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2014年8月10日日曜日

アタシとボクの「おちんちん」その2

またきみかい
オレはたいした意見なんていってないよ
だれだれ曰くで資料もつけてるだろ
記憶力がひどく悪いほうでね
こうやってメモっとかないとすっかり忘れちまうんだ
自分用のメモのみで未公開にしたら
雑然としていて収集がつかなくなるから公開してるだけだよ
公開するなら一応は読み返すからな
(まあそうしないときもかなりあるけど)

そもそもきいた風なことを言うのは飽きちゃってんだよ
とっくのむかしにな
どっちかといえば『プヴァールとペキッシュ』の二人の筆耕
あの「深淵な滑稽さ」の役割がいいなと思ってね
日本語の単語ぼろぼろ忘れてきたからそれもあるさ
こうやって書いてるのはな
アルツハイマー防止のためでもあるってことだな
コメント相手のおしゃべりは御免だな
幽霊でもいいから前に座っていてほしいと思うことはあるがね
でもいちいち返事されるのはやっぱりうるさいなあ

ところできみこっち↓系の趣味あるかい?
そうだったら仲良くしてもいいぜ
きみが男か女かしらないけど
女のほうがどっちかといえば好みだな
ヤルこといっしょなのに女のほうがいいってのがヘンなんだけど

オカマというのはよがりますよね。枕カバーがベットリ濡れるくらい涎を流したりするでしょう。するとやっているうちに、こっち側になりたいという気になってくる。だからオカマを抱いちゃうと、大体一割くらいのケースで、オカマになりますね。(野坂昭如ーー岩井志麻子『猥談』より)

これじゃないんだな↓




そろそろこっち系のほうが望ましいんだよ
そろそろっていうのは嘘っぽくてとっくの昔からだけどさ





ここまでいかなくてもいいから





こんなふうに無理しなくてもいいさ







この程度でいいのに







でもこればかりなんだよな、いまだに





「そう。君らにはわかるまいが、五十六十の堂々たる紳士で、女房がおそろしくて、うちへ帰れないで、夜なかにそとをさまよっているのは、いくらもいるんだよ。」(川端康成『山の音』)





2014年7月27日日曜日

きびきびして蓮っ葉な物馴れた女

「どうしたって、女は十六、七から二十二、三までですね。色沢がまるでちがいますわ。男はさほどでもないけれど、女は年とるとまったく駄目ね。」(徳田秋声『爛』)

そんなことありませんわ秋声先生
最近じゃあ三十歳あたりまで色つや保てるらしいですよ




ほら初婚年齢だって男を追い抜かす勢いなんです
なんだって男たちには負けちゃいられない世相なんですから
先生だって『黴』ではこう言ってるじゃあありませんか

「そのくらいなら、どこへ行ったって、自分一人くらい何をしたって食べて行きますわ」(徳田秋声『黴』)

結婚するくらいなら、何をしたって食べて行けますわ
安易の風に吹かれて一生独身ほうがいいくらい
だっていまどき甲斐性のあるいい男なんて
めったにいやしないですから

浅井の調子は、それでも色の褪せた洋服を着ていたころと大した変化は認められなかった。人柄な低い優しい話し声の調子や、けばけばしいことの嫌いなその身装などが、長いあいだ女や遊び場所などで磨かれて来た彼の心持と相応したものであった。(……)

ワイシャツ一つになって、金縁眼鏡をかけて、向う前に坐っている浅井の生き生きした顔には、活動の勇気が、溢れているように見えた。(『爛』)

どこにいるっていうのかしら
女遊びで磨かれた活動の勇気が溢れた男なんて
きびきびして蓮っ葉な物馴れた女はいっぱいいるのに

《お島のきびきびした調子と、蓮葉な取引とが、到るところで評判がよかった。物馴れてくるに従って、お島の顔は一層広くなって行った》(『あらくれ』)

あらでもこんな女もいなくなってしまったわ

一つは人に媚びるため、働かずにはいられないように癖つけられて来たお島は、一年弱の鶴さんとの夫婦暮しに嘗めさせられた、甘いとも苦いとも解らないような苦しい生活の紛紜から脱れて、何処まで弾むか知れないような体を、ここでまた荒い仕事に働かせることのできるのが、寧ろその日その日の幸福であるらしく見えた。(『あらくれ』)


…………

徳田秋声は、女性を書かせたら神様というのが一部の読み巧者の評判であった。
「日本文学は、源氏、西鶴、それから秋声に飛ぶ」とするのは川端康成だ。

前期の徳田秋声の小説には「安易」という語が頻出する。

お庄は唯笑つてゐたが、此女の口を聞いていると、然うした方が、何だか安易なやうな氣もしてゐた。(德田秋聲『足迹』)

