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2014年9月21日日曜日

良心と意識

以下、中井久夫のいくつかの書物よりの抜き書き。

フランス語でもスペイン語でもイタリア語でも、「良心」という言葉と「意識」という言葉とは同じである。日本人はちょっと当惑する。

これはラテン語の conscientia(コンスキエンティア)にさかのぼる。それが各国語に語形変化しただけのことである。聖ヒエロニスムが聖書をラテン語に訳したとき、ギリシャ語の syneidesis(シュネイデーシス)の訳に使ったのである。このギリシャ語は、もともとは「共に知ること」という言葉で、「他人(の傷みなど)を知ること」を指し、次に自己認識をも指した。キリスト教に入って初めて超越的なものとの関係の意味になって、「神に知られるもの」という意味で「良心」と「意識」とが同じ言葉で表されるようになった。「良心」と「自己認識」はひとつである。だから、「無意識」が自分の行動を決定しているというフロイト派精神分析の考えに、西欧の人が大変な抵抗を覚えるのだと私は思う。「自分が知らない自分の内なるもの、すなわち神に自分の責任をもってみせられないもの」に動かされているなんて、とんでもないことである。それは内なる「悪魔」ではないか。

ドイツ語の意識は「ゲヴィッセン」といって「知っていることの総体」である。ルターが聖書をドイツ語に訳するときに「シュネイデーシス」につけた訳である。意味からは「意識」に近いようであるけれども「良心」を指す。「自分が知っていることの総体」は、神との関係において初めて「良心」の意味をもつことができる。我々なら、だれも見ていなくても「天知る、地知る、己知る」ということが一番近そうである。

なるほど、英語では「良心」 conscienceと「意識」consciousness とを区別するけれど、前者がフランス語同様、元来は双方を指していたのであり、後者は学術用語として一七世紀に生まれた、ずっと遅い言葉である。「良心」と「意識」の分離はどうもプロテスタンディズムの成立と深い関係がありそうである。

「意識」と「良心」とはいまでもフランスやスペインやイタリアでは、強いて区別するときには「心理的」「道徳的」と形容詞をつける。そういう近さは、日本語からは見えてこない。「意識」は漢語であるけれども、大乗仏教の翻訳によく使われた言葉である。

日本語の「良心」という言葉は、元来は『孟子』に出てくる言葉である。キリスト教は人間を罪深い存在とするから、孟子の性善説とは本来非常に違うものであるけれども、井上哲次郎という、明治初期にたくさんの哲学用語を日本語に訳した人が、ドイツ語のGewisswen を訳すときに『孟子』から引っ張ってきたという。聖書の日本語訳のほうが先かもしれないが、私にはそこまで調べられない。

このように、西欧の「良心」は神と向かい合う自己意識である。神の姿が遠くなった近代西欧において、意識は「自己意識」を指すものになった。ここで、近代哲学においてもっともやっかいな問題の一つ、「他者問題」すなわち「他者認識が可能か」という問題が出てきた。「神のごとき自己が認識する自己等価物」という意味では他者は認識できないと私は思う。ベルギーのルーヴァン大学を中心とする新トマス主義のカトリック哲学は、「自己」を「他者からの贈り物」とするそうだが、この考えは、私にはどこか真実さが感じられる。

逆にキリスト教以前にさかのぼれば、コンスキエンティアもシュネイデーシスも「他人(の痛み)を知ること」であった。オクスフォード・ギリシャ語・英語大辞典の最初の例は産婆が(産婦の)痛みを共に感じることに関するものである。だから、だぶん、そんなに高尚なことでなくてよいのだろう。私は、人がけがをした瞬間、「あ、痛っ」と叫んでしまうことが何度かあった。こういうのもシュネイデーシスなのだろう。だとすれば、神を介する以前の古代ギリシャ・ローマの倫理的基礎は惻隠の情とそんなに遠くない。(中井久夫「ボランティアとは何か」『時のしずく』所収)
宗教だけではない。ヒトの社会に「父」が参加したのは、始まりは子育ての助手としてであったというが、この本来の父の役割は、家族から社会、部族、国家へと転用された。この拡大は農耕社会に始まり現状に至っていると私は思う。父は狩人から始めて戦士となり航海者となり官僚となりサラリーマンとなった。そして国家、部族、地域社会はそれ自体が父親的である。しかし元来の父の役割はそうではなかったと私は思う。父を家の外に誘い出すことによって、家庭の父の役割は薄くなった。狩猟には父は息子とともに参加したのであろうが、おそらく農耕社会以後の父の実態は核家族と大家族と社会の三つの世界に引き裂かれた存在である。「レリギオ」はギリシャ哲学をラテン世界に紹介したキケロによって「良心」の意味に使われた。つまり「超自我」にこの名が与えられたのである。それがほどなく「宗教」の意味になったのは周知のとおりである。(中井久夫「母子の時間、父子の時間」『時のしずく』より)


