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2014年5月8日木曜日

五月八日 「あんた日本人でしょ、あたしの人生返して!」

ーー「もう一度、17歳のときの青春に戻して」(金学順)
――I lost my lifeTeng-Kao Pao-Chu

……社会構築主義者は、また、元従軍慰安婦の運動を支持する多くの知識人も、民族と国民は想像的に構築された所産にすぎないからということで、また、ナショナリズムの再興に加担することになるからということで、日本人としての責任に疑義を呈した。

 これに対して、徐京植(Suh Kyung Sik)は、『半難民の位置から――戦後責任論争と在日朝鮮人』(影書房、2002)で、社会構築主義者の上野千鶴子に対して、こう反論した。「上野氏は「国民」というのは「わたし」を作り上げているさまざまな関係性のひとつにすぎないとして、「単一のカテゴリーの特権化や本質化」を拒絶すると述べている。上野氏と同じように、「日本人」というのは自分を構成する多面的なアイデンティティーの一側面にすぎない、と多くの日本人がことさらに言う。そんなことは当然ではないか。私にとっても、「韓国人」というのは「私」の一側面にすぎない。だが、ある集団の他の集団に対する加害責任が問題となっているこの場では、「あなた」という存在の、逃れようのない一側面が名指しを受けているのである」(p.80)。

また、李順愛(イ・スネ)は、『戦後世代の戦争責任論』(岩波書店、1998)で、こう追及した。「朝鮮人が朝鮮人であることを、また、在日朝鮮人が朝鮮人であることを、いやがおうでも意識させ骨身にしみさせたのは日本人だった。他の民族意識を刺激しておいて、問題は未解決のまま、その当の日本のインテリは「日本人であること」「日本国民であること」を知的・観念的に否定してみせるのである」。(小泉義之「他者のために生きる」

この種の、すなわち上野千鶴子が応答したのと似たようなことを、われわれは言い勝ちなのであって、それはなにも「社会構築主義者」であるからだけではない。だが、《国家が国家であるのは、外部に国家があるからですね。》(柄谷行人『闘争のエチカ』)であるとするなら、日本人が日本人であるのは、外国人があるからだ。韓国人からあなたたち日本人はわたしたちになんということをしたのだ、と言われたとき、この日本人という「名指し」からどうして逃れられよう。(多血質な、そして堅固な意志と非妥協的な誠実さの民から、曖昧模糊とした気質、世間の動向を気にして「空気」を読みながら行動する「根回し」の民への糾弾という面をも忘れないでおこう)。

そもそも社会構築主義とはなんだって?  

歴史の「真実truth」や「事実fact」が実在するのではなく、ただ特定の視角からの問題化による再構成された「現実reality」があるだけである。すべての歴史 叙述が現在から構築されたものであることを認めたうえで、文書中心主義的実証主義から離脱しなくてはならない。(上野千鶴子編 『構築主義とは何か』 勁草書房

この程度のことを言うのに(いやこれだけでもないのだろうが)、堅苦しい言葉を使うものだ。どうも社会学の概念は、仲間同士の隠語のように聞こえてしまう。と書けば冥府から懐かしい声がしてくる。

池内紀)去年だったかな。『朝日新聞』の書評委員会で、書名をずっと読み上げるでしょう。それで『社会学は何ができるか』という書名が読み上げられたとき、須賀さんがはっきり通る声で、すぐ合いの手を入れた。「何もできない」って(笑)。ぼくもずっとそう思っていたんだけれども勇気がなかったからいえなかった。前に社会学の先生が二人おられたし……(笑)(『追悼特集 須賀敦子』河出書房新社1998)

で、なんの話だったか。ーー「社会構築主義」などという言葉に引っかかってしまったが、どうやらそれはトーマス・クーンの「パラダイム」概念が出自のひとつのようだ。

クーンらに代表される近年の科学史家は、観察そのものが「理論」に依拠していること、理論の優劣をはかる客観的基準としての「純粋無垢なデータ」は存在しないことを主張する。すなわち、経験的データが理論の真理性を保証しているのではなく、逆に経験的データこそ一つの「理論」の下で、すなわち認識論的パラダイムの下で見出される。(柄谷行人『隠喩としての建築』ーー「人間的主観性のパラドックス」覚書

さて元に戻れば、たとえば「慰安婦」問題ではなく、もっと大きく戦争責任を問われたとする。

「あんた私の祖国に土足で上がりこんでさんざん荒らした日本人なのね」

ーー私はそのとき生まれてなかったんだから、日本人って言われたって関係ないよ、と応じたくなるところだ。

生まれる前に何が起ころうと、それはコントロールできない。自由意志、選択の範囲はないのです。したがって戦後生まれたひと個人には、戦争中のあらゆることに対して責任はないと思います。しかし、間接の責任はあると思う。戦争と戦争犯罪を生み出したところの諸条件の中で、社会的、文化的条件の一部は存続している。その存続しているのものに対しては責任がある。もちろん、それに対しては、われわれの年齢の者にも責任がありますが、われわれだけではなく、その後に生まれた人たちにもは責任はあるのです。なぜなら、それは現在の問題だからです。(加藤周一「今日も残る戦争責任」『加藤周一 戦後を語る』所収)  

加藤周一は《戦争と戦争犯罪を生み出したところの諸条件の中で、社会的、文化的条件の一部は存続している。その存続しているのものに対しては責任がある》としている。この「存続している」ものは何だろう。

加藤周一は,こう問うた。

2003年3月20日に開始されたイラク戦争に対する,日本とドイツの政府の態度がおおきく異なったのは,なぜか。

ドイツは参戦を拒否し,日本は平和だろうと戦争だろうとアメリカのあとにしたがう。ドイツは「ヒトラーに臣従した過去」を徹底的に批判し,いまや「アメリカの権力にも権威にも臣従しようとしない」国である。それにくらべ日本は,かつては「臣民にすぎなかった過去」から真に訣別しなかったゆえ,「国民が主権を保持する国」となったいまでも、「昔を懐かしみ和を貴しとする」以外に批判精神を研ぎすますことがすくない)。bbgmgt-institute.org/Ronsou12.pdf