これはまだ日本橋の堅いところに奉公していた頃、例の朋輩に茶屋奉公をすすめられたときの、お庄のふとした思いであるが、この中の《安易》という言葉には独特の意味合いがあるようだ。たとえば今の箇所のすこし前の、不貞た朋輩の話に耳を貸しながら、《お庄も足にべとつく着物を捲く上げて、戸棚に凭れて、うつとりして居た》とある、その姿その体感に通じるものである。頽れるにまかせて流されていく安易さ、その予感のうちにすでにある懈さ、と言えば説明にはなる。しかし生活欲の掠れた倦怠ではない。お庄は若いが上に生活欲の盛んな女であり、その点では滅多に頽れはしない。むしろ生活欲のおもむく、埒を越して溢れ出すその先に、安易の予感はあるようなのだ。秋聲の人物の多くがそうである。生活欲に振りまわされる只中で、行き場に迷う力がふと妙な向きを取りかかり、懈怠に捉えられる。(古井由吉『東京物語考』「安易の風」)

『足迹』のお庄や『黴」のお銀は、秋声の妻がモデルだ。

・どうかすると鼻っ張りの強いその気象と同じに、とても征服しきれない肉塊に対してでもいるような気がしていたが、それもだんだん頽されそうになって来た。

・そんな周囲の事情は、お銀のちょっとした燥いだ口の利き方や、焦だちやすい動物をおひゃらかして悦んでいるような気軽な態度を見せられるたんびに、笹村をして妻を太々しい女のように思わしめた。(『黴』)

《生活欲に振りまわされる只中で、行き場に迷う力がふと妙な向きを取りかかり、懈怠に捉えられる》女の風情に、秋声は魅せられていたのだろし、読者も見せられる。これが欲望の対象-原因(対象a)でなくてなんだろう、《私はあなたを愛する。だがあなたの中にはなにかあなた以上のもの、<対象a>がある。だからこそ私はあなたの手足をばらばらに切断する》(ラカン)

そして『爛』にも『あらくれ』にも秋声の〈対象a〉はいる。

・お今に自分が浅井の背を流さしておいた湯殿の戸の側へ、お増はそっと身を寄せて行ったり、ふいに戸を明けて見たりした。「いい気持でしょう。」などと、お増は浅井の気をひいて見た。

・階下に寝ているお今のつやつやした髪や、むっちりした白い手なども、幻のように浮んで来た。(『あらくれ』)


◆”Conversations with Ziiek”(Slavoj Zizek and Glyn Daly)ーー『ジジェク自身によるジジェク』として邦訳されているが、原文しか手元にないので、私テキトウ訳。

幻想の役割において決定的なことは、欲望の対象と欲望の対象-原因のあいだの初歩的な区別をしっかりと確保することだね(その区別はあまりにもしばしばなし崩しになっている)。欲望の対象とは単純に欲望される対象のことだ。たとえば、もっとも単純な性的タームでいうとすれば、私が欲望するひとのこと。欲望の対象-原因とは、逆に、私にこのひとを欲望させるもののこと。このふたつは同じものじゃない。ふつう、われわれは欲望の対象-原因が何なのか気づいてさえいない。――そうだな、精神分析をすこしは学ぶ必要があるかもしれない、たとえば、何が私にこの女性を欲望させるかについてね。
欲望の対象と欲望の対象-原因(対象a)のギャップというのは決定的なんだな、その特徴が私の欲望を惹き起こし欲望を支えるんだから。この特徴に気づかないままでいるかもしれない。でも、これはしばしば起っていることだが、私はそれに気づいているのだけれど、その特徴を誤って障害と感じていることだね。たとえば、誰かがある人に恋に落ちるとする、そしてこう言うんだな、「私は彼女をほんとうに魅力的だと思う、ただある細部を除いて。――それが私は何だかわからないけれど、彼女の笑い方とか、ジェスチュアとかーーこういったものが私をうんざりさせる」。でもあなたは確信することだってありうるんだ、これが障害であるどころか、実際のところ、欲望の原因だったりするのを。欲望の対象-原因というのはそのような奇妙な欠点で、バランスを乱すものなのだけれど、もしそれを取り除けば、欲望された対象自体がもはや機能しなくなってしまう、すなわち、もう欲望されなくなってしまうのだ。こういったパラドキシカルな障害物だね。


