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2011年1月29日土曜日

現代の「強迫神経症者」たち

ラカンの弟子のひとりであるオクターヴ・マノーニに「よくわかっているが、それでも……」という古典的論文があって、「<現実界>の応答」の論理を分析している。まずその論へのジジェクの解説を引用してみる。

<現実界>への応答のほとんどの人の典型的態度は、たとえば「生態危機」というリアルに対してであれば、《「(事態はきわめて深刻であり、自分たちの生存そのものがかかっているのだということを)よく知っているが、それでも……(心からそれを信じているわけではない。それを私の象徴的宇宙に組み込む心構えはできていない。だから私は、生態危機が私の日常生活に永続的な影響を及ぼさないかのように振る舞いつづけるつもりだ)」という有名な否認そのままである》(ジジェク)。

次に、<生態危機>を<財政破綻>に読み替えて、ジジェクの論を自由間接話法で語ってみよう。
<財政破綻>を本当に深刻に受け止めている人たちの典型的な反応は―――リピドー経済の次元では―――強迫的なのである。強迫神経症者のリピドー経済の核はどこにあるのか。強迫神経症者は狂的な活動に加わり、年じゅう熱に浮かれされたように働き続ける。なぜか。自分が活動をやめてしまったら何か大変なことが起きるに違いない、と考えるからである。
 
ここでジジェクによる「倒錯」、「ヒステリー」「強迫神経症」の簡略な説明をあげておく。
倒錯を特徴づけているのは問いの欠如である。倒錯者は、自分の行動は他者の享楽に役立っているという直接的な確信を抱いている。ヒステリーとその「方言」である強迫神経症とでは、主体が自分の存在を正当化するその方法が異なる。ヒステリー症者は自分を<他者>に、その愛の対象として差し出す。強迫神経症者は熱心な活動によって<他者>の要求を満足させようとする。したがって、ヒステリー症者の答えは愛であり、強迫神経症者のそれは労働である。(『斜めから見る』)

あるいは強迫神経症者の典型的な戦略である偽りの行動(false activity)様式。
人は何かを変えるために行動するだけでなく、何かが起きるのを阻止するために、つまり何ひとつ変わらないようにするために、行動することもある。現実界的(リアル)なことが起きるのを阻止するために、彼は狂ったように能動的になる。たとえばある集団の内部でなんらかの緊張が爆発しそうなとき、強迫神経症者はひっきりなしにしゃべる。(『ラカンはこう読め!』)

すなわち、リアルな現実を見ないふりをするため、あるいは核心を突く発言者を黙らせておくためにしゃべり続ける。《人びとは何にでも口を出し、「何かをする」ことに努め、学者たちは無意味な討論に参加する。本当に難しいのは一歩下がって身を引くことである。

ジジェクはこのような「何にでも口に出す」態度を、似非能動性と呼んでいる。そして、
このような状態に対する、真の批判の一歩は、受動性の中に引き篭もり、参加を拒否することだ。この最初の一歩が、真の能動性への、すなわち状況の座標を実際に変化させる行為への道を切り開く》、と。


2011年初頭の段階で、多くの人びとが何を見ないふりをしているかは明らかだ。そして無駄話にうつつを抜かしている人びとの「熱心さ」は、まさに「強迫的」である。

ブレヒトはこのように書いている。
「私は、たとえば、ほんの少量の政治とともに生きたいのだ。その意味は、私は政治の主体でありたいとはのぞまない、ということだ。ただし、多量の政治の客体ないし対象でありたいという意味ではない。ところが、政治の客体であるか主体であるか、そのどちらかでないわけにはいかない。ほかの選択法はない。そのどちらでもないとか、あるいは両者まとめてどちらでもあるなどということは、問題外だ。それゆえ私が政治にかかわるということは避けられないらしいのだが、しかも、どこまでかかわるというその量を決める権利すら、私にはない。そうだとすれば、私の生活全体が政治に捧げられなければならないという可能性も十分にある。それどころか、政治のいけにえにされるべきだという可能性さえ、十分にあるのだ。」(『政治・社会論集』)

日本の財政状態をみないふりをし続けるのは、もう限界だ(などということも何年も前から言い続けられているわけだが)。「規制」「教育」「コミュニケーション」などを語るのが全くの無駄だとはいうまい。だが、「政治」、すなわち、消費税、年金受給年齢、あるいはベーシック・インカム導入の可能性……。<あなたたち>には関係ない話しかね?

今、政治の「客体」のままでい続けるわけにはいかないはずなのだが。―――ということを言えるのは、私が海外住まいで税や年金がどうなろうと関係ないせいなのかもしれない……

資料:<日本の若者がおとなしいのは不思議だ>

かなり前から、日本に暴動が起こらないのは不思議だ、という類の言説はあったようだ。たとえば、上野千鶴子さんインタビューより。


  私が日本的現象だと思って不思議なのは、フリーターが増えていて、若年失業率が高まっているのに、当事者に危機感がないことです。自分が不当に扱われているにもかかわらず、仕事がないということに対する危機感がない。
  それを支えているのは親でしょう? 親に対する依存があるために、パラサイトシングルでいられる。親のほうも、子どもが離れていってほしくないために、それを認める。おたがいにもたれあって、自立をしようとしない、あるいは子どもを自立させようとしない共依存状態です。
  いまの状況は、外国だったら暴動が起きていてもおかしくないような事態です。フランスの経済危機では、学生デモが起きました。
  いままでの日本の家族には、パラサイトを支えるだけの親のスネがありました。しかし、このスネは早晩なくなります。
  それから、仕事のリアリティを持てない背景には、子どものときに、仕事への接触がないことが大きいと思います。これは、学校が本当に悪いと思いますね。アルバイト禁止なんていう、とんでもないことを、なんでするのか。子どもたちを学校という管理社会のなかに囲いこんで、子どもたちから社会経験を奪ってきたわけです。





ここでは、「財政破綻」に絡んでのいくつかの資料を掲げる、すこし際物系も含めて(しかし、ほんとうにキワモノか? 三年後の現実の可能性などを指摘する見解もあるのだが……)。



※参照:

2011年1月28日金曜日

資料:「財政破綻」、 「ハイパーインフレ」関連

「経済」「財政破綻」「ハイパーインフレ」関連の資料。



【過剰な公的債務の解決策は8つしかない】
アタリ氏は「国家債務がソブリンリスク(政府債務の信認危機)になるのは物理的現象である」とし、「過剰な公的債務に対する解決策は今も昔も8つしかない」と言う。すなわち、増税、歳出削減、経済成長、低金利、インフレ、戦争、外資導入、そしてデフォルトである。そして、「これら8つの戦略は、時と場合に応じてすべて利用されてきたし、これからも利用されるだろう」とも述べている。

【現実的な選択肢は「インフレ」だけ】

……現実的な選択肢は「インフレ」だけ、ということになる。現にアタリ氏自身も「(公的債務に対して)採用される戦略は常にインフレである」と述べている。お金をたくさん刷って、あるいは日銀が吸収している資金を市場に供給して貨幣価値を下げ、借金をチャラにしてしまいしょう、というわけだ。かつて竹中平蔵氏が主張していた「インフレターゲット論」はまさにこれで、いってみれば一番簡単な方法である。
これは氏の師匠であるポール・クルーグマンの日本に対するアドバイスでも常に出てくる案である。「ターゲット(目標)」というと計画的で聞こえはいいが、デフレの長引いている日本でこれを無理に起こすと「ターゲット」で止まらない可能性が大である。止まらなければ、ハイパーインフレに一直線ということになる。

【ハイパーインフレで「悲惨」を極める】
もし日本が本格的なインフレ政策に踏み込めば、債務の巨額さからしてハイパーインフレになる可能性が高い。そうなれば政府の借金も大幅に目減りするが、国民の金融資産もガタ減りとなる。銀行は危ないと見ていた人のタンス預金も二束三文となる。国の借金はチャラにはなるだろうが、同時に我々の仕事も生活も何もかもがすさまじい濁流の中に放り込まれることになる。
過去15年くらいの間にハイパーインフレになったトルコ、ブラジル、ロシア、スロバニアなどを見てきた経験から言えば、「悲惨」という言葉以外は思い浮かばない。
金融資産の大半を国債に転換してしまっている日本国民は国債のデフォルトでも資産の大半を失うことになる。つまり、ハイパーインフレでもデフォルトでも日本の誇る個人金融資産は国家に召し上げられることになる。増税が嫌いで、せっせと貯蓄してきた国民も、その時、増税で国家の借金を着実に返しておいた方が良かった、と悟ることになる。

