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2014年11月14日金曜日

資料:金持のための社会主義

前投稿「エンロンEnron社会」を泳がざるをえない「文化のなかの居心地の悪さ」補遺ーー市場原理主義と新自由主義は違うなどという寝言を言ってくる輩がいるので。市場原理主義とは資本の欲動の論理である。

◆柄谷行人の「歴史の終焉について」(『終焉をめぐって』所収)

要するに、資本主義圏と社会主義圏があるというのはうそである。資本主義は世界資本主義としてあり、「社会主義圏」はその内部にしか存在したことがない。だが、こうした二項対立がなぜ戦後を支配したのだろうか。

もともと戦後体制は、1929年恐慌以後の世界資本主義の危機からの脱出方法としてとらえられた、ファシズム、共産主義、ケインズ主義のなかで、ファシズムが没落した結果である。それらの根底に「世界資本主義」の危機があったことを忘れてはならない。それは「自由主義」への信頼、いいかえれば、市場の自動的メカニズムへの信頼をうしなわせめた。国家が全面的に介入することなくしてやって行けないというのが、これらの形態に共通する事態なのだ。p160
人々は自由・民主主義を、資本主義から切り離して思想的原理として扱うことはできない。いうまでもないが、「自由」と「自由主義」は違う。後者は、資本主義の市場原理と不可分離である。さらにいえば、自由主義と民主主義もまた別のものである。ナチスの理論家となったカール・シュミットは、それ以前から、民主主義と自由主義は対立する概念だといっている(『現代議会主義の精神史的地位』)。民主主義とは、国家(共同体)の民族的同質性を目指すものであり、異質なものを排除する。ここでは、個々人は共同体に内属している。したがって、民主主義は全体主義と矛盾しない。ファシズムや共産主義の体制は民主主義的なのである。

それに対して、自由主義は同質的でない個々人に立脚する。それは個人主義であり、その個人が外国人であろうとかまわない。表現の自由と権力の分散がここでは何よりも大切である。議会制は実は自由主義に根ざしている。p162

※参照:資本の欲動のはてしなさ(endless)と無目的(end-less)

一般市民は「理解」しないといけないのだろうか? 社会保障の不足を埋め合わせることはできないが、銀行があけた莫大な金額の損失の穴を埋めることは必須であると。厳粛に受け入れねばならないのか? 競争に追われ、何千人もの労働者を雇う工場を国有化できるなどと、もはや誰も想像しないのに、投機ですっからかんになった銀行を国有化すのは当然のことだと。Alain Badiou, “De quell reel cetre crise est-ellelespectacle?” Le Monde, October 17, 2008

…………

以下、ジジェク『First as Tragedy, then as Farce』より。

「あなた(グリーンスパン-引用者)はイデオロギーをおもちでしたね。このような供述があります。「私(グリーンスパン-引用者)には自分なりのイデオロギーがある。私の判断では、自由競争市場は経済を整えるのに最良の方法だ。規制も試みたが、成果を上げたものはなかった。」これがあなたの言葉です。サブプライム危機につながる無責任な貸付を防止する権限があなたにはあった。そうすべきだと多くの人から忠告されていた。そしていまや、経済全体がその代償を払っている。あなたは自分のイデオロギーによって決断したことを悔やんでいますか?」

「グリーンスパンは答えた。「世界の動向を決めるという重要な機能を持つ構造だと私が信じていたモデルに、欠陥がありました」。言い換えれば...自由市場のイデオロギーに欠陥があることが証明されたと、グリーンスパンは認めたのだ。のちには、金融会社が多大な損失をこうむらないよう取引相手を十分調査しなかったことに「茫然とした」と何度もくり返した。「人々は、金融機関の自己利益追及によって株主の権利は守られると期待していました。彼らは茫然自失の状態にあります。私もです。」

「グリーンスパンの過ちは、賢明に自己利益を追求する貸出機関であれば、もっと責任ある、もっと倫理的な行動をとるはずで、早晩バブルがはじけることが明白な無謀な投機に一目散に走るようなまねはするまい、と期待したことだった。」

「グリーンスパンの失策は、市場参加者の合理性を過大評価していたことに、つまり無謀な投機で荒稼ぎする誘惑に負けたりしないと信じていた点にある。しかし、それだけではない。リスクを冒す価値があるという、金融投機家のごく合理的な期待 - いざ金融崩壊となっても国家による損失補てんをあてにできる - を計算に入れ忘れていたのだ。」(ジジェク『ポストモダンの共産主義』

二〇〇八年の金融大崩壊への緊急援助策

『この巨額な緊急援助は何の解決のもならない。これは財政社会主義であり、反アメリカ的である。』(ジム・バニング共和党上院議員)

共和党の緊急援助策への反対のしかたは階級闘争の様相を呈していた。つまり、ウォール街と目抜き通りとの闘争だ。なぜこの危機を招いた責任のあるウォー ル街の金持ちを助け、住宅ローンをかかえた目抜き通りの普通の人たちに犠牲を払うよう、求めねばならないのか?……

……マイケル・ムーアがこの緊急援助策を世紀の強盗事件であると避難する意見広告を出したのも無理はない。

この左派と共和党保守主義者との見解の意外な一致点は、考察に値する。

では、緊急援助策は本当に「社会主義」的な政策であり、ついにアメリカに社会主義国家が誕生したことを意味しているのか? もしそうなら、きわめて特殊な形態である。「社会主義」政策の第一の目的が、貧しい者ではなく富める者、債務者ではなく債権者を助けることになってしまうからだ。金融システムの「社会主義化」が資本主義を救うために役立つのならば認められるというのは、究極の皮肉である。社会主義は悪──のはずだが、ただし、資本主義の安定に資する場合にかぎり悪ではないと言うことだ(現代中国との対称性に注目を。中国共産党は同じように、「社会主義」体制を強化するために資本主義を利用している)。(同上)

※「目抜き通り」は、原文をみるとmain streetになっている。Wall street 対 main streetであって、一般大衆の住むストリート、つまり「一般市民」として読もう。

◆参照1:ジジェク『イデオロギーの崇高な対象』より。

資本の限界は資本そのものであるという公式を進化論的に読むのは的外れである。この公式の眼目は、生産関係の枠組みは、その発展のある時点で、生産力の伸びを邪魔するようになる、といったことではなく、この資本主義の内在的限界、この「内的矛盾」こそが、資本主義を永久的発展へと駆り立てるのだ、ということである。資本主義の「正常な」状態は、資本主義そのものの存在条件のたえざる革新である。資本主義は最初から「腐敗」しており、その力をそぐような矛盾・不和、すなわち内在的な均衡欠如から逃れられないのである。だからこそ資本主義はたえず変化し、発展しつづけるのだ。たえざる発展こそが、それ自身の根本的・本質的な不均衡、すなわち「矛盾」を何度も繰り返し解決し、それと折り合いをつける唯一の方法なのである。したがって資本主義の限界は、資本主義を締めつけるどころか、その発展の原動力なのである。まさにここに資本主義特有の逆説、その究極の支えがある。資本主義はその限界、その無能力さを、その力の源に変えることができるのだ。「腐敗」すればするほど、その内在的矛盾が深刻になればなるほど、資本主義はおのれを革新し、生き延びなければならないのである。剰余享楽を定義するのはこの逆説である。この剰余とは、何か「正常」で基本的な享楽に付け加わったという意味での剰余ではない。そもそも享楽というものは、この剰余の中にのみあらわれる。すなわち、それは本質的に「過剰」なのである。その剰余を差し引いてしまうと、享楽そのものを失ってしまう。同様に、資本主義はそれ自身の物質的条件をたえず革新することによってのみ生き延びるのであるから、もし「同じ状態のままで」いたら、もし内的均衡を達成してしまったら、資本主義は存在しなくなる。したがって、これこそが、資本主義的生産過程を駆動する「原因」である剰余価値と、欲望の対象-原因である剰余享楽との、相同関係である。


参考2:ケインズの「美人投票」理論  (岩井克人)

ケインズの美人投票とは、しゃなりしゃなりと壇上を歩く女性の中から審査員が「ミス何とか」を一定の基準で選んでいくという古典的な美人投票ではない。もっとも多くの投票を集めた「美人」に投票をした人に多額の賞金を与えるという、観衆参加型の投票である。この投票に参加して賞金を稼ごうと思ったら、客観的な美の基準に従って投票しても、自分が美人だと思う人に投票しても無駄である。平均的な投票者が誰を美人だと判断するかを予想しなければならない。いや、他の投票者も、自分と同じように賞金を稼ごうと思い、自分と同じように一生懸命に投票の戦略を練っているのなら、さらに踏み込んで、平均的な投票者が平均的な投票者をどのように予想するかを予想しなければならない。「そして、第四段階、第五段階、さらにはヨリ高次の段階の予想の予想をおこなっている人までいるにちがいない。」すなわち、この「美人投票」で選ばれる「美人」とは、美の客観的基準からも、主体的な判断からも切り離され、皆が美人として選ぶと皆が予想するから皆が美人として選んでしまうという「自己循環論法」の産物にすぎなくなるのである。

ケインズは、プロの投機家同士がしのぎを削っている市場とは、まさにこのような美人投票の原理によって支配されていると主張した。それは、客観的な需給条件や主体的な需給予測とは独立に、ささいなニュースやあやふやな噂などをきっかけに、突然価格を乱高下させてしまう本質的な不安定性を持っている。事実、価格が上がると皆が予想すると、大量の買いが入って、実際に価格が高騰しはじめる。それが、バブルである。価格が下がると皆が予想すると、売り浴びせが起こり、実際に価格が急落してしまう。それが、パニックである。

ここで強調すべきなのは、バブルもパニックもマクロ的にはまったく非合理的な動きであるが、価格の上昇が予想されるときに買い、下落が予想されるときに売る投機家の行動は、フリードマンの主張とは逆に、ミクロ的には合理的であるということである。ミクロの非合理性がマクロの非合理性を生み出すのではない。ミクロの合理性の追求がマクロの非合理性をうみだしてしまうという、社会現象に固有の「合理性のパラドックス」がここに主張されている。

《グリーンスパンの失策は、市場参加者の合理性を過大評価していたことに、つまり無謀な投機で荒稼ぎする誘惑に負けたりしないと信じていた点にある。しかし、それだけではない。リスクを冒す価値があるという、金融投機家のごく合理的な期待 - いざ金融崩壊となっても国家による損失補てんをあてにできる - を計算に入れ忘れていたのだ》とあったが、金持のための社会主義は、ケインズ理論(美人投票論)が明かした資本の欲動の必然的な結果。資本が自由に振舞えば、このマクロの「非合理性」を生むのだから。そしてこの資本主義のシステムを守ろうとすれば、資本の欲動の結果としての金融崩壊が起こっても国家による損失補てんをせざるをえない。

《資本主義の純粋化によるミクロ的な効率性の上昇は、逆にマクロ的な安定性を揺るがせてしまうと論ずるのである。資本主義が、大恐慌などの幾多の危機を経ながら、まがりなりにもある程度の安定性を保ってきたのは、貨幣賃金の硬直性や金融投機の規制など市場の働きに対する「不純物」があったからである。効率性を増やせば不安定化し、安定性を求めると非効率的になるという具合に、効率性と安定性とは「二律背反」の関係にあるというのである。》(岩井克人)

そもそも金融崩壊による損失補てんは、一見金持のための社会主義にみえるが、その事態が起こったときに真っ先に困窮するのは、低所得者たちである。

ジジェクの金持のための社会主義とは、ジジェク一流のレトリックなのであって、その言葉だけを取り出して真に受けるのはマヌケでしかない。事実、ジジェクもこう語っている。

《もし「モラルハザード」が資本主義の本質そのものであったとしたらどうだ? つまり両者は不即不離の関係にある。資本主義の体制下では、目抜き通りの人々の幸福はウォール街の繁栄にかかっている。だか、緊急援助に反対する共和党のポピュリストが正しい理由から誤ったことをしている一方で、緊急援助の発案者は誤った理由から正しいことをしているのだ。もっと凝った用語を使えば、これは「非推移的関係」なのである。》(ジジェク『ポストモダンの共産主義』)



彼らは私たちを負け組だと言ってるようだが、本当の敗者はウォール・ストリートにいる。連中は私たちのカネで莫大な額の保釈金を払ってもらったようなものだ。私たちを社会主義者だと言うが、いつだって金持ちのための社会主義が存在しているではないか。私たちが私的財産を尊重していないと言うが、たとえここにいる全員が何週間も日夜休まず破壊活動を続けたとしても、2008年の金融崩壊で破壊された個人の財産には及びもつかない。私たちを夢想家だという。でも、夢を見ているのはこのままの世の中が永久に続くと考えている人々だ。私たちは夢を見ているのではない。悪夢となってしまった夢から目覚めようとしているのだ。

覚えておいてほしい。問題は不正や強欲ではない。システムそのものだ。システムが否応なく不正を生む。気をつけなければいけないのは敵だけではない。このプロセスを骨抜きにしようとする、偽の味方がすでに活動を始めている。カフェイン抜きのコーヒー、ノンアルコールのビール、脂肪分ゼロのアイスクリームなどと同じように、この運動を無害な人道的プロテストにしようとするだろう。


2014年11月4日火曜日

経済学における「差異と反復」派と実体派(マザコン派)

「金融は実体経済を映す鏡。金融に変化を求めるのなら、社会や実体経済も大きく変わらなければいけない」(金融が映す「リスクとらぬ社会」  (飛躍の条件(1) 池尾和人 慶大教授に聞く 2013/10/23
これは間違っていないか。実体経済は二の次で、期待インフレ率を維持することが最優先というのは、どんな経済学からも、実務の立場からも出てこないはずだ。つまり、彼は実体経済をわかっていないか、重要度が低いと思っているのだ。昨日の記者会見からの結論だ。(「黒田総裁は天才かつ秀才だが、間違っている」 小幡績 2014年11月01日)

二人とも慶応大学の教師である。アベノミクスにやや距離を置いた、おそらく反リフレ派と呼んでよい経済学者たちだろう。


ところで、かねてよりアベノミクスに好意をもって見守る経済学者岩井克人には、最近もまた、期待は経済の本質」2014/10/25とのインタヴュー記事がある(わたくしはこの会員限定記事の中身を読んでいないが)。「最近もまた」としたのは、一年半ほどまえにも次のような記事を読んだことがあるからだ。

――アベノミクスでも期待に働きかけることが注目されています。お金の価値を下げることを意味するインフレは、緩やかな限り「よいこと」とされている意味とは? 

「資本主義とは、お金があるがアイデアはない人が、アイデアはあるがお金がない人にお金を貸すことによって、アイデアを現実化していくシステムです。デフレの時は、お金を持っているだけで得する。人々はお金それ自体に投機し、貸し渋りが起こった。インフレの期待は、人々をお金それ自体への投機から、アイデアに対する投機、さらにはモノに対する投資に向かわせるのです」

 「そういう意味で『期待』によって、お金がお金になるだけではなく、経済そのものに大きな影響を与える。経済政策を巡って『期待だけで実体が伴っていない』と言われますが貨幣を伴う経済にとって、期待とは本質そのものとすら言えます」(期待が根拠、それがお金 経済学者の岩井・東大名誉教授」 2013年05月07日)


このあたりは冒頭の実体経済派とは相反する見解のように思える。とくに小幡績氏は、《実体経済は二の次で、期待インフレ率を維持することが最優先というのは、どんな経済学からも、実務の立場からも出てこないはずだ》としているが、「どんな経済学からも」云々とは、わたくしの乏しい知識からしても齟齬がある表現である。そして岩井克人の見解では、日銀の黒田東彦総裁は、まったく間違っていない。





アベノミクスは、トービン型のケインズ経済学において教科書どおりの政策である。つまり、「三本の矢」の1本目「大胆な金融緩和」でインフレターゲットを設定することでインフレ期待を高め、名目的な資産(貨幣、債券)の価値を目減りさせ、実体的な資産(株式、不動産)へと人びとの選好を移していく。それが資産価格の上昇を招き、消費にプラスに作用する。実際、すでに高額商品の消費が高水準で推移し始めている。

 同時に、株価の上昇は、企業の設備投資への意欲を刺激し、それによってGDPが引き上げられる。もちろん「成長戦略」どおり、企業投資が持続的に上昇していくかは、日本企業の革新力に依存する。だが、これまでの日銀がデフレを放置し、「失われた20年」を招いたことを考えれば、黒田総裁の方針転換によって日本経済が新たな局面に入ったことは間違いない。

 この好循環に冷や水を浴びせるものがあるとすれば、それは長期金利の早すぎる上昇(債券価格の下落)である。好況の結果としての金利上昇は「よい」上昇であるが、財政破綻のリスクで上昇するのは「悪い」上昇である。それは成長戦略に大きなマイナスになってしまう。(アメリカがアベノミクスに味方する理由〔2〕 - 岩井克人(国際基督教大学客員教授  2014年02月14日)

ところで岩井克人の「期待は経済の本質」という考え方は、まずは上にもあるようにケインズ系譜である。

人が貨幣を受け取るのは、他人がそれを貨幣として受け取ると予想しているからであるが、他の人がなぜ貨幣を受け取るかというと、やはりモノとして使うためではなく、誰か他の人が貨幣として受け取ると予想しているからである。皆が貨幣を貨幣として受け取るのは、結局、皆が貨幣として受け取ると予想しているからにすぎない。ここにあるのは、ケインズの美人投票と同じ自己循環論法であり、しかももっとも純粋な自己循環論法なのである。(ケインズの「美人投票」理論  岩井克人

さらには、マルクスの価値形態論が真の起源でもある。

……『資本論』の読み手の多くは、ここに循環論法のにおいを嗅ぎつける。労働価値論を前提として商品世界の貨幣形態をみちびきだし、商品世界の貨幣形態をとおして労働価値論を実証するという循環論法である。たしかに、過去の何人ものひとが、なんとかこの循環論法をつかわずに価値形態論を再構成することをこころみてきた。だが、護教的なマルクス主義者をのぞく大多数の読み手は、この循環論法に絶望して、労働価値説も価値形態論も捨てさってしまったのである。

