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2014年9月15日月曜日

「憐れみの海」の中で息をつける者は幸福だ

フロイトは『ある幻想の未来』をロマン・ロランに贈呈した。その書に対するロマン・ロランの感想の手紙には次のようにある(フロイト『文化への不満』より)。

「自分は宗教についてのあなたの判断にまったく賛成である。しかし、あなたが宗教のそもそもの源泉を十分評価していないのが残念だ。それは一種独特の感情で、つねづね一瞬たりとも自分を離れず、ほかの多くの人々も自身がその種の感情を持っていることをはっきり述べているし、また無数の人々についても事情は同じと考えてよいものだ。それは、「永遠」の感情と呼びたいような感情、なにかしら無辺際・無制限なもの、いわば「大洋」のようなものの感情である。この感情は、純粋な主観的事実で、信仰上の教義などではない。この感情は、死後の存続の約束などとは無関係であるが、宗教的エネルギーの源泉であり、さまざまの教会や宗教的体系によって捕捉され、一定の水路に導かれ、じじつたしかに消費されてもいる。たとえすべての信仰、すべての幻想は拒否する人間でも、こうした大洋的な感情を持ってさえおれば、自分を宗教的な人間だと称してさしつかえない」

フロイトは、《私自身のどこをどう探してもこの「大洋的な」感情は見つからない》な、とかなり嘲弄的とも読める反応をしている。《参照:あなたを落ち込ませることとは? /アホな連中が幸せそうにしているのを見ること》。そして「このばら色の光の中で息をつける者は幸福だ」と。


…………

坂口恭平 @zhtsss東浩紀さんの「弱いつながり」読了。僕は東さんの「一般意志2.0」を読んで鼎談したのが初対面だったのだが、僕は出会い頭に「一番感動したのは第十三章で『憐れみの海』という四文字でした」と言った。ふとそのことを思い出した。何だか全く違う方向向いているようで、意外と東さんとシンクロしてる

――だそうだ。わたくしはどちらの書も読んだことがないが(読んでない本についてこうやって書くのは気が引けるが)、どうやら「憐れみの海」とは、ルソー起源らしい。

ゲンロン形而上学クラブ@superflat_2『弱いつながり』では、人々が「憐れみ」の感情で弱く繋がることを説いたルソーの社会契約論が重視されているが(p106)、日本の「地域アートの諸問題」について考えるときも、この「弱さ」が議論の最も重要なポイントになる。それはホッブズやロックの説いた「強い」社会契約論とは異なっている。

東浩紀氏の『一般意志2.0』には「憐れみ」について次のようにあるそうだ――ウェブ上で拾ったので正確であるかどうかはわからない。

熟議が閉じる島宇宙の外部に『憐れみの海』が広がり、ネットワークと動物性を介してランダムな共感があちこちで発火している、そのようなモデル

あるいは、

東浩紀botβ @spectralisation · 2011年4月9日
人間の理念は閉じる。コミュニケーションも閉じる。しかしその外側に、動物的な「憐れみ」の海=ネットワークが拡がっており、自由も民主主義ももはやその海をこそ基盤に設立されるほかない

ルソー自身の言葉もも引こう。

……人間には身体的な不平等が存在する。年齢、健康、精神の差などがこれに当たる。これは自然に規定される不平等であって、無くすことはできない。それゆえ私が不平等を問題にするときには、社会的不平等のほうを指している。社会的な不平等は政治的な不平等であり、これは約束にもとづき合意によって定められるものだ。

その平等が失われてしまっている。それはなぜか?人びとが生活の知恵を身につけたからだ。自然は人間に対して厳しく振る舞う。つまり強者だけが生き残り、弱者は滅んでしまう。しかし住まいを得ることによって人びとは堕落し始める。そうして人びとの間の差異が次第に拡大してしまうのだ。

自然生活の人間の心は平和で、かつ身体は健康だ。ひとびとはの間に従属関係は存在しないし、闘争状態も存在しない。なぜなら彼らには憐れみの情(憐憫)が備わっているからだ。したがって強者による法律も存在しない。(ルソー『人間不平等起原論』

ルソーには「自己愛amour-de-soi/利己愛amour-propre」という概念もある。

素朴な情念はすべて直接にわれわれの幸福をめざしているので、それに関係のある目標しかわれわれをかかわらせず、自己愛amour-de-soiのみを原理としているので、本質的にまったく優しく穏やかなものなのです。しかし障害によって目標からそらされると素朴な情念は到達すべき目標よりも避けるべき障害のほうにかかずらって性質を変えてしまい、怒りっぽく憎しみに満ちた情念になる。まさにこのようにして、善なる絶対感情である自己愛amour-de-soiが、利己愛 amour-propre、すなわちたがいを比較させ選り好みさせる相対感情になるわけです。利己愛のもたらす喜びはただただ否定的なもので、利己愛はもはやわれわれ自身の幸福によってではなく、他人の不幸によってのみ満足させられるのです。(『ルソー、ジャン=ジャックを裁く--対話』)

このルソーの文に注目しつつ、ジジェクは、『Less Than Nothing』(2012)の最終章で、《邪悪な輩は、自己愛者=エゴイストのことではない、なぜならエゴイストは自らの関心/利益にのみ注意を払うことに忙しく、他人の不幸などにかまっているほど余裕はないのだから。本当に厄介な「悪人」とは、自身へよりも他人への関心に没頭してしまう連中だ》という意味合いのことを語っている。

An evil person is thus not an egotist, "thinking only about his own interests." A true egotist is too busy taking care of his own good to have time to cause misfortune to others. The primary vice of a bad person is precisely that he is more preoccupied with others than with himself.(A modest plea for enlightened catastrophism Slavoj Zizek


利己愛 amour-propreは、いうまでもなく怨恨(ルサンチマン)に関わってくるだろう。

怨恨。おまえが悪い、おまえのせいだ……。投射的な非難と不平。私が弱く、不幸なのはおまえのせいだ。反動的な生は能動的な諸力を避けようとする。反動的な作用は、「動かされる」ことをやめ、感じ取られたなにものかとなる。すなわち能動的なものに敵対して働く「反感=怨恨」となる。それでひとは能動に「恥」をかかせようとする。生それ自身が非難され、その<力>から分離され、それが可能なことから切り離される。小羊はこう呟くのである。「私だって鷲がするようなことはなんでも、やろうと思えばできるはずだ。それなのに私は感心にも自分でそんなことはしないようにしている、だから鷲も私と同じようにしてもらいたい……」。(ドゥルーズ『ニーチェ』)

さてここで唐突にナボコフのややイヤミな言葉を引用しておこう。

私たちは『感傷性』と『感受性』とを区別しなければならない。感傷的な男は暇な時間には全くの野獣になりかねない。感受性の豊かな人間は決して残酷な人間ではない。感傷的なルソーは泣かんばかりに進歩的思想を語ったが、一方で自分が産ませた大勢の私生児を方々の救貧院や感化院に入れたきり、一顧だにしなかった。(……)ドストエフスキーを 感傷的な作家と呼ぶ場合、それは、読者の側に因襲的な同情の念を機械的に惹起しようと、 ありふれた感情を非芸術的に誇張する作家、という意味なのである。(ナボコフ『ロシア文学講義』ーー「ルソーのきれいごと」)

ーーと引用しても、なにもルソーに恨みがあるわけではない。東浩紀氏がおそらくやっているようにーーそしてジジェクにも最近その気配があるーールソーの「可能性の中心」を読んだらよいのだ。

ただひとには憐れみを抱いて「同情」し行動に移すこともあれば、逃げてしまうこともある。多くの場合「卑怯と勇気とはしばしば紙一重」であるだろう。

フロイトによれば、《同情は同一化から生まれる》(フロイト『集団心理学と自我の分析』)。すなわち同情するから同一化するのではなく、同一化するから同情する(ラカンが同一化セミネールで語る小文字の他者への同一化、大文字の他者との同一化、ジジェクの想像的同一化、象徴的同一化、理想自我/自我理想との同一化の議論とか、さらに三種類の同一化などの議論はここでは脇にやる)。

ここでは、まずは次の文を抜き出そう。

同一化は前記のように、感情結合のもっとも初期のもっとも根源的な形式である。そして症状形成や、したがって抑圧や無意識の機制が支配する条件のもとでは、対象選択がふたたび同一化になり、このようにして自我が、この同一化のさいに、ときには好まない人物を、また、ときには愛する人物を模写することは注目に値する。両方の場合はいずれもこの同一化は部分的で、極度に制限されたものであり、対象人物の一つの特色a single traitだけを借りていることも、われわれの注意をひくにちがいない。(フロイト『集団心理学と自我の分析』)

このフロイト英訳から拾った「a single trait一つの特色」がおそらく”Ein einziger Zug”だと思うがーーラカンの”UNARY TRAIT”--、ドイツ語原文をみてみることは今はしない。

一般的に、人が特定の人物と同一化を起こす場合、対象となる人物の様々な性格を取り入れるのではなく、たった一つの特徴を取り入れるという形で生じるという興味深い事実があるのです。これはフロイトが指摘したことです。同一化というとその人の特質を出来る限り取り入れることだと思いがちですが、実はたった一つの特徴を取り入れればそれで足りるのです。フロイトはこのたったひとつの特徴のことを Ein einziger Zug と呼んでいます。

 同一化 identification においては、様々な特徴ではなく、たった一つの特徴を取り込むのです。Ein einziger は「唯一の」「たった一つの」、Zug は「特徴」です。フロイトの天賦の才は、こういう洞察のなかにパッと現われるんですね。(藤田博史「セミネール断章 2012年6月9日講義より」


すなわち「ときには好まない人物」にも、そしてたったひとつの特徴で、同一化する。そしてその同一化により、同情や憐れみが生まれうる、としておこう。

 さてここで反ルソーのニーチェの「同情」をめぐる文を引こう。《カントをもまた、道徳の毒蜘蛛であるルソーが刺していた。カントにもまた、魂の底には道徳的な狂信の思想が伏在していた。》(『曙光』序文 茅野良男訳)とあるように「道徳の毒蜘蛛」ルソー批判として読むことができる以下の文である。

「もはや私のことを思わない。」――まあ本当に徹底的にとくと考えてもらいたい。眼の前で誰かが水の中に落ちると、たとえ彼が全く好きでないにもせよ、われわれがそのあとから飛びこむのは、なぜか? 同情のためである。そのときわれわれはもう他人のことだけを思っている。――と無思慮がいう。誰かが血を吐くと、彼に対して悪意や敵意さえ持っているのに、われわれが苦痛と不快を感じるのは、なぜか? 同情のためである。われわれはその際まさしくもはや自分のことは思っていない。――と無思慮が言う。

真実は、同情というときーー私は間違ったやり方で通常同情と呼ばれるのが常であるもののことを考えているのだが、――われわれはなるほどもはや意識的にわれわれのことを思っていないけれども、極めて強く無意識的にわれわれのことを思っているのである。ちょうど足がすべったとき、われわれにとって現在意識されていないが、最も目的にかなった反射運動をし、同時に明らかにわれわれの知性全体を使用しているように。

他人の不幸は、われわれの感情を害する。われわれがそれを助けようとしないなら、それはわれわれの無力を、ことによるとわれわれの卑怯を確認させるであろう。言いかえると、それはすでにそれ自体で、他人に対するわれわれの名誉の、またはわれわれ自身に対するわれわれの名誉の減少を必然的にともなう。換言すれば、他人の不幸と苦しみの中にはわれわれに対する危険の指示がある。そして人間的な危うさと脆さ一般の目印としてだけでも、それらはわれわれに苦痛を感じさせる。

われわれは、この種の苦痛と侮辱を拒絶し、同情するという行為によって、それらに報復する。この行為の中には、精巧な正当防衛や、あるいは復讐さえもありうる。われわれが根底において強くわれわれのことを思うということは、われわれが苦しむもの、窮乏するもの、悲嘆するものの姿を避けることのできるすべての場合に、われわれの行なう決心からして推測される。われわれが一層強力なもの、助けるものとしてやって来ることができるとき、喝采を博することの確実であるとき、われわれの幸福の反対のものを感じるのを望むとき、あるいはまたその姿によって退屈から脱出することを期待するとき、われわれは避けることをしまいと決心する。そのような姿を見るときわれわれに加えられ、しかも極めて多種多様でありうる憂苦を同情と名づけることは、間違った道に導く。なぜなら、どんな事情があっても、それは、われわれの前で苦しんでいる者とは関係がない憂苦であるからである。……(ニーチェ『曙光』第133番)

ーーと引用したが、重ねて書くようにルソーに恨みがあるわけではない。ただ「憐れみの海」などという言葉に素直に感動してしまえる坂口恭平さん(1978年4月13日 - )は、建築家・作家・絵描き・踊り手・歌い手であるらしい。《一番感動したのは第十三章で『憐れみの海』という四文字でした》。きっと純朴な方なのだろう。

もっとも純朴さから遠く離れているようにみえるクンデラにも、《ニーチェの馬の首を抱き、涙を流す》刻限をめぐる次のような文がある。

ニーチェがトゥリンにあるホテルから外出する。向かいに馬と、馬を鞭打っている馭者を見る。ニーチェは馬に近寄ると、馭者の見ているところで馬の首を抱き、涙を流す。

それは一八八九年のことで、ニーチェはもう人から遠ざかっていた。別のことばでいえば、それはちょうど彼の心の病がおこったときだった。しかし、それだからこそ、彼の態度はとても広い意味を持っているように、私には思える。ニーチェはデカルトを許してもらうために馬のところに来た。彼の狂気(すなわち人類との決別)は馬に涙を流す瞬間から始まっている。

そして、私が好きなのはこのニーチェなのだ、ちょうど死の病にかかった犬の頭を膝にのせているテレザが私が好きなように私には両者が並んでいるのが見える。二人は人類が歩を進める「自然の所有者」の道から、退きつつある。(クンデラ『存在の耐えられない軽さ』P332ーー「軽さと重さ」)


と引用してさえ、まだかなりイヤミとして読まれる可能性があるので、ここではニーチェと異なり、「穏和な」精神科医中井久夫の文を引用しておこう。

圧倒的な危機においては、従来の習慣にしがみつく構えと、新しい発想に打って出ようとする構えとの基盤は一見ほどには大きく相違するものではない。沈没しようとする艦船の船腹に最後までしがみつくか、フネを見捨てて敢えて海に飛び込むかという選択のいずれが正しいかはいうことができない。生存のチャンスは全くの賭けなのである。フネが沈没した後、今脇に抱えている板切れにしがみつきとおすか、それを棄てて近づいてくるようにみえる救助船に向かって泳ぎだすかも、全くの賭けである。救助船は私を認めていなくて旋回して去ってゆくかもしれないし、すでに満員であって、ふなべりにかけて私の手は非情にもナイフで切り落とされるかもしれない。

