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2011年12月24日土曜日

カヴァフィス「午後の日射し」(中井久夫訳)、あるいは<他者>の享楽


私の馴染んだこの部屋が
貸し部屋になっているわ
その隣は事務所だって。家全体が
事務所になっている。代理店に実業に会社ね

いかにも馴染んだわ、あの部屋

戸口の傍に寝椅子ね
その前にトルコ絨毯
かたわらに棚。そこに黄色の花瓶二つ
右手に、いや逆ね、鏡付きの衣裳箪笥
中央にテーブル。彼はそこで書き物をしたわ
大きな籐椅子が三つね
窓の傍に寝台

(……)

何度愛をかわしたでしょう。
(…)
窓の傍の寝台
午後の日射しが寝台の半ばまで伸びて来たものね

…あの日の午後四時に別れたわ
一週間ってーーそれからーー
その週が永遠になったのだわ

(カヴァフィス「午後の日射し」中井久夫訳)



  【変奏の試み】


半島を南に向かう下り坂よ
二股に分かれる道を海のほうに向かうと
公園の裏手に木造平屋の療養所があったの

あの頃何度も訪れたわ、
今ではコンクリート建ての
どこにでもある背の高い病院に
面変わりしてしまったけれど

窓の傍の窮屈そうな、でも清潔な寝台
開け放たれた窓からはマンダラゲの薄紅色の花
風向きによっては微かに匂う潮の香

使い古された敷布団のなかに
黄疸にむくんだ顔と精気の失せた軀が
埋め込まれてぐったりだらり

退屈だったのかしら、あの夕べ
かりそめの躊躇の一呼吸のあと、唐突に
だれか他の男とやれっていうんだわ
そしてその様子を念入りに喋ってくれって

……

報告したわ、あの午後の澱んだ空気のなか
彼の眼、遠くをみているようで、なにも見ていないよう
「見ることをやめて
内心のなにかに注意を向けてる」っていうのかしら
そして震え声で。もっと詳しく、もっと、って

会話にぱっと火がついたかのよう
あることないことでっちあげて
互いの興奮を楽しんだわ
頬がほってって軀中が汗ばんだのは
重苦しい蒸し暑さのせいだけじゃない……

あの八月の午後――八月だったかしら?
彼の眼だけは忘れられない
「愛と恐れを
心の内に
ひきとめているまなざし」
ーーそういってもいいかしら?

そしてその午後がほんとうの最後になったのだわ

――――(鉤括弧内はロラン・バルトの『明るい部屋』より)


2011年3月28日月曜日

批評をめぐって(蓮實重彦)―――『闘争のエチカ』より

以下、『闘争のエチカ』(蓮實・柄谷対談集 1988)からの抜粋。ここでは蓮實重彦の発言のみをいくつか拾う。

【無謀な列挙】
僕がやっている批評のほとんどは無駄に近い列挙なんです。これもありますよ、これもありますよ、というようなものでね。こっち見てごらんなさい。夏目漱石、こんなことを書いていますよ。またこっちではこんなことを書いていますよ、という愚鈍なまでの列挙なんです。その意味では批評というより事項が並んでいるだけなんです。ところがいまの若い人たちは列挙しないんですね。非常に優雅に自分の言葉に置き換えちゃっている。(……)

僕の無駄というのは、その無謀な列挙にある。なぜ列挙するかというと、列挙することそのものがかろうじて根拠たりうるようなものしか論じないからです。たとえば、ジョン・フォードには太い大きな幹が出てくる。僕は、それを美しいと思う、というよりそのことに理由のない恐れをいだく。しかしそれには何の意味もない。ただ、太い樹木の幹が見えるというだけなんです。だから『静かなる男』にもあった、『タバコロード』にもあった、『我が谷は緑なりき』にもあったと際限なく羅列してゆくしかない。

【批評の役割、あるいは解釈の始まる現場「表層」】
……みんな、批評というものを解釈だと勘違いしてしまったんですよ。解釈といったって、形式を読むこともしなければ、ましてや魂の唯物論的な擁護などと思ってもみない。共同体が容認しうるイメージへと作品を翻訳することを意味の解釈だと思っちゃった。(……)

批評の第一の役割は、作品の意味が生成される可能性を思い切り拡げることであり、それを閉ざすことではない。ところが、みんな、無意識に意味生成の場を狭めればそれが主体的だと思ってるんです。僕はそれを可能な限り豊かなものにすることを一貫してやってきた。べつに、意味を無視したわけじゃあないんです。読むことって、無数の意味の闘いでしょ。表層というのは、その闘いの現場であるわけです。解釈が始まるのは、その闘いの現場を通過してからの話でなければいけない。

【「分析の言説化」と「言説化のためのみの分析」
意味生成の可能性をとことん拡げてその一つひとつのケースを検討するということがないから、分析の言説化ではなく、言説化のための分析しか行われない。要素に分解すること、その諸要素の組み合わせが示す表情をくまなく記述するという、ごく古典的な論述形式さえ定着していない。

【唯一、思考の始動させるものとしての表象不能なものへの驚き】
「観念」というものはいつでも表象可能であり、それは当然なことですが、まさに思考とは表象作用とはまったく別のものであり、であるがゆえに、われわれはイメージなき思考というドゥルーズ的な命題の前に立ちどまりもするわけです。そもそも僕は、人間だけが本能を欠落させた動物だとか、外部を発見したことで人間と動物との差異が生じたといった議論はまったく不毛だと思う。人間は動物になることが可能なんです。愚鈍さというのがその状態であり、これは自然への回帰などといったこととはまるで異質の体験です。愚鈍さといっても、多くの場合、比喩的なものではあるのですが、表象不能の何かを前にした驚きなしに思考は始動しないわけです。そんなことは、人類がなぜ狂者とともに生きてきたかを考えれば明らかでしょう。