しかしながら、「循環論法」それ自体はかならずしも絶望すべきものではない。いや、これからわたしが示していこうとおもうのは、「貨幣形態」にもし「秘密」があるとしたら、それはこの貨幣形態を固有の価値形態とする商品世界がまさに「循環論法」によって存立する構造をしているということなのである。それは同時に、貨幣という存在が、商品世界におけるまさに「生きられた循環論法」にほかならないということを示すことにもなるのである。(岩井克人『貨幣論』)

名著『貨幣論』が書かれる直前の柄谷行人との対談では次のような発言がある。

資本の論理はすなわち差異性の論理であるわけです。差異性が利潤を生み出す。ピリオド、というわけです。(『終りなき世界』柄谷行人・岩井克人対談集1990)

透明なかたちで価値法則が見渡せないということが資本の論理が働くための条件なのであり、つまり価値法則の自己完結性が破綻していることが、資本主義が現実の力として運動するための条件という考え方である。もし「同じ状態のままで」いたら、すなわち内的均衡を達成してしまったら、資本は運動しなくなる。

これらのことをめぐって、資本主義的生産過程駆動する「原因」である剰余価値と、ラカンの欲望の対象-原因である剰余享楽(対象a)が相同的である、とラカン派によって説明される。ラカンは、マルクスの剰余価値概念をもとにして剰余享楽なる概念をつくりあげたのはよく知られている。


ここでアランの《幸せだから笑うのではない、笑うから幸せなのだ》を変奏させてこういってみよう。

ーー実体経済がよいからカネが回るのではない。カネが回るから実体経済がよくなるのだ、と。

いや、さらにこう引用してもよい。

反復されることになる最初の項などは、ありはしないのだ。だから、母親へのわたしたちの幼児期の愛は、他の女たちに対する他者の成人期の愛の反復なのである。

(……)反復のなかでこそ反復されるものが形成され、しかも隠されるのであって、そうした反復から分離あるいは抽象されるような反復されるものだとは、したがって何も存在しないのである。。擬装それ自身から抽象ないし推論されうるような反復は存在しないのだ。(ドゥルーズ『差異と反復』財津理訳)

ーーカネが回るなかでこそ実体経済が形成されるのである、としておこう。

他方、実体経済派は、母という実体、最初の項を信じるタイプであり、別称マザコン派と呼ぶことにする。

冗談はさておき、そしてわたくしにはどちらの派が「正しい」かとするほども経済学に詳しくはないのだが、この互いに相反する派両方とも、国債価格の下落を怖れている点では意見の一致を見ている。

ここで岩井克人の上の文から再掲しておこう、《この好循環に冷や水を浴びせるものがあるとすれば、それは長期金利の早すぎる上昇(債券価格の下落)である。》と。

この債券価格の下落については、黒田日銀が経済成長率が2%を達成したときに、いや場合によってはその前にも、もっとも懸念されることなのは、「アベノミクスによる税収増と国債利払い増」などで見た。


…………

附記:


マルクスが価値形態論を完成させたと考えた光りまばゆい貨幣形態の姿では、商品の価値形態はけっして完成していないことを知るはずである。まさに価値形態論の構造じたいが、みずからの完成を拒み、みずからに無限のくりかえしを強いることになるのである。そして、価値形態論のこの無限のくりかえしの極限において、われわれは黄金色の輝きを失い、商品の世界のなかにあって商品よりもはるかにみすぼらしい姿になった貨幣形態をみいだすことになるだろう。だが、そのみすぼらしい姿にこそ本来の意味での「貨幣の謎」が隠されているはずである。(岩井克人『貨幣論』)

ここで岩井克人が「無限のくりかえし」とするのは、「資本の論理」、ーー《資本の論理はすなわち差異性の論理であるわけです。差異性が利潤を生み出す。ピリオド、というわけです》に関係し、資本の論理の構造自体が無限のくりかえしを強いるという意味である。ジジェクや柄谷行人ならそれを「資本の欲動」といい、剰余享楽=<対象a>をめぐる反復運動という言い方もされる。

マルクスが資本の考察を守銭奴から始めたことに注意すべきである。守銭奴がもつのは、物(使用価値)への欲望ではなくて、等価形態に在る物への欲動――私はそれを欲望と区別するためにフロイトにならってそう呼ぶことにしたいーーなのだ。別の言い方をすれば、守銭奴の欲動は、物への欲望ではなくて、それを犠牲にしても、等価形態という「場」(ポジション)に立とうとする欲動である、この欲動はマルクスがいったように、神学的・形而上的なものをはらんでいる。守銭奴はいわば「天国に宝を積む」のだから。(柄谷行人『トランスクリティーク』)


…………

※追記:マザコン派って書いたけど、マザコンでなんでわるいのかっていう議論もあるからな。岩井克人やらドゥルーズを信じすぎちゃあいけない。たとえばジジェクだってこうやって引用しておくけど、疑いをもって読まなくちゃな。

……ラカンにとって、反復は抑圧に先んずるものである。それはドゥルーズが簡潔に言っているのと同様である。《われわれは、抑圧するから反復するのではない。反復するから抑圧するのだ》(『差異と反復』)。次のようではないのだ、――最初に、トラウマの内容を抑圧し、それゆえトラウマを想起できなくなり、かつトラウマとの関係を明確化することができないから、そのトラウマの内容がわれわれに絶えずつき纏いつづけ、偽装した形で反復するーー、こうではないのだ。現実界(リアル)が極細の差異であるなら、反復(それはこの差異を作り上げるもの)は、原初的なものである。すなわち抑圧の卓越性が現れるのは、現実界から象徴化に抵抗する「物」への“具現化”としてであり、排除され、あるいは抑圧された現実界が、己を主張し反復するときに初めて抑圧は現れる。現実界は原初的には無である。だがそれは物をそれ自身からの分離する隙間なのであり、反復のずれ(微細な差異)なのである。(ジジェク『LESS THAN NOTHING』(私意訳)ーー二種類の反復ーー「反復強迫automaton」と「反復tuche」

生きていくには「実体派」だっていいさ
ただしマザコン谷川俊太郎も「そうとう年を取ってから」
なんたらに気づいたっていってんな。


ぼくは、ひとりっ子で、
すごい母親っ子だったんです。
母親はけっこう厳しかったんだけど、
わりと、父親が家庭をかえりみないで
ずっと外にいる人だったから、
その代わりにぼくを可愛がったような
ところがありました。
そのせいでぼくは、
すごくマザコンだったんですよ。
自分ではそんなこと自覚してなかったんだけど
恋愛というものがいつでも
自分の母親の願望に
すごく染められていた、というか。
だから「いったん好きになったら一生もんだ」
みたいな発想があったんです。
それを、ぼくはいいことだと思ってたわけ。
俺はもう、一婦一夫制を狂信的に信じている、と。
一婦一夫制を守るためだったら浮気はおろか、
もう離婚も辞さないって(笑)、
公言してたわけです。
自分がひとりの女にずっと誠実でいる。
実際にぼく、そういう行動をしてたんだけど、
でもそれがだんだん、
「何、これって? 母親とひとり息子の
 関係の再生産じゃないの?」
と思うようになったのね。
母親を求めることは意識下の欲求だから、
最初は思うだけで、
そこから自由じゃなかった。
だけど、そうとう年取ってから、やっと、
マザー・コンプレックスの気持ちじゃなくて、
相手の女性を対等に見られるようになったことが
いちばんマシになったところなんですよ、自分では。(谷川俊太郎×糸井重里





2014年10月31日金曜日

「日本の財政は破綻する」などと言っている悠長な状況ではない?

財政制度等審議会会長の吉川洋東大大学院教授曰く、

 --消費税増税を延期すべきだとの声が高まっている

 「予定通り来年10月に10%に引き上げるべきだ。そもそも、消費税増税の目的は社会保障制度を持続可能な制度にするためだ。高齢化で年金、医療、介護の給付金など支出が膨らみ、現役世代が払う保険料だけでは賄えない分を税金で支えてきた結果、日本は国内総生産(GDP)の2倍超の財政赤字を抱えることになった。大きな戦争が起こっていない平和な国で、この巨額の赤字は異常だ。放置すべきではない」(吉川洋・東大大学院教授に聞く 社会保障維持へ10%判断を

吉川洋氏は2009年に次のように語っている。


一人っ子家庭が増加するにつれ、若者たちは 「結局は年老いてからひどい扱いを受け、蔑まれることになるのに、若い時分に自分の望みを押さえ生活を窮乏にしなければならない理由がどこにあろうか」と考えはじめる。また「なに よりも女房と子供のために働きかつ貯蓄せん」 という動機は失われ、個人主義的功利主義が支配するようになり、人々は「ただ将来のために働くことを命ずる資本主義的倫理をも喪失する に至る」とする。吉川は、 「シュンペーターによれば、優良な 投資機会が少なくなるということで資本主義は滅びはしない。それは家族の変容を伴いながら 企業家精神が喪失されることにより自壊するのである」と結論づけている。(『企業家精神―シュンペーター『経済発展の理論』財務総合政策研究所研究部長 田中 修)

…………

ところで知る人ぞ知る『「財政破綻後の日本経済の姿」に関する研究会』なるものがある。研究会発足にあたる2012年時点での問題意識は、《われわれは日本の財政破綻は『想定外の事態』ではないと考える。参加メンバーには、破綻は遠い将来のことではないと考える者も少なくない》とされている。

2012622日の第1回会合では、三輪芳朗氏の《もはや『このままでは日本の財政は破綻する』などと言っている悠長な状況ではない?》という論点メモが提出されている。疑問符をつけているのがやや遠慮深いとはいえるが、経済理論的にはいつ財政破綻してもおかしくない状況でまた回避できようもないのだから、そんな「悠長な」ことはやめて「その後」を考えようというものだ。これは冒頭に掲げた吉川洋氏のいまだあきらめきれない「誠実な」立場とは異なり、一見「ひねくれた」、あるは「やけくそ気味」の人たちの集まりとも感じれれる。

 メンバーは次の通り。




直近の会合の概要欄(第21回2014.8.27)には次のようにある。

日本の深刻な財政危機状態や2%の物価上昇率を目標に掲げる日銀の歴史的な積極的金融緩和策が続行されるなか、8月末時点の長期債の最終利回りは0.5%を下回っている。ある意味、不可解な現象である。われわれは過去2年間「現状の日本でなぜ国債価格の大幅下落、急激なインフレを伴う「財政破綻」は現実化しない、その予兆も見えないのはなぜか・・・?」という問題意識を抱き、研究会を続けてきた。そして過去数回の研究会では、日本の国債価格の形成メカニズム、とりわけ投資家の期待形成メカニズムや資産選択行動を解明する糸口を求めて関連するファイナンス研究について見てきた。

 エライ学者先生にとってはーーあるいは「とっても」ーー、国債価格が下落しないのは《不可解な現象》なようだ。実際、日銀首脳もアベノミクス導入後、つねに国債価格の下落を怖れている。

来年10月予定の消費税再増税について「増税で景気が落ち込みば財政・金融政策で対応可能だが、延期で国債価格が下落(金利は上昇)すれば対応が難しい」との持論を繰り返した。「今のところ政府の財政再建の方針は守られている」と増税決行に期待を示した。(追加緩和手段に限界ない、現時点で議論不要=黒田日銀総裁 2014.9.11)

──異次元緩和後の金利動向をどうみているか。

「金利に対しては2つの違う働きの効果が働いている。国債を大量に買い入れたため、名目金利やリスクプレミアムは下がる。一方、予想インフレ率が上がることで名目金利が上昇する要素もある。金融政策の結果、予想インフレ率が上昇し、実質金利が下がっているかどうかが一番大事だ。そうでなければ株や為替、実体経済に対する影響が出てこない。(現在の実質金利は)BEIでみるとマイナスだ」(岩田日銀副総裁インタビューの一問一答 2103.6.24)

これらの「懸念」のよってきたるところの大きな理由のひとつを池尾和人氏は次のように説明している。

 「日銀が大量の国債を買い取ることで、これまで民間部門が保有していた国債が減るために、国債の需給が引き締まり、長期国債の利回りは低下する要因となるはず。一方で他の資産市場にシフトして国債市場から離脱する市場参加者の方が多ければ、かえって需給が緩み、結局利回りは下がらない。何らかのストレスが市場に発生することで、財政に伝播してしまうリスクや、金利上昇の際のリスクが大きくなったともいえる」と不安を示す。

ただし「何が起こるかは、民間金融機関の行動次第だ。買えるだけの国債は買った上で買えない部分だけ外債投資に移すのか、あるいは、国債市場から離脱して他の投資先を本格的に求めていくのかによって、生じる結果も変わる。確定的なことはわからない」として、今後の市場の動きを見極める必要性を指摘する。

さらに大きなリスクとみているのは、デフレから脱却して景気が回復すれば、金利が上昇し、利払い負担が膨らむこと。「これまでは、デフレのもとで財政が奇妙な安定を保ってきたが、デフレから脱却して金利が上昇すると、財政の安定が崩れるというリスクがある。その際、成長率上昇による税収増と利払い費の比較になる。税収に比べて利払いが大きくなっているので、成長率が1%上がった場合、金利も1%上がると、税収増より利払い増が大きくなり、資金繰りが苦しくなる」というものだ。

そのうえで、デフレ脱却を目指す以上、財政リスクへの備えが欠かせないと指摘。「これだけの公的債務を抱えている国の首相が、金利上昇方向の政策を推進し、大胆な緩和策をとる以上は、それに見合った財政のコンティンジェンシープランが必要だ」と強調する。(インタビュー:利払い負担で資金繰り苦しく、財政不安定化も=池尾教授

※参照:


冒頭に掲げた学者先生たちを「ひねくれた」と書いてしまったが、それでは、あれら『「財政破綻後の日本経済の姿」に関する研究会』メンバーにはひどくシツレイである。ただマスコミを軽くあしらう癖はあるメンバーであるようで、その議論はあまり知られていないということはあるだろう。

……数日後、来年の日本経済に関する予測特集を組む予定だという経済誌の記者から、「先生が主催されている『財政破綻後の日本経済』の姿に関する研究会について一度お話を伺えませんか?」というメールを受け取った。「毎回議事録を掲載しています。あれ以上に具体的に何を聞きたいというのですか?」と返信した。「日本財政はどういう帰結をたどる可能性が高いか」「その結果、何が起きるのか(国債デフォルトあるいはハイパーインフレ?)」「財政破綻を防ぐにはどうすれば良いのか?」など6項目だという。「議事録を読んで聞きたいことを明確にしていただけませんか?マナーというものがあるでしょう」という返信に対する、数時間後の「大変失礼しました。申し訳ありませんでした」という回答で終了した。多くの「関係者」にとって、「想定外の」内容の議論・研究会であることを象徴するように見える。  年金受給年齢に達した生活者としてはあまり現実化して欲しい内容のものではない。そういう「利害」を棚上げして、内容を真摯に受け止め、積極的に議論に参加したメンバー各位に深謝します。


実際、彼らは「誠実な」ひとびとの集まりであり、第一次世界大戦後のドイツの財政破綻によるハイパーインフレーションなども「真摯に」研究されており、そこにはこうある。

ドイツのインフレ、あの有名なhyperinflationが現実化したのは1923年秋の8月から11月の短期間であり、ドイツ皇帝が退位した1918年11月やVersailles条約調印の1919年6月から4年以上経過後のことである点に何よりも驚いた。敗戦後の混乱した状況下ですぐに現実化したのではない。敗戦後もかなりの率のインフレが進行し、1922年の高率のインフレの後に半年間以上の安定期を経て、1923年8月から11月までの短期間に物価水準が107倍(つまり10,000,000、1千万倍)になるというhyperinflationが現実化した。これに比べれば、先行する時期のインフレ(あるいは第2次世界大戦後の日本のインフレ)もかすんでしまうだろう。

この発表をされた福井義高氏のメモにはこうある。

意外に悪影響の少ない劇薬? 
・長期的視点でみれば、単なる一時的落ち込み
・ 政治的影響も小さい 
・(ハイパー)インフレのメリット – 最終局面を除き、低失業率の実現 
・国民の広い範囲にインフレ利得者が存在
・日本への教訓 – ハイパーインフレ恐るるに足らず? 
むしろ究極の財政再建策として検討すべき?


ーーなかなか過激な見解である。物価も、たとえば500円のざるそばが5万円(百倍)になれば驚くが、50億円になれば(1千万倍)笑ってすますことができるかもしれない。北野武の「日本はいったん亡びたほうがいいんじゃないか」、という発言のヴァリエーションのようにさえ思える。これを読むと岩井克人の見解などひどく「常識的」にみえてしまう。彼らは、いったん日本の財政は崩壊して新たに出直すべきだという議論までしているのだから。

……デフレはすべて悪であるが、インフレはすべて善ではない。それは、さらなるインフレを予想させてインフレをさらに強めるという悪循環に転化する可能性を常に秘めている。その行き着く先であるハイパーインフレこそ、貨幣の存立構造それ自体を崩壊させる最悪の事態である。

好況は多数の人が永続することを願っている。その多数の声に逆らって、善きインフレが最悪のハイパーインフレに転化するのを未然に防ぐ政策を実行すること、それが中央銀行の独立性の真の理由である。しかし、その心配をするのはまだ早い。いまはインフレ基調の確立により総需要が刺激され、日本経済が長期にわたる停滞から解放されることを切に望むだけである。(「日本経済新聞2013年3月14日 経済教室 岩井克人」)

財政破綻後、食料確保の次に懸念されるだろう医療についても、東京大学医学部の橋本英樹氏から「財政破綻は医療を破綻させるか? 話題提供のためのメモ」などにより検討されている(内容はいまは割愛)。

ひとが不安に思ったり驚愕したりするのは、たとえば経済小説家の橘玲氏による「20XX年ニッポンの国債暴落」に叙述される程度のハイパーインフレであり、数カ月でざるそば一杯が50億円になれば、場合によっては一部の人はお祭りのような気分にさえなりうるものかもしれない。バタイユもどきの過剰な蕩尽によるトランス状態,飲んだり喰ったり,踊ったり姦淫したり,この狂騒的リズムーー。

実は消費税増反対をくり返している「左翼」のひとたちも、蕩尽を、内心ーー仮に無意識的にであれーー、望んでいるのなら、なかなかの器である。先日、「左翼」の論客を貶してしまったが、彼らの器量はひょっとしてわたくしに窺い知れない偉大なものがあるのかもしれない。いたずらな嘲笑は、わたくしの凡庸さのなせる技であった。『「財政破綻後の日本経済の姿」に関する研究会』の学者センセの議論を読んで反省することしきりである。ーーシツレイしました!