半分は、ふだんの構えによって決まるが、半分は、いったん一つの構えを取ると、それを取りつづける傾向が強い。

もっと一般的に、池で溺れている少年、あるいはいじめられようとしている少女を目撃した場合に、見て見ぬふりをして立ち去るか、敢えて救助に向かうかの決定が紙一重となる瞬間がある。この瞬間にどちらかを選択した場合に、その後の行動は、別の選択の際にありえた場合と、それこそハサミ状に拡大してゆく。卑怯と勇気とはしばしば紙一重に接近する。私は孟子の「惻隠〔みてしのびざる〕の情」と自己保存の計算との絞め木にかけられる。一般に私は、救助に向かうのは最後までやりとおす決意とその現実的な裏付けとが私にある場合であるとしてきた。中途放棄こそ許されないからである。「医師を求む」と車中で、航空機中で放送される度に、外科医でも内科医でもない私は一瞬迷う。私が立つことがよいことがどうか、と。しかし、思いは同じらしく、一人が立つと、わらわらと数人が立つことが多い。後に続く者があることを信じて最初の一人になる勇気は続く者のそれよりも大きい。しかし、続く者があるとは限らない。日露戦争の時に、軍刀を振りかざして突進してくるロシア軍将校の後ろに誰も続かなかった場合が記録されている。将校は仕方なく一人で日本軍の塹壕に突入し、日本軍は悲痛な思いで彼を倒した(日本将校にとっても明日はわが身かもしれない)。(中井久夫「一九九六年一月・神戸」『復興の道なかばで  阪神淡路大震災一年の記憶』所収ーー)


《半分は、ふだんの構えによって決まるが、半分は、いったん一つの構えを取ると、それを取りつづける傾向が強い》ーーすばらしい言葉だ。たとえば、いったん反レイシズム、反ネオナチ、反原発の姿勢を取ったら、それを取り続ける傾向が強いだろう。そうでなかったら、いつまでも曖昧な姿勢を取ったり、完全無視してすずしい顔に終始することだってありうる。

さらにはまた「大洋的感情」やら「憐れみの海」やらに感動する心性の、象徴的効果をもあなどってはならない。

象徴的機能に目を眩ませることなく、自分の眼だけを信じ続ける人は、いちばん間違いを犯しやすいのである。自分の眼だけを信じている冷笑者が見落としているのは、象徴的虚構の効果、つまりこの虚構がわれわれの現実を構造化しているということである。美徳について説教する腐敗した司祭は偽善者かもしれないが、人びとが彼の言葉に教会の権威を付与すれば彼の言葉は人びとを良き行いへと導くかもしれない。(ジジェク『ラカンはこう読め!』)

これがラカンが「騙されない人は彷徨うLes non-dupes errent」で言おうとしたことだ。


…………

いずれにせよ、われわれは同一化して同情や憐れみの感情を抱いたにしろ、「惻隠の情」と自己保存の計算との絞め木にかけられることがある。そのバランスの秤が各人によってかなり異なるのだろうが、それはなぜなのか。いまのところ、それはトラウマにかかわるのではないか、という思いがあるが、議論の展開をするつもりはなく、ここでもまた引用ですませておく。


……心的外傷には別の面もある。殺人者の自首はしばしば、被害者の出てくる悪夢というPTSD症状に耐えかねて起こる(これを治療するべきかという倫理的問題がある)。 ある種の心的外傷は「良心」あるいは「超自我」に通じる地下通路を持つのであるまいか。阪神・淡路大震災の被害者への共感は、過去の震災、戦災の経験者に著しく、トラウマは「共感」「同情」の成長の原点となる面をも持つということができまいか。心に傷のない人間があろうか(「季節よ、城よ、無傷な心がどこにあろう」――ランボー「地獄の一季節」)。心の傷は、人間的な心の持ち主の証でもある(「トラウマとその治療経験――外傷性障害私見」『徴候・記憶・外傷』所収P93ーー「ネオナチ完全無視のすずしい顔の手合い」)

中井久夫は、阪神・淡路大震災の現場で、ボランティアの茶色や金色に髪を染めた若者たちが、率先して動くのに感嘆している、こういったときに人間の真価が出る、と(いまその文が探し出せないでいるので記憶で書いている)。彼らの多くは、通常の人に比べて、なんらかのトラウマを抱えているひとたちが多いのではないか、とまでは言っていないが、ほとんどそういいたい口ぶりではないか、とわたくしは「錯覚」に閉じこもり得たことがある。



※附記

……新しい災害は過去の災害によるPTSDの症状を呼び覚ます。愛知県の義援金が他府県を抜いて格段に多い事実は、伊勢湾台風のPTSDが呼び覚まされたためではないだろうか。名古屋に赴いた時、それは三月の末であったが、震災が昨日のことであったかのように、盛んに義援金の募集が行われ、『中日新聞』に載る額も、小企業で一千万円、個人で十万円、百万円と「半端じゃなかった」。人々は「名古屋人はケチといわれているけれど、出す時は出すんだ」と胸を張って、伊勢湾台風との関連は意識していないようであった。しかし、ひとごとではないという気分が人々の間にあった。

老人たちは戦争の記憶を新たにした。戦後五〇年という「記念日現象」と重なって、まだ済んでいない精神的債務への態度が何か変わってきたと私は思う。

神戸人は伊勢湾台風の時は救援に熱心ではなかった。しかし、サハリン地震の義援金募集は、勤務先でも地域でも早く、また盛んであった。新潟の水害の知らせを聞いてボランティアがすぐ出発した。思わず微笑するほどであった。

このように、PTSDは、障害としてマイナスの意味だけを帯びるのではない。「ひとごとではない」という連帯の意識を呼び覚ます力にもなる。実際、関東大震災の時には被災者は全国に散った。片道切符をもらって東北本線に乗るか、軍艦で清水港、時には大阪まで運ばれるか、バラックを自力で建てるしかなかった。東京の人口は相当年数、大阪を下回ったのである。今回の震災では、全国が神戸にやってきた。さらには海外さえも。再び鮮やかになった過去の心の傷に導かれて被災地に関与したという面がないであろうか。誰か心の傷がない人があるだろうか。まして、この二十世紀においてーー。この支持が孤立感をどれだけ和らげたことか。PTSDが予想よりも軽く経過しつつあるのではないかという多くの精神科医の観察は、もし真実ならばこの支持なしにはありえなかったことである。

個人のいのちに対しても、PTSDは決してマイナスばかりではない。最初の現実感喪失、呆然状態でさえ、事態を見極めてから動くゆとりを与えるものと考えられないだろうか。気分の高揚と過剰な活動なしでは、修羅場を切り抜けられるだろうか。ただ、これはもっと自然と近かった時代、おそらく動物としての危機回避反応であろう。地震によって大被害が起こるのは都市ならばこそである。たまたま私は福井大震災を阪神間の畑の中で体験した。結構な揺れであったが、要するにしばらく地面とともに揺れていれば済んだのであった。

PTSDは、精神医学の新奇な一症候群というだけではない。統合失調症にせよ、躁鬱病にせよ、神経症にせよ、これらは、精神の内科的な病いである。これに対して、PTSDは、外傷後ストレス障害という名のとおり、心に負った傷という精神の外科的な障害である。今回の震災が日本の精神医学にもたらしたものといえば、心の外科的障害への開眼であろう。

精神障害が誰にでも起こりうるという、当たり前の事実は、一般公衆にも、精神科医にも、この震災によってはじめてはらわたにしみて認識されたのではないか。全国から集まった精神科医たちも、現場にあって多くのことを学んだ。主に遺伝素因によって精神障害が起こると考えていた研究者が、状況によって起こることを目の当たりにして素朴な驚きを語った。(中井久夫「阪神大震災八カ月に入る」『復興の道なかばで  阪神淡路大震災一年の記録』所収)







2014年9月13日土曜日

ネオナチ完全無視のすずしい顔の手合い

そもそもオレはなぜ日本のネオナチの醜悪さ・猥雑さに
こんなに不快と苛立ちをこんなに覚えるんだろ?
完全無視してすずしい顔の手合いも多いよな
あるいは嘆かわしく恐ろしい事態として憂う連中
すなわち本気で憂慮するわけではなく、
いつでも身を引くことができる身構えしてるヤツラだな
オレの苛立ちはそうじゃなさそうなんだな
どうだい? フロイトせんせ

…他人に対する一連の非難は、同様な内容をもった、一連の自己非難の存在を予想させるのである。個々の非難を、それを語った当人に戻してみることこそ、必要なのである。自己非難から自分を守るために、他人に対して同じ非難をあびせるこのやり方は、何かこばみがたい自動的なものがある。(フロイト『あるヒステリー患者の分析の断片』(症例ドラ))

オレもナチの資質をもってるのかいな
あいつらにオレの「否認された」内面のどろどろした部分をみせつけられるってわけかな
オマエな、追い討ちかけんなよ

自己を語る一つの遠まわしの方法であるかのように、人が語るのはつねにそうした他人の欠点で、それは罪がゆるされるよろこびに告白するよろこびを加えるものなのだ。それにまた、われわれの性格を示す特徴につねに注意を向けているわれわれは、ほかの何にも増して、その点の注意を他人の中に向けるように思われる。(プルースト『花咲く乙女たちのかげに』井上究一郎訳)

まあいいさ、オマエらふたり完全無視するぜ
ーーというわけにもいかないのか

ここでふたたび、反ユダヤ主義、反ユダヤ人妄想を思い返してみよう、この幻想(ファンタジー)の根源的な間主観的な性質の例として。ユダヤの陰謀という社会的幻想は、“社会は私から何を欲しているのか?”という問いにたいして返答を与える試みなのである。それは私が余儀なく参加させられる後ろ暗い出来事の意味を明るみに出す。この意味で、“投射”の標準的な理論、すなわち反ユダヤ主義者は、ユダヤ人の姿に自らの否認された部分を“投射する”という考え方では不充分である。“概念としてのユダヤ人”の姿は、反ユダヤ主義者の“内面的な葛藤”の外面化に帰すことはできない。逆に、それは次の事実(あるいはこの事実をなんとか処理しようとする)証拠である。すなわち主体はもともと非中心化されており、その意味と論理がコントロールを逃れてしまう不明瞭なネットワークの部分であるという事実である。

この理由で、幻想の横断traversée du fantasmeの問い(ひとびとの享楽を組織する幻想的な枠組みから最小限の距離をとるにはどうしたらいいのか? その効力を宙吊りにするにはどうしたらいいのか?)は精神分析的な治療とその終結にとって決定的なことだけではなく、われわれのこの時代、レイシストの高揚が再活性化された、あるいは世界的な反ユダヤ主義のこの時代において、おそらくまた最前線の政治的な問いでもある。伝統的な啓蒙主義的態度の不能ぶりは、反レイシスト運動の連中がもっともよい例になる。彼らは理性的な議論のレベルでは、レイシストの〈他者〉を拒絶する一連の説得力のある理由を掲げる。しかし、それにもかかわらず、彼らは自らの批判の対象に明らかに魅せられている。結果として、彼らのすべての防衛は、現実の危機が発生した瞬間(たとえば、祖国が危機に瀕したとき)、崩壊してしまう。それはまるで古典的なハリウッド映画のようであり、そこでは、悪党は、――“公式的には”、最終的に非難されるにしろ、――それにもかかわらず、われわれの(享楽の)リビドーが注ぎ込まれる(ヒッチコックは強調したではないか、映画とは、ただひたすら悪人によって魅惑的になる、と)。

最も重要な課題は、敵を弾劾し打ち負かすことではない。その仕事は容易に、敵のわれわれを把持を強めてしまう結果に終わる。肝要なのは、われわれを魅了させる(幻想的な)呪縛をどうやって中断させるかということだ。幻想の横断traversée du fantasmeのポイントは、享楽から免れることではない(旧式の左翼の清教徒気質モードのような)。むしろ、幻想にたいして最小限の距離をとるということは、いわば、幻想的な枠組みから享楽を“鉤から外し取る”ということであり、かつまた享楽は、非決定的な、分割的ない残余であることに気づくことである。すなわちそれは、歴史的な慣性の支持をする固有に“反動的”なものでもなく、かつまた既存の秩序の束縛を掘り崩す解放的な勢力でもないのだ。(ジジェク『LESS THAN NOTHING』私テキトウ訳)

ネオナチという悪役にじつは魅了されてるだって?
で幻想にたいして最小限の距離をとる?
ーーそんな厄介にも穿ったこというなよ、ジジェクさんよ

まあここではレベルを落としてちょっと疑ってみるだけにするよ
反ファシズムを声高に言い募る「正義」のひとたちは
たとえば実は「権力欲」の強いヤツではないかと

われわれは、権力志向という「人間性」が変わることを前提とすべきでなく、また、個々人の諸能力の差異や多様性が無くなることを想定すべきではない。(柄谷行人『トランスクリティーク』)
差別は純粋に権力欲の問題である。より下位のものがいることを確認するのは自らが支配の梯子を登るよりも楽であり容易であり、また競争とちがって結果が裏目に出ることがない。差別された者、抑圧されている者が差別者になる機微の一つでもある。(……)

些細な特徴や癖からはじまって、いわれのない穢れや美醜や何ということはない行動や一寸した癖が問題になる。これは周囲の差別意識に訴える力がある。何の意味であっても「自分より下」の者がいることはリーダーになりたくてなれない人間の権力への飢餓感を多少軽くする。(中井久夫「いじめの政治学」)

もちろんこれだけではない
次のような「トラウマ」の経験者という側面もあるさ

……心的外傷には別の面もある。殺人者の自首はしばしば、被害者の出てくる悪夢というPTSD症状に耐えかねて起こる(これを治療するべきかという倫理的問題がある)。 ある種の心的外傷は「良心」あるいは「超自我」に通じる地下通路を持つのであるまいか。阪神・淡路大震災の被害者への共感は、過去の震災、戦災の経験者に著しく、トラウマは「共感」「同情」の成長の原点となる面をも持つということができまいか。心に傷のない人間があろうか(「季節よ、城よ、無傷な心がどこにあろう」――ランボー「地獄の一季節」)。心の傷は、人間的な心の持ち主の証でもある(「トラウマとその治療経験――外傷性障害私見」『徴候・記憶・外傷』所収P93)

それに戦争トラウマがなかったら、戦争のにおいを嗅ぎつける嗅覚も弱いに決まってるさ


戦争を知る者が引退するか世を去った時に次の戦争が始まる例が少なくない。(中井久夫「戦争と平和についての観察」ーー「政治からは顔をそむけるふりをしながら彼らが演じてしまう悪質の政治的役割」)

