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2014年4月26日土曜日

四月廿六日 「密閉した全体じゃない」

ちょっとかなりいい加減に書いたな、いま読み返してみてそう思うが、書きなおすのはメンドウなのでそのまま投稿する。「小説」のひとになっていいてね、いま。邪魔するなよな、おい!

…………

むかし書いたのをいまごろ何人かの人が読んでくれると、
ああこんなことを書いたんだなと思い出すのだけれどさ

非-全部はメタランゲージである」は、三ヶ月ほど前に書いたんだな
非全体の論理、あるいは女性の論理ってやつだけれど

あんまりむつかしいこときいてくるなよな
思いつきで書いているところも多いんだから
自分で考えろよ、資料は提示するからさ

資料:ラカンの男性の論理と女性の論理/カントの力学的アンチノミーと数学的アンチノミー)」ってのは、かなり昔に書いたのだが、ここで引用されている田中純の論文はまず読んどけよ


ジジェクが『Less Than Nothing』(2012)で
前期ウィトゲンシュタインを、ラカンの「男性の論理」
後期ウィトゲンシュタインを「女性の論理」とを
関連させて語っている箇所があるけれど
(後期というのは「家族的親和性」のこと)
こっちのほうがまずは分かり易いかもしれない

英文のままにするよ
いくらなんでももうそろそろ邦訳でるだろ

Slavoj Žižek: Formulae of Sexuation: The All With an Exception
Lacan elaborated the inconsistencies which structure sexual difference in his “formulae of sexuation,” where the masculine side is defined by the universal function and its constitutive exception, and the feminine side by the paradox of “non‐All” (pas‐tout) (there is no exception, and for that very reason, the set is non‐All, non‐totalized). Recall the shifting status of the Ineffable in Wittgenstein: the passage from early to late Wittgenstein is the passage from All (the order of the universal All grounded in its constitutive exception) to non‐All (the order without exception and for that reason non‐universal, non‐All).

That is to say, in the early Wittgenstein of the Tractatus, the world is comprehended as a self‐enclosed, limited, bounded Whole of “facts” which precisely as such presupposes an Exception: the mystical Ineffable which functions as its Limit.

In late Wittgenstein, on the contrary, the problematic of the Ineffable disappears, yet for that very reason the universe is no longer comprehended as a Whole regulated by the universal conditions of language: all that remains are lateral connections between partial domains. The notion of language as a system defined by a set of universal features is replaced by the notion of language as a multitude of dispersed practices loosely interconnected by “family resemblances.”

《私たちが見ているのは、多くの類似性――大きなものから小さなものまで――が互いに重なり合い、交差してできあがった複雑な網状組織なのである。》(ウィトゲンシュタイン『哲学探究』66節)

《私は、この類似性を特徴付けるのに「家族的類似性」という言葉以上に適切なものを知らない。なぜなら家族の構成員の間に成り立つ様々な類似性――体格、顔つき、眼の色、歩き方、気性、等々――は、まさにそのように重なり合い、交差しているからである。そこで私はこう言いたい、「ゲーム」もまた一つの家族を構成しているのだ、と。》(『哲学探究』67節)

ウィトゲンシュタインが反対するのは、複数的な規則体系を、一つの規則体系によって基礎づけることであるといってよい。しかし、数学の多数体系はまったく別々にあるのではない。それは相互に翻訳可能だが、共通の一つをもたないだけである。彼は、そうした「互いに重なり合ったり、交差し合ったりしている複雑な類似性の網目」を「家族的類似性」と呼ぶ。《われわれが言語と呼ぶものすべてに共通な何かを述べる代わりに、わたくしは、これらの現象すべてに対して同じことばを適用しているからといって、それらに共通なものなど何一つなく、――これらの現象は互いに多くの異なった仕方で類似しているのだ、と言っているのである。そして、この類似性ないしこれらの類似性のために、われわれはこれらの現象すべてを「言語」とよぶ》(『哲学研究』)――(柄谷行人『トランスクリティーク』P106)
前期ウィトゲンシュタインは、「語りえないものについては沈黙しなければならない」と書いている(『論理哲学論考』)。その場合、「語りえないもの」とは、宗教と芸術である。この点で、ウィトゲンシュタインがカント的であることは容易に指摘しうる。(……)

