@moroshigek以前つぶやいた関空の丸善の件について。https://twitter.com/moroshigeki/status/448290134216032256 … 丸善に文句を言ったら、要するに嫌韓・嫌中本は売れるので、国際空港であろうと目立つところに置く、ということらしい。こういうのを「見識を欠く」っていうんだろうな。
ーーというツイートを読んだので、いくらかメモ。
(出版状況クロニクル69)
2009年度、丸善は七億円強の赤字。2012年1月期の連結最終損益が24億円の赤字という記事もある。ただし、14年1月期の連結経常利益を従来予想の12億円→15.1億円の黒字とのことで、経営改善をしているようだ。まさかなりふり構わずの経営戦略の効果ではあるまいが。
だが全般的には、今後とも出版物全体の売上げ減少とともに、アマゾンなどの通販や電子書籍に食われていくのも大きいだろうし、各書店の経営は、今後ますます苦しくなるというのが大方の予想なのだろう。
「社会に貢献する文化事業」という建て前は、経営が苦しくなれば、どこかに行ってしまう。嫌韓・嫌中本がなぜ売れるのかはここでは問わないが、目先の利益獲得に必至になって売れる本を目立つところに置くというのを押し留めがたいということになる。
・歴代の経団連会長は、一応、資本の利害を国益っていうオブラートに包んで表現してきた。ところが米倉は資本の利害を剥き出しで突きつけてくる……
・野田と米倉を並べて見ただけで、民主主義という仮面がいかに薄っぺらいもので、資本主義という素顔がいかにえげつないものかが透けて見えてくる。(浅田彰 『憂国呆談』2012.8より)
さてどうしたものか? 見て見ぬふりをしていてよいものだろうか?
次のようなツイートもある。
@hayakawa2600三省堂神保町本店の正面が「バカな壁」と化していた件: pic.twitter.com/m4PZpkA6rC
@AtaruSasaki: 知人が作家ゴイティソーロから直接聞いたユーゴ内戦の話。脱出して来た旧ユーゴの作家や学者達が慟哭し悔いていたこと。「排外主義を唱える連中はみな愚かで幼稚に見えた。何もできまい、放っておけ、三流の媒体でわめかせておけと思った。それが、このざまだ。真正面から戦わなかった我々の責任だ…」
@AtaruSasaki:何もしないなら黙ってろ、黙ってるのが嫌なら何かしろ、という性質の話の筈。偉そうにTwitterでどっちもどっち論を繰り返し、動いているのは指先のみ。いま大学人がいかに信用失墜しているか新聞でも眺めればわかる筈なのに、そのざまか。民衆は学び、君を見ているぞ、「ケンキューシャ」諸君。
次に85歳時の加藤周一の講演から(第2の戦前・今日 加藤周一 評論家2004)
www.wako.ac.jp/souken/touzai06/tz0605.pdf
www.wako.ac.jp/souken/touzai06/tz0605.pdf
聞きたいことは信じやすいのです。はっきり言われていなくても、自分が聞きたいと思っていたことを誰かが言えばそれを聞こうとするし、しかも、それを信じやすいのです。聞きたくないと思っている話はなるべく避けて聞こうとしません。あるいは、耳に入ってきてもそれを信じないという形で反応します。
第2次大戦が終わって、日本は降伏しました。武者小路実篤という有名な作家がいましたが、戦時中、彼は戦争をほぼ支持していたのです。ところが、戦争が終わったら、騙されていた、戦争の真実をちっとも知らなかったと言いました。南京虐殺もあれば、第一、中国で日本軍は勝利していると言っていたけれども、あんまり成功していなかった。その事実を知らなかったということで、彼は騙されていた、戦争に負けて呆然としていると言ったのです。
戦時中の彼はどうして騙されたかというと、騙されたかったから騙されたのだと私は思うのです。だから私は彼に戦争責任があると考えます。それは彼が騙されたからではありません。騙されたことで責任があるとは私は思わないけれども、騙されたいと思ったことに責任があると思うのです。彼が騙されたのは、騙されたかったからなのです。騙されたいと思っていてはだめです。武者小路実篤は代表的な文学者ですから、文学者ならば真実を見ようとしなければいけません。
八百屋のおじさんであれば、それは無理だと思います。NHK が放送して、朝日新聞がそう書けば信じるのは当たり前です。八百屋のおじさんに、ほかの新聞をもっと読めとか、日本語の新聞じゃだめだからインターナショナル・ヘラルド・トリビューンを読んだらいかがですかとは言えません。BBCは英語ですから、八百屋のおじさんに騙されてはいけないから、 BBC の短波放送を聞けと言っても、それは不可能です。
武者小路実篤の場合は立場が違います。非常に有名な作家で、だいいち、新聞社にも知人がいたでしょう、外信部に聞けば誰でも知っていることですから、いくらでも騙されない方法はあったと思います。武者小路実篤という大作家は、例えば毎日新聞社、朝日新聞社、読売新聞社、そういう大新聞の知り合いに実際はどうなっているんだということを聞けばいいのに、彼は聞かなかったから騙されたのです。なぜ聞かなかったかというと、聞きたくなかったからです。それは戦前の社会心理的状況ですが、今も変わっていないと思います。
知ろうとして、あらゆる手だてを尽くしても知ることができなければ仕方がない。しかし手だてを尽くさない。むしろ反対でした。すぐそこに情報があっても、望まないところには行かないのです。
ーーインターネットの時代に、まさか「八百屋のおじさん」はいまい?