ある時期までのマスコミは《戦時中の自分たちの振る舞いについていままで何度も反省し、それをこれ見よがしに公表し、総括を行ってきたはずだった》し、学者たちもそれを教壇で教えてきたはずだった。いまはそれも滅多にみられない。であるならよりいっそう冒頭の糾弾から逃れるわけにはいかない。(先ほど引用した文に引き続き、小泉義之氏はすこし異なった形で、――日本人の「無限責任」としてーー語っているのだが、この「無限責任」の議論のいくらかは、「「慰安婦」、あるいは支配的イデオロギー」を見よ)。

…………

以下、別に投稿しようと思ったがここに附記。

ガヤトリ・スピヴァックは「ポストコロニアリティとは強姦によって生れた子どもである」という言い方をしています。強姦自体はどんなことがあっても正当化されない。しかし、子どもができてしまった場合は、その子どもを排除してはならないという意味です。この言葉自体を、誰が、どこにアクセントを置いて、どういうふうに言うかで、まさに発話の位置が問われるような言葉だと思います。スピヴァックは直接にはインドの言語状況における英語のプレゼンスについて語っているのですが、これが現実の植民地状況で、今なお起きている事態であり、単なるメタファーとして言っているのではないでしょう。(鵜飼哲 共同討議「ポストコロニアルの思想とは何か」『批評空間』Ⅱ 11-1996)

《ポストコロニアリズムの 「ポスト」は、コロニアリズムが終わったという意味ではない。(……)一般の意識においては過去とみなされていながら現代のわれわれの社会性や意識を深く規定している構造、それをどう考えるのか、それとどう向き合っていくべきかという問題提起が、この接頭辞には含まれている。》(鵜飼哲『〈複数文化〉のために』 )


◆ポストコロニアリズム 犬飼太介より www.diced.jp/~genbun/event/pdf/1999kouen_inukai.pdf

アメリカ大陸という女性 コロンブスは自身の航海誌において土着の民は<女も、母親が産んだ時と同じ状態の裸で歩いております>という一文を記録している。この<部分的記述>が帝国主義イデオロギーによって<全体の物語に仕立て上げ>られてしまった。<イデオロギーは部分を、当然の「常識」や「自然」として、ときには「現実それ自体」として表現することによって、これを成し遂げる>。 ここにおいて新大陸アメリカは往々にして男性侵略を待ち受ける裸の女として表象され、「処女地」という単一像がヨーロッパのために産出される。 そして裸のアメリカは着衣し武装したヨーロッパにレイプされる。

鵜飼哲は、「ポストコロニアリティとは強姦によって生れた子どもである」について《誰が、誰が、どこにアクセントを置いて、どういうふうに言うかで、まさに発話の位置が問われるような言葉》としているが、たとえば、強姦した主体が言う場合と、強姦された主体が言う場合があるだろう。前者は場合によっては、「吐き捨てるように」言うことがあるかもしれない。強姦した主体が「真に」反省して発話すれば、それはたちまち無限責任の領域の話になってくる。

逆に強姦された主体は、「従軍慰安婦」としての〈私〉の現在のあり様を、植民地主義という強姦によって生れた子どもという言い方をすることがあるのかもしれない。とすれば世界中に、たとえば上にあるようにアメリカ先住民の現在の土地返還の訴えも、この「強姦によって生れた子ども」の文脈で語ることができる。だがアクセントによって、誰がいうかによって、ひとをひどく傷つける言葉であることを念頭に置かなければならない。そのことの微妙さをも鵜飼氏は語っているのだろう。

「従軍慰安婦」問題は日本国家の問題ではあるが、それが日本国家だけの問題ではない、という認識は、世界的に共有されつつある。それはまさしく近代国民国家の「性の政治」の最もおぞましい極限態であり、女性を分断しつつ暴力的に支配、搾取してきた近代国民国家の男根主義の象徴なのである。

それはまた、近代国民国家の植民地主義、人種間闘争、自民族中心主義、民族浄化政策の無惨な帰結である。これらは欧米中心的世界システムの中で、巧妙に隠蔽されてきたし、支配体制側の歴史からは抹殺されていた。こうした近代国家の恥部を白日の下に晒したのが、ナチスドイツであり、日本国家である。(大越愛子「「従軍慰安婦」問題のポリティクス」『批評空間』Ⅱ 11-1996)

…………

冒頭のような告発、すなわち欲しても取り返しようのない不可能な願いをしてもよいのか、という疑義はあるかもしれない。また過去の同じような不幸があっても、そのように語らない人もいるだろう。心的外傷という側面を除いて言っても、あのように発話した当時、当人は「不幸」だったのではないかとも憶測される。

(一般に)過去を変えることは不可能であるという思い込みがある。しかし、過去が現在に持つ意味は絶えず変化する。現在に作用を及ぼしていない過去はないも同然であるとするならば、過去は現在の変化に応じて変化する。過去には暗い事件しかなかったと言っていた患者が、回復過程において楽しいといえる事件を思い出すことはその一例である。すべては、文脈(前後関係)が変化すれば変化する。(中井久夫「統合失調症の精神療法」『徴候・記憶・外傷』所収)

遡及的な外傷という言い方もある。《自分の象徴的世界の行き詰まりを打開するために、遡及的に外傷化され、外傷的な<現実界>にまで引き上げられた。》(ジジェク

だがこのようなことは、面と向かっては言い難い。また当事者の実践的態度のあるべき姿というのは、理想的にはニーチェの『運命愛」なのかもしれないが、これも、そうあれ! とは要請し難い。

