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2014年4月3日木曜日

備忘:ナボコフの「暗号と象徴」(SYMBOLS AND SIGNS BY VLADIMIRNABOKOV)

備忘:ナボコフの「暗号と象徴」(SYMBOLS AND SIGNS BY VLADIMIRNABOKOV)。

ーー邦訳が手元にないので、ネット上で訳文が拾える箇所のいくつかを英文とともに並べるてみる。とくに意図はないが、この数頁しかない短編はナボコフの代表作とされる。そして、たとえば『ロリータ』などより原文はずっと読みやすい。

For the fourth time in as many years, they were confronted with the problem of what birthday present to take to a young man who was incurably deranged in his mind. Desires he had none. Man-made objects were to him either hives of evil, vibrant with a malignant activity that he alone could perceive, or gross comforts for which no use could be found in his abstract world. After eliminating a number of articles that might offend him or frighten him (anything in the gadget line, for instance, was taboo), his parents chose a dainty and innocent trifle—a basket with ten different fruit jellies in ten little jars.

不治の精神錯乱で入院している息子のところへどんな誕生祝いを持って行くかという問題に彼らが直面したのは、四年間でこれが四度目だった。本人はなにもほしがっていない。人間がこしらえた物は、息子にしてみれば、自分だけにわかる悪だくらみでぶんぶん唸りをあげている悪の巣箱のようなものか、それとも彼の抽象的な世界ではまったく役に立たない下品な慰めでしかない。息子が腹をたてたり怖がったりしそうな物をあれこれと除外してから(たとえば、気の利いた製品みたいなものは厳禁だった)両親はあたりさわりのなさそうなに洒落た小物を選んだ。十個の小さな壺に入った、すべて種類の違うフルーツ・ゼリー十個の籠入りだ。(若島正訳)

That Friday, their son’s birthday, everything went wrong. The subway train lost its life current between two stations (「列車は二つの駅のあいだで命の流れが切れてしまい」)、and for a quarter of an hour they could hear nothing but the dutiful beating of their hearts and the rustling of newspapers. The bus they had to take next was late and kept them waiting a long time on a street corner, and when it did come, it was crammed with garrulous high-school children. It began to rain as they walked up the brown path leading to the sanitarium. There they waited again, and instead of their boy, shuffling into the room, as he usually did (his poor face sullen, confused, ill-shaven, and blotched with acne), a nurse they knew and did not care for appeared at last and brightly explained that he had again attempted to take his life. He was all right, she said, but a visit from his parents might disturb him. The place was so miserably understaffed, and things got mislaid or mixed up so easily, that they decided not to leave their present in the office but to bring it to him next time they came.
Outside the building, she waited for her husband to open his umbrella and then took his arm. He kept clearing his throat, as he always did when he was upset. They reached the bus-stop shelter on the other side of the street and he closed his umbrella. A few feet away, under a swaying and dripping tree, a tiny unfledged bird was helplessly twitching in a puddle.( 「数フィート先の、風になびいて雫を垂らしている木の下で、まだ羽の生えそろっていない小さな死にかけの小鳥が一羽、水たまりの中でぴくぴくもがいて」)
During the long ride to the subway station, she and her husband did not exchange a word, and every time she glanced at his old hands, clasped and twitching upon the handle of his umbrella, and saw their swollen veins and brown-spotted skin, she felt the mounting pressure of tears. As she looked around, trying to hook her mind onto something, it gave her a kind of soft shock, a mixture of compassion and wonder, to notice that one of the passengers—a girl with dark hair and grubby red toenails—was weeping on the shoulder of an older woman.

夫の年老いた手ふくれあがった血管、茶色いしみだらけの皮膚が、傘の柄のところで握りしめられたり痙攣したりするのを目にするたびに、彼女は涙がこみあげてきそうになるのを感じた。気を紛らそうとあたりを見まわすと、乗客の一人で、足の指にだらしなく赤いマニキュアをした黒髪の娘が、年配の女の肩にもたれて泣いているのに気がついて、かすかなショックを受け、同情と驚きの入り混じった感情を覚えた。



《こうしたディテールのつらなりこそがこの小説の、というよりナボコフのすべての小説の要なのだが、のちに「ヴェイン姉妹」を「ニューヨーカー」に没にされた際、ナボコフは「私の物語はすべて文体の織物(ウェッブ)であり、一瞥したくらいでは、ダイナミックな内容をたいして含んでいるようには見えません。(略)私にとっては「文体」こそ内容なのです」(1951年3月17日付)とホワイト女史に手紙を書き送っている。同じ手紙のなかで「暗号と象徴」についても次のような言及がある。

 「私が今考えている物語の大半は、この方向で、つまり表面の半透明のストーリーのなかに、あるいはその背後に二番目の(主要な)ストーリーを織り込むという方法に従って作られることになります(過去にもこのような物語を何篇か書いています――こういった「内部」を持った物語を、実のところ貴社はすでに掲載しています――年老いたユダヤ人夫婦と彼らの病んだ息子の話です)。」》(「暗号と象徴」をめぐって――ナボコフ再訪(7)


たしかにナボコフのディティールの描写には魅惑されてやまない、ナボコフが愛したチェーホフの文章のように。

海がしけたので船はおくれて、日が沈んでからやっとはいって来た。そして波止場に横着けになる前に、向きを変えるのに長いことかかった。アンナ・セルゲーヴナは柄付眼鏡を当てがって、知り人を捜しでもするような様子で船や船客を眺めていたが、やがてグーロフに向かって物を言いかけたとき、その眼はきらきらと光っていた。彼女はひどくおしゃべりになって、突拍子もない質問を次から次へと浴びせかけ、現に自分で訊いたことをすぐまた忘れてしまった。それから人混みのなかに眼鏡をなくした。(チェーホフ『犬を連れた奥さん』神西清訳

…………

それでも彼は座って煙草をふかし続け、爪先をぶらぶら揺らしていた。そして他の人たちが話をしている最中も、自分が話をしている最中も、いつどこででもそうしていたように、他人の内面の透明な動きを想像しようと努め、ちょうど肘掛け椅子に座るように話相手の中に慎重に腰をおろして、その人のひじが自分の肘掛けになるように、自分の魂が他人の魂の中に入り込むようにした。(ナボコフ『賜物』)
水たまりに藁が一本浮いていて、二匹の糞虫が互いに邪魔し合いながらしがみついていた。彼はその水たまりを飛び越え、道端に靴底の跡を刻み込んだ。なんとうい意味ありげな足跡だろう、いつまでも上を向いたまま、消え去った人間の姿をいつまでも見ようとしている。(同)

日本にもディティールのつらなりに眼を瞠らされる作家がいないわけではない。たとえば安岡章太郎の『海辺の光景』。

信太郎は、タバコをのんでいる父親の顔がきらいだった。太い指先につまみあげたシガレットを、とがった唇の先にくわえると、まるで窒息しそうな魚のように、エラ骨から喉仏までぐびぐびとうごかしながら、最初の一ぷくをひどく忙しげに吸いこむのだ。いったん煙をのみこむと、そいつが体内のすみずみまで行きわたるのを待つように、じっと半眼を中空にはなっている ……。吸いなれた者にとっては、誰だってタバコは吸いたいものにきまっている。けれでも父の吸い方は、まったく身も世もないという感じで、吸っている間は話しかけられても返辞もできないほどなのだ。(安岡章太郎『海辺の光景』)
「下顎呼吸がはじまったな」と看護人が云った。
母は口をひらいたままーーというより、その下顎が喉にくっつきそうになりながらーー喉の全体でかろうじて呼吸をつづけている。「これがはじまると、もういかんですねえ」と、看護人は父をかえりみた。

父は無言でうなずいた。そして信太郎に、「Y村に電話するか」と云った。
すると信太郎は突然のように全身に疲労を感じた。と同時に、眼の前の二人に、あるイラ立たしさを覚えて云った。
「べつに、また死ぬときまったわけじゃないでしょう。それに電話したって、伯母さんは来れるかどうか、わからんですよ」
二人は顔を見合わせた。やがて父は断乎とした口調で云った。「Y村へは報せてやらにゃいかんよ。報せるだけでも ……」

たしかに、自分の云ったことは馬鹿げたことだ、と信太郎はおもった。しかし確実にせまってきた母の死を前にして、儀礼的なことが真先にとり上げられるということが、なにか耐えがたい気持だった。

( ……)

すべては一瞬の出来事のようだった。
医者が出て行くと、信太郎は壁に背をもたせ掛けた体の中から、或る重いものが抜け出して行くの感じ、背後の壁と “自分” との間にあった体重が消え失せたような気がした。そのまま体がふわりと浮き上がりそうで、しばらくは身動きできなかった。

看護人が母の口をしめ、まぶたを閉ざしてやっているのに気づいたのは、なおしばらくたってからのことのようだ。看護人の白い指の甲に黒い毛が生えているのがすこし不気味だったが、彼の手をはなれた母を眺めるうちに、ある感動がやってきた。さっきまで、あんなに変型していた彼女の顔に苦痛の色がまったくなく、眉のひらいた丸顔の、十年もむかしの顔にもどっているように想われる。 ……そのときだった、信太郎は、ひどく奇妙な物音が、さっきから部屋の中に聞こえているのに気づいた。肉感的な、それでいて不断きいたことのなお音だ。それが伯母の嗚咽の声だとわかったとき、彼は一層おどろいた。人が死んだときには泣くものだという習慣的な事例を憶い出すのに、思いがけなく手間どった。なぜだろう、常人も泣くということを彼は何となく忘れていた。その間も絶えず泣き声がきこえてきて、その声はまた何故ともなく彼を脅かし、セキ立てられているような気がした。ついに彼は泣かれるということが不愉快になってきた。それといっしょに、泣き声をたてている伯母のことまでが腹立たしくなった。あなたはなぜ、泣くのか、泣けばあなたは優しい心根の、あたたかい人間になることが出来るのか。


