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2010年12月28日火曜日

ラカンの「知を想定された主体」[subject supposed to know, sujet suppose savoir]

分析家の万能的能力を表すものとして誤解されがちな、ラカンの「知を想定された主体」の意味をまとめたものに当たったのでここに抜粋する。

知を想定された主体[sujet suppose savoir](よくS.s.Sと省略される)は英語に翻訳しがたい用語である。シェリダンは、この用語を「subject supposed to know(知っていると想定された主体)」と翻訳し、この訳語はラカンに関するほとんどの英語の著作において踏襲されている。しかし、シュナイダーマンは、それは主体であって知ではなく、想定されるものであるという理由から、別の訳語である「supposed subject of knowledge(知の想定主体)」を推奨している(Schneiderman, 1980:vii)
この語句は自己意識[Selbstbewuβtsein]が知るという行為それ自体において透明であるという幻影を指摘するために、ラカンが1961年に導入したものである(意識を見よ)。この幻影は、鏡像段階において生まれ、精神分析によって問題とされるようになった。精神分析は、知[savoir]はどのような特定の主体にも位置づけられることができず、実際は関主観的なものであることを明らかにした(Lacan, 1961-2:1961/11/15のセミネール)
1964年には、知がある主体に起因すると考えることとして転移を定義したが、その際にこの語句が取り上げられた。「知を想定された主体がどこかにいるや否や、そこに転移があります(S11,232)。この定義は、分析のプロセスを開始するのは、分析主体がある主体を知っている主体だと想定することであり、分析家が実際に所有している知ではない、ということを強調している。
「知を想定された主体」という用語は、分析家そのものを指示するのではなく、治療において分析家が体現するようになる機能を指示しているのである。転移が設立されたといいうるのは、分析主体によって分析家がこの機能を体現していると知覚されたときのみである(S11, 233)。ならば、分析家が所有しているとされる知とはどのようなものなのだろうか? 「それを言い表すや否や、そこから誰も逃れられないものを彼は知っていると想定されています――それは無条件に、意味作用[signification]です(S11, J342/Fr228邦訳を改変) 言い換えれば、分析家はしばしば患者の言葉の隠された意味、そして話し手が気づいてすらいない会話の意味作用を知っていると考えられている。この想定(分析家は知っているものだという想定)のみが、それなくしては意味を持たない細部(偶然の仕草、曖昧な発言)に、「想定する」患者にとっての特別な意味を遡及的にもたらす。
治療のまさに最初の瞬間から、あるいはそれ以前に、患者が分析家を知っている主体として想定することが起こるかもしれないが、ふつうは転移が成立するまでにはいくらかの時間を要する。後者の場合では、「主体が分析に入ったとき、彼は分析家にこの〔知を想定された主体の〕位置を与えることからはほど遠い」(S11,233) つまり、分析主体は最初、分析家を道化師とみなしているか、分析家の無視を維持するために情報を与えないでいることがある。しかし、「疑問視された当の分析家に対してすら何らかの無謬性の信用のようなものがどこかで与えられてしまいます」(S11,J316/Fr212) 遅かれ早かれ、分析家のなんらかの偶然の仕草が分析主体によって、なんらかの隠された意図、隠された知の徴候として扱わるのである。この点において分析家は知を想定された主体を体現する。すなわち、転移が成立するである。
分析の終わりは、分析主体が分析家の知を脱-想定したときにやってくる。そして分析かは知を想定された主体の位置から転落する。
「知を想定された主体」という用語はまた、分析家の独特の位置を構成するのが、知への特定の関係だという事実をも強調している。分析家は自らに帰せられた知と自分自身のあいだには分裂があることに気づいている。言い換えれば、分析家は(分析主体によって)知っていると推測された人物の位置を占めているだけであるということに気がついていなくてはならず、自分に属せられた知を本当に持っているのだと勘違いしてはいけないのだ。分析主体によって彼に属せられた知について、自分は何も知らないということに分析家は気づいておかなくてはならない(Lacan, 1967:20)。しかし、分析過程の頼みの綱が想定された知であるという事実は、分析家が実際に所有している知よりも、それゆえ分析家が何も知らないことに満足することが出来るということを意味しない。反対に、分析家はフロイトを真似て文化、文学、言語学的な事柄の専門家にならなくてはならないとラカンは言っている。
ラカンはまた、分析家にとって分析主体は知を想定された主体であるとも言っている。分析家が分析主体に自由連想の基本的ルールを説明するとき、分析家は実際に「さあ、なんでも言ってください。すべては素晴らしいものになるでしょう」というのだ(S17,59)。言い換えれば、分析家は分析主体にすべてを知っているかのように振舞うように言い、それが分析主体を知を想定された主体として成立させる。
An Introductory Dictionary of Lacanian Psychoanalysis, pp.197-198
a la lettreさんHPより、ディラン・エヴァンス紹介

2010年12月24日金曜日

デカルトの「我思う」と「私は嘘をつく」  (ラカン)

ラカンが「同一化」のセミネールで、デカルトの、「我思う。ゆえに我あり」におけるデカルトの袋小路をめぐって述べている箇所を、ここでは、コメント差し挟まずに、そのまま引用する。東京精神分析サークル 要約 J.ラカン、セミネールIX巻「同一化」第I講-第 X (向井雅明試訳)からの抜粋である。(太字強調は引用者)

デカルトの命題を扱うといっても、デカルトを乗り越えるということが重要なのではない。彼はひとつの袋小路に陥ったのであるが、それと同時にその基盤を示してくれた。この袋小路を利用して最大限の効果を得えることが重要なのだということは明らかである。今ここで私はテクストの注釈とは全く離れている批評をしているのであって、それについて来るには、私がそこから自分のディスクールのために何を引き出そうとしているのか思い起こす必要がある。
「我思う。ゆえに我あり」はこの凝縮された表現をもって一般的に使われるようになった。それはマラルメがどこかでほのめかしている、使い古されて表面が磨り減ってしまっている硬貨のようになっている記号のようである。それをちょっと取り上げ、その記号の機能に磨きをかけ、われわれが利用するためによみがえらせようとするために、次のことを指摘しておこう。

それは、この命題―繰り返すが、この凝縮された形は『方法序説』の中のいくつかの部分に見出されるのみで、通常はこのような濃厚な形では表現さない―、この「我思う。ゆえに我あり」は、「我思う」とはひとつの思考ではないという反論に突き当たるということである。これはまだ出されたことがない反論である。もちろん、デカルトは長い思考過程の果てにこれらの命題をわれわれに提供するのであって、それは確かにひとつの思想家の思想である。さらに言うと、思想家の思想というこの特性は、思想について語るには必要ではない。要するに、思考は思考について思考することを全く必要としないのである。とりわけ、われわれにとって思考は無意識から始まる。われわれが思考について何か言おうとするとき、思考は準備状態、縮小版の行為だとか,行為の経済的な小型モデルだとかいう心理学的命題に助けを求めるときの臆病さには驚くばかりである。フロイトのどこかにも同じようなものがあると言えるかもしれないが、もちろんそうである。だが、フロイトには何でもあるのだ。彼は何かの論文に心理学的定義を用いたかもしれない。しかしながら、思考は自慰的な満足の、完全に有効な、いわば自足した方法であるということもフロイトは主張しているということを否定するのは全く困難なことであろう。われわれがこう言うのは、思考の意味について、われわれはおそらく他の連中よりも少しばかり考えが広いということに他ならない。おそらく、この「我思う」は「我あり」という現前から最終的に探し出せるものを支持することにはまったく不十分なパロルなのであろう。
まさにそうである。明確にするために言うと、この単純な形で取り上げられた「我思う」というのは、論理的には幾人かの論理学者を困らした「私は嘘をつく」以上に確固としたものではない。この「私は嘘をつく」というのは論理的な動揺によってのみ支えられており、確かに空虚であるには違いないが支持することはでき、見せ掛けの意味を展開し、十分に形式論理学のうちに自分の地位を見出しているのである。「私は嘘をつく」、こう言えばそれは真実でありながら、私は確かにうそをつく。なぜなら「私は嘘をつく」と言いながら、逆を主張するのであるから。この論理的困難とされるものを分解して、それは、この判断は自らの言表に言及することはできない、それは異なった水準あるものの一方のもう一方への陥没現象であるということに基づいているということを示すのは非常に簡単である。「私は嘘をつく」ということ自体が強調され、そこから判断を分離せず、二つの平面の区別が欠如していることから、この疑似的困難が生まれるだ。これは、この区別が欠けていると、真の命題は成立しないということを意味する。論理学者達はこれらのパラドックスを重視して、それにふさわしい地位を与えているが、われわれにはこれらのパラドックスは意味のないものと映るかもしれない。

だがやはりそれはある重要性を持っている。それを取り上げることによって、先ほど話した有名な論理実証主義も含めたあらゆる形式論理学を位置することもできるのである。これに結びついた有名なエピメニデスのアポリアは十分に生かされてはいないようである。それは「わたしは嘘をつく」に関して上に述べたことを更に発展させたもので、「すべてのクレタ人はうそつきである、とクレタ人エピメニデスが言った」という場合、そこにはこまのように回転して止まることのない論理があることがわかるというものである。
このことは全称肯定命題というものの空虚さを証明するために十分に利用されていない。というのも、これについて指摘されるように、実際それは問題を解決するためのもっとも興味深い形式なのである。次のことを言うことは可能であるが、それを言うとどのようなことがおきるであろう。
「嘘をつくことができないクレタ人はいない」。これは有名な全称肯定命題を批判するために出されたもので、その実体は全称否定命題以外の何でもないと主張する者もいる。だがこう言った時にはもう問題は解消してしまうのである。エピメニデスはこのことを言える。というのは、このように表現されると、クレタ人でも良いのであるが、つねに嘘をつけることのできる誰かが存在するということを意味しないのである。とりわけ、嘘をつきとおすことは一貫した記憶を必要としており、最後にはその人は真理を告白するような方向にディスクールを向けてしまうゆえに、「すべてのクレタ人はうそつきである」が、嘘をつき続けようと思わないクレタ人は一人もいない、という意味なら、真理は最後にはまちがいなく何かの拍子で、また嘘をつこうという意思の強さに比例して、こぼれ出すのである。