たとえばヘイトスピーチの「ファシスト」猖獗に
孟子の「惻隠〔みてしのびざる〕の情」なんてことは言わないでおくよ
「理念」で対抗とかな
むしろ《同情は同一化から生まれる》(フロイト『集団心理学と自我の分析』)だな
想いだしておくのは。
同情するから同一化して心配するのではない
同一化が先にあるというヤツだ

ところで、だいたいネオナチなんてヨーロッパで席巻してんだから
それに苛立つことすくなく日本のネオナチに頭に血がのぼるってのは
「愛国者」なんだろうか
だったら「愛国保守議」員と同じ穴の狢じゃねえか、はあ?
西田昌司議員、稲田朋美議員、高市早苗議員さんたちとさ

それとも日本独自のネオナチが不快なんだろか

ヒットラーが羨望したといわれる日本のファシズムは、いわば国家でも社会でもないcorporatismであって、それは今日では「会社主義」と呼ばれている。(柄谷行人「フーコーと日本」)

「母性的な共感の共同体」ってヤツだな

公的というより私的、言語的(シンボリック)というより前言語的(イマジナリー)、父権的というより母性的なレヴェルで構成される共感の共同体。......それ はむしろ、われわれを柔らかく、しかし抗しがたい力で束縛する不可視の牢獄と化している。それがハードな国家幻想に収束していく可能性はたしかに小さくなったかもしれないとしても、だからといってソフトな閉塞に陥らない という保証はどこにもないのである。(浅田彰「むずかしい批評」(『すばる』1988 7 月号ーーおみこしの熱狂と無責任」気質(中井久夫)、あるいは「ヤンキー」をめぐるメモ

これだってオレにはまったく馴染めなかった会社主義や共感の共同体
それに見事に馴染み切って人生泳いでいる手合いへの羨望ってわけかな

ラカンは、ニーチェやフロイトと同じく、平等としての正義は羨望にもとづいていると考えている。われわれがもっていない物をもち、それを楽しんでいる人びとに対する羨望である。正義への要求は、究極的には、過剰に楽しんでいる人を抑制し、誰もが平等に楽しめるようにしろという要求である。(ジジェク『ラカンはこう読め!』)


まあいいさ、オレは海外住まいの暇人だからな
暇だといろいろ「余分なこと」で苛立ってみせるのさ
自分の食べることで精一杯で余裕なんてなかったら
ネオナチなんてどこ吹く風なんだろうよ

排外主義にしろ戦争準備政権にしろ、つまりは「我われの問題」としてはとらえていない、ということだ。自分たちとは関係ない別世界のお話し。リアリティへの眼差し以前の、無関心と無知と無自覚。

でも、それも仕方ないことだとも思う。例えば、アベノミクスで経済の上向き期待感を与えてくれるならば、起きるかどうか不確かな戦争への傾斜の怖れなんかに気をとめるだろうか。この政策なら明日の給料がすこしでも上がって、すこしでも生活が楽になるかもしれないと思わせてくれるなら、安倍政権の欺瞞と虚偽に目が向くだろうか。

みんなみんな自分の食べることで精一杯。余裕なんてありゃしない。無関心と無知と無自覚なんて言われたら腹が立つ。だってみんな精一杯生きてるんだから。甘く見てはならないとか高をくくってはならないとか、「日常」をねつ造するメディアに流されないようになんて言われても、財布の中身のほうが大切に決ってる。(「甘く見てはならないとか高をくくってはならないとかなんて言われても」)

要するにそれぞれ「歯痛」を抱えている輩ばかりなんだろうよ


器質的な痛苦や不快に苦しめられている者が外界の事物に対して、それらが自分の苦痛と無関係なものであるかぎりは関心を失うというのは周知の事実であるし、また自明のことであるように思われる。これをさらに詳しく観察してみると、病気に苦しめられているかぎりは、彼はリピドー的関心を自分の愛の対象から引きあげ、愛することをやめているのがわかる。(……)W・ブッシュは歯痛に悩む詩人のことを、「もっぱら奥歯の小さな洞のなかに逗留している」と述べている。リビドーと自我への関心とがこの場合は同じ運命をもち、またしても互いに分かちがたいものになっている。周知の病人のエゴイズムなるものはこの両者をうちにふくんでいる。われわれが病人のエゴイズムを分かりきったものと考えているが、それは病気になればわれわれもまた同じように振舞うことを確信しているからである。激しく燃えあがっている恋心が、肉体上の障害のために追いはらわれ、完全な無関心が突然それにとってかわる有様は、喜劇にふさわしい好題目である。(フロイト『ナルシシズム入門』フロイト著作集5 p117)


やっぱり日本は貧しくなったんだろうな
引き返せない道」(中井久夫)歩んでるんだよ

@hazuma: ぼくは第二次大戦については、戦争悪いとかとは別に、いちどあれだけリベラルでモダンになった日本が急速に竹槍とかモンペ一色になっていく、その文化的墜落にいつも衝撃を受けるのよね。その点では、この15年ほど似たような墜落が生じていると感じていて、このあと戦争がなかったとしても嫌だ

@hazuma: いまはバブル世代や団塊ジュニアって評判悪いけど、95年までの日本はどうのこうのいいながら余裕があって、嫌韓本がベストセラーになったりすることはなかった。それは単純にいいことなんじゃないですかね。「戦わなければ生き残れない!」とか、そりゃそうかもしれないけど、基本下品ですよ。 (東浩紀)


2014年9月8日月曜日

旧「レイシストをしばき隊」<首謀者>野間易通

反ヘイト集団“しばき隊”は正義なのか? 首謀者・野間易通」という記事を読み、ひさしぶりにあつくなったな

「“カウンターの『帰れ』も排除の一種”というあなたの記事の結論は、価値相対主義の悪い例。その前提には『どんな理由があるにせよ排除はよくない』という考え方がありますよね。僕らは、これにもアンチテーゼを唱えている。あの場でのカウンター側の『帰れ』は、『デモやめて家に帰れ』という意味であって、『外国人は国へ帰れ』という排外主義者の主張とは意味がぜんぜん違う。我々は『レイシストはここにくるな』『この場から排除する』とはっきりと言う。それを意識的にやることに、意味があると思ってる。『レイシストは町から出て行け』というスローガンは世界標準ですよ」

ところで、なんだい、この「首謀者」って?
このインタヴュー記事書いてる吉岡命なる人物は
言葉の使い方知ってるのかい?

首謀者」:(特に不法な行いの)先頭に立つ人、帳本人 ・ 巨魁 ・ 元凶 ・ 首謀 ・ 梟雄 ・ 張本人とあるな

対レイシスト行動集団「C.R.A.C」(旧「レイシストをしばき隊」)の「首謀者」というわけかい?

まあいいさ、オレもえらそうなことはまったくいえないからな。

“しばき隊”の名は知っていたが、「野間易通」という固有名詞はわずかに耳を掠めていた程度の政治音痴だからな。

しかも海外住まいを隠れ蓑にして、「卑怯と勇気とはしばしば紙一重」の問いから免れているつもりになっているテイタラクさ

で、日本住まいのお前ら、この記事RTしたりファボしたりしているけど、どっちの立場なんだい?
「野間易通」を「首謀者」とする立場なのか
それともオレみたいにこの男に「惚れ惚れ」してしまうのか
どっちだい?
まあRTやファボしてんだから、彼にシンパシー感じてんだろうが
その割には威勢がないな

私が思うに、最も傲慢な態度とは「ぼくの言ってることは無条件じゃないよ、ただの仮説さ」などという一見多面的な穏健さの姿勢だ。まったくもっともひどい傲慢さだね。誠実かつ己れを批判に晒す唯一の方法は明確に語り君がどの立場にあるのかを「独断的に」主張することだよ。(「ジジェク自身によるジジェク」私訳)

こうやって「あつく」なって書くのは、まずいんだろうがね
だがひどくあつくさせる男だな、野間易通は

ーーというわけで、熱さましのために、
野間易通のツイートを眺めてみることにしたんだが、
ツイッターの呟きというのは、オーラが消えるね
だだのオッサンだな、
だがさすがに「差別」等をめぐってよく勉強している
とても勉強になる

彼のツイートを眺めて後光を消すことができ
やっと以前メモした《デモの猥雑な補充物としての「享楽」》を読み返してみて
野間易通氏の弱点はないかと疑ってみる心持になったから
今こうやって書いているのだが

まずは参照してみるのは、フロイトの『集団心理学と自我の分析』
ーーラカンが「ヒトラー大躍進への序文」と評した論文と
とそれに対するジジェクの吟味だ。

集団内部の個人は、その集団の影響によって彼の精神活動にしばしば深刻な変化をこうむる(……)。彼の情緒は異常にたかまり、彼の知的活動はいちじるしく制限される。そして情緒と知的活動と二つながら、集団の他の個人に明らかに似通ったものになっていく。そしてこれは、個人に固有な衝動の抑制が解除され、個人的傾向の独自な発展を断念することによってのみ達せられる結果である。この、のぞましくない結果は、集団の高度の「組織」によって、少なくとも部分的にはふせがれるといわれたが、集団心理の根本事実である原始的集団における情緒の昂揚と思考の制止という二つの法則は否定されはしない。(フロイト『集団心理学と自我の分析』)
……フロイト自身、ここでは、あまりにも性急すぎる。彼は人為的な集団(教会と軍隊)と“退行的な”原始集団――激越な集団的暴力(リンチや虐殺)に耽る野性的な暴徒のような群れ――に反対する。さらに、フロイトのリベラルな視点では、極右的リンチの群衆と左翼の革命的集団はリピドー的には同一のものとして扱われる。これらの二つの集団は、同じように、破壊的な、あるいは無制限な死の欲動の奔出になすがままになっている、と。フロイトにとっては、あたかも“退行的な”原始集団、典型的には暴徒の破壊的な暴力を働かせるその集団は、社会的なつながり、最も純粋な社会的“死の欲動”の野放しのゼロ度でもあるかのようだ。(ZIZEK『LESS THAN NOTHING』(2012)の最終章(「CONCLUSION: THE POLITICAL SUSPENSION OF THE ETHICAL」)より私意訳
集団の道義を正しく判断するためには、集団の中に個人が寄りあつまると、個人的な抑制がすべて脱落して、太古の遺産として個人の中にまどろんでいたあらゆる残酷で血なまぐさい破壊的な本能が目ざまされて、自由な衝動の満足に駆りたてる、ということを念頭におく必要がある。しかしまた、集団は暗示の影響下にあって、諦念や無私や理想への献身といった高い業績をなしとげる。孤立した個人では、個人的な利益がほとんど唯一の動因であるが、集団の場合には、それが支配力をふるうのはごく稀である。このようにして集団によって個人が道義的になるということができよう(ルボン)。集団の知的な能力は、つねに個人のそれをはるかに下まわるけれども、その倫理的態度は、この水準以下に深く落ちることもあれば、またそれを高く抜きんでることもある。(フロイト『集団心理学と自我の分析』)
“退行的な”原始集団は最初に来るわけでは決してない。彼らは人為的な集団の勃興の“自然な”基礎ではない。彼らは後に来るのだ、“人為的な”集団を維持するための猥雑な補充物として。このように、退行的な集団とは、象徴的な「法」にたいする超自我のようなものなのだ。象徴的な「法」は服従を要求する一方、超自我は、われわれを「法」に引きつける猥雑な享楽を提供する。(同ジジェク)

しばき隊と男組があるが、しばき隊が“人為的な”集団であり、男組というのが、後から来た“退行的な”原始集団とすることができる、--と断言するほどには、このしばき隊と男組の関係についてわたくしは詳しくない。





ここでは「世界で増殖する差別と憎悪…“反差別”という差別が暴走する(深田政彦ーNewsweek 2014 年 6 月 24 日号)の記事を附記しておくだけにする。

『しばき隊』を率いるのは、フリー編集者の野間易通だ。イラク戦争の際の反戦デモ、北京 五輪のときのチベット人解放運動、福島原発事故後は反原発……と、この 10 年余りの間 に次々と政治運動に参加。2012 年に首相官邸を 20 万人で包囲し、反原発活動家らと野 田佳彦首相(当時)の面会を実現させた官邸前デモで、運動家としての頭角を現した。た だ実際に野田との面会が実現すると、反原発運動はピークを過ぎたかのようにしぼんでい った。ちょうどその頃火が付いたのが、韓国の李明博大統領による竹島(韓国名・独島)上 陸をきっかけにした在特会のヘイトスピーチだ。2012 年末には、日本の政権が民主党か ら原発再稼働に意欲を見せる自民党の安倍晋三に代わった。「反原発運動もリセットしな ければ」という焦燥感。さらに「ファシズム政権に対抗する街頭闘争が重要だ」という使命 感に燃え、野間は反原発運動の仲間を中心に、組織を『しばき隊』に衣替えした。「反原 発運動の基盤が反ヘイト活動に転用された」(在特会を調査する徳島大学の樋口直人准 教授)のだ。

しかし、野間たちに唐突な方向転換を悪びれる風はない。それどころか、野間は反原発 運動を通じて確立した『怒りのマーケティング』の手法を反ヘイト活動に活用していることを 半ば得意げに語る。「『私たちは決して許しません』と呼び掛けるのではなく、『ふざけるな、 ボケ』と叫んだほうが人は集まる」。参加者同士が「頑張ろう」と呼び掛け合う生半可なスタ イルではなく、ただひたすら官邸に罵声を浴びせる。野間らの怒りのマーケティングは『炎 上マーケティング』でもある。反原発活動では、当時の民主党政権閣僚の“遺影”を官邸 前に掲げた。不謹慎とネットで炎上したが、その画像はツイッターなどで拡散。後に 20 万 人を動員する官邸前抗議につながった。

反ヘイト活動でも、野間たちは怒りの感情を大いに利用した。しばき隊の支持者が歩道か ら中指を立てて拡声器で罵声を浴びせ、“実戦”を担う男組が刺青をちらつかせて在特会 デモに肉薄し、にらんで怒鳴りつける。その暴力的な画像をネットで拡散して炎上させ、さ らに動員をかけていく。男組“副長”の石野雅之は、自分たちを汚れ役だと自任している。 実際、去年から今年にかけて暴行や傷害の罪で“組長”らが検挙されている。こうした暴力 の嵐の中で在特会デモは衰退し、かつては数百人規模だったデモも今や固定メンバーし か集まらなくなった。中止になることもしばしばだ。





ここでは失礼ながら予断を交えて、後から来た“退行的な”原始集団が予想外に育ってしまったとき、野間易通にはそれをコントロールする力があるのか、という疑念をーーかりに野間易通が男組から距離を置いているにしろーー呈しておこう。