あるいは、大江健三郎の『燃え上がる緑の木』第一部の冒頭には、死期を間近に控えた「お祖母ちゃん」の様子を叙す醒めたまなざしがある。

・お祖母ちゃんは、初め、待ち望んでいた相手を迎えた様子ではあるのだが、薄茶色に曇りのつけてある銀縁の眼鏡の向こうの、翳った水たまりのような眼を、肘掛椅子のあの人に向けたままだった。

・お祖母ちゃんの皺としみですっかり覆われているーーそのこと自体に徹底したものの美しさもあるーー横顔に、不機嫌さの気配が滲むのを見るように思った。

・ところがお祖母ちゃんは、便所への暗い廊下の、母屋から段差のある曲り角で、嵩のない蠟色の紙のかたまりのように倒れていた。

・――それは、なあ……というほどの、しかも乾いた皺の覆っている皮膚に透明なカゲロウが羽化しようとしているような微笑みを展げて。

・お風呂の介護をする際、つい眼に入るお祖母ちゃんの腿は、使い棄てられた子供の椅子の腕木のような細さ

ーーこれらを詩句のようなものとして、わたくしは読む。


・誠実な重みのなかの堅固な臀(吉岡実)

・驚愕した陶器の顔の母親の口が/赭い泥の太陽を沈めた(同)







2013年12月11日水曜日

コビトの国の王様

……現実はむしろ夢魔に似ていたのかもしれない。GHQに挨拶に出かけた天皇が、マッカーサーと並んで立っている写真は、まるでコビトの国の王様のようであった。かと思うと、そのマッカーサー司令部のある皇居と向い合せのビルの前で、釈放された共産党員その他の政治犯たちが、「マッカーサー万歳」を唱えたというような記事が新聞に出ていた。(安岡章太郎『僕の昭和史 Ⅱ』 講談社文庫 P24)




「コビトの国の王様」は、戦後日本において「抑圧されたもの」としてよいだろう。もちろんマッカーサーとの会見の約一年後に米国からいわゆる「押しつけられた」とされる現行憲法もその影を大きく背負っている。

経済発展期や議会運営などがまがりなりにも上手くいっているときは、抑圧されたものはある意味で忘れ去ることができた。なにかが上手くいかなくなったとき、ーーたとえば国内に大きな事故や消費税値上げ、あるいは財政逼迫、少子化などの将来にわたっての「引き返せない道」の苦難が瞭然とすれば、さらには二大大国の狭間で「見栄えのしない課題」に汲々とせざるをえないのならば、ーー「天皇」が直接回帰するだけでなく(天皇制論)、その隠喩としての「現行憲法」も否応なしに回帰する。

……われわれはこういうことができようーー要するに被分析者は忘れられたもの、抑圧されたものからは何物も「思い出す」erinnernわけではなく、むしろそれを「行為にあらわす」 agierenのである、と。彼はそれを(言語的な)記憶として再生するのではなく、行為として再現する。彼はもちろん、自分がそれを反復していることを知らずに(行動的に)反復wiederholenしているのである。

たとえば、被分析者は、「私は両親の権威にたいして反抗的であり、不信を抱いていたことを想い出しました」とはいわないで、(その代わりに)分析医にたいしてそのような反抗的、不信的な態度をとってみせるのである。(フロイト『想起・反復・徹底操作』)

コビトの国の王様にとっての、権威としての親への反撥は、米国だけではないだろう。今後、かつて土足で上がりこんだ本来の「親」の家、中国への気遣いもますます増してゆく。

ブルジョワ的民主国家においては、国民が主権者であり、政府がその代表であるとされている。絶対主義的王=主権者などは、すでに嘲笑すべき観念である。しかし、ワイマール体制において考えたカール・シュミットは、国家の内部において考えるかぎり、主権者は不可視であるが、例外状況(戦争)において、決断者としての主権者が露出するのだといっている(『政治神学』)。シュミットはのちにこの理論によって、決断する主権者としてのヒトラーを正当化したのだが、それは単純に否定できない問題をはらんでいる。たとえば、マルクスは、絶対主義王権の名残をとどめた王政を倒した一八四八年の革命のあとに、ルイ・ボナパルドが決断する主権者としてあらわれた過程を分析している。マルクスが『ブリュメール一八日』で明らかにしたのは、代表制議会や資本制経済の危機において、「国家そのもの」が出現するということである。皇帝やヒューラーや天皇はその「人格的担い手」であり、「抑圧されたもの(絶対主義王権)の回帰」にほかならない。(柄谷行人『トランスクリティーク』p418)

武藤国務大臣 (……)

 そのオーストラリアへ参りましたときに、オーストラリアの当時のキーティング首相から言われた一つの言葉が、日本はもうつぶれるのじゃないかと。実は、この間中国の李鵬首相と会ったら、李鵬首相いわく、君、オーストラリアは日本を大変頼りにしているようだけれども、まああと三十年もしたら大体あの国はつぶれるだろう、こういうことを李鵬首相がキーティングさんに言ったと。非常にキーティングさんはショックを受けながらも、私がちょうど行ったものですから、おまえはどう思うか、こういう話だったのです。私は、それはまあ、何と李鵬さんが言ったか知らないけれども、これは日本の国の政治家としてつぶれますよなんて言えっこないじゃないか、確かに今の状況から見れば非常に問題があることは事実だけれども、必ず立ち直るから心配するなと言って、実は帰ってまいりました。(第140回国会 行政改革に関する特別委員会 第4号 平成九年五月九日
『断腸亭日乗』昭和二十(1945)年 荷風散人年六十七


昭和二十年九月廿八日。 昨夜襲来りし風雨、今朝十時ごろに至つてしづまりしが空なほ霽れやらず、海原も山の頂もくもりて暗し、昼飯かしぐ時、窓外の芋畠に隣の人の語り合へるをきくに、昨朝天皇陛下モーニングコートを着侍従数人を従へ目立たぬ自動車にて、赤坂霊南坂下米軍の本営に至りマカサ元帥に会見せられしといふ事なり。戦敗国の運命も天子蒙塵の悲報をきくに至つては其悲惨も亦極れりと謂ふ可し。南宋趙氏の滅ぶる時、其天子金の陣営に至り和を請はむとして其儘俘虜となりし支那歴史の一頁も思ひ出されて哀なり。数年前日米戦争の初まりしころ、独逸摸擬政体の成立して、賄賂公行の世となりしを憤りし人々、寄りあつまれば各自遣るか たなき憤惻の情を慰めむとて、この頃のやうな奇々怪々の世の中見やうとて見られるものではなし、人の頤を解くこと浅草のレヴユウも能く及ぶところにあらず、角ある馬、雞冠ある烏を目にする時の来るも遠きにあらざるべし。是太平の民の知らざるところ、配給米に空腹を忍ぶ吾等日本人の特権ならむと笑ひ興ぜし ことありしが、事実は予想よりも更に大なりけり。我らは今日まで夢にだに日本の天子が米国の陣営に微行して和を請ひ罪を謝するが如き事のあり得べきを知ら ざらりしなり。此を思へば幕府滅亡の際、将軍徳川慶喜の取り得たる態度は今日の陛下より遥に名誉ありしものならずや。今日此事のこゝに及びし理由は何ぞ や。幕府瓦解の時には幕府の家臣に身命を犠牲にせんとする真の忠臣ありしがこれに反して、昭和の現代には軍人官吏中一人の勝海舟に比すべき智勇兼備の良臣 なかりしが為なるべし。我日本の滅亡すべき兆候は大正十二年東京震災の前後より社会の各方面に於て顕著たりしに非ずや。余は別に世の所謂愛国者と云ふ者に もあらず、また英米崇拝者にもあらず。惟虐げられらるゝ者を見て悲しむものなり。強者を抑へ弱者を救けたき心を禁ずること能ざるものたるに過ぎざるのみ。 これこゝに無用の贅言を記して、穂先の切れたる筆の更に一層かきにくくなるを顧ざる所以なりとす。

…………

だいたい僕は天皇個人に同情を持っているのだ。原因はいろいろにある。しかし気の毒だという感じが常に先立っている。むかしあの天皇が、僕らの少年期の終りイギリスへ行ったことがあった。あるイギリス人画家のかいた絵、これを日本で絵ハガキにして売ったことがあったが、ひと目見て感じた焼けるような恥かしさ、情なさ、自分にたいする気の毒なという感じを今におき僕は忘れられぬ。おちついた黒が全画面を支配していた。フロックとか燕尾服とかいうものの色で、それを縫ってカラーの白と顔面のピンク色とがぽつぽつと置いてあった。そして前景中央部に腰をまげたカアキー色の軍服型があり、襟の上の部分へぽつんとセピアが置いてあった。水彩で造作はわからなかったが、そのセピアがまわりの背の高い人種を見あげているところ、大人に囲まれた迷子かのようで、「何か言っとりますな」「こんなことを言っとるようですよ」「かわいもんですな」、そんな会話が――もっと上品な言葉で、手にとるように聞こえるようで僕は手で隠した。精神は別だ。ただそれは、スケッチにすぎなかったが描かれた精神だった。そこに僕自身がさらされていた。(中野重治『五勺の酒』)
これは文芸時評ではないが無関係ではない─天皇の生まれてはじめての記者会見というテレビ番組を見て実に形容しようもない天皇個人への怒りを感じた。哀れ、ミジメという平生の感情より先にきた。いかに『作られたから』と言って、あれでは人間であるとは言えぬ。天皇制の『被害者』とだけ言ってすまされてはたまらないと思った。動物園のボロボロの駝鳥を見て『もはやこれは駝鳥ではない』と絶叫した高村光太郎が生きていてみたら何と思ったろうと想像して痛ましく感じた。三十代の人は何とも思わなかったかも知れぬ。私は正月がくると六十八歳になる。誰か、あの状態を悲劇にもせず喜劇にもせず糞リアリズムで表現してくれる人はいないか。冥土の土産に読んで行きたい。(藤枝静男(「東京新聞」「中日新聞」文芸時評 昭和五十年十一月二十八日夕刊)
志賀氏が、天皇を天皇制の犠牲者として、自由にものを云うことを奪われた、残念ではあるが気が弱い、人間的には好い人と…見ていたことは…明白である。中野氏の『五尺の酒』を読めば…あの繰り人形さながらの動作とテープ録音そっくりのセリフを棒たらに繰り返す天皇への憐れさへの何とも処理しがたい心持ちと焦立ちを…描いていることもまた明白である。(藤枝静男、「志賀直哉・天皇・中野重治」昭和五十年「文藝」七月号)
今度の戦争で天子様に責任があるとは思はれない。 然し天皇制には責任があると思ふ。‥‥  天子様と国民との古い関係をこの際捨て去つて了ふ 事は淋しい。今度の憲法が国民のさういふ色々な不安 を一掃してくれるものだと一番嬉しい事である。  (志賀直哉  「昭和21. 4.『婦人公論』)
…………