すべてのクレタ人はうそつきであるという、クレタ人エピメニデスの告白は結局次の意味を持っている。すなわち1)彼は自慢している。2)彼は自分の方法を正しく使えることで相手の目をくらまそうとしている。これは、自分は礼儀正しくないが、まったく率直に物を言っているのだ、と言うときと同じ位成功するもので、はったりを通用させるときの典型にほかならない。
これは、カテゴリーの形式的な意味においてのすべての全称否定命題は同様な間接的目的を持っている、ということを表しているが、古典的な例においてこの目的がはっきりするのはすばらしいことである。ソクラテスについての三段論法で、ソクラテスが死すべきものであることをわざわざ明らかにするのがアリストテレスだというのは興味深いことである。つまり解釈の対象となるという意味である。ここで解釈とは、まさにアリストテレスの論理学の何巻かの標題としてある機能よりもおそらく多少深い意味を持っているであろう。というのも、アテネがソクラテスと呼ぶ者は、動物としての人間としては死を確約されていても、まさしくソクラテスと名づけられるかぎりで彼は死から逃れるのである。このことは単に、プラトンによってなされた有名な転移の作用が続くかぎり彼の名声は続くという理由だけでない。それはまた、より正確には言えば、社会的な身分を元に、固有の場を持たない存在となることに成功した者としてアテネでソクラテスという名で呼ばれている者である―それだからこそ彼は亡命できなかったのである。ソクラテスが己の死の欲望を自らの生のアクティング・アウトとなすまで自己を維持することができたということが彼の永遠の名を保証しているのでもあることは明らかである。したがって、アリストテレスの三段論法の例として挙げられたもののなかには、知の発展の障害になると彼が考えていた転移をまさに厄払いしようとする試みとして解釈できるものがあるのである。だが、それは彼の間違いであった。失敗することはは明らかであったのだ。彼がプラトンよりもうまく欲望の本性を変えることができたら事態は変わっていたであろう。現代科学は超プラトン主義から生まれたもので、結局、概念の規定に従った知の機能へのアリストテレス的回帰によるものではない。神々の第二の死とでも呼べるようなものが、実際必要だったのである。つまり、言葉が自らの真の真理を、科学の出生地である意味の闇を消し去る真理をわれわれに示すための、ルネッサンスの時代の亡霊としての神々の再退場である。であるから、われわれが言ったように、この「我思う」というフレーズは判断の意思的次元をわれわれに見せてくれるという最低限の利点を持っているのだ。だが、そのことを持ち出す必要はない。言表と言表行為の区別を曖昧にすることによって、「私は嘘をつく」の袋小路に至るあのパラドックスに遭遇するのに十分なのだ。というのは、私が嘘をつき、そして同時に「私は嘘をついている」と言うことは、これらの声を区別すればまったく可能なのである。私が「私は嘘をつくと彼が言う」ということは、私が「彼は嘘をつく」と言う以上に問題とはならない。また、「私は嘘をつくと言う」とさえ言えるのである。ただ、ここには注目すべきことがある。私が「私は嘘をつくと言う」と言うとき、それは分析家として興味深いこと、そしてまったく納得できることなのである。というのは、まさに分析家としてわれわれの介入の独創的で、生きた、そして感激的な点は、われわれはそれとは逆のかたちで厳密に相関している次元の中で動き、語るためにあるのだということを知っているからである。それは「そうではない、おまえは真理を言っているのを知らないのだ」と言うことである。これはそのまま発展し、さらに次のようにも言える。「おまえが真理をかくもよく言得るのは、おまえが嘘をついていると思っているかぎりであって、おまえが嘘をつきたくないというなら、それはこの真理からおまえを守るためなのだ。」この真理はこうした薄明かりの中でしか抱きしめることはできない。真理は乙女である。真理はすべての乙女のように本質的に迷えるものである。「我思う」にしても同様である。教授連中にとって「我思う」が簡単に通用するのは、彼らがそこにあまり詳しく立ち止まらないからにすぎない。
「我思う」に「私は嘘をつく」と同じだけの要求をするのなら次の二つに一つが考えられる。まず、それは「私は考えていると思っている」という意味。これは想像的な、もしくは見解上の「私は思う」、「彼女は私を愛していると私は思う」と言う場合に-つまり厄介なことが起こるというわけだが-言う「私は思う」以外の何でもない。デカルトの「省察」の中でさえ、「我思う」を、彼の言う根源的明証性はなにも保証することできない、まさに想像的次元でしかないものにする遇有的事柄の多さに驚かされる。もう一つの意味は「私は考える存在である」である。この場合はもちろん、「我思う」から自分の存在に対して思い上がりも偏見もない立場をまさに引き出そうとすることをそもそも台無しにすることになる。私が「私はひとつの存在です」と言うと、それは「私は存在にとって本質的な存在である」ということで、ただのおもいあがりである。このことはともかく、ここでわれわれは重要なことに出会う。「私は嘘をつく」に関して取り上げたあの次元、「私は自分が嘘をついていることを知っている」と言うことができるということに行き当たるのである。このことはわれわれにとって興味深いことである。実際、それこそある種の現象学的主体を支えるものなのだ。ひとつの定式を取り出しておこう。コギトというデカルト的探求から発展した哲学的系譜においては、唯一の主体しかなかった。それはこの最後に私が持ち出す知を想定された主体である。
この表現を現象学に、とりわけヘーゲルの現象学に参照してみると、この「知を想定された主体」の機能は、この問題において展開される共時的な機能に関して評価されるにあたいすることに注目すべきである。現象学の問いのはじめからずっとあるこの共時的なものの存在、構造のある結び目が、絶対知に導くはずの通時的展開から逃れることをわれわれに許すのである。後になってわかるだろうが、この絶対知は、この問いに照らし合わせてみると反駁可能な価値を持つ。しかしいまのところはつぎのことだけを言うにとどめておこう。すなわち、この想定された知を誰かに帰属させることも、知に対していかなる主体を想定することもやめて、不信任動議の提出にとどまるということである。知は間主体的なものである。このことは万人の知、大文字の他者の知であるという意味ではない。大文字の他者は主体ではなく、アリストテレスが言うように、それは主体の知を運ぼうとする場所なのである。もちろんこの努力によって、ヘーゲルが主体の歴史として展開したものは残る。しかしそれだからといっても主体がそこで問題になっていることについてわずかでも多く知ると言うことはまったくないのだ。主体が動揺するのは間違った想像から、つまり大文字の他者は知っている、絶対知は存在するという想像からくるものである。しかし大文字の他者は彼よりもまだ知らないのだ。なぜならまさにそれは主体ではないからである。大文字の他者はこの知の想定の表象の代理representants representatifsの貯蔵庫である。そして主体がこの知の想定の中に失われているかぎりでそれを無意識と呼ぶのである。主体は自分自身の無知のうちにこの想定をを引き起こす。それは「ものchose」の中で彼の現実がこうむったものから彼に戻る残骸、多かれ少なかれ形をとどめない残骸である。主体はそれが戻ってくるのを見て「確かにそれだ」とか「それとはまったく違う」とか言ったり、言わなかったりするのだが、それでもそれはまさにそれなのである。

2010年12月23日木曜日

現代の「病的ナルシスト」たち、あるいは「母なる超自我」と「内的な自由」

ジジェクは、looking awryのなかで次のように述べている。社会学的な三つの「主体」の形態、すでに社会心理学では常識の部類だが、と断った上でだが。


三つの形態とは、プロテスタント倫理の「自律的な」人間、他律的な「組織人間」、今日支配的になっている「病的ナルシスト」である。

ここでぜひとも強調しなければならない重要なことは、いわゆる「プロテスタント倫理の衰退」と「組織人間」の出現、つまり個人的責任という倫理が、他者のほうを向いた他律的人間の倫理に取って代わられても、そのそこにある自我理想の枠は無傷のままだということである。変わるのはその内容だけで、自我理想は、その個人が属する社会集団の期待として「外在化」される。道徳的満足をあたえてくれるのは。もはや、周囲の圧力に屈せず、自分自身に(つまり父性的自我理想に)忠実でありつづけたという感覚ではなく、集団への忠誠心である。主体は集団の眼を通して自分をみるようになり、集団から愛され評価されるような人間になろうと必死にある。

※「自律的な」あるいは「他律的な」人間については次の記述が参考になる。ポストモダンを考えるためのメモ

<人間>とは、王や<神>に従う臣下ではなく、自分で自分を監視し、自分で自分に命令するような、カント流の「先験的経験的二重体」としての主体。その変奏は、フーコーの、パノプティコンをはじめ、フロイトのエディプス化の結果として、父権的な審級を自分の中に内面化した主体であるとか、ウェーバー的な自己に責任をもつ主体など。つまりなんらかの「抑圧装置」を内面化した主体、あるいは「対象としての自己」をコントロールする主体、ということが<人間>ということ


※自我理想とは、一般的にはフロイトの「超自我」のことであるが、ジジェクは次のように語っている。「理想自我/自我理想/超自我」あるいはラカンの三幅対

<理想自我>は主体の理想化された自我のイメージを意味する(こうなりたいと思うような自分のイメージ、他人からこう見られたいと思うイメージ)。

<自我理想>は、私が自我イメージでその眼差しに印象づけたいと願うような媒体であり、私を監視し、私に最大限の努力をさせる<大文字の他者>であり、私が憧れ、現実化したいと願う理想である。

<超自我>はそれと同じ媒体の、復讐とサディズムと懲罰をともなう側面である。
この三つの術語の構造原理の背景にあるのは、明らかに、<想像界><象徴界><現実界>というラカンの三幅対である。理想自我は想像界的であり、ラカンのいう<小文字の他者>であり、自我の理想化された鏡像である。自我理想は象徴界的であり、私の象徴的同一化の点であり、<大文字の他者>の中にある視点である(私はその視点から私自身を観察し、判定する)。超自我は現実界的で、無理な要求を次々に私に突きつけ、なんとかその要求に応えようとする私の無様な姿を嘲笑する、残虐で強欲な審級であり、私が「罪深い」奮闘努力を抑圧してその要求に従おうとすればするほど、超自我の眼から見ると、私はますます罪深く見える。見世物的な裁判で自分の無実を訴える被告人についてのシニカルで古いスターリン主義のモットー(「彼らが無実であればあるほど、ますます銃殺に値する」)は、最も純粋な形の超自我である。

さて、looking awryの引用に戻る。(核心部分である

第三段階、すなわち「病的ナルシスト」の出現は、それ以前の二形態の根底に共通してあった自我理想の枠と絶縁する。象徴的法を自分の中に取り入れるのではなく、複数の規則、すなわち「いかに成功するか」を教えてくれる便利な規則がいろいろ与えられる。ナルシスト的な主体は、他者たちを操るための「(社会的)ゲームの規則」だけを知っている。社会的関係は、彼にとってはゲームのためのグラウンドである。彼はそこで、本来の象徴的任務ではなく、さまざまな「役割」を演じる。本来の象徴的同一化を含んでいる、自分を縛るような関わりはいっさい持とうとしない。彼は根源的に体制順応者でありながら、逆説的に、自分を無法者(アウトロー)として経験する。

※この第三の「病的ナルシスト」段階については、以下のものが参考になる。



(中井)確かに1970年代を契機に何かが変わった。では、何が変わったのか。簡単に言ってしまうと、自罰的から他罰的、葛藤の内省から行動化、良心(あるいは超自我)から自己コントロール、responsibility(自己責任)からaccountability〔説明責任〕への重点の移行ではないか。(……)


(浅田)再び社会学的に言うと、伝統志向や内面志向に対し他者志向こをがアメリカの大衆社会を特徴付けるのだというようなことは昔からリースマンなんかも言っていたわけですが、それでも、基調としては、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』じゃないけれど、自己が責任ある主体として行動するというディシプリンが支配的だった。それが原理としても承認されていたし、フーコーの言うような権力装置としても機能していた。

しかし、それがある時期から機能しなくなる。エディプス化によって父権的価値を内面化した自己責任の主体などというものがもはや成り立たなくなり、権力装置のほうから見ても、ディシプリンを叩き込んで主体化するなどということはもはや経済的でないのであきらめて、それこそ学校の門には金属探知機をつけるといった形で直接電子的にコントロールしてしまおうというように、フーコー/ドゥルーズの言葉でいえば「ディシプリンの社会」から「コントロールの社会」への移行が進む、それがおっしゃったような変化にもつながるのかもしれませんね。(批評空間2001Ⅲー1 「共同討議」トラウマと解離(斉藤/中井/浅田)

 2、ハイパーメディア社会における自己・視線・権力 2、コンピュータと超パノプティコン


(浅田)フーコーが言ったパノプティコンのポイントは,真ん中の監視塔から常に見られているということではなくて,実際は真ん中から見られていなくても,見られているかもしれないから,そういう視線を個々の主体が内面化して二重体になってしまうということだったんだけれど,いまもし電子メディアですべてが透明化して社会全体が超パノプティコンになるとしても,その場合に,超越的あるいは超越論的な視線というのがどこにもないから,それを内面化して,主体を二重体として形成するというモティーフもないということになるんじゃないか.

(大澤)権力が持続的なディシプリン(規律・訓練)の作用を持つかというと,そうはならない.これは,少なくとも教科書的なフーコー理解の中には入っていなかった事態だと思うわけです.つまり,パノプティコン的な事態が本当に起きているにもかかわらず,そこでは結果としては19世紀的な主体性というのは全然出てこない.われわれのパフォーマンスは常にチェックされているのに,それが持続的な主体のアイデンティティに結び付くということは全くないわけでしょう.つまり,持続的に管理されているのに,先験的な主体の視線なんてものは,全然内面化されてこない.これは,ちょっとアイロニカルな結果だと思うんですね.そういうことを,いまのデータ・ベースに関して考えたんだけれど,構造的によく似たような事態が電子メディアが関わるいろいろなところで起きているんじゃないかなという感じがしているんです.

浅田――だから,ドゥルーズがフーコーを踏まえつつさらに現状を展望して,ソヴリンティ(君主権)の時代があり,ディシプリンの時代があったけれども,いまはコントロールの時代だと言っているわけですね.しかし,そのコントロールの時代というのは,逆説的にも,ディシプリン以前の時代と通底するところがある.



このあたりから、現在の状況は、遠い昔への退行的な状況であり、一部の識者から、絶望的なつぶやきなどが生まれる所以である。


さて、ところがジジェクは、上記のような話は、社会心理学的にはすでに常識の部類に属する、といいつつ、さらに次のように述べている。


だが、たいてい見過ごされているのは、自我理想の崩壊は必然的に「母なる」超自我の出現を招くということである。母なる超自我は享楽を禁じない。それどころか、享楽を押しつけ、「社会的失敗」を、堪えがたい自己破壊的な不安によって、はるかに残酷で厳しい方法で罰する。「父親の権威の失墜」をめぐる騒々しい議論はすべて、それとは比べ物にならないくらい抑圧的なこの審級の復活を隠蔽するにすぎない。

今日の「寛容な」社会は、「組織人間」、つまり官僚制の強迫的な召使の時代よりも「抑圧」が少なくなったわけではけっしてない。唯一の違いは、「社会的交渉の規則への服従を要求しつつ、その規則を道徳的行動の掟に根づかせることを拒む社会」においては、つまり自我理想においては、社会的要求は非情で処罰的な超自我の形をとるということである。

Today's "permissive" society is certainly not less "repressive" than the epoch of the "organization man," that obsessive servant of the bureaucratic institution; the sole difference lies in the fact that in a "society that demands submission to the rules of social intercourse but refuses to ground those rules in a code of moral conduct,"15 i.e., in the ego-ideal, the social demand assumes the form of a harsh, punitive superego.