「然り」〔Ja〕への私の新しい道。--私がこれまで理解し生きぬいてきた哲学とは、生存の憎むべき厭うべき側面をみずからすすんで探求することである。(中略)「精神が、いかに多くの真理に耐えうるか、いかに多くの真理を敢行するか?」--これが私には本来の価値尺度となった。(中略)この哲学はむしろ逆のことにまで徹底しようと欲するーーあるがままの世界に対して、差し引いたり、除外したり、選択したりすることなしに、ディオニュソス的に然りと断言することにまでーー(中略)このことにあたえた私の定式が運命愛〔amor fati〕である。(『権力への意志』原佑訳)
ニーチェは『道徳の系譜学』や『善悪の彼岸』において、道徳を弱者のルサンチマンとして批判した。しかし、この「弱者」という言葉を誤解してはならない。実際には、学者として失敗し梅毒で苦しんだ二ーチェこそ、端的に「弱者」そのものなのだから。

彼が言う運命愛とは、そのような人生を、他人や所与のせいにはせず、あたかも自己が創り出したかのように受け入れることを意味する。それが強者であり、超人である。が、それは別に特別な人間を意味しない。運命愛とは、カントでいえば、諸原因(自然)に規定された運命を、それが自由な(自己原因的な)ものであるかのように受け入れるということにほかならない。それは実践的な態度である。

ニーチェがいうのは実践的に自由な主体たらんとすることにほかならず、それは現状肯定的(運命論的)態度とは無縁である。ニーチェの「力への意志」は、因果的決定を括弧に入れることにおいてある。

しかし、彼が忘れているのは、時にその括弧を外して見なければならないということである。彼は弱者のルサンチマンを攻撃したが、それを必然的に生みだす現実的な諸関係が存することを見ようとはしなかった。すなわち、「個人は、主観的にはどれほど諸関係を超越していようと、社会的にはやはり諸関係の所産なのである」という観点を無視したのである。(『トランスクリティーク』第一部第3章 P187 岩波書店)

もし「強姦された者」がこのような実践的な自由な主体であったにしろ、柄谷行人がこの文の最後にいうように、少なくとも「強姦した者」にとっては、括弧に入られた因果的決定の括弧を外してみなければならない。やはりその当時の社会的諸関係を見なければならないし、その社会的諸関係が現在も続くならなおさらである。

人間の偉大さを言いあらわすためのわたしの慣用の言葉は運命愛である。何ごとも、それがいまあるあり方とは違ったあり方であれと思わぬこと、未来に対しても、過去に対しても、永遠全体にわたってけっして。必然的なことを耐え忍ぶだけではない、それを隠蔽もしないのだ、--あらゆる理想主義は、必然的なことを隠し立てしている虚偽だーー、それではなく必然的なことを愛すること……(ニーチェ『この人を見よ』手塚富雄訳)

柄谷行人の言葉を繰り返せば、運命愛は運命論的態度とは異なる、ニーチェのこの概念を受け止めるとき、それが最も肝要な点だろう、--《ニーチェがいうのは実践的に自由な主体たらんとすることにほかならず、それは現状肯定的(運命論的)態度とは無縁である。》





2013年7月16日火曜日

男と女のワイセツ行為

男のズボンの中を盗撮する女性がほとんどいないように、男が排泄するシーンに興奮を覚える女性がほとんどいないように、哲学する女性はほとんどいない。逆に言えば、女性たちはこういうワイセツ行為に欲求を覚えないように、哲学に欲求を覚えないのだ。》(中島義道『生きにくい…』

この見解の正否を云々するまえに、まずここはカント学者であり最近ではニーチェへの言及も多い中島義道氏に敬意を表して、カントとニーチェを引用しよう。

今日では、形而上学にあらゆる軽蔑をあらかさまに示すことが、時代の好尚となってしまった。(……しかし)実際、人間の自然的本性にとって無関心でいられないような対象に関する研究に、どれほど無関心を装ったろころで無益である。自分は形而上学に対して無関心であると称する人達が、いくら学問的な用語を通俗的な調子に改めて、自分の正体をくらまそうとしたところで、とにかく何ごとかを考えるかぎり、彼等がいたく軽蔑しているところの形而上学的見解に、どうしても立ち戻らざるをえないのである。(カント『純粋理性批判』)
女は真理を欲しない。女にとって真理など何であろう。真理ほど女にとって疎遠で、厭わしく、憎らしいものは何もない。──女の最大の技巧は虚言であり、女の最高の関心事は外見と美しさである。われわれは、われわれ男たちは告白しよう。われわれは女がもつほかならぬこの技術のこの本能をこそ尊重し愛するのだ。われわれ、そのわれわれは重苦しいから、女という生き物と附き合うことで心を軽くしたいのである。女たちの手、眼差し、優しい愚かさに接するとき、われわれの真剣さ、われわれの重苦しさや深刻さが殆ど馬鹿々々しいものに見えてくるのだ。(ニーチェ『善悪の彼岸』 木場深定訳)

あるいは、《男の幸福は、「われは欲する」である。女の幸福は、「かれは欲する」ということである。》(ニーチェ『ツァラトゥストラ』手塚富雄訳)



「実際、人間の自然的本性にとって無関心でいられないような対象に関する研究に、どれほど無関心を装ったろころで無益である」であるならば、「男と女」についてもしかり。《どうしてもそこに立ち戻らざるをえないのである》。陰陽、明暗、天地…、それらは古来、すべて男と女の話ではないか。
谷間の神霊は永遠不滅。そを玄妙不可思議なメスと謂う。
玄妙不可思議なメスの陰門(ほと)は、これぞ天地を産み出す生命の根源。綿(なが)く綿く太古より存(ながら)えしか、疲れを知らぬその不死身さよ(老子「玄牝の門」)
二一世紀の現在、女や、売春、娼婦の話を抜かして、どうして哲学(知を愛すること)であることができよう。
アフロディテ・ミュリッタ崇拝においては、乙女たちの神聖なる売春を含む淫らで頽廃的な祭礼が行われた。この祭礼は……女神を演じる聖なる娼婦が、その相手役の神ベロス=ヘラクレスの役を演じる奴隷と共に民衆の前に登場し、神聖なる売春の交接儀礼が行われる際に、最大の山場を迎えることになった。この男神を演じる奴隷は、ヘラクレスと同じように、祭りの最後には火刑に処された。(クロソウスキー『古代ローマの女たち』ーーバッハオーフェンの「母権制」と、ニーチェ、あるいはドゥルーズ=マゾッホ