日本は天皇によつて終戦の混乱から救はれたといふが常識であるが、之は嘘だ。日本人は内心厭なことでも大義名分らしきものがないと厭だと言へないところがあり、いはゞ大義名分といふものはさういふ意味で利用せられてきたのであるが、今度の戦争でも天皇の名によつて矛をすてたといふのは狡猾な表面にすぎず、なんとかうまく戦争をやめたいと内々誰しも考へてをり、政治家がそれを利用し、人民が又さらにそれを利用したゞけにすぎない。

日本人の生活に残存する封建的偽瞞は根強いもので、ともかく旧来の一切の権威に懐疑や否定を行ふことは重要でこの敗戦は絶好の機会であつたが、かういふ単純な偽瞞が尚無意識に持続せられるのみならず、社会主義政党が選挙戦術のために之を利用し天皇制を支持するに至つては、日本の悲劇、文化的貧困、これより大なるはない。(坂口安吾『天皇小論』)
たえがたきを忍び、忍びがたきを忍んで、朕の命令に服してくれという。すると国民は泣いて、外ならぬ陛下の命令だから、忍びがたいけれども忍んで負けよう、と言う。嘘をつけ! 嘘をつけ! 嘘をつけ!

我々国民は戦争をやめたくて仕方がなかったのではないか。竹槍をしごいて戦車に立ちむかい、土人形のごとくにバタバタ死ぬのが厭でたまらなかったのではないか。戦争の終わることを最も切に欲していた。そのくせ、それが言えないのだ。そして大義名分と云い、また、天皇の命令という。忍びがたきを忍ぶという。何というカラクリだろう。惨めともまたなさけない歴史的大欺瞞ではないか。しかも我等はその欺瞞を知らぬ。天皇の停戦命令がなければ、実際戦車に体当たりをし、厭々ながら勇壮に土人形となってバタバタ死んだのだ。最も天皇を冒涜する軍人が天皇を崇拝するがごとくに、我々国民はさのみ天皇を崇拝しないが、天皇を利用することには狎れており、その自らの狡猾さ、大義名分というずるい看板をさとらずに、天皇の尊厳の御利益を謳歌している。何たるカラクリ、また、狡猾さであろうか。我々はこの歴史的カラクリに憑かれ、そして、人間の、人性の、正しい姿を失ったのである。(坂口安吾 「続堕落論」)
我々は靖国神社の下を電車が曲がるたびに頭を下げさせられる馬鹿らしさには閉口したが、ある種の人々にとっては、そうすることによってしか自分を感じることが出来ないので、我々は靖国神社についてはその馬鹿らしさを笑うけれども、外の事柄にについて、同じような馬鹿げたことを自分自身でやっている。そして自分の馬鹿らしさには気がつかないだけのことだ。(坂口安吾 「堕落論」)

…………

昭和63年、昭和天皇が病床に就かれ、多くの人が陛下のご平癒を祈って宮城を訪れ、記帳した。その光景を見た浅田彰曰く、『連日ニュースで皇居前で土下座する連中を見せられて、自分はなんという「土人」の国にいるんだろうと思ってゾッとするばかりです(「文学界 平成元年二月号)』)
さて、高度成長と、それによる高度大衆社会の形成は、共同幻想の希薄化をもたらした。 いいかえれば、国家のレヴェルが後退し、家族のレヴェルが、それ自体解体しつつも、前 面に露呈されてきたのだ。......そもそも対幻想を対幻想たらしめていた抜き差しならぬ他 者との「関係の絶対性」の契機がそれ自体著しく希薄化し、対幻想は拡大された 自己幻想に限りなく近付いていく。そうなれば、そのような幻想の共振によって共同体を構成することも不可能ではなくなる。公的というより私的、言語的(シンボリック)というより前言語 的(イマジナリー)、父権的というより母性的なレヴェルで構成される共感の共同体。......それ はむしろ、われわれを柔らかく、しかし抗しがた い力で束縛する不可視の牢獄と化している。それがハードな国家幻想に収束していく可 能性はたしかに小さくなったかもしれないとしても、だからといってソフトな閉塞に陥らない という保証はどこにもないのである。」浅田彰「むずかしい批評」(『すばる』1988 年 7 月号)


◆『柄谷行人 中上健次全対話』(講談社文芸文庫)より

中上)…しかし、西洋史のあなた達柄谷さんと浅田彰さんが、対談(「昭和の終焉に」・文学界1989年2月号)して、天皇が崩御した日に人々が皇居の前で土下座しているのを、「なんという”土人”の国にいるんだろう」と思った、と言う。

柄谷)でも、あの”土人”というのは北一輝の言葉なんだよ。(笑)

…だから天皇って何かというと、…女文字・女文学と切り離せない。つまり母系制の問題というところにいくと思う。

中上)…何故ここで被差別部落のような形で差別が存在するか、被差別部落が存在するか、と問うのと、なぜここに天皇が存在するのかと問うのとは、同じ作業ですよ。

柄谷)…あれは、あの対談の前に僕が北一輝の話をしていたんですよ。北一輝は、明治天皇をドイツ皇帝のような立憲君主国の君主だと考えていた。それ以前の天皇は土人の酋長だ、と言っているわけす。

《実のところ、私は最低限綱領のひとつとしての天皇制廃止を当時も今も公言しているし、裕仁が死んだ日に発売された『文學界』に掲載された柄谷行人との対談で、「自粛」ムードに包まれた日本を「土人の国」と呼んでいる。それで脅迫の類があったかどうかは想像に任せよう。……》(図像学というアリバイ 浅田彰


北一輝は、明治以前の天皇は「土人の酋長」と変わらないといっている。事実、先にのべたように、元号も明治までは自然を動かす呪術的な機能であった。「一世一元」とはそれを否定することであり、天皇を近代国家の主権者とみなすことである。北一輝にとって、明治天皇は立憲君主であり「機関」としてある。つまり、天皇個人もその儀礼的本質も、彼にとっては本質的にはどうでもよかったのである。ヘーゲルもいっている。≪君主に対し客観的な諸性質を要求するのは正当ではない。君主はただ「イエス」といって最後の決定を与えるべきなのだ。そもそも頂点とは、性格の特殊性が重要でなくなるようにあるべきものだからである≫(『法哲学』280補遺)。(柄谷行人「一九七〇年=昭和四十五年」『終焉をめぐって』所収P27-28)

◆柄谷行人『倫理21』より抜粋
1970年天皇をかついだクーデターを訴えて自決した三島由紀夫のような人は、死ぬ前のインタビューでも、昭和天皇に対する嫌悪と軽蔑を隠していません。また、天皇の戦争責任を認めて右翼から襲撃された長崎市長本島等は、左翼どころか、どちらかといえば「右翼的」な人物です。総じて、天皇の戦争責任を認める者は、蜷川新のように「明治気質」の人間です。日本国家の戦争責任を認めるならば、天皇の責任を認めるべきであり、そうでないなら、戦争責任を全面的に否定すべきだ、その二つに一つしかありません。
今日において史料的に明らかなことは、戦争期において、天皇がたんなる繰り人形でもなく、平和を愛好する立憲君主でもなく、戦争の過程に相当積極的に加担していたということです。さらに、天皇自身がその地位の保全のために画策したということです。戦争末期にそれは「国体の維持」という言い方をされたのですが、つまりは天皇制および天皇個人の地位の護持ということが、当時の権力の最大の目的でした。
イタリアはいうまでもなく、ナチス・ドイツが降伏した後でさえ日本が戦争を続けたのは、なんら勝算や展望があったからではなく、降伏の条件として天皇制の「護持」をはかって手間取ったのです。その結果として、何百万人の兵士、市民が戦場や都市爆撃、さらに二度の原子爆弾によって死ぬことになりました。
にもかかわらず、敗戦の決定は、天皇自身の「御聖断」によってなされたという神話ができています。そのような神話づくりには、占領軍のマッカーサー将軍も加担しています。彼は「国民が救われるなら、自分はどうなってもいい」と語った天皇に感動したということを伝記に書いていますが、これは明らかに虚構です。「自分はどうなってもいい」のなら、もっと前に終戦をいうべきだったし、もし「立憲君主」のためにそのような介入ができない立場にあるなら、敗戦においてもそれはできなかったはずです。
実際には、天皇制を保持し天皇を免責することを決めたのは、ソ連あるいはコミュニズムの浸透をおそれたアメリカ政府です。また、マッカーサーは、東京裁判のあと天皇が退位することを当然とする日本の識者の意見に対して、それを抑えました。

※参考:三島由紀夫の天皇論


浅田彰の共感の共同体批判、《公的というより私的、言語的(シンボリック)というより前言語 的(イマジナリー)、父権的というより母性的なレヴェルで構成される共感の共同体。......それ はむしろ、われわれを柔らかく、しかし抗しがた い力で束縛する不可視の牢獄と化している》という文章は、ラカン用語で仮装されているが、丸山真男や、あるいは加藤周一らのモダニスト系譜のものだろう。