上記の内容は、ジジェクは後ほど「ラカンはこう読め!」のなかで、より具体的に、わかりやすく説明している。「ポストモダン」をめぐって、あるいは「猥雑なる超自我」



…抑圧的な権威の没落は、自由をもたらすどころか、より厳格な禁止を新たに生む。この逆説をどう説明するのか。誰もが子供の頃からよく知っている状況を思い出してみよう。ある子が、日曜の午後に、友だちと遊ぶのを許してもらえず、祖母の家に行かなくてはならないとする。古風で権威主義的な父親が子供にあたえるメッセージは、こうだろう。

「おまえがどう感じていようと、どうでもいい。黙って言われた通りにしなさい。おばあさんの家に行って、お行儀よくしていなさい」。

この場合、この子の置かれた状況は最悪ではない。したくないことをしなければならないわけだが、彼は内的な自由や、(後で)父親の権威に反抗する力をとっておくことができるのだから。「ポストモダン」の非権威的主義的な父親のメッセージのほうがずっと狡猾だ。

「おばあさんがどんなにおまえを愛しているか、知っているだろう? でも無理に行けとはいわないよ。本当にいきたいのでなければ、行かなくていいぞ」。

馬鹿でない子どもならば(つまりほとんどの子供は)、この寛容な態度に潜む罠にすぐ気づくだろう。自由選択という見かけの下に潜んでいるのは、伝統的・権威主義的な父親の要求よりもずっと抑圧的な要求、すなわち、たんに祖母を訪ねるだけでなく、それを自発的に、自分の意志にもとづいて実行しろという暗黙の命令である。このような偽りの自由選択は、猥雑な超自我の命令である。それは子供から内的な自由をも奪い、何をなすべきかだけでなく、何を欲するべきかも指示する。
          

ここで言われる「猥雑なる超自我」が「母なる超自我」であり、すなわちラカンの「現実界」である。
上記の文脈からいえば、「病的ナルシスト」である現代の主体は、「何を欲するか」まで、「母なる超自我」によって命令されていることになる。再度引用するなら、この箇所である。

象徴的法を自分の中に取り入れるのではなく、複数の規則、すなわち「いかに成功するか」を教えてくれる便利な規則がいろいろ与えられる。ナルシスト的な主体は、他者たちを操るための「(社会的)ゲームの規則」だけを知っている。社会的関係は、彼にとってはゲームのためのグラウンドである。彼はそこで、本来の象徴的任務ではなく、さまざまな「役割」を演じる。

こういったジジェク=ラカンの理論から、大澤氏の次のような発言もある。ラカン=ジジェク派としての大澤真幸――『<自由>の条件』より


(…)現代社会においては、伝統的な規範の枷がその効力を徐々に失い、原理的には、他者危害要件(他人に危害を及ぼさないという留保条件)さえみたしていれば、すべてが許されているように感じられるのである。つまり、少なくとも規範との関係でいえば、ほぼ完全な(消極的)自由が保証されているように見えるのだ。

だが、これと連動して、まったく逆方向の傾向も見出すことができる。すなわち、個人の幸福や厚生の水準の向上の名のもとに――つまり他者危害要件によって――、従来ではありえなかったような規範が急速に増大しつつあるのだ。(…)喫煙を限定する規制、望ましい食事を規定する規範、家庭内での暴力を禁止する規範、あるいはセクシュアル・ハラスメントやストーカー行為を禁止する規範などが、そうした規範に含まれる。



どうだろうか。「情報」「コミュニケーション」などを新しく錦の旗にした「新しい言説」を旧来派が徹底的に批判する根拠のひとつがここにある。ジジェクの主張によれば、内的な自由さえ奪われている、ということだ。再度引用すれば、そこにあるのは、

自発的に、自分の意志にもとづいて実行しろという暗黙の命令である。このような偽りの自由選択は、猥雑な超自我の命令である。それは子供から内的な自由をも奪い、何をなすべきかだけでなく、何を欲するべきかも指示する。

では、どうすればいいのか。ラカン=ジジェクの解答は、

ラカンにとって、唯一の正しい審級は、三つからなるフロイトのリストにはない第四の審級、すなわちラカンが時おり「欲望の法」と呼ぶ、欲望に従って行動せよとあなたに命令する審級である。ここで重要なのは、「欲望の法」と自我理想(主体が教育を通じて内在化する社会的・象徴的規範と理想のネットワーク)との差異である。ラカンにとって、道徳的成長と成熟へと導く、自我理想という一見善意にみちた審級は、現存する社会的・象徴的秩序の「理に叶った」要求を採用することによって、「欲望の法」を裏切るよう強いる。過剰な罪悪感をともなう超自我はたんに自我理想の必然的な裏返しであり、われわれに「欲望の法」を裏切らせるために、耐えがたい圧力をかけるのだ。超自我の圧力の下でわれわれが経験する罪悪感は幻想的なものではなく実際の罪悪感である。「ひとが罪悪感を持ちうる唯一のことは、自分の欲望に関して譲歩したこと」であり、超自我の圧力はわれわれが自分の欲望を裏切ったことについて実際に罪があるのだということを示している。。「理想自我/自我理想/超自我」あるいはラカンの三幅対

このあたりを、「欲望」だけでなく、「欲動」、あるいは、ラカンの最晩年の「サントーム」概念を考慮して、もう一度捉えなおそうというのが、ラカン理論主流派の立場である。資料:欲望と欲動(ミレールのセミネールより)



果たしてラカン=ジジェクは古くなったのだろうか。







2010年12月19日日曜日

資料:欲望と欲動(ミレールのセミネールより)

◆ジャック=アラン・ミレールのセミネールCommentary On Lacan's Text,       in Reading Seminars I and IIより。

ミレールは、このセミネールで、ラカンの「ファルス」理論のひとつの頂点としても見られることのある『ファルスの意味作用』についてこのように語っている。


【ラカン自身による「欲望」と「欲動」の混同】
ラカンのテクスト「フロイトの<欲動>と精神分析家の欲望について」は、欲動と欲望のあいだの区別を強調することを目的としています。
このテクストは欲動と欲望との区別に充てられています。このテクストはそれら二つを混同してはいけないということを強調しています。ラカン自身、「ファルスの意味作用」(Ecrits)においてこの二つを混同していたのです。

欲望と欲動】

「欲望は<他者>からやってくる、そして享楽は<もの>の側にある」
ラカンがここで強調していることは、シニフィアンの秩序――<他者>であるその場所――と享楽のあいだの区別です。享楽は、セミネールVII『精神分析の倫理』で練り上げられたフロイトの概念である<もの>[das Ding]を経由して、この論文で取り上げられています。 
享楽と欲動については、ミレールは他の場所で次のように述べている。

【享楽と欲望】
フロイトは欲動のgoalaimを区別しています。人は欲動の対象を手にしたり手にしなかったりします――口唇欲動の場合を例にとれば、対象とは食べ物です。しかしそれでもなお、フロイトが言うように、対象そのものは重要ではありません。欲動の対象はこれでもあれでもありえますが、欲動の回路において満足させられるものは同じものとして残り続けます。goalに達しないときですら、aimを実現することができます。それが、享楽です。「(『精神分析の四基本概念』の)文脈と概念」 ジャック=アラン・ミレール


ジジェクも次のように語っている。

終点は最終目的地だが、目標はわれわれがやろうとしていること、すなわち道wayそのものである。ラカンが言わんとしたのは、欲動の真の目的はその終点(充分な満足)ではなく、その目標である。欲動の究極的目標は、たんに欲動それ自身が欲動として再生産されること、つまりその循環的な道に戻り、いつまでも終点に近づいたり遠ざかったりしつづけることである。享楽の真の源泉はこの閉回路の反復運動である。ラカン「欲求ー要求ー欲望」、あるいは「欲動」と「目標ー終点」


欲動をあらわすラカンの数学素はどうしてS/Dなのか(ここでのS/は斜線を引かれた主体ということ:引用者)。

第一の答えはこうだ。欲動はその定義からして「部分的」である、すなわちつねに身体の表面の特定の部位―――いわゆる「性感帯」―――と結びついている。ただしその部位は、皮相的な見解とは裏腹に、生物学的に決定されるのではなく、意味作用による身体区分の結果である。つまり、身体表面の特定の部位は、解剖学的な位置によってではなく、身体の象徴ネットワークにどのように取り込まれるかによって、性的な特権をあたえられるのだ。

この事実の決定的証拠は、ヒステリーの症候にしばしば見受けられる現象、すなわち通常は性的になんの意味ももたない身体部位(首、鼻など)が性感帯として機能しはじめるという現象に見出される。

だが、この古典的な説明ではまだ不十分だ。この説明では欲動と要求との密接な関係が見落とされている。欲動とはまさに、欲望の弁証法に取り込まれない、弁証法化に抵抗する要求にほかならない。要求はほとんどつねに弁証法的媒体を含んでいる。われわれは何かを要求する。だが、われわれがこの要求を通じて真に目指しているものは別の何かであり、時にはその要求そのものの否定であることすらある。何かを要求するたびに、かならず一つの疑問が生じる。「私はこれを要求する。だが、それによって本当は何を求めているのか」。反対に、欲動はある特定の要求に固執する。弁証法的策略には絶対的に引っ掛からない「機械的」なしつこさなのである。私は何かを要求する、そして最後までそれに固執する、というわけである。資料:「器官なき身体」と「身体なき器官」、あるいは欲動



ジジェクは上記の文に次のような注をつけている。

この欲動と欲望の関係について、われわれは精神分析の倫理に関するラカンの有名な格言ーーー「自分の欲望を諦めてはいけない」---を少々修正してもよいだろう。欲望そのものはすでにある種の屈服、ある種の妥協形成物、換喩的置換、退却、手に負えない欲動に対する防衛なのではあるまいか。「欲望する」ということは、欲動に道を譲ることを意味する。アンティゴネーに従い、「自分の欲望を諦めない」かぎり、われわれは欲望の領域から外へと足を踏み出し、欲望の様相から欲動の様相へと移行するのではないか。(鈴木晶訳)

もっとも享楽には次のような指摘もある。
Encoreにおいて、ラカンは«l’autre jouissance», «une autre que la jouissance phallique», «jouissance radicalement Autre»と表現されているものはjouissance féminineことだとしている(同掲書、p.26-7)。ここでは、「男性器官がにおいて、他者の(器官の)一部の享楽の体験を形成し、それだけでなく他の享楽les autres jouissances」とある。ファロスの享楽にはなしを戻すと、フロイトの『文明と居心地悪さ』において窺うことができるとして、意味は性的だとしても、それは性的ななにかに欠けているものに置き代わるからそうなのだとし、「意味は性的ななにかの反射ではなくそれを代補するsupléerするもの」とされます。「資料:ラカン 想像界 象徴界 現実界の結び目」あるいは、「資料:ラカン「Encore」(1973)をめぐって」





さて、ミレールのセミネールに戻る。フロイトの著作で、欲望が禁止によって設立されているわけだが、ミレールはラカンの「欲望は法に従属している」というテーゼをめぐって次のように語る。

【欲望は法に従属している】
禁止、つまりよく知られた近親相姦の禁止は、何よりもまず、母の欲望[desir de la mere]を満足させることに対する禁止へと形を変えます。それが享楽のシニフィアンの禁止[l'interdir signifiant]についての隠喩であると、ラカンはセミネールVII で既に言及していました。近親相姦の禁止が意味するのは「汝は汝の極上の享楽に到達してはならない」ということです。この物語において反響するのは、享楽それ自体にのしかかったシニフィアンの禁止です。この観点からラカンは、欲望はつねに享楽の禁止に繋がれており、それゆえ欲望の主要なシニフィアンが-φであることを強調しています。欲望はつねに欠如によって設立されます。それゆえに、欲望は法と同じ側にあるのです。

つまり、これが、「欲望は<他者>からやってくるということの意味」である。

【欲動あるいは享楽とはなにか】
欲望と享楽との区別でいえば、欲望は従属したグループです。法を破る諸幻想においてさえ、欲望がある点を越えることはありません。その彼岸にあるのは享楽であり、また享楽で満たされる欲動なのです。

この新たな概念の分割において、享楽は禁止に繋がれてはいません。欲動は禁止についてそれ以上考えることができません。つまり、欲動は禁止については何もしらず、禁止を破ることなど夢にも思わないのです。欲動は自身の性向を追い、つねに満足を得ます。一方、欲望は「彼らは私がそれをすることを望んでいる、したがって私はしたくない」「私はそっちに行くように想定されていない、だから私が行きたいのはそっちなのだ。しかし、最後の最後でそうすることはできなくなるだろう」などと考えて気を重くしています。
言い換えれば、欲望の機能は従属と動揺の両方において現れており、去勢、享楽の去勢に密接に関係したものとして自らを現しています。欲望の主要な記号が-φである理由はこれなのです。

【享楽をさらに具体的に】


享楽を具体化するものは何なのでしょうか? どのようにして享楽はこの弁証法に具体化されるのでしょうか?

