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2014年2月15日土曜日

社会の矛盾を隠蔽するものとしての流行語

海外住まいなのでこの二十年来の日本における「流行語」に疎いのだが、「オタク」という語さえも日本に住んでいたころ誰かが使っているのをきいたおぼえがない。調べてみると、83年に中森明夫がさる集団を命名するのに「オタク」としたとあり、世間一般に知られるようになったのは90年前後だそうだから、まだその頃は日本に住んでいたのだが。

もっともそのまえの「ネクラ」ぐらいは知っている。そう呼ばれたことはないが、自ら「ネクラ」の資質は充分にあるのを自覚していたので、そのレッテルを貼られないように無理して「ネアカ」に振舞おうとした時期がある。これはこれで苦しいもので、無理がたたって疲れる。演技をしている気分になる。一年ぐらいしてバカらしくてやめた。

小学生時代「オボッチャン」とあだなされたことがある。というのは六歳のとき母が病気になり母の実家裏に家を建てて移り住んだ。大都市から地方都市への移住だったので、そして当時は家族あるいは親族が比較的裕福だったこともあり、田舎の小学校では服装などで目立ったことによる。後年同級会で、「いまだったら、いじめにあっただろうな」と指摘されたが、たしかにやや仲間から浮いていたのは間違いない。「オボッチャン」でもいやなものだ。

オタクと似たようなものに、ニート、アスペなどがあるのだろう。ツイッターを眺めるようになってその記号が如何に使用されているかはなんとなく感じられるようになった。ごく最近では、腐女子、ヤンキー、新型うつなどいう語も流通してるのを見かけるが、どの程度まで流行語なのかは判然としない。

海外に住んでいれば、「日本人」とこちらの言葉で呼ばれれば(nhat)、それもある種の「レッテル」であり、目には触れない隔離の幕が張られた気分になって不快になることがある。もっとも長いあいだ植民地だった国で、都心部にいけばいくほど外国人馴れをしており、日本に住む外国人のような居心地悪さは少ないはずだ。当国大都市の住民の精神には「歓待の掟」が備わっているのだ。

確かに、言葉が巧みであればあるほど、自分が歓迎されている、容認されているという印象が誇張されはしよう。だが、真の歓待とは、ちょっとした長所を讃美することでも、欠陥をうやむやに見逃すことでもないだろう。まぎれもない差異としての他者の不気味さに、存在のあらゆる側面で馴れ親しむことこそが、歓待の掟であるはずだ。したがって、自然さとは、忘却の身振りではなく、あくまで意識化のそれでなければならない。(蓮實重彦『反=日本語論』)

そもそも負の流行語によるレッテル張り(有徴性の付与)とは共同体の選別と排除の仕草、「村八分」的な差別の振舞いであることが多いはずだ。世の中とうまく折り合いをつけた大多数の人間が、他人とうまくやって行けそうもないごくかぎられた少数者に対して隔離の幕を張ること。日本という風土にはこの種の陰湿さを蔓延させるものが絶えず漂っている。己れが多数者に属しているという安堵感がこの疎外の身振りにいっそう拍車をかける。とはいえ、たとえば「オタク」や「アスペ」などは逆に、当人がそう命名されることの稀少価値からくる怠惰な許容を絶好の隠れみのとして、傲然と居直りかえるなどという現象もあるのだろう。

一度張られたレッテルというものは、なかなか逃れられないものだ。そしてレッテル張りとは、《社会全域に散在しているはずの複数の矛盾をそっくり隠蔽》するためのものでもあり得る。

たとえば「新型うつ」という語が流行したとする。初期段階でその語の流通に抵抗するのも大事だが、いったん流行語になってしまえば、これはもう抵抗しようがない。そのとき記号の流通の阻止のための無駄な労力を払うのではなく、その流行語がなにを隠蔽しているのか、その流行によって得しているのはだれか、それを追及して暴き立てるほうが効果があるのではないだろうか。

フローベールは『紋切型辞典』の構想を年上の女友達の書簡に書き綴っている。《ひとたびこれを読んでしまうや、ここにある文句をうっかり洩らしてしまいはせぬかと恐ろしくなり、誰もがもう口がきけなくなるようにしなければなりません。》ーーこんな具合に、その語彙を口にすることが恥ずかしくてできないようにさせるのがフローベール流の倒錯的戦略、紋切型辞典の基本構想だった。

なるほどあらゆる流行には、ときとして不快な軽薄さが露呈されているが、その軽薄さそのものを生活とは無縁の頽廃と見なして排除するなら、歴史に注ぐべき視線の抽象化を促進することは目に見えている。われわれは、流行という軽薄な現象を言葉の領域にとりこんだことで始めて可能となった世界に暮らしている。(……)そうした現象を前にして顔を顰めてみせることは、逆に、軽薄さが演ずべき説話論的な機能に対する敗北の表明の一形態というべきかもしれない。すでに敗北が決定的であるが故に、防禦的な排除の身振りしか演じられないのだ。流行語に対する防禦的な排除の運動は、たしかに一つの力学的な葛藤を導入しはするが、しかしその葛藤が決定的な矛盾として砕裂しないのは、流行語と、それに対する不快感の表明とが、ともに社会構造そのものの安定を潜在的に望んでいるからである。というより、特権化と相互排除の二重運動によって現象となる流行語には、社会そのものを物語として虚構化する説話論的な機能が含まれているとすべきかもしれない。流行語そのものが、鏡のように社会を反映するからではなく、それが特権的に煽りたてるかりそめの小葛藤が、社会全域に散在しているはずの複数の矛盾をそっくり隠蔽してしまうが故に、物語が勝利するのである。現代的な言説が、語ることの知からの解放に基づくものであるとするなら、それは、現代にふさわしい物語が、まさに現代そのものを見ることの無意識的な回避を契機として語られてゆくという特徴を持っているからなのだ。(蓮實重彦『物語批判序説』)


◆ユダヤ人のイメージ(ナチスの独裁制でのレッテルーージジェクの『LESS THAN NOTHING を参照している)。

金持の銀行家から金融投機、資本家から搾取、法律家から合法的詐欺、堕落したジャーナリストから情報操作、貧乏人から清潔への無関心、性的自由から乱交、そしてユダヤ人からその名前。

…………

※附記

◆社会主義のイメージ(かつてのポーランドでのジョーク)。

社会主義は、かつての歴史上の画期的出来事の最高の達成の統合である。
氏族社会から野蛮さ、古代社会から奴隷制、封建制から独裁的支配形態、資本主義から搾取、社会主義からその名前。


◆現在の自民党のイメージ(左翼サイドからの)。

二〇世紀の数々の政治体制のまれにみる統合。

自由主義から飢える自由(格差是認)、高価な過ちを犯す自由(たとえば経済のために原発再稼動)、戦争の自由(徴兵制復活やら核軍備など)。共産主義から国民の羊化と情報統制、強制収容所化。民主主義から名もない一般大衆の付和雷同的「衆愚」とレイシズム(異質なものの排除)。ファシズムから独裁と大衆の喝采(ヒステリー的な態度によって主人を選出。誤りを犯すことがわかっているような無能な主人が選ばれる)。資本主義からバブルと剥き出しな資本の利害。ケインズ主義から自己循環論法(美人投票論、合理性のパラドックス)。自民党からかつてのその名前。