか、
雄鶏のマネやったんじゃないか
 《coquet という語がある。この語は coq から来ていて、一羽の雄鶏が数羽の牝鶏に取巻かれていることを条件として展開する光景に関するものである。すなわち「媚態的」を意味する》(九鬼周造)

ーーなどと疑念をいささかも抱かない厚顔無恥な輩
ばかりが棲息するネット上の発話には馴染み過ぎるなよ

わたくしは、もともと一人称単数を主語とした文章を書くのが苦手で、『ゴダール マネ フーコ― 思考と感性とをめぐる断片的な考察』で一箇所だけ「わたくし」と書いたほかは、一人称単数を主語とした文章だけは書くまいとして、日本語の慣行と真正面から向かいあうのを避けてきました。古井由吉さんの小説を読むと、一人称単数を主語とした文章を避けようとする姿勢がけしからんと思うほど見事で、思わずため息がでてしまう。( 蓮實重彦+川上未映子対談

ーー厳密に言えば、これはそうではないのだけれど、まあそれはそれでいいさ。

《わたくしは、と、いまこの文章を綴りつつあるものは「作者」たることを怖れずに自分自身をあえて一人称単数の代名詞で呼ぶことにする。……》(『物語批判序説』)

一人称単数?
いや二人称単数や三人称だってヤバイ、「貴君」とか「彼」、「彼女」のね

人称代名詞と呼ばれている代名詞。すべてがここで演じられるのだ。私は永久に、代名詞の競技場の中に閉じこめられている。「私〔je〕」は想像界を発動し、「君〔vous〕」と「彼〔il〕」は偏執病を発動する。……『彼自身によるロラン・バルト』)

前回、このように引用したのだけれど

どこにいようと、彼が聴きとってしまうもの、彼が聴き取らずにいられなかったもの、それは、他の人々の、彼ら自身のことばづかいに対する難聴ぶりであった。彼は、彼らがみずからのことばづかいを聴きとらないありさまを聴きとっていた。

しかし彼自身はどうだったか。彼は、彼自身の難聴ぶりを聴き取ったことがないと言えるのか。彼は、みずからのことばづかいを聴き取るために苦心したのだが、その努力によって産出したものは、ただ、別のひとつの聴音場面、もうひとつの虚構にすぎなかった。(『彼自身によるロラン・バルト』)

このあと次のように続くのだな

だからこそ、彼はエクリチュールに自分を託す。エクリチュールとは、《最終的な返答》をしてみせることをあきらめた言語活動のことではないか。そして、他人にあなたのことばを聴き取ってもらいたいという願いをこめて、自分を他人に任せることによって生き、息をする、そういう言語活動ではないか。(『彼自身によるロラン・バルト』)

エクリチュールというのは修業がいるからねえ
オレには手強いな

彼はいかなる点においても、自分の書物を述語とする主語にはならない。(『作者の死』)
作者、語り手、主人公のいずれを指すのか決定し難い一人称代名詞《私》を用いた独特な言表行為(「マガジーヌ・リテレール」誌〔1979年1月〕のプルースト論)
エクリチュールによって私は、きびしい除外作用に支配されることを余儀なくされる。それは、エクリチュールによって私が世間の常用の(「民衆の」)ことばづかいから分け距てられてしまう、という理由のみによるのではない。もっと本質的な理由は、エクリチュールが私に「自分を表現する」ことをさまたげるというところにある。だいいち、エクリチュールは《誰か》を表現しうるものだろうか。主体の非固形性、そのアトピー〔場所を問わないこと〕を裸かにしてさらし、想像界の疑似餌を撒きちらすことによって、それは、叙情表現(中心的な「心の動揺」をあらわす語法として)いっさいをなりたたなくさせてしまう。エクリチュールは、乾いた、禁欲的な、およそ心情の吐露といったもののない、享楽である。(『彼自身によるロラン・バルト』)

一時期有名になり過ぎた「引用の織物」もいまでは引用しておくべきか

テクストとは、無数にある文化の中心からやってきた引用の織物である。プヴァールとペキッシュ、この永遠の写字生たちは崇高であると同時に喜劇的で、その深遠な滑稽さはまさしくエクリチュールの真実を示しているが、この二人に似て作家は、常に先行するとはいえ決して起源とはならない、ある〔記入の〕動作を模倣することしかできない。彼の唯一の権限は、いくつかのエクリチュールを混ぜあわせ、互いに対立させ、決してその一つだけに頼らないようにすることである。仮に自己を実現しようとしても、彼は少なくとも、つぎのことを思い知らずにはいないだろう。すなわち、彼が《翻訳する》つもりでいる内面的な《もの》とは、それ自体完全に合成された一冊の辞書にほかならず、その語彙は他の語彙を通して説明するしかない、それも無限にそうするしかないということ。(ロラン・バルト『作家の死』) 