…………

さて今度は野間易通氏がRTしているツイートに注目してみよう。

@whokilledxxxxx 毎日新聞に掲載されてる4コマ漫画のアサッテくん。 ヘイトスピーチとゆ言葉は市民権を得たかもしれないが、ヘイトスピーチとゆ言葉の意味は世間に全く浸透してない事がヨク解る。




すなわち、この漫画のヘイトスピーチの定義は間違っているということだろう。



今年の春ぐらいまではある程度しょうがなかったとも言えるのだが、ヘイト・スピーチという言葉が何を指すかいまだにわかっていない人がネトウヨはおろか左側にもけっこういて、レイシストを「死ね、クソボケ」とか罵っていると、「あなたもヘイト・スピーチをしていますよね?」とか言ってくる。してねえわ。

これをいちいち説明するのがめんどくさいのでここにまとめておく。

ヘイト・スピーチ はこれまで「憎悪表現」と訳されることが多かったが、これだと誤解が多いので有田芳生などが「差別煽動表現」という訳語を提案した。これを、「韓国メディアが旭日旗を戦犯旗と言い換えて嫌悪感を増幅させるやり方に似てい」るとか、知ったかぶりしているネトウヨがいたが、まったく違う。

hate は文字通りには憎悪を意味するが、hate crime / hate speech という熟語においては、「人種差別や性的マイノリティへの憎悪を強く連想させる」ものとなる。なんでそうなるのだ?と言われても、英語圏ではそのように使われてきたのだからしょうがない。

アメリカのヘイト・クライム禁止法(マシュー・シェパード法)(1)では、hate crime を以下のように定義している。

《人種、肌の色、宗教、国籍、民族性、ジェンダー(性犯罪は除く)、障害、性的指向に対する偏見に基づいた犯罪で、偏見に基づいた犯罪であることに合理的疑いの余地のないもの》

hate crime という語が頻繁に使われるようになったのは80年代に入ってからで、比較的新しい概念だ。hate speech は、このhate crime すなわち人種憎悪または性的マイノリティに対する憎悪犯罪を直接連想させる言葉である。

また、人種差別撤廃条約第4条では「人種的憎悪及び人種差別」「人種的優越又は憎悪」となっており、ここでは口語形の hate ではなく正式な名詞形 hatred が使われているが、これが hate crime / hate speech における hate の意味である。

要するに、hate crime / hate speech におけるhate とは、一般的な憎しみや憎悪感情を指すものではない。怨恨を動機とする暴行や傷害、殺人等犯罪には強い憎悪の感情が伴うことが多いが、そうしたものは通常の crime であって hate crime とは言わないのである。

カウンターからレイシストに対する罵詈雑言は民族的憎悪や性的指向への憎悪を伴っておらず、どこまでいってもヘイト・スピーチではない。したがって桜井誠をいくら「ヘイト豚!」と罵っても差別にはならないので問題はない。単なる罵倒、罵詈雑言にすぎない。まとめると、赤い矢印の部分だけがヘイト・スピーチである。




ところで、「反ヘイト集団“しばき隊”は正義なのか? 首謀者・野間易通」には、次のような記述がある。

昨年、野間は朝日新聞のインタビューを受けている(13 年 8 月 10 日朝刊)。デモ隊もしばき隊も「どっちもどっちだな」という印象を受けるし、デモに抗議するにしても他にやりようはないのか?という朝日記者の問いに対して、野間は、理路整然とした「上品な左派リベ ラル」の抗議行動は「たとえ正論でも人の心に響かない」と答え、「何言ってるんだ、バカヤ ロー」と叫ぶのが「正常な反応」だと主張している。

「結局ね、大マスコミもみんな素人なんですよ。今まで自分たちには関係のないことだと思 っていたわけだから。『議論が必要だ』みたいな通り一遍のことしか言えない。……アホか? なんで『ヘイトやめろよ!』って言ってる俺らと、ヘイトやってるレイシストたちが『どっ ちもどっち』になるんだと。議論を重ねていけばよい、対話が必要だと彼らは言う。だったら 言論機関である新聞がなぜそれをやらない?」 冷静に議論を深めよ――それは「メタ議論」であり、本質を置き去りにしている。そう野間は私見を述べる。

上に黒字強調している文は、野間易通が、9月7日にリツイートしている次の文と重なる。

@bcxxx: ネトウヨの猛然たるデマ言説に対して、左翼の対抗言説はいかにも丁寧で、資料を丹念に挙げたりするのだが、その分長ったらしく、キャッチーさに欠ける。教養のある人が、時間のある時に、ふむふむ勉強になるなあ、と思いながら読む感じ。学習会のノリなんだよね。

朝日新聞の野間易通インタビューからも拾っておこう。

-騒音はひどいし、通行もままならない。汚い言葉の応酬は不愉快です。これが理想的で すか?

「怒りをベースにした行動であれば、言葉も怒りをはらみます。欧米の反ファシスト運動は もっと怒りの要素が多いし、 実力行使もされている。それに比べれば、まったく平和的な光景と言ってもいいぐらいで す。 僕らは彼らを罵倒し続けることで、精神的にへこませ、デモに行く気を失わせようとしてい る」

「2010年から、在特会などへのカウンター行動に参加してきましたが、東京では多くても 数十人しか集まらず、 事実上何もできなかった。一方、彼らは昨年の李明博大統領の竹島上陸で勢いづき、新 大久保デモに加え、 『お散歩』と称する嫌がらせを始めた。通りの店に因縁をつけ、通行人に暴力的に絡む。 何とかしたいと今年1月末、ネットでしばき隊への参加を呼びかけました」

「最初はデモへの直接抗議ではなく、お散歩をやめさせることに重点を置いていました。 だが、2月17日のデモでは、しばき隊以外にもプラカードを掲げて抗議する人が30人ほ ど出て、1カ月後には数百人に膨らんだ。 それでごく自然に、全体がデモへの直接抗議に移行した。 色々な人がさまざまなやり方で抗議していますが、しばき隊はどんどん罵倒するのが基本 方針。 僕がよく使う言葉は、『人間のクズ』『日本の恥』などですが、もっと罵倒の技術を磨かねば、 と考えています」

-デモに抗議するにしても、他にやりようはないのですか?

「カウンター行動は、これまで上品な左派リベラルの人も試みてきました。 ところが悲しいことに、『私たちはこのような排外主義を決して許すことはできません』とい った理路整然とした口調では、 たとえ正論でも人の心に響かない」

「公道で『朝鮮人は殺せ』『たたき出せ』と叫び続ける人々を目の前にして、冷静でいる方 がおかしい。 むしろ『何言っているんだ、バカヤロー』と叫ぶのが正常な反応ではないか。レイシストに 直接怒りをぶつけたい、 という思いの人々が新大久保に集まっています」(聞き手・石橋英昭、太田啓之) 


さあて、きみたちはどっちの立場かい? 罵倒語を許す立場かい?
オレかい? オレはここでは上品さと傲慢さを綯い交ぜにして
「ジャーナリズムは上品じゃいけない」「強盗のようにあるべき」(佐高信、辺見庸両氏の対談)とか、以前の記事をリンクして逃げておくよ、「生きてても目ざわりになるから首でもくくって死ね」(中上健次)

「白状しろよ。いつも下痢がちの安倍のケツを、いったい何人のクソバエ記者たちがペロペロと舐めてきたことか」(辺見庸

こうやって語らなくちゃあな(だが正直なところオレはこの程度だね、《何もしないなら黙ってろ、黙ってるのが嫌なら何かしろ》! 穏和な性格なのさ)。


ーーとすれば一方通行だから、丁寧で、資料を丹念に挙げ、その分長ったらしく、キャッチーさに欠ける「似非教養人」の一種のつもりでいるオレは、次の文を掲げておこう。こいつら、スローガン的言葉を顕揚する具合は、結局、大衆を侮蔑するヒットラーと同じじゃないかい?と。

間違ってばかりいる大衆の小さな意識的な判断などは、彼には問題ではなかった。大衆の広大な無意識界を捕えて、これを動かすのが問題であった。人間は侮蔑されたら怒るものだ、などと考えているのは浅墓な心理学に過ぎぬ。その点、個人の心理も群集の心理も変わりはしない。本当を言えば、大衆は侮蔑されたがっている。支配されたがっている。獣物達にとって、他に勝とうとする邪念ほど強いものはない。それなら、勝つ見込みがない者が、勝つ見込みのある者に、どうして屈従し味方しない筈があるか。大衆は理論を好まぬ。自由はもっと嫌いだ。何も彼も君自身の自由な判断、自由な選択にまかすと言われれば、そんな厄介な重荷に誰が堪えられよう。ヒットラーは、この根本問題で、ドストエフスキーが「カラマーゾフの兄弟」で描いた、あの有名な「大審問官」という悪魔と全く見解を同じくする。言葉まで同じなのである。同じように孤独で、合理的で、狂信的で、不屈不撓であった。(小林秀雄「ヒットラーと悪魔」ーー「汝が人にしてもらいたくないようなことを、他人に対してなすなかれ」)

それに再度、穏やか系の辺見庸も引用しておかなくちゃ誤解があるな

 きょうお集まりのたくさんのみなさん、「ひとり」でいましょう。みんなといても「ひとり」を意識しましょう。「ひとり」でやれることをやる。じっとイヤな奴を睨む。おかしな指示には従わない。結局それしかないのです。われわれはひとりひとり例外になる。孤立する。例外でありつづけ、悩み、敗北を覚悟して戦いつづけること。これが、じつは深い自由だと私は思わざるをえません。(辺見庸「死刑と新しいファシズム 戦後最大の危機に抗して」(2013年8月31日の講演記録


やっぱり、みんなといても「ひとり」を意識することなんだろうな
これがひどく難しいんだな、「ひとり」ではどうしようもないときがあるしさ
「みんな」がいたから大久保のヘイトスピーチを阻止できたということもあるしな


…………


すこし話を方向転換する。

野間易通@kdxnそもそも柄谷行人みたいな大物の哲学者が「日本はデモができる社会になってよかった」とか言ってるのって極めて異常なことで、世界のどの国においてもデモの是非なんて論点にすらなっていない。デモで社会は変わるか?とか。それで社会が変わろうが変わるまいが、デモはあるのが当たり前だから。

 というわけで、柄谷行人を続けて引用する。

昔、哲学者の久野収がこういうことを言っていました。民主主義は代表制(議会)だけでは機能しない。デモのような直接行動がないと、死んでしまう、と。デモなんて、コミュニケーションの媒体が未発達の段階のものだと言う人がいます。インターネットによるインターアクティブなコミュニケーションが可能だ、と言う。インターネット上の議論が世の中を動かす、政治を変える、とか言う。しかし、僕はそう思わない。そこでは、ひとりひとりの個人が見えない。各人は、テレビの視聴率と同じような統計的な存在でしかない。各人はけっして主権者になれないのです。だから、ネットの世界でも議会政治と同じようになります。それが、この3月11日以後に少し違ってきた。以後、人々がデモをはじめたからです。インターネットもツイッターも、デモの勧誘や連絡に使われるようになった。

 たとえば、中国を見ると、「網民」(網はインターネットの意味=編集部注)が増えているので、中国は変わった、「ジャスミン革命」のようなものが起こるだろうと言われたけど、何も起こらない。起こるはずがないのです。ネット上に威勢よく書き込んでいる人たちは、デモには来ない。それは日本と同じ現象です。しかし、逆に、デモがあると、インターネットの意味も違ってきます。たとえば、日本ではデモがあったのに、新聞もテレビも最初そのことを報道しなかった。でも、みんながユーチューブで映像を見ているから、隠すことはできない。その事実に対して、新聞やテレビ、週刊誌が屈服したんだと思います。それから段々報道されるようになった。明らかに世の中が変わった。しかし、それがインターネットのせいか、デモのせいかと問うのは的外れだと思います。(「反原発デモが日本を変える」 柄谷行人


 …………

ところで、東浩紀氏は、デモには参加しない態度をながいあいだ表明していた。
たとえば、東浩紀 hiroki azuma@hazuma20130721()

ぼくはもともと、ネットでの動員の革命→官邸前デモの流れは在特会や橋下徹とかわらないポピュリズムだと言っていて、反原発左翼にマジ憎まれたりしていたのだけど、今回の山本太郎当選でそれが正しいことがわかった。

 ところが2014年09月07日(日)のツイートではこんなことを呟いている。

個人的には、野間さんとの最後の対話が収穫でした。野間さんはそういう表現をしなかったけれど、なるほど、(野間さんや五野井さんにとって)デモとは、自己正当化の論理でガチガチになっていた「正義」の感覚を解きほぐすための<リハビリ>だったのかと腑に落ちました。それは賛成です。

目の前で起きていることについて「これは悪だ」と直観が告げているにもかかわらず、「いやいや、もう少し考えてみよう」「そう決めつけるのこそ悪では」「そもそもおれになんの権利もない」と逡巡しているあいだに時間が経ち、被害者を見殺しにしてしまうことはよくあります。(→)

(→)最近さらにその逡巡の傾向が強まりました。ネットには「行動や判断を無限に引き延ばすための言葉遊び」が満ちています。たとえば人権を守れというだけでも、「まず人権を定義してください」「人権を守れも一種の差別ですよね」「人権の無視を排除するのは人権無視ではないんですか」……となる。

→)そういう状況でがちがちに強ばってしまった正義の感覚を、もういちど解きほぐし、一般市民でも適度に意見や感情を表明できるようにしてあげること。それはとても大切なことで、『一般意志2.0』『弱いつながり』の主張とも一致します。なるほど、デモをそう捉えているのかと腑に落ちました。

(→)この点ではぼくのほうが「頭が固かった」と反省しました。ぼくは率直に言って、大文字の政治においてデモが効果を上げているとは思わない(野間さん五野井さんは意見が違うと思いますが)。けれども、多くの市民の政治への接し方を変えているのは確かで、それは重要なことですよね。

(→)というわけで、行け行けと言われながらもどうしても躊躇して行けなかったデモの現場に、近日中に、取材に、というか、『弱いつながり』の言葉で言えば「観光」に行きたいと思います。それでよいのだ、いやむしろそれでよいのだと考え直しました。だれかお勧めのデモ(?)を教えてください。

これは東浩紀氏の決定的な「転回」の言葉のように思える。ただし若者たちにおおいに影響力があるようにみえる東浩紀氏に、若者がついていくかどうかは別問題ではある。

そしてこの発言は、《野間さんとの最後の対話》から生れたようだ。


※補遺:罵倒の技術の練磨、あるいは「問題はそこではないのさ」


農夫/水夫の間の機敏なフットワーク(商人=観光客)