【魂の唯物論的擁護
魂の唯物論的な露呈をさまたげているもの、それはイメージです。観念といってもよい。つまり、表象可能なものによってしか批評が支えられていない。ここで魂というのは、いささかも宗教的な意味はないし、また、プラトニズム的な色彩も含んではいないものです。むしろ、ドゥルーズのいうアンタンシテ(強度)に触れて具体的に他となる部分が魂であって、唯物論的というのは、たんなる物質というのではなく、肉体的な運動、つまりアクションを必然化するものなのです。宗教やプラトニズムの残滓が、魂の唯物論的な露呈をさまたげているというべきなのです。その意味で、現代の批評は、宗教的でプラトニズム的だとさえ言えると思う。
僕が表層批判ということを、あえて誤解を覚悟でいったのは、そうした現状にいらだってのことです……。

【魂が露呈する場としての表層】
魂が露呈されるのは、表層なんです。何かの表面とかそういうものでもなく、柄谷さんのことばで言えば交通空間ということになるのかもしれないけれど、これまでの僕の言葉でいうなら、イメージのない差異、あるいは無根拠な根拠ということにある。しかし、このイメージのない差異があって可視的な差異が体系化されるといった、始まりの根拠づけとしてそれがあるんじゃあない。表層というやつを、ひとはすでに知っているんです。それは未知のものではなく、だから既知というのでもないけれど、それと出会えばわかるんです。そしてそうして表層で魂と遭遇するとき、それにイメージを与えることなく肯定することがわれわれにはできる。もう、直接的にそれとわかって肯定してしまう。それに、「美しい」という共同体的なタームを与えることはイメージ化の危険をたえず伴っているわけですが、それをも恐れずに肯定しうる何かがその魂にはそなわっている。それが「記号」なのであって、しるしでもあるわけです。(……)人類はそうした「記号」を抑圧するために発見されたことになるでしょう。それに、あえて唯物論的という形容詞をつけるのは、イメージの側に回収させてはならないという意図からにすぎません。

【反復を抑圧する要約】
流通するのは、いつも要約のほうなんです。書物そのものは絶対に流通しない。ダーヴィンにしろマルクスにしろ、要約で流通しているにすぎません。要約というのは、共同体が容認する物語への翻訳ですよね。つまり、イメージのある差異に置き換えることです。これを僕は凡庸化というのだけれど、そこで、批評の可能性が消えてしまう。主義者が生まれるのは、そのためでしょう。書物というのは、流通しないけど反復される。ドゥルーズ的な意味での反復ですよね。そして要約そのものはその反復をいたるところで抑圧する。批評は、この抑圧への闘争でなければならない。

言語ゲーム(ヴィトゲンシュタイン)のなかでは、間違いとか、誤りとかいう話がなくなるでしょう。もちろんシステムとしての言語だったら、間違いが出てくるし、それは修正しうるし、それを説得できる(……)。
システムのなかでしか考えられない人々は書物が流通しない、書物は差異として反復されるという体験のない貧しい連中だと思う。

【小説と物語】
さっき、書物は流通しない、差異として反復されるしかないと言ったけれど、小説というものも流通しないんです。物語のほうは、無限に流通して行きます。差異としてではなく、類似のヴァリアントとして反復される。それは、相対的な差異のイメージとして流通するということの意味でしょう。だから、小説を読むことと物語を読むこととは、まったく別の体験になる。しかし、その別種の体験が、最後まで別のものだったら、小説がこれほど読まれることはないだろう。ニューズを掘り下げると物語に吸収されて行くと言われたけれど、掘り下げるというのは、一種の凡庸化でしょう。そして、小説を書く限り、この凡庸化に期待せざるをえないというのが、小説の自己撞着であるわけです。これに対して、小説家は倒錯的な形でしか対応できない。
(引用者注:柄谷行人の発言、「古い新聞を読むと面白いけど、古い週刊誌はまことにつまらない」受けて。)

【同時代の批評家の義務】
僕は、同時代の批評家の義務は、時代を先導しつつある作家を殺すことにあると思う。つまりその物語を解体するということですね。


【再度、小説と物語】
物語というのは、さっき「それから?」という話が出たけれども、全部読まなければだめなんですよね。全部聞かなきゃいけない。知っているけれども全部聞かなければいけない。中断というのはいけないわけです。
小説というのは、僕は形式的に中断できると思う。読み方においても中断できるし、書き方においても中断できる。(……)
小説が、何にいちばん似ているかと言うと、僕は百科事典に似ていると思う。どこのページから読みはじめてもかまわないのが小説だという意味で似ているのであり、それは物語に対する逆らい方でもあるわけだけれども、実際に面白い小説ってそうでしょう。どこを読んだっていいわけです。
(……)
たとえば夏目漱石の『猫』なんて、連載されたときは、みんな順を追って読んだかもしれないけれど、いま、はじめから律儀に読んで読み終わって、ああ面白いと思うやつはバカだと思う。そもそもそうした読まれ方にふさわしい構成を持っていないのだからあれはちょっと見ればいいわけです。いずれにしても、断片的かつ局部的な読み方のほうが生産的なんです。プルーストの『失われた時を求めて』にしたって、あれを読了して感動したというやつはバカだと思う。何回も読んだという人もいますけれどね、あれは断片で充分なものであって……。


