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2014年9月21日日曜日

咲き出でる樹木の白い「死」

ややメモが溜まってきたのでいくつかの下書きを吐き出す。

…………

@hoshinot: すごい言葉を見つけてしまった!「死んでる組織と生きてる組織があるのが木。生きてる組織だけなのが草花です。」ーいとうせいこう・竹下大学『植物はヒトを操る』より。木というのは中心が死んでいるのだそうだ。木は世界そのもの! http://t.co/hpOd63BYrI
@seikoito: 今日、星野智幸君が紹介してくれた「植物はヒトを操る」で竹下大学さんに教わったことは他にも色々あって、純白の花は自然界になく、突然変異でアルビノが出ても虫には見えない。だから虫媒されない。いわば人に好きにさせて人で増える。http://t.co/nxw1MKKCus
@seikoito: あと、前に森林専門家に聞いたら鹿が樹皮をぐるりと剥がして食べちゃうと、木は全血管を切られたように立ち枯れる。樹皮は「現在」の生命で、その内側はいわば樹木の「過去」が固化したもの。鹿は「現在」を断ち切るだけで、時間の堆積した森全体を素早く破壊してしまう。 (いとうせいこう)

木というのは中心が死んでいる》だって?
《樹皮は「現在」の生命で、
その内側はいわば樹木の「過去」が固化したもの》だって?

樹木の内側だって年々大きくなっていくんじゃないのか
年輪は年毎に変貌していくのじゃないのか

わたくしの「凡庸」な頭には理解できないところがある
にもかかわらず
草花よりは樹木のほうを「特権的」に愛する
そして白い花が咲く樹木をなによりも好むわたくしには
なんとも魅惑的な言葉だ

当地に来て最初に魅せられたのはインドソケイ(プルメリア)の樹だった





そうだな、まずあそこにはリルケがいる

死とは私たちに背を向けた、私たちの光のささない生の側面です。私たちは私たちの存在の世界が生と死という二つの無限な領域に跨っていて、この二つの領域から無尽蔵に養分を摂取しているのだという、きわめて広大な意識をもつように努めなければなりません。まことの生の形体はこの二つの領域に跨っているのであり、この二つの領域を貫いて、きわめて広大な血の循環がなされているのです。此岸というものもなければ彼岸というのもありません。あるのはただ大いなる統一体だけで、そこに私たちを凌駕する存在である『天使』が住んでいるのです。(富士川英郎・高安国世訳『リルケ書簡集2:1914–1926』――『ドゥイノの悲歌』の翻訳者への書簡らしい)

白い花とは樹木の体の中に宿る「神」や「天使」が咲き出でたのではなく
「死」が咲き出でたーー、それでどうしていけないわけがあろう


噴水の管(くだ)にも似ておんみのしなやかな枝々は、
樹液を下へ、上へと送り、それはほとんど醒めることなしに、眠りの中から
甘美な事業の幸福へとおどり入る。
さながら神があの白鳥に転身したように。(リルケ『ドゥイノの悲歌』第六 手塚富雄訳)

もっとも《純白の花は自然界になく》とあるように、
突然変異や人工的な花以外は
どの白も虫媒されない純粋な死の花ではない
ただ喚起されたイメージからの話である

そして花はなにも白でなくても、
すべて死のメタファーであるかもしれない、
という観点はここでは脇にやりつつの話だ。

例えばリルケが「薔薇の花、純粋な矛盾、おびただしい瞼の下で誰の眠りでもないその悦楽」と語るとき、薔薇という隠喩項は、死という抑圧物、すなわちそこでは眠りが帰属する主体が不在であるという冷酷な現実を再帰させ、しかし次の瞬間、その眠りを再び多くの者の瞳へと回収させ、そこに「悦楽」‐幻想を残していく。(樫村晴香『ドゥルーズのどこが間違っているか?』)
薔薇よ、あゝ、純然たる撞着、いや歓喜〔よろこ〕びよ、
それすなわち、あまた伏せられた瞼の下で、
誰しの眠りにもあらぬことの。

Rose, oh reiner Widerspruch, Lust,
Niemandes Schlaf zu sein unter
soviel Lidern.

— (in seiner letztwillige Verfügung, Oktober 1925.)

樫村晴香とはあまり知られていない名かもしれないが
オレとほぼ同年、かつては浅田彰との対談もある
今は仏で肉体労働?やったり、
ミャンマーの山奥で瞑想しているなどということもあるらしい
奥さんのラカン派である愛子さんは、
オレの故郷の私立大学で教師をやっている。





純白にみえる香高いジャスミンの花も
純粋の白ではないということなのだろう
突然変異でアルビノが出た花ではない
虫には見えない花ではない

庭にある何本かのジャスミンは多くの蝶が寄ってきて
油断をすると貪食な幼虫に一晩で葉を食い尽くされてしまう




チューリップの新品種「アルビノ」とは虫には見えないということなのか
ちょっとそのあたりがわたくしにはよくわからない





「ハクモクレン」が登場したところで、この文は、「逃げ水と海へ向かう道」の続きものでもあるのだが、その関連はあえて示さないでおこう。


…………

死というのは一点ではない、生まれた時から少しずつ死んでいくかぎりで線としての死があり、また生とはそれに抵抗しつづける作用である。(フーコー『臨床医学の誕生』(ビシャの言葉引用から)



女が孕んで、立っている姿は、なんという憂愁にみちた美しさであったろう。ほっそりとした両手をのせて、それとは気づかずにかばっている大きな胎内には、二つの実が宿っていた、嬰児と死が。広々とした顔にただようこまやかな、ほとんど豊潤な微笑は、女が胎内で子供と死とが成長していることをときどき感じたからではないか。(リルケ『マルテの手記』)

孕み女の腹を撫でさするように樹肌を愛撫するのは
樹木の「死」の、樹木の「過去」の、
ひそかなざわめきを、掌でまさぐる仕草であったとして、
どうしてわるいことがあろう

昔は誰でも、果肉の中に核があるように、人間はみな死が自分の体の中に宿っているのを知っていた。(同マルテ)

…………

鹿が樹皮をぐるりと剥がして食べてしまう、
すると木は全血管を切られたように立ち枯れる。
丸裸にされた樹木の「死」、あるいは「過去」!