ここでのラカンの答えは、享楽はトカゲが自分自身を切断する〔災難にあったときに自らの尻尾を切る〕場合と同じように具現化されるということです。言い換えれば、享楽は失われた対象に受肉化されるのです。そして「利益と損失を含んだ」 それら全ての対象は、ラカンが言うように-φの格納場所[place holders]なのです。

言い換えれば、ここで私たちはa/-φという主要な公式を提供することが出来ます。この公式は、欲望は-φに繋がっており、一方で享楽は対象a に繋がっているということを意味しています。

a ◇jouissance[享楽]
----
-φ ◇desir[欲望]
神話において禁止の形式をとるものは、元来、失われたものです。禁止は失われたものについての神話です。「享楽の垣根における欲望の災難[Mesaventure du desir auxhaies de la jouissance]」 とラカンが上品に呼んでいるのはこれです。欲望が享楽に向かって進もうとするときはいつでも、それはトカゲの尻尾のように落ちます[ca tombe]。これが-φの素晴らしい表現であり、また、対象a の表現でもあることを認めなければなりません。対象a とは、すなわち、空虚を埋める失われた対象です。また、ここで「同一化は欲動を満たすことなしに欲望によって決定される」とラカンが言うとき、フロイトの第二局所論についてのラカンの読みがその真価を発揮します。
欲望と欲動は混同されてはならない二つの異なった秩序なのです。

【対象aと-φ、あるいはファルスの再説明】


a/-φの公式に戻りましょう。まず始めに、-φはシニフィアン体系における欠如、つまり<他者>における欠如を指し示しています。それは享楽の欠如を指し示しています。これは私たちが去勢と呼ぶものであり、ラカンはこれを謎[enigma]とみなしています――主体はしばしばこの謎を避けることによって解決しています。

つぎに、失われた対象がこの〔欠如の〕場所を占めにやってきます。ラカンがシニフィアン体系と享楽のあいだの繋がりとして示しているのはこのことです。この対象は、-φ、つまり去勢によって示されるシニフィアン体系の欠如あるいは-1 に関わる一方で、他方では失われた対象の機能にも関わっています。

後にラカンは去勢に正確な意味を与えています。性的関係の不在について語ることによってこの謎に回答を与えているのです。ラカンはシニフィアン体系に欠けているものに以下のような意味を与えています――欠如しているものは何にもまして両性の関係を符号化することができる諸シニフィアンであり、ファルスのシニフィアンがこれらの欠けている諸シニフィアンの場所にやってくる。ファルスはそのとき性的関係の不在についての覆いとして現われることになる。この謎についての最終的解答ではなく、偽の解答として現われるのである。


【ラカン理論の転換】――「欲望」から「欲動」「幻想」へ

このような〔理論〕構築において、二つの用語が前景に出てきます。象徴的ファルスの機能が消去され、欲望の価値が下がるということが、ラカンの〔理論〕構築において起こるのです。ラカン理論の綿密な練り上げのすべての期間において、ラカンは欲望における生きた機能を支えようとしました。しかし、ひとたび欲動を欲望から区別すると、欲望の価値の引き下げがおこり、ラカンは欲望が依拠する「否定[not]」をとりわけ強調するようになります。そして反対に、享楽を生産する失われた対象に関係した活動としての欲動が本質的なものになり、二次的に幻想が本質的なものになります。

幻想と欲動がラカン理論の中心に移動するのです。特にパスの理論においては、失われた対象への主体の関係の二つの様態として、幻想と欲動が理論の中心となります。

フロイトの著作では幻想について他に何かあるでしょうか? 幻想は満足に関連した意味です。意味の生産と満足の生産は幻想においてもっとも結合されます。この意味において、欲望が価値を落とす一方で、幻想は本質的な用語となるのです。

【袋小路としての欲望と成就されるものとしての欲動】


欲望に本質的なのはその袋小路[impasse]です。この原則は不可能性において見つけられるとラカンは言っています。そして私たちは、この活動は本質的に行き止まりに到達するといいうるでしょう。ラカンが「1967 年の提案[Proposition de 1967]」 で「私たちの袋小路[impasse]〔は〕無意識の主体の袋小路である」と言っていることはおおよそこのようなことです。「私たちの袋小路は欲望の主体の袋小路である」ということも出来るでしょう。主体と欲望が分割される 一方で、主体と欲動は分割されないのです。欲動が袋小路にたどり着くことはありません。

主体は幸福であるとラカンが言い、陽気な様子でコメントしているのはこのことです。存在欠如は欲望の側にあり、それは基本的に-φと書かれます。その一方、欲動の側では、存在欠如は存在しません。フロイトが欲動と呼んだものはつねに成就する活動です。欲動は確かな成功へとつながりますが、その一方で欲望は確かな無意識の形成物へとたどり着きます。つまり、「自分の番を間違った」「鍵をなくした」等の失策行為や言い間違いです。反対に、欲動はその鍵をいつも手の中に持っています。

【まとめ】
主体は主体自身を欲動と、そして欲動の確かな足取りと整列させることが出来るのでしょうか? 幻想の除去という問題は、そして幻想が表現しているスクリーンを横断するという問題は、享楽をむき出しにすることを狙っています。

それはデュシャン[Duchamp]が言うように、 「花嫁は彼女の独身者たちによって裸にさ れて、さえも」なのです。

花嫁とは享楽のことです。人は彼女と結婚できるのでしょうか?

分析の終結の引き伸ばしにおいて、つまり結論に達するのように思えない分析の終結において、主体の失敗の意味の強化が観察されることが時々あります。その極点において、制止であるように思える「私はそれをできない」が強化されることがあるのです。これは存在欠如[manque-a-etre]の悪化[exasperation=憤激]であり、望むものになることの失敗[manque-a-etre]の悪化であり、またなりたいと望んだものになることの失敗[manque-a-etre]の悪化です。それは同一化と欲望の最後の連関を示しています。

花嫁は彼女の独身者たちによって裸にされて、さえも。誰が花嫁を裸にするよう望んだのでしょうか? 誰が享楽を裸にするよう望んだのでしょうか? 〔基本的〕幻想の下にある享楽を誰が発見しようと望んだのでしょうか?

二人の独身者が存在します。つまり、分析主体と分析家です。ラカンは彼の「フロイトの<欲動>について」を「精神分析家の欲望」をもって完結させるにあたって、享楽を裸にするよう望むのは分析家という独身者なのだと言っています。つまり、分析家の欲望は主体の享楽を裸にすることであり、一方で幻想として知られる欲動の誤認によってのみ主体の欲望は維持されるのです.


※参照: 欲動と原トラウマ


2010年12月17日金曜日

「ヒステリーのディスクール」、あるいは「サントーム」

前回、意図的に「ヒステリーの言説」として書いてみたわけだが、つまりは「情報」「コミュニケーション」を持ち上げる連中、糞食らえ、という暴言に近い言葉を吐いてみたわけだが……。ラカン「四つの言説」から「サントーム」へ、あるいは「文学」の顕揚

ここで、すこし、知る人ぞ知る、各々有能な精神分析家であり、ラカン理論の解釈者でもある、向井雅明氏と藤田博史氏の間の一騒動の原因となったらしい、向井雅明氏のコラムの文章を引用してみよう。(東京精神分析サークルコラム)
このコラムの最後に「発言すること」という記事を書いた。そこでアラン・バディウーから聞いた毛沢東のエピソードについて触れ、グループを発展させるために自由連想法を応用するように提案した。だがあまり理解されなかったようだ。それどころか毛沢東主義などのレッテルまで貼られる始末である。そういえば、かつてバディウも、同じような決めつけをされたことを思い出す。
 批判のひとつは、グループにおいては分析の場でなされるような、自由連想的な作業はできない、というものであった。分析において分析主体analysantは自由連想の作業をするのであるが、グループにおいて同じようなことはできないというのである。だがラカンは、「教育の場において私は分析主体analysantとして在る」と述べている。教育の場、すなわち自ら設立したグループのなかでも分析主体として作業すると言っているのだ。
 分析主体analysantとして在るというのは、まず分析家analysteとしてではないということである。つまり相手に作業をさせるのではなく、自分自身が作業するのだ。それはまた支配者という、他人に何かを命令する立場でもない。四つのディスクールにしたがって大学のディスクールを取りあげると、知を携えてそれを誰かに教え込む者としてでもないのだ。
 分析主体として在るということは、ヒステリー的な分裂した主体として自由連想の作業のなかで知を見つけ出していこうと振る舞うことである。
 分析のセッションのなかでは作業は分析家への転移下でなされる。ではグループの中の作業において転移は成立するのであろうか。ラカンはグループにおいての「分析作業」では、転移が向けられるような分析家は存在しないが、グループが転移の支持として作用すべきである考える。それをラカンは「作業の転移」transfert de travailと呼ぶ。たとえばラカンの言うグループは、軍隊のように、グループの主導者のような人にたいして転移が成立するというものではない。もし、指導者に転移をおこして行動するようなスタイルを採るなら、分析的グループを他のものとを区別することはできない。こうした「作業の転移」によってのみ分析グループの中での作業が可能になるのだ。
 ラカンは、知を発見していく分析主体はヒステリー的存在である、と述べている。精神分析の主体、「ヒステリー的主体」は科学から排除された主体であり、科学のディスクールはヒステリーのディスクールと共通しているということを踏まえれば、知を追求するという立場としてヒステリーがやって来るというのは何らふしぎではない。この点からするとラカンが知を発見していくために分析主体=ヒステリーとして在るというのはうなずける。
 私は精神分析のためのグループはおよそグループらしくないものでなければならないと言っている。それは分析家は分析の場ではあらゆる理想の機能を停止させなければならないからだ。そのために他のグループのように制度とか規則、または固有名詞を前面に出すことはできないのだ。そこでは、各自が自由にものを言い、考えて、新しい知を構築していかなければならない。既存の組織のあり方をスライドして当てはめ、そこに安住することに意味はない。新しい知を構築する作業を地道に続けていき、獲得された知を蓄積していくことで、初めて精神分析はこの地に根付き、何か新しい息吹をもたらすことが可能になるだろう。


つまり、向井氏の、ラカンの引用によれば、教育の場では、《ラカンは、「教育の場において私は分析主体analysantとして在る」と述べている。教育の場、すなわち自ら設立したグループのなかでも分析主体として作業すると言っている》らしい。つまり、むしろ「患者」のポジションにたっており、セミネールの参加者のほうが「分析医」である、と。さらに言えば、ラカンはセミネールの聴講者に転移しており、聴講者はそれを分析する、と。

このあたりと、最晩年の「サントーム」「ララング」概念をどう考えていったらよいのか……、少なくともラカンの上記の主張は、その概念を生み出す以前のものだろうが、ラカンが「ヒステリーの主体=無意識の主体」として聴衆たちに、彼を「分析=読み取る」ように言っていたというのは、とても示唆的である。決して「知の主体」としてではなかったのだ、もちろん、そう受け取らざるを得ない言説もあるだろうが。

さらに最晩年のラカンは「無意識の主体」、つまり意味の領域の円環のなかの言説から「非・意味」の領域へ飛翔しようとする。―――「シニフィアンからシーニュ(記号)への移行と同様の、<他者>から<一者>への移行」としてのサントームへ。

「サントーム」が非・意味の「シーニュ」として語るということであれば、それを聴くものは、「芸術作品」に向かうもののようにして、われわれはドゥルーズが『プルーストとシーニュ』の決定的な追補「アンチロゴスまたは文学機械」の章で述べるように、「アンチロゴス」に依拠しなくてはならない。(ある何ものかの言語化―――中井久夫、プルースト、樫村晴香、バルトなどをめぐって)


