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2014年9月28日日曜日

マジョリティの「選択的非注意」

いじめといじめでないものとの間にはっきり一線を引いておく必要がある。冗談やからかいやふざけやたわむれが一切いじめなのではない。いじめでないかどうかを見分けるもっとも簡単な基準は、そこに相互性があるかどうかである。鬼ごっこを取り上げてみよう。鬼がジャンケンか何かのルールに従って交替するのが普通の鬼ごっこである。もし鬼が誰それと最初から決められていれば、それはいじめである。荷物を持ち合うにも、使い走りでさえも、相互性があればよく、なければいじめである。

鬼ごっこでは、いじめ型になると面白くなるくるはずだが、その代わり増大するのは一部の者にとっては権力感である。多数の者にとっては犠牲者にならなくてやかったという安心感である。多くの者は権力側につくことのよさをそこで学ぶ。(中井久夫「いじめの政治学」)


排外デモで、“go home! ”というのは、いじめさ
相互性がないからな
(もっともイジメだけではないだろうことは重々わかっているつもりだが)

ということは誰かがすでに言っているだろうと思い
ネット検索してみると
なんとかの松島みどり「法務大臣」がオッシャッテイルではないか

「ヘイトスピーチの最たるものは子どものいじめ」とさ
で、《不見識発言に非難殺到》だって?

インテリ諸子はいったん嫌うとなんでも非難ってわけじゃないだろうな
それともオレが「不見識」なんだろうか?

誰か味方がいないかとさらに探せば
「男組」――レイシストデモの「カウンター」の連中が
 「ヘイトスピーチはいじめだ」声明しているじゃないか

反ヘイト活動でも、野間たちは怒りの感情を大いに利用した。しばき隊の支持者が歩道か ら中指を立てて拡声器で罵声を浴びせ、“実戦”を担う男組が刺青をちらつかせて在特会 デモに肉薄し、にらんで怒鳴りつける。その暴力的な画像をネットで拡散して炎上させ、さ らに動員をかけていく。男組“副長”の石野雅之は、自分たちを汚れ役だと自任している。 実際、去年から今年にかけて暴行や傷害の罪で“組長”らが検挙されている。こうした暴力 の嵐の中で在特会デモは衰退し、かつては数百人規模だったデモも今や固定メンバーし か集まらなくなった。中止になることもしばしばだ。(旧「レイシストをしばき隊」<首謀者>野間易通


松島みどり大臣は男組をパクっただけじゃないのか

ヘイトスピーチをする人々に対しては“目の前で行われている「いじめ」に「おい、それ止めろ!」と私たちは言い続けます。差別やいじめに対して難しい理屈は要らないのです。(釈放された「男組」 差別ない社会目指すと改めて宣言

どうだい、インテリ諸子よ
ツイッターで脊髄反応的に語ってしまったことを批判するつもりはないさ
さしあたっての急務は、
きみたちが単なる馬鹿であるかどうかの穿鑿にあるわけではないし、
また脊髄反応装置としてのツイッターの恐ろしさは、
とても馬鹿とは思えない人間の思考をも
無償の饒舌化する点にあるのだからな

ーーというのはもちろんパクリさ

だが、さしあたっての急務は、『文章読本』の著者(丸谷才一:引用者)が単なる馬鹿であるかどうかの穿鑿にあるわけではないし、また、教育装置としての風景の恐ろしさは、とても馬鹿とは思えない人間の思考をも「知」的に分節化する点にあるのだから、いましばらくは、現代の風景論的な展開にいま少しつきあわねばならない。それは存在から「知」を奪い、あらゆる人間を痴呆化させるからではなく、むしろ「知」の流通を活性化させながら思考の体系化をめざすかにみえて、逆に思考を単調なる物語の一挿話としてそ知らぬ顔で分節化し、イメージによる相互汚染を普遍性と錯覚させてしまう点が恐ろしいのだ。(蓮實重彦「風景を超えて」『表層批評宣言』所収) 

さて急務のほうは、傍観者の「選択的非注意」のほうだな

いじめは次第に「透明化」して周囲の眼に見えなくなってゆく。

一部は、傍観者の共謀によるものである。古都風景の中の電信柱が「見えない」ように、繁華街のホームレスが「見えない」ように、そして善良なドイツ人の強制収容所が「見えなかった」ように「選択的非注意 selective inatension」という人間の心理的メカニズムによって、いじめが行われていても、それが自然の一部、風景の一部としか見えなくなる。あるいは全く見えなくなる。(「いじめの政治学」)

嫌韓・嫌中本は売れるので、国際空港であろうと目立つところに置く」のたぐいは今では至る所にあるのであって、「善良」なひとたちは「選択的非注意」で対応しているのじゃないか。

ちがうかい?、傍観者の「優等生」たちよ
みずから「日本人」というマジョリティーに同化して

浅田) 「逃走」とは簡単に言うと「マイノリティーになること」。在日韓国・朝鮮人へのヘイトスピーチのように、自分を「日本人」というマジョリティーに同化しようとすることで、激烈な排除が生まれる。しかし、自分も別の次元ではマイノリティーだと気づけば、対話や合意なしでも共存は可能になる。

そこで、「優等生」は、ネットを使って声なき声を拾い上げ対話を密にするなど、民主主義のバージョンアップを目指す。それはそれでいい。しかし、「優等生」が「マイノリティーの声に耳を傾けよう」と熱弁をふるっているとき、そんな議論自体に耐えられなくて黙って出て行くのが真のマイノリティーたる「不良」でしょう。「切断」の思想は、そうやって対話から逃げる自由を重視する「不良」のすすめだと思います。

