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2014年9月16日火曜日

若い人は「真面目で行儀よくて誠実」

増田聡@smasuda · いまの若い人は昔よりもほんまにものすごくずっと真面目で行儀よくて誠実ですよ。でもさあ真面目で行儀よくて誠実な人ばかりが増えてそれが当然になってしまうと世の中ほんまに悪くなるねん。これについては繰り返し言うとかんと死ぬに死にきれない
千葉雅也@masayachiba · 増田さんの言う通りだと思う。

――で、なんで若い人は「真面目で行儀よくて誠実」になったんだろ?

それを問わなかったら、
嘲笑気味に応じたのと同じたぐいの憂き目にあうんじゃないかい?

東浩紀氏の「憐れみの海」なんてのも、
「憐れみ」がなぜ生れるのかを問わないといけないのと同様。
《「憐れみの海」の中で息をつける者は幸福だ》であるなら
あそこで留まっていられるのは幸福な学者たちだな
ーーわかってるよ、ツイッターというのはそういう場でないのはさ

この増田聡っておっちゃん、ほどよく気のきいたツイートをときにするんだな、
ときたまリツイートで流れてくるんだけど、なんだか胡散臭いにおいがするぜ

@smasuda: 「正義欲」というものがある。無関係の他人の振舞いをみて「こんな不正をしてけしからん」「こんな下劣なことをしてけしからん」と正義の怒りに身を任せる快楽に浸りたい欲望である。人々の正義欲を刺戟するビジネスを「下劣でけしからん」と思うのならば正義欲の発露はほどほどにしとくのが吉
@smasuda: 「ツイッターはインテリのパチンコ」って誰が言ったんだっけ。あれは名言だったな。政治家やマスコミの人の中にはパチンコ玉やなくて実弾やとおもいこんでる人もいますが所詮は危ないおもちゃでしかないよな

――なあ、なかなかいいこというじゃん
で、冒頭のツイートも反「正義欲」の仮装を纏った
インテリのパチンコであることは自覚的なんだろうよ

そもそも大量にRTされる言葉ってのは
阿呆向けの言葉じゃないかって疑ったほうがいいぜ
すくなくともロラン・バルトのような繊細さは
毛筋ほども感じられないおっちゃんだな

何か《洒落た》考察によって聴衆をほほえませるや否や、何か進歩主義的な常套句で聴衆を安心させるや否や、私はこうした挑発の迎合性を感ずる。私はヒステリー的欲動を遺憾に思う。遅まきながら、人に媚びる言述よりいかめしい言述の方が好ましく思われ、ヒステリー的欲動を元に戻したいと思う(しかし、逆の場合には、ヒステリー的に思えるのは、言述の《厳しさ》の方である)。実際、私の考察にある微笑が応じ、私の威嚇にある賛意が応じると、私は、ただちに、このような共犯の意思表示は、馬鹿者か、追従者によるものと思い込む(私は、今、想像上の過程を描写しているのだ)。反応を求め、つい反応を挑発してしまう私だが、私が警戒心を抱くには、私に反応するだけで十分である。

そして、どのような反応をも冷まし、あるいは、遠ざけるような言述を続けていても、そのために自分が一層正確である(音楽的な意味で)とは感じられない。なぜなら、そのときは、私は自分のパロールの孤独さを自賛し、使命を持った言述(学問、真理、等)というアリバイをそれに与えなければならないからである。(ロラン・バルト「作家・知識人・教師」『テクストの出口』所収)


すぐ共感を生む言葉など、
いずれ誰かが口にすべき言葉として予定に組みこまれていたもので、
それはあからさまに言明されることはなくとも、
そうした見解が主張されて何の不思議でもない文脈が用意されていて、
それにふさわしいきっかけが与えられれば
たちどころに顕在化するはずの「思いつき」の呟きなんだな

――というのは蓮實重彦のパクリだが。

(サルトルの)『大戦の終末』はきわめて素直な文章だといえるかもしれない。素直な、というのは誰かに教えこまれたのでもないのに、昔からひそかにくりかえし暗記していた台詞が、ふと口から漏れてしまったような印象を与えるからだ。事実、人間の死の予言は、神の死という言葉が流通しうる文化的な圏域にあっては、いずれ誰かが口にすべき言葉として予定に組みこまれていたもののはずである。あからさまに言明されることはなくとも、そうした命題が論じられて何の不思議でもない文脈が用意されていたのであり、それにふさわしいきっかけが与えられればたちどころに顕在化するはずの、潜在的な主題でさえあったといえるだろう。(蓮實重彦『物語批判序説』)

蓮實重彦にかかったらサルトルでさえこういう批判にあってしまうのであり、
増田さんは当然サルトル以下の人間であろうから
ああいったほどよく聡明なツイートを撒布してればいいさ

彼は《聡明さのみならず、ある大胆さと、そしておそらくはいくぶんかの通俗性にも恵まれていたので、誰よりもさきに予定されていた言葉を口にしてしまったのである》(同蓮實)

さあてなんの話だったか?
若い人は「真面目で行儀よくて誠実」だったな
オレは「ほどよい聡明さ」以下だから誰かの言葉をパクるしかないさ
でみなさんがやっているように原文を
優雅に要約」して自分の見解として書くのもなんだから
ジジェクの引用で済ませておくよ