◆加藤周一『日本文化における時間と空間』より

日本社会には、そのあらゆる水準において、過去は水に流し、未来はその時の風向きに任せ、現在に生きる強い傾向がある。現在の出来事の意味は、過去の歴史および未来の目標との関係において定義されるのではなく、歴史や目標から独立に、それ自身として決定される。(……)

労働集約的な農業はムラ人の密接な協力を必要とし、協力は共通の地方心信仰やムラ人相互の関係を束縛する習慣とその制度化を前提とする。この前提、またはムラ人の行動様式の枠組は、容易に揺らがない。それを揺さぶる個人または少数集団がムラの内部からあらわれれば、ムラの多数派は強制的説得で対応し、それでも意見の統一が得られなければ、「村八分」で対応する。いずれにしても結果は意見と行動の全会一致であり、ムラ全体の安定である。

加藤周一が89歳でとうとう亡くなったね。全共闘以後、「朝日・岩波文化人」はもう古いなんて言われたけど、若い世代が好きなことを言えたのも、基準となる文化人がいてのことだった。最後の大知識人だった加藤周一の死で、そういう基準がなくなったことをあらためて痛感させられる。実際、もはや「朝日・岩波文化人」と呼ぶに足る人なんて朝日を見ても岩波を見てもほとんどいないもん。戦前・戦中の日本が情緒に引きずられたことへの反省から、加藤周一はとことん論理的であろうとした。老境の文化人がややもすれば心情的なエッセーに傾斜する日本で、彼だけは最後まで明確なロジックと鮮やかなレトリックを貫いた。晩年になっても、日本料理よりは西洋料理や中華料理、それも血のソーセージみたいなものを選ぶわけ。で、食べてる間はボーッとしてるようでも、いざ食後の会話となると、脳にスイッチが入って、一分の隙もない論理を展開してみせる。彼と宮脇愛子と高橋悠治は約10年ずつ違うけれど、誕生日が並んでるんで何度か合同パーティをした、そんなときでも彼がいちばん元気なくらいだったよ。とくに国際シンポジウムのような場では、彼がいてくれるとずいぶん心強かった。英語もフランス語もそんなに流暢ではないものの、言うべきことを明晰に言う、しかも、年齢相応に威厳をもって話すんで海外の参加者からも一目置かれる、当たり前のことのようで実はそういう人って日本にほとんどいないんだよ。むろん、ポスト全共闘世代のぼくらからすると、加藤周一は最初から過去の人ではあった。でも、先月号(2009年1月号/talk13)で触れた筑紫哲也の場合と同様、死なれてみるとやっぱり貴重な存在だったと思うな。(加藤周一の死

2013年11月5日火曜日

「今日も割れ目やねえ」

そうしようとは思っていなかったのにとりあえず鈴を鳴らし、社に手を合わせたあと、振り向いて川を見下ろした千種は、

「今日も割れ目やねえ。」

 川が女の割れ目だと言ったのは父だった。生理の時に鳥居をよけるというのと違って、父が一人で勝手に言っているだけだった。上流の方は住宅地を貫く道の下になり、下流では国道に蓋をされて海に注いでいる川が外に顔を出しているのは、川辺の地域の、わずか二百メートルほどの部分に過ぎず、丘にある社からだと、流れの周りに柳が並んで枝葉を垂らしているので、川は、見ようによっては父の言う通りに思えなくもない。(田中慎弥『共喰い』

読んでいない小説をの一部分を引用するのは気が引けないでもないがここは許してもらおう。60年代、近郊には海あり山あり川ありの三河の地方都市で生まれ育ったわたくしにとっては、昭和の、――柄谷行人が196570年あたりに「昭和」が終ったと書いたがーー、「本来の」昭和の記憶を呼び起こす叙述のひとつだなのだから。

たとえば「昭和初年代」とか「昭和十年代」という言い方はポピュラーだが、そのような言い方が可能なのは「昭和三十年代」までである。「昭和四十年代」という表現はめったに聞いたことがない。というのは「昭和三十年代」には「一九六〇年代」という表現がすでにオーバーラップしていて、以後「七〇年代」や「八〇年代」というのが普通だからである。「昭和三〇年代」と「一九六〇年代」とでは、時期が五年ずれるだけでなく、大分ニュアンスが違ってくる。後者が国際的な視点において見られているのに対して、前者は、いわば、明治以来の日本の文脈を引きずっている。それらが同時に共存しえたのが、およそ昭和三十年代である。その意味では、(……)「昭和」は四十年(一九六五年)あたりで終っているといってもよい。(柄谷行人「一九七〇年=昭和四十五年」『終焉をめぐって』所収)

もっとも作者の田中慎弥は1972年下関生れ、いわゆる「昭和」以降の生まれなのだから、田中氏の小説の文から「昭和」を感じるというのは、いささか語弊がある。生まれ育った地域や当人の負わされた環境などによっては、1970年以降にも「昭和」が色濃くあったとも言える。逆に大都会の郊外の団地やらニュータウンで生まれ育っていれば、1970年以前にも「昭和」はとっくに終っていたともいえる。

さてそれはさておき、「今日も割れ目やねえ」という表現から、もうひとつ「昭和」の記憶を喚起する四国の山奥の「割れ目=鞘」の叙述を大江健三郎の小説から抜き出す。田中慎弥の小説で、「今日も割れ目やねえ」と呟くのは「千種」であるが、大江健三郎の妻がモデルである下記の文の「妻」の名は「千樫」である。

妻とギー兄さんは森の鞘に入って山桜の花盛りを眺めた日、その草原の中央を森の裂け目にそって流れる谷川のほとりで弁当を食べた。(……)そして帰路につく際、ギー兄さんは思いがけない敏捷さ・身軽さで山桜の樹幹のなかほどの分れめまで登り、腰に差していた鉈で大きい枝を伐ろうとした。妻は心底怯えて高い声をあげ、思いとどまってもらった。(大江健三郎『懐かしい年への手紙』p37

ところで田中慎弥氏の小説には次のような叙述もある。

父は鰻を食べている時が一番幸せそうだ。そうめんにも箸をつけはするが、食べ応えが足りないとでも言いたげに、次の切身をまた一口でねじ込み、残りの身も続けて食べ尽くしてしまうと、最後に、仁子さんがいつも切り落とさずにおく頭の部分にしゃぶりつき、一度口から出してまだ肉がついているところを確かめ、また吸いつく、ということをくり返す。鰻の細長い頭は、一口毎に肉を剥ぎ取られてゆき、唾液でとろとろに光った。釣り上げる時に作った傷に、父は気がついていない。(田中慎弥『共喰い』)

この文も代表的な「昭和」の小説のひとつ、安岡章太郎の『海辺の光景』(1959)の叙述をたちまち想起させる。

信太郎は、タバコをのんでいる父親の顔がきらいだった。太い指先につまみあげたシガレットを、とがった唇の先にくわえると、まるで窒息しそうな魚のように、エラ骨から喉仏までぐびぐびとうごかしながら、最初の一ぷくをひどく忙しげに吸いこむのだ。いったん煙をのみこむと、そいつが体内のすみずみまで行きわたるのを待つように、じっと半眼を中空にはなっている……。吸いなれた者にとっては、誰だってタバコは吸いたいものにきまっている。けれでも父の吸い方は、まったく身も世もないという感じで、吸っている間は話しかけられても返辞もできないほどなのだ。(安岡章太郎『海辺の光景』)

安岡章太郎は父母との葛藤や母の死などをめぐって書かれたこの小説について後に次のように書いている。

そのとき入院して、一年後にその病院で死んだ母のことを、僕は書かなければならないと思った。それは母の死んだ直後から考えていた、というよりも極く自然に、自分はそれを書く以外に何もすることはない、と思っていた。しかし、いざ書くとなると、僕の頭には、母のことも、その背後にあることも、何も浮んでこなかった。僕はただ、母が息を引きとったあと、その病棟の直ぐそばの海岸で、潮が引いて底から何やら黒いものの絡まった棒杭が列になって突き出していたことだけを憶えており、そのときうけた衝撃が何であるかが、これから自分の書くものの主題になるということ、それだけしか僕の頭の中にはなかった。ーー母は何のために狂ったのか、何のために死んだのか? それを書くことに一体どういう意味があるのか? 頭の中だけで考えていても、どうどうめぐりをするばかりでよくわからなかった。(……)

干上がった海の底から何が出てくるのか、それが書けたか書けなかったか、僕には何とも言いようがない。僕に書けるのは、要するにこれまでの生涯で自分が見てきたものだけだ。心の中にあるものも、外側にあるものも、自分が何を経験してきたか、こなかったかということは、作品のなかに総てハッキリあらわれるだろう。書けなかったものは、言葉が不足しているためではなくて、そのものに対する経験が欠けているということだ。欠けているものがあったら、あったで仕方がない。差し当ってこの作品のために、あとから経験をつぎ足すことは出来っこない。その代り、自分に欠けているものがもしわかれば、それだけでもこれを書いた甲斐があるというものだろう。(『僕の昭和史』)

小説とは、本来このように書かれるものだろう、「それを書く以外に何もすることはない」。

理知が摘みとってくる真実――この上もなく高次な精神の理知であっても、とにかく理知が摘みとってくる真実――透かし窓から、まんまえから、光のただなかで、摘みとってくる真実についていえば、なるほどその価値は非常に大きいかもしれない。しかしながらそのような真実な、より干からびた輪郭をもち、平板で、深さがない、というのは、そこには、真実に到達するために乗りこえるべき深さがなかったからであり、そうした真実は再創造されたものではなかったからだ。心の奥深くに神秘な真実があらわれなくなった作家たちは、ある年齢からは、理知にたよってしか書かなくなることが多い、彼らにはその理知が次第に力を増してきたのだ、それゆえ、彼らの壮年期の本は、その青年期の本よりも、はるかに力強くはあるが、そこにはもはやおなじようなビロードの肌ざわりはない。(プルースト「見出されたとき」井上究一郎訳)

安岡章太郎には、後年にも傑作はあるが、しかしやはりこの『海辺の光景』が代表作だと言われるのは、そこにあるビロードの肌ざわりのせいだろう。


さて、実は、こんなことを書きはじめたのは、青山真治監督の『共食い』一般公開間近でのインタヴューにめぐり合ったからだ。

――(……)遠馬が昭和63年を現在としてまさにいま生きている物語にも見える一方で、実は語っているのは遠馬といった特定の人物ではない誰かであるような物語にも見えます。言ってしまえば、日本人というものが忘れていた、あるいは忘れようとしていた「記憶」そのものが、この映画であるかのような感覚があります。それは、昭和天皇の死と、光石研さん演じる円(まどか)という父親の死が二重に語られているからなのかもしれませんが、青山さんご自身は、この物語は誰が見た物語だとお考えですか?