※参照1:ドゥルーズ『差異と反復』より
差異は、表象=再現前化の諸要請に服従させられているかぎり、それ自身において思考されていないし、それ自身において思考される可能性もない。<差異は「つねに」それらの諸要請に服従させられていたのか、そうだとすればどのような理由で>という疑問は、当然注意深く検討してみるべきものである。しかし、純然たる齟齬するものたちが、わたしたちの表象=再現前化的な思考には近づくことのできない或る神的な知性の天上の彼岸を、あるいは非類似の 《大洋》の、わたしたちには測深できない手前にある冥府を形成しているということも明らかである。いずれにせよ、それ自身における差異は、その差異を思考 されうるものに仕立てあげてしまうような、異なるものと異なるものとのあらゆる関係を拒絶するように思われる。まさしく思考されうるものへと、それ自身に おける差異が生成するのは、飼い馴らされる場合、すなわち、表象=再現前化の四重の首伽〔諸要請〕──概念における同一性、述語における対立、判断におけ る類比、知覚における類似──に服従される場合でしかないと思われる。

※参照2:柄谷行人『探求Ⅱ』―――「他者」との交通
「他者」は、異者が実は内在的であるに対して、外在的(超越的)である。それは超越者ということを意味するのではなく、いかなる意味でも自己または共同体 に対して異質であり、後者の疎外理想化として在るのではないということを意味している。「他者」は聖なるものではないし、不気味なものでもな い。だが、親密でもない。「他者」との交通には、ひとつの飛躍がともなう。だが、それはエクスタシーの如きものではない。たとえば、「神との合一」と いう神秘主義的な体験は神と人間との本来的な同一性を前提としているが、異質なものとしての「他者」については合一などありえないからだ。 extasyは、自己同一性のなかに回帰することである。しかるに、「他者」との関係における実存existenceは、自己同一性から出ることである。

用語:「他者」と「異者」
異者は、共同体の同一性・反復のために要求される存在であり、共同代の装置の内部にある。共同体は、スケープゴートとしてそのような異者を排除するし、またそれを「聖なるもの」として迎えいれる。

異者も他者も、私にとって異質な存在である。異者と他者の違いは、他者が単独性において見られるのに対し、異者が一般性(類型)においてみられること。怪 物、鬼畜、でぶ、ちび、奇形、外人、毛唐、―――。異形なるもの、異様なるものが、そういわれるのとは逆に陳腐なまでに類型的。(同上)

※参照3:ウィトゲンシュ タイン「数学の基礎」より
証明の背後にある何かが証明するのではなく、証明が証明するのである。数学はいつも新しい規則をつくり続け、いつも新しい交通路をつくっている、古い 道路網をひろげることによって。/数学者は発明家であり、発見家ではない。/数学者はいつも新しい表現形式をつくりだす、といえよう。

今、すぐさま埋めるべき「穴」―――震災情報をめぐって

まず、柄谷行人や岡崎乾二郎が90年代、カントを援用して、しばしば指摘したもので、おそらくカントの読者ではあれば常識的なことなのかもしれない(岡崎乾二郎/古谷利裕 カントの総合判断をめぐって)。

科学は分析的判断のみを扱い、反省的判断は特殊な(偶発的な)ものとして排除される。そして、特殊を排除したまま分析的判断を無限に拡張することで、反省的判断まで包み込むことができるはずだという信仰を暗黙の前提としている。

今回の大地震、大津波を機縁とする原発事故で、あきらかになりつつあるのだが、そして科学者たちのご苦労を否定するつもりは毛頭ないのだが、分析的知性は偶発的な出来事に対応することに不得手である。

さらに言えば次のこともあらためて確認された。

要は専門家のもっている専門てほんとに狭くって、世界に数人〜数十人しか分かる人がいない。それでも業界外に位置づけを説明するために自分が数千人から数十万人のコミュニティに属しているように説明する。素人から期待される質問に答えようとするととたんに擬似専門家になる。(鈴木健氏ツイート3/16/11 8:31 PM

では、専門家の「集合知」というものが機能しているかといえば、総合判断の人材は彼らの集団からは現れにくいようだ。

さらにわれわれが一次情報と受け取っているものについても実はあるバイアスがかかっていることもわかった(それは「間違い」というレベルとはまた異なって領域でさえも)。情報はとき遅れに、そして、測定者、方法、機材などによって翻訳されて出てくるものなのだ。

東電様,プルトニウムの測定結果を発表される場合も,数値を並べるだけでなく「いつ,誰が,何処で,どんな方法で,どんな機材で測定し,どのくらいの誤差があると見積もったか」についても付記して下さるよう要望@hayano ryugo hayano


以下、おそらく総合判断の立場から、優れた問いかけをされている鈴木健氏の本日のツイート(3/28)のいくつかを列挙する。

◆東電を攻めるのではなくて、測定者を多重化して欲しい。経済産業省(産総研)や文部科学省(理研や大学など)がパラレルにばらばらのデータをだせばいいと思う。実際文科省のミニタリングカーは警察の測定データと混ざって発表されている。

◆ガンマ線分析は人間の認知システムと機械のハイブリッドなシステムだから、責任を追求して、逆に考えすぎると都合のいいデータになってしまう恐れがある。

◆人間は間違える。間違いが許される仕組みをつくるべき。理研や産総研など複数の研究所でデータを測定する並列多重化が必要。 / 測定の間違い許されない=枝野官房長官が東電批判 http://bit.ly/iiEzSw