もっとも「女」も「娼婦」も神秘だ。ジ・アザー・セックス、ジェンダーは謎のままにして置きたい》(中井久夫)
ーーだが、それにもかかわらず、男たちは「女」の謎にどうしても立ち戻らざるをえない。

女は常に神秘であった、とフロイトは書く、そして、《私は、女性は男性と同じ超自我を持っていない、そして彼女達は男よりもこの点ずっと自由で、男の行動、活動に見られるような限界が無い、という印象を持っている。》

中井久夫は精神科医像のひとつとして「傭兵」のようなものと書いたあと、次のように書き綴る。
もうひとつの、私にしっくりする精神科医像は、売春婦と重なる。

そもそも一日のうちにヘヴィな対人関係を十いくつも結ぶ職業は、売春婦のほかには精神科医以外にざらにあろうとは思われない。

患者にとって精神科医はただひとりのひと(少なくとも一時点においては)unique oneである。

精神科医にとっては実はそうではない。次のひとを呼び込んだ瞬間に、精神科医は、またそのひとに「ただひとりのひと」として対する。そして、それなりにブロフェッショナルとしてのつとめを果たそうとする。

実は客も患者もうすうすはそのことを知っている。知っていて知らないようにふるまうことに、実は、客も患者も、協力している、一種の共謀者である。つくり出されるものは限りなく真物でもあり、フィクションでもある。

職業的な自己激励によってつとめを果たしつつも、彼あるいは彼女たち自身は、快楽に身をゆだねてはならない。この禁欲なくば、ただのpromiscuousなひとにすぎない。(アマチュアのカウンセラーに、時に、その対応物をみることがある。)

しかし、いっぽうで売春婦にきずつけられて、一生を過まる客もないわけではない。そして売春婦は社会が否認したい存在、しかしなくてはかなわぬ存在である。さらに、母親なり未見の恋びとなりの代用物にすぎない。精神科医の場合もそれほど遠くあるまい。ただ、これを「転移」と呼ぶことがあるだけのちがいである。

以上、陰惨なたとえであると思われるかもしれないが、精神科医の自己陶酔ははっきり有害であり、また、精神科医を高しとする患者は医者ばなれできず、結局、かけがえのない生涯を医者の顔を見て送るという不幸から逃れることができない、と私は思う。(『治療文化論』P197-198)

ーーこう引用したからといって、女の本質は娼婦であるとか、「聖なる娼婦」などというクリシェをここで想い起こすつもりはない。ただ、Come on! とだけ呟いておくことにする。
……in the famous anecdote about George Bernard Shaw—at a dinner party, he asked the upper‐class beauty at his side if she would spend a night with him for 10 million pounds; when she laughingly said yes, he went on and asked if she would do it for 10 pounds; when the lady exploded in rage at being treated like a cheap whore, he calmly replied: “Come on, we have already established that your sexual favors can be bought—now we are only haggling over the price …”(zizek"LESS THAN NOTHING")
ここで「女と本はベッドに連れこむことができる」という古い俚諺から「知」の探索そのものが女体の秘部をまさぐるようでもあったとか、パリを「遊歩」することそのものが娼婦の股ぐらの慰安を求めるようであったとかするベンヤミンをもなぜか附記しておく。《内蔵の中にいると私たちがどれほど安堵するものかということを知りたければ、眩惑されるままに、暗いところが娼婦の股ぐらにひどく似ている街路から街路へ入り込んでいかねばならない。》(ベンヤミン断章)ーー女性の場合、知=股ぐらの探求は、自らに「弦牝の門」がすでに備わっているのだから、おろそかになりがちなのはやむえない。おそらく哲学する女性はほとんどいないことの機微のひとつであろう。


ところで中井久夫の別の書には、次のような発言がある。
中井)……あの、診察している時、自分の男性性というのは消えますね。上手にいっているときは。ほんものの女性性が出るかどうかはわかりませんけど、やや自分の中の女性性寄りです。少なくとも統合失調症といわれている患者さんを診るときはそうですね。

(鷲田)自分からそれは脱落していくのですか。

(中井)いや、機能しない。まあ統合失調症の人を診た直後に非行少年かなんかを診たらもう全然だめなんです。カモられてしまう。(「身体の多重性」をめぐる対談 中井久夫/鷲田清一 『徴候・記憶・外傷』所収より)
こうやって、いまだ限られた男たちであるにしろ、「女になる」こと、「娼婦になる」ことの偉大さが気づかれつつある、《……女性は、おそらく男性の知覚よりも深いそれをもつものです。たぶんそれは次のことのよるのでしょうーーでも私の言っているのは愚かなことですーー、つまり彼女は、自分のうちに男性を迎え入れるように物事を受けとることに慣れていて、彼女の快楽はまさにそれを受け入れることにある、ということです。彼女は現実を受け入れるつもりでいる、あえて言うなら、完全に女性的な同じ姿勢のうちに。彼女は、男性以上、場合に応じて、ぴったり合った解答を見つける可能性をもっているのです》(ミケランジェロ・アントニオーニ