そうだなあ
昨日の投稿はそこまで書かなかったけれど
きみの言うとおり、東浩紀氏は
《村人/旅人/観光客は、思想用語で言うと、共同体/他者/両者のあいだをパートタイムで行き来する人です。》と言っているのだから
柄谷行人の
《経験論/合理論/経験論と合理論の「間」で機敏なフットワークの駆使》そのままかもな
そして、それが、農夫/水夫/商人となるのかもな
しかもいたずらに観光客=商人を顕揚するのはまずいってのは、
最後に柄谷行人引用して書いたこれだよな
まあオレは東浩紀氏の著書を読んでないからそこまでは書けないのだよ

…………

芸術家でも職人でもないタイプ、職人に対しては芸術家といい、芸術家に対しては職人というタイプである。それは「枠」を自覚し越えるようなふりをするが、実際は職人と同じ枠のなかに安住しており、しかも職人のような責任をもたない。中野は、これを「きわめて厄介なえせ芸術家」と呼んでいる。なぜなら、彼らを芸術家の立場から批判しようとすれば、自分は職人であり大衆に向かっているのだというだろうし、職人の立場からみれば、彼らは自分は芸術家なのだというだろうから。(柄谷行人「死語をめぐって」)

この文の「芸術家」と「職人」に、「水夫」と「農夫」を代入してみよう。あるいは合理論者と経験論者でもいい。《彼らを水夫(合理論者)の立場から批判しようとすれば、自分は農夫(経験論者)であるというし、農夫の立場からみれば、彼らは自分は水夫だというだろう》--このきわめて厄介なヌエのような存在が、実際の「商人」の実態なのだ。


…………

これだと観光客はヌエのような存在になりかねないということになるな
でもこのあたりは東浩紀氏もわかっていてそれにもかかわらず
キャッチフレーズ的な「観光客」の顕揚のはずだよ

たとえば、これも読んでいない本の断片を拾ったのだがね

千葉雅也(動きすぎてはいけない)@ 逃走は、少なくとも二度、加速されなければならない。一度目は、しがらみを笑い飛ばすイロニー的な初速として。二度目は、そこから伸びるリゾームを、《この》加/減でよしと、笑って済ませるユーモア的なトップ・ギアとして。

農夫からの逃走は、一度は水夫=合理論者のイロニーだな
二度目は、商人=観光客のユーモアということになる
水夫=合理論者のイロニーなしの
商人=観光客のユーモアなんてのはプレモダンさ

このあたりは彼らにはほとんど「常識」なんだよ
上のイロニーとユーモアはほぼドゥルーズのマゾッホ論のほぼパクリだがね
それにもうひとつドゥルーズの超越論的経験論だな
オレはこのあたりはよく知らないけれど
浅田彰の説明する超越論的経験論にぴったりだよ


ドゥルーズは「超越論的経験論」という一見逆説的なことを言っている。ただちに経験論につく前に、いちど徹底的に超越論的であれねばならない、というわけです。

その立場から見たときに、カントはたしかに超越論的領野を発見したけれども、それを経験的領野の引き写しにしてしまうことで、超越論的な探求を中途半端に終えてしまった、ということになる。

つまり、「私とは一個の他者である」というランボーの言葉を先取りするような形で、超越論的な自己と経験的な自己の分裂、見方を変えれば自己の諸能力の分裂を発見しながらも、経験的領野において前提されていたデカルトの「良識(ボン・サンス)」につながるような「共通感官(コモン・サンス)」における諸能力の調和を密輸入することで、そのような分裂をあまりに性急に縫い合わせてしまった、ということになるわけです。

ただし、カント自身、晩年の『判断力批判』において、「美」の共通感官を論じたあと、「崇高」を論じたところで、それを超える方向を示している。その方向を徹底的に突き進めなければならない。

諸能力を、超越論的というより、超越的に使用すること、つまり、それぞれの能力がそれぞれの原理に従って行くところまで行くようにに仕向けてやることで、「ボン・サンス」や「コモン・サンス」の閉域を突き破り、やはりランボーが「あらゆる感覚の錯乱」と呼んだような非人称的な高次の経験へと突き抜けていかなければならない。そのような経験に定位するのが、高次の経験論、つまり超越論的経験論だということになるわけです。(『批評空間』1996Ⅱー9 共同討議「ドゥルーズと哲学」(財津理/蓮實重彦/前田英樹/浅田彰・柄谷行人)より)


――というわけでたいした「発見」じゃないさ
農夫どもは気がつかないだけだな


2014年9月7日日曜日

水夫と農夫、あるいは商人


次のような東浩紀氏のツイートを読んだ。《「弱いつながり」について観光客って柄谷行人の他者とどう違うのかと批判した社会学者の方がいましたが、それはたぶん読まないで批判していて、読めばすぐ違いがわかります。村人/旅人/観光客は、思想用語で言うと、共同体/他者/両者のあいだをパートタイムで行き来する人です。》ーーとあるが、わたくしはこの社会学者と同様、『弱いつながり』を読んでいないし、他方批判するつもりはない。ただ「観光客」という概念はどんなことを言っているのだろうとはいささか興味があった程度である。

とりあえず上のツイートの前後もふくめて引用しよう。

@hazuma: ひとはあるときは村人として生き、あるときは観光客として生きる、そして観光客はみな個人として偶然性で繋がっているということです。RT @Shimazqe 4分 @hazuma 周辺の社会全体=旅人とは、どのようなイメージでしょうか?クラスが同じだろうと違おうと、そんなの便宜的な制

@hazuma: だから個人のネットワークで学校は出来ません。学校は村です。でもそのまわりに、同級生それぞれが勝手に作っている個人的な関係があり、そのひとたちの集合が「観光客」のネットワークになっている。そしてある学校では村人であるひとも、別の学校に対しては「観光客」になる。

@hazuma: 他方で、社会全体=旅人というのは観念の問題です。ぼくたちは社会全体はじつはイメージできません。それは純粋な理念ですね。社会全体にむかってなにかを発言するというのは、そういう理念に向かって発言することです。旅人というのはそういう理念的存在だということです。昔の言葉で言えば「他者」。

@hazuma: この点で出版直後、「弱いつながり」について観光客って柄谷行人の他者とどう違うのかと批判した社会学者の方がいましたが、それはたぶん読まないで批判していて、読めばすぐ違いがわかります。村人/旅人/観光客は、思想用語で言うと、共同体/他者/両者のあいだをパートタイムで行き来する人です。

@hazuma: 他者=旅人は村人からすると過ぎ去っていく存在でしかないので、否定神学的な理想化の対象になります。その点では観光客は具体的な存在です。観光客の動向は気にかかります。ただし「群れ」です。村人からすれば観光客は個人として認識できません。そして関係もいい加減です。

@hazuma: まだわかりにくいかしら。要はこういうことです。「村人が〜」というとき、私たちは具体的な顔を浮かべている。「旅人が〜」というとき、そこに具体的な顔はない。「観光客が〜」というとき、具体的な顔はないけど、群れとしてのイメージはある。そしてひとりひとりは、状況によりそのいずれにもなる。

@hazuma: で、いままでの社会思想は「村人」か「旅人」しか考えてこなかった。旅人を他者として理想化する(リベラル)か、あるいは敵として排除する(保守)かという違いはあっても。そこで観光客という第三項を考えようというのが、ぼくの提案です。ビッグデータとかの話とも関係ありそうな気がしてます。

…………

以下はかなり以前メモして投稿しないままの記事である(中途半端な議論の展開のため)。いまは「船乗り」と「商人」、そして「農夫」に注目するためにそのまま公表しておこう。もっとも、東浩紀氏の、村人/旅人/観光客が、そのまま農夫/船乗り(水夫)/商人となると断言するつもりは毛頭ない。

…………

柄谷行人の『探求Ⅱ』の「交通空間」をめぐる章の第一節には、《アランは、知の源泉として、船乗りと商人と農夫を例にとって語った》とある。

そこでは船乗りは「構造主義者」であり、商人は《人間を相手にし、言葉で誘惑し説得する》者、《共同体の外部で、見知らぬ予測しがたい不可解な“他者”を相手に》する者とされている。そして哲学者も科学者も「商人」である、と。農夫は共同体の内部に属する者とされている。

この柄谷行人の、水夫、農夫、商人は、それぞれ合理論、経験論、そしてその「間」で機敏なフットワークをする「商人」という捉え方ができはしないか。柄谷行人はこの80年代半ばの時点ではそこまでは書いておらず、むしろ《船乗り=商人》(p275)という記述が見られるのだが。  たとえば2006年に書かれたエッセイにはこうある。

思想は実生活を越えた何かであるという考えは、合理論である。思想は実生活に由来するという考えは、経験論である。その場合、カントは、 合理論がドミナントであるとき経験論からそれを批判し、経験論がドミナントであるとき合理論からそれを批判した。つまり、彼は合理論と経験論というアンチノミーを揚棄する第三の立場に立ったのではない。もしそうすれば、カントではなく、ヘーゲルになってしまうだろう。 この意味で、カントの批判は機敏なフットワークに存するのである。ゆえに、私はこれをトランスクリティークと呼ぶ。(柄谷行人「丸山真男とアソシエーショニズム (2006)」ーー
象牙の塔(メタレベル)不在の「美しい日本の私」

柄谷行人は80年代中葉の段階では、浅田彰がドゥルーズ&ガタリから抽出したスキゾ/パラノ、あるいは中井久夫の『分裂病と人類』における狩猟民/農耕民(分裂気質/執着気質)などの思考の圏域にあったはずだ。

ここでは、《船乗り=商人/農夫》の二項対立ではなく、最近議論になっているパラノ/スキゾ/アスペの三項をも視界におさめつつ、農夫/水夫/商人の三項として捉えうる視点がないだろうか、という意図の下に、とりあえず、メモに徹することにする。

◆逃走論と切断論 浅田彰 千葉雅也(2013,11,29 京都造形芸術大学大学にての討論 『逃走論と切断論 ―いまドゥルーズをどう読むか』 のプレゼンテーションより)

【パラノ】          【スキゾ】           【アスペ】
インテグレーション   ディファレンシエーション  アイソレーション
蓄積           ギャンブル            節約
定住              逃走                仮住まい
セントラル          マージナル          パーシャル
メジャー            マイナー         メジャーとマイナーの混乱
ドメスティック         ワイルド             ワイルズ
〈内〉の思考        〈外〉の思考          〈傍〉の思考
トータリティ          インフィニティ         フィニチュード
ヘテロ            ゲイ                クィア
ウェット             ドライ              クリスプ(?)
ピュアブレッド      ハイブリッド           クローン(分身)


ただし、パラノ(〈内〉の思考)を農民、--あるいはアスペ(〈傍〉の思考)を商人?ーーとすることはひょっとしたらできるかもしれないが、スキゾ(〈外〉の思考)を水夫とすることは柄谷行人の説明する文脈ではややむずかしい。というのは、水夫が「構造主義者」となっていて、それはスキゾとは異なるだろうから。もっともスキゾの項目にディファレンシエーション(差異化=微分化)とあるように、これは構造主義的な用語ではある。

スキゾってのは分裂型(スキゾフレニー)で、そのつど時点ゼロで微分=差異化してるようなのを言う。つねに《今》の状況を鋭敏に探りながら一瞬一瞬にすべてを賭けるギャンブラーなんかが、その典型だ。(浅田彰『逃走論』)
マルクスは、娘たちの問いに答えて、「すべてを疑え」ということをモットーに掲げたことがあった。しかし、彼がすべてを疑うというとき、それが怠惰な懐疑論と異なることは明瞭である。疑うことは、彼にとって生きることと分離されていない。では、いかなる生がそこにあるのか。マルクスは徹底的に主体を疑い、それを関係構造の産物として見た。では、そのように疑う主体はどこにあるのか。人々は、マルクス主義と実存主義というような「問題」を立ててきた。だが、彼らはマルクスという「実存」を無視してきたのである。(柄谷行人『トランスクリティーク』P205)

ーーといくつかの文献を引用すれば、スキゾ=水夫もあながち悪くなさそうな気もしてくる(農夫=パラノ、商人=アスペとともに)、--がここではそれらを曖昧なままにしておく。

なお千葉雅也氏はその自著『動きすぎないすぎてはいけない』をめぐって、ツイッターで次のような発言がある。

@masayachiba
浅田さんの場合の逃走と、僕の言う非意味的切断はけっこうニュアンスが違うのよね。
そのあたりを読み取ってほしいですね。浅田さんは強度の人。僕は弱度の人。

他方、浅田彰は次のように語っているようだ(ウェブ上から拾ったので正確な語りの内容ではないかもしれない)。

◆浅田彰×東浩紀「「フクシマ」は思想的課題になりうるか」。

浅田「ドゥルーズの話で前に言っていたけどね、(AOで)connecticutというのをconnect-i-cutとする、直訳すると「接続せよ-私は-切断する」というように、コネクション(接続)とカット(切断)が同義であるようなものとして、リゾームと言っていたわけじゃないですか。今(の若手論壇)は明らかにコネクション(接続)の方ばっかりですね。

〔……〕千葉雅也さんに今さらカット(切断)と言われてもそんなの最初からそうだよとは思うけどね。

(千葉雅也の『動きすぎてはいけない』については)正確な祖述とかしてもしょうがないという立場からして、面白かったということでね。正確ではないところもあるでしょう、ヒュームとかなんなりの解釈ではね」

ーーなお、ここに書かれている文章は、『動きすぎてはいけない』を読んでいない人間が書いていることに注意。

…………

さて、『探求Ⅱ』の第三部「世界宗教をめぐって」の第五章は、章名が「交通空間」とあるように、社会(交通)/共同体が語られる少なくともある時期の柄谷行人の最も重要な概念のひとつ「交通」をめぐっての文でもある。マルクスの「社会」も柄谷行人によれば、交通空間である。マルクスの「社会」と「交通」が同じものだというのは、次の発言が示している。

そこで、蓮實さんがいわれた生産と交通という話に戻ると、僕は、生産は、「共同体的」であり、交通は「社会的」であると考えています。共同体とは、共通のコードをもって閉じられたシステムであり、社会とは、共通のコードをもたない他者との交通において成立するような空間でし、これは僕は「交通空間」とよんでいますけれど、これはどこかに実体的に在るものではなく、絶えず結合され分断されながら無方向に広がるようなネットワークのようなものです。(柄谷行人『闘争のエチカ』より)