意味を発見すべき器官でありオルガノンであるロゴスに対して、機械であり機械装置であるアンチロゴスが対立する。そしてこのアンチロゴスの意味(あなたが望むすべてのもの)は、単に機能のみに依拠するのであり、そしてその機能は、分離された部分に依存する。現代の芸術作品には、意味の問題はない、使用の問題があるだけである。

プルースト自身の言葉も引用してみよう。
……なぜなら、私の興味をひくのは、人々のいおうとしている内容ではなくて、人々がそれをいっているときの言いぶりだからで、その言いぶりも、すくなくともそこに彼らの性格とか彼らのこっけいさがにじみでているのでなくてはいけなかった、というよりも、むしろそれは、特有の快楽を私にあたえるのでこれまでつねに別格の形で私の探求の目的になっていたもの、すなわち甲の存在にも乙の存在にも共通であるような点、といったほうがよかった。そんなもの、そんな点を認めるとき、はじめて私の精神は、突然よろこびにあふれて獲物を追いかけはじめるのだが、しかしそのときに追いかけているものは―――たとえば、さまざまな場所にもさまざまな時にも共通する、ヴェルデュランのサロンの同一性といったものは―――なかば深まったところ、物の表面それ自体からかなたの、すこし奥へ後退したところにあるのであった。そして、それまでの私の精神といえば、たとえ私自身、表面活発に話していても―――その生気がかえって精神の全面的な鈍磨を他の人々に被いかくしていて―――そのかげで精神は眠っていたのであった。したがって、精神が深い点に到達するとき、存在の、表面的な、模写的な魅力は、私の興味からそれてしまうというわけだ、というのも、女の腹の艶やかな皮膚の下に、それを蝕む内臓の疾患を見ぬく外科医のように、もはや私はそのような表面の魅力にとどまる能力をもたなくなるからだった。

さらに。
文字を一連のシンボルと考えてから、初めて表音文字を使用するような民族とは反対の方向に、私の生活の歩みは進んだ。長い年月の間、ひとびとが進んで彼に与える、直接的な発言の中にだけ、ひとびとの真の生活と思想とを探求しようとしていた私は、彼らがそうしないので、真理の理性的で分析的な表現ではないような証拠にだけ重要性を与えるようになった。ことばそれ自体は、困惑したひとの顔の充血のように、あるいはまた突然の沈黙のように解釈されてのみ、私に教えるものがあった。

ここでのプルーストは、すでにラカニアンである。すくなくともフロイト主義者である。このプルーストやドゥルーズの目指すもの、そのままラカンの「サントーム」と近似性があるのかどうかは、わからない。

※前回、「情報」「コミュニケーション」を持ち上げる連中の批判をしたのだが、そうはいっても現代のテクノロジーの達成をまったく無視したらいいわけではない。たとえばかつて柄谷行人は次のように語っている。<創作(ポイエーシス)/説明するということ、あるいはクリエーター/批評家>

人間が作ったものと自然が作ったものの差異はなにかという問いは、それ自体歴史的である。実際この問いが生じるのは、またテクネーの意味が問われるのは、きまってテクノロジーが飛躍的に発展するときである。(……)サンボリストたちの問題意識は、19世紀のテクノロジーに密接に関係するのである。今日において、構造主義は、いうまでもなく、コンピューター・サイエンスの所産である。逆に、現代のテクノロジーに無関係にみえるような哲学者の言説においても、本質的にこの関係が存する。たとえば、ジャック・デリダがアルシエクリチェールについて語るとき、分子生物学が遺伝子をエクリチュールとしてみているという事実の上である。

このことは何を意味するのだろうか。第一に、われわれはもはや伝統的な用語によって語るべきではなく、すくなくとも現代のテクノロジーの達成を前提としておかねばならない。さもなければ、それはわれわれを伝統的な思考の圏内に閉じこめてしまうだろう。だが、同時に、われわれは歴史的な過去に遡行しなければならない。それは、現代のテクノロジーが与えている「問題」が、そのなかで解かれるべきものであるどころか、一つの反復的な症候にすぎないことを知っておくべきだからだ。さらに、もっと重要なことは、われわれの問いが、我々自身の説明できない所与の環境のなかで与えられているのだということ、したがってそれは普遍的でもなければ最終的でもないということを心得ておくことである。

ラカン「四つの言説」から「サントーム」へ、あるいは「文学」の顕揚

まずは、ミレールの直系の弟子Bruce Finkの『臨床ラカン派精神分析入門[A Clinical Introduction To Lacanian Psychoanalysis]』及びその読解より。フィンクの臨床論を読む(1)

【①要求に句読点を打ち、欲望の空間を開く】
聞き手としての分析家の能力は注目に値するものである。分析家は、分析主体の発言を「単なる」要求である以上のものとして絶えず「聞き」つづけることによって、要求の下や、要求の背後に垣間見える欲望の存する空間を開くことができる。実際、第二章で言及したように、分析の極度に重要なゴールは、要求の不変性と固着を通り抜け、欲望の可変性と可動性へと向かうことなのである。つまり、欲望を「弁証法化」することである。
分析は、分析主体の要求する言葉のうちに、欲望を見て取り、欲望の空間を開かなければならない。
欲望の空間を開くためにの技法が、「句読点を打つこと(スカンシオン)」である(ibid., p.15)。文章に句読点を打つことによって、その文章の意味が大きく変わるように、分析主体の発言に句読点を打つことによって、固着した意味から引き離すことができる。


②神託的な解釈が、現実界を叩く】
分析家はスカンシオンによって、分析主体の語る言葉の意味を決定する「大文字の他者」となる。この大文字の他者は、分析主体の要求の言葉のなかから、それ以上のもの(つまり欲望)を取り出すことが出来る。
しかし、分析家はいつまでもこのような「意味の主人」のポジションを占め続けるわけではない。フィンクが言うには、分析家は「解釈」をするときには、大文字の他者としての役割を辞任しなければならない(p.45)
これは、ラカン派の臨床で行われる「解釈」というものの性質のためである。「解釈」とは、分析主体の欲望に対して、噛み砕いた明瞭な意味を与えることでは決してない。解釈は、説明ではないのだ。むしろ、解釈は、オイディプスがデルフォイで得た「神託」のようなもの、つまり謎めいており多義的な「無意味のシニフィアン」を分析主体に与えることである。デルフォイの神託*2を授かったオイディプスのように、分析主体はその謎めいた言葉によって動揺させられる。これが、ラカンがローマ講演で語っていた「解釈の反響[les resonnances de l'interpretation](E289)である。晩年のラカンは解釈の「神託性」についてこのように語っている。
分析経験がオイディプス神話を威厳ある資格で扱うようになっているならば、それはオイディプス神話が神託の言表行為の切れ味[tranchant]を保っているからです。そして、付け加えるなら、解釈はつねに神託と同じレベルにあります。神託とまったく同じように、解釈はその続き[suites]なしには、正しくありません。
解釈は、「はい」や「いいえ」で〔「はい」や「いいえ」という分析主体の反応によって〕決着を付けられるような真理らしさの試験を行うものではなく、そのような真理の鎖をほどく[dechainer]ものです。解釈は、真に続く[vraiment suivie]限りで、正しいのです。(Lacan, S18, 1971/1/13)

ここで、ラカンの『四つのディスクール』の説明を思い出してみよう。

ラカン「四つの言説」  ジジェク)





分析主体の言説は、ヒステリーの言説であるから、つまりは「無意識の主体」から「主人=ファルス」へ向けての言説である。

ヒステリーの言説】
ヒステリー症者の言説は(……)その基本構成要素は、主人に対して向けられる、「どうして私は、あなたが言っているような私なのか」という問いである。
この問いは、ラカンが1950年代の初めに「創始する言葉founding word」と呼んだものに対するヒステリー症者の抵抗として生じる。

「創始する言葉」とは、私に命令することによって、象徴的ネットワークにおける私の場所を規定し確立する、象徴的委託を授与する行為である。「あなたは私の主人です(私の妻です、私の王です、等々)」。この「創始する言葉」に対して、つねに次のような問いが生じる。「私の中のいったい何が私を主人に(妻に、王に)しているのか」。いいかえると、ヒステリー症者の問いは、私を表象しているシニフィアン(社会的ネットワークにおける私の場所を決定する象徴的委託)と、私が「あそこにいる」ことの象徴化されていない剰余との、埋めようもない落差、割れ目の経験を分節表現している。両者の間には深い淵が口を開けている。

象徴的委託は、私の「実際的属性」によって基礎づけることも、それによって説明することも、絶対できない。なぜならその地位は定義からして「遂行文」の地位だからである。ヒステリー症者はこの「存在の問題」を体現している。彼あるいは彼女にとって根本的な問題は、(<大他者>に対して)自分の存在をどう正当化し、説明するか、である。

「主人」は、ヒステリーの主体の言説を、「大文字の他者」のポジションをとって引き受ける。つまりは「要求」として聞き届けた言葉を、言表内容そのままに受けとって応答する。「要求」には句読点は打たれていない(①参照)

【主人の言説】

主人の言説では、あるシニフィアン(S1)が、別のシニフィアン、あるいはもっと正確にいえば他のすべてのシニフィアン(S2)のために主体(S/:斜線のS)を表象する。もちろん問題は、この表象作用の作業が行われるときにはかならず、小文字のaであらわされる、ある厄介な剰余残余、あるいは「排泄物」を生み出してしまうということである。他の言説は結局、この残余(有名な<対象a>と「折り合いをつけ」、うまく対処するための、三つの異なる企てである。


つまり、単に象徴秩序として応答した場合、そこには「意味」の残滓が残る。そこで「知の言説=大学の言説」として、つまり「知」のネットワークを使用して、「欲望に句読点を打つ分析主体の発言に句読点を打つことによって、固着した意味から引き離」そうとする。


【大学の言説】

大学の言説は即座にこの残滓をその対象、すなわち「他者」とみなし、それに「知」のネットワーク(S2)を適用することによって、それを「主体」に変えようとする。これが教育のプロセスの基本論理である。「飼い慣らされていない」対象(「社会化されていない」子ども)に知を植えつけることによって、主体を作り出すのである。この言説の「抑圧」された真実は、われわれが他者に分与しようとする中立的な「知」という見かけの背後に、われわれはつねに主人の身振りを見出すことができるということである。

かくして、ヒステリーの言説の欲望は弁証法化された。だが、そこに留まってはならない。依然、知の言説=大学の言説は、「大文字の他者」あるいは「意味の主人」のポジションにあるのだ。真理の瞬間を垣間見るためには、大文字の他者としての役割を辞任しなければならない。

欲望の空間は開かれた。ここまでは「知識人」の範疇だ、あるいは哲学者、批評家の仕事であり、そんなことは「お勉強家」に任せておけ!

最後の仕上げは、真の「言葉=シーニュ」を奔ばらせることだ。ーーー《「解釈」とは、分析主体の欲望に対して、噛み砕いた明瞭な意味を与えることでは決してない。解釈は、説明ではないのだ。むしろ、解釈は、オイディプスがデルフォイで得た「神託」のようなもの、つまり謎めいており多義的な「無意味のシニフィアン」を分析主体に与えることである。デルフォイの神託*2を授かったオイディプスのように、分析主体はその謎めいた言葉によって動揺させられる。》

まずはネットワークの残滓と同一化することが必要だ。

【分析家の言説】
分析家の言説は主人の言説の裏返しである。分析家は剰余価値の位置を占めている。彼は直接に自分自尊をネットワークの残滓と同一化する。そのため、分析家の言説はその外見よりもはるかに逆説的である。それは、まさしく言説のネットワークから漏れた要素、そこから「脱落した」もの、その「排泄物」として生産されたものから出発して、言説を編み出そうとするのである。

だが、これで果たして「デルフォイの神託」が奔出されることができるだろうか。依然、意味としてのコミュニケーションの領域の内側にいるだけであり、真の核心には届かない。コミュニケーションの円環構造の内部に留まっている。


忘れてはならないのは、この四つの言説の母体は、コミュニケーションにおける四つの可能な位置の母体だということである。われわれはここでは、意味としてのコミュニケーションの領域の内側にいる。これらの用語のラカン的概念化に含まれたあらゆるパラドックスにもかかわらず、いやそれゆえにこそ、そうなのである。
もちろんコミュニケーションは逆説的な円のように構造化されている。その円の中では、送り手は受け手から自分自身のメッセージを反転された真の形で受け取る。つまり、われわれが言ったことの意味を決定するのは、外部にいる<他者>である(その意味で、S1に遡及的に意味を授ける真の主人のシニフィアンはS2である)。

象徴的コミュニケーションにおいて主体間を循環するものは、もちろん今日曲的には欠如・不在そのものであり、その不在が、「ポジティブな」意味が生成される空間を切り開くのである。だがこれらはすべて、意味としてのコミュニケーションの領域に内在するパラドックスである。無意味のシニフィアンそのもの、「シニフィエなきシニフィアン」こそが、他のすべてのシニフィアンの意味が可能になるための前提条件である。忘れてはならないことは、われわれがここで問題にしている「無意味」は意味の領域にとって厳密に内的なものであり、それは内部からその領域を「切断する」ということである。

ラカンの「四つのディスクール」はここまでである。ところが最晩年のラカンは「非・意味」の領域に向かう。
しかしラカンの晩年のすべての努力の目的は、この意味としてのコミュニケーションの領域を突破することである。ラカンは、明確で論理的に純化されたコミュニケーションおよび社会的束縛の構造を確立した後、四つの言説を経て、ある「自由浮遊の」空間の輪郭を描く作業にとりかかった。その空間内では、シニフィアンは言説による束縛、すなわち分節に先行する。それは、社会的束縛という「物語」に先行する「先史」の空間、つまり、言説のネットワークを擦り抜けるある精神病的な核の空間である。このことは、ラカンの『セミネールⅩⅩencore)』に見出される網ひとつの予期せぬ特徴を説明するのに役立つ。その予期せぬ特徴とは、シニフィアンからシーニュ(記号)への移行と同様の、<他者>から<一者>への移行である。This helps us to explain another unexpected feature of Lacan's Seminar XX (Encore): a shift,homologous to that from signifier to sign, from the Other to the One.