――なんという豊かなイマジャリー
それはリルケの詩と同じくらい

……おお、幼年時代の日々よ
そのときわたしたちの見たもろもろの形象の背後には単なる過去
以上のものがあり、また、わたしたちの行手をおびやかす未来もなかった。
もちろんわれわれは刻々に生長した、ときにはより早く
生長しようと背のびした。。ひとつには成人であること以外には
なんの持ちあわせもない大人たちの喜びを買うために。
けれど、わたしたちがひとりで道を行くときには、
過去も未来もない持続をたのしみ、世界と
玩具とのあいだにある中間地帯の、
大初から、純粋なありかたのために設けられた
ひとつの場所に立ったのだ。
たれが幼いものを、そのあるがままの姿で示すことができよう。たれが
幼いものを星々のあいだに据え、遠隔の尺度をその手に
もたらすことができよう。たれがかたまりゆく灰いろのパンから
幼い死を形成することができよう。――またその死を
甘美な林檎の芯のように幼いもののまろやかな口に
含ませることができよう? ……殺害者たちを
見抜くのはたやすい。しかし死を、
全き死を、生の季節に踏み入る前にかくも
やわらかに内につつみ、しかも恨みの心をもたぬこと、
そのことこそは言葉につくせぬことなのだ。(ドゥイノ 第四の悲歌 手塚富雄訳)

…………

もっともいくら樹木を愛でても
次のような文に、若いうちからーーわたくしのように三十歳前後でーー
魅せられないほうがいいのかもしれないとは言っておこう。

だいたい章の心のなかには、古い大きな木の方が、 なまなかの人間よりよっぽどチャンとした思想を持っている、という考えがある。

厳密な定義は知らぬが、いま横行している思想などはただの受け売りの現象解釈で、 そのときどきに通用するように案出された理屈にすぎない。 現象解釈ならもともと不安定なものに決まってるから、ひとりひとりの頭のなかで変わるのが当然で、 それを変節だの転向だのと云って責めるのは馬鹿気たことだと思っている。

皇国思想でも共産主義革命思想でもいいが、それを信じ、それに全身を奪われたところで、 現象そのものが変われば心は醒めざるを得ない。敗戦体験と云い安保体験と云う。 それに挫折したからといって、見栄か外聞のように何時までもご大層に担ぎまわっているのは見苦しい。 そんなものは、個人的に飲み込まれた営養あるいは毒であって、 肉体を肥らせたり痩せさせたりするくらいのもので、精神自体をどうできるものでもない。

章は、ある人の思想というのは、その人が変節や転向をどういう格好でやったか、やらなかったか、 または病苦や肉親の死をどういう身振りで通過したか、その肉体精神運動の総和だと思っている。 そして古い木にはそれが見事に表現されてマギレがないと考えているのである。

章は、もともと心の融通性に乏しいうえに、歳をとるに従っていっそう固陋になり、 ものごとを考えることが面倒くさくなっている。一時は焼き物に凝って、 何でも古いほど美しいと思いこんだことがあったが、今では、 古いということになれば石ほど古いものはない理屈だから、 その辺に転がっている砂利でも拾ってきて愛玩したほうが余っ程マシで自然だとさとり、 半分はヤケになってそれを実行しているのである(藤枝静男「木と虫と山」)

中上健次の夏ふようの白い花に魅せられるくらいだったらいいさ。




空はまだ明けきってはいなかった。通りに面した倉庫の横に枝を大きく広げた丈高い夏ふようの木があった。花はまだ咲いていなかった。毎年夏近くに、その木には白い花が咲き、昼でも夜でもその周囲にくると白の色とにおいにひとを染めた。その木の横に止めたダンプカーに、秋幸は一人、倉庫の中から、人夫たちが来ても手をわずらわせることのないよう道具を積み込んだ。
光が撥ねていた。日の光が現場の木の梢、土に当たっていた。何もかも輪郭がはっきりしていた。曖昧なものは一切なかった。いま、秋幸は空に高くのび梢を繁らせた一本の木だった。一本の草だった。いつも、日が当たり、土方装束を身にまとい、地下足袋に足をつっ込んで働く秋幸の見るもの、耳にするものが、秋幸を洗った。今日もそうだった。風が渓流の方向から吹いて来て、白い焼けた石の川原を伝い、現場に上がってきた。秋幸のまぶたにぶらさがっていた光の滴が落ちた。汗を被った秋幸の体に触れた。それまでつるはしをふるう腕の動きと共に呼吸し、足の動きと共に呼吸し、土と草のいきれに喘いでいた秋幸は、単に呼吸にすぎなかった。光をまく風はその呼吸さえ取り払う。風は秋幸を浄めた。風は歓喜だった。(中上健次『枯木灘』)