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2014年9月12日金曜日

「ネオナチと高市の写った写真見ながら、今もヘラヘラしてんだよ」

◆《Japon: des photos avec un néo-nazi fragilisent deux proches de Shinzo Abe

おい、おまえオレのブログぱくっただろ? はあ
ネオナチ・グループ(NSJAP)のリーダー」とそっくりじゃねえか

ーーもちろんジョークだが、このくらいしかウェブには情報ないんだよな
国家社会主義日本労働者党」の山田一成代表については

いずれにせよ仏ジャーナリズムの日本のネオナチにたいする熱心さは
日本のジャーナリズムの不感症をいくらか補ってくれるものには相違ない


野間易通御大は次のように語っている。

@kdxn · (9月9日) と、考えてしまいがちだが、大手新聞の記者がそこらへんいよくいる冷笑野郎やどっちもどっち論者みたいなのばかりだとしたらどうだろう? ばんちょう君の推測って、記者がまともであるという前提に立っているような…。RT@bcxxx安倍政権批判報道についてのマスコミの総すくみ態勢は、もはや確信を持たせるに充分なレベルに至っている。アメと鞭で圧力がかけられているのは間違いない。

というのも、そうした圧力から自由でゲスい記者満載の週刊誌も動いてる気配がないのは、やっぱあの写真程度のものはたいしたことないと考えてるとしか思えん。感覚というか、センスがもうそういうものになってる。ヘイトスピーチの問題だって順番的には同じだった。

若い記者なんてホリエモンとか家入一真みたいな政治観のやつばっかりなんじゃないのかなって気がしてる。90〜2000年代をエリートとして過ごした人たちでしょ。これいっぺん新聞記者の給料を工場労働者と同じぐらいに下げんと改善せんできっと。

ツイッターなんかにたまにいる匿名の現役記者っておそらく本当に大手の記者なんだと思うけど、新自由主義的にウヨッた冷笑か、そうでない場合はヘサヨ的なポーズだけの反権力みたいなのが多かった。ネオナチと高市の写った写真見ながら、今もヘラヘラしてんだよ、きっと。

このところ彼に懲りすぎのきらいがあるが
彼のツイートにはことあるごとに刺激を受ける




オレの趣味からしても、これはちょっとやりすぎの気がするが
許してやるぜ、身長148cmらしいからな、このくらいやらなくちゃ

@kdxn · 「カウンター」は、行動であり態度のことであって、サークルやグループではないんだよね。日本中でレイシストやファシストにカウンターしてる人のほとんどは、俺の知り合いでも友達でもないし、今後も一生知り合うことがない人たち。そして俺を嫌いな人も大量にいる。これが普通でしょ。


…………

ところで冒頭の話に戻れば
仏ジャーナリズムが日本のネオナチ報道に熱心なのは
仏では極右「仏国民戦線」が第一党(マリーヌ=ルペン党首)だからこそ、
日本のネオナチ傾斜に関心が向くという側面もあるだろう

標準的な“投影”理論、――その理論によれば、反-ユダヤ主義者はユダヤ人の姿に己れの否認された部分を投影するということーーそれだけでは不充分である。概念上のユダヤ人の姿は、反-ユダヤ人の内的葛藤の外在化したものには還元されえない。(ジジェク『LESS THAN NOTHING』私訳ーー三種類の幻想、あるいは幻想と妄想

ここではジジェクが「それだけでは不充分だ」といっている箇所は割愛して
次のように言ってみよう
仏インテリは日本の政治の姿に己れの否認された姿、
「人間の顔をしたファシズム」を“投影”している(己れの内的葛藤の外在化)

人間の顔をしたファシズムとは次の文に由来する。
《中道リベラル は、根本的には、人間の顔をしたル・ペン主義だ》
これは日本のマジョリティの姿かどうかは断言しないでおこう
だが似たようなものであるには相違ない。

私が思うに、極右が力を得ている原因の一つは、左翼 が今や直接に労働者階級 に自らの参照点を置くことに消極的になっていることにある。左翼 は自らを労働者階級 として語ることにほとんど恥を抱いており、極右が民衆の側にあると主張することを許している!左翼 がそれをするときは、民族 的な参照点を用いることで自らを正当化する必要性を感じているようだ。「貧困に悩むメキシコ人」とか「移民 」云々で。極右 は特別のそして結束力のある役割を演じている。「民主主義 者たち」の大部分の反応は見るとよい。彼らは、ル・ペンについて、受け入れがたい思想 を流布する者だと言いながら、「しかし...」とことばを継ぐ。こうやって、ル・ペンが「ほんとうの問題」を提起していると言外に述べようとする。そうしてそのことによってル・ペンの提起した問題を自分たちがとりあげることを可能にする。中道リベラル は、根本的には、人間の顔をしたル・ペン主義だ。こうした右翼 は、ル・ペンを必要としている。みっともない行き過ぎに対し距離をとることで自らを穏健派と見せるために。私が、2002年 [大統領選挙 ]の第2回投票 の際の対ルペン連帯について不愉快に思ったのは、それが理由だ。そしていまや少しでも左に位置しようとすると、すぐさま極右 を利用しようとしていると非難される。それが示しているのは、ポスト ・ポリティックの中道リベラルが極右の幽霊 を利用し、その想像上の危険を公的な敵に仕立て上げようとしていることだ。偽りの政治 対立の格好の例がここにあると私は思う。(ジジェク『資本主義の論理は自由の制限を導く』2006ーーー剥き出しの市場原理と猖獗するネオナチ

ジジェクのル・ペンをめぐる議論はここにもある。

When Jean-Marie Le Pen made a tasteless gas-chamber joke about a French Jewish pop singer – “we’ll do an oven load next time” (Le Pen denies this was intended to be anti-Semitic) – his daughter Marine Le Pen publicly criticised him, thereby promoting her image as her father’s human face. It is irrelevant if this family conflict is staged or real – the oscillation between the two faces, the brutal one and the civilised one, is what defines today’s populist right. Beneath the civilised public face, there lurks its obscene, brutal underside, and the difference concerns only the degree to which this underside is openly admitted. Even if this obscene underside remains totally out of sight, even if it there are no slips in which it breaks through, it is there as a silent presupposition, as an invisible point of reference. Without her father’s spectre, Marine Le Pen doesn’t exist.(Slavoj Žižek: Only a radicalised left can save Europe

娘のマリーヌ=ルペン極右「仏国民戦線」が第一党党首)は、
親爺のbrutalな顔に比して、civilised なファシストの顔だと言っているわけだ
すなわち「人間の顔をしたファシスト」ということだ

そして”Only a radicalised left can save Europe”のであれば
日本でも過激な左翼のみが日本を救うと言いうる

もし日本で「革命的な」変革があるなら
ーー野間易通から直接とは言わない
だが彼の周囲から立ち起こるのではないか

とは日本の過激な左翼の動きを殆ど知らないものが書いている