《秋声の自然主義の道は、明治四十一年、秋声三十七歳の『新世帯』にひらけ、四十三年から大正二年の、『足迹』、『黴』、『爛』で峠に達し、大正四年の『あらくれ』でまた新たな頂を極めたと見られる》(川端康成 新潮文芸時評 1993.4 )


オレかい? 生活欲に振り回された末の
安易の風のふく女は当地にいっぱいいて
この土地の「お庄」に魅せられたんだけど
(かつてはだな)
最近は「日本化」してきたんじゃないか
二十年近く前はこんなたぐいの虎視眈々とした女が
月ドル換算にして百ドルぐらいで暮らしてたんだから
五十ドル払って衣裳でも買って食事でもすれば(以下略)





いずれにせよ初老の身でとっくの昔に引退だよ
いまはむしろ西脇順三郎の女たちの
淡い自堕落さや嘲弄感が対象aだな
麦酒か米焼酎一緒に飲んで
なめらかな舌でも眺めてるのがいいなあ

――……ずっと若い頃に、かなり直接的に誘われながらヤラなかったことが、二、三人にういてあったんだね。後からずっと悔やんだものだから、ある時から、ともかくヤルということにした時期があったけれども…… いまはヤッテも・ヤラなくても、それぞれに懐かしさがあって、ふたつはそうたいしたちがいじゃないと、回想する年齢だね。(大江健三郎『人生の親戚』)





・向うの家ではたおやめが横になり/女同士で碁をうっている

・イボタの繁みから女のせせら笑いが/きこえてくる。

・美容師と女あんまは愛らしいひょうたんを/かたむけてシェリー酒をのんでいる

・女神は足の甲を蜂にさされて/足をひきずりながら六本木へ/膏薬を買いに出かけた

・女の旅人突然後を向き/なめらかな舌を出した正午





荒木経惟の女たちのまなざしもたまらないなあ


荒木の写真に出てくる女性たちは、たいてい裸である。そのうえ大股を広げたり、尻を突き出したりして性器を露に見せることも少なくない。時にはまさに性交の最中に撮られたと思われる写真もある。写された女性たちの姿は、暴力的なポルノグラフィーの姿とほとんど変わりはない。にもかかわらず荒木の写真がポルノグラフィーではないのは、作者の存在があるからであった。(……)シーレの絵の中の女性も荒木の写真の中の女性も、彼女たちの視線を向けている方向をみると、自分の目の前に存在する作者のことしか考えていないように思われる。どんなに笑いかけていても、煽情的なポーズをとっていても、彼女たちの視線は「見る」ものの視線を飛び越えていく。モデルたちはカメラに振られていることに対しては充分に自覚的だが、その背後にある写真を見るであろう無数の視線には反応を示さない。自分にとって重要で、意味を成すのは目の前にいる写真家との関係だけだからだ。(「私的な視線によるエロティシズム : 荒木経惟の作品を中心とした写真に関する考察」秦野真衣)

もちろんこっち系だってあるさ

「いちはつのような女と
はてしない女と
五月のそよかぜのようなと
この柔い女とこのイフィジネの女と
頬をかすり淋しい。
涙とともにおどる
このはてしない女と。」(西脇順三郎「無常」)








2014年5月31日土曜日

五月卅一日 黒服の婦人の娘のような流し目

木曜日 十一時半

私は読書室で二時間仕事をした。それから、パイプを燻らすために抵当権登記所の中庭に降りた。そこは薔薇いろの煉瓦で舗装された広場であって、十八世紀に落成し、いまはプーヴィル市民の誇りとなっている。シャマード街とシェスペダール街との入口には、古い鎖が車の出入を遮っている。犬を散歩させにきた黒服の婦人たちが、壁に沿ってアーケードの下を通って行く。彼女たちは陽当りのよい場所には滅多に行かないが、娘のような流し目をこっそりと満足げに、ギュスターヴ・アントベトラーの銅像に注ぐ。彼女たちがこのブロンズの巨人の名を知っているはずはないが、フロックコートとシルクハットとによって、この男が上流階級に属していただれかであることを悟るのである。銅像は左手に帽子を持ち、右手を二つ折判の本の山の上に置いている。自分たちのおじいさんが、青銅で鋳造されて、この台の上に立っているかのような感じがいくらかする。あらゆる問題について、彼が自分たちと同じように、ほとんど同じように考えていることを知るために、長い間銅像を眺める必要はない。彼の権威と、彼が重い手で押し潰している二つ折判のたくさんの本の中から汲みとられた絶大な博識とが、彼女たちの狭くて堅実な、取るに足りぬ意見の助けになるのだ。黒服の婦人たちはほっとするのを感じる。心安らかに家事にいそしみ、犬を散歩させることができる。彼女たちが父から受けついだ神聖な考えや思いつきを、守護する責任はもはやない。代りに青銅の男が番人になっているのだから。(サルトル『嘔吐』白井浩司訳 p47-48)