最晩年のラカンがジョイスに向かったというのはこのことである。(参照:資料:ラカン「サントーム」、あるいは「症例ジョイス」をめぐって)


「シニフィアンからシーニュ(記号)への移行と同様の、<他者>から<一者>への移行」は、つまりは、ドゥルーズが「プルーストとシーニュ」のなかで叙述した「アンチ・ロゴス」の領域でもある。(ニーチェ「ビタミンC説」補遺)
芸術のシーニュは、われわれに思考することを強制する。このシーニュは、本質の能力の、純粋な思考を作用させる。それらのシーニュは、思考の中で、積極的意志の最も依存しないもの、つまり、思考の行為そのものを始めさせる。(DW)

あるいはプルーストの記述そのものから引用すれば次のようになる。


知性が、明るい光の世界で、はっきりと直接的に把握する真実には、生活が、われわれの知らぬ間に、ひとつの印象の中で伝えた真実よりも、深みと必然性に欠けたものがある。……

知性だけで形成された観念は、論理的真理、可能的真理しか持っていない。そのような観念の選択は恣意的である。われわれによって記されたのではなく、形象化された文字による書物だけが、われわれの書物である。それは、われわれの形成する観念が、論理的に正しくありえないというのではなく、それらの観念が真実かどうかが、われわれにはわからないということなのだ。(プルースト)

もう一度ドゥルーズの言葉を引用する。
ソクラテスは、当然、次のように言うことができる。―――私は、友人である以上に愛であり、恋人である。私は哲学である以上に芸術である。私は、積極的意志であるよりも、しびれなまずであり、強制であり、力である、と。『饗宴』、『パイドロス』、『パイドン』は、三つの偉大なシーニュの研究である。(DW)

つまり、ラカンの「サントーム」とは「しびれなまず」である。

いまさら「文学の顕揚」などしてどうなる、今は、「情報」「コミュニケーション」の時代だよ、という言説がある。つまりは意味の領域での円環を突破することを視野からまったく外してしまったディスクール。

たしかに「物語」が機能する時代は終わったのかもしれない。ロラン・バルトは次のように語っている。(「父」の不在と、物語としての文学の終焉)

「父」の死は文学から多くの快楽を奪うだろう。「父」がいなければ、物語を語っても、何になろう。物語はすべてオイディプースに帰着するのではなかろうか。物語るとは、常に、起源を求め、「掟」との紛争を語り、愛と憎しみの弁証法に入ることではなかろうか。今日、オイディープスと物語が同時に揺らいでいる。もう愛さない。もう恐れない。もう語らない。フィクションとしてのオイディープスは少なくとも何かの役には立っていた。よい小説を作ることの、上手に物語ることの。(ロラン・バルト『テクストの快楽』)

しかし、「しびれなまず」の領域の「文学」「芸術」が終わるわけではない。「情報」「コミュニケーション」に拘るばかりでは、「非・意味」の至高の輝かしさに触れることができるだろうか。

……言葉たるために耐えねばならぬ屈辱的な試練の嘆かわしい蔓延ぶりにもかかわらず、なお「批評」をめぐって書きつがれる言葉でありたいと願う湿った欲望たらしめているものが、言葉そのものの孕む不条理な夢の磁力といったものであり、しかも、その夢の目指すところのものが、言葉自身による「批評」の廃棄というか、「批評」からそれが批評たりうる条件をことごとく奪いつくすことで「批評」を抹殺し、無効とされた「批評」が自分自身を支えきれずに崩壊しようとするとき、かりに一瞬であるにせよ、どことも知れぬ暗闇の一劃に、人があっさり「文学」と呼んでしまいながら究めたこともないものの限界、つまりはその境界線を投影し、かくして「批評」の消滅と「文学」の瞬間的な自己顕示とが同時的に進行すべく言葉を鍛えておきたいという書くことへの背理の確認であるとすれば、誰しも、おのれ自身の言葉の幾重にも奪われているさまに改めて目覚め、書き、そして読むことの不条理に意気阻喪するのもまた当然といわねばならぬ。(蓮實重彦『表層批評宣言』より)


今、文学の顕揚が意味があるとしたら、かくのごとし、である。
そして「文学の顕揚」が時代錯誤である、などという言説は、いまだ小便くさいお勉強家の小僧たちに任せておけばよい。


「ヒステリーのディスクール」、あるいは「サントーム」に続く。

2010年12月16日木曜日

資料:ラカン「性的(無)関係の(非)論理」

http://www.ogimoto.com/ronbun/jack.htmlより(荻本 芳信ブログ)

 「アンコール」第7講、の冒頭で、性差の論理は、まず、量記号を用いた4つの命題式によってしめされる。

とりあえず、ラカン自身の説明を聞いてみよう。

言葉を話す人間であるならば、だれでもこれら左右のどちらかの側に記入されます。左下のは次のことを示しています。すなわち、男根の機能によって、「すべて」としての男性は記入されます。ただしこの機能には限界があります。それはの機能が否定されるひとつのxの存在、つまりによってです。父親の機能と呼ばれているものがそれです。この機能によって否定が付されてといった命題が成立します。は去勢によって、いかなる方法によっても書き込まれることのない性的関係を補足するsuppléerものの活動を支えるのです。「すべて」はそれゆえ、を全面 的に否定するものである項として定められた例外にもとづいているのです。

反対側には語る人間の女性の側の記入がみられます。語る人間はだれでも、フロイト理論はっきり述べられているように、そのひとが男性の属性を有していようといまいと――この属性についても定義づけしなくてはならないでしょうが――この部位 に記入されることが許されます。そこに記入されると、そのひとは、いかなる普遍性をももつことができません。すべてではないpas toutものとなります。に自己を位 置づけるかそうしないかといった選択権を与えられるかぎりそうなのです。
ラカンの4つの式は、伝統的論理学の4つの命題、全称肯定命題(A)、全称否定命題(E)、特殊肯定命題(I)、特殊否定命題(O)のそれぞれに対応するものである。 しかしながらラカンは伝統論理学に修正を施しているのであって、それがかれ独自の表記の仕方として表されているのである。
両者を比較してみよう。

1) 伝統的論理学の関数fonctionを示すfはラカンにおいてはファルスをしめすΦに置き換えられて いる。
2)〔2〕と〔6〕、〔4〕と〔8〕との間には否定を表す―の記号の付され方がことなっている。

1) については次のような説明がなされよう。
フロイトの『ト-テムとタブ-』における原父は、去勢をまぬかれた唯一の男子である().この原父の 存在により、かれ以外のすべてのの男子は去勢を受ける()。去勢の法が効力を持つためには、 いいかえればこの法が普遍的であるためにはこの法のがえ外部にあって、この法をまぬ かえているある存在が必要となるのである。 こうして男性の側の2つの式が導き出される。 否定の記号の付され方は、ここでは、伝統的論理学の場合と同様である。

ついで2)についてであるが、普遍命題 注)に否定がふされる場合、それは法のカテゴリ-に対してでなければならない。においてΦはファルスの法、xはその法が適用される主体であるが、否定は法に対してでなく、 法の普遍性に対して付されるべきである。すなわちである。これは、「ファルスの法が普遍的には効力を持ちえない主体がそんざいする」と読まれる。pas-touteとは「普遍的には……ない」のいみである。いっぽう、_の法そのものが否定される場合、その法を否定する別 の法が規定される。女性 において原父に相当するような「原母」などといったようなものは存在しない。つまり女性の側において、Φの法を否定するような法を具現するものは存在しない。こうしてが導き出される。

注)universaireをここでは全称命題ではなく普遍命題とした。そもそも伝統的論理において「すべて」が普遍と同一視されるところに問題があるのである。 


※ヒステリーの、ヒステリーのための、ヒステリーによる精神分析   (向井雅明) 『imago (イマーゴ)』 Vol.7-8,1996にも同様な説明がある。

2010年12月15日水曜日

フェティシズムをめぐってーーー藤田 博史「人形愛の精神分析」より 

 ◆「人形愛の精神分析」より

男性にとっての指と女性にとっての指は少し意味合いが違うのですが、その元になっているのはやはりペニスです。ただフェティシズムの基本というのは、ペニ スの代わりのものを他のペニスの近辺の部位に求める、あるいはそれに類似の部位に求める。つまり代替物を求めていくのがフェティシズムの基本構造です。

一方女性が指を好き、例えば男性の血管の浮いた指を隙というような表現をしたときは、むしろダイレクトなかたちでのペニスナイトです。ペニスを求める願望です。
ペニスを求める願望というのは、そのままその延長上に子供を求める願望につながっていくのですが、同じペニスであっても、ペニスの置換物なのかあるいはペニスそのものかによって違うようです。

特に女性が自分の手を見てうっとりしているというのは、本来付いていないペニスがそこについていることを発見するわけであって、ペニスを勝ち得た女性の心の中に沸き起こってくる特有の万能間というのか、充実感というのか、それが表現されてます。
その時にアナロジーから言うと、指のかたちと爪の場所を見てみると、まさにペニスと亀頭の部分に相当する。亀頭の部分は色が違う。ひょっとしたら赤く、ある場合によっては光沢を放っているかもしれないということを考えると、われわれは知らないうちに爪の手入れをしているようでいて実は生殖器の手入れをしている、ということは十分ありうるわけです。

鼻は意識的にせよ無意識的にせよ、男性器の「隠喩」とか「換喩」とか、あるいは「象徴」として使われることが多い。
「鼻筋が通る」ということはどういうことかというと、これはとりもなおさず」長いペニスになる」、つまり「興奮した状態のペニスになる」ということです。
いずれにせよ「鼻」は、ひとつのフェティシズムの対象です。「フェティシズム」とは何かというと、本来性器に向かう欲望が、直接性器ではなく性器の代替物によって置き換わっている状態です。
その性器の代理物として用いられるのが「鼻」であり、その他、太腿、ふくらはぎ、足首、脚、靴、靴のかかとのヒールとか、そういうものがフェティシズムの対象として挙げられます。

補足資料:ラカン「女=ファルス」をめぐって

の補足資料である。

ジジェク『How to read Lacan』より(鈴木晶訳p193~)一部、原文を挿入したが、特に意味はない。和訳ですぐさま理解できなかった箇所を原文を参照したまでである。

ラカン的な視点からすると、最も根源的な見かけとは何か。妻に隠れて浮気をしている夫を想像してみよう。彼は愛人と密会するときは、出張に行くふりをして家を出る。しばらくして彼は勇気を奮い起こし、妻に真実を告白するーーー自分が出張に行くときは、じつは愛人と会っていたのだ、と。しかし、幸福な結婚生活といううわべが崩壊したとき、愛人が精神的に落ち込み、彼の妻に同情して、彼との情事をやめようと決心する。

※こういったメカニズムはよくあるパターンであって、愛人の欲望は、他者の所有物への欲望であったに過ぎず、つまりは禁止されていることによる欲望(幸福な結婚生活をしている<男>を愛することは禁じられているので、そのために欲望する)が、実際に実現されそうになると、拍子抜けして、身をひいてしまう。ジジェクは「精神的に落ち込み」などと書いているが、このあたりのことはよくわかっているはずで、ただ論旨・文脈とは違うので、簡便に書いているに過ぎない。以下、上記の引用の続きに戻る。