あるいは『探求Ⅰ』で、《私の考えでは、マルクスは、共同体と共同体の「間」において存在する関係を、社会的とよんだのである》と書かれてもいる(p15)。

たとえば「交通」概念は、蓮實重彦によって次のように使われている。

言葉が方向を変えるとは、 文脈を踏みはずし、 無方向に拡散しながら、 物語的な根拠を喪失させることを意味するが、 補足的な付加が根拠の強調であるなら、 言葉の方向転換とは横断的な 「変換」 にほかなるまい。 必ずしも充分な成果をあげているとはいいがたいにせよ、大江健三郎の『懐かしい年への手紙』が目ざしているのは、断じて自作に対する補足的な付加の試みではなく、みずから「交通」 の装置となることで、 言葉に文脈の踏みはずしを惹起せしめようとする秀れて小説的ないとなみなのだ。 そして文脈とは共同体が容認する規則にほかならず、 決ってコミュニケーションを抑圧するものなのである。(『小説から遠く離れて』)

ところで柄谷行人によれば、「自己意識」も一種の共同体である。

……誤解をさけるために捕捉しておきたいことがある。第一に、「共同体」というとき、村とか国家とかいったものだけを表象してはならないということである。規則が共有されているならば、それは共同体である。したがって、自己対話つまり意識も共同体と見なすことができる共同体の外と間という場合、それを実際の空間のイメージで理解してはならない。それは体系の差異としてのみあるような「場所」である。(『探求Ⅱ』p201-202)

こう書かれれば、すなわち《”個人”もまた内部と外部をもつかぎりにおいて一種の共同体》(同293)であるということになる。そして個人のモノローグが共同体から逃れるにはどうあるべきかをめぐっては『探求Ⅰ』にパプチンのドストエフスキー論が引用されつつ語られる(ドストエフスキーの小説のポリフォニック性)。

「人間を他者の言葉、他者の意識との関係において設定することが実にドストエフスキイの全作品を貫く根本テーマである」と、バフチンはいう。「他者の言葉」とは、くりかえしいうが、異なった言語ゲームである。同一の言語ゲームに立つかぎり、どんな対立や葛藤があろうと、モノローグ(独我論)的である。逆にいえば、ダイアローグ、あるいはポリフォニックなものとは、声や視点を多数化することによって得られるのではなく、もはやいわゆる対話が不可能な地点において「他者に語る」ことから生じるのである。逆に、そのような他者の前でのみ、自己の単独性が存する。》(柄谷行人『探求Ⅰ』P168-170)

これは「商人」のダイアローグ、《共同体の外部で、見知らぬ予測しがたい不可解な“他者”を相手に》する者のことが書かれているとしてよい。すなわち「交通空間」、マルクスの「社会的」ーー、《共同体と共同体の「間」において存在する関係》ーーにおける「対話」を、ドストエフスキーの小説に見ているとしてよい。

…………

モーゼがそこに向けて人々を脱出させ且つ留まるようにいった“砂漠”は、実際の砂漠のことではない。また、それが荒涼とした不毛の地であるか否かは問題ではない。“砂漠”とは、交通(コミュニケーション=交換)の空間であり、あるいは交通の線図だけが浮き彫りにされるような空間である。それはすでに“抽象的”である。なぜなら、そこでは事物の形態の多様性ではなく、交通路のネットワーク、あるいはそれらの結合の性質と強度だけが問題だからである。

ある意味で、海は砂漠よりももっと徹底した“砂漠”である。それはオアシスもないような砂漠である。たとえば、古代において、地中海は“砂漠”であった。それは母なる海というイメージとは無縁である。アランは、知の源泉として、船乗りと商人と農夫を例にとって語った。船乗りは、ほかに何一つ頼るもののない海上で星空を眺め、一見してたえず変動する多様な星たちのなかに不変の構造を見出す。海は自然を変えることも支配することもできない。そうであるがゆえに、船乗りは物ではなくその構造だけを見つめるのである。自然の形式的な構造を認識することでのみ、彼は海上で生きのびることができる。(……)

船乗りの比喩は、われわれがけっして支配できないし動かすこともできない“他者”としての自然に対してもつような知を意味している。それは、世界に同一的・不変な構造(ロゴス)があるかないかという形而上学の原理的議論と無関係に、たえず実践的に見出される知の在り方である。

それに対して、商人は、そのような自然ではなく、人間を相手にし、言葉で誘惑し説得する。アランは商人に対して否定的であるが、私の考えでは、商人の比喩は、対話において見出される知に関して不可欠なのだ。重要なのは、商人が相手の合意なくしては何もできない(詐欺も合意を要する)し、何もしないということだ。商人は、共同体の外部で、見知らぬ予測しがたい不可解な“他者”を相手にし、且つ彼を排除するのではなく、彼の自由を受けいれることでしか彼を拘束できないという場所に立っている。哲学者は、商人を、真の価値を偽る者(ソフィスト)として非難してきたが、この非難は的はずれである。真の価値あるいは同一性を、共同体の外部で他者に出会う者が前提にすることなどできないからである。

今日の科学哲学者たちは、科学が自然の真理を見出すという考えに反対し、真理が説得あるいは言語ゲームに属すると考えている。要するに、科学者も商人なのだ。しかし、哲学も、もともと共同体の中ではなく、諸言語が交錯する「世界」、つまり他者を説得するほかに強制しえないような場所に発生したはずである。

これは、ギリシャの思想家たちに限られるのではない。諸子百家の一人、孔子は「我は賣(かいて)を待つ者なり」(「子罕篇十二」)と語っている。彼もまた思想家が商人であることをはっきり自覚していたのだ。実際に、共同体を離れた言葉、したがってまた対象や呪力から解放された言葉においてのみ、哲学的思考がはじまるのである。言葉がそれを指示する対象や一義的な意味と必然的につながりをもっていないという認識こそが、哲学的問いをひきおこす。もしそうでなければ、誘惑者(商人)としての思想家もまたありえなかっただろう。

いわゆる哲学(形而上学)は、そのような商人=思想家につきまとういかがわしさの痕跡を隠す。そして、そこから誰もがそれに従うほかないような共同体・規範的な真理(同一性)をとり出す。それは、すでに、交通空間を排除する共同体の思考である。

農夫の比喩に関しては、とりたてていうまでもあるまい。船乗りと商人の対極を考えればよい。彼は共同体の内部に属する者であり、また何とか操作しうる自然を相手とする者である。彼は、自然に対して無力であるがゆえにその構造を見きわめようとするどころか、自然に対してたち向かいそれを支配しようとする。すなわち魔術によって。もちろん魔術は自然を動かすことができないのだが、そのことで挫折したりはしない。なぜなら、その代りに人間を動かせばよいからだ。(柄谷行人『探求 Ⅱ』P271-273)

第二節以降、船乗り=商人ともあるが、これは共同体の間にある海=砂漠における「交通空間」に住まう者ということであり、ここではその一部だけを引用する。だが途中に出て来るミシェル・セールの『ヘルメスⅠ』の序文だけは先に孫引きしておこう。

……コミュニケーションを行なうことは、旅をし、翻訳を行ない、交換を行なうことである。つまり、〈他者〉の場所へ移行することであり、秩序破壊的というより横断的である異説(異本)として〈他者〉の言葉を引受けることであり、担保によって保証された品物をお互いに取引きすることである。ここにはヘルメス、すなわち道路と四つ辻の神、メッセージと商人の神がいる。(豊田彰・青木研二訳)

以下本文だが、都市=砂漠=海が「交通空間」とされて、繰りかえせばその「間」に住むものが船乗り=商人であり、哲学者、科学者も本来商人であるべきだ、そしていままで農夫としての「哲学者」が批判してきた「ソフィスト=商人」が肯定的に書かれているのも上の引用で見た(千葉雅也氏は、ツイッター上でソフィストをしきりに顕揚することを想起しておこう)。

都市を、その具体的な定住空間においてみるのはまちがっている。それは共同体としての都市、あるいは都市国家を、“都市”ととりちがえることになる。たとえば、“情報”のコミュニケーション=交換が停滞すれば、どんな都市〔シティ〕もその外見を残したままで町〔タウン〕になってしまう。都市は、国家(共同体)の内部にあるようにみえるーー事実、国家は都市を包摂するーーが、本質的には国家の外部にある。都市は、海=砂漠なのだ。たとえば、デカルトが亡命したアムステルダムについて、世界最大の商業都市であり、且つ砂漠であるといったのは、正確である。デカルト主義者とちがって、彼は“砂漠”で考えたのだ。(『探求 Ⅱ』P276)

柄谷行人の文に出て来る《アランは、知の源泉として、船乗りと商人と農夫を例にとって語った》を読んで、アランのプロポを読み返してみたのだが、柄谷行人がおそらく参考にしているプロポのひとつは「水夫と農夫」だろう。「商人」に関しては、アランのほかのプロポがあるにはあるのだが今は割愛。

以下、邦訳字数にして約二千字、原稿用紙五枚の簡にして要をえた名プロポ「水夫と農夫」である。

水夫と農夫 

水夫は舟もろとも波がしらに突きあげられるとき、人間よりはるかにつよい一つの力を身をもって知る。しかしまた、水夫は舟をあやつって風のすぐそばをとおり、かくして風のままに押しながされて来ていた暗礁から遠ざかるとき、工夫しだいで風や波にうちかつ手段があるものだということを知る。そして、海のもたらすどんな攻め手に対しても、かわし手があるということを、経験からして彼はおしえられる。いってしまえば、相手はつねに機械的な、たんに機械的なものたるにすぎぬ力なのだ。ここではすべてが明快である。そして法則は、混乱のなか、あのはてしない動揺のなかにあってさえ、すがたをあらわす。潮汐の規則ただしいくりかえしは、嵐の神をあなどるかとおもわれ、そして木はつねに水のうえにうかぶ。不実な要素をふまえているのは、見かけによらず、農夫のほうなのだ。ここでは、生物学的な力が季節の気まぐれともつれ合ってはたらく。ここには期待が、忍耐が、そしてまずもって失望がある。ここには灌漑が、かしこに排水といったふうに、なにか有益なことをくわだてるには、ながい歳月のうえに眼をはせなければならない。ある年は水がれで日でりがする。つぎの年は雨が多くて湿潤であるといったあんばいだ。種まきと取りいれのあいだに、いかばかりの変化があることか。これに対しては、貯えと埋めあわせによるほか、なんのかわし手もない。ある年はまぐさと家畜でうめあわせ、他の年は小麦でうめあわす。それゆえ、たのむ先は伝統であり、模倣である。およそ新基軸はすべて眉つばものとされる。というのは、こうした農夫の智慧は当初の結果などにはけっして目もくれないのだから。小麦畑には平べったい小石がちらばっているのが見うけられる。かのプヴァールとペキッシュはこれらの小石を大金をかけてとり除かせた。だがじつは、この鉱物のこやしは小麦の茎をささえていたのであり、また小石はおそらく排水に役立っていたのだ。ふたりはふんだんに肥料をやったわけだが、みのりはふやふやのしげった草になってしまい、とり入れた小麦はみとが悪いものになってしまった。しまいまで待とう、これが農夫の歌なのである。

水夫の行動は猶予をゆるさない。カジのとり方ひとつが生死のわかれみちになる。刻々があいつぐ戦いである。勝利は一瞬ごとに確保される。一時の危険はただ一つのみ。そして、ひとたび港に入ってしまうと、すぐさま海神ネプチュヌスはあざわられる。大胆さや工夫は、波浪のやわらくこうした入海の岸辺で生れたものにちがいない。いつもおだやかな港のかたわらの、あのいたずらな潮騒は、およそ想像力をやわらげるはずのものである。「はやてをやり過ごせ」、これは水夫のことばであり、またある意味で生活の規則でもある。わが国の港町でよく見られる光景だが、水夫たちの快楽は、農夫の息子であるおとなしい歩兵たちの眉をひそめさせる。けだし、嵐も水夫たちの収穫をかすめとりはしないからである。水夫はわが身ひとつを救えば、はやすべてを救ったことになる。だが農夫のほうは、自分の富を港へははこびこむことはできない。農夫の富はつねにひろげ出され、さらし出されている。かくして、ほかほかとあたたかい火も、彼の霜の心配をそうなぐさめてくれはしない。「風が地上を吹きあれているとき、身が安全にかくまわれていることは、なんとこころよいことか。」詩人とともにこんなことがいえるのは、けっして農夫ではない。

こうしたいろんな原因ゆえに、かの支那という国はどっしりと重くるしく、えたいが知れない。またこうした原因ゆえに、海に噛まれる活動的な西洋は、その法則と発明とを世界に送り出す。こうした考察は、あの勤勉で物理学者の島国、イギリスとその政策とについてなにごとかを説きあかしてくれる。モンテスキューはこの政策を、潮汐の力と入江の深さによって説明して倦まなかった。というのは、彼によれば、竜骨がふかくなれば側面抵抗力がまして、風のすぐそばを航行することもできるようになるゆえ、ふかい港はすぐれた帆船を生むということになる。こうした原因によって、ヴェニスはイギリスを破ることができなかった。そして、どの海戦もみな、潮汐と海岸とによってあらかじめ勝敗の帰趨はきまっていたわけだ。水夫の思想、水夫の哲学。陸の人ゲーテは、外的原因によるこうした説明をあまり好まなかった。むしろ彼の思弁は、人力のおよびえないあの内部による発展という考えをたどりつつ、ドングリから樫の大木へとすすんだ。この点、ゲーテは農夫であった。彼は観念というものを、自己のうちにみずからの法則をもつ胚珠のようなものとして考えた。こうした観念は神秘的なものだ。それは推論の対象というよりは、むしろ静観の対象である。それは精神をてらし出すよりは、むしろこれをはたらかす。かくして、大陸はその星雲のような観念の群れを、四方海に洗われる島々のほうへ押しやる。そして海の人ダーヴィンが、この群れの毛を刈りとるということになる。(アラン『プロポ』集(弥生選書)より 井沢義雄/杉本秀太郎訳)


《かの支那という国はどっしりと重くるしく、えたいが知れない》とあるが、これは今では一概にそうは言えないのかもしれない。たとえば中国は商人の国でもあるだろう、すくなくとも世界各地に華僑という存在があって本土に強い影響を与えている。かつ青幇紅幇をも想起しておこうーー《中国では個別社会――幇(バン)や親族組織――が強く、それが国民(ネーション)の形成を妨げてきたが、逆に、今日のグローバル化において、国境を越えた個別社会のネットワークが強みとなっている》(「丸山真男とアソシエーショニズム」 )。だが全体的な印象ではやはり《どっしりと重くるしく、えたいが知れない》であるだろう。尖閣や南シナ海に船舶で不穏な動きをしようとも、どうも農夫が舵をとる船の印象がある。