ただ残念なことに、<わたくし>の如き愚かな《大多数の男は男であるからこそ生きるのがキツイのに、その「男」を捨てることができないという宿命にあります。ここには深くかつ単純な理由が潜んでいて、男は「ただ男であるがゆえに女よりすぐれている」という神話(迷信)から解放されていないからなのです。》(中島義道『ぐれる!』)ーーまあでもこれは旧世代の大多数であり、「父なき世代」においては、男たちは、「女性なるものに不可避的に惹きつけられる」、――それは、《父性隠喩の不成立によって「母のファルスになる」という欲望を「ファルスをもつ」に変換できなかった主体が、「母に欠けたファルスになることができないならば、彼には、男性たちに欠如している女性になるという解が残されている」(lacan E566)ことに気づくからである》(「ラカンの愛の定義」より)


さて、女がのぞき趣味がないのかどうかは、男のわたくしには窺いしれない。だが、のぞかれる趣味はどうなのか。おおくのミニスカ、ローライズ(Lowrise)、スリットやら胸元の開きなどをめぐる論があるだろう(当地はローライズと腰脇のスリット、シースルーの天国なり)。もっともあれらを女のワイセツ行為などと命名したら、フェミニストたちだけでなく、女性全般から袋叩きにあうのは承知しており、あるいは女性鑑賞を楽しみにしている男たちにも迷惑がかかるわけで、わたくしは、そんなことは決して書かない(逆言法とは、言わずにすますつもりだと言うこと、つまり黙っているはずのことを言ってしまう修辞法の文彩のことであり、たとえば、《私は次のことは語らないつもりだ》と言っておいて、その後えんえんと語るやり方だ……)。







身体の中で最もエロティックなのは衣服が口を開けている所ではないだろうか。倒錯(それがテクストの快楽のあり方である)においては、《性感帯》(ずい分耳ざわりな表現だ)はない。精神分析がいっているように、エロティックなのは間歇である。二つの衣服(パンタロンとセーター)、二つの縁(半ば開いた肌着、手袋と袖)の間にちららと見える肌の間歇。誘惑的なのはこのちらちら見えることそれ自体である。更にいいかえれば、出現ー消滅の演出である。(ロラン・バルト『テクストの快楽』)

ーー過度に開いていると(出現ー消滅の演出がないと)、エロティックではなくなるぜ、最近はそれを狙っているのであれば、女はかぎりなく戦略的であり、ある種の男の欲望を萎えさせることに貢献している。《痴漢たちは、発見され処罰されることをきわめて深く懼れているものの、同時に、その危険の感覚なしには、かれの快楽は薄められあいまいになり衰弱し、結局なにものでもなくなる。禁忌が綱渡り師にその冒険の快楽を保証する。》(大江健三郎『性的人間』)

大江のような旧世代の男ではなく、ここではラカン派フェミニストの見解のほうがいい。

コプチェクによれば、恥じらわねばならない場面に直面させぬよう、覆い隠し、保護することは一見よいことに思えるが、不安にさせる「余剰」全てを露呈し、不安を取り除こうとする現代において、隠しておくべき秘密として秘匿しておくこと自体が、暴こうとする不当な行為に弁解を与え続けることになりかねないと警告する。(2006/10/8 Joan Copjec (コプチェク)講演会

ラカン派のフェミニストに耳を傾けなくても、男に飽きたかしこい女性たちは、覆い隠さないように、という警告を本能的に守っている。逆にいまだ男に飽きていないらしい女たちは、男を魅了し誘惑するためには、ほどよく隠す術を本能的に知っている。

もっとも男たちにもいろんな種類があって、たんにセックスを見たいという中学生や高校生的な夢を持ち合わせている連中がいるから厄介だが、こちらの方は陰湿さがないから御し易い。いやいやローライズでおしりの割れ目までみえてしまったら、今度は陰門や陰毛の出現ー消滅のエロティシズムというものもあって、ある種の男たちを魅了させるから気をつけろ! ようするになにをしたって、相手しだいでヤバイのが人の世であるぜ


 ところで上野千鶴子女史は最近かくのごとくノタマっている。

性欲にはけ口が必要であるならば、ムラムラは自分で解消すればいい。相手のあるセックスをしたければ、相手の同意が必要なのは当たり前だろう。セックスは人間関係なのだから、関係をつくる努力をすればよい。(……)

カネまで払って男性がやりたい理由は、私には永遠の謎だ。男たちが変わるのに何世紀かかるかわからないが、この男の不気味さは男に解いてもらいたい。(上野千鶴子氏 売春は強姦商品化でキャバはセクハラ商品化

逆に、あれらミニスカやローライズの氾濫する女の衣裳の不気味さを解いてもらいたい。流行だとか便宜性やらきれいにみえるなどといって誤魔化さずに。いや、わかっている、そんな愚かなまねはしないのは。「男たちってスケベで単純で、まったくどうしようもないわ、カワイイところはあるには違いないけど」、などとして、ボディブローで徐々にへこませるのがよいのをよくしっている。《女は男よりはるかに邪悪である、またはるかに利口だ。女に善意が認められるなら、それはすでに、女としての退化の現われの一つである ……》(ニーチェ『この人を見よ』手塚富雄訳)

そもそも「真理」を哲学的に追究するなんて、そんなことしてなにになるのよ、バカねえ、男たちって

《婦人たちのあいだで。--「真理? まあ、あなたは真理をごぞんじではないのね! それは私たちのすべての羞恥心の暗殺計画ではないでしょうかしら?」--》(ニーチェ『偶像の黄昏』16番)

《すべての立派な女性にとって、学問は羞恥に逆らう。彼女らにはその際、自分たちの皮膚の下を、──さらに厭なことには! 着物と化粧の下を覗かれるような気がするのだ。》(『善悪の彼岸』)

わたくしは上野千鶴子を貶すつもりは毛ほどもないのだ。かつて名著『スカートの下の劇場』でお世話になった覚えがある(いまではあまり覚えていないが)。いまウェブ上から拾ってみると、かつては下記のように指摘してくれた人が、男にかんしてはいまだ「カネまで払って男性がやりたい理由は、私には永遠の謎だ」などと語ってしまうのが不満でないでもないが。