外苑前で2万円のビジネスランチを食べ、麻布十番の顧客を訪問する。50歳でリタイアし、マレーシアで海外移住生活を送っていたのだが、円安と地価の下落を見て、外貨資産を円に戻して日本に帰ってきた「海外Uターン族」だ。

彼ら新富裕層のおかげで、私は会社でトップ5に入る営業成績を維持できている。目標に到達できなければ問答無用で解雇されるが、成績次第で青天井の報酬が支払われる。私が以前勤めていた電機メーカーはインドの会社に買収され、「同一労働同一賃金」の原則のもと、いまでは日本人社員もインド人と同じ給料で働いている。

今日は早めに仕事を切り上げて、6時の特急電車で南アルプスの家に帰る。

金融危機とそれにつづくハイパーインフレで、私の実家も妻の実家も、祖父母が年金だけは生活できなくなった。そのうえ父と義理の父がリストラされ、路頭に迷ってしまった。それで田舎に3軒の家と農地を格安で購入し、一族が肩を寄せ合って暮らすようにしたのだ。同じようなケースはほかにも多く、日本は大家族制に戻りつつあった。

東京駅前には、赤ん坊を抱いた物乞いの女たちが集まっていた。その枯れ枝のような細い腕を掻き分けて改札を通り抜けると、5000円のビールとつまみを買ってあずさのグリーン席に乗り込む。平日は都心のワンルームマンションで単身赴任し、週末に家族の待つ田舎に戻る生活を始めて1年になる。

プルトップを引いて、冷たいビールを喉に流し込む。この週末は、失業した妻の弟が、いっしょに暮らせないかと相談に来ることになっている。娘の進学問題も頭が痛い。将来に不安がないわけではないが、泣き言はいえない。いまや一族の全員がわたしを頼っているのだ。

中国語やハングルやアラビア文字のネオンサインが、新宿の夜空をあやしく染めていた。青白い月を眺めながら、いつしか浅い眠りに落ちていた。

…………

ところで、国債価格が下落しない《不可解な現象》が起こっているのはなぜなのか? ここではわたくしが依拠するところの多い「常識的な」岩井克人センセにもういちどお出まし願おう。

【ケインズの「美人投票」の理論】(岩井克人『グローバル経済危機と二つの資本主義論』より

ケインズの美人投票とは、しゃなりしゃなりと壇上を歩く女性の中から審査員が「ミス何とか」を一定の基準で選んでいくという古典的な美人投票ではない。もっとも多くの投票を集めた「美人」に投票をした人に多額の賞金を与えるという、観衆参加型の投票である。この投票に参加して賞金を稼ごうと思ったら、客観的な美の基準に従って投票しても、自分が美人だと思う人に投票しても無駄である。平均的な投票者が誰を美人だと判断するかを予想しなければならない。いや、他の投票者も、自分と同じように賞金を稼ごうと思い、自分と同じように一生懸命に投票の戦略を練っているのなら、さらに踏み込んで、平均的な投票者が平均的な投票者をどのように予想するかを予想しなければならない。「そして、第四段階、第五段階、さらにはヨリ高次の段階の予想の予想をおこなっている人までいるにちがいない。」すなわち、この「美人投票」で選ばれる「美人」とは、美の客観的基準からも、主体的な判断からも切り離され、皆が美人として選ぶと皆が予想するから皆が美人として選んでしまうという「自己循環論法」の産物にすぎなくなるのである。

ケインズは、プロの投機家同士がしのぎを削っている市場とは、まさにこのような美人投票の原理によって支配されていると主張した。それは、客観的な需給条件や主体的な需給予測とは独立に、ささいなニュースやあやふやな噂などをきっかけに、突然価格を乱高下させてしまう本質的な不安定性を持っている。事実、価格が上がると皆が予想すると、大量の買いが入って、実際に価格が高騰しはじめる。それが、バブルである。価格が下がると皆が予想すると、売り浴びせが起こり、実際に価格が急落してしまう。それが、パニックである。

ここで強調すべきなのは、バブルもパニックもマクロ的にはまったく非合理的な動きであるが、価格の上昇が予想されるときに買い、下落が予想されるときに売る投機家の行動は、フリードマンの主張とは逆に、ミクロ的には合理的であるということである。ミクロの非合理性がマクロの非合理性を生み出すのではない。ミクロの合理性の追求がマクロの非合理性をうみだしてしまうという、社会現象に固有の「合理性のパラドックス」がここに主張されている。

というわけで、日銀首脳もある種の経済学者も、《ささいなニュースやあやふやな噂などをきっかけに、突然価格を乱高下させてしまう本質的な不安定性》を怖れているわけだ。そしてその動因のひとつが、消費税増延期によって、日本は財政破綻の回避に真剣に取り組む気がないんじゃないか、という「あやふやな噂」が市場関係者のあいだで流通してしまうことになるのだろう。

これまで日本は、GDP比200%以上という巨額の債務残高にもかかわらず、長期金利がほとんど上がらなかった。その理由は、失われた20年で良い融資先を失った日本国内の金融機関が国債を保有していることもあるが、同時に「消費税率を上げる余地がある」と市場から見られていたことも大きい。社会保障を重視する欧州では20%を超える消費税が当たり前なのに、日本はわずか5%。いざ財政破綻の危機に瀕したら、いくら何でも日本政府は消費増税で対応すると考えられてきたのだ。(「見えざる手(Invisible Hand)」と「消費税」(岩井克人)


ケインズの「美人投票論」というのは、市場関係者の「欲望」にかかわるのはよく知られている。ドゥルーズ&ガタリは、「通貨の問題」と書いているが、「国債価格の問題」を代入して読んでおこう。

ケインズがいくつか貢献したことのうちのひとつは、通貨の問題の中に欲望を再び導入したことであった。こうしたことこそ、マルクス主義的分析の必要条件にあげられるべきことなのである。だから、不幸なことは、マルクス主義の経済学者たちが大抵の場合多くは、生産様式の考察や『資本論』の最初の部分にみられる一般的等価物としての通貨の理論の考察にとどまって、銀行業務や金融操作や信用通貨の特殊な循環に十分に重要性を認めていないということである。(こういった点にこそ、マルクスに回帰する(つまり、マルクスの通貨理論に回帰する)意味があるのである)。(ドゥルーズ&ガタリ『アンチ・オイディプス』)

2014年10月29日水曜日

「人間は幸福をもとめて努力するのではない。そうするのはイギリス人だけである」(ニーチェ)

柄谷行人は福島原発事故後、3ヶ月経たときのインタヴューで次のように語っている。

【柄谷】最初に言っておきたいことがあります。地震が起こり、原発災害が起こって以来、日本人が忘れてしまっていることがあります。今年の3月まで、一体何が語られていたのか。リーマンショック以後の世界資本主義の危機と、少子化高齢化による日本経済の避けがたい衰退、そして、低成長社会にどう生きるか、というようなことです。別に地震のせいで、日本経済がだめになったのではない。今後、近いうちに、世界経済の危機が必ず訪れる。それなのに、「地震からの復興とビジネスチャンス」とか言っている人たちがいる。また、「自然エネルギーへの移行」と言う人たちがいる。こういう考えの前提には、経済成長を維持し世界資本主義の中での競争を続けるという考えがあるわけです。しかし、そのように言う人たちは、少し前まで彼らが恐れていたはずのことを完全に没却している。もともと、世界経済の破綻が迫っていたのだし、まちがいなく、今後にそれが来ます。

 日本の場合、低成長社会という現実の中で、脱資本主義化を目指すという傾向が少し出てきていました。しかし、地震と原発事故のせいで、日本人はそれを忘れてしまった。まるで、まだ経済成長が可能であるかのように考えている。だから、原発がやはり必要だとか、自然エネルギーに切り換えようとかいう。しかし、そもそもエネルギー使用を減らせばいいのです。原発事故によって、それを実行しやすい環境ができたと思うんですが、そうは考えない。あいかわらず、無駄なものをいろいろ作って、消費して、それで仕事を増やそうというケインズ主義的思考が残っています。地震のあと、むしろそのような論調が強くなった。もちろん、そんなものはうまく行きやしないのです。といっても、それは、地震のせいではないですよ。それは産業資本主義そのものの本性によるものですから。([反原発デモが日本を変える])


その後も日本では、《世界資本主義の危機と、少子化高齢化による日本経済の避けがたい衰退、そして、低成長社会にどう生きるか》という真の課題を忘れてしまえる「出来事」が続出した。たとえば第二次安倍政権樹立、米中韓国との軋轢、ネオナチ猖獗など。

中井久夫は、バブル時代にすでに日本の「引き返せない道」を書いている。

一般に成長期は無際限に持続しないものである。ゆるやかな衰退(急激でないことを望む)が取って代わるであろう。大国意識あるいは国際国家としての役割を買って出る程度が大きいほど繁栄の時期は短くなる。しかし、これはもう引き返せない道である。能力(とくに人的能力)以上のことを買って出ないことが必要だろう。平均寿命も予測よりも早く低下するだろう。伝染病の流入と福祉の低下と医療努力の低下と公害物質の蓄積とストレスの増加などがこれに寄与する。ほどほどに幸福な準定常社会を実現し維持しうるか否かという、見栄えのしない課題を持続する必要がある。

2000年にも「親密性と安全性と家計の共有性と」と題して、中井久夫はこう書いている。

私は歴史の終焉ではなく、歴史の退行を、二一世紀に見る。そして二一世紀は二〇〇一年でなく、一九九〇年にすでに始まっていた。

この文のベースにある考え方は次の文にあらわれている。

ある意味では冷戦の期間の思考は今に比べて単純であった。強力な磁場の中に置かれた鉄粉のように、すべてとはいわないまでも多くの思考が両極化した。それは人々をも両極化したが、一人の思考をも両極化した。この両極化に逆らって自由検討の立場を辛うじて維持するためにはそうとうのエネルギーを要した。社会主義を全面否定する力はなかったが、その社会の中では私の座はないだろうと私は思った。多くの人間が双方の融和を考えたと思う。いわゆる「人間の顔をした社会主義」であり、資本主義側にもそれに対応する思想があった。しかし、非同盟国を先駆としてゴルバチョフや東欧の新リーダーが唱えた、両者の長を採るという中間の道、第三の道はおそろしく不安定で、永続性に耐えないことがすぐに明らかになった。一九一七年のケレンスキー政権はどのみち短命を約束されていたのだ。

今から振り返ると、両体制が共存した七〇年間は、単なる両極化だけではなかった。資本主義諸国は社会主義に対して人民をひきつけておくために福祉国家や社会保障の概念を創出した。ケインズ主義はすでにソ連に対抗して生まれたものであった。ケインズの「ソ連紀行」は今にみておれ、資本主義だって、という意味の一節で終わる。社会主義という失敗した壮大な実験は資本主義が生き延びるためにみずからのトゲを抜こうとする努力を助けた。今、むき出しの市場原理に対するこの「抑止力」はない(しかしまた、強制収容所労働抜きで社会主義経済は成り立ち得るかという疑問に答えはない)。
(……)

冷戦が終わって、冷戦ゆえの地域抗争、代理戦争は終わったけれども、ただちに古い対立が蘇った。地球上の紛争は、一つが終わると次が始まるというように、まるで一定量を必要としているようであるが、これがどういう隠れた法則に従っているのか、偶然なのか、私にはわからない。(中井久夫「私の「今」」1996.8初出『アリアドネからの糸』所収)

これはジジェクにも、ベルリンの壁の崩壊による東西間の「まなざし」がなくなってしまったという語り口によるほぼ同様の見解の文がある。

私の興味をひいたのは、東側と西側が相互に「魅入られる」ということでした。これは「幻想」の構造です。ラカンにとって、究極の幻想的な対象とはあなたが見るものというより、「まなざし」自体なのです。西側を魅惑したのは、正統的な民主主義の勃発なのではなく、西側に向けられた東側の「まなざし」なのです。この考え方というのは、私たちの民主主義は腐敗しており、もはや民主主義への熱狂は持っていないのにもかかわらず、私たちの外部にはいまだ私たちに向けて視線をやり、私たちを讃美し、私たちのようになりたいと願う人びとがいる、ということです。すなわち私たちは私たち自身を信じていないにもかかわらず、私たちの外部にはまだ私たちを信じている人たちがいるということなのです。西側における政治的な階級にある人びと、あるいはより広く公衆においてさえ、究極的に魅惑されたことは、西に向けられた東の魅惑された「まなざし」だったのです。これが幻想の構造なのです、すなわち「まなざし」それ自体ということです。

そして東側に魅惑された西側だけではなく、西側に魅惑された東側もあったのです。だから私たちには二重の密接な関係があるのです。(Conversations with Žižek, with Glyn Daly(,邦題『ジジェク自身によるジジェク』)からだが、邦訳が手元にないので、私訳 を附す)

そして現在、市場原理主義がむきだしの素顔を見せ、「勝ち組」「負け組」という言葉が羞かしげもなく語られる時である。これはジジェクと同じラカン派であるベルギーの精神分析医Paul VerhaegheがGuardian(ガーディアン 2014.09.29) にて"Neoliberalism has brought out the worst in us"「新自由主義はわれわれに最悪のものを齎した」という主張と同じ文脈のなかにある。もっともVerhaegheの見解は、新しい「文化のなかの居心地の悪さ」、--ただ「政治的」というよりは、個人と組織とのネガティブスパイラルという面への照射ーーに傾くものだが。それはこの短く書かれたガーディアンの記事ではなく、Capitalism and Psychology Identity and Angst: on Civilisation's New Discontent(PaulVerhaeghe) に詳しい。

人間は幸福をもとめて努力するのではない。そうするのはイギリス人だけである。(ニーチェ『偶像の黄昏』「箴言と矢」12番 原佑訳)

21世紀になって、われわれはみな「イギリス人」になってしまっている。

It was Nietzsche who observed that “human beings do not desire happiness, only the Englishmen desire happiness”- today’s globalized hedonism is thus merely the obverse of the fact that, in the conditions of global capitalism, we are ideologically “all Englishmen” (or, rather, Anglo-Saxon Americans…)ZIZEK"LESS THAN NOTHING")

どこかの「経営コンサルタント」が文科省の有識者会議にて提案して話題になっているG型大学とL型大学ーーG型大学はGLOBALのG、L型大学はLOCALのLーーもこの「イギリス人」の流れのなかにある。だがそれは「われわれに最悪のものを齎す」とまでは言わないでおこう、旧制高校時代のエリート主義の復活的要素の提案の芽もあると受け取るのなら、それは単純に否定されるべきものではないとも言いうるのだろうから。

蓮實重彦)エリート教育をやったほうが、左翼は強くなるんですよ。エリートのなかに絶対に左翼に行くやつが出るわけですよね。

(……)ところがいまは、エリート教育をやらないで、マス教育をやって、何が起こるかというと、体制順応というほうに皆行っちゃうけどね。(『闘争のエチカ』)

さて中井久夫の文に戻れば、困難な時代を生き抜くには「家族」しかないよ、という趣旨の主張だ。

今、家族の結合力は弱いように見える。しかし、困難な時代に頼れるのは家族が一番である。いざとなれば、それは増大するだろう。石器時代も、中世もそうだった。家族は親密性をもとにするが、それは狭い意味の性ではなくて、広い意味のエロスでよい。同性でも、母子でも、他人でもよい。過去にけっこうあったことで、試験済である。「言うことなし」の親密性と家計の共通性と安全性とがあればよい。家族が経済単位なのを心理学的家族論は忘れがちである。二一世紀の家族のあり方は、何よりもまず二一世紀がどれだけどのように困難な時代かによる。それは、どの国、どの階級に属するかによって違うが、ある程度以上混乱した社会では、個人の家あるいは小地区を要塞にしてプライヴェート・ポリスを雇って自己責任で防衛しなければならない。それは、すでにアメリカにもイタリアにもある。

困難な時代には家族の老若男女は協力する。そうでなければ生き残れない。では、家族だけ残って広い社会は消滅するか。そういうことはなかろう。社会と家族の依存と摩擦は、過去と変わらないだろう。ただ、困難な時代には、こいつは信用できるかどうかという人間の鑑別能力が鋭くないと生きてゆけないだろう。これも、すでに方々では実現していることである。

いずれにせよ、20世紀には異様なことが起こったであり、前世紀初頭のヒトの数はわずか20億だった。






              (「今までに存在した世界人口累計」より)


こういった状況下で(急激な少子高齢化で)、社会保障制度(年金制度など)はまともに存続できるわけがない。大和総研の「DIR30年プロジェクト「超高齢日本の30年展望」」(2013)には、1970年に就業者9人で高齢者1人を支える制度として始まった社会保障制度は、《90 年頃は 4 人程度、現在は 2 人程度である》と記述されている。

高齢化先進国の日本の場合、老年人口指数で言えば、既に 2010 年時点で 100 人の現役世代が 35 人の高齢者を支えており、2020 年には 48 人2050 年には 70 人を支える必要があると予想される(いずれも国連推計であり、社人研推計ではより厳しい)。
賃金対比でみた給付水準 (=所得代替率) は、 現役世代と引退世代の格差―老若格差―と言い換えることが可能である。この老若格差をどうコントロールするかが、社会保障給付をどれだけ減らすか(あるいは増やすか)ということの意味と言ってよい。少子高齢化の傾向がこのまま続けば、いずれは就業者ほぼ 1 人で高齢者を 1 人、つまりマンツーマンで 65 歳以上人口を支えなければならなくなる。これまで 15~64 歳の生産年齢人口何人で 65 歳以上人口を支えてきたかといえば、1970 年頃は 9 人程度、90 年頃は 4 人程度、現在は 2 人程度である。医療や年金の給付が拡充され、1973 年は「福祉元年」といわれた。現行制度の基本的な発想は 9 人程度で高齢者を支えていた時代に作られたものであることを改めて踏まえるべきだ。


ドイツのように移民人口が多い国でさえ、付加価値税率19%でありつつ、年金破綻の懸念にひどく憂慮している。左翼勢力が相対的に強いだろうフランスでも、すでに、《80年代以降、政府は(政権の左右を問わず)女性が家庭に戻るように仕向け、この分野への予算を削減しようとの思惑から、政策方針を大幅に転換した。》(「子供か仕事か、欧州女性たちのジレンマ」 アンヌ・ダゲール)