では日本という国はどうなのだろう。江戸文化の伝統、ーー刀狩り(武装解除)、布教の禁と檀家制度(政教分離)、大家族同居の禁(核家族化)、外征放棄(鎖国)、軍事の形骸化(武士の官僚化)、領主の地方公務員化(頻繁なお国替え)ーーを引き摺るままの閉じられた「村社会」というのが通念ではある。だが、もし中国と日本が同じ農夫の共同体であったにしろ、日本は決して「どっしり」とはいかない国でもある。

1994年の時点で(「リテレール」第十一号)、中井久夫は次のように書いている。

中国人は平然と「二十一世紀中葉の中国」を語る。長期予測において小さな変動は打ち消しあって大筋が見える。これが「大国」である。アメリカも五十年後にも大筋は変るまい。日本では第二次関東大震災ひとつで歴史は大幅に変わる。日本ではヨット乗りのごとく風をみながら絶えず舵を切るほかはない。為政者は「戦々兢々として深淵に臨み薄氷を踏むがごとし」という二宮尊徳の言葉のとおりである。他山の石はチェコ、アイスランド、オランダ、せいぜい英国であり、決して中国や米国、ロシアではない。(「日本人がダメなのは成功のときである」『精神科医がものを書くとき Ⅰ』所収広英社)

《風をみながら絶えず舵を切るほかはない》国であるに相違ないのなら、農夫気質のひとがどうも多すぎるきらいのある日本には、水夫的人材が増える必要があるのではないか。とはいえ、そんな人材を意図的に増やすことができるわけではない。

浅田彰の云う「土人の国」日本とは、日本人の農夫気質を揶揄するものだ。実際、「同調圧力」やら「絆」や「寄り添う」、「共感の共同体」(事を荒立てるかわりに、「『仲良し同士』の慰安感を維持することが全てに優先される)、「空気を読む」、「曖昧模糊として春のよう」などと語られる日本、あるいは日本人の特徴は、すべて農夫気質を言い表わしているともいい得るが、いささか捕捉すべきなのは、《公的というより私的、言語的(シンボリック)というより前言語 的(イマジナリー)、父権的というより母性的なレヴェルで構成される共感の共同体》(浅田彰)や、「母系的なものの残存」(柄谷行人)という観点だろう。だがここではそれを追求することはしない。

農夫の資質とは中井久夫によれば次の如し。

「大変化(カタストロフ)」を恐怖し、カタストロフが現実に発生したときは、それが社会的変化であってもほとんど天災のごとくに受け取り、再び同一の倫理にしたがった問題解決の努力を開始するものである。反復強迫のように、という人もいるだろう。この倫理に対応する世界観は、世俗的・現世的なものがその地平であり、世界はさまざまの実際例の集合である。この世界観は「縁辺的(マージナル)なものに対する感覚」がひどく乏しい。ここに盲点がある。マージナルなものへのセンスの持ち主だけが大変化を予知し、対処しうる。ついでにいえば、この感覚なしに芸術の生産も享受もありにくいと私は思う。(中井久夫『分裂病と人類』)

日本における「反知性主義」、たとえば最近では斎藤環によって「ヤンキー化」などとも語られたりする原因の多くは、この農夫気質に由来するのではないか。

《いまやヤンキー化の進行はとどまるところを知らない。気合とアゲのバッドセンス、ポエム化の蔓延、現場主義のリアリズムと夢を語るロマンティシズム、「知性より感性」の反知性主義。ヤンキー化の源泉をさぐることで、あたらしい「日本人」の姿が見えてくる。》(斎藤環「ヤンキー文化と日本文化」――「日本精神分析2.0」

日本社会には、そのあらゆる水準において、過去は水に流し、未来はその時の風向きに任せ、現在に生きる強い傾向がある。現在の出来事の意味は、過去の歴史および未来の目標との関係において定義されるのではなく、歴史や目標から独立に、それ自身として決定される。(……)

労働集約的な農業はムラ人の密接な協力を必要とし、協力は共通の地方心信仰やムラ人相互の関係を束縛する習慣とその制度化を前提とする。この前提、またはムラ人の行動様式の枠組は、容易に揺らがない。それを揺さぶる個人または少数集団がムラの内部からあらわれれば、ムラの多数派は強制的説得で対応し、それでも意見の統一が得られなければ、「村八分」で対応する。いずれにしても結果は意見と行動の全会一致であり、ムラ全体の安定である。(加藤周一『日本文化における時間と空間』より)

もっとも「反知性主義」が日本社会の「ムラ」的人間関係のせいだけだとは断言しないでおこう。ムラ的な人間関係の集団による知性の劣化はなにも日本だけのことではないのだから。

集団は全体としてみると、(……)知的作業力の弱体化や、情緒の無制御、節度を守ったり猶予したりする能力の喪失、感情表現が限界を越える傾向、感情表現を行動の形で完全に放出してしまう傾向、ルボンが印象ぶかく叙述したこれらのことは、精神活動の初期の段階への退行をはっきりした形で示している。それは、われわれが野蛮人や小児に見出しても驚きはしないような種類のものである。われわれが知っているように、高度に組織化された人為的な集団では、この退行は、かなりの程度まで防止することができる。

このようにしてわれわれがうける印象は、個人のもつ個々の感情の動きや個人的な知的行為が弱化して、単独では無効になり、ひとえに他人の側からの同じやり方の繰り返しによる強化を期待する状態、という印象である。この依存現象がどんなに多くの人間社会の正常な構成に属しているのか、その中に見出される独創性と個人的な勇気がどんなにとぼしいか、個人の種族の特性とか、階級の偏見とか、公の意見とかいうものとして現わされる集団精神の立場に支配されることが、どんなに多いか、こういったことをわれわれはここで思いおこさざるをえない。(フロイト『集団心理学と自我の分析』フロイト著作集6 p231-232


さて農夫のムラや共感の共同体に対抗するために水夫や商人が必要だとして、それが《connecticut》、すなわち《connect-i-cut、「接続せよ-私は-切断する」》ことを意味するのか、そのとき、浅田彰の「逃走」と、千葉雅也の「非意味的切断」ーー《浅田さんは強度の人。僕は弱度の人》とどうかかわるのかは、わたくしには瞭然としない。ただここでは、柄谷行人の云うような「農夫」と「水夫」の間のフットワーク(経験論と合理論の間のフットワーク)が「商人」であるのなら、connecticut(接続せよ-私は-切断する)も似たような考え方ではないかと憶測するだけである。

「商人」というとおそらく悪い印象を受けるかもしれない。あるいはソフィストといっても同様。ソフィスト、すなわち「思想の商人」なのだから。だが言葉に騙されてはならない。たとえば、ソクラテス/ソフィストをイロニー/ユーモアとする見解がかねてからある。

Platonic irony is, in this sense, a technique of ascent, a movement toward the principle on high, the ascetic ideal. The Sophist, by contrast, follows a descending movement of humor, a technique of descent that moves downward toward the vanity of the false copy, the self-contradicting sophist.(Daniel W. Smith『Essays on Deleuze』ーープラトンとニーチェの「洞窟」

これは、ドゥルーズのマゾッホ論のテーマでもある(参照:「超越的/超越論的」と「イロニー/ユーモア」)。

柄谷行人が、《哲学はソクラテスの「対話」にはじまっている。対話そのものが鏡の中にあるのだ》(『トランスクリティーク』p79)と書くとき、共同体(ムラ)の「対話」のことを言っている。すなわちソクラテスは農夫なのだ。もっともここで急いでつけ加えておかねばならない、別のソクラテスもいることを。

ソクラテスは、当然、次のように言うことができる。―――私は、友人である以上に愛であり、恋人である。私は哲学である以上に芸術である。私は、積極的意志であるよりも、しびれなまずであり、強制であり、力である、と。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)

「商人」だってそうだ。無分別な顕揚はあやうい。

芸術家でも職人でもないタイプ、職人に対しては芸術家といい、芸術家に対しては職人というタイプである。それは「枠」を自覚し越えるようなふりをするが、実際は職人と同じ枠のなかに安住しており、しかも職人のような責任をもたない。中野は、これを「きわめて厄介なえせ芸術家」と呼んでいる。なぜなら、彼らを芸術家の立場から批判しようとすれば、自分は職人であり大衆に向かっているのだというだろうし、職人の立場からみれば、彼らは自分は芸術家なのだというだろうから。(柄谷行人「死語をめぐって」)

この文の「芸術家」と「職人」に、「水夫」と「農夫」を代入してみよう。あるいは合理論者と経験論者でもいい。《彼らを水夫(合理論者)の立場から批判しようとすれば、自分は農夫(経験論者)であるというし、農夫の立場からみれば、彼らは自分は水夫だというだろう》--このきわめて厄介なヌエのような存在が、実際の「商人」の実態なのだ。

とすれば、経験論と合理論の「間」で機敏なフットワークを駆使する真の「商人」を育成するためには、日本に決定的に欠けていると言われる「合理論者=水夫のような法則の人(構造主義者)」がまずは必要であるということになる(参照:象牙の塔(メタレベル)不在の「美しい日本の私」)。


※補遺→農夫/水夫の間の機敏なフットワーク(商人=観光客)


2014年6月24日火曜日

ハラスメント、あるいは苦情の文化

かなり前のことだが、ツイッター上で、あるプロ写真家の女子高生たちの花見写真のRTと彼が女子高生側から難詰(だまってとらないでよ!)をぼやく発話をRTしたとき、フェミニスト風のオジョウサンから、「被写体の人物に了解をとってから、写真を撮るのが現在の最低限の礼儀だわよ、おじさん!」とさとされたことがある。

この「おっさん」はフェミニストのたぐいが怖いタチなので
「でもねえ、こっちの国では若い女の子たちはこっそり撮られて
あとで気づいても、にこっと微笑みかえすだけだけどねえ」
と応答しておくだけにして
ややこしい反論はしないでおいたが。

「写真の本質は盗写じゃないかね」なんて言っても
通用しそうな相手じゃなさそうだったから。





「撮影者」の本質的な行為は、ある事物または人間を(部屋の小さな鍵穴から)不意にとらえることにあり、したがってその行為は、被写体が知らぬまにおこなわれるとき、はじめて完璧なものとなる。(……)写真は、それがなぜ写されたのかわからなくなるとき、真に《驚くべきもの=不意を打つもの》となる。(ロラン・バルト『明るい部屋』p46)

こっそり写真を撮るのは、スカートの下じゃなくても
ハラスメントなんだろうなあ、いまでは。




「嫌がらせ〔ハラスメント〕」は、明確に定義された事実を指しているように見えながら、じつはひじょうに両義的に機能し、イデオロギー的なごまかしをしている語のひとつである。いちばん基本的なレベルでは、この語はレイプや殴打のような残酷な行為や他の社会的暴力を指す。いうまでもなく、そうした行為は容赦なく断罪されるべきだ。しかし、現在流通しているような「嫌がらせ」という語の使い方では、この基本的な意味が微妙にずれて、欲望・恐怖・快感をもった他の現実の人間が過度に近づいてくることに対する批難になっている。二つのテーマが、他者に対する現代のリベラルで寛容な姿勢を決定している。他者が他者であることを尊重して他者に開放的であることと、嫌がらせに対する強迫的な恐怖である。他者が実際に侵入してこないかぎり、そして他者が実際には他者でないかぎり、他者はオーケーである。ここでは寛容がその対立物と一致している。他者に対して寛容でなければならないという私の義務は、実際には、その他者に近づきすぎてはいけない、その他者の空間に闖入してはいけない、要するに、私の過度の接近に対するその他者の不寛容を尊重しなくてはいけない、ということを意味する。これこそが、現代の後期資本主義社会における中心的な「人権」として、ますます大きくなってきたものである。それは嫌がらせを受けない権利、つまり他者から安全な距離を保つ権利である。

(……)あるいは、「悪は、まわりじゅうに悪を見出す眼差しそのものの中にある」という塀ゲルの言明をふたたび言い換えるならば、〈他者〉に対する不寛容は、不寛容で侵入的な〈他者〉をまわりじゅうに見出す眼差しの中にある。(ジジェク『ラカンはこう読め』P173-174)

この「ハラスメント」への極度の敏感さの現代的傾向については、大澤真幸の説明がわかりやすい。

現代社会においては、伝統的な規範の枷がその効力を徐々に失い、原理的には、他者危害要件(他人に危害を及ぼさないという留保条件)さえみたしていれば、すべてが許されているように感じられるのである。つまり、少なくとも規範との関係でいえば、ほぼ完全な(消極的)自由が保証されているように見えるのだ。

だが、これと連動して、まったく逆方向の傾向も見出すことができる。すなわち、個人の幸福や厚生の水準の向上の名のもとに――つまり他者危害要件によって――、従来ではありえなかったような規範が急速に増大しつつあるのだ。(…)喫煙を限定する規制、望ましい食事を規定する規範、家庭内での暴力を禁止する規範、あるいはセクシュアル・ハラスメントやストーカー行為を禁止する規範などが、そうした規範に含まれる。(大澤真幸『<自由>の条件』より)

ここで《現代社会においては、伝統的な規範の枷がその効力を徐々に失い》とあるのは、ラカン派では「<エディプス>の斜陽」とか「父性的な象徴権威の弱体化」、さらには「大文字の他者の不在」などと言われるものだ。

「大文字の<他者>の非存在」という新しい状態の、もしかすると最も目を引く面は、技術的発達がますますわれわれの生活世界に影響力をもつときに顔を出す、いわゆる倫理的な問題について決断を迫られる「委員会」の発生かもしれない。(……)

例えばある言明が、実際にセクシュアル・ハラスメントを構成したり、人種差別的な憎悪による発話を構成したりするかどうかを決定することには、構造的な困難がある。そのようなはっきりしない言明を前にすると、「政治的に正当な」急進派は、まずもって、非をならす被害者の方を信じる傾向にある(被害者がそれをいやがらせとして経験したのなら、それはいやがらせなのだ……)のに対して、強硬な正統派リベラルは、告発される加害者の方を信じる(本気でいやがらせのつもりでやったことでないのなら、それは免罪されるべきだ……)傾向にある。もちろん肝心なところは、この非決定性は、構造的なもので避けようがないということだ。最終的に意味を「決する」のは、「大文字の<他者>」(被害者と加害者がともに組み込まれている象徴界のネットワーク)なのであり、「大文字の<他者>」の命令は、そもそも結果が決まっているものではなく、誰もその結果を支配し、規制することはできない。だから、行き詰まりを打破するには、結局は恣意的なかたちで正確な行動規則を定めるために、委員会を招集することになる……。

(……)まるで「大文字の<他者>」の欠如が、主体が自分の責任を転移し、自分の行き詰まりを打破してくれるような公式を提供してくれるものと思われる、数々の「小さな大文字の<他者>」としての「倫理委員会」で埋められているかのようである。(……)