女性がパンティを選ぶ理由はおよそ二つに大別されるそうです。
一つは男性を意識した、言わずもがなのセックスアピール。
二つめは、自意識を満足させるためのナルシズムです。


次に、なぜ女性はパンティをはくのでしょう。
まず、恥ずかしいというのがありますよね?
だけど、どうしてあそこを見られたら恥ずかしいのでしょう?
でも、恥ずかしいという気持ちが性的快感に変化するのは否めない事実で、子孫繁栄のためにはなくてはならないものなのでしょうね。

そのほかに、パンティで性器を隠すことによって、性器の価値を高めるという意味もあるそうです。
見ちゃダメ!と隠せば隠すほど見たくなるのは、よくあることで、だからこそ女性はパンティで性器を隠し、とっても大切なものなのだと暗に示しているという論理です。(読書「スカートの下の劇場」

上野千鶴子は、この時期、「男」として振舞ったのではないか。いまでは齢を重ねて「女」に戻っているので、男のことなどなんにもわかんねえ、と言い放っているのではないか。愛でたし芽出度し、慶賀なり。
実のところ、ニーチェが大いに嘲笑を浴びせているフェミニストの女たちは男性なのだ。フェミニズムとは、女が男に、独断的な哲学者に似ようとする操作であり、それによって、女は真理を、科学を、客観性を要求する、即ち、男性的幻想のすべてをこめて、そこに結びつく去勢の効力を要求するのである。(デリダ『尖筆とエクリチュール』)


男サイドの言い訳はいくらでもある。

「男どもはな、別にどうにもこうにもたまらんようになって浮気しはるんとちゃうんや。みんな女房をもっとる、そやけど女房では果たしえん夢、せつない願いを胸に秘めて、もっとちがう女、これが女やという女を求めはんのや。実際にはそんな女、この世にいてへん。いてえへんが、いてるような錯覚を与えたるのがわいらの義務ちゅうもんや。この誇りを忘れたらあかん、金ももうけさせてもらうが、えげつない真似もするけんど。目的は男の救済にあるねん、これがエロ事師の道、エロ道とでもいうかなあ。」(野坂昭如『エロ事師たち』)


あるいはラカン派の男女の不思議を解く試みなら、かくの如し。

・男の欲望は、おのれの幻想の枠にフィットするような女を直接欲望すること。
・女の欲望は、男の幻想の枠にフィットするように、男に欲望される対象となること。

…… it is wrong to contrast man and woman in an immediate way, as if man directly desires an object, while woman's desire is a “desire to desire,” the desire for the Other's desire. We are dealing here with sexual difference as real, which means that the opposite also holds, albeit in a slightly displaced way. True, a man directly desires a woman who fits the frame of his fantasy, while a woman alienates her desire much more thoroughly in a man—her desire is to be the object desired by man, to fit the frame of his fantasy, which is why she endeavors to look at herself through the other's eyes and is permanently bothered by the question “What do others see in her/me?” However,a woman is simultaneously much less dependent on her partner, since her ultimate partner is not the other human being, her object of desire (the man), but the gap itself, that distance from her partner in which the jouissance féminine is located. Vulgari eloquentia, in order to cheat on a woman, a man needs a (real or imagined) partner, while a woman can cheat on a man even when she is alone, since her ultimate partner is solitude itself as the locus of jouissance féminine beyond the phallus. ZizekLess Than Nothing2012

レヴィ=ストロースは、ユダヤ人狩りのためマルセイユからアメリカに亡命する船旅のことを書いている(『悲しき熱帯』)。小さな蒸気船、――二つの船室と簡易ベッドが合計して七つしかないーー、そこにおよそ三百五十人もの人間が詰め込まれる。彼自身はひとつの船室を四人の男性で分け合う幸運に恵まれる。だが他の乗客は、男も女も子どもも、通風も悪く明りもない船倉に詰め込まれ、そこには大工が俄造りで組み立てた、藁布団付きの、何段にも重なった寝台があった。《その「賤民ども」ーー憲兵はそう呼んでいたがーーの中には、アンドレ・ブルトン(……)も含まれていた。この徒刑囚の船をひどく居心地悪く感じていたアンドレ・ブルトンは、甲板に空いている極めて僅かの部分を縦横に歩き回っていた。毛羽立ったビロードの服を着た彼は、一頭の青い熊のように見えた。》便所はとてつもない臭気、風呂の水もろくに出ない。寄港地で、レヴィ=ストロースと、チェニジア人は、二人の若いドイツ婦人を励ましに行く。《この二人の婦人は、体を洗えるようになりさえしたらすぐ、彼女らの夫を欺きたいと思っていることを、航海のあいだ、私たちに印象づけた》から。

つまりは、ここにも《女の欲望は、男の幻想の枠にフィットするように、男に欲望される対象となること》があり、そのためには汗と垢まみれになった軀を清めることがなによりも肝要なのだ。男たちはおのれの不潔さには女たちほど頓着しない。



「カネ払ってまでやりたい」理由の一端は、すこし長い説明がいるが、簡略化すれば下記の通り。

われわれは生まれたときの最初の他者は、母親あるいは乳を与える養育者である。この他者をめぐって、ラカン派の向井雅明は次のように書いている。
子供は母親から生まれ、まず母親と二人だけの関係にある。この時点ではよく母親と子どもの間には融合的関係があり、子供はまだ外世界に興味を持っていないと言われるが、ラカンはそれをはっきりと批判し、子どもは殆ど生まれてからすぐに外世界、他者(A)(大文字の他者:引用者注)にたいして開かれていると主張する。そしてこの時点からすでに母親の欲望というものを想定する。母親の欲望とは子どもが母親にたいして持つ欲望という客体的意味もあるが、それよりもまして母親の持っている欲望という主体的な意味が決定的である。母親はまず欲望を持っている者とされるのだ。そして人間の欲望は他者の欲望であるという定式から、子供にとって他者はまず母親であるから、子供の欲望は母親の欲望、つまり母親を満足させようという欲望となる。母親の前で子供は母親を満足させる対象の場にみずからを置き母親を満足させようとする。つまり母親のファルスとなる。(向井雅明『精神分析と心理学』)


