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2014年7月24日木曜日

二十一世紀の歴史の退行と家族、あるいは社会保障

最近、NHKスペシャル「認知症を食い止めろ」で「ユマニチュード」というフランス生まれの介護法が紹介されたそうだ。(「ユマニチュード」という言葉の意味は【人間らしさの回復】)

この「ユマニチュード」とは直接関係がないが、ーーいや、すばらしい介護ケアのあり方だが、金がかかるのだろうな、というごく凡庸な感想を抱いたわけではあり、それにかかわる家族と社会保障政策をめぐって、ここでいままで何度か断片的に引用してきた三種類の文献をやや長目に並べておく。

◆中井久夫「親密性と安全性と家計の共有性と」より(2000年初出)『時のしずく』所収



もし、現在の傾向をそのまま延ばしてゆけば、二一世紀の家族は、多様化あるいは解体の方向へ向かうということになるだろう。すでに、スウェーデンでは、婚外出産児が過半数を超えたといい、フランスでもそれに近づきつつある、いや超えたともいう。同性愛の家族を認める動きもありこちで見られる。他方、児童虐待、家族内虐待が非常な問題になってきている。多重人格は児童期の虐待と密接な関係にあるという見解が多いが、その研究者で治療者のパトナムは、その主著『解離』の最後近くで「児童虐待をなんとかしなければ米国の将来は危ない」という意味のことを強調している。

しかし、外挿法ほど危ないものはない。一つの方向に向かう強い傾向は、必ずその反動を生むだろう。家族の歴史というものはあるけれども、その中にどうも一定の傾向はないようだ。地域によっていろいろあり、時代的にもいろいろあるとしか言いようがない。

人類は、おそらく十万年ぐらいは、生理的にほとんど変化していないと見られている。心理だって、そう変わっていまい。そして、生理と心理は予想以上に密接である。

だから、えいやっと、人類にまで立ち返って、うんと遠くから眺めてみよう。遠くから眺めると小さな誤差や揺れは消えてしまうので、かえって見やすい。そして、家族は、人類が原初から持っている矛盾の中から生まれてことが見えてくるだろう。

2~7節略



ヒトの千世紀ほどの長い歴史の中で家族に代わる発明はついに起こらなかった。ただ、家族と社会との軋轢が生じた。家族問題の大部分は家族と社会の接点で起こる。

家族内部のことは実際、個人内部以上にわかりにくい。これは精神科医としての実感である。一つ一つの固有の匂いがあり、クセがあり、習慣があり、当然とされていることと問題となることがある。家族を一種の「深淵」にたとえたことがある。

家族の形態は実に多種多様で、どんな形が現れても驚くに当たらない。しかし、家族なき社会は知られていない。ギリシャ、ローマ、あるいはアメリカの奴隷制でも奴隷に家族を認めている。でなければ奴隷は働かない。近代になっても、家族をやめて、共同体に換えようとした例はけっこうあるが、理想どおりに行ったことはなく皆短期間で崩壊した。最近の実験はカンボジアにおけるポルポトの家族性廃止である。ナチスの強制収容所でも家族を認めなかった。しかし、それ自身が処罰であった。


ただ、二〇世紀には今までになかったことが起こっている。(……)百年前のヒトの数は二〇億だった。こんなに急速に増えた動物の将来など予言できないが、危ういことだけは言える。

しかも、人類は、食物連鎖の頂点にありつづけている。食物連鎖の頂点から下りられない。ヒトを食う大型動物がヒトを圧倒する見込みはない。といっても、食料増産には限度がある。「ヒトの中の自然」は、個体を減らすような何ごとかをするはずだ。ボルポトの集団虐殺の時、あっ、ついにそれが始まったかと私は思った。

しかも、ヒトは依然スズメ型の力を潜在させている。生活が困難になればなるほど、産児数が増える。いや現に人類の八割は多産多死である。スズメ型である。ちょうど気候不順の年に花がよく咲いて実を稔らせるように私たちの中の自然が産児を増やしているのであろうか。逆に、快適な生活をした社会は産児数が減る。現在のフランスで二〇世紀初頭のフランス人でだった人の子孫は何割もいない。過去のギリシャも、ローマもそうであったと推定されている。少産少死型の弱点は、ある程度以下になると、種の遺伝子の弱点が露呈することだ。また、個体が尊重されるあまり、規制力が弱り倫理が崩壊することだ。