この大文字の<他者>の後退の第一の逆説は、いわゆる「苦情の文化」に見ることができる。その根底にある論理はルサンチマンである。主体は、大文字の<他者>が存在しないことを喜んで引き受けるのではなく、その失敗かつ/あるいは無力を<他者>のせいにする。<他者>が存在しないということが<他者>の罪であるかのようだ。つまり、無力は言い訳にはあんらないかのようだーー大文字の<他者>はまさにそれが何もできなかったということに責任があるのだ。主体の構造が「ナルシシスティック」になればなるほど、主体は大文字の<他者>に責めを負わせ、そうして自分がそれに依存していることを確める。「苦情の文化」の基本的な特徴は、大文字の<他者>に向けられた、介入して事態を正してくれ(損害を受けた性的少数派あるいは少数民族などに報いてくれ)という要求であるーーまさにそれをどうするかが、さまざまな倫理的=法的「委員会」の問題になる。(ジジェク「サイバースペース、あるいは幻想を横断する可能性」)

…………

ところで都議の「セクハラ」発言と大臣の「金目」発言(パワハラ)があって世論の反撥を生むのは当然だが、その反撥の度合、温度差が著しく異なる(たとえば「署名」数)。

@AtaruSasaki: 「セクハラ」やいじめなど昔からある定型の問題には感情的になりやすい印象があります。確かにたいへん重大な問題です。しかし石原金目発言も同じように問題ではないでしょうか。みなさん、福島をお忘れですか? →【署名はこちら】http://t.co/f8x6tjh3pw (佐々木中)

《「セクハラ」やいじめなど昔からある定型の問題には感情的になりやすい印象があります》や、あるいは「福島」はわすれられているとあるが、それだけではなく、あの温度差は、じつは石原金目発言は、かなりの割合の人々はひそかに「正しい」と思っているせいかもしれない。

お金があらゆる善の根源だと悟らない限り、あなたがたは自ら滅亡を招きます。(アイン・ランド『肩をすくめるアトラス』)

実際、「原子力安全委員会」の委員長であった斑目春樹はかつて次のように発言しているようだ。

(最後の処分地の話は)最後は、結局、お金でしょ。
どうしても、みんなが受けて入れてくれないとなったら、じゃあ、おたくには、今までこれこれと言ってきたけど2倍払いましょう、それでも手を挙げないんだったら5倍払いましょう・・・・(斑目春樹2011.5)

インターネット上からは次のような見解をも拾うことができる(石原伸晃の「金目」発言の裏側でうごめくものの正体)。

私はある意味では伸晃君を買っているのです。彼は、絶望的な正直者なのです。だから、政治家には向いていない。


都議の「セクハラ」発言は、《表面的な、利用されやすい庶民的正義感のはけ口》の対象でもありうるのかもしれない、そのため多くの「正義の士」による反撥を生む。

……被害者の側に立つこと、被害者との同一視は、私たちの荷を軽くしてくれ、私たちの加害者的側面を一時忘れさせ、私たちを正義の側に立たせてくれる。それは、たとえば、過去の戦争における加害者としての日本の人間であるという事実の忘却である。その他にもいろいろあるかもしれない。その昇華ということもありうる。

社会的にも、現在、わが国におけるほとんど唯一の国民的一致点は「被害者の尊重」である。これに反対するものはいない。ではなぜ、たとえば犯罪被害者が無視されてきたのか。司法からすれば、犯罪とは国家共同体に対してなされるものであり(ゼーリヒ『犯罪学』)、被害者は極言すれば、反国家的行為の単なる舞台であり、せいぜい証言者にすぎなかった。その一面性を問題にするのでなければ、表面的な、利用されやすい庶民的正義感のはけ口に終わるおそれがある。(中井久夫「トラウマとその治療経験」『徴候・外傷・記憶』所収)

《現代日本の精神構造は、中世の魔女裁判のときやヒットラーのユダヤ人迫害のときの精神構造とそれほど隔たったものではない。ほとんどの人は安心してみんなと同じ言葉をみんなと同じように語る。同じ人に対して同じように怒りをぶつける。同じ人に対して同じように賞賛する。》(中島義道『醜い日本の私』)

…………

以下は資料。

Do We Secretly Envy the Childfree? Or is childlessness still a taboo?

Rationally, of course, we know that not everyone should have kids, and that not everyone wants to have kids, and that life without kids is an entirely plausible and even pleasant possibility; and yet, do many of us secretly feel sorry for or condescend to or fail to understand women who don’t have children? Do we assume they are bravely harboring some deep disappointment, do we think they can’t possibly be happy with things as they are, that there is some brittleness, some emptiness at the center? This is the argument of the French feminist, Elisabeth Badinter, and I think she is probably right.

(意訳、すなわちテキトウ訳)
理性的には、もちろん、わたしたちはみんなが子供をもつ必要はないし、みんなが子供をほしくないというのは知っているわ。子供がいない生活はまったく妥当でありうるし、楽しいのかもしれない。でもわたしたちの多くは、子どもをもっていない女性をかわいそうに感じたり、見下していたり、わかってあげようとしていないんじゃないかしら? わたしたちは決めてかかっていない? 彼女たちは深い失望感を勇敢にもやりすごしているだけだって。こんなふうに思っていない? 彼女たちは、現状のままではしあわせじゃないかもしれないって。彼女たちの心の核には、なにか脆さや虚ろなものがあるんじゃないかって。これがフランスのフェミニスト、エリザベート バダンテールの議論で、わたくしもたぶん正しいと思うわ。
Taboo is a strong and unsubtle word, probably, for how we feel about childlessness; it might be more precise to say that the shrewder, wilier form that taboo takes is probably something closer to pity, as if the childless woman has somehow not pulled it together, as if she is damaged or thwarted. Especially if that childless woman conforms to our clichéd narrative, and say has a dog or cat, or a dog and a cat, or multiple dogs or cats: the general interpretation is that she is sad, not that she is doing a different thing.

We know of course that we are not supposed to judge other women for something like not having children, but we do it all the time.……

タブーは強くて、隠微なものなんてものじゃ全然ないわ、わたしたちが子供なしについてどんなふうに感じているのかについてね。もっとはっきりと言ってしまえば、タブーがなにを示唆しているのか、より突き刺すように、より巧妙な形で言えば、なにか憐れみに近いものがあるんじゃないかしら。まるで子供のない女性はいくらか落ち着くことができず、まるで彼女たちは傷ついたり、さもなければ挫折している、と。とくに子供がいない女性が、わたしたちのクリシェに語り口にぴったりするときだわ。犬か猫、犬と猫、たくさんの犬と猫なんてね。ふうつの解釈では、彼女たちは淋しいってことね、他人と違ったことをしているというのじゃないわ。

わたしたちはもちろん子供のないようなほかの女性をそうなふうに判断なんかしていないと思い込んでいる。でも実際はいつも判断しているのよ。……

ーーエリザベート・バダンテール(Elisabeth Badinter)はかつて『母性という神話(L'Amour en Plus)』(鈴木晶訳)で次のように語った人物である。

著者がいわんとしていることはこうだ――いわゆる母性愛は本能などではなく、母親と子どもの間で育ってゆくものであり、母性愛を本能だとするのは一つのイデオロギーである。このイデオロギーは女性が自立した人間存在であることを認めようとせず、母親の役割だけに押し込める。さらには、子どもにたいして母親としての愛情を感じることのできない女性を「異常」として社会から排除しようとする。(鈴木晶「あとがき」ちくま学芸文庫)

ジジェクは、バダンテールの“On Masculine Identity1996)”を引用して次のように書いている。

The true social crisis today is the crisis of male identity, of “what it means to be a man”: women are more or less successfully invading man's territory, assuming male functions in social life without losing their feminine identity, while the obverse process, the male (re)conquest of the “feminine” territory of intimacy, is far more traumatic.(ジジェク『Less Than Nothing』(2012)

現在の真の社会的危機は、男性のアイデンティティである、――すなわち男性であるというのはどんな意味かという問い。女性たちは多少の差はあるにしろ、男性の領域に侵入している、女性のアイディンティティを失うことなしに社会生活における「男性的」役割を果たしている。他方、男性の女性の「親密さ」への領域への侵出は、はるかにトラウマ的な様相を呈している。(私訳)


…………

◆2013年07月21日(日)東浩紀 @hazumaツイートより。

ぼくは基本的に異性愛だろうが同性愛だろうがなんでもいいひとです。ただ他方で子どもを作るのも尊いことだと思っているひとです。この両者を両立させるのはなかなか難しいんですが、今後はそれしかないでしょう。

このあいだも某政治家さんから雑談で「いまは選挙戦説でも難しい。子作り支援する社会を作ろうと言うと、では子ども作らないひとはどうなるのかという話になるので、そこはむろん個人の選択でみたいな註釈を付けねばならずすべてがぼやけていく」とかいう話を聞かされたのだけど、それはほんと問題。

問題は、保守的で家父長的で女性差別的で異性愛中心主義的な発言と受け取られないようにするための註釈がおそろしく長くしかも複雑怪奇になっていて、子ども作ったらそれなりに楽しいよーとか、子ども作るなら年齢限界あるよーとかいう話がほとんどできなくなっているということなのですよ。

この、「保守的で家父長的で差別的な発言と受け取られないようにするための註釈がおそろしく長くしかも複雑怪奇なので結果的になにも発言したくなくなる問題」は、結婚出産の問題に限らず、リベラルの影響力をあらゆる方面で削ぎ落としているので、そろそろなんとかしたほうがいいと思うんだけどね。

まあ、とはいえ、一方に頑迷な差別主義者が残っているのは事実で、他方で差別主義者の糾弾こそが知識人の使命だと思っているひとが多いのも事実なので、ぼくみたいな主張は理解されないんだろうけどね。差別と受け取られることを怖れないで積極的に提言していくリベラルとか、想像つかないよな。。

…………

以下のような言説は、現在では一言でも口に出してはならぬ(?)、ことさら《差別主義者の糾弾こそが知識人の使命だと思っているひとが多い》現代日本では。

「私は母性が何をもたらすかわからない。わかっているのは、子供を産まないと、世界の半分を失うということよ。同性愛は決してこの働きを知らないでしょう。それが同性愛の限りない貧しさよ」マグリッド・デュラス
いかにして女を治療すべきかーー「救済」すべきか、この問いに対するわたしの答えを読者は知っているだろうか? 子供を生ませることだ。「女は子供を必要とする、男はつねにその手段にすぎぬ。」こうツァラトゥストラは語った。 ――「女性解放」―― それは、一人前になれなかった女、すなわち出産の能力を失った女が、できのよい女にたいしていだく本能的憎悪だーー「男性」に戦いをいどむ、と言っているのは、つねに手段、口実、戦術にすぎぬ。彼女らは、自分たちを「女そのもの」、「高級な女」、女の中の「理想主義者」に引き上げることによって、女の一般的な位階を引き下げようとしている存在だ。それをなしうる最も確実な手段は、高等教育、男まがいのズボン、やじ馬的参政権である。つまるところ、解放された女性とは、「永遠の女性」の世界における無政府主義者、復讐の本能を心の奥底にひめている出来そこないにほかならない。(ニーチェ『この人を見よ』手塚富雄訳)
実のところ、ニーチェが大いに嘲笑を浴びせているフェミニストの女たちは男性なのだ。フェミニズムとは、女が男に、独断的な哲学者に似ようとする操作であり、それによって、女は真理を、科学を、客観性を要求する、即ち、男性的幻想のすべてをこめて、そこに結びつく去勢の効力を要求するのである。(デリダ『尖筆とエクリチュール』)
「女は真理を欲しない。女にとって真理など何であろう。女にとって真理ほど疎遠で、厭わしく、憎らしいものは何もない。――女の最大の技巧は虚をつくことであり、女の最大の関心事は見せかけと美しさである。われわれ男たちは告白しよう。われわれが女がもつほかならぬこの技術とこの本能をこそ尊重し愛するのだ。われわれは重苦しいから、女という生物と附き合うことで心を軽くしたいのである。女たちの手、眼差し、優しい愚かさに接するとき、われわれの真剣さ、われわれの重苦しさや深刻さが殆んど馬鹿馬鹿しいものに見えて来るのだ。」(『善悪の彼岸』)
 …………

(デリダは)ある種の二重の戦略の必要性を力説しています。僕がよく挙げる例なのですが、man(男)と woman(女)という二項対立があったとして、そこでは明らかに manが womanを暴力的に抑圧しているのだから、その二項対立を転倒し、 manに対して womanを復権しなければならない。しかし、 manと womanは実は Man(人間=男)という土俵に乗っているのだから、そこで優劣を転倒しただけでは、ニーチェの言うように勝利した女が男になった自らを見出すだけという結果に終わりかねない。したがって、転倒と同時に、 Man(人間=男)という土俵自体を脱構築していかなければならない、というわけです。(浅田彰

バッハオーフェン、あるいはニーチェの「ディオニソス」思考系譜の、ケレーニンは、女ははゾーエーの象徴であり、男性はビオスの象徴である、とする。女性は「無限の生」(zoe)の体現者であり、男性は[一回的な生](bios)の体現者でしかない、と。ゾーエーとは、ひとつかぎりの真珠(ビオス)のビーズを繋げる糸なのであり、《破壊を受け容れず遺伝子のように固体を越えて連続する生》であると。


ゾーエーはすべての個々のビオスをビーズのようにつないでいる糸のようなものである。そしてこの糸はビオスとは異なり、ただ永遠のものとして考えられるのである。(カール・ケレーニイ『ディオニューソス.破壊されざる生の根源像(Dionysos.Urbilddesunzerst・rbarenLebens)』1976)

女たちは、生み、育て、そして老いて死ぬ。「創造→維持→破壊」の循環、「死と再生」の体現者である女性は、「無限の生命zoe」の象徴であり、男性は一回限りの「有限の生命bios」でしかない(参照:バッハオーフェンの「母権制」と、ニーチェ、あるいはドゥルーズ=マゾッホ

男/女の二項対立(分子)の土俵には、無限の生(zoe)の分母があるに決っている。

谷間の神霊は永遠不滅。そを玄妙不可思議なメスと謂う。玄妙不可思議なメスの陰門(ほと)は、これぞ天地を産み出す生命の根源。綿(なが)く綿く太古より存(ながら)えしか、疲れを知らぬその不死身さよ(老子「玄牝の門」 福永光司氏による書き下し)


女は男の種を宿すといふが
それは神話だ
男なんざ光線とかいふもんだ
蜂が風みたいなものだ 

ーー西脇順三郎 「旅人かへらず」より