しかし、後期ウィトゲンシュタインはどうか。『哲学探究』における言語ゲーム論では、科学・道徳・芸術といった領域的区分が廃棄されている。それは彼がカント的なものから遠ざかったように見えさせる。しかし、すでに述べてきたように、カントの「批判」の核心がそのような区分に関係なく、他者を持ち込むことにあったとすれば、むしろ後期ウィトゲンシュタインのほうがはるかにカント的なのだ。その「他者」は、経験的にありふれているにもかかわらず、超越論的に見いだされたものである。同 P112

ーーとあるけれどさ
ラカンの非全体の論理ってのは、はっきりはわかんないねえな
家族的親和性だけじゃないには決まってるからな

非全体の論理が説かれるラカンのアンコールのセミネールなんて
オレはどう頑張っても精読する気にならないからな
英訳ですこしは読み流したのだけれど
前半と後半でいっていることがすこしずづ動いていくんだよな
非全体の論理の実践の書だね、あれは

『READING SEMINAR XX Lacan's Major Work on Love,Knowledge, and Feminine Sexuality』 E D I T E D B Y Suzanne Barnard Bruce Finkってのを以前、ウェブから無料で手に入れたのだが、いま見当たらないがどういうわけか

まあ探せばこの手のものはいくらでもあると思うぜ


ところで、「ロマン・ヤコブソンのコミュニケーション論―― 言語の「転位」 ――(朝妻恵里子)」に

言語は孤立し密閉した全体と解釈することができず、全体としても部分としても同時に見なければならない

とあるけれど、この「密閉した全体じゃない」ってことなんだな、まずは。

「無限判断」ってことなのだよ

二〇世紀において、数学基礎論は論理主義、形式主義、直観主義の三派に分かれる。このなかで、直観主義(ブローウェル)は、無限を実体としてあつかう数学に対して、有限的立場を唱えた。《古典論理学の法則は有限の集合を前提にしたものである。人々はこの起源を忘れ、なんの正統性も検証せず、それを無限の集合にまで適用してしまっているのではないか》(ブローウェル『論理学の原理への不信』)。彼は、排中律は無限集合に関しては適用できないという。排中律とは、「Aであるか、Aでないか、そのいずれかが成り立つ」というものである。それは、「Aでない」と仮定して、それが背理に陥るならば、「Aである」ことが帰結するというような証明として用いられている。ところが、有限である場合はそれを確かめられるが、無限集合の場合はそれができない。ブローウェルは、無限集合をあつかった時に生じるパラドックスは、この排中律を濫用するからだと考える。

『純粋理性批判』におけるカントの弁証法は、アンチノミーが排中律を濫用することによって生じることを明らかにしている。彼は、たとえば「彼は死なない」という否定判断と「彼は不死である」という無限判断を区別する。無限判断は肯定判断でありながら、否定であるかのように錯覚される。たとえば、「世界は限りがない」という命題は「世界は無限である」という命題と等置される。「世界は限りがあるか、または限りがない」というならば、排中律が成立する。しかし、「世界は限りがあるか、または無限である」という場合、排中律は成立しない。どちらの命題も虚偽でありうる。つまり、カントは「無限」にかんして排中律を適用する論理が背理に陥ることを示したのである。(柄谷行人『トランスクリティーク』第一部・第2章 綜合的判断の問題 P95-96ーー「否定判断」と「無限判断」

こういったことは頭でわかっていても、
つい否定判断の領域で語ってしまうのだよな
でも女性の論理を男性の論理で語ってもどうしようもないぜ
論文形式で図式的に書いたら「女性の論理」はどこかにいっちまうからな

知の領域における父性原理の権化ともいうべき論文形式、後年のバルトは終始痛烈な異議申し立てをおこなった。後年のバルトにとって、論文形式は「戯画」であり、「ファルス」なのである。(花輪光『ロマネスクの作家 ロラン・バルト』)

「女性の論理」についてのディスクールは、それ自体が、ほかならぬ「女性の論理」となり、「女性の論理」の労働となれねばならぬ、ということだよ。

メタ言語を破壊すること、あるいは、少なくともメタ言語を疑うこと(というのも、一時的にメタ言語に頼る必要がありうるからである)が、理論そのものの一部をなすのだ。「テクスト」についてのディスクールは、それ自体が、ほかならぬテクストとなり、テクストの探求となり、テクストの労働とならねばならないだろう。》(ロラン・バルト『作品からテクストへ』)