◆責任追及圧力は別のところに歪みを作り出す。

―――などと書いている場合ではないのだが、専門家たちの「集合知」が機能するには、現在なにかが欠けている。その「穴」をすぐさま埋めなければならないはずだ。政治家もレトリックばかりなのだ……。

※追記(鈴木健氏ツイート)
リンク先ニュースもう消えているけど、枝野官房長官の全文読むと大分ニュアンスが違う。批判はしてない感じ。 / 測定の間違い許されない=枝野官房長官が東電批判

情報とコミュニケーション、あるいは倫理をめぐって (蓮實重彦/柄谷行人)

以下、蓮實重彦/柄谷行人対談集『闘争のエチカ』(1988)より抜粋。

◆国際化時代といわれたりしているけど、情報といわれているもののほとんどは、国内的に消費されるものばかりです。また、発信者のほうでも、そのつもりで記号を送っている。その意味じゃ非常に政治化されやすい情報ばかりが流通していますね。

僕が批評家として位置しているコミュニケーション空間にあるのは、情報交換とは違う運動です。さっきもちょっといったけど、日米経済摩擦にしても、国内的な情報としてしか交換されていないし、けっしてコミュニケーションとして体験されていない。つまり、物語として共同体的に消費されているだけ(蓮實)

◆さっき僕は、情報空間とコミュニケーション空間を区別したんだけど、その情報空間というのが共同体としての日本にあたるわけです。それは、また文学対言語にあたるものです。そして、前に挙げた区別をまた使えば、情報空間はイメージを介した物語の領域だといってもよい。その意味で、他の書物で「説話論的磁場」と呼んだものに相当しています。それに対して文学というのは、イメージを欠いた差異の世界であり、文壇といった共同体のことではなく、作品という表層のことです。だから、ここでの階級闘争は、言語対文学だというべきかもしれない。言語は、作品を自分の中に閉じ込めようとする。作品はその外に出ようとする。そして、批評が、その外に出ようとする力を活気づけるとき、コミュニケーションが起こる。つまり、そこで初めてインターテクストの問題が語りうるわけです。(蓮實)

◆インターナショナルが共同体の外で問題であるように、インターテクストも言語の外の問題なんです。インターナショナルというのは、複数の国家の集合ではなく、そのいずれにとっても外にある現象でしょう。インターテクストというのも同じですよね。だから、インターテクストは作品についてしか語りえず、言語の問題ではない。批評とは、そうした意味でのコミュニケーションに加担することでしょう。(つまり、ここでのインターナショナルは、柄谷行人が後年使用する「トランスナショナル」であり、そしてここで語られている「批評」が、トランスクリティークであるだろう。;引用者)(蓮實)

◆たぶんスピノザの『エチカ』(倫理学)は、認識そのものの倫理性をいったのだと思うんです。人間がたえず表象(想像)にとらわれていること―――「自由意志」もまた想像物です―――に対して、徹底的にその「原因」を探ろうとする態度、それがスピノザの倫理です。スピノザにとっては、道徳、つまり善悪の区別も、想像物なのですね。マルクスは、スピノザが「表象」とよんだものを、「イデオロギー」とよんでいる。そして、彼は、人間の考えることはすべてイデオロギーだと考えている。それに対して可能なのは、別の真理(イデオロギー)を立てることではなくて、この「表象」をもたらす「原因」を見出そうとすることだけだと考える。そこから彼の徹底性が出てくる。そこから彼の徹底性が出てくる。そういう徹底性が彼の倫理なのですね。『資本論』の序文で、彼は自分は「自然史的立場」、いわば「善悪の彼岸」に立つといっていますけれど、まさに、それが彼の倫理性ではないかと思うんです。(柄谷)

※参照:柄谷行人『探求Ⅱ』

スピノザは、身体からくる受動感情(情念)意志によって克服しようとする姿勢を否定する。感情に対しては、われわれはその原因を知ろうと努めることしかできない。感情にとってかわるのは、意志ではなく、もう一つの感情である。いいかえれば、意志そのものが、われわれが複雑すぎるがゆえにその原因を知らないところの欲望(意識された衝動)にほかならない。くりかえしていうが、スピノザはそのような感情や欲望の不可避性を承認しようとするのであって、それを理性や意志によって克服しようとする態度を否定するのである。

《感情は、それと反対の、しかもその感情よりもっと強力な感情によらなければ抑えることができない》(『エチカ』)。これは、ある意味で、フロイトが宗教についていったことを想起させる。フロイトの考えでは、宗教は集団神経症である。神経症を意志によって克服することはできない。が。彼は、ひとが宗教に入ると、個人的神経症から癒えることを認めている。それは、ある感情(神経症)を除去するには、もっと強力な感情(集団神経症)によらねばならないということである。むろんフロイトは、神経症を集団神経症によって癒すことに反対である。困難であるとしても、個人的・集団神経症に対して立ち向かう方法がひとつある。それはスピノザのいったつぎのことである。

《受動の感情は、われわれがその感情についての明瞭・判明な観念を形成するば、ただちに受動の感情ではなくなる》(『エチカ』)。

つまり、それについて「明瞭・判明な観念」をもつこと以外には、受動性のなかにある状態から出られないと、スピノザはいうのだ。この場合、彼は感情のみについて語っているけれども、「受動性」はすべての「意識」についてあてはまる。真理の意識さえでも表象であり、受動性においてある。真理としてのイデオロギーを越えるのは、いつも別の真理のイデオロギーである。