次に、 日本の借金1000兆円はどう返済すればいいのか? ジャック・アタリ氏の処方箋より


「2500年にわたる過去の歴史から、これほどの公的債務を抱えて悲惨な運命をたどらなかった国はない」
「公的債務の増加により、国の信用力が低下します。それが金利上昇を招き、国債の価格が下落。日本国債を大量に抱える金融機関は莫大な損失を被り、次々に 破たんします。不況が深まり、生活水準が悪化し、購買力は落ちる。企業業績も悪化する……やがて日本という社会、民主主義が崩壊しかねません」
「現実を直視しよう。日本の出生率は世界最低レベル、少子高齢化は進む。歳出が歳入を上回り、税収基盤は脆弱(ぜいじゃく)になる、巨額な国内貯蓄も債務 返済にすべて費やされる。日本は今、クリアなビジョンを持つべきです。どういう国になるべきか、政治家がそして国民が議論しなければなりません」
「増税が経済成長を阻害することはない。間違ったお金の使い方が成長を阻害するのだ」

※参照:
 2、ある財政破綻のシナリオ--池尾和人


以下は、いささか際物のシュミレーションかもしれないが、ハイパーインフレーションをイメージするにはとても役に立つ経済小説家の玲氏のよる「20XX年ニッポンの国債暴落

…………

ZAITEN20112月号の特集「20XX年ニッポンの国債暴落」に掲載された「シミュレーション20XX年ニッポン「財政破綻」」を、出版社の許可を得てアップします。これはもともと、編集部の要望で、同特集の巻頭のために匿名で執筆したものです。

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金利上昇、デフレ脱却が住宅ローン破産を呼ぶ

20XX110日(金)。午前6時に人形町のワンルームマンションを出て、徒歩で丸の内に向かう。出社前に近くのスターバックスに寄り、3800円のカフェモカを飲むのが私のささやかな贅沢だ。紙の新聞はずいぶん前になくなってしまったので、iPad5を開いてニュースをチェックする。

一面トップはあいかわらず「年金全共闘」で、新宿西口に3万人を超える団塊の世代の高齢者が集まり、「生きさせろ」と叫びながら警官隊と衝突した。大阪では公務員の大規模ストでゴミが回収できないため、道頓堀を巨大なドブネズミが走り回っている。スポーツニュースでは、中国の財閥が買収したFC銀座が、バルセロナを戦力外通告されたメッシに移籍のオファーを出したことが大きく報じられていた。

3年ほど前、さしたるきっかけもなく、国債価格が下落し、金利が上がりはじめた。最初はなにが起きているのか、誰にもわからなかった。経済学者のなかには、ようやく長いデフレから脱却できると、この現象を楽観的にとらえる者もいた。

それから、物価が上がりはじめた。最初はガソリンと野菜で、国際的な石油価格の高騰と冷夏が原因だとされた。だがそれが局所的なものでないことは、すぐに明らかになった。食料品や石油製品だけでなく、ありとあらゆるものの値段が一斉に高くなったからだ。

それでもまだひとびとは、比較的落ち着いていた。物価の上昇が急激でなかったため、経済評論家たちはニュース番組で、日本経済復活に必要なマイルドなインフレが起きているのだと解説した。

実際、この異変は当初、歓迎されていた。預金金利が5%に上がって、「利子で生活が楽になった」と喜ぶ高齢者がワイドショーで紹介された。円が120円まで下落したことで、トヨタやソニーなどの輸出産業が軒並み最高益を計上するようになった。

そして、住宅ローン破産が始まった。

超低金利に慣れ親しんだひとたちは、ほとんどが変動金利の長期ローンでマイホームを購入していた。それがいまや、ローン金利は10%台まで上がり、毎月の返済額は2倍になった。ローンを払えない契約者が続出すると、銀行は抵当物件を片っ端から競売で売却した。金利の上昇で大打撃を被った不動産市場に大量の競売物件が流れ込んだために、都市部を中心に地価は急落した。

政府は当初、住宅ローン破産を防ぐための特別措置を講じようと試みた。

だが金融当局は、銀行の財務内容を見たとたんに、ローンの繰延べや競売の猶予が不可能なことを思い知った。日本の銀行は大量の国債を保有しており、国債価格の下落で莫大な含み損を抱え込んでいた。そのうえ担保にしていた不動産価格まで暴落し、いまや数行を除いてほとんどが実質債務超過の状況にあった。不良債権問題を先送りする余裕などなく、返済が滞れば即座に処理する以外に選択肢はなかったのだ。

日本政府は銀行の連鎖倒産を防ぐために、超党派で金融危機特別法を可決させ、時価会計を一時的に停止し、簿価会計に戻すことにした。だがこれは、政府が公式に経済破綻を認めたと受け取られ、海外投資家が日本株と円を投げ売りし、日経平均は6000円まで暴落、円は1ドル=200円の大台を超えた。翌日物のコールレートは一時20%という消費者金融並みの水準まで上がり、各地で取り付け騒ぎが起こった。銀行救済のために政府は大規模な資本注入を余儀なくされ、大半の銀行が実質国有化される異常事態になった。

それと同時に、食料品や生活必需品を中心に物価が急速に上がりはじめた。スーパーの値札はたちまち倍になり、現金を握りしめたひとびとが買い物に殺到し、店頭からモノがなくなった。日本社会は、パニックに陥った。


ハイパーインフレが富裕層の顔ぶれを一転させた

コーヒーを飲み終えると、東京駅前のハイアールビルにある会社に向かう。金融危機前は丸ビルの愛称で知られていたが、いまや覚えているひとはほとんどいない。それ以外にも、サムソンプラザやタタ・ヴィレッジなど、東京都心の不動産はほとんどが外国企業に買収されてしまった。

私は三十代半ばまで、大手電機メーカーの技術者だった。海外企業との価格競争に巻き込まれてボーナスは年々減らされたが、会社にしがみついていれば定年まで食いつなぐことはできるだろうと、漠然と信じていた。

だがハイパーインフレが、すべてを変えてしまった。

最初に、年金生活の高齢者が家を失って路上生活を始めた。日比谷公園ではホームレスのための炊き出しが13回行なわれていて、1万人ちかくが公園内で暮らしている。同様に上野公園や新宿中央公園、荒川の河川敷もダンボールハウスで埋め尽くされた。

次いで、公務員のストライキが頻発するようになった。失業率は30%に達し、街には浮浪者が溢れていた。政治家は公務員の給与を引き上げることに二の足を踏み、実質給与はいまやかつての半額以下になった。週刊誌には、事務次官の妻がコンビニでレジ打ちをしたり、財務官僚の娘がキャバクラで学費を稼ぐ様が面白おかしく取り上げられた。

その大混乱を見て、生来臆病な私も、このまま座して死を待つわけにはいかないと腹をくくった。わずかな退職金で会社を辞め、まったく縁のない不動産営業の世界に飛び込んだのだ。

生き延びるために不動産業を選んだのには、理由がある。

半年ごとに政権と首相が変わったあげく、日本がIMF管理になるとの憶測が流れて、ようやく超党派の救国内閣が成立した。新政権の喫緊の課題は財政の健全化で、消費税率は25%になり、年金の受給年齢は70歳に引き上げられた。医療・介護サービスは保険料が大幅に上がり、自己負担は5割で、歯科治療が健康保険から外された。

財政再建の道筋が見えると、東京の中心部から不動産価格が上昇しはじめた。円安と地価の暴落によって、外国人投資家にとっては、銀座の一等地がかつての5分の1の価格で買えるようになったのだ。

私の唯一の取り得は、ビジネス英語が話せることだった。辞書を引きながら徹夜で契約書を翻訳し、欧米はもちろん中国やインド、東南アジアの投資家に東京の不動産を営業して回った。

私が契約営業マンになったのは財閥系の大手不動産会社の子会社だったが、いまでは親会社もろとも中国の投資会社に買収され、社員の半分が中国人、香港人、シンガポール人、中国系アメリカ人になった。外国人投資家は彼らが直接営業するから、私は日本人顧客の担当に変わった。

