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2014年9月30日火曜日

「正義とは不快の打破である」

蓮實重彦)僕は非常に影響を受けやすい人間だと思う。というより、どちらかというと物真似がうまくて、いわゆるバスティッシュは他人にひけをとらないつもりです。たとえば、バルトの模倣で一冊の本は書けるだろうし、ヤコブソンの模倣で言語学の論文を一つ書きあげる自身があるのです。吉本隆明の詩も一晩で二、三篇は書けますね。事実、一度やってみて自分でこわくなって捨てちゃったけど、絵の方でいう贋作の才能があるんです。いわゆるアカデミックな学術論文だって、アカデミズムの連中よりずっとうまく書けるという自信がある。僕はボルヘスをつまらないと思うのは、ボルヘスよりうまくボルヘス的な短篇が書けちゃうからなんです。だから、モデルということになると、僕には無限にある。文体を模倣するんじゃあなく、言葉の生き方においてそっくりになっちゃうということです。だから逆に、影響ってことに関しては非常に厳しいし、また意識的だといえる。たとえば、デリダは絶対に真似もしないし、影響も受けていない。先ほどいったフーコー的な不快さという点からすると、デリダの文章は不快なんです。(柄谷行人との対談集『闘争のエチカ』PP.200-201)

元東大総長が、1988年にこんなことをオッシャッテイル。
バルトやヤコブソン、吉本隆明やボルヘスの話は
ここでは、いったん聞かないふりをするとしても、

ーーいや、少しだけ思いを馳せれば、
これはツイッターで拾って出典は明らかでないのだが

私は小説作品として(「探究」シリーズを)読んでいる。彼(柄谷行人)は『探究Ⅱ』を、デカルトとスピノザと3人で書いている。しかも、ワープロを使って。(蓮實重彦)

などともオッシャッテイルようだ。
これはデカルトとスピノザのパクリといっているわけではなく
テクストは「引用の織物」なのであり、

(もちろん「引用の織物」の捕捉はあるから、文句言う前に
リンク先読んどいてくれよな)

またテクストは「小説」のように読まなくちゃいけない
と言っているはずだ。
すなわちこういうことだろう、

ここにあるいっさいは、小説の一登場人物によって語られているものと見なされるべきである。(『彼自身によるロラン・バルト』)

ただし『闘争のエチカ』の発言と並べて読むと、いっそう「興味深い」ねえ
なにが「興味深い」のは敢えて書かないでおくけど


ところで、《いわゆるアカデミックな学術論文だって、
アカデミズムの連中よりずっとうまく書けるという自信がある》
などという言明は、
学術論文(すくなくとも人文系の)などほとんど贋作にすぎない、
と言っていることにならないか?


いやいやオレは門外漢で、そんな失礼なことはケッシテ言わない。
きっとオリジナリティいっぱいの「学術論文」はたーくさんあるんだろ

《あらゆる『創造』の九九パーセントは、音楽であれ思想であれ、模倣だ。窃盗、多かれ少なかれ意識して》(ニーチェ 遺稿)

ニーチェ以上のオリジナリティのね

ーーで、最近の「剽窃」談義というのはなんだろう、学者先生のみなさん!
あれは、コピペを禁止しているだけなんだろうか。

たとえば「優雅な置き換え」ってあるよな
それはもちろん許しちゃうということだろうか

これは学術論文ではないのだが
大澤真幸のジジェクの優雅な置き換えってのは、
学術論文の世界では許されるのだろうか

ジジェクの『斜めから見る』を優雅に置き換えているサンプルはここにある
論文指導要項そのⅠ:「コピペはやめて優雅に置きかえなさい」

さてここでの文脈とはまったく”関係なしに”、次の文をも引用しておこう。

畏れのなさからくるはしたなさは、あるときそれが一人歩きして、見なくとも語れるという安易さをあられもなく肯定してしまう。ジジェクも陥っているその無惨さについては、加藤幹郎が『「ブレードランナー」論序説』で厳しく批判していますが、ジジェク派というかその無邪気なエピゴーネンは、できればものなど見ずにやりすごしたい人類の思惑と矛盾なく共鳴しあってしまう。ジジェクに騙される連中は馬鹿として放っといていいと思っているんですが・・・・・(蓮實重彦『新潮』2005年5月号より