こで、すでに示唆してきたように、いくつかの疑問が生じる。それは先ず、真理の意識そのものを表象とみなす「観念」は、それ自体意識ではないのか、という ことだ。これはつぎのようにもいいかえられる。われわれが自然史のなかにあり、受動性=表象のなかにあって、それを超越しうるという考えそのものが表象に すぎないとするならば、そのようにいうこと自体は超越なのではないか、と。あるいは、個としての主体を受動的な表象とみなすとき、なおそれをそのようにみ なす主体があるのではないか、と。


説話論的磁場。それは、誰が、何のために語っているのかが判然としない領域である。そこで口を開くとき、人は語るのではなく、語らされてしまう。語りつつある物語を分節化する主体としてではなく、物語の分節機能に従って説話論的な機能を演じる作中人物の一人となるほかないのである。にもかかわらず、人は、あたかも記号流通の階層的秩序が存在し、自分がその中心に、上層部に、もっと意味の濃密な地帯に位置しているかのごとく錯覚しつづけている

近代、あるいは現代と呼ばれる同時代的な一時期における自我、もしくは主体とは、この錯覚に与えられたとりあえずの名前にすぎない。
……

れわれは、説話論的な磁場の生成(……)があたかも自然現象であるかにみなされる世界に暮らしている。もっとも、その無自覚なさまを、たとえば「イデオロ ギー」と呼ぶことで覚醒させようとした試みがなかったわけではない。しかし、説話論的磁場にあっては、この概念すらがたちどころに自然化されて、過剰なる ものの隆起として人を戸惑わせる力を失ってしまう。それはおそらく、同時代にふさわしい戦略性がそこに欠落していたからであろう。

※参照3:柄谷行人『トランスクリティーク――カントとマルクス――

カントは一般性と普遍性を鋭く区別していた。それはスピノザが概念と観念を区別していたのと同様である。普遍性は或る飛躍なしには得られない。最初に述べ たように、認識が普遍的であるためには、それがア・プリオリな規則にもとづいていることではなく、われわれのそれとは違った規則体系の中にある他者の審判 にさらされていることを前提している。これもで私はそれを空間的に考えてきたが、むしろそれは時間的に考えられねばならない。われわれが先取りすることが できない他者とは、未来の他者である。というより、未来は他者的であるかぎりにおいて未来である。 在から想定できるような未来は、未来ではない。このように見れば、普遍性を公共的合意によって基礎づけることはできない。公共的合意はたかだか現在のひとつの共同体――それがどんなに広いものであれ――に妥当するものでしかない。

2011年2月8日火曜日

資料:ラカンの男性の論理と女性の論理/カントの力学的アンチノミーと数学的アンチノミー)

以下、まず、ラカンの「性別化の図」をめぐって、ポスト郵便都市(ポスト・シティ)──手紙の来歴、手紙の行方 | 田中純からの抜粋。

【デリダの否定神学批判】
ラカンの「『盗まれた手紙』のセミネール」を締めくくる「手紙はつねにその宛先に届く」という言葉に対しては、「手紙[文字]は必ずしもつねに 先に届くわけではない。そしてそれが手紙[文字]の構造に属している以上、それが真に宛先に届くことは決してなく、届くときも、〈届かないこともありう る〉というその性質が、それを一個の内的な漂流で悩ませている」というジャック・デリダの批判がある。その批判は〈盗まれた手紙〉というファルス的 シニフィアン、〈現実的なもの〉という象徴秩序の〈穴〉をふさぐシニフィアンを、ラカンが分割不可能なものと見なしている点に向けられている。対象aはさ まざまな現われ方をするにせよ、手紙が分割不能であるならば、それが立ち現われる場である〈現実的なもの〉自体は一つと見なされてしまうことになろう。東浩紀 述べるように、「郵便制度全体を見渡し、そのシステムの必然的な不完全性から、〈配達がうまく行かない手紙が少なくとも一つはある(=真偽が決定できない 命題が少なくとも一つはある)〉という命題を導き出すゲーデル=ラカン的論理」は確かに否定神学的なものに見える。

【男性の論理=力学的アンチノミー】
「少なくとも一つの例外がある」という命題によって、全体という普遍性を成立させるこの論理は、カントの力学的アンチノミーの形式にほかならないが、それ をラカン自身は一九七二七三年のセミネール『アンコール』で、男性的な形式として示している。性差はそこにおいて、主体を実定的に記述す るものではなく、分割された主体のその分割の二つの様式として、つまり、言語および理性がアンチノミーという形で躓く、その失敗の様式の差異として把握さ れる。こうした意味で、カントがアンチノミーの二つのタイプ(力学的アンチノミーと数学的アンチノミー)の差異を明らかにしたとき、「性差がはじめて哲学 的言説のなかに書き込まれた」と述べることができるのだ。 
その名も「ラブ・レター(Une lettre d'âour)」と題されたラカンのセミネールで示されたこの性別化の定式においては、男性の側がx Φx, x Φxと表記される。Φは無制限でとりとめのない享楽をファルスに結びつける機能=関数、ファルス関数を示す。ファルス関数は象徴的去勢と相関的である。こ の定式はそれぞれ、〈ファルス関数に従わないxが少なくとも一つ存在する〉、および〈すべてのxはファルス関数のもとに包摂される〉と読まれる。この〈男 性的〉アンチノミーは、力学的アンチノミー同様、〈例外〉を通じて構成される普遍性のパラドクスを示している。カントの定言的命法の背後で働いているもの はこの〈例外〉の論理であり、例外を創出する禁止ゆえに、超自我にはファルス関数を逃れる猥雑な剰余享楽が蓄えられることになる。



