日本以外では珍しい「痴漢」との先入観を持っていたのだが、ウェブ上には次のような記事がある。
コプチェクによれば、恥じらわねばならない場面に直面させぬよう、覆い隠し、保護することは一見よいことに思えるが、不安にさせる「余剰」全てを露呈し、不安を取り除こ うとする現代において、隠しておくべき秘密として秘匿しておくこと自体が、暴こうとする不当な行為に弁解を与え続けることになりかねないと警告する。
……侵害の対象としての女性についていえば、彼女が顔や体を覆えば覆うほど、われわれの(男性的)視線は彼女に、そしてヴェールの下に隠されているものに、惹きつけられる。タリバーンは女性に、公の場では全身を覆って歩くことを命じただけでなく、固い(金属あるいは木の)踵のある靴をはくことを禁じた。音を立てて歩くと、男性の気を散らせ、彼の内的平安と信仰心を乱すからという理由で。これが最も純粋な余剰(剰余:引用者)享楽の逆説である。対象が覆われていればいるほど、ちょっとでも何かが見えると、人の心をそれだけ余計に乱すのである。(『ラカンはこう読め!』p174~)
ここで少し前ネット上で話題になっていた「痴漢にあいやすい人とあいにくい人のちがい」のイラストを貼付しておこう。
このイラストで注目すべきなのは、恥じらい勝ちな少女・乙女が痴漢にあいやすく、派手で挑発的な女性は痴漢にあいにくいとされていることだ。
このイラストの信憑性の多寡はここでは疑うことなしに話を進めるなら、コプチェク曰く、《隠しておくべき秘密として秘匿しておくこと自体が、暴こうとする不当な行為》を誘発する、あるいはジジェク曰くの《彼女が顔や体を覆えば覆うほど、われわれの(男性的)視線は彼女に、そしてヴェールの下に隠されているものに、惹きつけられる》という見解を裏付けるものとしてよいだろう。
…………
海外ではどうなのか
痴漢が多い日本。では海外では痴漢事情はどうなのでしょうか?
実は痴漢は海外ではポピュラーなものではありません。
そもそも痴漢行為は満員電車などで行われるものですが、外国では祝日など以外に日常的に満員電車があるという状況がありません。ですので痴漢行為が生まれ難い土壌があります。
アメリカの大都市では電車が満員になることも頻繁にあるようですが人権が強い国ですから、莫大な慰謝料の事を考えると、痴漢の数は多くありません。
また、海外の男性は触れるだけで性的に満足すること自体がおかしいと考える方が多く、理解に苦しむ行為だそう。
国ごとの正確も関係するそうで、日本は積極的でない性格の方が多く、そういったことも痴漢につながっています。
普通の国は痴漢する前にナンパをする、そういったところが多いそう。
ただ、日本が絶対的に悪いということでもありません。
国によっては痴漢するぐらいなら最後まで襲う、というのが一般的なのです。それと比べるとまだマシと言えるかもしれません。
最近では韓国やブラジルの地下鉄でも痴漢が発生しているそう。海外に行く際には充分注意しましょう。
長らくいじめは日本特有の現象であるかと思われていた。私はある時、アメリカのその方の専門家に聞いてみたら、いじめbullyingはむろんありすぎるほどあるので、こちらでは学校の中の本物のギャングが問題だという返事であった。ーー「日本人の精神構造・社会構造の鍵概念をめぐる」)
差別は純粋に権力欲の問題である。より下位のものがいることを確認するのは自らが支配の梯子を登るよりも楽であり容易であり、また競争とちがって結果が裏目に出ることがまずない。差別された者、抑圧されている者がしばしば差別者になる機微の一つでもある。(中井久夫「いじめの政治学」)
《差別された者、抑圧されている者がしばしば差別者になる機微の一つでもある》とあるが、『闘争のエチカ』1988には柄谷行人の《いじめている者も、 ふっと気づくといじめられている側に立っている》とあって、その機微の由来が説かれている。
柄谷) ……欲望とは他人の欲望だ、 つまり他人に承認されたい欲望だというヘーゲルの考えはーージラールはそれを受けついでいるのですがーー、 この他人が自分と同質でなければ成立しない。他人が「他者」であるならば、蓮實さんがいった言葉でいえば「絶対的他者」であるならば、それはありえないはずなのです。いいかえれば、欲望の競合現象が生じるところでは、 「他者」は不在です。
文字通り身分社会であれば、 このような欲望や競合はありえないでしょう。 もし 「消費社会」において、そのような競合現象が露呈してくるとすれば、それは、そこにおいて均質化が生じているということを意味する。 それは、 たとえば現在の小学校や中学校の「いじめ」を例にとっても明らかです。ここでは、異質な者がスケープゴートになる。しかし、本当に異質なのではないのです。異質なものなどないからこそ、異質性が見つけられねばならないのですね、 だから、 いじめている者も、 ふっと気づくといじめられている側に立っている。 この恣意性は、ある意味ですごい。しかし、これこそ共同体の特徴ですね。マスメディア的な領域は都市ではなく、完全に「村」になってします。しかし、それは、外部には通用しないのです。つまり、 「他者」には通用しない。
共同体的、すなわち「他者」はいなく同質のものの集まりであるから、陰湿な「いじめ」があると語られているとしてよいだろう。では「痴漢」も同様なのか。ーーと議論を展開するほど「痴漢」に詳しくはない。
ここでさらに論述を飛躍させ、日本の排外主義、ネオナチなどの猖獗も、海外でのそれと同質なものではなく、柄谷行人のいう《異質なものなどないからこそ、異質性が見つけられねばならない》といういじめ文化の文脈でさえ捉えうるかもしれない、としておこう。
ヒットラーが羨望したといわれる日本のファシズムは、いわば国家でも社会でもないcorporatismであって、それは今日では「会社主義」と呼ばれている。(柄谷行人「フーコーと日本」1992 『ヒューモアとしての唯物論』所収ーー「おみこしの熱狂と無責任」気質(中井久夫)、あるいは「ヤンキー」をめぐるメモ)
ーーなどとすればかねてからの「常識的」な見解、「村社会」における「村八分」ということになり、排外主義やネオナチをそれだけで片付けるわけにはいかないのは十分承知している。ただこういう側面もあるだろう、というだけの話である。
日本社会には、そのあらゆる水準において、過去は水に流し、未来はその時の風向きに任せ、現在に生きる強い傾向がある。現在の出来事の意味は、過去の歴史および未来の目標との関係において定義されるのではなく、歴史や目標から独立に、それ自身として決定される。(……)
労働集約的な農業はムラ人の密接な協力を必要とし、協力は共通の地方心信仰やムラ人相互の関係を束縛する習慣とその制度化を前提とする。この前提、またはムラ人の行動様式の枠組は、容易に揺らがない。それを揺さぶる個人または少数集団がムラの内部からあらわれれば、ムラの多数派は強制的説得で対応し、それでも意見の統一が得られなければ、「村八分」で対応する。いずれにしても結果は意見と行動の全会一致であり、ムラ全体の安定である。(加藤周一『日本文化における時間と空間』より)