…………

などということが書きたいわけではない。

実はすこしまえ野間易通にかかわるなかで「正義」などという語彙を
口にしてしまったので、次の文を探していただけだ。


蓮實)僕にとってのフーコーの偉大さは、彼が知識人でありながら、生涯を通じて、何ひとつ指針らしいものを残さなかったことに尽きています。共同体に受け容れられるような行動の方針は一つも示さなかった。ただし、一貫して一つの闘争を戦いぬいていたのであり、そのことが指針といえばいえるかもしれない。それは何かというと、彼の戦いが、不快なものをめぐって、ただその一点をめぐって展開されたという点です。彼は、社会的な不正に対して正義の立場から戦ったのではない。ましてや、社会的な不正に対して戦う義務感など持っていなかった。僕の驚きは、正しくないことに対して批判を加えるべきだという知識人的な郷愁の徹底した不在です。たとえば、それをサルトルと比較してみれば明らかでしょう。サルトルの倫理は、彼の正義の理念と切り離しえない。

不快さに対するフーコー的な戦いというのはまったく理不尽なものです。彼は、監禁という状態が不快であるからこれを論じ、これと戦う。不正に対して正義の反抗を試みているわけじゃあない。だから、フーコーを論じる日本人の多くが、彼の社会的な行動に一つの指針を見ているけど、そんな愚かな話はない。彼のコメニイ擁護なんて理不尽そのものでしょう。しかし、あれはまったく政治的なものではなく、快=不快の原理だけの問題なのです。だから、それを全体化するとまったく役に立たない。その意味じゃあ、フーコーは知識人的ではないわけです。

僕が一番好きなフーコーの書物は『知の考古学』だけど、あれは徹底した不快さへの戦いですよね。言説という現実をめぐって世間一般に行きわたっている無感覚に対する不快感の表明以外の何ものでもない。またそうした不快感なしに何ごとかを論じうる人々への不快感の表明でもあるでしょう。フーコーの倫理は、その不快さに対する戦いからくるから、理不尽であり、無責任である。つまり全体化された理論には絶対にならない。そのかわり、柄谷さんのいう「生きながらの積極性」といったものが言葉にみなぎるわけです。フーコーを論じる日本人の言葉に、この不快さに対する戦いが見えますか。感じられないでしょう。それは、不快さに対する戦いを不正に対する戦いに利用しようとするさもしい根性が働いているからです。だから、フーコーの倫理を素通りしてしまうのだし、そのことで自分が何を失っているかにも無自覚なのです。不快さに対する戦いの倫理性は理不尽でありながらも自分を実験台にするという積極性を持っている。(『闘争のエチカ』P197

やっぱり、「正義」じゃなくて「不快さ」なんじゃないか、出発点は。
どうだい? ロールズの『正義論』やら
デリダの「脱構築の正義」が好きな政治学の先生たちよ



◆ナンシー・フレイザー「正義〔正しさ〕について――プラトン、ロールズそしてイシグロに学ぶ」

正義〔正しさ〕は、さまざまな徳〔よい特質〕のなかでも特別な地位を占めています。 はるか古代、しばしば正義は徳の主人、つまりそれ以外の徳すべてを秩序づける唯一の徳 だと考えられていました。プラトンにとって、正義とはまさにこの支配的な地位にありま した。彼は『国家』のなかで次のように説いています。一人の人間の中には、魂の三つの 部分――理性、精神、欲求――とそれぞれに関係する三つの徳――知恵、勇気、節制―― があり、それぞれが互いと適切な関係を保っている。社会における正義も同じようなもの だ。社会では、それぞれの階級が、他の階級の邪魔をすることなく、それぞれの性質にふ さわしい仕事をこなすことで、それぞれの階級独自の徳を行使している。知恵と理性にあ たる階級は統治にたずさわり、勇気と精神にあたる階級は軍事にたずさわり、残りの部分、 つまり特別な精神や知性はないが節制にすぐれている階級は農業や単純作業にたずさわる。 正義とは、こうした構成要素の間に調和がとれていることなのだ、と。