男女児かかわりなく、幼児の欲望はまずは<他者>の欲望を満足させることである(想像的ファルス化)。だがこの後、正常な発達であれば、男児は父への同一化、女児は母への同一化へ向かう(参照:「ファルス」と「享楽」をめぐって)。この過程で、男女児ともそれぞれの失望がある。


たとえば女児の場合、「父が自分に子を与えてくれる」願望(ラカン)をもつが、それは実現されない(それ以前に、フロイトの『女性の性愛について』によれば、女児は、母が自分にペニスを与えてくれなかった批難をする)。

男児の場合、母を対象とし続けるが、母に欠如を発見する(母の去勢)。その反動として「おとしめ」があり、「他の女(娼婦)」を欲望する。


この男性の場合、ラカン派の説明では、次のようなことが起こる。
Uber die allgemeinstre Erniedrigung des Liebeslebens(1912), GW VIII pp.78-91, SE XI pp.177-190、「「愛情生活の心理学」への諸寄与」,高橋義孝訳,著作集10, pp.176-194、このフロイトの論文によると、「おとしめ」とは、母親を娼婦とみなすという空想のこと。この空想は、愛情生活のなかの割れ目を少なくとも空想の中では埋めようとする努力であるとされる。具体的には、少年がエディプスコンプレックスのなかで、性交という恩恵を自分にではなく父に与えた母を恨みに思い、その一方で、そういう母親の態度を、母親の不誠実だと思う。そして、この不誠実は空想のなかに生き延びていき、母親や愛情の対象の娼婦性という空想が生まれるとされる。これは、母という<他者>の望むものが私ではなく、他のもの、つまりファルス(父)であると想像され、<他者>の無矛盾性が否定され、<他者>にはひとつの亀裂があることを知る。(ラカン『ファルスの意味作用』註)

男の不思議はこのように説明されているわけで、しかしながら「結局、小児性を克服できずに育った男たちってわけじゃないの?」(「幼少の砌の髑髏」)などと脊髄反射的な反応が予想されはするが、もし女に「哲学的に」でも「精神分析的に」でも、追求する気があるならば、そうそう簡単にうっちゃっていい議論でもあるまい(繰り返すがそんな気がないのを知っている)。

いまさらフロイトやラカンでもないでしょ、ドゥルーズ=ガタリにしっかり批判されてとっくの昔に決着ついたんじゃないのかしら? などと嘲弄しておくのがいい。

ジジェクが、《ドゥ ルーズとガタリが見落としているのは、最も強力なアンチ・オイディプスはオイディプスそのものだということである。オイディプス的父親は父-の-名とし て、すなわち象徴的法の審級として君臨しているが、この父親は、享楽-の-父という超自我像に依拠することによってのみ、必然的にそれ自身強化され、その 権威を振るうことができるのだ》などと反駁したって、いまさらジジェクのような小者になんたら言われてもね、ジジェクさんかわいいとこあるけど、とあっさりかわしてしまうのが、女たちの「偉大さ」だ。


さて、小説には、「覗き」場面がいくらでもある。著名な「権威」ある作家たち、たとえば三島由紀夫の『午後の曳航』やら晩年の『豊饒の海』など、あるいは大江健三郎にも頻出する。
ナオミさんが先頭で乗り込む。鉄パイプのタラップを二段ずつあがるナオミさんの、膝からぐっと太くなる腿の奥に、半透明な布をまといつかせ性器のぼってりした肉ひだが睾丸のようにつき出しているのが見えた。地面からの照りかえしも強い、熱帯の晴れわたった高い空のもと、僕の頭はクラクラした。(大江健三郎「グルート島のレントゲン画法」『いかに木を殺すか』所収)

女流作家でも、山田詠美ならこのように書いてくれる。

私は、あなた以外の何ものをも求めない。目の前の男のためだけに口紅を塗り、香水を噴き付ける。だから、部屋には、いつも、良い匂いが漂っ ている。愛する人を持った女は、朝のシャワーの 後に、香水瓶の蓋をあける。(山田詠美『チューイングガム』)


いずれにせよ、同じ小説でも、男と女では読み方が違うのだろう、たとえば次の文ならば、おおむね、男はのぞく主体に同一化し、女は覗かれる客体に同一化するのだろう。

女はついにあらわな姿を見せた。

靴をぬぐために、非常に高く脚をくみ、肉体の深淵をぼくの眼にさらした。
きらきら光る編上靴にとじこめられていた上品な足や、にぶい色の絹の靴下につつまれていた、ほっそりした膝頭や、華奢な足首のうえに、優美な壺のようにゆたかに開いたふくらはぎなどを見せた。ひかがみのうえ、ちょうど靴下が白くぼやけたくぼみのなかに終っているあたりには、おそらく素肌がのぞいているのだろう。ぼくには、やっきになって邪魔をする闇や、女におそいよる薪のちらつく輝きとで、下着と肌の見分けがつかない。あれは下着のやわらかい布なのだろうか、それとも素肌なのだろうか。無なのだろうか、すべてなのだろうか。ぼくの視線はその裸身を得ようとして、闇や炎と争った。額を壁に、胸を壁にぴたりと寄せ、壁を打ちたおし、突きぬこうとするほどに、拳で必死に押しながら、こうしたとりとめのない不確かさに眼がいたくなるほど、なんとかして、腕ずくでも、もっとよく見よう、もっと多く見ようと、あせりにあせった。(アンリ・バルビュス『地獄』田辺貞之助訳)