冷戦の終わりは近代の終わりであった。その向こうには何があったか。私にはアメリカがローマ帝国と重なって見える。民族紛争は、ローマ時代のローマから見ての辺境の民族の盛衰と重なって見える。もし国家というタガがはまっていなかったら、民族紛争が起こり、あっという間に滅ぶ民族が出ただろう。二十数個の軍団を東西南北に派遣して、国境紛争を鎮めるのに懸命だったローマと、空母や海兵隊を世界のどこにもで送る勢いのアメリカとが重なる。市場経済などは当時からあった。グローバル・スタンダードもあった。ローマが基準だった。

私は歴史の終焉ではなく、歴史の退行を、二一世紀に見る。そして二一世紀は二〇〇一年でなく、一九九〇年にすでに始まっていた。科学の進歩は思ったほどの比重ではない。科学の果実は大衆化したが、その内容はブラック・ボックスになった。ただ使うだけなら石器時代と変わらない。そして、今リアル・タイムの取引で儲ける奴がいれば、ローマ時代には情報の遅れと混線を利用して儲ける奴がいた(……)。
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今、家族の結合力は弱いように見える。しかし、困難な時代に頼れるのは家族が一番である。いざとなれば、それは増大するだろう。石器時代も、中世もそうだった。家族は親密性をもとにするが、それは狭い意味の性ではなくて、広い意味のエロスでよい。同性でも、母子でも、他人でもよい。過去にけっこうあったことで、試験済である。「言うことなし」の親密性と家計の共通性と安全性とがあればよい。家族が経済単位なのを心理学的家族論は忘れがちである。二一世紀の家族のあり方は、何よりもまず二一世紀がどれだけどのように困難な時代かによる。それは、どの国、どの階級に属するかによって違うが、ある程度以上混乱した社会では、個人の家あるいは小地区を要塞にしてプライヴェート・ポリスを雇って自己責任で防衛しなければならない。それは、すでにアメリカにもイタリアにもある。

困難な時代には家族の老若男女は協力する。そうでなければ生き残れない。では、家族だけ残って広い社会は消滅するか。そういうことはなかろう。社会と家族の依存と摩擦は、過去と変わらないだろう。ただ、困難な時代には、こいつは信用できるかどうかという人間の鑑別能力が鋭くないと生きてゆけないだろう。これも、すでに方々では実現していることである。

現在のロシアでは、広い大地の家庭菜園と人脈と友情とが家計を支えている。そして、すでにソ連時代に始まることだが、平均寿命はあっという間に一〇歳以上低下した。高齢社会はそういう形で消滅するかもしれない。

それは不幸な消滅の仕方であり、アルミニウムの有害性がはっきりして調理器から追放されてアルツハイマーが減少すれば、それは幸福な形である。運動は重要だが、スポーツをしつづけなければ維持できにような身体を作るべきではない。すでに、日本では動脈硬化は非常に改善しており、私が二〇歳代に見た眼底血管の高度な硬化は跡を絶った。これは、長期的には老人性痴呆の減少につながるはずである。もっとも、長寿社会は、二〇年間で済んだカップルの維持を五〇年間に延長した。離婚率の増大はある程度それに連動しているはずだ。

むしろ、一九一〇年代に始まる初潮の前進が問題であるかもしれない、これは新奇な現象である。そのために、性の発現の前に社会性と個人的親密性を経験する前思春期が消滅しそうである。この一見目立たない事態が、今後、社会的・家族的動物としてのヒトの運命に大きな影響をもたらすかもしれない。それは過去の早婚時代とは違う。過去には性の交わりは夫婦としての同居後何年か後に始められたのである。
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問題はまだまだある。近親姦はアメリカでは家庭の大問題で、日本でもけっこうある。わたしは、その一部は、幼年時代からの体臭の共有が弱まったからではないかと思う。父親は娘には女性の匂いを性的に感受しないのが普通であった。娘だけは「無臭」なのであり、近親姦のタブーは生理的基礎があってのことだと私は思う。胎内で接した蛋白質を異物と感じない「免疫学的寛容」と同じことが嗅覚にも起っていると考える。この歯止めが過度の清潔習慣と別居など共有時間の減少とによって弱体化したのではないか。