日本経済が大混乱に陥ったとき、バーゲンハンターとして登場したのは海外投資家だけではなかった。ほとんど知られていなかったが、金融危機以前に巨額の外貨資産を保有していた多数の日本人投資家がいたのだ。

ビデオ会議で上海の本社に営業報告をしてから、表参道に向かう。最初の顧客は、三十代前半の若者だった。

大学を中退してFXとパチスロで生活していた彼は、1ドル=100円から300円に通貨が下落する過程で、レバレッジをかけた巨額の外貨ポジションをつくり、30億円を超える利益を得た。その資金を元手に不動産投資を始め、いまでは渋谷や青山に数棟のビルを保有している。金融危機から3年で、日本の富裕層はほぼ全面的に入れ替わってしまった。

東京の夜を彩る中国語やハングル文字のネオンサイン

外苑前で2万円のビジネスランチを食べ、麻布十番の顧客を訪問する。50歳でリタイアし、マレーシアで海外移住生活を送っていたのだが、円安と地価の下落を見て、外貨資産を円に戻して日本に帰ってきた「海外Uターン族」だ。

彼ら新富裕層のおかげで、私は会社でトップ5に入る営業成績を維持できている。目標に到達できなければ問答無用で解雇されるが、成績次第で青天井の報酬が支払われる。私が以前勤めていた電機メーカーはインドの会社に買収され、「同一労働同一賃金」の原則のもと、いまでは日本人社員もインド人と同じ給料で働いている。

今日は早めに仕事を切り上げて、6時の特急電車で南アルプスの家に帰る。

金融危機とそれにつづくハイパーインフレで、私の実家も妻の実家も、祖父母が年金だけは生活できなくなった。そのうえ父と義理の父がリストラされ、路頭に迷ってしまった。それで田舎に3軒の家と農地を格安で購入し、一族が肩を寄せ合って暮らすようにしたのだ。同じようなケースはほかにも多く、日本は大家族制に戻りつつあった。

東京駅前には、赤ん坊を抱いた物乞いの女たちが集まっていた。その枯れ枝のような細い腕を掻き分けて改札を通り抜けると、5000円のビールとつまみを買ってあずさのグリーン席に乗り込む。平日は都心のワンルームマンションで単身赴任し、週末に家族の待つ田舎に戻る生活を始めて1年になる。

プルトップを引いて、冷たいビールを喉に流し込む。この週末は、失業した妻の弟が、いっしょに暮らせないかと相談に来ることになっている。娘の進学問題も頭が痛い。将来に不安がないわけではないが、泣き言はいえない。いまや一族の全員がわたしを頼っているのだ。


中国語やハングルやアラビア文字のネオンサインが、新宿の夜空をあやしく染めていた。青白い月を眺めながら、いつしか浅い眠りに落ちていた。


ケインズの「美人投票」理論  (岩井克人)

以下、岩井克人『グローバル経済危機と二つの資本主義論』www.h4.dion.ne.jp/~jssf/text/doukousp/pdf/.../0906_8897.pdfよりの抜粋である(もともと米国のサブプライム・ローン問題を端緒として始まった金融パニックをめぐって書かれたものだが、ここでは純粋に経済学理論の簡略な復習として)。

【二つの資本主義論】

《アダム・スミスを始祖とする新古典派経済学の見方》

市場の「見えざる手」の働きに全幅の信頼をよせ、資本主義をどんどん純粋にしていき、世界全体を市場によって覆い尽くせば、効率性も安定性も実現される「理想状態」に近づくという主張である。したがって、諸悪の根源は、すべて市場の円滑な働きを阻害する「不純物」であるということになる。
労働市場にはヒトの移動を妨げるさまざまな慣習や規範があり、資本市場にはカネの移動を妨げる多くの規制や法律がある。これらの不純物さえ取り除けば、資本主義は効率的にも安定的にもなるというわけである。このような新古典派的な資本主義論の20世紀におけるチャンピオンは、2006年に亡くなったシカゴ大学のミルトン・フリードマンであった。


《ケインズなどによる不均衡動学派》

もう一つの見方は、あえて名前を付けるとすれば不均衡動学派である。その創始者は、19世紀の後半から20世紀の前半にスウェーデンで活躍したクヌート・ヴィクセルであり、その理論は、その後イギリスのジョン・メイナード・ケインズによって大きく修正された形で展開されることになった。

この立場によれば、資本主義には理想状態などない。もちろん、ヴィクセルもケインズも、貨幣や資本主義の廃棄を夢見るユートビア主義者ではなく、資本主義システムがミクロ的にはもっとも効率的な経済システムであるという点においては、新古典派と共通の理解をもっている。だが、資本主義の純粋化によるミクロ的な効率性の上昇は、逆にマクロ的な安定性を揺るがせてしまうと論ずるのである。資本主義が、大恐慌などの幾多の危機を経ながら、まがりなりにもある程度の安定性を保ってきたのは、貨幣賃金の硬直性や金融投機の規制など市場の働きに対する「不純物」があったからである。効率性を増やせば不安定化し、安定性を求めると非効率的になるという具合に、効率性と安定性とは「二律背反」の関係にあるというのである。


【ケインズの「美人投票」の理論】

ケインズの美人投票とは、しゃなりしゃなりと壇上を歩く女性の中から審査員が「ミス何とか」を一定の基準で選んでいくという古典的な美人投票ではない。もっとも多くの投票を集めた「美人」に投票をした人に多額の賞金を与えるという、観衆参加型の投票である。この投票に参加して賞金を稼ごうと思ったら、客観的な美の基準に従って投票しても、自分が美人だと思う人に投票しても無駄である。平均的な投票者が誰を美人だと判断するかを予想しなければならない。いや、他の投票者も、自分と同じように賞金を稼ごうと思い、自分と同じように一生懸命に投票の戦略を練っているのなら、さらに踏み込んで、平均的な投票者が平均的な投票者をどのように予想するかを予想しなければならない。「そして、第四段階、第五段階、さらにはヨリ高次の段階の予想の予想をおこなっている人までいるにちがいない。」すなわち、この「美人投票」で選ばれる「美人」とは、美の客観的基準からも、主体的な判断からも切り離され、皆が美人として選ぶと皆が予想するから皆が美人として選んでしまうという「自己循環論法」の産物にすぎなくなるのである。

ケインズは、プロの投機家同士がしのぎを削っている市場とは、まさにこのような美人投票の原理によって支配されていると主張した。それは、客観的な需給条件や主体的な需給予測とは独立に、ささいなニュースやあやふやな噂などをきっかけに、突然価格を乱高下させてしまう本質的な不安定性を持っている。事実、価格が上がると皆が予想すると、大量の買いが入って、実際に価格が高騰しはじめる。それが、バブルである。価格が下がると皆が予想すると、売り浴びせが起こり、実際に価格が急落してしまう。それが、パニックである。

ここで強調すべきなのは、バブルもパニックもマクロ的にはまったく非合理的な動きであるが、価格の上昇が予想されるときに買い、下落が予想されるときに売る投機家の行動は、フリードマンの主張とは逆に、ミクロ的には合理的であるということである。ミクロの非合理性がマクロの非合理性を生み出すのではない。ミクロの合理性の追求がマクロの非合理性をうみだしてしまうという、社会現象に固有の「合理性のパラドックス」がここに主張されている。

【純粋「投機」としての貨幣と資本主義の根源的な不安定性】


人が貨幣を貨幣として持つのは、意識しているかどうかは別にして、他人に渡すためだけに持つという、もっとも純粋な「投機」活動なのである。

ところで、人が貨幣を受け取るのは、他人がそれを貨幣として受け取ると予想しているからであるが、他の人がなぜ貨幣を受け取るかというと、やはりモノとして使うためではなく、誰か他の人が貨幣として受け取ると予想しているからである。皆が貨幣を貨幣として受け取るのは、結局、皆が貨幣として受け取ると予想しているからにすぎない。ここにあるのは、ケインズの美人投票と同じ自己循環論法であり、しかももっとも純粋な自己循環論法なのである。