たとえば、これはここでの文脈とは異なり、男女の賃金格差の図であるが、この図を見ると男女賃金格差は、フランス、イタリアは改悪している(差が広がっている)ことがわかる。





フランスやイタリアの状況は、おそらくもっと詳しく、--たとえば移民女性の賃金などを顧慮してーーデータを見なくてはならないという議論もあるだろう。だがそれはここでは脇にやる。

いずれにせよ、欧米諸国には「移民」という強い味方ーーもちろん移民排斥運動はあることを知らないわけではないがーーがあるにもかかわらず、社会保障制度のいままでどおりの継続は困難だと推測しているわけだ。




たとえば、ドイツ。

現在ドイツでは、出生率が1.34 (McDonald 2007)、日本では1.32(全国保育団体連絡会・保育研究所2007)とほぼ同レベルであり, 両国とも深刻な状況にある。その一方で、ドイツと日本における平均寿命の上昇は、両国の高齢者年金制度に深刻な影響をもたらしている。高齢者人口の増加と出生率の低下により、日本同様、ドイツも財政的に困難な状況に直面しており、この変化に対応するために様々な政策が導入されている。(「男女不平等とワーク・ライフ・バランス: ドイツにおける社会変化と少子化問題」(アンドレア・ゲルマー/バーバラ・ホルトス 2007)


少子高齢化はドイツも日本も似たようなものだが、他方、ドイツの消費税(付加価値税)はこんな具合だ。



                  (三井住友銀行による






各国の合計特殊出生率推移は、次の通り。






これをみると、韓国は日本以上に驚くべき状況であることが窺われる(韓国の年金制度のありようは「資料:韓国の自殺率と出生率」を見よ)。上の図には中国のデータはないが、2013年に発表された大和総研の「DIR30年プロジェクト「超高齢日本の30年展望」には次のような記述がみられる。

少子高齢化が進展している日本が社会保障システムや政府財政の持続性に問題を抱え、制度疲労に対して喫緊の改革を迫られている点は周知の事実だが、中長期的にみると高齢化は日本に限った話ではなく、世界共通の課題である。ただ、国によってそのスピードが大きく異なることから、高齢化への取り組み方も変わってこよう。

国連の推計に基づくと、いずれの国の中位数年齢(年齢順に並べ、全人口を 2 等分する年齢)も年を経るにつれて上昇していく。例えば、2010 年時点の日本の中位数年齢は 44.7 歳であり、先進国平均の 39.7 歳を大きく上回り、ドイツ(44.3 歳)やイタリア(43.2歳)に近い。それが 2020 年には 48.2 歳、2050 年には 52.3 歳に上昇し、世界における超高齢社会のフロントランナーのポジションは譲らない。他方、高齢化の進展が相対的に遅いドイツやイタリアの場合、2050 年時点でも中位数年齢は 49 歳代にとどまる。

これに対して、 日本の後ろ姿を急速に追いかけてくるのが中国である。 世界最大の人口 (2010年時点 13.4 億人)を抱える中国の場合、2010 年の中位数年齢は 34.5 歳と先進国平均を 5 歳ほど下回っていたが、2020 年には 38.1 歳、2050 年には 48.7 歳へ大きく上昇すると予想される。

つまり、日本の中位数年齢が 40 年間で 7.6 歳上昇するのに対して、中国は同じ期間で 14.1 歳(四捨五入の関係で上記の年齢の差分とは一致せず)と 2 倍近く上昇する計算である。一方、中国に次ぐ人口 12.2 億人を抱えるインドの中位数年齢は 2010 年時点の 25.1 歳から 2020 年には28.1 歳、そして中国を抜いて世界最大の人口(16.9 億人)を抱えるであろう 2050 年には 37.2歳に達すると予想されている。40 年間で 12.1 歳上昇するものの、発射台が低いだけに 2050 年時点でも世界のなかで相対的に若さを保っていよう。

中国の高齢化が急速に進むとみられる背景の一つは、1979 年から導入されている“一人っ子政策”であり、同政策によって出生率は急激に低下した。同時に経済発展によって死亡率が低下した結果、人口ピラミッドの形がいびつになってきた3。2010 年時点で中国の 65 歳以上人口が全人口に占める割合 (高齢化比率) は 8.2%に達し、 経済発展の途上段階で人口構造の成熟化が進んでいる。高齢化に伴う社会的コストが増える一方で、その費用を負担する現役世代の伸び率が鈍化している状態であり、今後中国では現役世代の負担感が大幅に高まっていくと予想される。

具体的に、高齢者人口(65 歳以上)を生産年齢人口(現役世代、15~64 歳)で割った老年人口指数を求めてみると、 2010 年時点では 100 人の現役世代で 11 人の高齢者を支えていたが、 2020年には 17 人、2050 年には 42 人を支えることになり、約 4 倍の負担になる。今後の中国は、これまでの 2 桁台の高い成長率から質の伴った安定成長へスムーズにシフトするという目標を実現しながら、社会保障制度など膨張する費用を賄わなければならない。例えば、子どもが 1 人しかいない家庭では高齢者介護が大きな負担になるために、年金補助制度などを強化していく方針であるという。

ちなみに、 日本において高齢化比率が中国の 2010 年と同じ 8.2%を上回ったのは 1977 年であった。中国の現在の経済規模は日本を抜いて世界 2 位だが、1 人当たり名目 GDP(2010 年時点)は 4,400 米ドル程度であり、 1977 年当時の日本の 1 人当たり名目 GDP6,100 米ドルを下回っている。この間の生活水準や物価の変化を考えれば、その格差はより大きい。単純な比較はできないが、中国では人々の生活が豊かになる前に高齢化が始まっている。

ここでもう一度、中井久夫の文を反芻しておこう、《私は歴史の終焉ではなく、歴史の退行を、二一世紀に見る。そして二一世紀は二〇〇一年でなく、一九九〇年にすでに始まっていた》と。


国民負担率の国際比較





西欧諸国に比せば、国民負担率を上げる余地が、日本にはあることがわかる(その具体的な方法は、消費税増ということになるのだろう)。

消費税問題は、日本経済の形を決めるビジョンの問題。北欧型=高賃金、高福祉、高生産性か。英米型=低賃金、自助努力、労働者の生産性期待せずか。日本は岐路にある。(岩井克人

※参考
日本の財政は、世界一の超高齢社会の運営をしていくにあたり、極めて低い国民負担率と潤沢な引退層向け社会保障給付という点で最大の問題を抱えてしまっている。つまり、困窮した現役層への移転支出や将来への投資ではなく、引退層への資金移転のために財政赤字が大きいという特徴を有している。(「DIR30年プロジェクト「超高齢日本の30年展望」」(大和総研2013)より)

参考2:「貨幣」から読み解く2014年の世界潮流(岩井克人)

これまで日本は、GDP比200%以上という巨額の債務残高にもかかわらず、長期金利がほとんど上がらなかった。その理由は、失われた20年で良い融資先を失った日本国内の金融機関が国債を保有していることもあるが、同時に「消費税率を上げる余地がある」と市場から見られていたことも大きい。社会保障を重視する欧州では20%を超える消費税が当たり前なのに、日本はわずか5%。いざ財政破綻の危機に瀕したら、いくら何でも日本政府は消費増税で対応すると考えられてきたのだ。

 消費増税は、もちろん短期的には消費に対してマイナスだろうが、法人税減税などと組み合わせれば、インパクトを最小限に抑えることができる。重要な点は、消費増税によって財政規律に対する信頼を回復させ、長期金利を抑制することだ。実際、消費増税の実施が決定的となった昨年9月には、長期金利は低下した。

現在、2015年に消費税率を10%に上げることの是非が議論されているが、私は毎年1兆円規模で肥大するといわれる社会保障費の問題を考えても、10%への増税は不可避であり、将来的にはそれでも足りないと思っている。むしろ、アベノミクスの成功に安心して10%への増税が見送りになったときこそ、長期金利が高騰し、景気の腰折れを招くことになるだろう。

このような議論をすると、「1997年に消費税を3%から5%へ引き上げたあと、日本経済は不況に陥ったのではないか」との反論が上がる。しかし当時の景気減退は、バブル崩壊後の不良債権処理が住専問題騒動で遅れ、日本が金融危機になったことが主因である。山一證券や北海道拓殖銀行の破綻は、小さな規模のリーマン・ショックだったのである。

また、「消費税は弱者に厳しい税だ」という声も多い。だが、消費額に応じて負担するという意味での公平性があり、富裕層も多い引退世代からも徴収するという意味で世代間の公平性もある。たしかに所得税は累進性をもつが、一方で、「トーゴーサン(10・5・3)」という言葉があるように、自営業者や農林水産業者などの所得の捕捉率が低いという問題も忘れてはいけない。


こんななかでいわゆる「左翼」の活動家はいまだこんなことをオッシャッテおり(「経済なき道徳は寝言」)ーーたまたま半年ほどまえ拾ったものであり、お二人にはなんのウラミもないが、「左翼」の典型的ツイートとして掲げさせてもらうーー、それを正義の味方として振舞いたいらしい左翼だかリベラルだかの学者センセまでRTしておられる。

河添 誠@kawazoemakoto

・「消費税増税で低所得層に打撃になるのは問題だと思うけれど、今の日本の財政では云々」という人へ。前段の「低所得層への打撃」だけで、消費税増税に反対するのに十分な根拠になるはず。なぜ、財政を理由に低所得層の生活に打撃になるような増税が正当化されるのか?この問いにだれも答えない。

・「消費税増税にはさまざまな問題がありますが、財政の厳しい状況では仕方ないですね」と、「物わかりよく」言ってみせる人たち。低所得層の生活が破壊され、貧困が拡大する最大の政策が遂行されるときにすら反対しないのかね?まったく理解不能。

※河添誠氏のプロフィール欄

《NPO非営利・協同総合研究所いのちとくらし研究員・事務局長/首都圏青年ユニオン青年非正規労働センター事務局長/都留文科大学非常勤講師。非正規労働者・低い労働条件の正社員と失業者の生活支援・権利拡充のために活動中。反貧困たすけあいネットワーク、反貧困ネットワーク、レイバーネット日本の活動なども。》

藤田孝典@fujitatakanori:

・みんなが社会手当を受けたら、国の財源がなくなるという人々がいる。それはウソ。それなら欧州の国々はとっくに破綻している。

・ 財源が足りないという理由だけで、国民の生存権や社会権を剥奪していいなら、法秩序は崩壊する。

※藤田孝典氏プロフィール欄

《ほっとプラス代表理事。反貧困ネットワーク埼玉。ブラック企業対策プロジェクト共同代表、生活保護問題対策全国会議、福祉系大学非常勤講師。著書『ひとりも殺させない』》(「偽の現場主義が支える物語的な真実の限界」より)


こういった「左翼」の消費税増反対などというものは、《文句も言えない将来世代》への残忍非道の振舞いではないか(参照:アベノミクスと日本経済の形を決めるビジョン)。

簡単に「政治家が悪い」という批判は責任ある態度だとは思いません。

 しかしながら事実問題として、政治がそういった役割から逃げている状態が続いたことが財政赤字の累積となっています。負担の配分をしようとする時、今生きている人たちの間でしようとしても、い ろいろ文句が出て調整できないので、まだ生まれていない、だから文句も言えない将来世代に負担を押しつけることをやってきたわけです。(経済再生 の鍵は 不確実性の解消 (池尾和人 大崎貞和)ーー野村総合研究所 金融ITイノベーション研究部2011ーー二十一世紀の歴史の退行と家族、あるいは社会保障)

80年代の消費税導入の遅れ、90年代にいっそうの消費税増が遅れたからこそ、現在、いっそうひどい財政危機に瀕し、いま弱者たちの首をいっそう絞めているのではないか、――とまでは言わないでおくが、「左翼」の連中は、未来の他者への心配りがまったく欠けた経済音痴どもの集まりではないかと疑わざるをえない。90年代におけるあれら「左翼」の弱者擁護の名目での「誠実で正義感溢れる」姿勢・活動が、いまの急激な「格差社会」成立にかなり貢献しているのではなかろうか。

彼らの経済的弱者への「共感」による合意(コンセンサス)は、今ここにいる者たちの間でのみの合意であり、未来の経済的弱者への配慮はなされない。90年代に「未来」であったその弱者は、2014年の今ここに多数いる。その苦境に大いに貢献したのではないか、あの正義の味方「左翼」の連中は。

…ハーバーマスは、公共的合意あるいは間主観性によって、カント的な倫理学を超えられると考えてきた。しかし、彼らは他者を、今ここにいる者たち、しかも規則を共有している者たちに限定している。死者や未来の人たちが考慮に入っていないのだ。

たとえば、今日、カントを否定し功利主義の立場から考えてきた倫理学者たちが、環境問題に関して、或るアポリアに直面している。現在の人間は快適な文明生活を享受するために大量の廃棄物を出すが、それを将来の世代が引き受けることになる。現在生きている大人たちの「公共的合意」は成立するだろう、それがまだ西洋や先進国の間に限定されているとしても。しかし、未来の人間との対話や合意はありえない。(柄谷行人『トランスクリティーク』P191-192)

真のラディカル左翼であるなら、消費税を西欧諸国なみに挙げる提案を支持し、そこから、たとえばベイシックインカム制度が夢物語であるなら、フリードマンの「負の所得税」などを変奏して提案していくべきではないだろうか。

負の所得税とは所得に関係なく一定の税率を一律にかけ、 基礎控除額を定めることでそれを上回った者から所得税を徴収し、下回った者は逆に所得に応じた負の所得税を払うものである。負の所得税とはすなわち政府からの給付金である。

基本税率 40 パーセント、基礎控除額が年収 200 万円だとすると 年収 1000 万円の者は基礎控除額を超過している 800 万円が課税対象となり 40 パーセントの 320 万円を所得税として支払う。
年収 200 万円の者は基礎控除額を上回りも下回りもしないため所得税を支払わない。

年収 100 万円の者は基礎控除額 200 万円を 100 万円下回るためマイナス 100 万円が課税対象となり、40 パーセントのマイナス 40 万円を支払う。つまり政府から 40 万円を受け取る。この 40 万円が負の所得税である。

つまりまったく収入が無い者はマイナス 200 万円の 40 パーセントである 80 万円を受け取ることになり、これが最低レベルの所得の者に支払われる生活保護額となる。(「再分配方法としての負の所得税」ネット上PDFよりーー「見えざる手(Invisible Hand)」と「消費税」(岩井克人)

もちろん消費税増の導入の景気停滞の影響は顧慮しなくてはならないということはある。

消費税が3%から5%に引き上げられた1997年の景気動向については、アジア通貨危機(7月)、金融システムの不安定化(11月)という大きなショックに日本経済が見舞われたため、消費増税そのものの影響だけを析出するのは容易ではない。(社会保障・税一体改革の論点に関する研究報告書説明資料(第Ⅱ部)  平成23年5月30日東京大学大学院経済学研究科長吉川洋

現在、消費税が5%から8%の影響も存外大きいままなのかもしれない。とはいえ、そうであるなら、8%→10%を遅らせるべきなのだろうか。

私は「消費税引き上げの影響は存外に大きい可能性がある」という見方です(植田和男先生とたぶん同じ)。ただし、目先の景気と将来の負担との比較の問題で、目先の痛みは大きいとしても、それをしなかったときの将来の痛みはもっと大きいと考えています。(池尾和人氏ツイート)
消費税率10%への引き上げ見送りが、日銀の政策への最大のリスクになる(黒田東彦日銀総裁インタヴュー
現在、2015年に消費税率を10%に上げることの是非が議論されているが、私は毎年1兆円規模で肥大するといわれる社会保障費の問題を考えても、10%への増税は不可避であり、将来的にはそれでも足りないと思っている。むしろ、アベノミクスの成功に安心して10%への増税が見送りになったときこそ、長期金利が高騰し、景気の腰折れを招くことになるだろう。(岩井克人

とはいえ、アベノミクスなどなんの成功もしていないじゃないか、という反撥もあるだろう。ではどうしたらいいのか? それなしでいたずらな政策否定ではなしのつぶてである。

結局、あれらの「左翼」も「イギリス人」である。イギリス人とは、経済合理主義者の謂であり、短期的な「快」のみを求める。彼らの「快」は、中長期の視点をなおざりにし、いまこの場でのみ「庶民的な正義の味方」として振舞うことだ。それさえできれば「後は野となれ山となれ!」、--そうでなかったなら、どうしてあのような寝言を言いうるのだろう、ーー《財源が足りないという理由だけで、国民の生存権や社会権を剥奪していいなら、法秩序は崩壊する》などと。

われわれは、真の「糞便」をしっかり観察すべきだ、その「糞便」にある甚だしい病気の兆候を見逃して、「うんこ」の臭いのみ鼻を抓む習慣はそろそろやめなければならない。

西洋におけるトイレのデザインの三つの基本型は、レヴィ=ストロースが考えた調理の三角形(生、焼く、煮る:引用者)に対応する、排泄の三角形を構成している。伝統的なドイツのトイレは、排泄物が消えていく穴が前のほうについているので、便は水を流すまで目の前に横たわっていて、われわれは病気の兆候がないかどうか、臭いをかいで調べることができる。典型的なフランスのトイレは、穴が後ろのほうについているため、便はすぐさま姿を消す。最後にアメリカのトイレはいわば折衷型、つまり対立する二極の媒介で、トイレの中に水が満ち、便が浮くが、調べている暇はない。(……)

 ドイツ-フランス-イギリスの地理的三角形を三つの異なる実存的姿勢の表現と解釈した最初の人物はヘーゲルである。ドイツの反省的徹底性、フランスの革命的性急さ、イギリスの中庸的な功利的実用主義。政治的スタンスの面でいえば、この三角形はドイツの保守主義、フランスの革命的急進主義、イギリスの穏健な自由主義と解釈できる。社会生活のどの面が優性かという点からみると、ドイツは形而上学と詩、フランスは政治学、イギリスは経済学だ。トイレを考えてみれば、排泄機能の実践という最も身近な領域にも、同じ三角形を見出すことができる。魅了され、じっくりと観察する、曖昧な態度。不快な余剰をできるだけ速やかに排除しようとする性急な姿勢。余剰物を普通の物として適切な方法で処理しようとする実用的なアプローチ。(ジジェク『ラカンはこう読め』)