児童虐待も、一部は、出産が不自然で長くかかり、喜びがなくなったからかもしれない。トレンデレンブルクの体位と言われる病院でのお産の体位は、医療側の都合にはよいが、出産には不都合である。私はあれがいかにいきみにくい姿勢かを知ったのは、手術後にオマルをあてがわれた時であった。そして、赤ん坊は、出産後数分、はっきりと眼が見え、それから深い眠りに入る。眠りは記憶のために最良の定着液である。しかし、今、最初に見るものは母親の顔ではない。母親から愛情を引き出す、子ども側の「リリーサー」(引き金)が損なわれている疑いを私は持っている。いちど虐待が始まると、ある確率で「虐待のスパイラル」に進む。それは虐待された子どもは虐待する親に対して無表情になり眼だけは敏感に相手を読みとろうとする。「フローズン・ウオッチフルネス」すなわち凍りついた「金属的無表情」「不信警戒の眼つき」である。これは「不敵」な印象を与えてしまい、いかに恭順の意を表しても「本心は違うだろう、面の皮をひんむいてやりたい」と次の虐待を誘い出す。いじめの時にも同じことが起る。被虐待者の「本心」が恐怖であり、ただもう逃れたいだけであっても、虐待者は相手の表情に不敵な反抗心を秘めていると読み取ってしまう。虐待者に被虐待体験があればそのような読み取りとなりやすいだろう。

私は、これだけで近親姦、児童虐待、配偶者殴打のすべてを説明するつもりはない。それらはフランスの古い犯罪学書にも記載がある。学級崩壊だってフランスでは一九世紀から大問題だった。だから最近だけのことではない。辿れば意外な根っこがみつかるだろう。
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難しさは、犯罪という概念が社会的概念であることである。それは家庭になじみにくい。実際、近親姦と児童虐待とに関して、法は、家庭の戸口で戸惑い、ためらい、反撃さえ受けている。個人は家庭にだけ属するのではないが、最後は家庭だという矛盾がここにある。私は、よくないと思われることを、社会が崩壊する前に、できることから変えてゆくしかないと思っている。

人類が家族に代わるものを発明していないとすれば、その病理を何とかするために、私の中の医者があれこれと考えていることを、一度人類まで問題を広げて考えていた。これは大風呂敷にすぎるかもしれない。しかし、私はこの一世紀かそこらの傾向から外挿するのは危険で、たぶん間違うと思っている。


◆経済再生 の鍵は 不確実性の解消  (池尾和人  大崎貞和)
ーーー野村総合研究所 金融ITイノベーション研究部2011

池尾:日本については、人口動態の問題があります。高齢化・少子化が進む中で、社会保障制度の枠組みがどうなるのかが、最大の不安要因になっていると思います。

 経済学的に考えたときに、一般的な家計において最大の保有資産は公的年金の受給権です。

大崎:実は、そうなんですよね。

池尾:今約束されている年金が受け取れるのであれば、それが最大の資産になるはずです。ところが、そこが保証されていません

 日本の家計の金融資産は過半が預貯金で、リスク資産に配分しようとしない、とよく言われます。会計上見える資産では確かにそうなっています。しかし、実は不安定な公的年金制度という枠組みを通じてリスクを取らされているとも言えるわけです。公的年金の受給権という資産が安全資産化すれば、ほかにリスクを取る余地が生まれてくるはずです。

 そういうことをやったからといって家計の将来に 対する自信が回復するかどうかは分かりません。しかし、自信を回復し得る環境を整える必要はあります。消費についても同じです。大きな不確実性を背負った状態で、 「活発な消費をしろ」と言われても、それは無理だと思います。

大崎:国は「公的年金で老後の生活は安心だ」という説明をしたいんだけれども、国民はそのようには受けとめていなくて、 「制度は変更されるかもしれない。どちらかというと悪いほうへ変わりそうだ」と読んで行動しているということですね。

池尾:そうです。

大崎:ただ、 「何年には給付を削減します」と宣言してしまうと、これはこれでまた不安を呼ぶのではないかとも思います。

池尾:例えば、公的支援が限定的だということになると、残りは自助で支えなければいけない、という意識が高まります。既に高齢の場合には、確かに心細さは生じます。ですが、いわゆる予備的動機で行われる予備的貯蓄と言われる部分については、貯蓄する必要性は下がるはずです。