小説のようなエクリチュールしかないんじゃないか

たとえば、金井美恵子は、《中上健次は私の家に泊っていった時、ホモの家に来たみたいだな、と言ったものですが、私はといえば、彼を、まったくこれは中上のオバだ、と思いましたし、第一、彼の書く小説は、ある意味で女性的です――そして、それが秀れた小説の特徴なのです。》(『小説論』)とするし、クンデラなら、「相対的で両義的な小説の言語」や「小説の知恵(不確実性の知恵)」(『小説の精神』)としたり、あるいは「神の笑いのこだま」とか「非論理的・非合理的なものの介入」などの表現を駆使しつつ何人かの(男性)小説家について語るとき、それは非-全体の論理(女性の論理)に近しいことを語っているに相違ない。

アンナ・カレーニナが狭量の暴君の犠牲者なのか、それともカレーニンが不道徳な妻の犠牲者なのか、あるいはまた、無実なヨーゼフ・Kが不正な裁判で破滅してしまうのか、それとも裁判の背後には神の正義が隠されていてKには罪があるからなのか、…どちらが正しくてどちらが間違っているか。エンマ・ボヴァリーは我慢のならない女なのか、あるいは勇敢で人の心をうつ女なのか。ウェルテルはどうか。彼は多感で気高いのか。あるいは、のぼせ上がった攻撃的な感情家なのか。小説を注意ぶかく読めば読むほど答えることはできなくなる。(……)小説の<真実>は隠されており、表ざたにされず、また表ざたにされ得ないものなのである。(クンデラ『小説の精神』)

やっぱ小説じゃないか

蓮實重彦『表象の奈落』所収の「小説の構造」(初出=「国文学」1977年12月号)の冒頭にこうある。

もしかりに、ヨーロッパが真の反省的思考に目覚める瞬間があるとするならば、そのときヨーロッパが描きあげるだろうその自画像は「小説」を中心にした構図におさまることになるだろう。あるいは逆に「小説」を構図の中心に据えたヨーロッパ像が想定されぬ限り、ヨーロッパはその自意識を獲得することはなかろうというべきかもしれない。「小説」を視界におさめなかったが故に、デカルトは真の反省的思考を実践しえなかったし、マルクスも、またニーチェも、そしてフロイトも、「小説」を曖昧にとり逃がしてしまったが故に、ヨーロッパ的な現実を周到に描きつくすにはいたらなかったのだ。階級闘争も、永劫回帰も、無意識も、「小説」に対してはひたすら無効の身振りしか演じてはいない。そしてその事実を自覚する瞬間に、ヨーロッパは初めて真の反省的な思考を獲得することになるだろう。またそうでない限り、ヨーロッパは、ルイ十四世の時代と質的にはほとんど変わらぬ仕草で思考をめぐらせ続けるほかあるまい。

これは、ただ蓮實重彦一流の挑発であろうか?
『表象の奈落』は2006年に出版されている。なぜ彼は今頃30年以上前のこの小論をここに掲載する気になったのか。

小論の最後には、こう書かれている。

もしかりに、過去一世紀を「小説」の時代と呼ぶのであれば、それは、この身分の賎しくいかがわしい言葉の戯れから、賎しさといかがわしさを分離し、それを見ずにすごすことの歴史であったといえる。それに視線を落とさずにいることがもはや不可能となったいま、「小説」の歴史は、必然的に近代がその真の反省的意識に目覚めるという事件の生まなましい叙述たらざるをえないところにさしかかっていると思う。

《身分の賎しくいかがわしい言葉の戯れ》を
見ずにすませているヤツばかりだからな
対話とか議論とか論文とか言ってさ

そもそも議論するってのはこういうことだからな

よく定義されたことばをつかって書くことは およそ論議のなされるための原則と言えるだろう このこと自体がすでに 語り尽くすことができないものを わかったように語るという罠にかかっている ひとつのことばが厳密に定義できるなら それは意味するものとしての記号にすぎないだろう 世界のかわりにそれをあらわす記号を操作しても 無限を有限で置きかえるこの操作からのアプローチは 逆に無限回の操作を要求することになる 推論はかならず反論をよび 論理の経済どころか ことばは無限に増殖する(現代から伝統へ  高橋悠治