自分たちのおじいさんのような銅像に、黒服の婦人たちは娘のような流し目を送る。それだけで、ほっとするのを感じる。そうすれば、《彼女たちが父から受けついだ神聖な考えや思いつきを、守護する責任はもはやない》。祖先伝来の厳格なモラルは、青銅の男の番人が代って守ってくれる。

ここには「礼儀」の効用がある。信じたふりをする効用がある。それはなにも跪く必要はない。娘のような流し目だけでよい。「おじいさん、分かってるわ、覚えているわよ、あなたの言いつけ」、――こうしておけば、その後、すこし羽目を外しても大丈夫なのだ。われわれも同じく。正月に神社にお参りにしたり、神棚をちらっと横目で見たり、仏壇の線香の香りに束の間うっとりするだけでよい。いや手を合わせて祈ったら、もっと効果がある。さあ、そうすれば、急いだってかまわない、夜の街へ(男を騙しに)。





《自分の信仰を大事にするのではなく、信仰が侵入してくるのを追い払い、一息つくスペースを確保するために跪くのだとしたらどうだろう。信じる--媒介なしに直接に信じる--という苦しい重荷を、儀式を実践することによって誰か他人に押しつけてしまえばいいのだ。(結婚…愛がなくても結婚的生活によって愛が生まれる・・・ではなく、相手を愛しすぎないように儀式化するために結婚する)》


以下、上のジジェクの文の前後を、もう少し長く抜き出しておこう。

どうやらわれわれがここで論じているのは、ずっと昔にブレーズ・パスカルが描き出した現象のようだ。パスカルは、信仰を持ちたいのに信仰への飛躍がどうしてもできない非信者への助言の中で、こう述べている。「跪いて祈り、信じているかのように行動しなさい。そうすれば信仰は自然にやってくるだろう」。あるいは、現代の「断酒会」はもっと簡潔にこう言っている。「できるふりをしろ。できるようになるまで」。しかし今日、文化的ライフスタイルへの忠誠心から、われわれはパスカルの論理を逆転する。「あなたは自分が本気すぎる、信じすぎると思うのですね。自分の信心が生々しく直接的すぎるために息苦しいのですね。それならば跪いて、信じているかのように行動しなさい。そうすれば信仰を追い払うことができるでしょう。もはや自分で信じる必要はないのです。あなたの信仰は祈りの行為へと対象化されたからです」。つまり、自分の信仰を大事にするのではなく、信仰が侵入してくるのを追い払い、一息つくスペースを確保するために跪くのだとしたらどうだろう。信じる--媒介なしに直接に信じる--という苦しい重荷を、儀式を実践することによって誰か他人に押しつけてしまえばいいのだ。(結婚…愛がなくても結婚的生活によって愛が生まれる・・・ではなく、相手を愛しすぎないように儀式化するために結婚する)

 ここから、われわれは象徴的秩序の次なる特徴、すなわちその非心理的な性質へと向かうことになる。私が他人を通じて信じる時、あるいは自分の信仰を儀式へと外在化し、その儀式に機械的に従うとき、あるいはあらかじめ録音された笑いを通じて笑うとき、あるいは泣き女を媒介して喪の仕事をおこなうとき、私は内的な感情や信仰に関わる仕事を、それらの内的な状態を動員することなく、やり遂げている。そこに、われわれが「礼儀」と呼ぶものの謎に満ちた状態がある。私は知人に会うと、手を差し出し、「やあ(会えてうれしいよ)、元気?」と言う。私が本気で言っているのではないことは、両者とも了解している(もしその知人の心に「この人は私に本当に関心を持っているのだろうか」という疑念が芽生えたら、その人は不安になるだろう。彼の個人的なことに首を突っ込もうとしているのではないか、と。古いフロイト的なジョークを言い換えるとこうなる。「どうして会えてうれしいなんて言うんだ? 会えてうれしいと本気で思っているくせに」)。ただし、私の行為を偽善的と呼ぶのは誤りだ。別の見方をすれば、私は本当にそう思っているのだから。礼儀正しい挨拶は、われわれ二人の間にある一種の契約を更新しているのだ。同様に、私はあらかじめ録音された笑いを通じて「本気で」笑っているのである(それが証拠に、私は実際に気分が楽になる)。(ジジェク『ラカンはこう読め』)