※引用文の表記が正確になされていないので、アンコールの図式を下記に示す。
左側が、男性の論理、右側が女性の論理。くわしくは資料:ラカン「性的(無)関係の(非)論理」。最もわかりやすいのは、向井雅明氏の ヒステリーの、ヒステリーのための、ヒステリーによる精神分析 の中の「男性の論理」「女性の論理」の説明箇所かもしれない。(これも上手くコピーできないので、ここでは割愛)。






【女性の論理=数学的アンチノミー】
これに対し女性の側はx Φx, x Φxと書かれ、それぞれ〈ファルス関数に従わないxは存在しない〉、および〈すべてのxがファルス関数に包摂されるわけではない〉と読まれる。コプチェク によれば、ここで示されているラカンのいわゆる〈非全体(すべてではない pas-tout)〉のパラドクスは、カントの数学的アンチノミーに対応している。数学的アンチノミーとは、「世界は時間的な始まりと空間的な限界を有す る」というテーゼと「世界は時間的にも空間的にも無限である」というアンチテーゼからなる純粋理性の第一アンチノミーのように、その両者が前提としている 〈すべて〉としての世界の存在が否定されるために、テーゼ、アンチテーゼの双方が偽とされるものである。それは帰結として、われわれの直観に与えられる対 象で現象の領域に属さないものは存在しないにもかかわらず、この領域が決して〈すべて〉ではなく、完結していないという事態を示すことになる。このような 意味で、〈女性においてすべてがファルス関数に包摂されるわけではない〉という命題は、〈女性は非全体である〉という無限判断として理解されなければなら ない。一方、〈女性においてファルス関数に従わないものは何もない〉のであるとすれば、例外は存在しない。しかし、まさに例外が存在しえないからこそ、そ こには限界がありえず、女性の〈全体〉について判断を下すことは不可能になる。いずれにしても、ここでは〈すべて〉の存在が否定される。男性的アンチノ ミーが〈例外〉を伴う〈不完全性〉の障害であるのに対して、女性的アンチノミーは境界を欠いた〈非全体〉の表層における〈矛盾(非一貫性)〉の障害なので ある。


【女性の論理は否定神学的ではない】
郵便制度には二つの異なる障害がありうる。ラブ・レターは二つの理由によって届かない。「性的関係は、二つの理由により失敗に終わる。二つの理由とは、そ れが不可能であるということ[女性の宇宙]と、それが禁止されているということ[男性の宇宙]である。この二つの失敗が合体したところで、決して全体を作 るにはいたらない」。少なくとも一つの不可能性(手紙の紛失=外傷的去勢)から、不完全なシステム〈全体〉(郵便制度全体=全体としての象徴秩序) を想定する論理が男性的=力学的アンチノミーのものであるとすれば、女性的=数学的アンチノミーの郵便空間においては、送り届けられない手紙は存在しない にもかかわらず、すべての手紙が届くわけではない。この後者の郵便事情は、東が次のように分析しているデリダのそれにむしろ近いのではないだろうか。「手 紙が行方不明になるのは、郵便制度が全体として不完全だからではない。より細部において一回一回のシニフィアンの送り返しの脆弱さが、手紙を行方不明にする。行方不明の手紙は、その可能性において無数にあることだろう。そして、その送り返しの脆弱さこそが、デリダが〈エクリチュール〉と呼んでいたものに他ならない」。


◆ここで、カントの力学的アンチノミーと数学的アンチノミーの概要。

【力学的アンチノミーと数学的アンチノミー】
四つのカテゴリー(量、質、関係、様相)のそれぞれのアンチノミーがある。

第一のアンチノミー・テーゼ・・・・・・・・世界は時間・空間的に有限である。・アンチテーゼ・・ 世界は時間・空間的に無限である。


第二のアンチノミー・テーゼ・・・・・・・・世界における合成された物は、それ以上分割できない単純なエレメントからなる。・アンチテーゼ・・ 世界には単純なエレメントは存在しない。 空間は無限に分割できる。


第三のアンチノミー・テーゼ・・・・・・・・世界には絶対的なはじめとしての自由がある。・アンチテーゼ・・ 世界における出来事はすべて自然必然の法則、すなわち自然因果の法則によって起こる。 自由は存在しない。


第四のアンチノミー・テーゼ・・・・・・・・世界の因果の鎖の中には絶対的必然的存在者がいる。・アンチテーゼ・・ 世界の因果の鎖の中には絶対的必然的存在者はいない。

最初の二つは数学的アンチノミーに分類され、また後半の二つは力学的アンチノミーに分類される。


これに関して、カントは次のように説明する。(参照:カント「純粋理性批判」#4-2 誤謬推論・二律背反・理想)

カントのは第一、第二の数学的アンチノミーは定立、反定立ともに誤りで、第三、第四の力学的アンチノミーにおいては定立、反定立ともに正しいとする。 数学的アンチノミーにおいては、たとえば、

