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2013年10月7日月曜日

ラカン派の「転移」のいろいろ

《……分析関係が深まると、セッションで起きていることは、微細に見るならば、ほとんどすべて転移現象として捉えることができます。しかし、転移概念をこのように拡大すると、「転移の外部はない」という常套句とあまり変わらなくなる。むしろ、転移という文脈で理解した方がいいコミュニケーションと、そうではないコミュニケーションがある、といったふうにプラグマティックな観点から考えたほうがいいと思いますね。》(来るべき精神分析のために(2009/05/29 岩波書店)十川幸司発言)

(精神分析治療において、<知っていると想定された主体>としての分析家の役割)……患者は治療を受けることになった瞬間、「この分析家は私の秘密を知っている」という絶対的な確信を得る(これが意味しているのはたんに、患者は秘密を隠しているという罪悪感を最初から抱いており、彼の行動には実際に隠された意味がある、ということだ)。分析家は経験主義者ではない。さまざまな仮説を駆使して患者を探り、証拠を探すわけではない。そうではなく、分析家は患者の無意識的欲望の絶対的確信(ラカンはそれをデカルトの「我思う、ゆえに我あり」に譬えている)を体現しているのだ。ラカンによれば、自分が無意識の中ですでに知っていることを分析家に移し替えるという、この奇妙な置換こそが、治療における転移現象のいちばんの中核である。「分析家は私の症候の無意識的な意味をすでに知っている」と仮定したときはじめて、患者はその意味に到達できる。フロイトとラカンの違いはどこにあるか。フロイトは、相互主観的な関係としての転移の心的力学に関心を向けた(患者は父親に対する感情を分析家に向ける。だから患者が分析家について語っているとき、「じつは」父親について語っている)。ラカンは、転移現象の経験的豊富さにもとづいて、仮定された意味の形式的構造を推定した。(ジジェク『ラカンはこう読め』

《ラカンによれば、自分が無意識の中ですでに知っていることを分析家に移し替えるという、この奇妙な置換こそが、治療における転移現象のいちばんの中核である。》


いや違います


「転移」は 英語で transference と言います。ドイツ語では Übentragung、フランス語では transfert です。 「転移」とはそもそも何でしょうか。精神分析を学び始めた人は誤解しやすいのですが「気持や感情を相手に移してしまうこと」だと思い込んでいる人が意外に多いのです。たとえば「あなたのことが好きです」と言ったら、相手に 自分の感情を移しており、これが「転移」と思っている人が少なからずいます。しかし、転移というものはそういう ものではありません。「転移」とは、発達のごく初期に自分が深い愛情を抱いた対象との関係を、現前の対象との間で再現し反復することをいいます。つまり転移の本質は、発達の初期に生じた対象関係を、後になって別の対象を選択して反復することなのです。(藤田博史 セミネール断章 2012.3 )http://euroclinique-dc.com/_src/sc2239/seminaire20120320.pdf

《「転移」とは、発達のごく初期に自分が深い愛情を抱いた対象との関係を、現前の対象との間で再現し反復することをいいます》

いや違います


転移はしばしば反復現象と混同される。転移とは、過去において患者にとって重要な人物、特に幼児期における両親に対する欲動・態度が分析の場で分析家に向けられて出てくる現象を指すと考える傾向がある。過去の出来事が反復されて出てくることが転移現象と考えると、転移の解釈がなされるようになる訳だが、それは常に分析家との関係の中で起こることが中心になる。そこでは患者と分析家との間に二者関係が成立し、分析家が患者に対して抱く逆転移の感情までが解釈のために利用されるようになる。そうなると分析家は患者の葛藤に巻き込まれてしまって、抜き差しならない関係に陥る危険が生じるだろう。

ラカンは転移と反復現象とをはっきりと分けて考える。転移は患者の自由連想作業の結果、無意識の知が想定され、その無意識の知に主体が想定されること(SSS,sujet supposé savoir)から生じるというのだ。その想定が分析家に向けられると、分析家は患者の無意識について知っている者とされ、知に対する愛情が芽生え転移性愛情となる。つまり、転移性恋愛はSSSの生み出す効果なのだ。他方、反復は外傷体験、つまり現実界と繋がっているものと考えられる。