青山 さっきの距離感の話からすると、遠馬でさえない、誰でもないようなフラットな日本人――フラットな日本人なんているのかどうかわからないけど――そのものの視点。そういうものの語りというのが、欲求の根っこにあったかもしれない。普通の日本人が普段忘れているようなことをこの映画が語っているように見えれば一番良いんだけど。

繰返せば、「普通の日本人が普段忘れているようなこと」の「昭和」は、若い世代には通用しないのかもしれない。たとえば次のようなスチル写真から自らの幼少時の記憶を痛みをもって呼び起こされない若いひとたちが今では多いのだろうとも思う。






ところでほかにもナレーションをめぐってこんな会話がある。

――ナレーションに関して言えば、青山監督の映画でここまで明確に冒頭と終わりにナレーションによる語りが挿入されている作品はあまりなかったように思えます。そのナレーションの「声」は光石研さんのものですが、「語り手」は昭和の時代が終わってから十何年かが経ち、大人になった遠馬が語っているという設定にされています。(……)

青山つまり、このナレーションは「回想」ではなく、語りの距離感についての問題に関わっているんだと思う。たとえばタバコの吸殻が入っている灰皿がここにあるとして、近くで見ると、いろんな細かいものが見えるんだけど、少し距離を置いてそれを見ると、灰皿だけがあるように見えるという、その距離感。

この映画でのナレーションがどんな効果を生んでいるのかは知るところではないが、さる映画での至高のナレーションの場面をここでも想起せざるをえない。

以下、蓮實重彦『光をめぐって』所収「心もとなく闇の中を歩みはじめるように」(1985----ビクトル・エリセへのインタヴューから)

――『エル・スール』の場合は、オフのナレーションが素晴らしいのですが、この構成はシナリオ段階から決まっていたわけですね。

エリセ) ええ、あのナレーションの声は、すでに大人になった女、つまりエストレーリアがその成熟した女としての視点から語っているのです。彼女が、少女時代の根源的な体験を、もはや触れえない何ものかとして語っているわけです。それは、内面の日記かもしれない。文学的な作品の一断片かもしれない、しかしそれが文学的なものとして語られることを私は望んだのです。

――その少女時代の根源的な体験の中で、父親が重要な役目を果たしています。ところが、この父親と娘という関係をめぐって「この発想はあからさまにフロイト的だ」という批評を「カイエ・デュ・シネマ」誌で読みました。好意的な文章なのですが、こういう言葉で単純な図式化が行われると、作品の豊かさが一度に失われて残念な気がしました。

エリセ) おっしゃる通り、私は仕事をしているときに、その種のことはまったく考えていない。もちろん、これまでの生涯で目にしたある種のイメージとか、体験したある種の感情とかを映画の中に生かそうとはするでしょう。でも、フロイト的な発想などというものが最初のアイディアとしてあるわけではもちろんありません。私は心もとなく闇の中に歩きはじめる。私が何かを理解するのは撮影が終わった瞬間なのです。映画とは、そうした理解の一形態なのであり、あらかじめわかっていることを映画にするのではありません。

ここでは犬の遠吠えからはじまる箇所を貼付しよう。



犬の遠吠え、扉の開く音、足音、ささやき声、女のよび声、……そして成熟した女の声によるナレーション、――それはすでに大人になった女、すなわちエストレーリアがその成熟した女としての視点から語る声なのだがーー、少女時代の根源的な体験を、もはや触れえない何ものかとして語る声。

ふと少女の顔を風のように撫でるものがある、耳のそばを通りぬけてゆく。彼女は部屋の闇のなか大きく目をみひらく……すると成熟したのちの少女自身の声、それはあの未来のノスタルジーだろうか(ドアはそのときひとりでにひらき、そこにあるのがわからなかった部屋が見える。)








2013年8月15日木曜日

母親の葬儀で涙を流さない人間

「下顎呼吸がはじまったな」と看護人が云った。
母は口をひらいたままーーというより、その下顎が喉にくっつきそうになりながらーー喉の全体でかろうじて呼吸をつづけている。「これがはじまると、もういかんですねえ」と、看護人は父をかえりみた。

父は無言でうなずいた。そして信太郎に、「Y村に電話するか」と云った。
すると信太郎は突然のように全身に疲労を感じた。と同時に、眼の前の二人に、あるイラ立たしさを覚えて云った。
「べつに、また死ぬときまったわけじゃないでしょう。それに電話したって、伯母さんは来れるかどうか、わからんですよ」
二人は顔を見合わせた。やがて父は断乎とした口調で云った。「Y村へは報せてやらにゃいかんよ。報せるだけでも……」

たしかに、自分の云ったことは馬鹿げたことだ、と信太郎はおもった。しかし確実にせまってきた母の死を前にして、儀礼的なことが真先にとり上げられるということが、なにか耐えがたい気持だった。

(……)

すべては一瞬の出来事のようだった。

医者が出て行くと、信太郎は壁に背をもたせ掛けた体の中から、或る重いものが抜け出して行くの感じ、背後の壁と“自分”との間にあった体重が消え失せたような気がした。そのまま体がふわりと浮き上がりそうで、しばらくは身動きできなかった。

看護人が母の口をしめ、まぶたを閉ざしてやっているのに気づいたのは、なおしばらくたってからのことのようだ。看護人の白い指の甲に黒い毛が生えているのがすこし不気味だったが、彼の手をはなれた母を眺めるうちに、ある感動がやってきた。さっきまで、あんなに変型していた彼女の顔に苦痛の色がまったくなく、眉のひらいた丸顔の、十年もむかしの顔にもどっているように想われる。……そのときだった、信太郎は、ひどく奇妙な物音が、さっきから部屋の中に聞こえているのに気づいた。肉感的な、それでいて不断きいたことのなお音だ。それが伯母の嗚咽の声だとわかったとき、彼は一層おどろいた。人が死んだときには泣くものだという習慣的な事例を憶い出すのに、思いがけなく手間どった。なぜだろう、常人も泣くということを彼は何となく忘れていた。その間も絶えず泣き声がきこえてきて、その声はまた何故ともなく彼を脅かし、セキ立てられているような気がした。ついに彼は泣かれるということが不愉快になってきた。それといっしょに、泣き声をたてている伯母のことまでが腹立たしくなった。あなたはなぜ、泣くのか、泣けばあなたは優しい心根の、あたたかい人間になることが出来るのか。(安岡章太郎『海辺の光景』)

ーーこの箇所を読むと、いつも思い出す、わたくしの母の通夜、義理の伯母が涙目で母に死に化粧をしようとした手を振り払ってしまったことを(まだわたくしは若かった、二十代の前半だった)。儀礼としての通夜や葬式に苛立っていたわけだ。あること以上のことをいったり、感じること以上のことをいったりする連中に。





ーーと文脈とは異質の映像を挿入したが、異質ついでに、蓮實重彦の文をも挿入しておこう。

伊丹十三と蓮實重彦は、伊丹氏の手料理を食しながら、対談するほど仲が良かったらしい。伊丹氏にとって蓮實重彦はもっとも褒められたい批評家だった。それが、映画『お葬式』のあとは、絶縁状態となる。

『お葬式』はちっとも面白くない。

それで、試写室の出口に伊丹さんが来ていて「どうですか」って言うから、正直に「最低です」と言って別れました。たぶん、それが彼と言葉を交わした最後だと思う。その後も、彼の作品は全部見てますよ。けれど、ひとつとしていい場面の撮れない人だったと思う。キャメラが助けてないし、あんなにいいショットがない映画って珍しいと思います。

それから、どうも劇の構造が全部面白くない。

伊丹父子、万作と十三のふたりは、作品の質とは無縁に評価されている点で同じだと思います。伊丹万作って、今見られるものでは面白いものはひとつもない。

つい最近有名な、『国士無双』の断片を見たんですけど、全く駄目だった。なぜあんなに皆が面白いというのか理解できませんでした。まったく演出のできない、いいショットのひとつもない人だと思います。(蓮實重彦は『帰ってきた映画狂人』)

この評言の正否を問う力はわたくしにまったくはない(そもそも伊丹作品のなかでは『お葬式』にもっとも魅了された人間だった)。だが、「作品の質とは無縁に評価されている」ひとたちが、映画の世界だけでなく、われわれの周りには至るところにいるには違いない。たとえば、ヴァレリー・アファナシエフで次のように言う。

さして美しくも醜くもない一人の女性が―――リストの『ピアノソナタ ロ短調』のビデオクリップを製作する。(……)このカリスマ的女性ピアニストは、衣装を替えたり付けたりひげをつけたりパイプを吹かしたりして、ファウスト、メフィストフェレス、マルガレーテの三役を演じ分けてみせる。すると聴衆は言う。「何という個性、何という大胆さ、何という芸術家、何というピアニストなんだろう!」。ソナタの演奏がへたくそなことは言わずもがなだが、誰もそんなことは気にもしない。そもそも、ほとんど曲を聴いてはいないのだ。(『ピアニストのノート』)