《結婚…愛がなくても結婚的生活によって愛が生まれる・・・ではなく、相手を愛しすぎないように儀式化するために結婚する》については、ジジェクには種々の変奏がある。


ここでは最近の書『LESS THAN NOTHING』(2012)から、ひとつだけ抜き出しておこう。

ラカン派の用語では、結婚は、対象(パートナー)から“彼(彼女)のなかにあって彼(彼女)自身以上のもの”、すなわち対象a(欲望の原因―対象)を消し去ることだ。結婚はパートナーをごくふつうの対象にしてしまう。ロマンティックな恋愛に引き続いた結婚の教訓とは次のようなことである。――あなたはあのひとを熱烈に愛しているのですか? それなら結婚してみなさい、そして彼(彼女)の毎日の生活を見てみましょう、彼(彼女)の下品な癖やら陋劣さ、汚れた下着、いびき等々。結婚の機能とは、性を卑俗化することであり、情熱を拭い去りセックスを退屈な義務にすることである。(私訳)

逆に言えば、「犬のお尻にほれてしまえば、 犬のお尻もばらの花」(プルースト)。

ジジェクの文の<対象a>が結婚によってなくなってしまうとあるが、対象aとはかくの如し。

永遠に退屈な女性的な質問、「どうしてあなたは私のことが好きなの」という質問を例にとって考えてみよう。本当の恋愛においては、この質問に答えることはもちろん不可能である(だからこそ女性はこの質問をするのだが)。つまり、唯一の適切な答えは次の通りである。「なぜなら、きみの中にはきみ以上の何か、不確定のXがあって、それがぼくを惹きつけるんだ。でも、それをなにかポジティヴな特質に固定することはできない」。いいかえれば、もしその質問にたいしてポジティヴな属性のカタログによって答えたなら(「きみのおっぱいの形や、笑い方が好きだからだ」)、せいぜいのところ、本来の恋愛そのものの滑稽なイミテーションにすぎなくなってしまう。(ジジェク『斜めから見る』P194)

もっともさきほど私訳した『LESS THAN NOTHING』の文のあと、しばらくして次のような文がある。

結婚とは崇高化が理想化のあとに生き残るかどうかの真のテストの鍵となるものだったらどうだろう? 盲目的な愛では、パートナーは崇高化されるわけではない。彼(彼女)はただ単純に理想化されるだけだ。結婚生活はパートナーをまちがいなく非―理想化する。だがかならずしも非―崇高化するわけではない。(ジジェク『LESS THAN NOTHING』)

理想化と崇高化? 理想化と崇高化を混同してはならない。


誤った崇拝は理想化をうむ。それは他者の弱さを見えなくする──あるいは、それはむしろ、自己のいだく幻影を投影するスクリーンとして他者を利用し、他者そのものを見えなくする。(ジジェク『信じるということ』)

二流詩人や小説家の「理想化」に耽溺するのには注意しなければならない(場合によっては、一流詩人・作家でさえ)。

宮廷恋愛を考えるにあたってまず避けるべき落とし穴は、<貴婦人>を崇高な対象とする誤った見方である。そんなことを言えば通例、生々しい性的な欲情が浄化されて精神的な思慕へと高められるというプロセスのことが考えられる。かくて<貴婦人>は、ダンテのベアトリーチェのようにより高い次元の宗教的エクスタシーへと人を導く神聖なものだととらえられるのだ。

こうした考え方とは反対に、ラカンは、このような浄化作用に反するような特徴をいくつも指摘している。たしかに、宮廷恋愛における<貴婦人>は、具体的な特徴は一切持たず、ただ抽象的な<理想>として崇められる。そのため、「詩人たちはみな同一人物を称えているようだという点に作家らは着目した。……これらの詩の世界における対象の女性からは、現実的な実体は一切うかがわれない」となるのだ。しかし、<貴婦人>のこうした抽象的な性質は、精神的な純化とは何ら関係はない。むしろこの性質は、冷淡で隔たりのある非人称的な相手にありがちな性質に近い。
つまり、<貴婦人>は、暖かく思いやりがあり人の気持を察するような、われわれ人間の同類などでは絶対にありえない。(……)

したがって、騎士と<貴婦人>の関係は、臣下-隷属者である家臣と、無意味でとてつもない、とうていできそうにないような、勝手で気まぐれな試練を課してくる<封建的主人-支配者>の関係である。