患者が最初分析家のキャビネットを訪れるのは、そこに自分の問題を解決してくれる何かがあるという想定、期待があるからで、そこには分析家に対する治療以前の転移がすでに成立しているはずである。それがなければ分析家を訪れることはないだろう。したがってあらかじめ転移が成立していない場合、たとえば周りの人から無理矢理送られてきたような場合には分析は困難である。ただし子供の場合はこうしたあらかじめの転移は通常成立しておらず、親が送ってくるのであるから別であるが、親には転移が成立しているので間接的転移がなされていると言える。しかしこうした転移は予備的な転移であって、分析の場で作用する転移とは区別される。分析の中での本来の転移は、自由連想で語る中に患者自身も気がついていない無意識の知があることが想定されるようになってはじめて成立する。そしてその結果、転移による無意識の作用が始まる。(向井雅明「精神分析における臨床について」 『I.R.S.――ジャックラカン研究』9/10巻 )


ミレール登壇。

はたして仲裁なるか?

ラカンは転移を心的現実と結びつけます。例えば、ラカンが転移を「無意識における現実性の現勢化」として定義するときです。しかし、この言葉は現実性[realite]と現実界[le reel]を区別したときにのみ、その真の意味を得ることができます。それゆえ、ラカンが転移を「無意識における現実性の現勢化」であるというとき、無意識における現実界の現勢化と言っているのではありません。あとで分かるように、これは基本的な区別です。ラカンは、無意識の現実性はつねに曖昧かつ騙すものであり、一方、反復は現実界と繋がっており、騙さないものであるということを示しています。セミネールXで不安について語るとき、ラカンは不安をその他のすべての情動と区別しています。分析においても生活においても、不安は欺いたり騙したりするような情動ではありません。ラカンは不安を、彼が現実界と呼ぶものと結びつけています。現実界とは人が掴むことのできないものですが、騙すことはありません。

セミネールXIを理解するためには、転移を騙すものとしての現実性と繋げる必要があります。そして、反復は欺かないものとしての現実界と繋げる必要があるのです。転移としての無意識を問題にするとき、欺いたり騙したりするものとしての無意識が提示されています――これはフロイトの著作に非常によく現れています。例えば、分析に関する患者の夢を議論するにあたって、フロイトは、 患者が夢をみることによって分析家のうちの何かを満足させるよう試みていることを指摘しています。もし、夢の柔軟性と流動性を真剣に受け取るならば、無意 識は嘘のない真理それ自体ではないということを認めなくてはなりません。これが、ラカンが真理は虚構の構造を持っていると言うときに意味していることで す。これは、ここでの転移についての講義から生まれたのです。(「(『精神分析の四基本概念』の)文脈と概念」Context and Conceptジャック=アラン・ミレール)


《Lacanian communities, where the group recognizes itself through the common use of some jargon-laden expressions whose meaning is not clear to anyone, be it “symbolic castration” or “divided subject”—everyone refers to them, and what binds the group together is ultimately their shared ignorance. Lacan's point, of course, is that psychoanalysis should enable the subject to break with this safe reliance on the enigmatic master signifier.》(Zizek THE REAL OF SEXUAL DIFFERENCE)


なに言ってるかわからないから、
ラカン派の言説に「転移」する
なんてことだけはないように注意しろよな、
最初からアガルマの対象aではなく
屑の対象aかもよ

a  ―> S/
S2 // S1


a―対象a、ここにディスクールのエージェントとしての分析家が置かれる。分析家は対象aの振りをするsemblantのだ。まず解釈によって患者のディスクールの分裂を指摘し、患者を分裂した主体にする。つまり主体を生み出すもの、主体の原因としてのa、そして、精神分析家の欲望Xを表わす対象a、分析者の現存としての対象である。また分析中はソクラテスのようにアガルマ=対象aを隠し持つ者であり、分析の終わりには屑=対象aのように患者から捨てられるものである。

矢印―>は分析家の介入を表わす。

S/―エージェントの他者としての分裂した主体、これは無意識の主体でもある。自由連想を実行し無意識の作業によってS1を生み出す。

S1―生産物としてのシニフィアンはひとつだけではなく一群(S1=essaim)のもので、これを生み出すことによってそれまで主体はそれまで自分を支配していた同一化S1 / S/が解消される。これはS2からは切り離された絶対的シニフィアンで分析家の欲望はこれを目指している。