小説や詩でも同じく。まずはわれわれの思い込みを揺るがしてくれる批評家の言葉は、ときに傾聴に値する。たとえば、ナボコフ。

ナボコフはチェーホフを高く評価し、彼が他のロシア作家に与えた評価としてはトルストイのAプラスに次ぐAをプーシキンとチェーホフに与えている。他の作家の評価は、ツルゲーネフがAマイナス、ゴーゴリがB、ドストエフスキイはCマイナス(かDプラス)で、「チェーホフよりもドストエフスキイが好きな者にはロシアの生活の本質は決して理解できないだろう」とウェレズリー大学の女子学生たちに話していた(Hannah Green, "Mister Nabokov," 37)。

いまの批評家でこのように語ることができる人がいるだろうか。守るべきなにものかがあれば、ひとは背中からでも撃たなければならない。これはどうですか?青山さんはいつか瀕死の奴を背中から撃てます?映画の中でも、なんでも。》「ゴダールとイーストウッドは背中から撃つ!」)

ーーたとえば若き中井久夫の痛烈な医学界批判だけでなく、己の破門をめぐる後年までの中井久夫の非妥協性を見よ(中井久夫と破門)。

なにも守るものがない人間は、曖昧模糊とした春のような気質の「日本人」をやって、折ある毎に互いに湿った瞳を交し合い、慰め合い頷き合い、あるいは「絆」「寄り添う」などといって誤魔化し合い、さらには「涙を流す」ふりをしていればよろしい(京城の深く青く凛として透明な空)。

もっとも世間にはマラルメ的な礼節を取っている人もあるのだろう、つまり、礼儀を重んじ、忍耐強く、また真に驚歎すべき優しさを以て彼らを迎えたということの根柢にある非情さ、多数の存在を容赦なく処分し、抹殺し去る態度(ヴァレリー)。

そういう私によくわかったのは、かつて耳にした気がする彼女のマーテルリンクにたいする嘲笑のことで(もっとも、いまは彼女はマーテルリンクを讃美しているが、それは文学の流行に敏感な女性の精神的弱点によるもので、文学の流行の光というのは、おそくなってから射してくるのである)、そのことが私によくわかったのは、つぎのことが私にわかったのと軌を一にしていた、すなわり、メリメがボードレールを嘲笑し、スタンダールがバルザックを、ポール=ルイ・クーリエがヴィクトル・ユゴーを、メーヤックがマラルメを、それぞれ嘲笑していた、ということである。むろん私にわかっていたのは、嘲笑者は、自分が嘲笑している相手にくらべて、なるほどせまい考をもっているが、しかしより純粋な語彙をもっている、ということである。(プルースト「囚われの女」井上究一郎訳)


…………


もとの文脈の「引用」に戻る。

母親の葬儀で涙を流さない人間は、すべてこの社会で死刑を宣告されるおそれがある、という意味は、お芝居をしないと、彼が暮す社会では、異邦人として扱われるよりほかはないということである。ムルソーはなぜ演技をしなかったか、それは彼が嘘をつくことを拒否したからだ。嘘をつくという意味は、無いことをいうだけでなく、あること以上のことをいったり、感じること以上のことをいったりすることだ。しかし、生活を混乱させないために、われわれは毎日、嘘をつく。ムルソーは外面から見たところとちがって、生活を単純化させようとはしない。ムルソーは人間の屑ではない。彼は絶対と真理に対する情熱に燃え、影を残さぬ太陽を愛する人間である。彼が問題とする真理は、存在することと、感じることとの真理である。それはまだ否定的であるが、これなくしては、自己も世界も、征服することはできないだろう…(アルベール・カミュ『異邦人』 英語版自序)
社会を構成する事実は慣習である。慣習とは、どのような方法をもってしても、またどのように程度をかげんしても、他に方法がないゆえに個人が受け入れ逐行するところの人間的ふるまいの形態である。それらは共存から成り立っている周囲世界、すなわち「他の人たち」、「人びと」……そして社会によって押しつけられたものである。(オルテガ・イ・ガセト『個人と社会─人と人びと─』)



《耐え難いのは重大な不正などではなく凡庸さが恒久的につづくことであり、しかもその凡庸は、それを感じている彼自身と別のものではない。》(ドゥルーズ『シネマ Ⅱ』)

価値の平準化

ニーチェにも、バタイユにも、同じテーマがあります。「未練」のテーマです。現在のある形がおとしめられ、過去のある形が賛えられるのです。この現在も、この過去も、実をいえば、歴史的ではありません。両者とも、デカダンスという、両義的で形式的な運動によって読み取られます。こうして、反動的でない未練、進歩的な未練が生まれるのです。デカダンスとは、通常の共示〔コノタシオン〕とは逆ですが、凝りに凝った、過剰文化的な状態を意味しているのではなく、逆に、価値の平準化を意味しているのです。たとえば、悲劇の大量復活(マルクス)、ブルジョワ社会におけるお祭り的消費の隠密性(バタイユ)、ドイツ批判、ヨーロッパの病い、疲弊、最後の人、《あらゆるものを矮小化する》あぶらむしのテーマ(ニーチェ)。これに、ミシュレの一九世紀――彼の世紀――に対する、「退屈」の世紀に対する毒舌をつけ加えてもいいでしょう。皆、ブルジョワ的平準化がもたらす同じ嘔吐感を感じています。ブルジョワは価値を破壊しません。平準化するのです。小さくし、卑小なものの体制を確立します。(ロラン・バルト『テキストの出口』)



2013年8月7日水曜日

京城の深く青く凛として透明な空

中井久夫には、《安克昌先生は、二〇〇〇年十二月二日、四〇歳に四日を残してその短き生涯を閉じられた。その恨みを恨みとして、その思いを思いとする人々が今ここに集まっておられる。不肖、私、葬儀委員長として、皆様とともに愛惜、追慕の念を、まず、ご遺族にささげたいと申し上げます》、と始まる追悼の辞の文がある(「安克昌先生を悼む」『時のしずく』所収)。

安克昌は、阪神・淡路大震災後、その現場で大きく活躍された人でもある。ここではまず、「『多重人格者の心の内側の世界』序文」(『時のしずく』所収)から引こう。

《在学中、ソウルで一夏を語学研修に過ごしたことはあまり語りたがらなかったが、おそらく在日として生きると肚をくくってこの列島に戻ってきたのではあるまいか。神戸大学の精神科に入って自己紹介の時、彼は「安という朝鮮人です」とぼそりと語った。(……)私は彼とよく診察後の医局で談笑した。ほんとうにあらゆるテーマについて語った。彼はジャズ・ピアニストとしても知られていた。彼の演奏には沁みいるような「明るい孤独」があったと私は思う。》

《この震災直後の彼の活動の中で、初めて臨床に即した彼の多重人格論を聴いた。後には彼の補助治療者をつとめたこともある。ある時、患者の受けた虐待をめぐって話している時、「やはり男性治療者には限界がありますね。私は在日だから、どこか許してもらっているところが少しはあるんです」と漏らしたことがある。在日韓国人としてのトラウマの深さをのぞかせた唯一の機会であった。しかも、彼はそれを治療的に有利な条件に変えようとしていた。》

あわせて、同じ『時のしずく』所収の、「「祈り」を込めない処方は効かない(?) ――アンケートへの答え」より、《私は最近、若い弟子(この言葉自体は好きではないが他の言い方がない)を非業の死によって失い、私の中に生まれる哀切感の強さに自ら驚いた。》と書かれる前後の文をも。


人は、なぜ死について語る時、愛についても語らないのであろうか。愛と性とを結び付けすぎているからではないか。愛は必ずしも性を前提としない。性行為が必ずしも(いちおう)前提とせずに成り立つのと同じである。私はサリヴァンの思春期直前の愛の定義を思い出す。それは「その人の満足と安全とを自分と同等以上に置く時、愛があり、そうでないならばない」というものである。平時にはいささかロマンチックに響く定義である。私も「いざという時、その用意があるかもしれない」ぐらいにゆるめたい。しかし、いずれにせよ、死別の時にはこれは切実な実態である。死別のつらさは、たとえ一しずくでもこの定義の愛であってのことである(ここには性の出番がないことはいうまでもあるまい)。

私は最近、若い弟子(この言葉自体は好きではないが他の言い方がない)を非業の死によって失い、私の中に生まれる哀切感の強さに自ら驚いた。逆縁という語が自然に浮んだ。この定義によれば、友人にも、師弟にも、患者と医師との間にも愛はありうる。おのれの死は、その人たちすべてに、すなわち愛のすべてに別れるからつらいのである。あの人間嫌いとされるスウィフトが『ガリヴァー旅行記 第三部』において、ほんとうに不死の人間が時々生まれる国を描いて、友人知人の全てから生き残る不死人間の悲惨を叙述している時、彼は同じことを言っているのだといえば驚く人があるであろうか。


【安克昌先生を悼む】
精神科医の真の栄光は、もとより印刷物や肩書きにあるのではない。その栄光の真の墓碑銘は患者とともに過ごした時間の中にある。

(……)きみと旅行したウィーン、ブタペストをなつかしむ。あれは一九九二年の初夏だった。あの旅にはふしぎな魅力があった。そして夫人へのきみのこまやかないつくしみと心くばりがよくわかった。

ふだん、きみの貴重な家族との時間の多くを奪ったのは私だった。きみは医局長として、私の人事の哲学を知っていたから、一人一人にできるだけチャンスを与え、希望をかなえようとして命をけずる思いをした。それは私の考えに共鳴してくれるところがあったからにちがいない。しかし、きみの肩を異常に凝らせたのは私の咎である。そして、きみの著書の序文を「若さと果断沈着さとに一抹の羨望を感じる」と終えた私が、その後五年ならずして、老いの身できみを送る言葉を書くということになろうとは、孔子さまではないが、天われをほろぼせりといわずして何といおうか。