…………

さて冒頭、柄谷行人の発言の引用で始めたのだ。彼はその後、2013年の講演で次のように発言していることを付記しておこう。

「世界の現状は、米国の凋落でヘゲモニー国家不在となっており、次のヘゲモニーを握るために主要国が帝国主義的経済政策 で競っている。日清戦争 後の国際情勢の反復ともいえる。新たなヘゲモニー国家は、これまでのヘゲモニー国家を引き継ぐ要素が必要で、この点で中国 は不適格。私はインド がヘゲモニーを握る可能性もあると思う。その段階で、世界戦争が起こる可能性もあります」
 「現実政治を知らなすぎると言って、私の言うことを笑うかもしれませんが、『来るべき戦争』がやってきた時に、私の言ったことを認めざるを得ないでしょう」

債務危機の解決策は、《増税、歳出削減、経済成長、低金利、インフレ、戦争、外資導入、そしてデフォルト》しかない。戦争かデフォルトを選択する戦略なのだろうか、あれらの「左翼」たちは。北野武は、日本という国は一度亡んだほうがいい、という意味のことをどっかで言っていたが、内心「デフォルト」志向なのだろうか。

アタリ氏は「国家債務がソブリンリスク(政府債務の信認危機)になるのは物理的現象である」とし、「過剰な公的債務に対する解決策は今も昔も8つしかない」と言う。すなわち、増税、歳出削減、経済成長、低金利、インフレ、戦争、外資導入、そしてデフォルトである。そして、「これら8つの戦略は、時と場合に応じてすべて利用されてきたし、これからも利用されるだろう」とも述べている。(……)

現にアタリ氏自身も「(公的債務に対して)採用される戦略は常にインフレである」と述べている。お金をたくさん刷って、あるいは日銀が吸収している資金を市場に供給して貨幣価値を下げ、借金をチャラにしてしまいしょう、というわけだ。(資料:「財政破綻」、 「ハイパーインフレ」関連

…………

ーーなどということをわたくしが書いても致し方ないのだが、たぶんこういうことは「海外住まい」の消費税増があろうがなかろうが関係ない者のみが言える特権であるのかもしれず、実際すぐれた経済学者も、アベノミクス導入以前には、「逃げ切れるか」、などとオッシャッテイタわけだ。

むしろデフレ期待が支配的だからこそ、GDPの2倍もの政府債務を抱えていてもいまは「平穏無事」なのです。冗談でも、リフレ派のような主張はしない方が安全です。われわれの世代は、もしかすると「逃げ切れる」かもしれないのだから...(これは、本気か冗談か!?)(ある財政破綻のシナリオ--池尾和人2009.10ーーアベノミクスの博打


2014年6月15日日曜日

「共産主義」という史上最大のカタストロフィ

共産主義には反吐がでるだって?
わかってるよ、いわれなくたって

現実を直視しましょう。20世紀の共産主義はまさに――なぜならばあのような希望と共に始まり、悪夢として終わりを告げたのですから――おそらくは史上最大のカタストロフィ、言うなれば、人類の歴史において試みられた中でも最大の倫理的なカタストロフィです。それはファシズム以上です。(ジジェク

だからどうしたっていうんだい?
いまさらグラーグやら紅衛兵やらクメール・ルージュやらをもちだして
歴史のお勉強かい?
それともまさか金持のための社会主義が好きなわけじゃあないだろ?

一般市民は「理解」しないといけないのだろうか? 社会保障の不足を埋め合わせることはできないが、銀行があけた莫大な金額の損失の穴を埋めることは必須であると。厳粛に受け入れねばならないのか? 競争に追われ、何千人もの労働者を雇う工場を国有化できるなどと、もはや誰も想像しないのに、投機ですっからかんになった銀行を国有化すのは当然のことだと。Alain Badiou, “De quell reel cetre crise est-ellelespectacle?” Le Monde, October 17, 2008

リーマンショックの銀行救済、
すなわち金持のための社会主義は
日本でも似たようなことやっただろ?
東電救済ってのはやっぱ銀行救済だろうからな
関電救済のための原発再稼動の画策だってそうさ

共産主義ってのはところでなんなのだろ?
一口でいったら「階級が無い社会」(柄谷行人)だよな
階級がある社会が好きなら
「共産主義」批判もいいがねえ
それとも庶民的な正義派ぶりたいだけかい
そういうのを無償の饒舌っていうんだよ

資本主義的な現実が矛盾をきたしたときに、それを根底から批判しないまま、ある種の人間主義的モラリズムで彌縫するだけ。上からの計画というのは、つまり構成的理念というのは、もうありえないので、私的所有と自由競争にもとづいた市場に任すほかない。しかし、弱肉強食であまりむちゃくちゃになっても困るから、例えば社会民主主義で「セイフティ・ネット」を整えておかないといかない。(『可能なるコミュニズム』シンポジウム 2000.11.17 浅田彰発言)

まあいまでは誰もがこの態度だがね
だれもが「新自由主義者」ってわけさ
ジジェク流にいえば「フクヤマ」主義者だな

私たちは今やみなフクヤマ主義者なのです。ラディカルな左翼でさえもです。私たちは何が資本主義に取って代わることができるのか考えることができないし、今以上の社会的正義や女性の権利などを求める状況をシステムに組み込むこともできないのです。(ジジェク


そもそもかつてのは共産主義じゃなくて
一国社会主義だってのぐらいわかってるだろうな
《社会主義というのは主義としての資本主義の
もっとも忠実な体現者にほかならない》
わかるかい?
わかんねえだろうなあ


◆『終りなき世界』(柄谷行人・岩井克人対談集1990)より


【ふたつの資本主義】

じつは、資本主義という言葉には、二つの意味があるんです。ひとつは、イデオロギーあるいは主義としての資本主義、「資本の主義」ですね。それからもうひとつは、現実としての資本主義と言ったらいいかもしれない、もっと別の言葉で言えば、「資本の論理」ですね。

実際、「資本主義」なんて言葉をマルクスはまったく使っていない。彼は「資本制的生産様式」としか呼んでいません。資本主義という言葉は、ゾンバルトが広めたわけで、彼の場合、プロテスタンティズムの倫理を強調するマックス・ウェーバーに対抗して、ユダヤ教の世俗的な合理性に「資本主義の精神」を見いだしたわけで、まさに「主義」という言葉を使うことに意味があった。でも、この言葉使いが、その後の資本主義に関するひとびとの思考をやたら混乱させてしまったんですね。資本主義を、たとえば社会主義と同じような、一種の主義の問題として捉えてしまうような傾向を生み出してしまったわけですから。でも、主義としての資本主義と現実の資本主義とはおよそ正反対のものですよ。p141

【社会主義の敗北=主義としての資本主義の敗北】

そこで、社会主義の敗北によって、主義としての資本主義は勝利したでしょうか? 答えは幸か不幸か(笑)、否です。いや逆に、社会主義の敗北は、そのまま主義としての資本主義の敗北であったんです。なぜかと言ったら、社会主義というのは主義としての資本主義のもっとも忠実な体現者にほかならないからです。

と言うのは、主義としての資本主義というのは、アダム・スミスから始まって、古典派経済学、マルクス経済学、新古典派経済学といった伝統的な経済学がすべて前提としている資本主義像のことなんで、先ほどの話を繰り返すと、それは資本主義をひとつの閉じたシステムとみなして、そのなかに単一の「価値」の存在を見いだしているものにほかならないんです。つまり、それは究極的には、「見えざる手」のはたらきによって、資本主義には単一の価値法則が貫徹するという信念です。

社会主義、とくにいわゆる科学的社会主義というのは、この主義としての資本主義の最大の犠牲者であるんだと思います。これは、逆説的に聞えますけれど、けっして逆説ではない。社会主義とは、資本主義における価値法則の貫徹というイデオロギーを、現実の資本家よりも、はるかにまともに受け取ったんですね。資本主義というものは、人間の経済活動を究極的に支配している価値の法則の存在を明らかにしてくれた。ただ、そこではこの法則が、市場の無政府性のもとで盲目的に作用する統計的な平均として実現されるだけなんだという。そこで、今度はその存在すべき価値法則を、市場の無政府性にまかせずに、中央集権的な、より意識的な人間理性のコントロールにまかせるべきだ、というわけです。これが究極的な社会主義のイデオロギーなんだと思うんです。

【資本の論理=差異性の論理】

……この社会主義、すなわち主義としての資本主義を敗退させたのが、じつは、現実の資本主義、つまり資本の論理にほかならないわけですよ。

それはどういうことかというと、資本の論理はすなわち差異性の論理であるわけです。差異性が利潤を生み出す。ピリオド、というわけです。そして、この差異性の論理が働くためには、もちろん複数の異なった価値体系が共存していなければならない。言いかえれば、主義としての資本主義が前提しているような価値法則の自己完結性が逆に破綻していることが、資本主義が現実の力として運動するための条件だということなんですね。別の言い方をすれば、透明なかたちで価値法則が見渡せないということが資本の論理が働くための条件だということです。この意味で、現実としての資本主義とは、まさに主義としての資本主義と全面的に対立するものとして現れるわけですよ。


ーー柄谷行人の応答。


資本主義というものを「主義」ではないひとつの現実性として見、どんな「主義」も「イデオロギー」もそのなかに入ってしまうような「資本の論理」を解明しようとしてのは、マルクスですね。いわゆる「共産主義」というのは、国家資本主義的形態であって、世界資本主義の外部にあるのではない。つまりソ連圏というのは明らかに世界資本主義圏に属しているわけで、逆に言うと、ソ連圏を取ると、世界資本主義については充分には語りえないはずです。……

2014年5月4日日曜日

五月四日 基軸通貨と基軸言語

数日前「文科省、省内会議に英語導入 「まず自分達から」」という記事に行き当たった。すなわち《文部科学省が省内の幹部会議の一部を英語で行う方針を決めた》らしいが、この記事にたいして若い有能な哲学者・批評家が「国辱だね」というような反応をしていた。まさにそのような感慨を抱かざるをえないのだが、もうすこし検索してみると、「日本人の英語、アジア30ヶ国内で第28位、文科省ではなく総務省のテレビ電波対策が必要だ!」などという表題をもった記事もある。と読めば、いくらなんでももう少し「英語」に親しまなくてはならないのではないか、という気もしてくる。とはいえ、日本は「幸福な村社会」だったのだ。いわゆる「後進国」の人たちは、エリート層だけでなく、ごく平均的な人たちも英語を話せることが、生活向上の道具となること甚だしい。二十年近く前に、この、かつての仏領インドシナの国に住み始めた当初感じたことだが、路上の煙草売やバイクタクシー、あるいは当地ではシクロの運転手でさえ、英語が話せることが売上げ向上に覿面に効果をもつ。それは結局「基軸言語」の話になる。

…………

まず岩井克人の「アメリカに対するテロリストの誤った認識」(朝日新聞2001年11月5日夕刊)より引用するが、この記事の表題を見ればわかるように、9.11をめぐって書かれている記事ではあるが、ここではその箇所ではなく、「基軸貨幣」と「基軸言語」をめぐる箇所を抜き出す。

アメリカは世界で唯一の超大国です。それは世界最強の経済力と軍事力を持っているからだけではありません。いま世界のどの街を訪れても、意思の疎通はすべて英語で可能ですし、代金の支払いもすべてドルで済みます。ホテルに戻ってテレビのスイッチを入れるとCNNニュースが流れ、チャンネルを替えるとハリウッド映画が上映されています。ヨーロッパや日本に閉塞感が漂っている現在、アメリカはますますその存在感を大きくしているのです。

だが私は、それにも関わらず、世界がアメリカによって支配されているという世界認識は誤りだと考えます。いま世界の中でアメリカの存在感が突出しているのは、アメリカが世界の「基軸」国としての位置を占めているからにすぎないのです。

では、ここで言う基軸国とは一体どういう意味なのでしょうか?ドルは世界の基軸貨幣です。だが、それは世界中の国々がアメリカと取引するためにドルを大量に保有しているという意味ではありません。ドルが基軸貨幣であるとは、日本と韓国との貿易がドルで決済され、ドイツとチリとの貸借がドルで行われるということなのです。アメリカの貨幣でしかないドルが、アメリカ以外の国々の取引においても貨幣として使われているということなのです。

まさに同じことが英語に関してもいえます。英語が基軸言語であるとは、日本人と韓国人、ドイツ人とチリ人の間の対話がアメリカの言語でしかない英語を媒介として行われているということなのです。いやアメリカはいま、貨幣や言語だけでなく、文化や政治や軍事にいたるまで世界の基軸国となっているのです。世界は著しく対称性を欠いた構造をしています。一方には自国の貨幣や言語、さらには文化や政治や軍事がそのまま世界で流通する基軸国アメリカがあり、他方にはアメリカの貨幣や言語や文化や政治や軍事を媒介としてお互い同士の関係を結ぶ他のすべての非基軸国があるのです。

このような基軸国と非基軸国との間の関係は、すべての国に一票をという国連的な平等意識を逆撫でにします。だがそれを支配と従属の関係と見なしてしまうと、事の本質を見失ってしまうのです。

次に、岩井克人の『二十一世紀の資本主義論』(2000年)から基軸通貨、あるいはシニョレッジをめぐる箇所を引用するが、まず基本的な誤解をまねかないように、池尾和人氏の「インフレとともに消える造幣益(シニョレッジ)」から引用しておく。

ベースマネーの供給を増やせば(現在価値合計では)それと同額の造幣益(シニョレッジ)が増える、といった単純な(あるいは、スッ呆けた)話は少なくとも成り立たない。ヘリコプターマネー政策によって生じた財政赤字は、いずれ国民負担になる。フリーランチは存在しない。

ーー通貨発行益(シニョレッジ)について、どんな誤解がなされているかは、たとえば池田信夫氏の「通貨発行益は打ち出の小槌か」を見よ。


このあたりの議論は、以下の岩井克人の文の《非機軸通貨国は、自国の生産に見合った額の自国通貨しか流通させることはできないのである。(それ以上流通させても、インフレーションになるだけである。)》に相当する。

だが基軸貨幣国だけは異なる。《アメリカが純債務国に転落した1986年以降は、ドルの過剰発行はたんにシニョレッジを増やすだけではない。それがもたらすドル価値の下落は、対外債務の実質的な負担を軽減するという一石二鳥の効果までもつようになっている。ドル切り下げの誘惑はますます強まっているのである。》ーーと書かれたのは2000年のことだが、さて現在はどうなのだろう(リーマン・ショック後、ドルの大幅な下落があったのは周知の通り)。

……貨幣が貨幣であるかぎり、その貨幣としての価値はモノとしての価値を大きく上回っている。ましてや、その生産費をはるかに上回っている。そしてそれは、100円硬貨や一万円札を発行している日本政府も、100万円の電子マネーを発行している民間企業も、それぞれ硬貨や紙幣や電子マネーを発行するたびに、その生産費を上回る貨幣の貨幣としての価値がそのままじぶんの利益となることを意味することになる。これは、なんの労力もなく手に入るまさにボロ儲けである。

貨幣の発行者が貨幣の発行によって手に入れるこの利益のことを、一般に「シニョレッジ(seigniorage)」という。それは、貨幣が貨幣であるかぎり、その発行に必然的にともなう利益である。

もちろん、グローバル市場経済の貨幣であるドルを発行しているアメリカも、このシニョレッジを多いに享受しているはずである。たとえば日本の円がなんらかの理由で海外にもちだされても、それは日本の製品しか買うことができず、いつかはかならず日本にもどってくることになる。非機軸通貨国は、自国の生産に見合った額の自国通貨しか流通させることはできないのである。(それ以上流通させても、インフレーションになるだけである。)これにたいして、アメリカ政府の発行するドル紙幣やアメリカの銀行が創造するドル預金は、そのまま外国製品の購入に使うことができ、しかもそのようにして外国に支払われたドルの一部は、それがまさに基軸通貨であることによって、タイからロシア、ロシアから韓国、韓国からブラジルへと回遊し続け、アメリカ製品の購入のために戻ってくることはない。アメリカはその分だけ、なんの労力もかけずに、自国で生産されている以上の商品を外国から手に入れたことになるのである。すなわち、基軸通貨として国外で保有されているドルの価値分が、基軸通貨国アメリカがうけとる「シニョレッジ」にほかならない。
註)上の議論は、基軸通貨として保有されているドルにはまったく利子率が支払われていないと仮定してある。もし外国によって保有されているドル預金にたいしてアメリカの銀行が利子を支払っているならば、その利子率とほかの通貨の預金に支払われる利子率との差異を現在価値化してものが、シニョレッジとなる。

……ドルを基軸通貨とするグローバル市場経済のもとでは、アメリカは自国通貨ドルを多く供給すればするほど、多くのシニョレッジが手に入る仕組みになっているのである。こんなにうまい話はほかにない。

しかし、もしこのシニョレッジの誘惑に負けて、アメリカが実際にドルを過剰に供給しはじめたらどうなるだろうか。そのとき、ドルは暴落をはじめてしまうだろう。(……)

……近年では、国内産業の保護のために意図的にドルの価値を低めに誘導する、危険なゲームを試みたりするまでになっている。皮肉なことに、まさに社会主義という大きな「敵」の消滅が、アメリカからグローベル市場経済の基軸国としての自覚を奪いつつあるのである。そして、アメリカが純債務国に転落した1986年以降は、ドルの過剰発行はたんにシニョレッジを増やすだけではない。それがもたらすドル価値の下落は、対外債務の実質的な負担を軽減するという一石二鳥の効果までもつようになっている。ドル切り下げの誘惑はますます強まっているのである。(……)

いまヨーロッパや日本を中心として、ドルが基軸通貨を独占している体制から、ドルとユーロと円という複数の基軸通貨が共存する体制への移行をめざす動きがある。そしてそれは、1999年にユーロがEUの共通通貨として現実化してから、さらに強くなっている。だが、もしそのような動きが、複数の基軸通貨のあいだの勢力均衡をもとめているのならば、それはもっとも危険な筋書きである。