S2―分析家は主体の分裂を引き起こすことによって、自らの下に真理としてのひとつの知を想定させ、転移を成立させる。この知は生産物としてのS1とは切り離されている。つまりS1は連鎖をなしていない。それはマテーム上では // で表わされる。(向井雅明「精神分析における臨床について」『I.R.S.――ジャックラカン研究』9/10巻 ) 



…………


転移に効果的側面と抵抗的側面があることはよく知られているが、この転移の二面性に関してラカンは「転移というこの両刃の斧の軸となり、共有点となるのは分析家の欲望である」と述べている。つまり、分析においては分析家の欲望のあり方によって転移は吉とも凶ともなるのである。このことは次のことを意味している。すなわち、分析家の欲望が明示的であれば、対象aは愛というルアーとして機能して分析を袋小路に導き、分析家の欲望が非明示的であれば、対象aは欲望を支える幻想として機能して分析の出口を提供するということである。愛と幻想という対象aの二つの機能は転移の二つの側面に対応しているのである。詳述しよう。

同一化の臨床においては、分析家の欲望、卑近な言い方をすれば分析家の意図や意志が分析主体にそれとはっきりとわかる場合、換言すれば、分析家側の解釈が一つのシニフィアンとなり、意味を産出させた場合、欲望を欲望する主体は、明示的な形で表現されたその意味を分析家の欲望と捉えて、それに同一化する傾向がある。この同一化は対象a[a厳密にはi(a)]と自我理想[I]との重なりで表現される。このような状況は一般には治療状況を好転させる転移、つまり転移性治癒をもたらす陽性転移と見なされる。しかし、分析家がそうした良い感情を持続発展させようとしたり、患者を治癒させたいという情熱だけで分析に臨むなら、この陽性転移は強化され、分析を停滞へと導く愛となっていく。このことを考慮すると、愛は転移の抵抗的側面であり、フロイトに倣えば、それは無意識的な陽性転移である。

幻想の臨床においては、分析家は沈黙やスカンシオンによって、主体に明示的な意味を与えないというスタンスを取る。その結果、分析家の欲望は謎のままに留まり、主体は同一化する対象を失い困惑するものの、分析家側の幻想を混ぜ合わせることなく、自ら思うところのシニフィアンを数え上げることによって幻想を反覆していく。それは対象a[a]と自我理想[I]との隔たりで示される脱同一化の過程を示している。(赤坂和哉「ラカン的臨床への助走 -ジャック-アラン・ミレールの議論を通して-」 ーーweb上 word doc有)


…………

オレかい? オレの程度の頭には、次の文がもっとも好みだね、転移だけに関すればだけれど、つまり「知を想定された主体」などと考えなければ(これは赤坂論文に感心したな)。


「わたしは恋をしているのだろうかーー然り、こうして待っているのだから。」相手の方はけっして待つことがない、自分も待つことのない者として振舞ってみようと思うことは多い。別のところで忙しくして、遅れてゆこうと努めてもみる。しかし、この勝負はいつもわたしの負けに終る。なにをどう努めてみても、結局のところ私は暇なのであり、時間に正確で、早めに来てしまっている。「わたしは待つものである。」これが、恋する者の宿命的自己証明なのだ。

(転移現象のあるところには常に待機がある。医師が待たれ、教師が待たれ、分析者が待たれているのだ。さらに言えば、銀行の窓口や空港の出発ゲートで待たされている場合にも、わたしは、銀行員やスチュアーデス相手にたちまち攻撃的な関係を打ちたてる。彼らの冷淡さが、わたしのおかれた隷属的状態を暴露し、わたしをいらだたせるからだ。したがって、待機のあるところには常に転移があると言えよう。わたしは、自分を小出しにしてなかなかすべてを与えてくれようとしない存在――まるで欲望を衰えさせ、欲求を疲労させようとするかのようにーーに隷属しているのだ。待たせるというのは、あらゆる権力につきものの特権であり、「人類の、何千年来のひまつぶし」なのである。)(ロラン・バルト『恋愛のディスクール』)

