さて、〈とかくうわつ調子な〉「議論しないこと」と「ほっとく」能力などという記事を、たとえばクンデラに批判されてみよう。
二十歳で共産党に入党したり、あるいは小銃を手にして、ゲリラに参加して山岳地帯に入ったりする青年は、革命家としての自分自身のイメージに魅惑されているのである。なにしろ、そのイメージによって彼はすべての他人と区別され、そのイメージによって彼自身になれるのだ。(クンデラ『不滅』)
たとえば若い時代に左翼系の論客なり新聞記者なりとして自らの職業を選択した者は、その自分自身のイメージに生涯魅惑されている、ということはありうる。そして、そこにマッチョの臭いを嗅ぎつけるひとが数多いるのは十分に憶測される。
もちろんもっと短期的な視野でもよい、「革命家」や「ラディカル左翼」して己を選択するのは、《半分は、ふだんの構えによって決まるが、半分は、いったん一つの構えを取ると、それを取りつづける傾向が強い》(中井久夫)――のかもしれない。もっと一般化して言えば、人間にとって「卑怯と勇気とはしばしば紙一重」であるだろう。
マッチョのイメージは、人を惑わせる仮面として経験されるのではなく、人がなろうと努力する理想の自我として経験される。男のマッチョイメージの裏には、なにも秘密はなく、彼の理想に恥じない行動をとり難いただ弱々しいごく普通の男があるだけだ。(私訳)
the macho-image is not experienced as a delusive masquerade but as the ideal-ego one is striving to become. Behind the macho-image of a man there is no secret, just a weak ordinary person that can never live up to his ideal.(Zizek Woman is One of the Names-of-the-Father)
そうだろう、どのマッチョの仮面の裏にも、弱々しいごく平凡な男がいる。マッチョでなくてもよい。理念や正義を語り行動する人たち、彼らに胡散臭さを感じる人々がいるのは止む得ない。彼らを冷笑する露悪主義者たちは、いつの世にも存在する。
理念や正義? 良心や超自我?
良心とは、一般に信じられているように「人間の中なる神の声」などではないということ――良心とは、もはや外部に向かって放電できなくなってしまったので方向を変えて内面へ向かうようになった残虐性の本能であるということ。( ニーチェ『この人を見よ』)
ここにはすでに『快原則彼岸』以降の後期フロイトがいる、「死の欲動」を語ったフロイトが。すなわち超自我は外的なものではなく、攻撃欲動が自分自身に向かうことによって形成されるとしたフロイトだ。
罪責感に本質的かつ共通な点としては、それは内部へ転位した攻撃欲動であるということだけが残った(フロイト『文化への不満』)
だが、《たしかに、人権なんて言っている連中は偽善に決まっている。ただ、その偽善を徹底すればそれなりの効果をもつわけで、すなわちそれは理念が統整的に働いているということになるでしょう。》(柄谷行人ーー「世の中がいやになっちゃうよ、もう。かってにしやがれ」(大岡昇平))
偽善は統整的に働くのだ。
たとえば、われわれが自然を認識できるだろうという「統整的理念」は、事実、発見的に働くのである。マンハッタン・プロジェクトに関与したというノーバート・ウィーナー(サイバネティックスの創始者)は、原爆製造に成功した後、防諜上最大の機密とされたのが、原爆の製造法ではなく、原爆が製造されたという情報であったといっている。同時期にドイツ・日本でもそれぞれ原爆の開発を進めていたので、それが製造されたという事実がわかれば、たちまち開発に成功するからである。詰め将棋の問題は実戦におけるよりはるかに易しい。かならず詰むという信が最大の情報である。自然界が数学的基礎構造をもつというのもそのような理論的な「信」である。この意味で、もし近代西洋においてのみ自然科学が誕生したとしたら、このような「理論的信」があったからだといってよい。(柄谷行人『トランスクリティーク』 p83-84)
ただここで統整的な理念と構成的な理念の相違には注意しておこう。
理性の統整的使用とは、目的がある「かのように」想定することであり、目的が構成的になったしまえば、それは暴力的強制となる。運動者による「正義」の主張が、統整的であるのか構成的であるのかはよく見極めねばならない。(参照:柄谷行人「第一回長池講義 講義録」)
運動者の「正義」が統整的なものであるなら、どうして彼らが「マッチョ」のようにみえて悪いわけがあるだろう? いや本来、ひとは構成的理念の正義の人物のみをマッチョと見なすべきだとしてもよい。だが、いわゆる「正義」のために活動している人物をすべてマッチョ的だと見なす傾向にあるのではないか。
シニカルな露悪主義者たちーー善をめざすことをやめた情けない姿をみんなで共有しあって安心している彼らーーは決定的に間違っている。騙されない者は彷徨うのだ。
マルクス兄弟の映画の一本で、嘘を見破られたグルーチョが怒って言う。「お前はどっちを信じるんだ? 自分の眼か、おれの言葉か?」 この一見ばかばかしい論理は、象徴的秩序の機能を完璧に表現している。社会的仮面のほうが、それをかぶっている個人の直接的真実よりも重要なのである。この機能は、フロイトのいう「物神崇拝的否認」の構造を含んでいる。「物事は私の目に映った通りだということはよく知っている。私の目の前にいるのは堕落した弱虫だ。それにもかかわらず私は敬意をこめて彼に接する。なぜなら彼は裁判官のバッジをつけいてるので、彼が話すとき、法が彼を通して語っているのだ」。ということは、ある意味で、私は自分の眼ではなく彼の言葉を信じているのだ。確固たる現実しか信じようとしない冷笑者(シニック)がつまずくのはここだ。裁判官が語るとき、その裁判官の人格という直接的現実よりも、彼の言葉(法制度の言葉)のほうに、より多くの真実がある。自分の眼だけを信じていると、肝腎なことを見落としてしまう。この逆説は、ラカンが「知っている[騙されない]人は間違える(Les non-dupes errent)」という言葉で言い表そうとしたことだ。象徴的機能に目を眩ませることなく、自分の眼だけを信じ続ける人は、いちばん間違いを犯しやすいのである。自分の眼だけを信じている冷笑者が見落としているのは、象徴的虚構の効果、つまりこの虚構がわれわれの現実を構造化しているということである。美徳について説教する腐敗した司祭は偽善者かもしれないが、人びとが彼の言葉に教会の権威を付与すれば彼の言葉は人びとを良き行いへと導くかもしれない。(ジジェク『ラカンはこう読め!』ーー騙されない人は彷徨うLes non-dupes errent)
ーーといささか断定的な口調で書いたが、これらも柄谷行人とジジェクから読みとれるひとつの「政治的な」態度に過ぎない。ただいまのところこの態度をとりたいと、残念ながら非行動主義者でしかありえないわたくしは、このように「統整的に」考えているだけの話である。