ラカンはまさに、こうした試練が崇高とはおおよそかけ離れていることをはっきりさせようと、<貴婦人>が家臣に文字通り尻の穴をなめるよう命令する詩を引用している。詩人は、その場所で待ち受けていた悪臭に対してぐちをこぼし(中世の人々が恐ろしい衛生状態にあったことはよくご存じだろう)、こうやって務めを果たしている最中に尿を顔にひっかけられるかもしれないという危険をひしひしと感じる……。
これほどさように、<貴婦人>は浄化された神聖なものとはほど遠い。(ジジェク『快楽の転移』)

これらはジジェク独特の極端な例でありーー極端だから愉快になるのだがーー、実際のところは結婚生活では、ほとんどの場合理想化も崇高化も生き残らず、友達化やら母親化などがせいぜいのところだろう。

と書いたところで、また愉快な極端さをもったジジェクの文を想い起こす、《いっしょに暮している女は<女>ではない、結婚生活の平和はつねに脅かされている》。こうして男たちは結婚後も「もう一人の女the Other Woman」を探し求める(参照:ジジェクの愛の定義)。

ーーなどとジジェクばかり引用せずにも、わが野坂昭如の言葉がある。

「男どもはな、別にどうにもこうにもたまらんようになって浮気しはるんとちゃうんや。みんな女房をもっとる、そやけど女房では果たしえん夢、せつない願いを胸に秘めて、もっとちがう女、これが女やという女を求めはんのや。実際にはそんな女、この世にいてへん。いてえへんが、いてるような錯覚を与えたるのがわいらの義務ちゅうもんや。この誇りを忘れたらあかん、金ももうけさせてもらうが、えげつない真似もするけんど。目的は男の救済にあるねん、これがエロ事師の道、エロ道とでもいうかなあ。」(野坂昭如『エロ事師たち』)



ーー実は、昨晩Tumblrを眺めていてこの写真に行き当たり、しばらく茫然としていたのだよな。ああ、失われたもの。日本にノスタルジイを覚えるのはそんなに多くはないけど、これだけは紛れもない喪失感だ。祇園の女が去って行く。これはおそらく宮川町通か? あの店のママの名前だけ憶い出して、店の名が憶いだせない。こじんまりしたほの暗い空間のなか、白木のカウンターの向こうの匂いやかな中年の女のほほえみ。低く穏やかな声。肌理の細かい象牙色の肌。薄暗さのなかの妖艶さは他の国でもあるが、あのほの暗さのなかの清冽さと親密さというのはなかなか出会うことはできない。せつなさ、遣る瀬無さ、沈んだ翳りのなかのつややかさ--谷崎の『陰翳礼讃』でもあり川端の『美しさと哀しみと』でもあるあの感覚。

《けやきの木の小路を/よこぎる女のひとの/またのはこびの/青白い/終りを》(西脇順三郎)

あれはオレの「崇高化」だね、三十前後の青年が、バブルの余沢もあったけど、週に二、三度は通ったからな。「お日様の光のもとでみたら、あたしなんかもうおばあさんよ」などと囁いた声まできこえて来るよ。それとも単なる「理想化」だったのか。厨房に弟子入りしてカウンターの向こうに入ったら究極のシアワセじゃないか、などとまで思い詰めたことがあるからなあ。

さて何の話だったか。結婚?女たち? 彼女たちも母親化にうんざりして、別のアバンチュールを探すんじゃあないかい? もしそうでなかったら、次のようなことになりかねない。

「そう。君らにはわかるまいが、五十六十の堂々たる紳士で、女房がおそろしくて、うちへ帰れないで、夜なかにそとをさまよっているのは、いくらもいるんだよ。」(川端康成『山の音』)

だが、そもそも結婚前の情熱恋愛などというものが稀になっているのかもしれない。いまでは結婚とは「セキュリティ」のためであったり、最初から妥協化によってなされることが多いのだろう。「婚活」などというなんともはしたない言葉の流通は、「新自由主義」ーーその三つの標語「成功」「自己投資」、そして「負け犬」)ーーの猖獗を象徴するものである。その破廉恥を破廉恥とさえ感じなくなっているのが現代日本人というものだ。「女子力」などというものもその類であろう。結婚がいまだ「神聖」なものでありうるのは、同性愛者の間だけかもしれない。





2013年10月1日火曜日

キノコとクリの季節(西脇順三郎)

秋  西脇順三郎


灌木について語りたいと思うが
キノコの生えた丸太に腰かけて
考えている間に
麦の穂や薔薇や菫を入れた
籠にはもう林檎や栗を入れなければならない。
生垣をめぐらす人々は自分の庭の中で
神酒を入れるヒョウタンを磨き始めた。