(……)病院にかけつけてお母様と相擁した。涙を払ったお母様は、開口一番「素敵でしたよ」と仰った。「あんな素敵な死は見たことがありません」と。

二日間の意識混濁ののち、きみは全身体をつっぱらせて全身の力をあつめた。血圧は一七〇に達したという。そして、何かを語ってから「行くで、行くで、行くで、行くで」と数十回繰り返して、毅然として、再び還らぬブラックホールの中に歩み行った。

(……)

きみは秋の最後の名残とともに去った。生まれかわりのように生まれた子に秋の美しさを讃える秋実の名を残して。

その国の友なる詩人は私に告げた。この列島の文化は曖昧模糊として春のようであり、かの半島の文化はまさにものの輪郭すべてがくっきりとさだかな、凛冽たる秋“カウル”であると。その空は、秋に冴え返って深く青く凛として透明であるという。きみは春風駘蕩たるこの列島の春のふんいきの中に、まさしくかの半島の秋の凛冽たる気を包んでいた。少年の俤を残すきみの軽やかさの中には堅固な意志と非妥協的な誠実があった。


…………


さて、以下は、《この列島の文化は曖昧模糊として春のようであり、かの半島の文化はまさにものの輪郭すべてがくっきりとさだかな、凛冽たる秋“カウル”であると。その空は、秋に冴え返って深く青く凛として透明である》をまずはめぐる。

湿度のデータをすこし見てみた限りでは、東京とソウルはそれほど大差はない(ただし韓国旅行案内などをみると、韓国は日本より乾燥しているなどとするものもあるし、韓国全土の乾燥化を伝える記事もあるが、詳しいことはわからない)。要するに、上の文は、気候というより日本人気質と韓国人気質の相違をしめし、「堅固な意志と非妥協的な誠実さ」の韓国人が、日本人の次のような曖昧模糊とした春のような気質への異和も遠まわしに語ったものと読むこともできよう。

一般に、日本社会では、公開の議論ではなく、事前の「根回し」によって決まる。人々は「世間」の動向を気にし、「空気」を読みながら行動する。(柄谷行人「キム・ウチャン(金禹昌)教授との対話に向けて」
柄谷行人は、金禹昌氏について、《私が最も印象づけられたのは、キム教授の東洋的な学問への深い造詣であった。たとえば、私がカリフォルニア大学ロサンジェルス校で教えていたとき、キム教授は同アーヴァイン校で儒教について講義されていた。英文学者でこんなことができる人は日本にはいない。というより、日本の知識人に(専門家を別にして)、こんな人はいない。さすがに韓国きっての知識人だな、と思ったことがある》と書いている。

韓国と日本では知識人の基準が少し違う。日本では何らかの専門家であることが必要である。しかし、それでまあ十分である。韓国では、専門の力量に加えて高度の一般教養がなくてはならない。いま小学生から英語を教え、高校で二ヶ国語を必修としている隣国の教育の凄さに日本人は無知である。この家(中井久夫が下宿したY夫人家:引用者)に来訪する韓国の知識人との交際はこよなく洗練され高度なものであった。夫人との毎晩の四方やま話も尽きなかった。当時の私は韓国から毎日出稼ぎに日本へ行っては毎晩帰っているようなものであった。三年間私は文化的に韓国に住んでいた。おそらく、その最良の部分の一端に触れていた。(中井久夫「Y夫人のこと」『家族の深淵』所収)


もっともしばしば指摘されるように、統計的にみれば「非妥協的な誠実さの民」、韓国人は、世界一の自殺率の民でもある。--統計方法の違いなどの指摘はあるが、わたくしは今そこまで調べてみようとはしない。これはかつて村上龍が語っているのだが、《あれは自殺決行後二四時間以内に死んだひとの数らしい。三日後に死んだひとは、統計上は自殺未遂になるという。それを入れると倍ぐらいにな(る)》(柄谷行人との対談 『NAM生成』所収)とのこと。他国がどうであるのかは分らない。日本の自殺統計の仕方については、村上龍の発言と同じことを語っている記事はある。

先週(1/17)、警察庁は2012 年の自殺統計(速報値)を公表しました。それによりますと、全国の自殺者数は前年(2011 年)から2885 人減の2 万7766 人となり、1997 年以来15 年ぶりに3 万人の大台を下回ったというのです。この減少は東日本大震災という大きな困難が日本人の絆を強めたからなのでしょうか。

ただ、この自殺者数は、確実に自殺と判明している場合で、しかも、その日のうちに亡くなっている場合のみの数だそうです。ですから、自殺か事故かはっきりしない場合とか、自殺を試みたことによって数日後に亡くなっている場合は、この数には入らないのです。
ショート・メッセージ - 御茶の水キリストの教会

さて、いずれにせよ、「曖昧模糊」とした根回しの平均的な日本人にとってのイメージとしての韓国は、多血質な、そして堅固な意志と非妥協的な誠実さ(あるいは人によれば「直情径行」などとするのかもしれない)、そんな民族とするのだろう。この二つの隣国の間には、キムチと白菜のぬか漬けの相違があるのだ。


朝鮮半島の民家の典型的な秋の風景とは、すくなくともかつては、藁屋根の軒下に赤い干し「唐辛子」が掛けてある風景とのこと(李哲権「隠喩から流れ出るエクリチュールーー老子の水の隠喩と漱石の書く行為」による)。






向こうに藁屋根がある。屋根の下が一面に赤い。近寄って見ると、唐辛子を干したのであった。女はこの赤いものが、唐辛子であると見分けのつくところまで来て留まった。「美しいこと」と言いながら、草の上に腰をおろした。草は小川の縁にわずかな幅をはえているのみである。それすら夏の半ばのように青くはない。美禰子は派手な着物のよごれるのをまるで苦にしていない。(夏目漱石『三四郎』)



幼少時、京城に暮した安岡章太郎の『僕の昭和史』はこのように始まる。

《僕の昭和史は、大正天皇崩御と御大葬の記憶からはじまる。(……)

その頃、僕らは朝鮮京城の憲兵隊宿舎に住んでいた。父は職業軍人で陸軍獣医大尉であり、僕は南山幼稚園にかよっていた。》

そしてかつてのソウル(京城)の叙述がある。

いまの京城、つまりソウルは、人口五百万とかの超過密都市で、東京と同様、或いはそれ以上に活気はあるけれど、自然環境の破壊も甚だしく、むかしの面影はまったくない。僕らのいた頃の京城は、人口はたぶん五十万ぐらい、小さいながら良くまとまって、ハイカラな感じの街だった。 僕らが住んでいたのは、本町(いまの忠武路)という目抜き通りの直ぐ裏手で、おもての通りには三越だの銀座の亀屋の支店だのが並んでいた。本町を南に行くと南大門の広場があり、そこには朝鮮銀行、その他、大きな会社の建物が集まっており、また町をちょっと出はずれたところに南山という丘があって、そこに僕のかよった幼稚園や小学校がある。この南山は、いまはKCIAの本拠になったおり、山の斜面一帯は新興資産家の住宅地になっていて、花崗岩やレンガで囲った家がぎっしり立ち並んでいるが、僕らのいた頃は朝鮮には珍しい青々として丘陵地帯だった。学校は斜面の中腹にあって、そこから少し奥に這入ると、深山幽谷のおもむきがあった。春先きなど、岩肌に張った氷の裂け目から奇麗な清水が湧き出しており、手をつけると千切れるほど冷たかったが、すくって飲むと体の中までスーッとするような、爽快な味がした。 空は、ほとんど一年じゅう晴れており、とくに冬になると青く澄んで、カーンと音がしそうな冴えた色をしていた。






本町は、前にいったように京城で目抜き通りで、横浜や神戸の元町なんかにも似てシャレた店が多かった。しかし、このなかで朝鮮人のやっている店が一軒でもあっただろうか。店員も、客も、道を歩いている人も、日本人ばかりだったような気がする。

京城でも、母は日本人の女中を置いていた。最初はハルという人がいて、これがやめるとユクという人がきた……。考えてみると、これは当時、いかに人手が安かったかということだけではなく、いかに多勢の日本人が朝鮮に出掛けていたかということでもあるだろう。当時は日韓合併後、まだ二十年とたっていなかったはずだが、日本人は朝鮮のなかに完全に日本人だけの社会をつくり上げていた。南山幼稚園にも、南山小学校にも、朝鮮人の子供はたぶん一人もいなかったはずだ。そんなだから、僕は朝鮮に何年いても、朝鮮語というものは、二、三の単語を知っている程度で、まったく憶えようともしなかった。それどころか、朝鮮人に朝鮮語をつかうことを禁じ、朝鮮人ばかりを集めた朝鮮の学校で日本語の教育を強制した。そして後には、朝鮮人の姓を取り上げて日本姓にあらためさせるようにした。(安岡章太郎『僕の昭和史』)


朝鮮半島や、朝鮮人、--もちろんそれだけではない、中国を初めとして大東亜共栄圏の理念の餌食になった国々の土地に、わたしたちは土足で上がり込んだのであり、さらにことさら「在日」の人々の心を土足で踏みにじった、あるいはいまも踏みにじっているかもしれないことを忘れてはならない。


日本の植民地政策の特徴の一つは、被支配者を支配者である日本人と同一的なものとして見ることである。それは、「日朝同祖論」のように実体的な血の同一性に向かう場合もあれば、「八紘一宇」というような精神的な同一性に向かう場合もある。このことは、イギリスやフランスの植民地政策が、それぞれ違いながらも、あくまで支配者と被支配者の区別を保存したのとは対照的である。日本の帝国主義者は、そうした解釈によって、彼らの支配を、西洋の植民地主義支配と対立しアジアを解放するものであると合理化していた。むろん、やっていることは基本的に同じである。だが、支配を愛とみなすような「同一性」のイデオロギーは、かえって、被支配者に不分明な憎悪を生み出すこと、そして、支配した者に過去を忘却させてしまうことに注意すべきである。