大崎:それは、リスクが読める分、自助努力で補充すべき分がはっきり計算できるからですね。

池尾:自助と言われたときに準備する時間が残されている世代もあります。高齢世代に関しても、これまでの将来への不安から貯蓄に励んできて、大量の金融資産を保有している方も多くいらっしゃいます。要するに、自身の長生きリスクと公的支援の変更リスクの両方に備えているんです。

 ですから、先行きの見通しをはっきりさせることが、政策運営上求められていると思います。抜本的改革をやって、持続可能性を持った社会保障制度を確立するというのは大きな課題だと思います。
(……)

大崎:今のお話を伺っていて思ったのは、政策当事者が事態を直視するのを怖がっているのではないか、ということです。例えば、二大政党制といっても、イギリスやアメリカでは、高福祉だけれども高負担の国をつくるという意見と、福祉の範囲を限定するけれどもできるだけ低負担でやるというパッケージの選択肢を示し合っているように思います。

 日本ではどの政党も基本的に、高福祉でできるだけ増税はしない、どちらかというと減税する、という話ばかりです。実現可能性のあるパッケージを示すことから、政策当事者が逃げている気がします。

池尾:細川政権が誕生したのが今から18年前です。それ以後の日本の政治は、非常に不幸なプロセスをたどってきたと感じています。

 それ以前は、経済成長の時期でしたので、政治の役割は余剰を配分することでした。ところが、90年代に入って、日本経済が成熟の度合いを強めて、人口動態的にも老いてきた中で、政治の仕事は、むしろ負担を配分することに変わってきているはずなんです。余剰を配分する仕事でも、いろいろ利害が対立して大変なんですが、それ以上に負担を配分する仕事は大変です。

大崎:大変つらい仕事ですね。

池尾:そういうつらい仕事に立ち向かおうとした人もいたかもしれませんし、そういう人たちを積極的にもり立ててこなかった選挙民であるわれわれ国民の責任も、もちろんあると思います。少なくとも議会制民主主義で政治家を選ぶ権利を与えられている国においては、簡単に「政治家が悪い」という批判は責任ある態度だとは思いません。

 しかしながら事実問題として、政治がそういった役割から逃げている状態が続いたことが財政赤字の累積となっています。負担の配分をしようとする時、今生きている人たちの間でしようとしても、い ろいろ文句が出て調整できないので、まだ生まれていない、だから文句も言えない将来世代に負担を押しつけることをやってきたわけです。



…2040 年度までの世界と日本の見通しの中で、 日本にとって最も重要な課題の一つである財政や社会保障制度はどうなっていくだろうか。 公的年金にしろ、 医療保険にしろ、介護保険にしろ、現在の制度が長期的に維持可能であるのかどうか、強い不透明感がただよっており、人々の間には不安と不信が募っている。若者世代も、壮年世代も、引退世代も、生まれ年にかかわらず、それぞれがそれぞれの立場で鬱憤を抱え、日本の将来に明るい展望を持てないでいるようである。

また、既に GDP の約 2 倍に達している政府債務残高がさらに増えていっても何も問題が起きないとは考えられない。現在の財政状況が維持可能なものであるのかどうか、将来には大増税が必要にならないか、懸念は大きい。社会保障制度の改革は財政健全化と同時に達成しなければならない。社会保障給付は政府の財政を通じてなされている以上は、財政が安定的に運営されていなければ社会保障制度も不安定になってしまう。

社会保障制度の持続可能性が著しく低下していると考えざるを得ない理由は、働き方の多様化や家族形態の変化など多数あるが、最大の要因は、超少子化に起因する超高齢化である。年金、医療、介護の社会保障財政は、基本的に賦課方式といわれる仕組みで運営されているからである。賦課方式とは、その時点の国民の負担(社会保険料と税金)を財源にして、その時点の国民に給付を行う方式である。負担は主に現役世代が負い、給付は主に引退世代になされている。いわば、引退世代の生活を現役世代の負担で支えているわけである。
社会保障制度全体の財源に占める公費負担割合を現在のまま一定とする前提で試算すると、代替率 82.4%を維持した場合、 2030 年頃でも 20%程度の消費税率でないと中央・地方政府の基礎的財政収支は均衡せず (図表 7-5 参照) 、 社会保険料率は現在の 1.5 倍必要になる。 さらに、その状況を 2050 年頃まで延伸すると消費税率は 25%を超え、 社会保険料率は現在の約 2 倍となる。 これは、 現在 40%に満たない国民負担率51を 70%超に引き上げるということに相当する (図表 7-6 参照52、なお 2011 年度の財政赤字53を含む潜在的国民負担率は 48.6%)。代表的な福祉国家であるスウェーデンの現在の国民負担率が 62.5%(2009 年、潜在的国民負担率は 63.9%)であることなどに照らして、国民負担率 70%への道を辿るということは、日本の国家像や国民意識という点で考えにくいのではないか。