私が思うに、最も傲慢な態度とは「ぼくの言ってることは無条件じゃないよ、ただの仮説さ」などという一見多面的な穏健さの姿勢だ。まったくもっともひどい傲慢さだね。誠実かつ己れを批判に晒す唯一の方法は明確に語り君がどの立場にあるのかを「独断的に」主張することだよ。(「ジジェク自身によるジジェク」私訳)
…………
ところでジジェクの最近の書(2012)にはカントの「統整的理念」への批判(吟味)がある。
The Kantian “regulative Idea” is on the side of desire with its forever elusiveobject‐cause: with every object, the desiring subject experiences a “ ce n’est pas ça” (this is not that—not what I really want), every positive determinate object falls short of the elusive spectral “X” after which desire runs. With the Idea as the principle of division, by contrast, we are on the side of the drive: the “eternity” of the Idea is nothing other than the repetitive insistence of the drive. However, in the terms of the triad of Being/World/Event, this solution only works if we add to it another term, a name for the terrifying void called by some mystics the “night of the world,” the reign of the pure death drive. If an individual belongs to the order of being, if a human (being) is located in a world, and if a subject has its place within the order of an Event, a neighbor always evokes the abyss of the “night of the world.” Our hypothesis is that it is only with reference to this abyss that one can answer the question “How can an Event explode in the midst of Being? How must the domain of Being be structured so that an Event is possible within it?” Badiou—as a materialist—is aware of the idealist danger that lurks in the assertion of their radical heterogeneity, of the irreducibility of the Event to the order of Being:(ZIZEK “LESS THAN NOTHING”)
One should be careful not to read these lines in a Kantian way, conceiving communism as a "regulative Idea:' thereby resuscitating the specter of an "ethical socialism" taking equality as its a priori norm-axiom. One should rather maintain the precise reference to a set of actual social antagonisms which generates the need for communism-Marx's notion of communism not as an ideal, but as a movement which reacts to such antagonisms, is still fuly relevant. However, if we conceive of communism as an "eternal Idea:' this implies that the situation which generates it is no less eternal, i.e., that the antagonism to which communism reacts wil always exist. And from here, it is only one small step to a "deconstructive" reading of communism as a dream of presence, of abolishing all alienated re-presentation, a dream which thrives on its own impossibility. How then are we to break out of this formalism in order to formulate antagonisms which will continue to generate the communist Idea? Where are we to look for this Idea's new mode? (Zizek "First As Tragedy, Then As Farce")
“night of the world”という表現が見られるように、カント対ヘーゲルの文脈でも読みうる文である。
人間存在は、この夜、その単純さの中にすべてを包含しているこの空無である。そこには表象やイメージが尽きることなく豊富にあるが、そのどれ一つとして人間の頭に、あるいは彼の眼前にあらわれることはない。この夜。変幻自在の表象の中に存在する自然の内的な夜。この純粋な自己。そこからは血まみれの頭が飛び出し、あちらには白い形が見える。(…)人は他人の眼を覗き込むとき、この夜を垣間見る。世界の夜を対立の中に吊るす、恐ろしい夜。(ヘーゲル『現実哲学』草稿)
ーーというわけで、カントやヘーゲルをまともに読んだことのないわたくしにはお手上げであり、聡明なひとたちに、それぞれ勝手に考えていただくことにしよう。