…………

※附記

ここで決定的に重要なのは、「イエス・キリストの信仰」という言葉のあいまいさである。この「の」は、主格にも目的格にも読むことができる。つまり、これは「キリストの信仰」か、「キリストに対する/われわれ信者の/信仰」か、そのどちらかである。われわれは、 キリストの純粋な信仰によって救済されるか、あるいは、われわれがキリストを信仰している場合にかぎり、キリストに対する信仰によって救済されるか、そのいずれかである。ことによると、この二つの意味を同時に読み込む方法はある、といえるかもしれない。われわれが求められているのは、キリストの神性そのものを信じることではなく、キリストの信仰、彼の罪のない純粋さを信じることであるからだ。 キリスト教が提示するのは、われわれにとって、信じていると想定された主体として存在するキリストである。われわれは日常において、何かを本当に信じることはまったくない。しかし、なにかを本当に信じている〈一者〉が存在するという慰めを得ることはできるのである。しかし、ここで最後のひねりが来る。それは、〈十字架〉の上では、キリスト自身が、みずからの信仰をつかの間ではあれ中断しなければならない、ということである。したがって、キリストは、深層のレヴェルにおいてむしろ、われわれ(信者)にとって、信じてい〈ない〉と想定された主体として存在するのかもしれない。つまり、ここでわれわれが他者に転移するのは、われわれの信仰ではなく、われわれの不信仰である。〈他者〉を通じて信仰を保ちつつなにかを疑ったり、ばかにしたり、疑問に付したりする代わりに、われわれは、絶えずわき上がる懐疑を〈他者〉に転移し、それによって信じる力を回復することもできるのだ。 (ジジェク『操り人形と小人 キリスト教の倒錯的な核』)

<救い主=イエス>は、まず<信じていると想定される主体>として機能するとある。なにも信じていない主体は、それにもかかわらず、<救い主>に転移することによって慰めを得る。それはわれわれは始終やっていることだ、たとえば不信心者でも、神社のお守りを車内にぶらさげたり、鞄につけたりする。理論物理学者のニール・ボーア、《ボーアの家には蹄鉄が付いていた。それを見た訪問者は驚いて、自分は蹄鉄が幸福を呼ぶなどという迷信を信じていないと言った。ボーアはすぐに言い返した。「私だって信じていません。それでも蹄鉄を付けてあるのは、信じていなくても効力があると聞いたからです」。》(『ラカンはこう読め』p59)

ジジェクは、さらにひねりを加えて、<信じていないと想定された主体>への転移を挙げているが、これも、たとえば映画の悪役に転移して、われわれはそれによって信じる力を回復する(善人として振舞う力を得る)ということはしばしば起こっていることだろう。

このあたりの消息をより詳しく説明した文が、次にある。ジジェクのロジックのポイントは冒頭の文、《われわれが心の一番奥底に秘めている感情や態度を、なんらかの姿をした<大文字の他者>のもとへと移し替えるということが、ラカンのいう<大文字の他者>の概念のいちばんの中核にある》であろう。

われわれが心の一番奥底に秘めている感情や態度を、なんらかの姿をした<大文字の他者>のもとへと移し替えるということが、ラカンのいう<大文字の他者>の概念のいちばんの中核にある。それは感情だけではなく信仰や知識にも当てはまる。すなわち<大文字の他者>はわれわれの代わりに信じたり知ったりすることができる。このような、主体の知を他者の知に置き換えるという行為を説明するために、ラカンは<知っていると想定される主体>という概念を導入した。テレビの「刑事コロンボ」シリーズでは、犯罪--殺人行為--があらかじめ詳細に描かれる。したがって、解かれるべき謎は「誰がやったか」ではなく、刑事がいかにして欺瞞的な表面(フロイトの夢理論の用語を使えば、犯罪場面の「顕在内容」)と犯罪についての真理(その「潜在思考」)を結びつけるか、彼がいかにして犯人にその罪を証明するか、である。「刑事コロンボ」シリーズが大ヒットしたという事実は、刑事の仕事に対する関心の真の源泉が、謎の解明のプロセスそのものであって、その結果ではないことを証明している。