このように貨幣が投機であるということは、当然、貨幣にかんしても、バブルやパニックがあることを意味することになる。

貨幣のバブルとは、実体経済における恐慌のことである。それは、人々が実際のモノよりも、モノを買う手段でしかない貨幣のほうを欲望するという、皮肉な状態である。人びとがモノを買わないから、モノが売れず、企業は雇用を減らし、投資を控える。その結果、人びとの所得が下がり、さらにモノを買わなくなり、モノが売れなくなるという悪循環に陥る。このような不況状態に伴うデフレが、さらなるデフレの予想を引き起こし始めると、人びとは貨幣を一層ため込み始める。その極限状態が、だれもモノを買おうとしない恐慌に他ならない。

貨幣にかんするパニックとは、逆に、貨幣の価値を人びとが疑い始めることである。はやく貨幣を手離してモノに換えようとすることが、インフレに火を付け、貨幣価値を下げてしまうという悪循環を生み出す。さらなるインフレが予想されると、「貨幣からの遁走」が始まってしまう。その極限状態が、誰も貨幣を貨幣として受け入れず、物々交換に戻ってしまうハイパーインフレなのである。


【「流動性」をめぐる自己循環論法】


……「流動性」とは、本質的に不安定な性質である。私が銀行預金をいつでも換金できると思っているのは、他の大部分の預金者も銀行預金の流動性が高いと思い、安心して預金を預けたままにしていると思っているからにすぎない。多くの預金者が銀行預金には流動性がないと思い始めたら、一斉に換金を始めるはずである。その瞬間、銀行は支払不能におちいり、預金者の大部分は実際に換金できなくなる。銀行預金の流動性は跡形もなく消えてしまうのである。

ここにも、貨幣を貨幣として支えているあの循環論法としてのケインズの美人投票原理が登場した。銀行預金の流動性とは、結局、大多数の預金者が他の大多数の預金者も銀行預金は高い流動性をもつと思っていると思っていることの結果にすぎないのである。


【基軸通貨としのてドル】
現在のグローバル資本主義は、米国の貨幣でしかないドルを世界全体の基軸貨幣としているシステムである。それは、すべての貨幣と同様に、世界中の人びとがドルを基軸貨幣として受け取るから世界中の人びとがドルを基軸貨幣として受け取るという、あの究極の美人投票としての自己循環論法によって支えられている。

※参照: 資料:「財政破綻」、 「ハイパーインフレ」関連

2011年1月20日木曜日

「無頭のacephalic知」としての欲動 (ジジェク=ラカン)




以下、 DESIRE: DRIVE = TRUTH: KNOWLEDGE SLAVOJ ZIZEKとそのa la lettreさんHPの試訳欲望:欲動=真理:知」より。

【強迫神経症とヒステリー】
In the "early" phase, from the 1940s to the 1960s, Lacan moves within the coordinates of the standard philosophical opposition between "inauthentic" objectifying knowledge which disregards the subject's position of enunciation, and the "authentic" truth by which one is existentially engaged, affected. In the psychoanalytic clinic, this opposition is perhaps best exemplified by the clear contrast between obsessional neurosis and hysteria.
 The obsessional neurotic lies in the guise of truth. At the level of factual accuracy, his statements are as a rule true, yet he uses factual accuracy to dissimulate the truth about his desire. When, for example, my enemy has a car accident because of a brake malfunction, I go to great lengths to explain to everyone that I was never near his car and am therefore not responsible for the malfunction. While this is true, this "truth" is propagated by me to conceal the fact that the accident realized my desire.
 On the contrary, the hysteric tells the truth in the guise of a lie; the truth of my desire articulates itself in the very distortions of the "factual accuracy" of my speech. When, instead of "I hereby open this session," I say "I hereby close this session," my desire clearly reveals itself. The aim of the psychoanalytic treatment is thus to (re)focus attention from factual accuracy to hysterical lies which unknowingly articulate the truth, and then to progress to a new knowledge which dwells at the place of truth, to a knowledge which, instead of dissimulating truth, gives rise to truth-effects, i.e. to what the Lacan of the fifties called "full speech," the speech in which subjective truth reverberates. This notion of truth, of course, belongs to a long tradition, from Kierkegaard to Heidegger, of despising mere "factual truth."

「初期」の段階、つまり1940年代から1960年代にかけて、ラカンは標準的な哲学上の対立を協調させようとしていた。言表行為の主体の位置を無視してしまう「偽者の」知の客体化と、人が実存的にアンガジェされ、また影響される「本物の」真理との対立である。精神分析の臨床において、この対立は強迫神経症とヒステリーとの対比を、おそらく最もあざやかに例証してくれるだろう。
強迫神経症者は真理のふりをして嘘をつく。事実的正確性のレベルでは、強迫神経症者の言表は原則として真であるが、彼はその事実的正確性を、自分の欲望についての真理を隠すために使っている。例えば、私の敵が車のブレーキの不具合から自動車事故にあったとしよう。私は自分がその敵の車の近くにはおらず、その不具合は自分には何の責任もないということを周りの皆に長々と説明する。この説明は真である。しかし、この「真理」は自分の欲望を自己が実現してしまったという事実を隠していることを宣伝してしまっている。
反対に、ヒステリー症者は嘘のふりをして真理を言う。つまり、私の欲望の真理は、私のパロールの「事実的正確性」を歪めることにおいてこそ、真理そのものを分節化しているのだ。「これより開会します」という代わりに、「これにて閉会します」と言ってしまったなら、私の欲望は真理そのものをはっきりと開示している。こうして、精神分析治療の目的は、注意の焦点を事実的正確性から移動させ、そうとは知らずに真理を分節化しているヒステリーの嘘に(再)注目させ、真理の場に住む新たな知へと進展させることになる。真理を隠してしまう代わりに、真理の-諸効果を引き起こす知へと駒を進めるのだ。これは、50年代のラカンが「満ちたパロール」と呼んだ、主体の真理が反響するパロールである。このような真理概念はもちろん「事実的真理」の方だけを蔑む、キルケゴールからハイデッガーに至る長い伝統に属している。


【倒錯とヒステリー(あるいはその「方言」である強迫神経症)】
(ヒステリー)は倒錯とは対照的である。倒錯を特徴づけているのは問いの欠如である。倒錯者は、自分の行動は他者の享楽に役立っているという直接的な確信を抱いてい る。ヒステリーとその「方言」である強迫神経症とでは、主体が自分の存在を正当化するその方法が異なる。ヒステリー症者は自分を<他者>に、その愛の対象 として差し出す。強迫神経症者は熱心な活動によって<他者>の要求を満足させようとする。したがって、ヒステリー症者の答えは愛であり、強迫神経症者のそ れは労働である。

最初の文献の抜粋に戻る。

【「無頭のacephalic知」としての欲動】

acephalic
1. /ˌeɪDescription: http://sp.dictionary.com/dictstatic/dictionary/graphics/luna/thinsp.pngsəˈfælDescription: http://sp.dictionary.com/dictstatic/dictionary/graphics/luna/thinsp.pngɪk/ Description: http://sp.dictionary.com/dictstatic/g/d/dictionary_questionbutton_default.gif headless; lacking a distinct head.
2. without a leader or ruler.


Beginning in the late sixties, however, Lacan focuses his attention more and more on drive as a kind of "acephalic" knowledge which brings about satisfaction. This knowledge involves no inherent relation to truth, no subjective position of enunciation-- not because it dissimulates the subjective position of enunciation, but because it is in itself nonsubjectivized, or ontologically prior to the very dimension of truth (of course, the term ontological becomes thereby problematic, since ontology is by definition a discourse on truth). Truth and knowledge are thus related as desire and drive: interpretation aims at the truth of the subject's desire (the truth of desire is the desire for truth, as one is tempted to put it in a pseudo-Heideggerian way), while construction provides know- ledge about drive. Is not the paradigmatic case of such an "acephalic" knowledge provided by modern science (2)which exemplifies the "blind insistence" of the (death) drive?