 現在のほとんどの哲学者は、プラトンの視点を細かな点で否定しています。それぞれ全 く違う生活をおくる永続的な統治階級、永続的な軍事階級そして永続的な労働者階級の三 つにがっちりと階層化している、これが正しい社会だ、などと信じている人は今日では皆 無でしょう。ただし、多くの哲学者は、プラトンの次の思想は受け入れます。すなわち、 正義は多くの徳のうちの単なるひとつではなく、徳の主人、あるいは超越的な徳として特 殊な地位にあるのだ、という思想です。この構想の一つのバージョンが、ロールズの執筆 した『正議論』にあらわれています。その本でロールズは、「真理が思考体系にとって第 一の徳であるように、正義は社会制度にとって第一の徳である」と述べています。そ こで彼が言わんとしているのは、正義が最上級の徳であるということではなく、むしろ、 正義はそれ以外の徳すべてを発展させる基礎を保障する、根底的な徳であるということな のです。理論的には、さまざまな社会編成からさまざまな徳を見つけることができます― ―例えば、その徳は効率的であることだったり、秩序的であることだったり、調和的であ ることだったり、ケア的であることだったり、高貴であることだったりするかもしれませ ん。しかし、そうした徳を実現できるかどうかは、ある前提条件、すなわち、そこで問題 となっているその社会編成が正しい〔正義にかなっている〕という前提条件にかかってい ます。したがって、正義とは次の意味で第一の徳であるといえます。すなわち、それ以外 の徳が社会的にも個人的にも発育できるだけの肥えた土壌を私たちが作ろうと思った場合、 そもそも構造化された不正義を打倒することによってしかそれは為し得ないのです。

 私の見立てどおり、ロールズのこの考えが正しいとすれば、そこでの社会編成を評価す ること、これが私たちの問うべき最初の問題となります。すなわち、その社会編成は正し いのか?と。それに答えるには、ロールズの別の知見が参考になるでしょう。すなわち、 「正義の第一の主題は、社会の基礎構造である」。この文章は私たちの関心を、社会生活 についてすぐ思い浮かぶような雑多な特徴から離れさせ、それらの根底にある文法原理へ と向かわせます。文法原理というのは、社会活動の基本的な語られ方〔言葉の用いられ 方〕を定めている制度化されたグランド・ルール〔社会の土台にある規則〕のことです。 このルールが正しく秩序立てられている場合にのみ、その他のより直接に体感できるよう な日常生活の側面も正しくなれるのです。確かにロールズの正義に関する見方は、――プ ラトンのそれと同様に――問題がないとはいえません。正義というものをもっぱら配分的な関係のなかで判断できるとする考えは、「原初状態」という道具立てと同様に、窮屈す ぎます。とはいえ、本論との関係では、正義を検討するにあたっては社会の基礎構造に焦 点をあてるべきだ、というロールズの考えに依拠することにします。このアプローチにつ いて説明し、その威力をお伝えするため、カズオ・イシグロの小説『わたしを離さない で』を取り上げたいと思います。

本書はどのような洞察を私たちに示してくれているのでしょう? その最も重要なもの は、正義についてその否定を通じて考えさせるという点です。プラトンとは違い、イシグ ロは何らかの正しい社会秩序というものを提示しようとはしません。そのかわりに、これ は絶対に正しくないと読者が考えるようなひとつの社会秩序を冷徹に描き出します。これ が重要なポイントの一つです。つまり、正義〔正しさ〕をじかに体験することは決してで きないということです。反対に、私たちは不正義を体験しますし、むしろその体験を通じ てしか、正義という考えを形作ることができないのです。不正義だと思われるものの性質 をしっかり見定めることからしか、そのオルタナティブへの感覚を得ることはできません。 不正義を打倒するものが何かをじっくり考えるときにしか、さもなくば抽象的になりがちな私たちの正義概念に具体的な内容を盛り込むことはできません。したがって、「正義と は何ぞや?」というソクラテスの問いには、こう答えることができます。正義とは、不正義の打破である、と。

《正義とは、不正義の打破である》とあるな
優雅に置き換えて、「正義とは不快の打破である」としておくよ


で、ヘイトスピーチやネオナチってのは、
「正義論」教えている学者センセは「不快」じゃないのかねえ
寡聞のせいか、彼らはこの場に及んでも、オトナシイように見えるのだけど

人が何ごとかを語るのは、そのことが生起しつつある瞬間から視線をそらせるためである。(蓮實重彦『物語批判序説』)
人がかくも熱心に言葉をとり交し合って止まないのは、背後にさし迫った沈黙の深淵を忘れるためではなかったか? (浅田彰『構造と力』)

まさか「正義」を語るのは、不正義が生起しつつある瞬間から視線をそらせるためじゃないだろうな。



※附記:デリダの「正義としての脱構築」をめぐるジジェクのコメント。

Even Derrida's notion of “deconstruction as justice” seems to rely on a utopian hope which sustains the specter of “infinite justice,” forever postponed, always to come, but nonetheless here as the ultimate horizon of our activity.
In Derrida, this logic of totalizing exception finds its highest expression in the formula of justice as the “indeconstructible condition of deconstruction”: everything can be deconstructed—with the exception of the indeconstructible condition of deconstruction itself. Perhaps it is this very gesture of a violent equalization of the entire field, against which one's own position as Exception is then formulated, which is the most elementary gesture of metaphysics.(ZIZEK”LESS THAN NOTHING”)