やっぱエディプスの斜陽のせいなんだよ
象徴的権威の没落のせいさ

今日の世界が「<エディプス>の斜陽」(父性的な象徴権威の弱体化)の時代であると叫ばれるとき、その批判の内実が何を指しているのかを問えば、答えはまさに、「全体主義」国家の政治的<指導者>像から、自分の娘へのセクシャル・ハラスメントに手を汚す父親像まで、「原初の父」の論理に従って機能する人物像への回帰現象となるのである――それは、なぜか?「穏やかな顔」を覗かせる象徴の権威が機能不全に陥ってしまったとき、先細りする欲望が中途で頓挫する事態を回避する、つまり、本性的な欲望の不可能性を隠蔽する唯一の方法として残されているのは、欲望が達成できない根本原因を、原初の享楽者を意味する専制的な人物像に特定することなのだ。われわれが愉しむことができないのは、あの男が享楽の一切合切を独り占めしてしまうからに他ならないから、と……。(ジジェク『厄介なる主体』)

こんなこといっても象徴的権威は取り返しようがないのだから
――たとえばフェミニストの皆さんのせいでさ
オレは反フェミではないつもりだが
あの連中のナイーブさだけはなんとかならないものだろうかね


…抑圧的な権威の没落は、自由をもたらすどころか、より厳格な禁止を新たに生む。この逆説をどう説明するのか。誰もが子供の頃からよく知っている状況を思い出してみよう。ある子が、日曜の午後に、友だちと遊ぶのを許してもらえず、祖母の家に行かなくてはならないとする。古風で権威主義的な父親が子供にあたえるメッセージは、こうだろう。

「おまえがどう感じていようと、どうでもいい。黙って言われた通りにしなさい。おばあさんの家に行って、お行儀よくしていなさい」。

この場合、この子の置かれた状況は最悪ではない。したくないことをしなければならないわけだが、彼は内的な自由や、(後で)父親の権威に反抗する力をとっておくことができるのだから。「ポストモダン」の非権威的主義的な父親のメッセージのほうがずっと狡猾だ。

「おばあさんがどんなにおまえを愛しているか、知っているだろう? でも無理に行けとはいわないよ。本当にいきたいのでなければ、行かなくていいぞ」。

馬鹿でない子どもならば(つまりほとんどの子供は)、この寛容な態度に潜む罠にすぐ気づくだろう。自由選択という見かけの下に潜んでいるのは、伝統的・権威主義的な父親の要求よりもずっと抑圧的な要求、すなわち、たんに祖母を訪ねるだけでなく、それを自発的に、自分の意志にもとづいて実行しろという暗黙の命令である。このような偽りの自由選択は、猥雑な超自我の命令である。それは子供から内的な自由をも奪い、何をなすべきかだけでなく、何を欲するべきかも指示する。(ジジェク『ラカンはこう読め!』「神は死んだが死んだことをしらない」章より)

《抑圧的な権威の没落は、自由をもたらすどころか、
より厳格な禁止を新たに生む》
若者から、《内的な自由をも奪い、
何をなすべきかだけでなく、
何を欲するべきかも指示する》

ほとんどすべてはここさ
もっとももう少しつけ加えて
大学人の踊る音楽「新自由主義」を想起してもいいがね

ーーというわけで胡散臭い言葉に反応的に書けば
胡散臭い文になるぜ
まあたまには「似非インテリのパチンコ」もいいだろ
昼食後のはらごなしにさ

…………

追記:ひとつ抜けてたな

《でもさあ真面目で行儀よくて誠実な人ばかりが増えてそれが当然になってしまうと世の中ほんまに悪くなるねん》ってどうしてだろ?

「真面目で行儀よくて誠実な人」ばかりが増えたらどうしていけないんだろ?

蓮實) エリート教育をやったほうが、 左翼は強くなるんですよ。 エリートのなかに絶対に左翼に行くやつが出るわけですよね。

(……)ところがいまは、エリート教育をやらないで、マス教育をやって、何が起こるかというと、体制順応というほうに皆行っちゃうけどね(『闘争のエチカ』柄谷行人との対談)

ーーと語る蓮實重彦が「闘争」してきたかというと、
どうだったかな、さーてな
90年代のはじめころから
《個人的に妙に忙しくなったり、老後の設計ミスがいろいろあったりして》
なんて言っているけど
やっぱこのおっちゃんも胡散臭いよな
《老後の設計ミス》なんてのは「権力欲」の発露の言い訳かもな





ーーと写真を貼り付けたところで思い出したんだが
蓮實重彦の息子の作曲家蓮実重臣さんってのはいい男だねえ
なんで息子の苗字は「蓮實」じゃなくて「蓮実」になってんのかわかんねえけど





《映画『私は猫ストーカー』の音楽で第64回毎日映画コンクール音楽賞を受賞した》だってさ
黒沢清の作品にも音楽つけてるらしい

さて話がひどく逸れたが
いずれにせよ「偽善」も必要さ
偽善のすすめ」だね

柄谷)偽善者は少なくとも善をめざしている…。

浅田)めざしているというか、意識はしている。

柄谷)ところが、露悪趣味の人間は何もめざしていない。

浅田)むしろ、善をめざすことをやめた情けない姿をみんなで共有しあって安心する。日本にはそういう露悪趣味的な共同体のつくり方が伝統的にあり、たぶんそれはマス・メディアによって煽られ強力に再構築されていると思いますね。

胡散臭さに《騙されない人は彷徨うLes non-dupes errent》んだよ
確固たる現実しか信じようとしない冷笑者(シニック)がつまずくのはここだね
オレかい?
根っからのシニックさ