基軸通貨の問題にたいして、政治における覇権(hegemony)理論や勢力均衡(balance of power)理論を応用することほど愚かなことはない。ドルが基軸通貨であるのは、それが世界中の多くのひとびとに受け入れられているから世界中の多くのひとびとに受け入れられているという、一種の自己循環論法の結果にすぎない。それは、そのドルを発行しているアメリカという国の経済支配力とはかならずしも一対一対応していないのである。もしドル以外の通貨がドルより多くのひとに基軸通貨として受け入れられはじめるならば、さらに多くのひとびとがそれを基軸通貨として使いはじめ、その通貨がただちに基軸通貨という位置を独占してしまうだろう。基軸通貨体制とは、どの通貨であれ、ひとつの通貨が基軸通貨の地位を独占しはじめて安定(balance)するのである。複数の基軸通貨が競合している状態とは、言葉の真の意味での不安定(unbalanced)な状態であり、複数の基軸通貨の勢力均衡などありえない。事実、歴史は、複数の基軸通貨が競合していた時代がいかに不安定な時代であったかを教えている。(註:金と銀とが基軸通貨として共存するいわゆる二十金属本位制(Bimetalism)時代)

それだけではない、仮に大混乱のうちに基軸通貨がドルから別の通貨に移行するようなことがあったとしても、それは「ドル危機」を「ユーロ危機」や「円危機」におきかえるだけにすぎない。基軸通貨体制がつづく限り、基軸通貨をめぐる本質的な矛盾はそのままつづくことにならざるをえないのである。

※参考:「ドル基軸通貨に代わる「魔法の杖」はない」(竹中平蔵)


◆附記:大和総研 DIR30年プロジェクト「超高齢日本の30年展望」より

世界経済は、 著しく高齢化する中国のプレゼンスが低下し、 経済の中心は依然として米国であり続けるだろう。
米国の高齢化の進展速度は、中国やブラジル、インドといった新興国と比べても緩やかである。米国が若さを保つチャネルの一つは移民だが、オバマ大統領は 2 期目の就任演説の中で移民制度改革に言及しており、 1,000 万人を超えるとされる不法移民の取り扱いに加えて、 高い技術を持つ者の受け入れに一段と積極的になれば、潜在成長力を押し上げることにつながろう。

長期的な強みに綻びが見え始めているといわれる米国だが、他の国々に比べると若さを維持する人口構造になっている。長期的には現役世代の負担感は現状よりも高まるものの、それも長期的には安定すると見通されている。 米国の場合には、 ベビーブーマーの高齢化が進む一方で、その子どもや孫の世代が入れ替わるように誕生してきたため、高齢者を支える安定した人口構造が見込まれているからである。中長期的にも世界経済の中心は米国と中国になるとみられるが、高齢化という視点では、両国は対照的な環境に置かれることになろう。
世界の構図を変える可能性を持つ米国のシェール革命

技術革新によって開発・利用可能になったシェールガス・シェールオイルの増産(シェール革命)で、米国は 2020 年頃までには世界最大の原油生産国になると国際エネルギー機関(International Energy Agency :IEA)は見込んでおり、米国内のガス需要は 2030 年頃には石油を抜いてエネルギーのなかで最大のシェアになるという。

2014年5月3日土曜日

五月三日 「経済なき道徳は寝言」

偽の現場主義が支える物語的な真実の限界」という記事にコメントを頂いているが、寝言を言われても困る。いやわたくしには「寝言」にしか聞こえないとしておこう。

…………

2011125日、大前研一の「債務危機で日本政府が切れる唯一の「カード」」という記事に次のような文がある。

アタリ氏は「国家債務がソブリンリスク(政府債務の信認危機)になるのは物理的現象である」とし、「過剰な公的債務に対する解決策は今も昔も8つしかない」と言う。すなわち、増税、歳出削減、経済成長、低金利、インフレ、戦争、外資導入、そしてデフォルトである。そして、「これら8つの戦略は、時と場合に応じてすべて利用されてきたし、これからも利用されるだろう」とも述べている。(……)

現にアタリ氏自身も「(公的債務に対して)採用される戦略は常にインフレである」と述べている。お金をたくさん刷って、あるいは日銀が吸収している資金を市場に供給して貨幣価値を下げ、借金をチャラにしてしまいしょう、というわけだ。

の記事が書かれてから三年ほど経っているが、実際に今の日本がやっている政策はインフレ政策である。アベノミクスはギャンブル、博打と言われるが、「立て直し」、すなわち執着気質的「勤勉の倫理」の人びとが大半を占めてきた、たとえば日銀の指導層においても、「世直し」倫理(ラディカルな革命的倫理)で応じなければ策のない状況なのだろう。もちろんインフレ政策だけでは埒が明かないので、増税、歳出削減、経済成長という8つの選択肢のなかの3つも含めて4つの政策が取られている。そして今では、もうひとつの選択肢「戦争」の臭いだって振り撒くおぼっちゃん指導者、――《性格は弱いのにタカ派を気取り、大言壮語して日本を深みに引きずり込むような》(中井久夫)――こんな人物さえわれわれは首長として抱え込んでいる。


上に挙げた「立て直し」/「世直し」とは、精神科医の中井久夫の『分裂病と人類』の区分であるが、立て直し、すなわち執着気質的「勤勉の倫理」の人びとは、

「大変化(カタストロフ)」を恐怖し、カタストロフが現実に発生したときは、それが社会的変化であってもほとんど天災のごとくに受け取り、再び同一の倫理にしたがった問題解決の努力を開始するものである。反復強迫のように、という人もいるだろう。この倫理に対応する世界観は、世俗的・現世的なものがその地平であり、世界はさまざまの実際例の集合である。この世界観は「縁辺的(マージナル)なものに対する感覚」がひどく乏しい。ここに盲点がある。マージナルなものへのセンスの持ち主だけが大変化を予知し、対処しうる。ついでにいえば、この感覚なしに芸術の生産も享受もありにくいと私は思う。(中井久夫『分裂病と人類』)

とある。おそらく<あなた>はデフォルトというカタストロフが現実に発生しても天災のごとく受け取るタイプではないかい?

どうも日本の勤勉な「正義」の志士たちは、財政危機という釈迦の掌のうえで、やれ貧困者救済、生活保護の充実、社会保障費の見直し、消費税増反対など「正義感」の表出や活動をしているのだが、なによりも大切なのは債務危機には《8つしか手段のないことを認識することが大切》(大前研一)なのではないか。どうもその認識がなくて闇雲にその場かぎりの反対運動をしているだけに思えてしまうことがある。

彼らに、大言壮語のおぼっちゃん指導者のかわりに、どんな指導者を求めるのか、と問うてみたら、おそらくその大半はインフレ反対、消費税増反対を言い募る指導者を求めるのではないか。だがそれは8つの選択肢のなかの「デフォルト」を選ぶ態度ではないか、と疑ってみたほうがいい。

既に中井久夫は1988年の段階で「引き返せない道」と題し、日本の凋落を語り、《ほどほどに幸福な準定常社会を実現し維持しうるか否かという、見栄えのしない課題を持続する必要がある》と書いている。現在の「見栄えのしない課題」に応じる姿勢とは、ほどよいインフレ政策であり、漸増的な消費税増政策であり、あわよくば経済成長への期待でしかないようにわたくしには思える。

・消費税問題は、日本経済の形を決めるビジョンの問題。北欧型=高賃金、高福祉、高生産性か。英米型=低賃金、自助努力、労働者の生産性期待せずか。日本は岐路にある。

・日本のリベラルは増税と財政規模拡大に反対する。世界にない現象で不思議だ。高齢化という条件を選び取った財政拡大を。〔岩井克人――「見えざる手(Invisible Hand)」と「消費税」

正義の志士たちが、リベラルなのか「左翼」というのかはよく分からないが、まったくのところ、彼らは世界に稀に見る不思議な手合いである。

《道徳なき経済は犯罪であり、経済なき道徳は寝言である。》(二宮尊徳)――切羽つまりつつある時期に寝言はやめたほうがいい。


これは今気づいたが、『偶発性・ヘゲモニー・普遍性』におけるジジェクの「悪党」/「道化」と似たようなことを語っている。きみたちはまさか「宮廷道化師」ではないだろうな?

『精神分析の倫理』のセミナールにおいてラカンは、「悪党」と「道化」という二つの知的姿勢を対比させている。右翼知識人は悪党で、既存の秩序はただそれが存在しているがゆえに優れていると考える体制順応者であり、破滅にいたるに決まっている「ユートピア」計画を報ずる左翼を馬鹿にする。いっぽう左翼知識人は道化であり、既存秩序の虚偽を人前で暴くが、自分のことばのパフォーマティヴな有効性は宙ぶらりんにしておく 宮廷道化師である。社会主義の崩壊直後の数年間、悪党とは、あらゆる型式の社会連帯を反生産的感傷として乱暴に退ける新保守主義の市場経済論者であり、道化とは、既存の秩序を「転覆する」はずの戯れの手続きによって、実際には秩序を補完していた脱構築派の文化批評家だった。

いずれにせよ、きみがコメントをくれた記事に引用があるが、《中長期の課題は、短期の課題が片付くまで棚上げにしておきましょうという話は成り立たない。》(池尾和人「経済再生の鍵は不確実性の解消」2011 fis.nri.co.jp/ja-JP/knowledge/thoughtleader/2011/201111.html なのだよ。

「短期の課題」のみのプロフェッショナルであるのは、やめなければならない。


…………

※追記:

ははあ、検索してみたら、きみのコメントはこの河添誠という方のほぼパクリなのだな。これこそわたくしには「まったく理解不能」な言葉で成り立っている不思議な「寝言」だ。

2014年03月27日(木)
河添 誠@kawazoemakoto

・「消費税増税で低所得層に打撃になるのは問題だと思うけれど、今の日本の財政では云々」という人へ。前段の「低所得層への打撃」だけで、消費税増税に反対するのに十分な根拠になるはず。なぜ、財政を理由に低所得層の生活に打撃になるような増税が正当化されるのか?この問いにだれも答えない。

・「消費税増税にはさまざまな問題がありますが、財政の厳しい状況では仕方ないですね」と、「物わかりよく」言ってみせる人たち。低所得層の生活が破壊され、貧困が拡大する最大の政策が遂行されるときにすら反対しないのかね?まったく理解不能。

この種の「寝言」にたいしては、上にもリンクしたが、《「見えざる手(Invisible Hand)」と「消費税」(岩井克人)》に、わたくしが依拠する、おそらくきみたちに言わせれば「悪党」の見解、あるいは「偏った」見解をまとめている。

河添誠氏のプロフに書かれている文を[記念]のために貼付しておこう。

NPO非営利・協同総合研究所いのちとくらし研究員・事務局長/首都圏青年ユニオン青年非正規労働センター事務局長/都留文科大学非常勤講師。非正規労働者・低い労働条件の正社員と失業者の生活支援・権利拡充のために活動中。反貧困たすけあいネットワーク、反貧困ネットワーク、レイバーネット日本の活動なども。







2014年5月1日木曜日

五月朔 「旅宿の境界」

総じて大名の第一とすべきことは、家中の治、民の治を善して、身帯を磨切らず、武備を不失、末永く参勤交代を勤て、上を守護し奉ること也。(荻生徂徠『政談』)

とする徂徠の政談は徳川八代将軍吉宗の諮問に応えて、1726(享保11)年頃に書かれたわけだが、前回の鷗外による史伝の「参勤交代」の時期より一世紀ほど前のことになる。

だが西鶴が1688(貞享5)年に次のように書いてからは、すでに半世紀ほど経っている。

一生一大事身を過ぐるの業、士農工商の外、出家・神職にかぎらず、始末大明神の御託宣にまかせ、金銀を溜むべし。これ、二親の外に命の親なり。人間、長く見れば朝をしらず、短くおもへば夕におどろく。されば、天地は万物の逆旅、光陰は百代の過客、浮世は夢幻といふ。時の間の煙、死すれば、何ぞ金銀瓦石にはおとれり。黄泉の用には立ちがたし。しかりといへども、残して子孫のためとはなりぬ。ひそかに思ふに、世にある程の願ひ、何によらず銀徳にて叶はざる事、天の下に五つあり。それより外はなかりき。これにましたる宝船のあるべきや。(井原西鶴『日本永代蔵』)

すなわち徂徠は参勤交代の基本政策については冒頭に引かれたように擁護するが、《兎角金なければならぬ世界となり極まりたり》(『政談』)の時代である。

昔は大名に物をつかはする事上策なれ共、今は諸大名の困窮至極に成たれば、身上をよくたもちて永々参勤交替のなる様にする事、是当時の良策成べし。 (『政談』)

前回引用した鷗外の記述によれば、福山から江戸に至るには約二十日ほど掛かる。《二月六日福山発、二十五六日頃入府の予定》(『伊沢蘭軒』)。

また梅谷文夫氏の記述では、「越中守信順は、天保八年七月十二日申刻に藩邸を発駕して、着城は八月七日であった。翌九年十月十五日に弘前城を発駕して,十一月九日に着府」とあり、これも弘前―江戸間は、二五日ほど掛かっている。もっとも津軽信順は、歴代一のダメ藩主、「夜鷹殿様」などと称されることもあるらしく、《参勤交代で宿泊した所で、夜中は女と酒に入りびたりであった。しかも信順は昼頃に起きるという不健全な生活を繰り返した。そのため、参勤交代の行列の進み具合は遅れる一方であった》とウィキペディアにはあるので多少は日数を割引く必要がある。《信順は頗る華美を好み、動もすれば夜宴を催しなどして、財政の窮迫を馴致し、遂に引退したのだそうである》と鷗外の抽斎伝にはあっさり書かれているだけだが。

いずれにせよ遠方の藩であればひと月以上かかることになる。参勤交代の費用としては足軽給金、馬代、食費や土産物、運賃、宿泊費などがある。街道沿線の宿場町はさぞ潤ったことだろう。

・武家御城下に聚居るは旅宿也。諸大名の家来も其城下に居るを、江戸に対して在所といへ共、是又己が知行所に非ざれば旅宿也。其子細は,衣食住を初め箸一本も買調ねばならぬ故旅宿なり。故に武家を御城下に差置時は、一年の知行米を売り払ふてそれにて物を買調え、一年中に使切る故、精を出して上へする奉公は、皆御城下の町人の為になる也。

・元来旅宿の境界に制度なき故、世界の商人盛に成より事起て、種々の事を取まぜて、次第次第に物の直段高く成たる上に、元禄に金銀ふゑたるより、人の奢益々盛になり、田舎までも商人行渡り、諸色を用ゆる人ますます多くなる故、ますます高直に成たる也。左様に成たる世の有様をば其儘に仕置きて、当時金銀斗を半減になしたる故、世界みな半身代に成て、金銀引はりたらず。是によりて世界困窮したる事明らか也。

・是によりて御城下の町人盛になりて、世界次第に悪敷なり、物の直段次第に高直に成て、武家の困窮当時に至りては、もはや可為様なく成たり。(荻生徂徠『政談』)

さて、以上は前置きであり、次の図表をウェブ上で見つけたので、ここではそれを備忘として貼り付けるのが目的である。([江戸時代が長く続いた理由を説明しよう]http://www.pref.hiroshima.lg.jp/uploaded/attachment/91885.pdf)



ほかにも、 水谷文俊神戸大学大学院経営学研究科教授による随筆「参勤交代」の記述を附記しておく。

ある資料によれば, 安政6年 (1859年) の鳥取藩池田家の場合には鳥取・江戸の行程約720kmを21泊22日 で移動し ている.1日平均で約33kmを移動し ている こ とになる.10時間歩く とすると時速3kmのスピー ドとなる. 途中には坂もあったであろう し,大人数の行列でしかも大名の駕籠を担ぎながら移動するこ と を考えると結構なスピー ドで移動し ている こ とになる. 加賀百万石の前田家の場合には, 行列は1,969人に達し ていたと記録されているから, 大大名になればなるほど大変だったであろ う. それにしても, 1年のう ちの1ヶ月 弱を費やし ての移動は大変だったであろ う .
それでは, 参勤交代には一体どれく らいの費用がかかったのであろうか?鳥取藩池田家の場合, 江戸から鳥取までの21泊22日の行程で総額1957両かかったとの記録が残っ ている. 内訳は,足軽給金, 馬代, 諸品購入費, 運賃, 宿泊費などである. 当時の貨幣価値は1両十数万円と言われているので, 現在の価格に換算する と, 江戸・鳥取間の1行程で, 総額約2億9千万円かかったという計算になる. 一行の行列規模を500人程度とする と, 1日 ・1人当り約2万7千円程度の費用という こ とになるので, あながちおかしな数字ではない. しかし, 32万石の藩で総額約3億円の参勤交代の費用がかかるのであるから, よ り遠方の藩にと っ ては大変な出費となったであろう こ とは想像に難く ない. しかも街道沿いには人々の目 もあ り, 諸藩が家格を競っ て行列が華美になったと言われているので, 参勤交代の費用を簡単には削減できなかったのではないか.
参勤交代の際の従者数に関し ては, 享保6年(1721年) に出された幕府指針によれば, 10万石の藩においては足軽・人足を含めて230~240人となっ ている. 実際には幕府の指針は守られずに指針以上の規模の行列となっ ていたそうである.

参勤交代という制度は, 徳川幕府の維持のため始められた制度で, なんという無駄使いをさせたものだという意見もあるが,他方で江戸の文化・上方の文化を地方に, また地方の文化を江戸・上方にもたら した恩恵も大きい. そし て, 街道沿線の宿場町に経済的な潤いを もたら し, 様々な文化を生み出す源泉となった.現在ある全国の特産物の多く が江戸時代に生まれたそう である.