テーゼ:すべての物体は良い匂いをもつアンチテーゼ。すべての物体は良い匂いをもたない

―――このテーゼ/アンチテーゼ以外に、第三の可能性、つまり「匂いをまったくもたない」がありうる。つまりはテーゼ/アンチテーゼとも、正しくない。

力学的アンチノミーにおいては、どうなのか。第三アンチノミーをすこし詳しくみてみよう。

テーゼ 「自然法則に従う原因性は、世界の現象がすべてそれから導かれうる唯一の原因性ではない。現象を説明するためには、そのほかになお自由による原因性をも想定する必要がある」。アンチテーゼ:「およそ自由というものは存在しない。世界における一切のものは自然法則によってのみ生起する」。


ここで、先ほどの田中純氏の論文から再度「引用」すれば、次のごとし。

これは〈数学的アンチノミー〉と呼ばれる第一、第二のアンチノミーに対して、第四のアンチノミーとともに〈力学的アンチノミー〉と呼ばれる。数学的アンチ ノミーがテーゼ、アンチテーゼの双方を偽とすることによって解決されたのに対し、力学的アンチノミーではこの両方が真とされて解決される。なぜなら、ここ で論じられている自由は、可能な経験の対象、つまり世界の一部としてはとらえられない、異なる存在論的系列である叡知的なものの次元に属しているからであ る。

カント的世界市民の〈世界〉を成立させているものは、因果連鎖を宙づりにしてしまう自由という叡知的行為、この例外の存在である。ここでは世界の現象の系 列に、その系列には含まれえないものが否定判断の形でつけ加えられており、アンチテーゼにおける「およそ自由というものは存在しない」という文は、そのよ うなものとして機能している。自由とは現象的な世界の内的な限界にほかならない。「この否定判断によって、自由を思い描くことの不可能性そのものが概念化 され、現象の系列は、開集合ではなくなり閉集合となる。なぜなら、このとき現象の系列は──否定の形式でではあるが──その系列から排除されているものを 含むことになるからである。つまりそれは一切のものを含むことになるのだ」(ジョーン・コプチェク)。〈すべて〉としての世界が措定されるのはこのように、そこから逃れる〈例外〉によってなのである。


 ※なお、カントは孫引きのため、十分な検証はされていないので、あしからず。



ここで、ジジェクが長年、強調しているラカンの「性理論」の一般的な誤解の指摘を引用しよう。

Woman is One of the Names-of-the-Father, or How Not to Misread Lacan's Formulas of Sexuation •..........lacanian ink 10 – 1995より。http://www.lacan.com/zizwoman.htm

第一の誤解】
The usual way of misreading Lacan's formulas of sexuation 1 is to reduce the difference of the masculine and the feminine side to the two formulas that define the masculine position, as if masculine is the universal phallic function and feminine the exception, the excess, the surplus that eludes the grasp of the phallic function. Such a reading completely misses Lacan's point, which is that this very position of the Woman as exception-say, in the guise of the Lady in courtly love-is a masculine fantasy par excellence. As the exemplary case of the exception constitutive of the phallic function, one usually mentions the fantasmatic, obscene figure of the primordial father-jouisseur who was not encumbered by any prohibition and was as such able fully to enjoy all women. Does, however, the figure of the Lady in courtly love not fully fit these determinations of the primordial father? Is she not also a capricious Master who wants it all, i.e., who, herself not bound by any Law, charges her knight-servant with arbitrary and outrageous ordeals?

In this precise sense, Woman is one of the names-of-the-father. The crucial details not to be missed here are the use of plural and the lack of capital letters: not Name-of-the-Father, but one of the names-of-the-father-one of the nominations of the excess called primordial father. 2 In the case of Woman-the mythical She, the Queen from Rider Haggard's novel of the same name for example-as well as in the case of the primordial father, we are dealing with an agency of power which is pre-symbolic, unbridled by the Law of castration; in both cases, the role of this fantasmatic agency is to fill out the vicious cycle of the symbolic order, the void of its origins: what the notion of Woman (or of the primordial father) provides is the mythical starting point of unbridled fullness whose "primordial repression" constitutes the symbolic order.



【第二の誤解】
A second misreading consists in rendering obtuse the sting of the formulas of sexuation by way of introducing a semantic distinction between the two meanings of the quantifier "all": according to this misreading, in the case of the universal function, "all" (or "not-all") refers to a singular subject (x), and signals whether "all of it" is caught in the phallic function; whereas the particular exception "there is one..." refers to the set of subjects and signals, whether within this set "there is one" who is (or is not) entirely exempted from the phallic function. The feminine side of the formulas of sexuation thus allegedly bears witness to a cut that splits each woman from within: no woman is entirely exempted from the phallic function, and for that very reason, no woman is entirely submitted to it, i.e., there is something in each woman that resists the phallic function. In a symmetric way, on the masculine side, the asserted universality refers to a singular subject (each male subject is entirely submitted to the phallic function) and the exemption to the set of male subjects ('there is one' who is entirely exempted from the phallic function). In short, since one man is entirely exempted from the phallic function, all others are wholly submitted to it, and since no woman is entirely exempted from the phallic function, none of them is also wholly submitted to it. In the one case, the splitting is externalized: it stands for the line of separation that, within the set of "all men", distinguishes those who are caught in the phallic function from the 'one' who is exempted from it; in the other case, it is internalized: every singular woman is split from within, part of her is submitted to the phallic function and part of her exempted from it.