あるいは、こんな描写ならどうか。

暖炉の火が穏やかな気配の弱さになっている。それを立て直そうとして、《火箸で突つき、黒く炭化したところに新たな薪をもたせかけて吹く》。ーー男は火箸で突っついて吹きたいのであり、女は…、女のことは知るところではない…

大江健三郎の中篇『人生の親戚』の「僕」は、《炎の起ったところでふりかえると、スカートをたくしあげている紡錘形の太腿のくびれにピッチリはまっているまり恵さんのパンティーが、いかにも清潔なものに見えた》。それは米人のセックスフレンドとの切磋琢磨する性交をつうじて、生臭い肉体に属するものは、どこかに移行して、《精神の属性のみが残った》ような清潔さだ……、と。

――「僕」はこんな夢を見たとの記述が小説の前半にはある。

彼女はうすものを羽織っているのみで、(……)下半身は裸、合成樹脂の黒いパイプ椅子に足を高く組んで掛けている。こちらはその前に立っているのだが、足場が一段低いので、頭はまり恵さんの膝の高さにある。p80

かつて「僕」が、まり恵さんと一緒に、プールで泳いだとき、《彼女の大きく交差して勢いよく水を打つ腿のつけねに、はみ出た陰毛が黒く水に動き、あるいは内腿の皮膚にはりつくのを見た》、その「出来事」が夢の表象として現われる。

まり恵さんの、腿に載せたもう片方の腿があまりに引きつけられているので、性器の下部が覗きそうだが、そこに悪魔の尻尾がさかさまに守っている。つまりはしっとりした黒い陰毛が、クルリと巻きこむように性器を覆っている。p80



もっともフロイトによれば、覗姦・露出のメカニズムは、原初的には、「性器が自分自身によって覗かれる」のが出発点のひとつであって、単純に覗く/覗かれるの二項対立があるというわけではない。


フロイトの『本能とその運命』(フロイト著作集 6 人文書院)では、サディズムとマゾヒズムの分析のあと、次のように覗見と、露出(誇示)をめぐって書かれている。

※「本能Trieb」は最近の訳では「欲動」と訳されるが、ここでは旧訳のままとする。……
もう一つの対立的組合せ、すなわち覗くことと、露出することをそれぞれ目標とする本能を研究してみると、少し違った、さらに単純な結果が出てくる(性的倒錯の用語では覗見症者Voyeur と露出症者Exhibitionist)。そしてここでも前の場合と同じような段階に分けることができるのである。すなわち、

(a)覗きが能動性として、他者である対象にたいして向けられる。

(b)対象を廃棄し、覗見本能が自分自身の身体の一部へと向け換えられ、それとともに受身性へと転じて、覗かれるという新しい目標が設定される。

(c)新しい主体が出現し、それに覗かれようとして自己を露出する。

能動的な目標が受身的な目標よりも早く登場し、覗くことが覗かれることに先行するのも、ほとんど疑いのない事実である。しかしサディズムの場合との重要な差異は次のような点である。つまり覗見本能においては、(a)の段階よりも、もう一つ前の段階が認められるのである。覗見本能は、すなわち、その活動の端緒において自体愛的であり、たしかに対象を持ちはするものの、それを自分自身の身体に見出すわけである。覗見本能が(自己と他者とを比較するという過程をたどった上で)、その対象を他者の身体の類似の対象と交換するにいたるのは、そののちのことなのである(段階a)。ところで、このような前段階は次のような理由から興味深いものになる。つまりこの前段階から、交換がどちらの立場で行なわれるかに応じて、その結果として成立する覗見症と露出症という対立的組合せの両極面が現われてくる。すなわち、覗見本能の図式は次のように書き表わすことができよう。







 このどこかでの段階で、ラカン理論ではさらに「想像的ファルスの欠如」(母の去勢)が係ってくるはずだが、いまはそれには触れない(参照:心的装置の成立過程における二つの翻訳)。

そもそもラカン派の「去勢」とは、まずは母におちんちんがないことなのだ、--想像的ファルスの欠如-φは、「去勢」とも読まれる。それは主体の去勢ではなく(少なくとも”だけ”ではなく)、「去勢の意味作用は,(子供の去勢ではなく)母の去勢によっておこる」(ラカンE687)



 最後に、デリダのインタヴュー記事を附記しておこう(女性と哲学「デリダ・インタビュー(4)LAWEEKLY, 2002118/14日」)。


【問】なぜ女性の哲学者はいないのでしょう。

【答】哲学のディスクールというものが、女性、子供、動物、奴隷をマージナル
なものとして抑圧し、沈黙させるように組み立てられているからです。これは哲
学の構造であり、これを否定するのはばかげたことでしょう。そのために偉大な
女性の哲学者が現われないのです。もちろん偉大な女性の思想家はいますよ。で
も哲学というのは、思想のうちでもごく特殊な思想、特別な考え方なのです。た
だ現代では、こうしたことは変わりつつあります。

【問】あなたはご自分をフェミニストと考えられますか、

【答】大きな問題ですが、ある意味ではそう考えています。わたしの仕事の多く
は、ファロス中心主義の破壊にかかわるものでしたし、自分で言うのも変ですが、
哲学のディスクールの中心でこの問題を提起した最初の人の一人でしょう。もち
ろんわたしは女性の抑圧がなくなることを望んでいます。哲学におけるファロス
中心主義的な土台のもとで、女性の抑圧が続いていることを考えると、とくにこ
れは重要な問題です。ですからこれに関してはわたしはフェミニズム文化に連帯
しています。

でもフェミニスムの特定の表現には、留保を抱かざるをえません。たんに男女の
ヒエラルキーを逆転させることや、伝統的に男性的な行動とみなされている好ま
しくない側面を女性が採用することは、誰の役にもたたないのです。