しかし、60年代後半になると、ラカンは満足を引き起こす「無頭の」知のようなものとしての欲動にさらに注目するようになる。この知は真理への固有の関係を持っておらず、言表表現の主体のポジションも持たない――それも、この知が言表表現の主体のポジションを隠してしまうからではなく、この知がそれ自体主体化されないものであるからであり、あるいはこの知が真理の次元に対して存在論的に先立っているからである(もちろん、存在論は定義上、真理についてのディスクールであるから、存在論的という用語が問題となるのだが)。真理と知はこのように、欲望と欲動に関連している。解釈は主体の欲望の真理を目的とするが(エセ・ハイデガー主義者の手法で試みられるように、欲望の真理は真理への欲望である)構成は欲動についての知を提供するのである。

【無頭の知=死の欲動としての科学】
Modern science follows its path (in microbiology, in manipulating genes, in particle physics) heedless of cost--satisfaction is here provided by knowledge itself, not by any moral or communal goals scientific knowledge is supposed to serve. All the "ethical committees" which abound today and attempt to establish rules for the proper conduct of gene-manipulation, of medical experiments, etc. -- are they ultimately not desperate attempts to reinscribe this inexorable drive-progress of science which knows of no inherent limitation (in short: this inherent ethic of the scientific attitude) within the confines of human goals, to provide it with a "human face," a limitation? The commonplace wisdom today is that "our extraordinary power to manipulate nature through scientific devices has run ahead of our faculty to lead a meaningful existence, to make human use of this immense power." Thus, the properly modern ethics of "following the drive" clashes with traditional ethics whereby one is instructed to live one's life according to standards of proper measure and to subordinate all its aspects to some all-encompassing notion of the Good. The problem is, of course, that no balance between these two notions of ethics can ever be achieved. The notion of reinscribing scientific drive into the constraints of the life-world is fantasy at its purest--perhaps the fundamental fascist fantasy. Any limitation of this kind is utterly foreign to the inherent logic of science--science belongs to the real and, as a mode of the real of jouissance, it is indifferent to the modalities of its symbolization, to the way it will affect social life.
 
このような「無頭の」知の範例的ケースは、(死の)欲動の「盲目的執拗性」を例証している現代科学*3によって提供されているのではないだろうか? 現代科学(微生物学や遺伝子操作や粒子物理学)はコストを度外視してその道を歩んでいる――満足はここで知それ自体によって提供されており、科学的知はいかなる倫理や公共の目的にも奉仕していない*4。遺伝子操作や医学実験などについての適正な運営のルールを定めようとしている「倫理委員会」が近頃増えつつあるが、それらのすべての「倫理委員会」は、究極的には、内在的な限界付け(簡潔に言えば、科学的態度に内在的な倫理)を知らない科学の無尽蔵な欲動的-発展を再び刻み付けようとする必死の試みではないだろうか? 「倫理委員会」は人間の目的を制限し、科学に「人間の顔」という限界付けを与えようとしているのだ。近頃の凡庸な叡知は「科学装置を通して自然を操作する私たちの並外れた力は、生きがいのある存在を導いたり、この強大な力を使うための私たちの能力をしのいでいる」と言っている。このように「欲動を追う」現代倫理は、伝統的倫理と衝突する。そこで人は、適切な基準というスタンダードにしたがって人生を送るよう指導され、人生ののすべての側面を、《善》というすべてを包み込む考えに従属させられてしまう。もちろん、問題は、倫理についての二つの考えがバランスをとれないということにある。科学的欲動を生命の制限へと再び刻み付けるという考えは、最も純粋にファンタスム的なものである――これはおそらくファシストの基本的ファンタスムであろう。この類の制限はすべて、科学に内在的な論理とはまったく無縁なものである――科学は現実的なものに属しており、享楽の現実界の一つのモードとして、象徴化のモダリティにはそぐわないし、社会生活に影響を与えるようなやり方にもそぐわないのだ。

2011年1月18日火曜日

ラカン「四つの言説」をめぐる、ジジェクとミレールの齟齬

ジャック=アラン・ミレールはジジェクの師であり、ジジェクは80年代後半、教育分析(パス)をミレールに受けている。ジジェクのラカン解釈は、その多くをミレールに負っているのは周知の事実だ。

ところで、ジジェクは、この比較的新しい論文“Jacques Lacan's Four Discourses”で、ミレールのラカン「四つの言説」をめぐっての修正案(「現代」に合わした)に異議を呈している。

【ミレールの提議】
Jacques-Alain Miller has recently proposed that today the master's discourse is no longer the "obverse" of the analyst's discourse. Today, on the contrary, our "civilization" itself-its hegemonic symbolic matrix, as it were-fits the formula of the analyst's discourse. The agent of the social link is today a, surplus enjoyment, the superego injunction to enjoy that permeates our discourse; this injunction addresses $ (the divided subject) who is put to work in order to live up to this injunction. The truth of this social link is S2, scientific-expert knowledge in its different guises, and the goal is to generate S1, the self-mastery of the subject, that is, to enable the subject to cope with the stress of the call to enjoyment (through self-help manuals, etc.).
【ジジェクの疑義】
 Provocative as this notion is, it raises a series of questions. If it is true, in what, then, resides the difference between the discursive functioning of civilization as such and the psychoanalytic social link? Miller resorts here to a suspicious solution: in our civilization, the four terms are kept apart, isolated; each operates on its own, while only in psychoanalysis are they brought together into a coherent link: "in civilization, each of the four terms remains disjoined... it is only in psychoanalysis, in pure psychoanalysis, that these elements are arranged into a discourse."

【ジジェクの疑義説明】
 Miller's formula misses the true paradox or, rather, ambiguity of objet a: when he defines objet a as the object that overlaps with its loss, that emerges at the very moment of its loss (so that all its fantasmatic incarnations, from breasts to voice and gaze, are metonymic figurations of the void of nothing), he remains within the horizon of de- sire- the true object cause of desire is the void filled in by its fantasmatic incarnations. While, as Lacan emphasizes, objet a is also the object of the drive, the relationship is here thoroughly different. Although in both cases, the link between object and loss is crucial, in the case of objet a as the object cause of desire, we have an object which is originally lost, which coincides with its own loss, which emerges as lost, while, in the case of objet a as the object of the drive, the "object" is directly the loss itself. In the shift from desire to drive, we pass from the lost object to loss itself as an object. That is to say, the weird movement called "drive" is not driven by the "impossible" quest for the lost object, bur by a push to directly enact the "loss" - the gap, cut, distance - itself. There is thus a double distinction to be drawn here: not only between objet a in its fantasmaric and posrfantasmatic status, but also, within this postfantas-matic domain itself, between the lost object cause of desire and the object loss of the drive. Far from concerning an abstract scholastic debate, this distinction has crucial ideologico-political consequences: it enables us to articulate the libidinal dynamics of capitalism.

ジジェクの説明によれば、ミレールでさえ、欲望と欲動の混乱が見られる、ということのようだ。それは対象aの捉え方に起因する。

Following Miller himself, a distinction has to be introduced here between lack and hole. Lack is spatial, designating a void within a space, while the hole is more radical-it designates the point at which this spatial order itself breaks down (as in the "black hole" in physics). Therein resides the difference between desire and drive: desire is grounded in its constitutive lack, while drive circulates around a hole, a gap in the order of being. In other words, the circular movement of drive obeys the weird logic of the curved space in which the shortest distance between two points is not a straight line, but a curve: the drive "knows" that the shortest way to attain its aim is to circulate around its goal-object. At the immediate level of addressing individuals, capitalism of course interpellates them as consumers, as subjects of desires, soliciting in them ever new perverse and excessive desires (for which it offers products to satisfy them); furthermore, it obviously also manipulates the "desire to desire," celebrating the very desire to desire ever new objects and modes of pleasure.