However, if we are to assume fully the true paradox of Lacan's formulas of sexuation, one has to read them far more literally: woman undermines the universality of the phallic function by the very fact that there is no exception in her, nothing that resists it. In other words, the paradox of the phallic function resides in a kind of short-circuit between the function and its meta-function: the phallic function coincides with its own self-limitation, with the setting up of a non-phallic exception. Such a reading is prefigured by the somewhat enigmatic mathemes that Lacan wrote under the formulas of sexuation and where woman (designated by the crossed-out la) is split between the capitalized Φ (of the phallus) and S(A), the signifier of the crossed-out Other that stands for the nonexistence/inconsistency of the Other, of the symbolic order. What one should not fail to notice here is the deep affinity between the Φ and S(A), the signifier of the lack in the Other, i.e., the crucial fact that the Phi, the signifier of the phallic power, phallus in its fascinating presence, merely gives body to the impotence/inconsistency of the Other.

これらから、「女性の論理」という観点からは、ラカン理論は「否定神学」的ではない、ということが読み取れるように思われる。


→ 参考:「否定判断」と「無限判断」--カントとラカン(ジジェク『LESS THAN NOTHING』より)


2011年1月29日土曜日

現代の「強迫神経症者」たち

ラカンの弟子のひとりであるオクターヴ・マノーニに「よくわかっているが、それでも……」という古典的論文があって、「<現実界>の応答」の論理を分析している。まずその論へのジジェクの解説を引用してみる。

<現実界>への応答のほとんどの人の典型的態度は、たとえば「生態危機」というリアルに対してであれば、《「(事態はきわめて深刻であり、自分たちの生存そのものがかかっているのだということを)よく知っているが、それでも……(心からそれを信じているわけではない。それを私の象徴的宇宙に組み込む心構えはできていない。だから私は、生態危機が私の日常生活に永続的な影響を及ぼさないかのように振る舞いつづけるつもりだ)」という有名な否認そのままである》(ジジェク)。

次に、<生態危機>を<財政破綻>に読み替えて、ジジェクの論を自由間接話法で語ってみよう。
<財政破綻>を本当に深刻に受け止めている人たちの典型的な反応は―――リピドー経済の次元では―――強迫的なのである。強迫神経症者のリピドー経済の核はどこにあるのか。強迫神経症者は狂的な活動に加わり、年じゅう熱に浮かれされたように働き続ける。なぜか。自分が活動をやめてしまったら何か大変なことが起きるに違いない、と考えるからである。
 
ここでジジェクによる「倒錯」、「ヒステリー」「強迫神経症」の簡略な説明をあげておく。
倒錯を特徴づけているのは問いの欠如である。倒錯者は、自分の行動は他者の享楽に役立っているという直接的な確信を抱いている。ヒステリーとその「方言」である強迫神経症とでは、主体が自分の存在を正当化するその方法が異なる。ヒステリー症者は自分を<他者>に、その愛の対象として差し出す。強迫神経症者は熱心な活動によって<他者>の要求を満足させようとする。したがって、ヒステリー症者の答えは愛であり、強迫神経症者のそれは労働である。(『斜めから見る』)

あるいは強迫神経症者の典型的な戦略である偽りの行動(false activity)様式。
人は何かを変えるために行動するだけでなく、何かが起きるのを阻止するために、つまり何ひとつ変わらないようにするために、行動することもある。現実界的(リアル)なことが起きるのを阻止するために、彼は狂ったように能動的になる。たとえばある集団の内部でなんらかの緊張が爆発しそうなとき、強迫神経症者はひっきりなしにしゃべる。(『ラカンはこう読め!』)

すなわち、リアルな現実を見ないふりをするため、あるいは核心を突く発言者を黙らせておくためにしゃべり続ける。《人びとは何にでも口を出し、「何かをする」ことに努め、学者たちは無意味な討論に参加する。本当に難しいのは一歩下がって身を引くことである。

ジジェクはこのような「何にでも口に出す」態度を、似非能動性と呼んでいる。そして、
このような状態に対する、真の批判の一歩は、受動性の中に引き篭もり、参加を拒否することだ。この最初の一歩が、真の能動性への、すなわち状況の座標を実際に変化させる行為への道を切り開く》、と。


2011年初頭の段階で、多くの人びとが何を見ないふりをしているかは明らかだ。そして無駄話にうつつを抜かしている人びとの「熱心さ」は、まさに「強迫的」である。

ブレヒトはこのように書いている。
「私は、たとえば、ほんの少量の政治とともに生きたいのだ。その意味は、私は政治の主体でありたいとはのぞまない、ということだ。ただし、多量の政治の客体ないし対象でありたいという意味ではない。ところが、政治の客体であるか主体であるか、そのどちらかでないわけにはいかない。ほかの選択法はない。そのどちらでもないとか、あるいは両者まとめてどちらでもあるなどということは、問題外だ。それゆえ私が政治にかかわるということは避けられないらしいのだが、しかも、どこまでかかわるというその量を決める権利すら、私にはない。そうだとすれば、私の生活全体が政治に捧げられなければならないという可能性も十分にある。それどころか、政治のいけにえにされるべきだという可能性さえ、十分にあるのだ。」(『政治・社会論集』)

日本の財政状態をみないふりをし続けるのは、もう限界だ(などということも何年も前から言い続けられているわけだが)。「規制」「教育」「コミュニケーション」などを語るのが全くの無駄だとはいうまい。だが、「政治」、すなわち、消費税、年金受給年齢、あるいはベーシック・インカム導入の可能性……。<あなたたち>には関係ない話しかね?

今、政治の「客体」のままでい続けるわけにはいかないはずなのだが。―――ということを言えるのは、私が海外住まいで税や年金がどうなろうと関係ないせいなのかもしれない……