 「近代の寓話」に「形而上学的神話をやつている人々と/ワサビののびる落合でお湯にはいるだけだ」とあるのを、西脇順三郎自ら、《これは実は「猥談」をしている同僚のことだ》と解説したそうだ。(「記憶の塔」)
http://www.meijigakuin.ac.jp/~gengo/bulletin/pdf/19niikura-kioku.pdf

「詩とは言語の徴候的側面を主にした使用であり、
散文とはその図式的側面を主にした使用である」
(中井久夫『現代ギリシャ詩選』序文)

詩にどんな徴候を感じるか
それは読み手しだいだ
西脇があれは猥談だといったって
猥談として読む必要はない

『失われた時をもとめて』の初稿のラスクやトーストが
「厳格で敬虔な襞の下の、あまりにぼってりと官能的な、
お菓子でつくった小さな貝の身」
「溝の入った帆立貝の貝殻のなかに
鋳込まれたかにみえるプチット・マドレーヌ」に変わったって
鋳込まれた〔moulé〕ーーmoule(ムール貝)には、女陰の意味があったって
そう読む必要はないように

もちろん朧げながら最初からそう感じてしまう読み手だっている

長いあいだ、プチット・マドレーヌはわたしを苛立たせてきた。(……)何といっても、スプーンのなかでとけ崩れるこの菓子の、色あせた昔の匂いとそのスポンジ状の質感に、なにかそれがいかがわしい、ひょっとすると淫らなことでさえあるかのような居心地の悪さを覚えてきた。(フィリップ・ルジェンヌ「エクリチュールと性」)

ゴモラの女アルベルチーヌが「囚われの女」となって
しきりに求めるアイスクリーム、アスパラガス、牡蠣などだって
ただ食欲旺盛の乙女の好みとだけ読んだっていい

(ここでの比喩は)……カイエ1 のオナニスムのテクストにもあった妙な形の雲が浮かんでおり, しかもそれは帆立貝coquille de Saint-Jacques に似ており,弁がついているvalvé と言うのだから穏やかではない。なぜなら,驚くべきことにこれらの表現は決定稿のマドレーヌの描写にぴったり一致するからである。

Ph. ルジュヌがvalve をvulve に通じるものと考え,マドレーヌの形(……)を女性器に適合したものと考えたのは,決して根拠のないことではなかったのだ。カイエ27 のテクストは何よりもそのアナロジーを雄弁に実証している。と言うのは,女性器としての雲のイメージは直後に来るジルベルトとの接吻の場面を予告し,主人公のリピドーを暗示する性的な風景だからである。(吉田城「プルーストと性的風景」)





荒木について騙りたいと思うが
キノコやクリの話ではない
ましてや栗と栗鼠でもない
ヒョウタンを磨きたいわけでもない
麦の穂でつついた薔薇や菫が
なぜ林檎や栗にはやがわりしたのかも
知るところではない
だがおそらく秋のせいだ
さらに晩秋には籠は不用となる
朽ち枯れたキノコの具合をもう考えることもなく
川ばたに季節はずれの蕾を膨らますアマリリスを慈しみ
あるいは谷さきに埋もれた二股大根を愛でるのみ






《微熱あるひとのくちびるアマリリス》(吉岡実)

たちの悪いいたずらはなさらないで下さいませよ、眠ってゐる女の子の口に指をいれようとなさつたりすることもいけませんよ、と宿の女は江口老人に念を押した。
「女の子を起こさうとなさらないで下さいませよ、どんなに起こさうとなさつても、決して目をさましませんから…。女の子は深あく眠つてゐて、なんにも知らなんですわ。」と女はくりかえした。(川端康成『眠れる美女』)

《聖天様には油揚のお饅頭をあげ、
大黒様には二股大根、
お稲荷様には油揚を献げるのは
誰も皆知っている処である》(荷風『日和下駄』)

盛リ上ガッテイル部分カラ土蹈マズニ移ル部分ノ,継ギ目ガナカナカムズカシカッタ。予ハ左手ノ運動ガ不自由ノタメ,手ヲ思ウヨウニ使ウコトガ出来ナイノデ一層困難ヲ極メタ。「絶対ニ着物ニハ附ケナイ,足ノ裏ダケニ塗ル」ト云ッタガ,シバシバ失敗シテ足ノ甲ヤネグリジェノ裾ヲ汚シタ。シカシシバシバ失敗シ,足ノ甲ヤ足ノ裏ヲタオルデ拭イタリ,塗リ直シタリスルコトガ,又タマラナク楽シカッタ。興奮シタ。何度モ何度モヤリ直シヲシテ倦ムコトヲ知ラナカッタ。(谷崎潤一郎『瘋癲老人日記』)