However, even if if already manipulates desire in a way that takes into account the fact that the most elementary desire is the desire to reproduce itself as desire (and not to find satisfaction), at this level, we do not yet reach the drive. The drive inheres to capitalism at a more fundamental, systemic level: drive propels the entire capitalist machinery; it is the impersonal compulsion to engage in the endless circular movement of expanded self-reproduction. The capitalist drive thus belongs to no definite individual - it is rather that those individuals who act as direct "agents" of capital (capitalists themselves, top managers) have to practice it. We enter the mode of the drive when (as Marx put it) the circulation of money as capital becomes "an end in itself, for the expansion of value takes place only within this constantly renewed movement. The circulation of capital has therefore no limits." One should bear in mind here Lacan's well-known distinction between the aim and the goal of drive: while the goal is the object around which drive circulates, its (true) aim is the endless continuation of this circulation as such.

desire to desire”でさえもなく“drive”であり、つまりはgoalではなくaimとしての欲動。もちろん上記の記述でもわかるように、ミレールは「欲望と欲動」の区別をしているのだが(参照:資料:欲望と欲動(ミレールのセミネールより)、現代的な言説を捉え直す上で見解の相違があるようだ。

ジジェクはすでに90年代の初め、次のように語っている(ラカン「欲求ー要求ー欲望」、あるいは「欲動」と「目標ー終点」)
終点は最終目的地だが、目標はわれわれがやろうとしていること、すなわち道wayそのものである。ラカンが言わんとしたのは、欲動の真の目的はその終点(充分な満足)ではなく、その目標である。欲動の究極的目標は、たんに欲動それ自身が欲動として再生産されること、つまりその循環的な道に戻り、いつまでも終点に近づいたり遠ざかったりしつづけることである。享楽の真の源泉はこの閉回路の反復運動である。


※Marx put it) the circulation of money as capital becomes "an end in itself, for the expansion of value takes place only within this constantly renewed movement. The circulation of capital has therefore no limits."―――ジジェクがマルクスを引用するこのあたりの記述は、岩井克人の「資本の欲動」、あるいは「不均衡動学」などの概念を思い出さざるをえない。(参照:岩井克人教授について)

2011年1月16日日曜日

資料:主人の言説discour du maîtreをめぐって

◆荻本医院;ラカン勉強会より

sinthomeの最初のセッションで、ラカンは知はdiscour du maître(「主人の言説」とか「主の言説」とか訳されてきましたが、maîtreという語にmaîtriseつまり支配、コントロールという語、これは死の欲動をリビドーが生/性へと方向転換させるに際してのコントロールを含意しますが、このことを意識してこの言説を理解すべきです。生を命じ、死〔去勢によって主体は死つまり有限性を受け入れますが、これは生からの解放である安息としての死です〕を与えず、死しても第二の死、無限地獄、『ジュリエット』に登場するサン・フォンの思い描く死後も続く拷問、つまり生き続けることの苦痛douleur d'existerを命じるのは超自我以外にはありません。signifiant-maîtreによる命令とは超自我の命令と他ならないのではないでしょうか。

Braunsteinはラカンの超自我とフロイトの超自我を混同してはならないと言っています。前者の命令はobéirではなくjouirの命令ですが、jouissanceこそ、フロイトが禁じていた当のものとしています。しかしながら、ラカンのjouissanceはいくつもの異なった事柄をカヴァーする語で、現にBraunstein自身、jouissanceをjouissance de l'être, jouissance phalliqueそしてjouissance de l'Autreに大別して述べています。この三者に3タイプの超自我を当てはめた場合、jouissance de l'êtreに符号する超自我こそ、生を命じる、「猥雑な、獰猛な、限度を弁えない、言語とは異質の、そしてNom-du-Pèreを与り知らない超自我で、これはフロイトの超自我ではないもの」ということになります〔La jouissnce-Un concept lacanien, Nestor Braunstein, Point hors ligne, pp.317-318.〕)において分割されます。この分割はsymbole(le symboliqueではありません)の分割に一致することになります。次いで、ボロメオの輪はle symboliqueの分割、symboliqueの輪とsinthomatiqueの輪に分割されます。これが主体の分割にも影響を与えるのです。

discours du maîtreにおける(死の欲動の)手懐けtempéranceのためです。sinthomeからnom du pèreを得るためです。ボロメオの輪は、厳密にいうとトポロジー的でいう結び目ではありませんが、3つの輪と結び目(ちょうど三つ葉の結び目と同じ構造をしています)から成る、といえます。輪が4つになっても、ラカンは結び目の締め付けserrage(ラカンはpoint de coinçageという言い方もしています。3つの輪は3つのdimensions、基本的には象徴界、想像界、現実界というdimensionsですが、これは、ユークリッド幾何学の3次元空間とは相容れない次元で、区別するため、ラカンはdit-mensionsと表記したりしています。serrageあるいはpoint de coinçageは三次元空間の3つの軸、通常x, y, zで示される軸とは異なり、3軸の交点、1から3次元上で実在する点ではなく、どれほど3つの輪を3方向に引っぱり中心の部分を締め付けても空虚なものは空虚なままです。そしてこの中心がaなのです。)による結び目といった考え方を変えてはいません。

2011年1月9日日曜日

無題

まだ骨格に少年の面影が残こる、整った顔立ちの若い男がこじんまりしたカフェの窓際の片隅に座ってコーヒーのカップを口元にもっていき気取った仕草で視線を窓の外にやっている。カフェで働くぽっちゃりした血色のよい少女が、彼をみつめる。「あの人なの……」と、仲間の少女に呟く。「あら、(なになに)ちゃん、ああいったタイプなの」と、彼女は声を潜めずに最初の少女に応じる。少女は薔薇色の頬をさらに赤くする。

若い男は見つめられていることを意識して、したがって、知らない振りをして、煙草を咥える。私は傍らの席でその様子を眺め、あれでは女を誘うのに難儀する、と自らの苦い記憶を反芻する。

2011年1月7日金曜日

教育者のパロールとその立場 (ロラン・バルト)

ロラン・バルトが、ラカンのおそらく「四つのディスクール」(参照:ラカン「四つの言説」から「サントーム」へ、あるいは「文学」の顕揚)などを援用してだろう、教育者のパロールやその立場をめぐって書いている(『テクストの出口』「作家、知識人、教師」より)。


【教育者のパロール】
(教育の場で)語ろうとする者は誰でも、自然的な(発声の際の息のような物理的自然に属する)原因の単なる結果として、パロールの使用が彼に課す演技を自覚しなければならない。この演技は次のように展開する。
話し手は、率直に、「権威」の役を選ぶこともできる。この場合、彼は、《うまく話す》、つまり、どんなパロールの中にもある「法」に従って話すだけでいい。繰り返しなしで、適当な速度で、あるいは、明晰に(これこそ、職業的な、よいパロールに要求されるものだ。明晰、そして権威が)。明確な文はまさに判決、すなわち、センティティアであり、刑罰的なパロールである。
話し手はまた、パロールが自分の談話に導入しようとするこうした「法」を窮屈に感ずることもある。彼は、たしかに、(《明晰》を強制する)語り方を変質させることはできないが、語ること(「法」を示すこと)について弁解することはできる。彼は、その時、自分の合法性を乱すために、パロールの不可逆性を利用する。すなわち、彼はいい直し、つけ加え、口ごもる。
彼は言語活動の無限性の中に入り込み、皆が彼から期待している単純なメッセージに、メッセージの観念そのものを破壊するような新たなメッセージを重ね、パロールの流れにつける傷や切屑のきらめきによって、言語活動はコミュニケーションには還元されないということを自分とともに信じるようにわれわれに要求する。「テクスト」の口ごもる語り方に近い、こうしたすべての操作によって、未熟な教師は、話し手というものを、いわば、警官のようにする割の合わない役割を緩和しようとするのである。
しかし、《まずく話す》ためのこうした努力の末、また、ひとつの役割が彼に課される。なぜなら、聴き手(読者とは何の関係もない)は、自分自身の想像物(イマジネール)に捉われて、これらの試行錯誤を弱さのしるしとして受け取り、人間的な、あまりに人間的な、つまり、リベラルな教師というイメージを彼に送り返すからである。
どちらを選んでも、先行きは暗い。几帳面な公務員にせよ、自由な芸術家にせよ、教師は、パロールの舞台からも、そこで演じられる「法」からも逃れられない。というのは、「法」は、述べることの中身においてではなく、語ることにおいて生み出されるからである。「法」を覆すには(単に「法」の網をくぐるだけではなく)、声の語り方、語の速度、リズム、そして、もうひとつのわかりやすさまでも解体する必要があろう。―――あるいは、全然、何もしゃべらないか、である。しかし、それはまた他の役割を背負うことになろう。すなわち、経験豊かな、しかも、多くを語らぬ、寡黙な、偉大な知性の持主という役割か、あるいは、実践の名の下に、無用なおしゃべりを一切放棄する闘士という役割である。どうしようもない。言語活動とはつねに力であり、語るとは権力への意志を行使することなのだ。パロールの空間には、無垢な場所もないし、安全な場所もない。
【教育者の立場】
どうして教師と精神分析者を同一視することができよう。まったく逆だ。精神分析されるのは教師の方である。(参照:ラカンのセミネール、あるいはロラン・バルトの講義出版への考え方)