これは、社会思想史を勉強されている「ケンキューシャ」の方のかなり前のツイートだが、大方の「ケンキューシャ」諸君はこんな具合なのだろうか(いま見るとさすがに恥じてかツイートが消滅しているようだが)。
・生活保護にしろ在日にしろ、つまりは「我われの問題」としてはとらえていない、ということだ。自分たちとは関係ない別世界のお話し。リアリティへの眼差し以前の、無関心と無知と無自覚。
・でも、それも仕方ないことだとも思う。例えば、就職活動で自分の人生の選択を迫られている時に遠くの土地で起こっている排外デモに気をとめるだろうか。毎日毎日夜遅くまで働かされて家庭のために頑張ってるなかで生活保護をめぐる過剰なバッシングの欺瞞と虚偽に目が向くだろうか。
・みんなみんな自分の食べることで精一杯。余裕なんてありゃしない。無関心と無知と無自覚なんて言われたら腹が立つ。だってみんな精一杯生きてるんだから。これは、生命過程の必然性(アレント)のせいではない。後期資本主義という社会制度のせいである。我われの眼差しは、胃袋からやはり社会構造へ。
ーーー「「なんのために」ーーー加藤周一『羊の歌』より」より
彼らは「生活苦」という歯痛を抱えていることになる。「もっぱら奥歯の小さな洞のなかに逗留している」のだ。
器質的な痛苦や不快に苦しめられている者が外界の事物に対して、それらが自分の苦痛と無関係なものであるかぎりは関心を失うというのは周知の事実であるし、また自明のことであるように思われる。これをさらに詳しく観察してみると、病気に苦しめられているかぎりは、彼はリピドー的関心を自分の愛の対象から引きあげ、愛することをやめているのがわかる。(……)W・ブッシュは歯痛に悩む詩人のことを、「もっぱら奥歯の小さな洞のなかに逗留している」と述べている。リビドーと自我への関心とがこの場合は同じ運命をもち、またしても互いに分かちがたいものになっている。周知の病人のエゴイズムなるものはこの両者をうちにふくんでいる。われわれが病人のエゴイズムを分かりきったものと考えているが、それは病気になればわれわれもまた同じように振舞うことを確信しているからである。激しく燃えあがっている恋心が、肉体上の障害のために追いはらわれ、完全な無関心が突然それにとってかわる有様は、喜劇にふさわしい好題目である。(フロイト「ナルシシズム入門」『フロイト著作集5』p117)
《松浦寿輝さんが、東大教授を退官される前に、研究室にお訪ねしたときにうかがったのだが、今や、東大大学院でフランス文学を学んでも、最初の非常勤講師の口が見つからない時代なのだという。》(城戸朱理ブログより)
かりにアベノミクスが成功して景気回復があったにしても、教育業界は少子化の影響であまり期待できないに相違ない。インテリの「ケンキューシャ」諸君には、今のままの状況が続くなら、今後も期待できないということになる。
ーーーーーー日本の人口推移(総務省)
中井久夫はすでにかなり前に次のように書いている。
今あまり人気のない歴史家トインビーであるが、彼が指摘するとおり、文化の「リエゾン・オフィサー」(連絡将校)としてのインテリゲンチアへの社会的評価と報酬とは近代化の進行とともに次第に低下し、その欲求不満がついにはその文化への所属感を持たない「内なるプロレタリアート」にならしめると私は思う。(「学園紛争は何であったのか」書き下ろし『家族の深淵』1995 中井久夫)
インテリ諸子の大半が今後ますます「内なるプロレタリアート」になっていくのは避けようがない。
とすれば、ジジェクがしばしば引用するアイン・ランドの言葉を反芻しておくより致し方ないのだろうか。
お金があらゆる善の根源だと悟らない限り、あなたがたは自ら滅亡を招きます。(アイン・ランド『肩をすくめるアトラス』)