妻に誤解されないようにするためには、彼はどうすべきだろうか。出張が少なくなったのは自分のもとに帰ってきたからだと妻が誤解するのを阻止するには、どうすべきだろうか。情事が続いているという印象を妻に与えるため、彼は情事を捏造し、つまり二、三日家を空け、実際には男友達のところに泊めてもらわなくてはならない。

これこそが最も純粋な見せかけである。見せかけが生まれるのは、裏切りを隠すために偽りの幕を張るときではなく、隠さなくてはならない裏切りがあるふりをするときである。この厳密な意味において、ラカンにとっては幻想そのものからして見せかけである。

見せかけとは、その下に<現実界>を隠している仮面のことではなく、むしろ仮面の下に隠しているものの幻想のことである。したがって、たとえば、女性に対する男性の根本的な幻想は、誘惑的な外見ではなく、この眼も眩むような外見は何か計り知れない謎を隠しているという思い込みである。
From the Lacanian perspective, what then is appearance at its most radical? Imagine a man having an affair about which his wife doesn’t know, so when he is meeting his lover, he pretends to be on a business trip or something similar; after some time, he gathers the courage and tells the wife the truth that, when he is away, he is staying with his lover. However, at this point, when the front of happy marriage falls apart, the mistress breaks down and, out of sympathy with the abandoned wife, avoids meeting her lover. What should the husband do in order not to give his wife the wrong signal? How not to let her think that the fact that he is no longer so often on business trips means that he is returning to her? He has to fake the affair and leave home for a couple of days, generating the wrong impression that the affair is continuing, while, in reality, he is just staying with some friend. This is appearance at its purest: it occurs not when we put up a deceiving screen to conceal the transgression, but when we fake that there is a transgression to be concealed. In this precise sense, fantasy itself is for Lacan a semblance: it is not primarily the mask which conceals the Real beneath, but, rather, the fantasy of what is hidden behind the mask. So, for instance, the fundamental male fantasy of the woman is not her seductive appearance, but the idea that this dazzling appearance conceals some imponderable mystery.



このような二重の欺瞞の構造を説明するために、ラカンは、古代ギリシアの画家ゼウキシスとパラシオスの、どちらがより真に迫った騙し絵を描くことができるかという競争を引き合いに出す。ゼウキシスはすばらしくリアルな葡萄の絵を描いたので、鳥が騙されて突っつこうとしたほどだった。パラシオスは自分の部屋の壁にカーテンを描いた。訪れたゼウキシスはパラシオスに「そのカーテンを開けて、何を描いたのか見せてくれたたまえ」と言ったのだった。ゼウキシスの絵では、騙し絵がじつに完璧だったので、実物と間違えられたのだったが、パラシオスの絵では、自分が見ているこの月並みなカーテンの後ろには真理が隠されているのだという思い込みそのものの中に錯覚がある。

ラカンにとって、これはまた女性の仮装の機能でもある。女性は仮面をつけ、われわれ男性に、パラシオスの絵を前にしたゼウキシスと同じことを言わせる……「さあ、仮面をとって、本当の姿を見せてくれ!」(……)

男は女に化けることしかできない。女だけが、女に化けている男に化けることができるのだ。なぜなら女だけが、自分の真の姿に化ける、つまり女であるふりをすることができるのだから。

ふりをするという行為がひたすら女性的な行為であることを説明するために、ラカンは、自分がファルス(男根)であることを示すために作り物のペニスを身につけている女性を引き合いに出す。

ーーーこれがヴェールの背後にいる女性です。ペニスの不在が彼女をファルス、すなわち欲望の対象にします。この不在をもっと厳密に喚起すれば、つまり彼女に、仮装服の下に可愛い作り物のペニスをつけさせれば、あなたがたは、いやむしろ彼女はきっと気に入るにちがいありません。(エクリ)

この論理は見かけ以上に複雑である。それはたんに、偽のペニスが「真の」ペニスの不在を喚起するということだけではない。パラシオスの絵の場合とまったく同じように、偽のペニスを見たときの男の最初の反応は、「そんな馬鹿げた偽物は外して、その下にもっているものを見せてくれ」というものである。かくして男は偽のペニスが現実の物であることを見落としてしまう。女が「ファルス」であることは、偽のペニスが生み出した影、つまり偽のペニスの下に隠されている存在しない「本物の」ファルスの幽霊である。まさしくその意味で、女性の仮装は擬態の構造をもっている。というのも、ラカンによれば、擬態(物まね)によって私が模倣するのは、自分がそうなりたいと思うイメージではなく、そのイメージがもついくつかの特徴、すなわち、このイメージの背後には真理が隠されているということを示唆しているように思われる特徴である。パラシオスと同じく、私は模倣するのは葡萄ではなく、ヴェールである。「擬態は、背後にあるそれ自身と呼びうるものとは異なる何かを明らかにするのです」(エクリ)。ファルスの地位そのものが擬態の地位である。ファルスは究極的に人間の身体にくっついているいぼみたいなもので、身体にふさわしくない過剰な特徴であり、だからこそそのイメージの背後には真理が隠されているという錯覚を生むのである。
a man can only pretend to be a woman; only a woman can pretend to be a man who pretends to be a woman, as only a woman can pretend to be what she is (a woman). To account for this specifically feminine status of pretending, Lacan refers to a woman who wears a concealed fake penis in order to evoke that she is phallus:
Such is woman concealed behind her veil: it is the absence of the penis that makes her the phallus, the object of desire. Evoke this absence in a more precise way by having her wear a cute fake one under a fancy dress, and you, or rather she, will have plenty to tell us about. [7]

The logic is here more complex than it may appear: it is not merely that the obviously fake penis evokes the absence of the ‘real’ penis; in a strict parallel with Parrhasios’ painting, the man’s first reaction upon seeing the contours of the fake penis is: “Put this ridiculous fake off and show me what you’ve got beneath!” The man thereby misses how the fake penis is the real thing: the “phallus” that the woman is, is the shadow generated by the fake penis, i.e., the spectre of the non-existent ‘real’ phallus beneath the cover of the fake one. In this precise sense, the feminine masquerade has the structure of mimicry, since, for Lacan, in mimicry, I do not imitate the image I want to fit into, but those features of the image which seem to indicate that there is some hidden reality behind. As with Parrhasios, I do not imitate the grapes, but the veil: “Mimicryreve als something in so far as it is distinct from what might be called an itself that is behind.” [8] The status of phallus itself is that of a mimicry. Phallus is ultimately a kind of stain of the human body, an excessive feature which does not fit the body and thereby generates the illusion of another hidden reality behind the image.


最後にジョン・リヴィエール(Joan Riviere)「仮装としての女性性」
    Womanliness as a Masquerade(1929),International Journal of Psycho-Analysisの結論部分だけ引用しよう。この論文は当面、未公開となっており、「東京精神分析サークル」HPから会員用のパスワードを取得することで読むことができる。http://psychanalyse.jp/translation-list.htmlri
リヴィエールは、のちにメラニー・クラインなどによって発展される「対象関係」論者のさきがけであり、ラカンは全面的に、この論に賛同しているわけではない。女性性を考える上での、あくまで参考資料である。
明らかになったのは以下のようなことである――彼女は、彼女が至上のものとなり、彼女に害が及ぼされないような状況を幻想のなかで作った。そして、その幻想を作ることによって、彼女は、両親の両方に対しての彼女のサディズム的激怒から帰結する耐え難い不安から自分自身を守ったのだ。この幻想の本質は、両親-対象に対する彼女の卓越性である。それによって、彼女のサディズムが満足させられ、彼女はそれに打ち勝つことが出来た。この卓越性はまた、彼女が両親の復讐を避けることを成功させる。このために彼女がとる手段は、彼女の反応形成と敵対性の隠匿である。このようにして彼女は自らのエス衝動とナルシシズム的自我、そして超自我を同時に満足させることが出来た。幻想は彼女の人生と生活全体の原動力であり、完璧を目指すことを通してそれを成し遂げるという狭い余白に入りこんだ。しかし、この幻想の弱点は誇大妄想的な性格であり、すべての見かけの下で卓越性を必要とする性格である。もし、分析の途上でこの卓越性が真剣に動揺させられたなら、彼女は不安の深遠に陥り、激怒と絶望的なうつ状態になる。つまり、分析の前に病気になってしまうのである。
アーネスト・ジョーンズの同性愛女性のタイプについて一言いっておこう。このタイプの女性の目的は男性に自分の男性性を「承認」してもらうことである。このタイプにおける承認の欲求は、私が記述した症例と違った風に作動している(演じられた任務の承認)としても、同じ欲求の機制と繋がっているのだろうか、という問いが浮上してくる。私の症例ではペニスを所有していることの直接的な承認がはっきりと主張されたわけではなかった。それはペニスの所有がそれらを可能にすることを通してのみ、反応形成を求めた。それゆえ、間接的に、承認はそれでもなおペニスを求めてのことなのである。
この間接性は彼女のペニスの所有が「承認されないように」、言い換えれば「見つからないように」するためだと理解することが出来る。私の患者はペニスを所 有していることを男性に承認してもらうことを公然と求めることにはあまり不安を持っておらず、アーネスト・ジョーンズの諸症例のように、このような直接的 な承認が欠けていることを実際はひそかにひどく嫌がる。ジョーンズの諸症例においては、原初的サディズムがより満足を得ていることは明らかである。つま り、父親は去勢され、自分の欠点を認めすらしている。しかし、これらの女性たちは、どのようにして不安を避けたのだろうか? 母親〔からの報復の不安〕に ついて考えれば、これは当然、母の存在を否定することによってなされる。私が行った諸々の分析の示唆から判断するなら、以下のように結論できる。第一に、 これは原初的なサディズム的要求の移動[displacement]に過ぎず、欲望された対象、つまり乳首、ミルク、ペニスがたちどころに諦められること になる。第二に、承認の欲求は概して赦免の欲求である。いまや母親が辺獄へ追いやられる。つまり、母親との関係はまったく不可能になる。母親の存在は否定 されるために現れるが、母親の存在が恐れられすぎているということが真実である。それゆえ、両親に勝利したことの罪は父親によってのみ赦される。もし父親 が彼女のペニスの所有を認め、認可するならば、彼女は安全である。彼女に承認を与えることによって、父親は彼女にペニスを与え、しかもそれは母親に与える のではなく、その代わりに彼女に与えるのである。彼女はペニスを持つのであり、また持っていてもかまわないのであり、それで全て順調なのである。「承認」 とはつねにある部分、自信回復[reassurance]であり、認可[sanction]であり、愛[love]である。さらにすすんで、承認は彼女を再び至上のものにする。父親がそのことをあまり知らずとも、彼女に対して男性は自分の欠陥を認めることになる。その内容において女性の父親への幻想-関 係は通常のエディプスのそれと似通っている。違いは、それがサディズムという基盤の上に置かれていることである。彼女は母親を実際に殺害したが、それに よって彼女は母親が持っていたたくさんの楽しみから除外されてしまう。そして、それでも彼女は父親から得るものを大いに巻き上げ、引き出す。


……これらの結論は、さらに以下の問いを強いることになる。完全に発達した女性らしさ[femininity]の本質的性質とはなんであろうか? das ewig Weibliche(永遠の女性)とは何か? マスクとしての女性性[womanliness]という概念は、その背後に男性が隠された危険を想定するものであり、謎にわずかな光をあててくれる。

ヘレーネ・ドイチュやアーネスト・ジョーンズが述べたように、完全に発達した女性性は口唇-吸乳期[oral-sucking stage]に発見できる。その原初的秩序の満足は唯一、(乳首、ミルク)ペニス、精液、子供を父親から受け取ることの満足である。それ以外では、満足は諸々の反応形成に依存している。「去勢」の受け入れ、謙虚さ、男性への尊敬は、口唇-吸乳的平面の対象の過大評価からやってくる部分もあるが、主となるのは、後の口唇-噛みつきレベル[oral-biting level]に由来するサディズム的な去勢願望の断念(強度の低下)である。「私はとってはいけない、頼まれたとしてもとってはいけない、それは私に与えられたに違いないのだから」 自己犠牲、献身的愛情、自己否定の能力は、母親的人物、あるいは父親的人物に、彼らからとったものを返済し回復しようという努力を表現している。これはまた、ラッド(5)が高い価値を持つ「ナルシシズム的保護手段[narcissistic insurance]」と呼んだものである。