私が教師だとしよう。私は、しゃべらない者の前で、また、しゃべらない者のために、際限なくしゃべる。私は私と述べるものである。(<人>とか、<われわれ>とか、非人称文でいい変えても同じことだ)。私は、知識を披露する(外に置く)という口実で、言述を提出する(前に置く)者である。それがどのように受け取られるか、私には決してわからない。したがって、私は、私を構成するような、決定的な、しかも、不快でさえあるイメージで安心することが決してできない。人が思っている以上にうまい呼び方だが、発表(外に置くこと)において、披露されるのは知識ではない。主体である(主体はつらい冒険に身をさらすのだ)。鏡は空虚である。鏡は、私の言語活動が展開するままに、それのゆがんだ形しか私に返さない。(……)
何か《洒落た》考察によって聴衆をほほえませるや否や、何か進歩主義的な常套句で聴衆を安心させるや否や、私はこうした挑発の迎合性を感ずる。私はヒステリー的欲動を遺憾に思う。遅まきながら、人に媚びる言述よりいかめしい言述の方が好ましく思われ、ヒステリー的欲動を元に戻したいと思う(しかし、逆の場合には、ヒステリー的に思えるのは、言述の《厳しさ》の方である)。実際、私の考察にある微笑が応じ、私の威嚇にある賛意が応じると、私は、ただちに、このような共犯の意思表示は、馬鹿者か、追従者によるものと思い込む(私は、今、想像上の過程を描写しているのだ)。反応を求め、つい反応を挑発してしまう私だが、私が警戒心を抱くには、私に反応するだけで十分である。
そして、どのような反応をも冷まし、あるいは、遠ざけるような言述を続けていても、そのために自分が一層正確である(音楽的な意味で)とは感じられない。なぜなら、そのときは、私は自分のパロールの孤独さを自賛し、使命を持った言述(学問、真理、等)というアリバイをそれに与えなければならないからである。

【公的なパロールの背負う十字架】
このように、精神分析的記述(ラカンの記述である。語る人なら誰でも、ここで、その洞察の鋭さを確かめ得るだろう)に従えば、教師が聴講者にしゃべる時、「他者」はつねに存在し、彼の言述に穴をあける。そして、たとえ彼の言述が無謬の知性で完結し、科学的《厳密さ》や政治的急進性で武装していても、やはり穴はあけられるだろう。私がしゃべりさえすれば、私のパロールが流れさえすれば、私のパロールは外に流出するのである。もちろん、すべての教師が精神分析の被験者の立場にあるとはいっても、受講する学生が逆の状況を利用できるわけではない。なぜなら、まず第一に、精神分析的な沈黙には、何ら優越する点がないからである。第二に、時折、被験者が殻を破り、こらえることができず、パロールに身を焼き、弁論の淫らなパーティーに加わるからである(たとえ被験者が頑固に押し黙っているとしても、彼はまさに自分の沈黙の頑固さを語っているのだ)。
しかし、教師にとって、受講する学生は、やはり、模範的な「他者」である。なぜなら、彼らはしゃべらないふりをしているからであるーーーしたがって、また、その無言の外見の中から、それだけ一層強く、あなたの中で語るからである。彼らの表に出ないパロールは私自身のパロールなのであるが、彼らの言述が私の中を満たさないだけに一層、私に打撃を与えるのである。
これが公的なパロールというものの背負う十字架である。教師がしゃべるにせよ、聴き手がしゃべるよう要求するにせよ、いずれの場合も、まっすぐ(精神分析用の)長椅子に向かうのだ。教育の関係はその関係によって促される転移以上のものではない。《学問》、《方法》、《知識》、《観念》が群をなしてやってくる。それらは余分に与えられるものであり、剰余である。

カオス理論における「ストレンジ・アトラクター」とラカンの<対象a>  (ジジェク)

ジジェクはカオス理論における<ストレンジ・アトラクター>とラカンの<対象a>を結びつけようとする試みの叙述をしている(『斜めから見る』Looking awry)。

まず前段である。
【ストレンジ・アトラクターとは】
カオス理論の功績の一つは、かならずしもカオスは計り知れないほど複雑に絡み合った原因を含むとはかぎらない、ということを証明した点である。単純な原因でも「カオス的」な行動を引き起こしうる。どんな過程も放っておけばかならず自然的均衡(静止点あるいは規則運動)へと向かう、というこの古典物理学の基本的「直観」であったが、カオス理論はそれを引っくり返したのである。
 この理論の価値転倒的な側面は「ストレンジ・アトラクター」という述語に凝縮されている。あるシステムが「カオス的」・不規則的に行動し、すなわち絶対に以前の状態に戻らないが、それでもなおそれを規制するある「アトラクター」によって形式化の能力を保っている、ということがありうる。その「アトラクター」が「奇妙strange」であるのは、点とか対称図形といった形をとらず、「歪んだ」円とか「蝶々」とかの明確な図形の内部で、どうしようもなく絡み合った曲線の形をとるからである。(p79~)

ここで簡単に、「カオス理論」と「ストレンジ・アトラクター」の説明がなされているいくつかの記述を、ネット上からリンクしておく。

※すこし、カオス理論から離れるが、かつて清水博氏が名著『生命を捉えなおす』(たしか80年代の時点で、浅田彰が絶賛している)の中での、「散逸構造」と「関係子(メディオン)」をめぐる記述も併せて記載する。場のアトラクター

【散逸構造】 
自己の卵モデルはその場所的言及によってアトラクターを生成する思考モデルとして考えられたものである。 複雑なシステムとしての観点から眺めると、卵モデルは即興劇モデルにつながっていくのである。
場という舞台に存在するということは、自己が場としてのアトラクター(場のアトラクター)に存在しているということである。それは存在者が場所的世界における場所的自己言及性によって生成したアトラクターに存在すると言う意味である。それは第一に場のアトラクターの内部に自己が存在を与えられて散逸構造を生成しているということであり、そのために場のアトラクターと自己の身体の活き(はたらき)の非分離性が注目される。身体は自己の存在に重要な二重の働きをもっている。第一は世界との主客非分離状態の生成(場のアトラクターの生成)であり、第二は独立的な存在者相互との間の自他非分離的関係の生成である。存在者の場のアトラクターが身体の相互引き込み(エントレインメント)の活き(はたらき)によってコヒーレントとなるために、場と間が共有されて、それぞれの位置が場のアトラクターに位置づけられる結果として、各存在者はその場の内部にそれぞれのポジションを確保しながらそれぞれの局所的散逸構造を生成する。これが即興劇の基礎構造である。この即興劇では場のアトラクターは文字通りのアトラクターとして役者と観客を引きつける働きをするのである。このようにして自己組織的に創出する場におけるそれぞれの役割はドラマの筋書きがなければ決まらない。それを決めるものが観客と場のインターアクションである。観客が場のあり方を未来の方からガイドするのである。場のアトラクターは一般的にストレンジ・アトラクターであり、その内部に様々な「秩序」ばかりでなく、様々な「無秩序」も包摂しているために、どのようなシナリオに対しても即興的に対応できるのである。 

【関係子】
生命システムは絶えず不確定な変化をする環境のなかで生きていかなければなりません。そのためには生命システムが環境のなかで何らかの積極的な活動をする必要があります。どのような活動がふさわしいかは、そのときのシステムの状態と環境の状態とによって変わります。一般に環境は複雑で、その変化は規定できません。そのためにすべての操作情報(この場合はフィードフォーワード制御に用いる情報)をあらかじめ用意しておくことはできません。そして状況に応じて適切な操作情報を自己組織する必要があります。
 一般に場の情報は、環境、システム、関係子という順に上から下へと流れて、環境やシステムの状態を要素である関係子に伝え、そして関係子群の情報生成によって、関係子の状態が下から上へと逆行する状態で運ばれ、全体として情報の循環ループが形成されます。このように循環する情報は、関係子をシステムのなかで位置づけるばかりでなく、また環境のなかでも位置づける働きをします。
これまでのシステム論では、環境はシステムに対する固定された境界条件であると仮定され、その中でシステムと要素のとの関係、そして要素と要素との関係だけを論じてきましたが、環境とシステム、そして環境と要素との関係を、意味的な面を含めて議論するために本当に必要な方法をもっていませんでした。今後は環境の複雑さを前提として、環境、システム、要素の三者の関係を取り扱うことのできる科学をつくることも含めて、環境から関係子である人間に送られてくる場の情報を読み取ることが、ますます重要になってくるでしょう。