別にラカン理論なんてどうでもいいのだよ
どうでもいいというのは言い過ぎだが
高橋悠治のように理論を参照せずに
たとえばカフカを読んで
カントの無限判断やら
ラカンの非全体の論理や
ヴィトゲンシュタインの家族的親和性
に近い処に自ら到達するってのが肝心かもな

それが考えるってことさ

ーーという具合に胡麻化しておくよ


※附記(ジジェク『斜めから見る』における「非-全体」の論理の叙述)

ウィンストン・チャーチルの有名なパラドックス( ……)。民主主義は堕落とデマゴギーと権威の弱体化への道を開くシステムだと主張する人びとにたいして、チャーチルはこう答えた。「たしかに民主主義はありとあらゆるシステムのうちで最悪である。問題は、他のどのシステムも民主主義以上ではないことだ」。この発言は「すべてが可能だ。いやもっと多くのことが可能だ」という全体集合を提示する。その中では問題の要素(民主主義)は最悪のように見える。第二前提によれば、「ありとあらゆるシステム」という集合はすべてを包含しているわけではなく。付加的な要素と比べてみれば件の要素がじゅうぶん我慢できるものであることがわかる。この論法は次の事実に基づいている。すなわち付加的要素は「ありとあらゆるシステム」という全体集合に含まれているものと同じであり、唯一の相違はそれらはもはや閉じられた全体の要素としては機能していないという点である。政府のシステムの全体の中では民主主義は最悪であるが、政治システムの全体化されていない連続の中には民主主義以上のものはない。したがって、「それ以上のものはない」という事実から、民主主義が「最良」であるという結論を引き出してはいけない。民主主義の利点はまったく相対的なものでしかないのである。この命題を最上級で定式化しようとしたとたん、民主主義の特質は「最悪」となってしまうのである。(ジジェク『斜めから見る』 P62~)

《…Winston Churchill's wellknown paradox. Responding to those detractors of democracy who saw it as a system that paved the way for corruption, demagogy, and a weakening of authority, Churchill said: "It is true that democracy is the worst of all possible systems; the problem is that no other system would be better." That sentence is based on the logic of "everything possible and then some." Its first premise gives us the overall grouping of "all possible systems" within which the questioned element (democracy) appears to be the worst. The second premise states that the grouping "all possible systems" is not allinclusive, and that compared to additional elements, the element in question turns out to be quite bearable. The procedure plays on the fact that additional elements are the same as those included in the overall "all possible systems," the only difference being that they no longer function as elements of a closed totality In relation to the totality of systems of government, democracy is the worst; but, within the nontotalized series of political systems, none would be better. Thus, from the fact that "no system would be better," we cannot therefore conclude that democracy is "the best"—its advantage is strictly limited to the comparative. As soon as we attempt to formulate the proposition in the superlative, the qualification of democracy is inverted into "the worst."》

フロイトは『非医師による精神分析の問題』の「あとがき」において、女性に関して、ウィーンの風刺新聞「ジンプリチシムス」に載ったちょっとした対話を思い出し、( ……)「すべてではない」というパラドックスを持ち出している。「一方の男が、女性の欠点と厄介な性質について不平をこぼす。すると相手はこう答える、『そうは言っても、女はその種のものとしては最高さ』」。だからこそ女は男の症候なのである。女には我慢がならないが、女以上に素敵なものはない。とても女とはいっしょに暮せないが、女なしで生きるのはもっと困難なのだ。(同上)
……女のことになるとまず極まって悪く言っていたし、自分のいる席で女の話が出ようものなら、こんなふうに評し去るのが常だった。――「低級な人種ですよ!」

(……)さんざん苦い経験を積まさせられたのだから、今じゃ女を何と呼ぼうといっこう差支えない気でいるのだったが、その実この『低級な人種』なしには、二日と生きて行けない始末だった。男同士の仲間だと、退屈で気づまりで、ろくろく口もきかずに冷淡に構えているが、いったん女の仲間にはいるが早いかのびのびと解放された感じで、話題の選択から仕草物腰に至るまで、実に心得たものであった。(チェーホフ『犬を連れた奥さん』ーー低級な人種ですよ!/その種のものとしては最高さ