完全な異性愛への到達がいかに性器性欲と同時に発生するかが明らかになった。もう少し進むなら、アブラハムが初めて述べたように、性器性欲はポスト-アンビヴァレント状態への到達という意味を含んでいる。「正常な」女性と同性愛者の両方が父のペニスと欲求不満(あるいは去勢)に対する反抗を欲望している。しかし、「正常な」女性と同性愛者の違いの一つは、サディズムの度合いと、サディズムが二つのタイプの女性に引き起こす不安とサディズムとの両方を取り扱う力の度合いにある。

※参照:すこし文脈は違うが、ジジェクの同じ「How to read Lacan」よりの引用を付加する。
紳士面した似非フェミニストの<あなたたち>に捧げる。

女性に対する性的嫌がらせについて、男性が声高に批難している場合は、とくに気をつけなければならない。「親フェミニスト的」で政治的に正しい表面をちょっとでもこすれば、女はか弱い生き物であり、侵入してくる男からだけではなく究極的には女性自身からも守られなくてはならない、という古い男性優位主義的な神話があらわれる。

フェミニストを装う男性優位主義者にとって、問題は、女性は身を守れないだろうということではなく、女性は性的嫌がらせを受けることで過剰な快楽を覚えるだろうということだ。男性の侵入が、女性の内部で眠っていた、過剰な性的快感の自己破壊的な爆発を引き起こすのではないかというのである。要するに、さまざまな嫌がらせへのこだわりには、いかなる種類の主体性概念が含まれているかに注目しなければならないのである。
「ナルシシスト的」主体にとっては、他者のすること(私に声をかける、私を見る、など)はすべて潜在的に脅威である。かつてサルトルが言っていたように、「地獄、それは他者である」。侵害の対象としての女性についていえば、彼女が顔や体を覆えば覆うほど、われわれの(男性的)視線は彼女に、そしてヴェールの下に隠されているものに、惹きつけられる。タリバーンは女性に、公の場では全身を覆って歩くことを命じただけでなく、固い(金属あるいは木の)踵のある靴をはくことを禁じた。音を立てて歩くと、男性の気を散らせ、彼の内的平安と信仰心を乱すからという理由で。これが最も純粋な余剰享楽の逆説である。対象が覆われていればいるほど、ちょっとでも何かが見えると、人の心をそれだけ余計に乱すのである。

ということで、私は、「覆えば覆うほど」を、決して「規制すれば規制するほど」などと読み替えるつもりはない……。あるいは「現実に性的暴力」が頻発しているのに何を呑気なことをいっているのか」という反論に対して、たとえば強姦などは性的欲望の問題ではない、支配欲、権力欲の問題であるなどという「常識的な」見解を述べるつもりもまったくない。さらに言えば中井久夫の「いじめの政治学」などを持ち出して、セクシャル・ハラスメントの別の様相をさらに叙述するつもりなど毛頭ない……。


※参考資料:
1、ラカンの『ファルスの意味作用』母の去勢、女の見せびらかし、男の浮気癖などをめぐって
3、マルクス「貨幣のフェティシズムに取り付かれた人々、それこそが資本家であり、最大の癌である。資本家の欲望は尽きることがない。いくら儲けても決して尽きることがないのだ。その欲望は恐ろしいほどの底なし沼」

※追加 貨幣のフェティシズムと、主体のフェティシズムの関連は、ここに詳しい。


ラカン「女=ファルス」をめぐって



【母が欲望するファルスへの欲望】
……両性の相互的な位地にたどりつくために男性から始めるならば、ファルス=少女――この等式はフェニケルによって賞賛に値する、しかし手探りなや り方によって提出されたものです――がウェーヌス山において増殖し、男性が自分のパートナーを構成する「あなたは私の妻だ」を超えたところに位置づけられ ることを理解しましょう。すなわち、主体の無意識から再び現われるものは<他者>の欲望、つまり<母>が欲望するファルス〔への欲望〕である、ということ がここで確かめられているのです。
それ以後、現実のペニスが――なぜなら現実のペニスは女性の性的パートナー〔である男性〕に属していますから――女性を二つとない愛着 [attachement]にささげるかどうかを知るという問題がおこります。しかし、その問題は、ここで自然に起こってくると推定される近親相姦的欲望 を除去する効果を生じさせることはありません。

※ラカンにとって、両性とも、その原初的欲望は、母の欲望、あるいは母における欲望であり、それはつまりファルスであって、男女とも、ファルスへの同一化がおこる。

母親の欲望とは子どもが母親にたいして持つ欲望という客体的意味もあるが、それよりもまし母親の持っている欲望という主体的な意味が決定的である。母親はまず欲望を持っている者とされるのだ。そして人間の欲望は他者の欲望であるという定式から、子供にとって他者はまず母親であるから、子供の欲望は母親の欲望、つまり母親を満足させようという欲望となる。母親の前で子供は母親を満足させる対象の場にみずからを置き母親を満足させようとする。つまり母親のファルスとなる「ファルス」と「享楽」をめぐって (向井雅明)


【女性への崇拝の覆い=ファルス】
なぜ以下のようなことを認めないのでしょうか? じっさい、去勢が捧げない男らしさはないとすれば、それは去勢された愛人 [amanta]か死んだ男(あるいはその二つの混ぜ合わせ)であり、女性にとってその男性は、女性の崇拝[adoration]を呼びおこすために覆い の後ろに隠れています。すなわち、本当は女性には係わりのない去勢が女性にやってくる源泉である母親の同類[semblable]の彼岸の同じ場所から男 性は呼びかけているのです。
このように、抱擁に似た受容性はペニスについての鞘のような感受性に移動させられなければならないということは、この理念的インキュバスのためなのです。
これは、女性が行うであろう(欲望にささげられた対象としての女性の身の丈に応じた)想像的同一化のすべてによって、つまり幻想を下支えするファルス的原器[etalon]との想像的同一化のすべてによって邪魔されます。
〔女性の〕主体が純粋な不在と純粋な感受性のあいだに捕らわれている自分を発見する「あれかこれか[ou bien-ou bien]」の位地において、私たちは欲望のナルシシズムがそのプロトタイプである自我のナルシシズムと関係があるということに驚いてはいけません。
このような巧妙な弁証法によって取るに足りない存在[etres insignifiants]が住まわれているという事実は、分析が私たちに慣れ親しませてくれるものであり、自我のささいな欠点はその平凡なことであるということがそれを説明してくれます。

※ジジェクによれば、男は女に化けることしかできない。女だけが、女に化けている男に化けることができる。なぜなら女だけが、自分の真の姿に化ける、つまり女であるふりをすることができる。
女の同性愛は倒錯的ではなく、男の同性愛だけが倒錯である、とラカンが仮定するのも、このことであろう。資料:「ファリック・マザー」「仮装」「同性愛」などをめぐって  (ラカン)参照。たとえば、ミレールの指摘。

「私 たちがA/(斜線を引かれた<他者>)と書くとき、A(<他者>)は去勢されています。そして、この意味において倒錯は去勢についての恐怖、本質的に<他 者>の去勢についての恐怖であると言えるでしょう。このために、女性の同性愛は特にパラドキシカルなのです。なぜなら、女性の同性愛においては、器官の不 在〔=ペニスの不在〕が、愛の条件として機能しているからです。これが、ラカンが女性の同性愛が倒錯であると認めるのをためらう理由です。女性の同性愛 は、倒錯的満足の領野より、むしろ愛の領野に構成されています。」("On Perversion", in Reading Seminar I and II, p.317)

ラカンのこのあたりの議論は、ラカンが再三引用する、ジョーン・リヴィエール「仮装としての女性性」に示唆を受けているはずだ。バトラーもこの論文を引用してはいるのだが、ラカンの解釈とは異なっているようにみえる。

 【秘儀のシニフィアンの覆いをとる役割としての女性】
キリストの姿は、この観点からいっそう昔の他者の姿を呼びおこし、主体の宗教的忠義[allegeance]が含んでいるものより広大な 審級[instance]を担っています。そして、もっとも隠されたシニフィアン、つまり秘儀[Mysteres]のシニフィアンの覆いを取ること [devoilement]は女性に割り当てられた[reserve]ことである、ということを指摘しておく価値があります。

いっそう俗っぽい水準で、私たちは以下のことを説明することができます――a)主体の二重性[duplicite]が女性では隠されていると いう事実、パートナーの隷属が男性を特に去勢の犠牲者を代表しがちにさせるだけにこれはなおさらです、b)<他者>が誠実であること[fidelite] の要請[exigence]が女性に特別の特徴となっていることの真の動機、c)女性がこの要請を、自分自身の誠実を前提にした議論によっていっそう正当 化しているという事実。

※人類の罪を自分の身に引き受け無実のイエス・キリストをラカン的に解釈し直すとどうなるか。ここでもジジェクの解釈を引用しよう(Looking awryp151)。
罪人たちの罪を引き受け、その贖罪をするということは、罪人たちの欲望を自分のもとと認めるということである。キリストは他者(罪人)の場所から欲望するーーーこれが彼の罪人への共感の基盤である。
リピドー経済という面からみて、もし罪人が倒錯者だとしたら、キリストは明らかにヒステリー症者だ。なぜならヒステリー症者の欲望は他者の欲望である。言い換えれば、ヒステリー症者について発せられる問いは、「彼/彼女の欲望の対象は何か」ではない。真の謎が表現されているのは、「彼/彼女はどこから欲望しているのか」という問いである。したがって、明らかにしなければならないのは、自分自身の欲望に同意できるためには、ヒステリー症者は誰に自分を同一化しなければならないか、である。

補足資料:ラカン「女=ファルス」をめぐって

2010年12月14日火曜日

ドゥルーズによるベルクソンのイマージュ論概説をめぐって  (前田英樹)


ドゥルーズは『シネマ』の第一巻のなかで、おおよそ次のように語っている。『前田秀樹「悟性と感性の「性質の差異」について』(「批評空間」1996Ⅱ―9)より、一部編集

【伝統的な哲学】
哲学にとって、光は精神の側にあるもので、意識と呼ばれるものは、さまざまな事物をそれらが本来住んでいる暗闇から引き出してくる光の束である。意識という内面の光が。外側の暗闇に潜んでいる事物を照らし出す。

ドゥルーズによれば、現象学でさえこうした考えに哲学的伝統には忠実だったのであり、ただ現象学はかつて内面性の光とされていたものを、まるで電灯の光線のようにすべて外側に向けて開いていったに過ぎない。

【ベルクソンの哲学】
これに対して、ベルクソンは、事物というのはどんな光によって照らされているわけでもない、すでにそれ自体が光なのである、と。では意識とは何かというと、この光を屈折させ、停止させ、遮断するもの、言わば光にとっての障害物にほかならない。事物のイマージュは、意識の光によって照らし出されて浮かび上がるのではなく、意識をとおした光の屈折や遮断によって、つまり光の部分的な否定によって視えるものとなる。

前田氏は、このようなドゥルーズのベルグソンの叙述にたいして次のようにコメントしている。
こんなふうに語ることに何の意味があるかと言いますと、これはまず哲学が認識論において抱えてきたさまざまなアポリアから、私たちを一気に離脱させ、それらと無関係にさせつ効果を持つと言える。このアポリアとは、最も基本的には、主体によって認識させる事物のイマージュもしくは表象と、対象である事物それじたいとのあいだには、どのような関係があるか、という問いにかかわるものです。
極端な観念論は、主体によるイマージュの形成が在ることしか認めないし、極端な実在論は、そのイマージュが実在する事物とはまったく無関係な主観的ないしは身体的な現象でしかないと主張する。

つまり認識論上のアポリアの中心は、事物の現象やイマージュと、主体の外にある事物との対応関係、あるいは一致をどのように見出し、説明するかにあるのだが、ベルクソンの考え方は。最初から、知の知覚のイマージュは事物の側にあり、事物の物質的な一部分(制限された光)とするわけである。だから、

……ふたつのものの対応や一致を説明する必要はどこにもない。一切は物質の次元で起こっていることです。この場合、説明しなくてはならないのは、知覚する身体が事物の全体を制限するそのやりかたのほうになります。

ここでベルクソンが行っている説明は有名なものです。知覚は哲学が考えてきたような純粋認識ではなく、身体が一定の「運動図式」によって起こそうとする行動の可能的な素描にすぎない。この素描は、一方では身体が有用な行動をめざして準備する「運動図式」を表現していますが、他方ではその図式によって限定され、縮減された物質それじたいを示しています。身体の運動図式は、知覚のイマージュを言わばその否定面において説明しますが、その同じイマージュは、縮減された物質の即自存在として、完全に肯定されるものとなるわけです。

ベルクソンのこうしたイマージュ論には、ドゥルーズ的なマテリアリズムのおそらく最初の源泉があります。