千葉) そうですね。「不良」というのは、社会の多様性の別名ですから。対話を工夫することは必要だとしても、そもそも必要なのは、誰だって様々な面で「不良」でありうる、マイノリティーでありうるという自覚を活性化することである、と。「優等生」の良かれと思っての接続拡大の訴えからも「切断」される自由を認めなければ、「優等生」のその「良かれ」は機能しないということになるでしょう。多様な「不良」を擁護する、それが「切断」の哲学ですね。(つながりすぎ社会を生きる 浅田彰さん×千葉雅也さん 2013.12)

ここでは敢えて「不良」や「切断」なんてことはいわないさ
ただ「選択的非注意」やら
《「見たくないもの」を見ない〈心の習慣〉》(丸山真男)やらは
なんとかならないものだろうかね、

それに松島みどり大臣発言を批判する大学教師らしきおっさん、お嬢さんよ
同じ人に対して同じように怒りをぶつけ
同じ人に対して同じように賞賛する
脊髄反応装置に浸りきったツイートの
「相互汚染作用」の餌食ってわけじゃないだろうな
まさか《世の中で一番始末に悪い馬鹿、背景に学問も持った馬鹿》(小林秀雄)
というわけではあるまい

ただツイッターにて集団ヒステリーになってるだけだろ?

《だれも、ひとりひとりみると/かなり賢く、ものわかりがよい/だが、一緒になると/すぐ、馬鹿になってしまう》(シラー フロイト『集団心理学と自我の分析』より孫引き

現代日本の精神構造は、中世の魔女裁判のときやヒットラーのユダヤ人迫害のときの精神構造とそれほど隔たったものではない。ほとんどの人は安心してみんなと同じ言葉をみんなと同じように語る。同じ人に対して同じように怒りをぶつける。同じ人に対して同じように賞賛する。(『醜い日本の私』中島義道)

ーーと書くオレもきみらのツイートの前後の文脈を読まずに
こう書いてんだから同じ穴の狢かもな
ツイッターだけでなくブログも似たようなものさ


……もろもろのオピニオン誌の凋落は、「あたしなんかより頭の悪い人たちが書いているんだから、あんなもん読む気がしない」といういささか性急ではあるがその現実性を否定しがたい社会的な力学と無縁でない。そんな状況下で、人がなお他人のブログをあれこれ読んだりするのは、それが「あたしなんかより頭の悪い人たちが書いている」という安心感を無責任に享受しうる数少ない媒体だからにほかならず、「羞恥心」のお馬鹿さんトリオのときならぬ隆盛とオピニオン誌の凋落とはまったく矛盾しない現象なのだ。〔蓮實重彦「時限装置と無限連鎖」)

安心感を無責任に享受させてしまったかな
でも「厚顔無恥」の「無限連鎖」だけはやめとけよ

…………

非常に多くのものが権力欲の道具になりうる。教育も治療も介護も布教もーー。多くの宗教がこれまで権力欲を最大の煩悩として問題にしてこなかったとすれば、これは実に不思議である。むろん、権力欲自体を消滅させることはできない。その制御が問題であるが、個人、家庭から国家、国際社会まで、人類は権力欲をコントロールする道筋を見いだしているとはいいがたい。差別は純粋に権力欲の問題である。より下位のものがいることを確認するのは自らが支配の梯子を登るよりも楽であり容易であり、また競争とちがって結果が裏目に出ることがまずない。差別された者、抑圧されている者がしばしば差別者になる機微の一つでもある。(「いじめの政治学」)

中井久夫の「いじめの政治学」というのは、
中井版フロイトの『集団心理学と自我の分析』みたいなものだからな、
ラカンが「ヒトラー大躍進への序文」と評した論文さ
日本のネオナチ躍進の序文として読んだほうがいいかもな

いじめが権力に関係しているからには、必ず政治学がある。子どもにおけるいじめの政治学はなかなか精巧であって、子どもが政治的存在であるという面を持つことを教えてくれる。子ども社会は実に政治化された社会である。すべての大人が政治的社会をまず子どもとして子ども時代に経験することからみれば、少年少女の政治社会のほうが政治社会の原型なのかもしれない。

いじめはなぜわかりにくいか。それは、ある一定の順序を以て進行するからであり、この順序が実に政治的に巧妙なのである。ここに書けば政治屋が悪用するのではないかとちょっと心配なほどである

私は仮にいじめの過程を「孤立化」「無力化」「透明化」の三段階に分けてみた。(……)これは実は政治的隷従、すなわち奴隷化の過程なのである。(「いじめの政治学」)

ネオナチ猖獗を「透明化」するのだけはやめとけよな
すなわち「選択的非注意」に憩うのだけは。


※附記:現在の自民党のイメージ


二〇世紀の数々の政治体制のまれにみる統合。

自由主義から飢える自由(格差是認)、高価な過ちを犯す自由(たとえば経済のために原発再稼動)、戦争の自由(徴兵制復活やら核軍備など)。共産主義から国民の羊化と情報統制、強制収容所化。民主主義から名もない一般大衆の付和雷同的「衆愚」とレイシズム(異質なものの排除)。ファシズムから独裁と大衆の喝采(ヒステリー的な態度によって主人を選出。誤りを犯すことがわかっているような無能な主人が選ばれる)。資本主義からバブルと剥き出しな資本の利害。ケインズ主義から自己循環論法(美人投票論、合理性のパラドックス)。自民党からかつてのその名前。