しかも、ここで消費税率 25%とは、かなり控えめにみた税率である。①医療や介護の物価は一般物価よりも上昇率が高いこと、②医療の高度化によって医療需要は実質的に拡大するトレンドを持つこと、③介護サービスの供給不足を解消するために介護報酬の引上げが求められる可能性が高いこと、④高い消費税率になれば軽減税率が導入される可能性があること、⑤社会保険料の増嵩を少しでも避けるために財源を保険料から税にシフトさせる公算が大きいこと――などの諸点を考慮すると、消費税率は早い段階でゆうに 30%を超えることになるだろう。では、 代替率を抑制していけばどうだろうか。 図表 7-5 や図表 7-6 にみるように、 代替率を 1割抑制する程度では大きな効果は得られない。 だが、 代替率を現在から 3 割程度抑制できれば、状況はかなり違ってくる。年金・高齢者医療・介護に関する賃金で測った実質給付を今より 3割減らして平均代替率を 57.7%とすれば、 2030 年頃までは消費税率を 10%台半ばに抑制し、 2050年時点でも消費税率を代替率一定ケースの約 7 割に抑制できる。上で述べた①~⑤の要因を考えると、代替率 3 割引下げとは、今後の 30 年程度をかけて現在の大陸欧州並みの付加価値税率を目指していくシナリオといえよう。代替率 3 割の引下げは、現在の年金水準の高さや高齢者医療の自己負担割合の低さなどを考えると、実現不可能ではないと考えられる。

ここで改めて確認したいのは、所得代替率の 3 割引下げとは、あくまでも賃金で測った実質給付水準の話だという点である。 ここでは長期の名目 GDP 成長率を年率 2%として試算しているが、 そのとき物価上昇率を 1%とすれば、 一般物価で測った実質給付水準を引き下げるほどの給付抑制にはならない(既出図表 7-3 参照)。つまり、代替率の 3 割引下げとは現在の給付水準を大幅にカットせよという意味ではない。高齢者の生活水準(年金や医療・介護)について、高齢者の数が増加する分はもちろん、物価上昇分についても名目給付額を増加させるシナリオである(社会保障支出総額は、物価上昇率と高齢者人口増加率の合計の率で増加している)。

もっとも、ここで物価は一般物価を考えているから、医療に係る物価や介護に係る物価が一般物価以上に上昇しやすいことを考えると、医療の物価や介護の物価でみた 1 人当たりの実質給付は多少抑制されなければならないかもしれない。ただ、医療や介護の価格は市場メカニズムで決まっているのではなく、政策的に公定されるため、一般物価の動向をみながら適正に改定していけば一般物価でみた場合と比べて極端に異なるということにもならないだろう。

また、 この試算に対しては、 名目 2%の成長が楽観的という批判があるかもしれない。 生産年齢人口が減少している中で GDP を伸ばしていくためには、生産性上昇率の向上が必要であり、名目成長率 2%で物価上昇率 1%とすれば(すなわち、実質成長率を約 1%とすれば)、2020 年代までは年平均 1%台後半の、 2030 年代以降は 2%超の生産性 (生産年齢人口 1 人当たりの生産量)の上昇が必要となる。その実現のためには不断の技術革新とそのための投資、そして資源配分の効率化が必要であり、それを目指す成長戦略が必要である。

だが、それは十分に可能性のあることである。生産年齢人口 1 人当たりの実質 GDP の伸び率は、資産バブル崩壊後の 1990 年代でさえ年平均 1%強、2011 年度までの直近 10 年間で年平均1.4%だった。生産性の上昇率を高めることは簡単ではないが、ベーシックな生産性向上努力の結果に相当するとみられる 1%に、 どれだけ創造性を追加的に上乗せできるかという問題ではないか。2020 年代において 1%台後半の生産性上昇率を実現しながら代替率を引き下げて社会保障制度を持続可能なものへと再構築して 2030 年代を迎えるという「国家の大計」が求められている。