ただし《当時の貨幣価値は1両十数万円と言われている》とあるのは、たとえば次の資料とともに読んでおくべきだろう。

江戸時代の一両は今のいくら?」という日本銀行金融研究所貨幣博物館の資料によれば、そこには、《江戸時代のお米の値段 米1石(約150kg)=1両とすると……18世紀》という記述があり、《一両が今のいくらかは、簡単には言えません》となっている(そして米との比較だけでは判断できないとして、大工の賃金、そばの代金などとの比較がある)。

そして米についてだけ言えば、

江戸の各時期に1両で買えた量をみると、目安としては江戸初期で約350kg、中~後期で約150kg、幕末の1867(慶応3年)頃で約15~30kgとなり、それぞれ現在の値段に仮に計算すると、おおよその目安として、江戸初期で約10万円前後、中~後期で約4~6万円、幕末で約4千円~1万円程になります。

とあるのだが、これもどう一石高と一両を関連させたらよいのか、ちょっと分からない。単純に計算すれば、江戸初期1両で350kg(2.3石高)ならば、この時期の1石高は0.43両、江戸中期~後期は150kg1石高=1両、幕末は15kg(0.1石高)としたら1石高10両(30kgであったら5両)となるはず(だが、ここでは幕末の急激なハイパーインフレは考慮の外にしよう)。ーー計算が間違っていないかどうかあやしいので、信用しないように(二日酔いで、いまは数字は御免蒙る、そのうち訂正するかも。すなわち未定稿と胡麻化しておく)。

武士階級の給料は石高でもらっていたと言われるので、この江戸中期~後期の石高1両を基準として、後期にかけてのインフレも加味して一両十数万円とされるのだろうか。日本銀行金融研究所貨幣博物館の資料には次のような記載もあり、わたくしの頭はいっそう混乱する。


■三貨制度

江戸時代は金・銀・銅(銭)の貨幣が使われ(三貨制度)、それぞれの交換レートとして幕府による公定相場がありましたが、実際には毎日変動しました。仮に、そば1杯16文としても、1両が何文であるかによって、1両でそばを何杯食べられるかは変わってくるため、そばで換算する1両の現在価格も異なってきます。

 参 考 ) 三 貨 公 定 相 場
・ 江 戸 初 期 ( 1 6 0 9 年 ~ ) 1 両 = 銀 5 0 匁 = 銭 4 0 0 0 文
・ 中 期 ( 1 7 0 0 年 ~ ) 1 両 = 銀 6 0 匁 = 銭 4 0 0 0 文
・ 後 期 ( 1 8 4 2 年 ~ ) 1 両 = 銀 6 0 匁 = 銭 6 5 0 0 文


※ 幕末の実勢相場は1両が8000文を上回る状況でした。

ここで岩井克人のエッセイ「西鶴の大晦日」(『二十一世紀の資本主義論』所収)から三貨制度をめぐる叙述を抜き出しておこう。

三貨制度は、三貨制度とよばれてはいるが、その実、それを構成する金貨、銀貨、銅銭の金属貨幣は、それぞれ貨幣としての用いられかたも、その流通範囲も大きく異なっている。

金貨である小判や一分判、および銅銭である寛永通宝は、「定位貨幣」として流通していた。(……)一両小判の場合は、それにふくまれている金の重さとは独立に表に刻印された一両という価値をもつ貨幣として流通し、一文銭の場合も、それにふくまれる銅の重さとは独立に表に刻印された一文という価値をもつ貨幣として流通していたのである。

これにたいして、丁銀や豆板銀といった銀貨は、「秤量貨幣」としてもちいられていた。一貫目の重さをもつ丁銀はつねい一貫目の価値をもつ貨幣として流通し、一匁の重さをもつ豆板銀はつねに一分の価値をもつ貨幣として流通していたのである。それゆえ、丁銀や豆板銀を取り引きの支払いとして受け取るときには、ひとびとはその重さをいちいち秤ではからなければならなかったのである。

(……)関東では定位貨幣である金貨をもちい、関西では秤量貨幣である銀貨をもちいるという、二つの貨幣圏が並存することになったのである。「関東の金づかい、上方の銀づかい」というわけである。ただし、銅銭にかんしては、小額取り引き用の貨幣として、関東であるか関西であるかを問わずひろく全国に流通していた。

「銀つかい」の大坂においては丁銀や豆板銀がもちいられ、商売の支払いのためにはいちいちその品位を吟味し秤で重さをはからなければなかなかった(……)。もちろん、これはひどく不便なことである。そこで、この不便さをとりのぞくために大坂で考えだされたのが、「預り手形」や「振り手形」といった手形による支払い方法である。

(……)銀そのものの代わりに手形を廻すーー「銀づかい」といわれた大坂では、結局、銀を使わないというかたちで「貨幣の論理」を貫徹させていたというわけである。いや、いくら「かるきをとれば、又そのままにさきへわたし」たといっても、実際の金そのものを廻していた「金づかい」の江戸よりも、たんなる紙切れである手形を廻してしまう「銀づかい」の大坂のほうが、「貨幣の論理」のはたらきをはるかに徹底して作動させていたというわけである。

こうして堂島には世界に先駆けた「先物市場」が整備される。

柄谷行人)江戸初期の体制はともかくとして、元禄(1688年から1704年)のころは、完全に大阪の商人が全国のコメの流通を握っていまして……

岩井克人)そうですよ。江戸の大名は参勤交代があって、一年に一回江戸に出てこなくちゃならない。しかも正妻と子供は江戸に残さなくちゃならないから、どうしてもお金が必要なんですね。領地でコメを収穫してもそれを大阪に回して、堂島のコメ市場で現金にかえて、さらにたりないぶんは両替屋にどんどん借金するんだけど、それでも収入が足りなくて、特産品を奨励するわけです。(……)(コメは)生産する側にとってみればたんなる食べ物ではなかったわけですよ。食べるものではなく、流通するものとして、ほとんどお金同然だったわけですね。

だから、大阪の堂島にはじつに整備された大規模なコメ市場が成立したわけです。たとえば、現代資本主義のシンボルとして、シカゴの商品取引所の先物市場がよくあげられるけれども、堂島にもちゃんと先物市場があったんですね。「張合い」といって、将来に収穫されるコメをいま売り買いするわけです。と言うか、堂島の張合い取引が世界最初の整備された先物市場であったという説さえある。(『終りなき世界』1990)





2014年4月6日日曜日

「見えざる手(Invisible Hand)」と「消費税」(岩井克人)

まず経済学に触れたことのある人なら、誰でもが知っているもっとも有名な文章、すなわち「経済学の父」の、「見えざる手(Invisible Hand)」をめぐる文章を掲げる。

通常、個人は、公共の利益を促進しようと意図しているわけでもないし、自分が社会の利益をどれだけ増進しているのかを知っているわけでもない。意図しているのは、自分自身の安全と利得だけである。だが、こうすることによって、かれは、見えざる手に導かれて、自分では意図してもいなかった目的を促進することになる。自分自身の利益を追求することによって、かれは実際にそうしようと思ったときよりもかえって有効に、社会の利益を促進することになる場合がしばしばある。(アダム・スミス『国富論』第四篇第二章)

アダム・スミスはこの文の後、《社会のためだと称して商売している連中が、社会の福祉を真に増進したというような話は、いまだかつて聞いたことがない》ともしている。経済学の知識がわずかでもあるひとたちは、1991年12月、ソ連の崩壊によって、誰もが「アダム・スミスの時代」になったことを、すくなくともその当時は実感したはずだ。

もっともその後、アジア金融危機や、ヘッジ・ファンドの一つLCTM失墜(FRBの元議長と二人のノーベル賞経済学者さえもが参加していた)、あるいはリーマン危機によって、「見えざる手」は働かず、予想の無限の連鎖、ケインズの美人コンテスト理論が実証されてしまったのをわれわれは知っている。すなわち個人の合理性の追求が社会全体の非合理性をうみだしてしまうという、社会現象に固有の「合理性のパラドックス」を。

理論の正しさは経験からは演繹できない。いや、経験から演繹できるような理論は、真の理論とはなりえない。真の理論とは日常の経験と対立し、世の常識を逆なでする。それだからこそ、それはそれまで見えなかった真理をひとびとの前に照らしだす。

アダム・スミスの「見えざる手」の理論ほど、日常の経験と対立し、世の常識を逆なでする理論もないだろう。われわれの日々の経験からいえば、善い人間とは、仲間との信頼関係を重んじ、他人のためを思いやる人間である。悪い人間とは、仲間や他人のことを考慮せず、じぶんの利益のみを追求する人間である。ところが、アダム・スミスはこの常識をひっくり返す。「社会のためだと称して商売している連中が、社会の福祉を真に増進したというような話は、いまだかつて聞いたことがない」。市場経済のなかではひとびとは「公共の利益を促進しようとする意図」する必要などない。ただ「自分自身の安全と利得だけ」を考えればよい。それにもかかわらず、いや、それだからこそ、「見えざる手に導かれて、自分では意図してもいなかった目的を促進することになる」というのである。

(……)理論の批判は、理論によってしか可能でない。そしてそれは、それまでの理論が「思考せずに済ませていたこと」を思考することによってのみ可能なのである。アダム・スミスの理論が思考せずに済ませていたこととは何か? それは、まさに「投機」の問題に他ならない。(……)

アダム・スミスの末裔たちは、投機について思考しながらも、投機について思考せずに済ませていた。すなわち、あくまで市場の「見えざる手」のたんなる延長として位置づけようとしてきたのである。

そのような投機理論の代表として、現代における自由主義思想のチャンピオンであるミルトン・フリードマンの投機理論がある。(岩井克人『二十一世紀の資本主義論』)

岩井克人はこのあと、フリードマン理論を批判し、次のように書くことになる、

真の理論とは日常の経験と対立し、世の常識を逆なでする。だが、日常経験と対立し、世の常識を逆なでするというその理論のはたらきが、真理を照らしだすよりも、真理をおおい隠しはじめるとき、それはその理論が、真の理論からドグマに転落したときである。そしてそのとき、その理論に内在していた盲点と限界とが同時に露呈されることになる。

ところで、アダム・スミス(Adam Smith1723 - 1790年)の同時代人ジャン=ジャック・ルソー(Jean-Jacques Rousseau, 1712 - 1778年)には「自己愛amour-de-soi利己愛 amour-propre」という概念がある。

素朴な情念はすべて直接にわれわれの幸福をめざしているので、それに関係のある目標しかわれわれをかかわらせず、自己愛amour-de-soiのみを原理としているので、本質的にまったく優しく穏やかなものなのです。しかし障害によって目標からそらされると素朴な情念は到達すべき目標よりも避けるべき障害のほうにかかずらって性質を変えてしまい、怒りっぽく憎しみに満ちた情念になる。まさにこのようにして、善なる絶対感情である自己愛amour-de-soiが、利己愛 amour-propre、すなわちたがいを比較させ選り好みさせる相対感情になるわけです。利己愛のもたらす喜びはただただ否定的なもので、利己愛はもはやわれわれ自身の幸福によってではなく、他人の不幸によってのみ満足させられるのです。(『ルソー、ジャン=ジャックを裁く--対話』)

この文を、アダム・スミスの「見えざる手」とそのまま結びつける愚をおかすつもりは毛頭ないがーー自己愛者が果たして優しく穏やかなものだろうか、これはルソーの私有財産制以前の社会の、孤立と自足の「自由人」の理想モデルに過ぎないーー、しかしながら、個人の《意図しているのは、自分自身の安全と利得だけである》とは、「自己愛amour-de-soi」者のことで、《社会のためだと称して商売している連中が、社会の福祉を真に増進したというような話は、いまだかつて聞いたことがない》における《社会のためだと称して商売している連中》は、利己愛 amour-propre」とすることができないでもない。

もっとも、《(個人が)意図しているのは、自分自身の安全と利得だけである》というとき、すでにその各個人のあいだは生れるまえから、既に社会的条件が違う。その条件とは、一言でいえば「私有財産」であり、《「幸福を追求し、私有財産をもつ権利」 とは、盗む(他人を搾取する)権利である》(ジジェク『ラカンはこう読め』)とするなら、搾取者と被搾取者、あるいは貧富の差の間隙は狭まるどころか、拡大するのが、「見えざる手」の原理の帰結のひとつであるといえる。なぜなら自由の旗印のもと、搾取者はいっそう搾取しようとする「合理的」行動をとるだろうから。

富というものはわれわれをつよくとらえる。われわれはこれを羨望し、かくして奴隷になってしまう。われわれが富をもつとなると、富はさらにいっそうよくわれわれをとらえる。それゆえ、われわれはなにかにつけかせぎたくなる。いいかえれば、より少なくあたえたり、より多く受けとったりしたくなる。そして、この盗みたいという魅力にわれわれが抗しうる徳、あるいは内なる力とは、すなわち正義である。警官や裁判官による強制的な正義ではなく、自由な正義、自己に対する正義、だれもこれについてはなにも知らぬということを前提としての正義である。ところで、この徳は不確実さによってわれわれを疲れさす。というのはわれわれは、自分が四方八方から盗まれているような気がするし、またしばしば自分が、みずから欲せずに、しかも万人にほめられながら、盗人になっているような気がするから。ふつうの人は自分の正義をあかすよりも、その勇気をあかすのにいっそう注意ぶかいと、私がいったのはこのゆえである。このことはつぎの逆説をいくぶん説明してくれる。すなわち、ひとは自分の金よりも自分の命のほうをいっそう無造作にあたえてしまうものだと。(アランの「四つの徳」

かつては「教育」が「私有財産」や「富」の差異を是正すると夢想されたこともあったが、いまでは既に高等教育の機会そのものも、養育者の私有財産の多寡によって限定されてしまっている。現在のイデオロギーは、弱肉強食の「自由主義」を、ある種の人間主資義的モラリズムによって彌縫することでしかないだろう。

(世界で支配的なイデオロギーの主流は)資本主義的な現実が矛盾をきたしたときに、それを根底から批判しないまま、ある種の人間主資義的モラリズムで彌縫する機能しか果たしていない。上からの計画というのは、つまり構成的理念というのは、もうありえないので、私的所有と自由競争にもとづいた市場に任すほかない。しかし、弱肉強食であまりむちゃくちゃになっても困るから、例えば社会民主主義で「セイフティ・ネット」を整えておかないといかないーーこのように資本主義的なシニシズムと新カント派的なモラリズムがペアになって、現在の支配的なイデオロギーを構成しているのではないかと思う(浅田彰 シンポジウム「『倫理21』と『可能なるコミュニズム』」2000.11.27)

《後はどうとでもなれ。これがすべての資本家と、資本主義国民の標語である。だから資本は、社会が対策を立て強制しないかぎり、労働者の健康と寿命のことなど何も考えていない。》(マルクス ツイッターbotより)


さて、少し前に戻って、ジジェクの言葉、《「幸福を追求し、私有財産をもつ権利」 とは、盗む(他人を搾取する)権利である》と引用したが、これは次のフロイトの言葉がベースになっているはずだ。

人間は、せいぜいのところ他人の攻撃を受けた場合に限って自衛本能が働く、他人の愛に餓えた柔和な動物なのではなく、人間が持って生まれた欲動にはずいぶん多量の攻撃本能も含まれていると言っていいということである。したがって、われわれにとって隣人は、たんにわれわれの助手や性的対象たりうる存在である ばかりでなく、われわれを誘惑して、自分の攻撃本能を満足させ、相手の労働力をただで利用し、相手を貶め・苦しめ・虐待し・殺害するようにさせる存在でもあるのだ。「人間は人間にとって狼である」(Homo homini lupus)といわれるが、人生および歴史においてあらゆる経験をしたあとでは、この格言を否定する勇気のある人はまずいないだろう。通例この残忍な攻撃本能は、挑発されるのを待ちうけているか、あるいは、もっと穏やかな方法でも手に入るような目的を持つある別の意図のために奉仕する。けれども、ふだんは阻止力として働いている反対の心理エネルギーが不在だというような有利な条件に恵まれると、この攻撃本能は、自発的にも表面にあらわれ、自分自身が属する種族の存続する意に介しない野獣としての人間の本性を暴露する。民族大移動、フン族――ジンギス・カーンおよびティームールにひきいられたモンゴル人――の侵入、信心深い十字軍戦士たちによるエルサレムの征服などに伴って起こった数々の残虐事件を、いや、さらに最近の世界大戦中」の身の毛もよだつ事件までを想起するならば、こういう考え方を正しいとする見方にたいし、一言半句でも抗弁できる人はあるまい。(フロイト『文化への不満』フロイト著作集3 469頁)

ラカンはこの文の一部の抜き出して、次のように語っている。

もし私が諸君にどこからこのテクストを抜き出してきたのかあらかじめ告げていなかったとしたら、これはサドのテクストだと言って通すこともできたかもしれない。(セミネールⅦ)

さあまたしても十八世紀人サド(1740 - 1814年)が現れた。アダム・スミスの言うように、経済学的には《意図しているのは、自分自身の安全と利得だけで》あったにしろ、社会的動物であるわれわれは、他人とかかわらなければならない。そのときなされるのは、

私はきみの体によって享楽する権利を有し、この権利を私は、私が堪能したいと思う気まぐれな濫用ぶりをいかなる限界によっても妨げられることなく、行使するだろう(ラカンによるサドの格率 エクリ 768-769)

これが攻撃欲動の抑圧を解かれた「自由主義」の実態であるに相違ない。

自分自身の心の中にも感ぜられ、他人も自分と同じく持っていると前提してさしつかえないこの攻撃本能の存在こそは、われわれと隣人の関係を阻害し、文化に大きな厄介をかける張本人だ。そもそもの初めから人間の心に巣喰っているこの人間相互の敵意のために、文化社会は不断の崩壊の危機に曝されている。本能的情熱は理性的打算より強力だから、労働共同体の利害など持ち出しても、文化社会を繋ぎとめておくことはできないだろう。人間の攻撃本能を規制し、その発現を心理的反動形成によって抑止するためには、文化はその総力を結集する必要がある。さればこそ文化は、人間を同一視や本来の目的を制止された愛情関係へと駆り立てるためのさまざまな方法を動因し、性生活に制限を加え、「隣人を自分自身のように愛せ」などという、本来をいえば人間の本性にこれほど背くものはないということを唯一の存在理由にしているあの理想的命令を持ち出すのだ、しかし、必死の努力にもかかわらず、これまでのところ文化は、この点大した成果はあげていない。犯罪人を力で抑える権利を自分に与えることによって文化は、血なまぐさい暴力が極端に横行することは防ぐことができると考えている。けれども、人間の攻撃本能がもっと巧妙隠微な形であらわれると、もはや法律の網にはひっかからない。われわれはすべて、若いころの自分が他人に託した期待が幻想だったとして捨て去る日を一度は経験し、他人の悪意のおかげでいかに自分の人生が厄介で苦しいものになるかを痛感するはずである。(470頁)