さてジジェクの引用に戻る。

【ストレンジ・アトラクターと対象a
さらにここで、「正常な」アトラクター(混乱したシステムが指向すると考えられる均衡状態あるいは規則的振動)と「奇妙な」アトラクターとの対立を、快感原則が必死に向かう均衡状態と、享楽を具現化しているフロイト的な<物自体>との対立に重ね合わせてみたくなる。
フロイトのいう<物自体>とは、心的装置の正常な機能を妨害し、それが均衡に達するのを阻止する、一種の「宿命的アトラクター」ではなかろうか。「ストレンジ・アトラクター」の形そのものが、ラカンの<対象a>の物理学的隠喩なのではなかろうか。<対象a>は純粋な形であるというジャック=アラン・ミレールのテーゼが、ここでも確証される。それはわれわれをカオス的振動へと引き寄せるアトラクターの形である。
カオス理論の優れた点は、そのおかげでわれわれはカオスの形そのものを見ることができる、すなわちふつうは形のない無秩序にしか見えないところに一つのパターンが見えてくるということである。

ラカンの<対象a>、あるいは<欲動>については、次のリンクを参照のこと→「資料:欲望と欲動(ミレールのセミネールより))

つまりgoalaimの相違であり、欲動、あるいは享楽はaimに係わる。上記のリンクから、一部、再掲しよう。
 フロイトは欲動のgoalaimを区別しています。人は欲動の対象を手にしたり手にしなかったりします――口唇欲動の場合を例にとれば、対象とは食べ物です。しかしそれでもなお、フロイトが言うように、対象そのものは重要ではありません。欲動の対象はこれでもあれでもありえますが、欲動の回路において満足させられるものは同じものとして残り続けます。goalに達しないときですら、aimを実現することができます。それが、享楽です。(ミレール)

終点は最終目的地だが、目標はわれわれがやろうとしていること、すなわち道wayそのものである。ラカンが言わんとしたのは、欲動の真の目的はその終点(充分な満足)ではなく、その目標である。欲動の究極的目標は、たんに欲動それ自身が欲動として再生産されること、つまりその循環的な道に戻り、いつまでも終点に近づいたり遠ざかったりしつづけることである。享楽の真の源泉はこの閉回路の反復運動である。(ジジェク)


【まとめ】
こうして「秩序」と「カオス」という伝統的な対立は棚上げされる。株式の変動や伝染病の発生から渦巻きの形成や木の枝の配置にいたるまで、制御不能なカオスと見えたものが、ある一定の規則に従っているものだと見なされる。カオスは「アトラクター」によって統御されているのだ。重要なのは「カオスの背後に秩序を探る」ことではなく、むしろカオスそのものの、つまりその不規則な散乱の形、パターンを探ることである。一定不変の法則(原因と結果の不変な繋がりなど)にもっぱら注目した「伝統的」科学とは裏腹に、これらのカオス理論は、未来の「<現実界>の科学」の、すなわち象徴的自動人形とは反対の偶然性を生み出すような規則を作り上げる科学の、最初の青写真を提供しているのである。現代科学の真の「パラダイム・シフト」は、古臭い「機械論的」世界観に取って代わる新しい全体論的・有機的アプローチの確立をめざすと自称する人びとが素粒子物理学と東洋神秘主義の「綜合」と称している訳の分からぬ論文などにではなく、カオス理論にこそ見出されるといってよい。

最後に、浅田彰が「カオスとは何か」をめぐって「器官なき身体」と関連づけて述べている箇所を抜書きしてみよう『批評空間』1996ー9 共同討議「ドゥルーズと哲学」(財津理/蓮實重彦/前田英樹/浅田彰・柄谷行人)。なお、下記の引用は、その前段であるこの討論会での問題設定を読むと、よりわかりやすい。ドゥルーズの「超越論的経験論」、あるいは過激な独我論 (浅田彰)

……
(浅田)その見方はよくわかります。ただ、身体においてカオスは語れないと言われるけれど、『意味の論理学』ではたとえばアルトーの身体の深層―――「器官なき身体」というものが、キャロルの言語の表層に最終的に優越する形で出てくるわけでしょう。その辺はいったいどうなるのか。
もしかするとカオスの定義が違うのかもしれませんね。前田さんは丸山圭三郎派の幼稚なカオス概念のことを意識しすぎておられるのではないか。言語的に分節化されない一様な混沌がカオスだと言うなら、もちろんそんなカオスはドゥルーズにはない。むしろ、カオスーーー少なくとも内在的平面においてとらえられたカオスは、それ自体、とことん差異化=微分化されていて、さまざまな特異点がひしめいている。そのようなものをカオスと呼ぶなら、それは潜在的多様体として存在するわけでしょう。
(前田)『意味の論理学』のアルトーの章は、深層の言語の可能性についての章ですね。この本は言語、意味、出来事の「表層」としての形式性に対して、身体的なものの「深層」としての混合性を強調しているにすぎません。この二分法はやがて変更されます。事物、身体は果てのない液体の混合ではなく、言語に対して自己自身の機械上のアレンジメントを呈示します。浅田さんは事物、身体の潜在的次元での微分の運動をカオスと言われるのですね。
(浅田)「器官なき身体」をカオスと呼べる限りでそこにもカオスがあると言っていいんじゃないですか。
単純化するために、たとえばカオスを科学の準拠平面ないし座標空間で切り取ったとして、そこには潜在的なものはポテンシャルとして現れ、ポテンシャルがいろんな道をとって顕在化されることになる。古典的には、ライプニッツ的な形で、最適なものが選ばれてくるわけですね。しかし、現代的には、プリゴジン的な形で、最初の多様な揺らぎの中からたまたまひとつの方向が増幅されて出てきて、さらに分岐を重ねながら展開していくという形もあるわけです。ちなみに、潜在的なものを考えることは必然的に最適なものの勝利につながるので、それに対して可能的なものを復権しなければならない、ということはぼくには理解できない。
プリゴジン的な形で言えば、分化のコースはまったくコンティジェントであっていいわけですからね。ちなみに、プリゴジンはベルグソンに影響を受けているし、彼の共著者のスタンジェールがドゥルーズに近いということも、強調しておくべき事実です。
こういう過程は、もちろん、物理学的な乱流のモデルにせよ、生物学的な形態形成のモデルにせよ、いたるところに見いだすことができる。身体と言語についても、赤ん坊がなんとなくアーとかオーとか言っている時に、それが大人たちに聞き取られて反復されることで、アとオという母音への引き込みが起こって、最終的に音素のシステムが形成されていくとか、そういうことは考えるわけでしょう。

すこし「カオス」をめぐる記述からは外れるが、浅田氏によって、可能的なもの、可能世界論批判が書かれているので、この同じ討論で、のちほど柄谷行人がコメントしている部分も引用しておく。可能世界についての覚書

(柄谷)ドゥルーズは超越論的といいますが、これもまさにカント的な用法ですが、これを正確に理解している人はドゥルーズ派みたいな人にはほとんどい ない。カントの超越論という観点は、ある意味で無意識論なんです。実際、精神分析は超越論的心理学ですし、ニーチェの系譜学も超越論的です。(中略)

ア・ プリオリという言葉がありますけど、ア・プリオリというものは、実際には事後的なんです―――無意識がそうであるのと同じように。それがほとんど理解され ていない。さっき言った様相のカテゴリーはア・プリオリですが、それはたとえば可能性が先にあってそれが現実化されるというような意味ではまったくない。 可能性とは事後的に見いだされるア・プリオリです。最近、可能世界論などといっている連中は、こんな初歩的なこともわかっていない。


※なお、ジジェクによる「器官なき身体」をめぐる見解は、ここに詳しい。ラカンとドゥルーズ  (ジジェク)、あるいはファルス、対象a,ララング