 この特徴よりももっと重要なのは、誰がやったのかをわれわれ視聴者はあらかじめ知っている(じかに目撃するのだから)ということだけでなく、理由はわからないが、刑事コロンボもまたすぐにそれを見抜くということである。犯行現場を訪れ、犯人に出会った瞬間、彼は絶対的確信を得る。犯人がそれをやったのだということを、彼はたんに知っている。彼はその後、「誰がやったのか」という謎を解くためではなく、犯人の罪をいかにして犯人に証明するかをめぐって、努力するのである。普通の順序が奇妙に逆転されているのだが、ここには神学的な意味がある。真の宗教的信仰においては、私はまず神を信じ、それから、自分の信仰を根拠として、自分の信仰の真実性を示す証拠が得られるようになる。ここでもまた、コロンボは、神秘的な、だがそれにもかかわらず絶対的な確信によって、誰がやったのかを最初から知っており、しかる後に、この絶対的な知にもとづいて、証拠を集めていくのである。

 多少の違いはあるが、精神分析治療において、<知っていると想定された主体>としての分析家はそれと同じ役割を演じる。患者は治療を受けることになった瞬間、「この分析家は私の秘密を知っている」という絶対的な確信を得る(これが意味しているのはたんに、患者は秘密を隠しているという罪悪感を最初から抱いており、彼の行動には実際に隠された意味がある、ということだ)。分析家は経験主義者ではない。さまざまな仮説を駆使して患者を探り、証拠を探すわけではない。そうではなく、分析家は患者の無意識的欲望の絶対的確信(ラカンはそれをデカルトの「我思う、ゆえに我あり」に譬えている)を体現しているのだ。ラカンによれば、自分が無意識の中ですでに知っていることを分析家に移し替えるという、この奇妙な置換こそが、治療における転移現象のいちばんの中核である。「分析家は私の症候の無意識的な意味をすでに知っている」と仮定したときはじめて、患者はその意味に到達できる。フロイトとラカンの違いはどこにあるか。フロイトは、相互主観的な関係としての転移の心的力学に関心を向けた(患者は父親に対する感情を分析家に向ける。だから患者が分析家について語っているとき、「じつは」父親について語っている)。ラカンは、転移現象の経験的豊富さにもとづいて、仮定された意味の形式的構造を推定した。

 転移は、より一般的な規則の一例にすぎない。その規則とは、新たな発明というのは、過去の最初の真理に戻るという錯覚的な形式においてのみなされるということである。プロテスタンティズムに話を戻すと、ルターはキリスト教の歴史において最大の革命を成し遂げたが、彼自身は、数世紀にわたるカトリックの堕落によって不明瞭になっていた真理を掘り起こしただけだと考えていた。民族復興についても同じことがいえる。民族集団が国民国家を建設するとき、彼らはふつうこの政体を古代の忘れられた民族的ルーツへの回帰として公式化する。彼らが気づいていないのは、彼らの「回帰」そのものが、回帰すべき対象を形作っているということだ。伝統への回帰とは、伝統を発明することに他ならない。歴史家ならだれでも知っているように、(今日知られているような形の)スコットランドのキルト[巻きスカート]は十九世紀に発明されたものである。

 ラカンの多くの読者が見落としているのは、<知っていると想定される主体>というのは、副次的な現象であり、ひとつの例外にすぎない。つまりそれは≪信じていると想定された主体≫というより根本的な背景の前にあらわれるということである。この≪信じていると想定された主体≫こそが象徴的秩序の本質的特徴である。ある有名な人類学者の逸話によれば、迷信的な信仰(たとえば自分たちの祖先は魚あるいは鳥だという信仰)をもっているとされる未開人が、その信仰について直接尋ねられた際、こう答えたという。「もちろんそんなことは信じていない。私はそんなにばかじゃない。でも先祖の中には実際に信じていた人がいたそうだ」。要するに、彼らは自分たちの信仰を他者に転移していたのである。われわれも子どもに対して同じことをしているのではなかろうか。われわれがサンタクロースの儀式をおこなうのは、子供が信じている(と想定される)からであり、子どもを失望させたくないからだ。いっぽう、子どものほうも、おとなを失望させないために、そして子どもは素朴だというわれわれおとなの信仰を壊したくないために(そしてもちろん、ちゃっかりプレゼントをもらうために)、信じているふりをする。「本気で信じている」他人を見つけ出したいというこの欲求は、同時に、他者に宗教的あるいは民族原理主義者を押したいという欲求を駆り立てるのではなかろうか。なにか不気味なかたちで、ある種の信仰はつねに遠くで機能するように見える。信仰が機能するためには、何かそれの究極の保証者、真の信者がいなければならない。だがその保証者はつねに遠ざけられ、疎んじられ、本人があらわれることはけっしてない。では、いかにして信仰は可能なのか。この遠ざけられた信仰の悪循環はいかにして短絡するのか。むろん重要な点は、信仰がちゃんと機能するためには、素直に信じている主体が存在する必要はまったくないということだ。その主体の存在を仮定するだけでいい、その存在を信じるだけでいいのだ。それは、われわれの現実の一部ではない、神話的な創造者という形であってもいいし、人格を保たない役者であってもいいし、不特定の代理人でもいいのだ。「彼らはこう言っている/そう言われている」。(ジジェク『ラカンはこう読め!』