聖天様のお饅頭は男女の悩みのため
大黒様の二股大根は破壊と豊饒、
お稲荷様の油揚は大地に蒔かれた種への祈願
いまは誰も皆知っているわけではない







「いちはつのような女と
はてしない女と
五月のそよかぜのようなと
この柔い女とこのイフィジネの女と
頬をかすり淋しい。
涙とともにおどる
このはてしない女と。」(西脇「無常」)







荒木の写真は、自分がいなくても自分が写りこむ「私写真」と本人が称するように、写真家の"存在"を痛烈に感じさせるものだ。直接姿を見せずとも、自分を写真の中に色濃く写し出す。(……)

こうした写真家の意図が、「自然に、ありのままに裸体が存在しているはず」という見るものの思惑を、そして見るものの視線を中断させるのだ。できるだけ写真家の痕跡を消そうとしていたグラビア写真とは正反対の行動である。荒木の写真は、扱う題材が一般的なポルノグラフィーとほとんど変わらない、もしくはそれ以上に過激であるにもかかわらず、「役に立たない」写真であるとされている。伊藤俊治の言葉を借りれば、「孤独な満足」を得られないのである。ポルノグラフィーでは可能だった鑑賞者と被写体との個人的な関除に、第三者として荒木が割って入っているからだ。(「私的な視線によるエロティシズム : 荒木経惟の作品を中心とした写真に関する考察」秦野真衣)








荒木の写真に出てくる女性たちは、たいてい裸である。そのうえ大股を広げたり、尻を突き出したりして性器を露に見せることも少なくない。時にはまさに性交の最中に撮られたと思われる写真もある。写された女性たちの姿は、暴力的なポルノグラフィーの姿とほとんど変わりはない。にもかかわらず荒木の写真がポルノグラフィーではないのは、作者の存在があるからであった。(……)シーレの絵の中の女性も荒木の写真の中の女性も、彼女たちの視線を向けている方向をみると、自分の目の前に存在する作者のことしか考えていないように思われる。どんなに笑いかけていても、煽情的なポーズをとっていても、彼女たちの視線は「見る」ものの視線を飛び越えていく。モデルたちはカメラに振られていることに対しては充分に自覚的だが、その背後にある写真を見るであろう無数の視線には反応を示さない。自分にとって重要で、意味を成すのは目の前にいる写真家との関係だけだからだ。(同上)








問題は、この絵に"描かれているもの"だ。裸の女性のポーズは挑発的であるにもかかわらず、この絵はポルノグラフィーではない。その理由を飯田善國は「そこに描かれているのは性の演技ではなく、画家とモデルとの一回限りの、ある微妙な関係だけが真の主題として措かれているから」だと説明する。「一回限り」とは「生」が一回であることによる時間の限定であり、シーレもモデルも共に一回性の中で出会い、生きる。シーレの視線があれほど真撃であるのは、たった一回の出会いを逃すまいと必死だからだ。(同上)











作品がワイセツであるかどうか、そんなことは私にとって何ら興味もない。私に興味があるのは、それが絵としてどれほど完成し、どれほど独創的であったか、ということである。歌麿のすべての版画のなかでも、これほど完成し、これほど独創的なものは、おそらく少い。(加藤周一「対象との距離」『絵のなかの女たち』所収)

ーーなどというつもりは、わたくしには毛ほどもない
ただシーレとクリムトを同時に好むヤツは
あまり信用したくないということはある

浅田彰が荒木経惟の写真のウェットな感傷性を批判しても
あまり聴く耳をもたないということもある

荒木経惟は(……)、しみったれた私の人生の断片を薄汚い私写真として切り売りし、臆面もなく俗情に訴えてみせる。あざとい戦略であったにせよまさしく私への撤退だったわけです。もっとも、勤務先の電通のゼロックスを使って写真集をつくってしまうとか、猥雑表現の検閲と戦いながら穴倉のような小部屋を女性器の写真でうめつくすとか、(……)、そこには肥大した私へのだらしない居直りだけがのこるんですね。

 その篠山紀信から荒木経惟へ、極端に外在化されたものから悪い意味で内面化、主観化されたものへ、というシフトが起こった。それは一見、商業的なものから私的なものへのシフトのように見えて、実は私的なものこそが商業的により効果的だったという皮肉な落ちがついたわけです。(浅田彰 中平卓馬という事件)