ところでフロイトは同じ『文化への不満』のなかで、「私有財産」をめぐっても語っている。

私有財産の廃止は有益かとか有利であるとかを検討する資格は私には無い。しかし私にも、共産主義体制の心理的前提がなんの根拠もない幻想であることを見抜くことはできる。私有財産制度を廃止すれば、人間の攻撃本能からその武器の一つを奪うことにはなる。それは、有力な武器にはちがいないが、一番有力な武器でないこともまた確かなのだ。私有財産がなくなったとしても、攻撃本能が自分の目的のために悪用する力とか勢力とかの相違はもとのままで、攻撃本能の本質そのものも変わっていない。攻撃本能は、私有財産によって生み出されたものではなく、私有財産などはまたごく貧弱だった原始時代すでにほとんど無制限の猛威を振るっていたのであって、私有財産がその原始的な肛門形態を放棄するかしないかに早くも幼児の心に現われ、人間同士のあらゆる親愛関係・愛情関係の基礎を形づくる。唯一の例外は、おそらく男の子に対する母親の関係だけだろう。物的な財産にたいする個人の権利を除去しても、性的関係についての特権は相変わらず残るわけで、この特権こそは、その他の点では平等な人間同士のあいだの一番強い嫉妬と一番激しい敵意の源泉にならざるをえないのである。(471頁)

この文には、次のような註が附されている、《自然は、すべての人間に不平等きわまる肉体的素質と精神的才能をあたえることによって種々の不正を行っており、これにたいしてはなんとも救済の方法が無いではないか。》

私有財産を排したら、平和で平等な社会が実現されるというのは疑わしい。

自由主義資本主義における成功あるいは失敗の「不合理性」の良い点は(市場は計り知れない運命の近代版だという古くからのモチーフを思い出そう)、そのおかげで私は自分の失敗(あるいは成功)を、「自分にふさわしくない」、偶然的なものだと見なせるということである。まさに資本主義の不正そのものが、資本主義のもっとも重要な特徴であり、これのおかげで、資本主義は大多数の人びとにとって許容できるものなのだ。(ジジェク『ラカンはこう読め!』)


仮に自分の低いポジションが「自分にふさわしい」ものだとしたらどうだろう。格差社会では起こらない「怨恨」が、格差のない社会では暴発するというのが、ジジェクやデュピュイ(日本では『ツナミの小形而上学』で著者として名が知れた)の考え方であり、「ヒエラルキー」の仕組みは、社会的下位者が、社会的上位者、特権者に屈辱感を抱かせないシステムとされる。(参照:不平等きわまる肉体的素質と精神的才能


…………

わたしたちは後戻りすることはできない。共同体的社会も社会主義国も、多くはすでに遠い過去のものとなった。ひとは歴史のなかで、自由なるものを知ってしまったのである。そして、いかに危険に満ちていようとも、ひとが自由をもとめ続けるかぎり、グローバル市場経済は必然である。自由とは、共同体による干渉も国家による命令もうけずに、みずからの目的を追求できることである。資本主義とは、まさにその自由を経済活動において行使することにほかならない。資本主義を抑圧することは、そのまま自由を抑圧することなのである。そして、資本主義が抑圧されていないかぎり、それはそれまで市場化されていなかった地域を市場化し、それまで分断されていた市場と市場とを統合していく運動をやめることはない。

二十一世紀という世紀において、わたしたちは、純粋なるがゆえに危機に満ちたグローバル市場経済のなかで生きていかざるをえない。そして、この「宿命」を認識しないかぎり、二十一世紀の危機にたいする処方箋も、二十一世紀の繁栄にむけての設計図も書くことは不可能である。(岩井克人『二十一世紀の資本主義論』)

ーー《ひとが自由をもとめ続けるかぎり、グローバル市場経済は必然である》とある。おそらくこれが現在に生きる大半のひとたちのコンセンサスなのだろう。だが、ここでジジェクの反対意見を挿入しておこう。


◆「スラヴォイ・ジジェク--資本主義の論理は自由の制限を導く
ーー二極化の世界にあっては、資本主義は「自由世界のショーウィンドウ」として自己宣伝し、そうした自由の約束によって魅力のあるものとなっていた。われわれは、平等を否定するだけでなく自由も砕きつぶしてしまうような資本主義へと向かっているのだろうか。

ジジェク:マルクスの資本主義批判は内在的なものだった。彼は、自由な領域を生み出した資本主義が、最終的にはその自由を保障しないというという事実を分析した今後、資本主義に内在するこの論理が自由を制限するほうへ自らを導くだろう。共産主義の終焉、そればかりでなく社会民主主義の終焉によって、消えていくのは、集団的行動によって歴史を変えることが可能だという考えだ。われわれは「宿命の支配する社会 société du destin」へと戻ってしまった。ここではグローバリゼーションが宿命とされる。それを拒否することはできようが、しかしそれを待つ代償は、排除だ。人類が集団的な約束によって生を変えられるのだという考えそのものが、潜在的に全体主義的なものとして非難される。「新しい強制収容所を作るつもりか!」という批判を受ける。私はといえば、綱領も、政策も、単純な「解決」も持たない。左翼はそれ独自の責任を持っている。哲学者として、私の倫理的・政治的義務は、解答を与えることにではなく、神秘化された問題を新しく定義しなおすこと、そして、アラン・バディウ Alain Badiou が「問題の現われる場所 site événementiel」と呼んだところのものを見つけることにある。それは、なんらかの可能性があるところ、何かがあらわれてくるための潜在的可能性のある場所だ。その意味では、私はヨーロッパに対しいかなるユートピア観も抱いていない。同じ一つのシステムの二つの面を象徴する合衆国と中国のつくる軸の外に位置しようという意欲がヨーロッパにはあるにしても。

今はこの対立見解の是非を問わない。ここでは岩井克人の著書を遡行して、だが名著『貨幣論』をすっとばし、岩井克人が三十代に書いた『ヴェニスの商人の資本論』からもうひとつ引用しよう。

資本主義ーーそれは、資本の無限の増殖をその目的とし、利潤のたえざる獲得を追及していく経済機構の別名である。利潤は差異から生まれる。利潤とは、ふたつの価値体系のあいだにある差異を資本が媒介することによって生み出されるものである。それは、すでに見たように、商業資本主義、産業資本主義、ポスト産業主義と、具体的にメカニズムには差異があっても、差異を媒介するというその基本原理にかんしては何の差異も存在しない。

しかし、利潤が差異から生まれるのならば、差異は利潤によって死んでいく。すなわち、利潤の存在は、遠隔地交易の規模を拡大し、商業資本主義の利潤の源泉である地域間の価格の差異を縮めてしまう。それは、産業資本の蓄積をうながして、その利潤の源泉である労働力と労働の生産物との価値の差異を縮めてしまう。それは、新技術の模倣をまねいて、革新的企業の利潤の源泉である現在の価格と未来の価格との差異を縮めてしまう。差異を媒介するとは、すなわち差異そのものを解消することなのである。資本主義とは、それゆえ、つねに新たな差異、新たな利潤の源泉としての差異を探し求めていかなければならない。それは、いわば永久運動的に運動せざるをえない、言葉の真の意味での「動態的」な経済機構にほかならない。(岩井克人『ヴェニスの商人の資本論』P59)


《新たな差異、新たな利潤の源泉としての差異を探し求めていかなければならない》のが資本主義の原理だとしても、たとえば二十一世紀は差異が見出しにくくなっている。


グローバリゼーションもインターネットも、言ってみれば、もはや『外部』はないという宣言です。岬を回りこんで新たな海域に出ようとしても、もはや既知なるものとしかめぐり遭えない。(松浦寿輝 古井由吉との対談『色と空のあわいで』(2007年))

さらには柄谷行人は次のようにさえ言う。
資本主義経済そのものが終わってしまう可能性がある。中国やインドの農村人口の比率が日本並みになったら、資本主義は終る。もちろん、自動的に終るのではない。その前に、資本も国家も何としてでも存続しようとするだろう。つまり、世界戦争の危機がある。(第四回長池講義 要綱

これは商業資本利潤の源泉である遠隔地との差異、あるいは産業資本主義の利潤の源泉である農村ー都市人口の差異の消滅を指摘している。さらに革新的企業の利潤の源泉である現在の価格と未来の価格との差異がインターネットの普及で危うくなっているのであれば、のこるは産業資本主義の利潤の源泉である《閉ざされた内部》における労働力と労働の生産物との価値の差異しかない。たとえば非正規雇用形態は、どんな法案を作ってそれを押し留めようとしても、抜け道を探って類似の雇用形態を取り、労働力の価格を引き下げようとするのが、資本(家)の論理である。

これがジジェクの云う、二十一世紀に入って、ベルリンの壁ならぬ新しい壁がいたるところに築かれつつあるという現象の大きな由来のひとつであろう、ーー、《新しい形態のアパルトヘイト=新しい〈壁〉とスラム》(ジジェク『はじめは悲劇として、二度めは笑劇として』)。

ところで、岩井克人は最近「消費税」をめぐって次のように発言している。

・消費税問題は、日本経済の形を決めるビジョンの問題。北欧型=高賃金、高福祉、高生産性か。英米型=低賃金、自助努力、労働者の生産性期待せずか。日本は岐路にある。

・日本のリベラルは増税と財政規模拡大に反対する。世界にない現象で不思議だ。高齢化という条件を選び取った財政拡大を。(「アベノミクスと日本経済の形を決めるビジョン」より)

これまで日本は、GDP比200%以上という巨額の債務残高にもかかわらず、長期金利がほとんど上がらなかった。その理由は、失われた20年で良い融資先を失った日本国内の金融機関が国債を保有していることもあるが、同時に「消費税率を上げる余地がある」と市場から見られていたことも大きい。社会保障を重視する欧州では20%を超える消費税が当たり前なのに、日本はわずか5%。いざ財政破綻の危機に瀕したら、いくら何でも日本政府は消費増税で対応すると考えられてきたのだ。

 消費増税は、もちろん短期的には消費に対してマイナスだろうが、法人税減税などと組み合わせれば、インパクトを最小限に抑えることができる。重要な点は、消費増税によって財政規律に対する信頼を回復させ、長期金利を抑制することだ。実際、消費増税の実施が決定的となった昨年9月には、長期金利は低下した。

現在、2015年に消費税率を10%に上げることの是非が議論されているが、私は毎年1兆円規模で肥大するといわれる社会保障費の問題を考えても、10%への増税は不可避であり、将来的にはそれでも足りないと思っている。むしろ、アベノミクスの成功に安心して10%への増税が見送りになったときこそ、長期金利が高騰し、景気の腰折れを招くことになるだろう。

このような議論をすると、「1997年に消費税を3%から5%へ引き上げたあと、日本経済は不況に陥ったのではないか」との反論が上がる。しかし当時の景気減退は、バブル崩壊後の不良債権処理が住専問題騒動で遅れ、日本が金融危機になったことが主因である。山一證券や北海道拓殖銀行の破綻は、小さな規模のリーマン・ショックだったのである。

また、「消費税は弱者に厳しい税だ」という声も多い。だが、消費額に応じて負担するという意味での公平性があり、富裕層も多い引退世代からも徴収するという意味で世代間の公平性もある。たしかに所得税は累進性をもつが、一方で、「トーゴーサン(10・5・3)」という言葉があるように、自営業者や農林水産業者などの所得の捕捉率が低いという問題も忘れてはいけない。(「剥き出しの市場原理と猖獗するネオナチ」より)

この見解に賛同するか否かは問わない。だが世界一の少子超高齢化社会で、極めて低い消費税率(あるいは国民負担率)のままでありえるのかーーいやそんなことはありえるはずがない、と私のようなシロウトは考えてしまうが、そうでない見解も経済学者のなかにはあるようだーーは、それぞれ、とくに日本のリベラルは、もう少し問うたほうがいいのではないか。わたくしは今のところ次のような見解を信頼したい。

@kazikeo: 私は「消費税引き上げの影響は存外に大きい可能性がある」という見方です(植田和男先生とたぶん同じ)。ただし、目先の景気と将来の負担との比較の問題で、目先の痛みは大きいとしても、それをしなかったときの将来の痛みはもっと大きいと考えています。(池尾和人)
消費税率10%への引き上げ見送りが、日銀の政策への最大のリスクになる(黒田東彦日銀総裁インタヴュー

あるいは田中康夫のような問い、《前から言ってるけど、人口構造も逆ピラミッド状態で、制度をいくらいじったって、年金制度が維持できる訳もない今、ベーシック・インカムのようなドラスティックな方法を取る必要があると改めて痛感するね》(「憂国呆談」)でもよい。それがないままで、目先の貧困者擁護などを口実に、いつまでも二十年来の反復である消費税反対の態度でよいのだろうか。むしろそれは、なしくずしに財政逼迫を促進し、困窮者の首をいっそう真綿で絞めることにならないのだろうか。


国民負担率の国際比較




日本の財政は、世界一の超高齢社会の運営をしていくにあたり、極めて低い国民負担率と潤沢な引退層向け社会保障給付という点で最大の問題を抱えてしまっている。つまり、困窮した現役層への移転支出や将来への投資ではなく、引退層への資金移転のために財政赤字が大きいという特徴を有している。(DIR30年プロジェクト「超高齢日本の30年展望」

上で岩井克人のミルトン・フリードマンの「投機」理論批判を紹介したが、たとえば消費税を十五%から二十%にするという前提で(ベーシックインカム制度の実現可能性やその効用が疑わしいとするならば)、フリードマンの「負の所得税」案を視野におけないものか。それは富裕層や引退層から困窮層への資金移転となりうるだろう。もっとも最近の経済理論にはまったく疎い者の云う「思いつき」の範囲を出ないのは重々承知しており、財源の試算もしていないが(「子育て世帯臨時特例給付金」制度は、それは「臨時」であり小粒でありながら、類似した試みなのではないか)。

負の所得税とは所得に関係なく一定の税率を一律にかけ、 基礎控除額を定めることでそれを上回った者から所得税を徴収し、下回った者は逆に所得に応じた負の所得税を払うものである。負の所得税とはすなわち政府からの給付金である。

基本税率 40 パーセント、基礎控除額が年収 200 万円だとすると 年収 1000 万円の者は基礎控除額を超過している 800 万円が課税対象となり 40 パーセントの 320 万円を所得税として支払う。
年収 200 万円の者は基礎控除額を上回りも下回りもしないため所得税を支払わない。

年収 100 万円の者は基礎控除額 200 万円を 100 万円下回るためマイナス 100 万円が課税対象となり、40 パーセントのマイナス 40 万円を支払う。つまり政府から 40 万円を受け取る。この 40 万円が負の所得税である。

つまりまったく収入が無い者はマイナス 200 万円の 40 パーセントである 80 万円を受け取ることになり、これが最低レベルの所得の者に支払われる生活保護額となる。(「再分配方法としての負の所得税」ネット上PDFよりーー「民主主義の始まり」より)

ーーここで例に挙げられている数字は、いささか富裕層の所得への過剰な課税であるだろう。それをもうすこし抑制し、その代わりの消費税増という考え方である。

もっとも、上に引用したDIR30年プロジェクト「超高齢日本の30年展望」では、ベーシックインカムや負の所得税とは関係なしに、財政再建と社会保障費維持のための、楽観的なシナリオとして消費税25%案が示されている。

しかも、ここで消費税率25%とは、かなり控えめにみた税率である。①医療や介護の物価は一般物価よりも上昇率が高いこと、②医療の高度化によって医療需要は実質的に拡大するトレンドを持つこと、③介護サービスの供給不足を解消するために介護報酬の引上げが求められる可能性が高いこと、④高い消費税率になれば軽減税率が導入される可能性があること、⑤社会保険料の増嵩を少しでも避けるために財源を保険料から税にシフトさせる公算が大きいこと――などの諸点を考慮すると、消費税率は早い段階でゆうに30%を超えることになるだろう。

このプロジェクトを取り仕切った元財務次官、日銀副総裁の武藤敏郎氏のインタヴュー記事でも、消費税20%が語られている→ 「2013年9月12日 「中福祉・中負担は幻想」 武藤敏郎氏

…………


最後に、上の文脈からはすこし毛色の異なる中井久夫の文章を引用しておこう。

中井久夫によれば、精神医学史家であると同時に犯罪学者でもあるエランベルジェ(エレンベルガー)は、犯罪学と医学が科学でない理由として、疾患の研究、犯罪の研究からは「疾患は治療すべきであり、犯罪は防止すべきであるということが理論的に出てこない」ことを強調している。すなわち、彼によれば、犯罪学と医学は「科学プラス倫理」である、と。

だが中井久夫はこの文に引き続き、医学はまず倫理的なものであるが、それでは不十分だ、とする(「医学・精神医学・精神療法は科学か」『徴候・記憶・外傷』所収)。

少なくとも、もう一点で、医学は科学と相違する。それは、囲碁や将棋が数学化できるかどうかという問題と本質的に同じである。囲碁や将棋は数学化できない。それは、科学とちがって徹底的に対象化することのできない「相手」があるからである。「対象」ではなく「相手」である。わかりやすいために、殺伐な話だが戦争術を考えてみるとよい。実験的法則科学はいつも成立しなければならないが、「必ず勝てる」軍事学はない。もしできれば、人間に理性がある限り、戦争は起こらない。それでも起これば、それは心理学か犯罪学という「綜合知」の対象である。経済学でもよい。インフレやデフレなどの経済学的不都合を絶対に克服する学ではなく、その確実な予測の学でさえない。これらが向かい合うものは「相手」である。科学は向かい合うものを徹底的に対象化する。そしてほどんどつねに成り立つ「再現性のある」定式の集合である。対象化と再現性は表裏一体である。すなわち、「相手」が予想外に動きをしては困るのである。ところが、囲碁や将棋や戦争術は相手の予想外に出ようとする主体間の術である。なるほど、経済学は、常に最大利益を得ようとして行動する「経済人(ホモ・エコノミクス)」というものを仮定しているが、これは人工的な対象化であって、経済学が経済の実態の予測を困難にしている一因である。それは、経済学の対象すなわち経済行動を行う人間の持つ、利益追求の欲望以外の心理学的要素の大きさを重々自覚しながら、これを数理化できないために排除しているからである。つまり、科学的であろうとする努力が経済学をかえって現実から遠ざけてきた。現在、むき出しの「市場原理」が復権をとげている。「市場原理」ならばローマ時代、いや太古からあった。(186頁)