 ところで2012年に出版されまだ日本では2014年春から夏にかけて和訳上梓予定の『LESS THAN NOTHING』では、「享楽していると想定された主体」、あるいは「主体であると想定された主体」などの、一見よりひねった表現がでてくる。S1—the subject supposed to believe; S2—the subject supposed to know; a—the subject supposed to enjoy; and … what about $? Is it a “subject supposed to be a subject”? (……)the subject itself is a supposition

これはなにを言っているのか。――そもそもラカン派では「主体」そのものが「想定」であるのだから、いっけん奇矯な表現であるにもかかわらず、よく考えてみれば当たり前のことなのだ。それは、たとえば「大文字の他者」の存在の想定やら、パラノイアの想定する「他者の他者などが存在しないにもかかわらず存在すると想定される、という文脈のなかにある。《an Other in the Real is "the Other of the Other". A belief in an Other of the Other, in someone or something who is really pulling the strings of society and organizing everything, is one of the signs of paranoia.》(Slavoj Zizek - Key Ideas

<大他者>に対する精神病者の不信、(間主観的共同体に具現化された)<大他者>は自分を騙そうとしている、という彼の固着観念は、つねに必然的に、一定不変の<他者>、断絶のない<他者>、すなわち「<他者>の<他者>」(……)に対する揺るがぬ信頼に支えられているのである。パラノイア症者が、象徴的共同体や「一般の意見」の<他者>をどうしても信用しないのは、騙されていない、手綱を握っている「<他者>の<他者>」の存在を信じているからである。パラノイア症者の誤りは、その徹底した不信や、すべては欺瞞に満ちているという確信にあるのではない。その点では彼はまったく正しいのだ。象徴的秩序は究極的には根本的に欺瞞に基づいた秩序なのだから。そうではなく、彼の誤りは、この欺瞞を操作している隠れた存在がいるという信念にある。(ジジェク『斜めから見る』P156)

ここで「精神病者」とあるが、「父なき時代」の現在、ミレール派ECFでは、21世紀は「ふつうの精神病」の時代という定式がほぼ定説化しており(もっとも「ふつうの倒錯」の時代というメルマン派ALIの主張もある)、われわれの時代の典型的主体は、「<他者>の<他者>」を信じているのではないだろうか。

今日の典型的な主体は、いかなる公のイデオロギーに対しても冷笑的な不信を表に出しながら、どこまでも陰謀や脅威や〈他者〉の享楽の過剰な形態についてのパラノイア的幻想にふけっている。大文字の〈他者〉(象徴界の虚構の次元)の不信、つまり主体が「それをまともにとる」ことをしないのは、「〈他者〉の〈他者〉」があること、実は、ある秘められた見えない全能の代理人(エージエント)が「糸を引いて」おり、舞台を動かしているということを信じることにかかっている。眼に見える、公の権力の背後に、別の、猥褻な見えない権力構造があるということだ。この別の、隠れた代理人が、ラカン的な意味での「〈他者〉の〈他者〉」の役、大文字の〈他者〉(社会生活を調節する象徴界の次元)が一貫することの、メタ保証の役を演じている。われわれはここにこそ、近年の物語化の行き詰まり,すなわち「大きな物語」というモチーフの終わりの根を求めるべきだろう。(ジジェク『サイバースペース、あるいは幻想を横断する可能性』松浦俊輔 訳)