だからといってローティのプラグマティズムがいいわけでもないようだな。

ジジェクは、「マルクスへの回帰」という口当たりのよいスローガンを唱えることでしばしばマルクス主義を脱政治化してしまう最近の左翼の傾向を批判し、あえて「レーニンへの回帰」を主張する。(もちろん、同じことはフロイトとラカンの関係についても言えるだろう。)こうして、シニシズム批判から出発したジジェクは、あえてパウロ的あるいはレーニン的なドグマティズムを選び取るところまで至りついたのである。だが、問題は、ジジェクのシニシズム批判そのもの、したがってまたドグマティズムを選び取るというジェスチュアそのものが、きわめてシニカルであるということだ。それは形式的なジェスチュアであって、ドグマの内容は何でもいいということになりかねない。現に、なぜレーニンであって、スターリンではなく、マオではないのかという内容的な論証は、ほとんど与えられないだろう。実のところ、60年代末のラカン=アルチュセール主義過激派は、同じようなドグマティズムに基づいてマオを選んだのだった。当時の過激派の生き残りであるバディウと、バディウ(そしてミレール――ただしジジェクは本書で師のミレールさえラカンのドグマを相対化しすぎているといって批判している)の影響を受けたジジェクは、30年以上たったいま、マオとは言わないまでも、結局はほとんど同じことを繰り返しているように見える。もちろん、ローティに代表されるポストモダン相対主義が政治固有の次元を部分的社会工学へと解消してしまっているという批判は正しい。また、ラカン=アルチュセール主義過激派(観念論との闘争において唯物論の立場に立つことが哲学の任務である)に抵抗して、より重層的な判断の必要性を説いていたデリダ(第一のフェーズでは観念論と唯物論の優劣を逆転する必要があるが、第二のフェーズでは観念論と唯物論の対立の基盤そのものを脱構築する必要がある)も、今となってみれば、実際面ではとりあえず社会民主主義的な漸進的改良を支持する一方、理論面ではアポリアに直面しての不可能な決断といったものを神秘化するばかりという両極分解の様相を呈し、政治固有の次元を取り逃がしていると言えるかもしれない。そのような相対主義や(事実上の)オブスキュランティズムに対し、悪役の責めを負うことを覚悟してあえてドグマティックな現実への介入を行なわなければならないというジジェクの立場は、分かりすぎるほどよく分かる。しかし、それが60年代のヨーロッパのマオイズムと同じ極端な主観主義のネガなのではないか、あるいは、現在支配的なポストモダン相対主義のネガなのではないかという疑いを、われわれはどうしても払拭することができないのである。(パウロ=レーニン的ドグマティズムの復活?――ジジェクの『信仰について』/浅田彰)
まあ、ヒュームからプラグマティズムに至るアングロ=サクソン的な伝統が再び優位になっているということでしょう。およそ、ファウンデーショナリズム(基礎付け主義)というのは、いわば神学の世俗化に過ぎず、有害でしかない。そのようなファウンデーションを自己言及的なパラドクスに追い込んで脱構築するなどと言っても、いわば否定神学的な観念の遊戯を出ない。そもそも、ファウンデーションなしに、複数の独立したゲームを並列的にプレイしてみて、それぞれがそこそこうまくいけばいいではないか、と。そういうローティ流のプラグマティズムが、いまもっとも支配的な哲学――というか反哲学でしょう。それが人工知能論などから見た「心の社会」論などともフィットするわけですね。

しかし、多少とも哲学的な立場からすると、それですべてが片付くとはとても思えません。もちろん、いまさら超越論的なものを天下り式に持ってくることはできない。けれども、カントの言った超越論的統覚だって、予定調和的に与えられているのではなく、あくまでXとしてあるわけですからね。あるいは、時代は下るけれど、ジャネが水平の解離を強調したのに対して、フロイトは強引に垂直も抑圧によって無意識まで含めた統合を図ろうとし、ラカンはそれをされに徹底して体系化しようとした、それを思弁的に過ぎると言って批判するのは簡単だけれど、逆にそれなしではものすごく単純な経験論とプラグマティズムに戻ってしまうという危惧があるわけです。(浅田彰ーー「強い視差 parallax」、あるいは「超越論的」