ーーとすればエクリチュール至上主義のように思われるかもしれないから
長くなるがやっぱりネット上ではつけ加えておかなくちゃならない

・『作家の死』を書くという曖昧さと浅く戯れているが故に犯さざるをえない軽率さは、それじたいが浅さの美徳につながるバルトの最大の魅力を構成する。だから、こうした軽率さをいたるところに指摘してまわり、そのことでバルトの理論的な欠陥を批判したつもりになることほど滑稽な振舞いもまたとないだろう。それは、自分を「作者」として登録せずにはいられない「批評家」の、コードへの執着を露呈するのみである。また、バルトに倣って、「作者」はいまや死に絶え、白々とした地平に拡がり出すエクリチュールの時代が始まっていると主張するのも愚かなことだろう。それは二重の意味で愚かな主張である。まず、「作者」はいつでも存在可能だし、エクリチュールもまたつねに存在しているからだ。バルトは、エクリチュールの支配を深く確信してなどいはしない。ごく浅く、それを遊戯に導入してみる楽しみを提案しているまでにすぎない。そもそも、かつて「作者」が支配したようにこんどはエクリチュールの支配する時代が到来するなどといったことが起ろうはずもないのである。支配しないことこそが、エクリチュールのあり方にほかならぬからだ。

・人がエクリチュールに言及しうるのは、それがごく浅い環境として存在と触れあっているからにすぎない。かりに、エクリチュールなるものが濃密な環境として文学の全域に充満していたなら、バルトは間違いなく『作者の死』ではなく『エクリチュールの死』を書いていたことだろう。それは文学の未来を約束する絶対的な善なのではなく、それとごく浅く戯れることでかろうじてコードの「《裏をかく》」ことがありえるかもしれぬ虚構の楽しみの一つなのである。バルトはただ、「作者」を確信する人びとにこの楽しみの共有を慎ましく提起しているのだが、それとて深い意図からでたものではあるまい。

・足首のところまではコードに浸り、いくぶんか「作者」の役を演じ、しかも深みへの埋没をおのれに禁じつつ遊戯を演じつづけようとするとき、その曖昧な虚構をどこまでも維持するために必然的に分泌する汗のようなものとして、軽率さが存在の表皮を保護することになる。(蓮實重彦『物語批判序説』)

ところで次の文を読んでみよう。

長いこと、バルトについて語ることを自粛していた。パリ街頭での自動車事故で呆気なく他界してから、その名前を主語とする文章をあえて書くまいとしてきたのである。いきなり視界にうがたれた不在を前にしての当惑というより、彼自身の死をその言葉にふさわしい領域への越境として羨むかのような文書を綴ったのが一九八〇年のことだから、もう二五年の余も、バルトを論じることなくすごしていたことになる。とはいえ、その抑制はあくまで書くことの水準にとどまり、バルトを読むことの意欲が衰えたことなどあろうはずもない。(蓮實重彦「バルトとフィクション」

上の『物語批判序説』は、一九八五年に上梓されており(この箇所の初出は『海』昭和五十九年三月号)、ここでは厳密に言わなくても、「バルトとフィクション」に書かれた言葉は「嘘」であることが知れる。

で、「嘘」が多い人ね、蓮實さんって、ーーなどとは言わないでおこう、「はったり」屋? そんなことはとっくの昔からわかってる。《知ったかぶりさえできないのはまあ批評のプロじゃないよ》(『闘争のエチカ』P144)

とはいえ、そもそも文章にどうして「嘘」を書いていけないというのか?

ここでまた余談になるが、「野球」評論において、一世を風靡した謎の覆面野球評論家「草野進」女史が実は蓮實重彦のペンネームであったのではというのはそれなりの信憑性のある噂であろう。

・三塁打は今日のプロ野球にあって一つの不条理であるが故にその存在理由があるのだ。

・権利としての走塁を阻止する送球の殺意が試合をおもしろくする。

・セーブはどこか堕胎を思わせて不愉快である。

・爽快なエラーはプロ野球に不可欠の積極的プレーである。

(『世紀末のプロ野球』角川文庫より)

この勇ましい「女性」の言葉と、次のように言う「後期高齢者」のぼやきに同じひとの語りを見ないのは難しい。

「国民や国の期待を背負うと、どれほどスポーツがスポーツ以外のものに変化していくか。それを見せつけられた何とも陰惨なW杯でした。サッカーとは本来『ゲーム』であり、運動することの爽快感や驚きが原点のはずですが、W杯は命懸けの『真剣勝負』に見えてしまう。お互いもう少しリラックスしなければ、やっている選手もおもしろいはずがないし、見ている側も楽しめない」(インタビュー)W杯の限界 仏文学者・蓮實重彦さん 2014.7.19)

ーーで、やっぱり最近の若い人は「真面目で行儀よくて誠実」すぎるんじゃないかい?

…………

ところで、「賞賛」されると、照れてしまうタイプのひとがいるのであって
下手な称賛は慎むべきなのだろうな

賞讃の効果。 ――ある人たちは、大きな賞讃によってはにかみ、他の人たちは、あつかましくなる。(ニーチェ『曙光』 525番)

このあたりも「繊細さ」の問題さ、わかるかい、お嬢さん?

称賛することには、非難すること以上に押しつけがましさがある。(ニーチェ『善悪の彼岸』 170番)
思い上がった善意というものは、悪意のようにみえるものだ。(『善悪』 184番)

このところ喋りすぎだな
貴嬢貴君の病気がうつったかな
デュラスは「書くことは語らないこと」っていっているわけだしさ
ツイッターやらブログやらはどうしても「語る」ことになりがちなのさ

全然黙っているっていうのも悪くないね
つまり管弦楽のシンバルみたいな人さ
一度だけかそれともせいぜい二度
精一杯わめいてあとは座っている

ーー谷川俊太郎「夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった」より