◆中井久夫 「「踏み越え」について 」(初出 2003)よりベンジャミン・リベット(『ユーザーイリュージョン』)をめぐる箇所(『徴候・記憶・外傷』所収)。

※記述は必ずしも最新のデータによるものではないと思われ、一部の数字には一般に流布している数字と異なるが、ここでは敢えて変更しない。

米国の神経生理学者ベンジャミン・リベットによれば、人間が自発的行為を実行する時、その意図を意識するのは脳が行動を実行しはじめてから〇・五秒後である。脳/身体が先に動きだし、意識は時間を置いてその意図を知る。しかも、意識は自分が身体に行動するように指示したと錯覚しているーーということである。

(……)私たちは、指を曲げようというような動作をし始めてから意識が、「指を曲げることにするよ」という意図を意識のスクリーンに現前させるというわけだ。一世紀以上前に米国の哲学者・心理学者ウィリアム・ジェームスは「悲しいから泣くのでなくて泣くから悲しいのだ」といった。それに近い話である。

これが正しければ、意識による「自己コントロール」は、まちがって踏みはじめたアクセルにブレーキを遅ればせにかけることになる。そして、意識は、追認するか、制止するか、軌道を修正するかである。ラテン語以来、イタリア、フランス、スペイン語で「意識」と「良心」とが同じconscientia(とそのヴァリエーション)であることに新しい意味が加わる。意識はすでに判断者なのである。抑止は、追いかけてブレーキをかけることである。〇・五秒は、こういう時にはけっこう長い時間であり、「車」はかなり先に行っている。

もっと前段階の、実行の構想段階、準備段階でも、行動の開始はその意識に先行するかどうかが問題である。リベットの研究はもっぱら最終的実行にかかわることだからである。

実験にもとづくリベットの説は、私たちが私たちのどうすることもできない力にふりまわされていることを示しているのではない。彼は、その主張の根拠を、脳/精神全体の情報処理能力(「自分」の機能)と、意識の情報処理能力(「私」の機能)との格段の差に帰している。感覚器からの入力を脳が補足して情報する能力は毎秒1100万ビットであり、意識が処理できる量はわずか40ビットだと彼はいう。脳全体が判断して行動を起しつつある時、その一部を多少遅れて意識が情報処理するということである。彼によれば、自由意志という体験は、「自分」が「私」に処理をまかせている時に起こる。瞬間的な決断に際しては「私」とその自由意志は一時停止し、「自分」が脳全体を駆使して判断するという。彼は神経生理学の立場から脳全体の機能を「自分、セルフ」といいい、意識の機能活動を「自我、アイ」という。ユングの用法に等しからずといえども遠からずであろうか。欧米のように意識を非常に重視する哲学的風土においてはショッキングであろうが、私にはむしろ、そう考えるとかえって腑に落ちることが少なくない。日常生活でも、服を手にとってから「あ、私、これが買いたかったのよ」と言う。「この人と友達になろう」と言う時はすでにそうなりつつある。熱烈なキスでは、行為は相手と同時に起こり、唇を合わせてから始めてキスしているおのれを意識するのが普通であろう。おそらく、行為は、互いに相手からのそれこそ意識下の情報をくみ取りあって、「セルフ」のほうが先に動くのであろう。「愛している」という観念が後を追いかけてきても、その時は小説のように、プルーストの小説のように、相手の頬の肌の荒れなどを観察しつつ、唇が合わさるように持ってゆくのは、例外的な「意識家」であり、モームの小説に出てくる、スピノザの哲学書をよみながら性交する男に似てfrigidであろう。意識が精神全体の、されには心身の専制君主であるわけではないということである。

「アイ」は、歩き馴れた道を歩くような時にも「セルフ」に多くを任せているのであろう。階段が一段あるつもりで足を踏み出した時に起こる不愉快な当て外れ感覚は「パニック」の例によく挙げられるものであるが、パニックを起こしているのは「アイ」であろう。段差に気づかずに転倒する時、気づくと受け身の姿勢をとって身体の要所を庇っていることがある。これなどは「セルフ」がよく働いた場合である。この「無意識」はベルグソンが無意識の例として挙げているものに近い。彼は、身体的な多くの機能が意識の指示を待たずに円滑に動いているからこそ、意識が本来の自由な活動にひたれると考えていた。

リベットの説が正しければ、犯罪・非行への対処は、「アイ」もさることながら、「セルフ」すなわち脳全体ということになる。考えてみれば、当然のことである。今後の脳生理学は、1100万ビット/秒の感覚器に降り注ぐ情報を、どのようにしぼりこんで行動の開始を決定するのか、そしてどの部分がどの形で意識の40ビット/秒にまさわれるのかを明らかにしてほしい。私たちが粗雑に衝動とか判断とか決定とか呼んでいるものにういて再考するきっかけになるであろう。