こうした「同一性」イデオロギーの起源を見るには、北海道を見なければならない。日本の植民地政策の原型は北海道にある。いうまでもなく、北海道開拓は、たんに原野の開拓ではなく、抵抗する原住民(アイヌ)を殺戮・同化することによってなされたのである。その場合、アイヌとに日本人の「同祖論」が一方で登場している。(……)

この点にかんして参照すべきものは、日本と並行して帝国主義に転じたアメリカの植民地政策である。それは、いわば、被統治者を「潜在的なアメリカ人」とみなすもので、英仏のような植民地政策とは異質である。前者においては、それが帝国主義的支配であることが意識されない。彼らは現に支配しながら、「自由」を教えているかのように思っている。それは今日にいたるまで同じである。そして、その起源は、インディアンの抹殺と同化を「愛」と見なしたピューリタニズムにあるといってよい。その意味で、日本の植民地統治に見られる「愛」の思想は、国学的なナショナリズムとは別のものであり、実はアメリカから来ていると、私は思う。岡倉天心の「アジアは一つ」という「愛」の理念でさえ、実は、アメリカを媒介しているのであって、「東洋の理想」ではない。

札幌農学校は、日本における植民地農業の課題をになって設立されたものである。それが模範にしたのは、創設においてクラーク博士が招かれたように、アメリカの農業、というよりも植民地農政学であった。われわれは、これを内村鑑三に代表されるキリスト教の流れの中でのみ見がちである。しかし、そうした宗教改革と農業政策を分離することはできない。事実クラーク博士は宣教師ではなく農学者であったし、また内村鑑三自身もアメリカに水産科学を学びに行ったのであって、神学校に行ったのではない。さらに、内村と並ぶキリスト教徒の新渡戸稲造は、のちに植民地経営の専門家となっている。

北海道は、日本の「新世界」として、何よりもアメリカがモデルにされたのである。そして、ここに、「大東亜共栄圏」に帰結するような原理の端緒があるといえる。(……)日本の植民地主義は、主観的には、被統治者を「潜在的日本人」として扱うものであり、これは「新世界」に根ざす理念なのである。ついでにいえば、こうした日米の関係は、実際に「日韓併合」にいたるまでつづいている。たとえば、アメリカは、日露戦争において日本を支持し、また戦後に、日本がアメリカのフィリピン統治を承認するのと交換に、日本が朝鮮を統治することを承認した。それによって、「日韓併合」が可能だったのである。アメリカが日本の帝国主義を非難しはじめたのは、そのあと、中国大陸の市場をめぐって、日米の対立が顕在化したからにすぎない。(柄谷行人「日本植民地主義の起源」『岩波講座近代と植民地4』月報1993.3初出『ヒュ―モアとしての唯物論』所収)


 ※附記
一時期のめりこんだ政治活動と、童話の創作活動がどういう関係にあったのか。政治活動を否定したことによって、そこからあの童話の世界が生まれたのではなく、このふたつはじつはほとんど同時現象なんですね。あの奇跡のような傑作群と、危険なユートピア思想への傾倒は、深くつながっている。(中沢新一 対談「宮沢賢治と日本国憲法 」)



2013年7月6日土曜日

大江健三郎と三島由紀夫の文体をめぐるメモ

皆さん、芸術家なら自分の作品をエラボレートするのは当り前だろう、といわれるかもしれません。しかし、この国ではそうじゃないんです。エラボレートする作家は──文学でいうならば──じつにまれで、たとえば安部公房のように特別な人なんです。かれの小説の初出と、全集におさめてあるものを比較すればあきらかですが、安部さんはいったん発表したものも、なおみがきあげずにはいられない作家でした。

三島由紀夫の文体は見事だ、というのが定説ですが、あれはエラボレートという泥くさい人間的な努力の過程をつうじて、なしとげられた「美しい文章」ではないのです。三島さんは、いわばマニエリスム的な操作で作ったものをそこに書くだけです。書いたものが起き上がって自分に対立してくるのを、あらためて作りなおして、その過程で自分も変えられつつ、思ってもみなかった達成に行く、というのではありません。三島さんのレトリック、美文は、いわば死体に化粧をする、アメリカの葬儀屋のやっているような作業の成果なんです。若い作家でそれを真似ている人たちがいますから、ここでそう批判しておきたいと思います。(大江健三郎 講演「武満徹のエラボレーション」|東京オペラシティコンサートホール)

《大江健三郎は懸命に三島由紀夫を否定する。ちょうどヘーゲルが懸命にシュレーゲルを否定したように。》(柄谷行人「同一性の円環」)――もっとも柄谷行人がこう書くのは、大江の三島由紀夫文体への「否定」をめぐってではないが、いまはその内容については触れない。大江健三郎はありとあらゆる機会をとらえて三島由紀夫を否定する、そのことが言いたいだけだ。文体に関しては、大岡昇平が指摘されたとされる以下の文のようなことを、大江氏は想起しつつ上のように語ったのかもしれない(丹生谷貴志の文であるが、ツイッター上で拾ったので出典は不明)。

三島由紀夫の死後、大岡昇平は三島の文体に時折露骨なかたちで現れる奇妙なメカニズムを指摘している。三島の文体全般に言えることだが、時折唖然とするほどに空疎な措辞を用いた文章が現れるという点である。例えば、と大岡は『天人五衰』の一文を挙げる。…「宇治市へ入ると、山々の青さがはじめて目に滴った」。…「目の前の現実に対して言葉は既成の言葉の中からほとんど自動的に選ばれる。つまりは美文が生まれる訳である」と大岡は言っている。要するに銭湯の壁画みたいだ、ということである。

同じことが、或いはこの文例よりもさらに空虚な措辞からなる次のような文にも認められる。『暁の寺』最後のクライマックス部分である。「こんな場合にも、ほとんど無意識の習慣で、本多は赤富士を見つめた目を、すぐかたわらの朝空へ移した。すると截然と的れきたる冬の富士が泛んで来た」。…「セツゼントテキレキタルフユノフジ」! …

「既成の言葉の中から自動的に選ばれる」という大岡の評言は、要するに三島は目の前の「現実」に対して、可能な限りそれに“相応しい”言葉の探究をすることなく、例えば旅行用パンフレットに書かれるような「既成のレトリック」の中から…切り取って来るかのようだといった意味だろう。しかしここで重要なのは、三島が、或いは三島が選んだ「文体」が半ば意図的に「現実」との接触を避ける身振りを持っているという点である。正確に言えば、「現実」を前にし、一応そこに向けての接近の身振りをするのだが…そしてそこにおける三島の詳細で微分的な精密さについて否定する者はいないと思われるが、しかし、三島の文体には或る“感覚的に自動的な”飽和点とでも呼ぶべきものがあって、文章が現実の不定型に巻き込まれる程に近づこうとする瞬間に身を引いて自らの中に凝固しようとするかのようなのである。(丹生谷貴志)

「既成の言葉の中から自動的に選ばれる」、――三島由紀夫の文章には、たしかにこういった印象を生む場合がわたくしにもあるのだけれど、まああまり偉そうなことを言うつもりはない、たいして読んでもいないのだから。「截然と的れきたる冬の富士」、こういった漢文ベースの文体、たとえば森鴎外やら永井荷風にも似たような表現はあるのだけれど、なぜこの二人の巨匠の文体にはそういったことを感じないのかのほうが、わたくしには不思議なのだが、その二人の文章だってたいして読んでいるわけではなく、何度も読んだのは、『渋江抽斎』と『断腸亭日乗』なのだけれど、「既成のレトリック」の中から切り取って来るかのような感じを受けたことはない(谷崎からも川端からも受けたことはない、逆に学者の論文などそんなものばかりだ)。

――「琴瑟調わざることを五百に告げた」「淵に臨んで魚を羨むの情に堪えない」「玄碩の遺した女鉄は重い痘瘡を患えて、瘢痕満面、人の見るを厭う醜貌であった」……

――「断膓亭の小窗に映る樹影墨絵の如し」「樹間始めて鶯語をきく」「此日天気晴朗。園梅満開。鳥語欣々たり」……

たぶん「既成のレトリック」の中から切り取って来ること自体が問題なのではなく、丹生谷氏が最後に書いているような《三島の文体には或る“感覚的に自動的な”飽和点とでも呼ぶべきものがあって、文章が現実の不定型に巻き込まれる程に近づこうとする瞬間に身を引いて自らの中に凝固しようとするかのよう》なせいであって、肝心なところで拍子抜けするということなのではないか(描写される時代が漢語表現に適さないということもあるだろう…現代クラッシックの作品が古典的作風で作曲されても、どこか「まがいもの」感が生まれてしまうように…まあこのあたりのことはあまり考えたことはないので、ひどく馬鹿げたことを言っているのかもしれない)。

今どき文学上のリアリズムっていうと、まあ多少文学を考える人はまともに付き合うまいと思うでしょう。リアリズムというのは、人がどこで得心するか、なるほどと思うか、そのポイントなんですよ。つまり人は論理で納得するわけじゃない。論理を連ねてきてどこか一点で、なるほどと思わせるわけです。その説得点あるいは得心点ともいうべきところで、形骸化されたリアリズムが粘るというのが、文学としてはいちばん通俗的じゃないかと思うんです。説得点にかかるところだけはすくなくとも人は真面目にやってほしい。つまりこんな言い方もあるんです。今どき文章がうまいというのは下品なことだと。それをもう少し詰めると、感情的な、あるいは思考の上でのポイントに入るところで、あり来たりのものをもってくる。筋の通ったあり来たりならいいですよ。もしもそういう筋の通った『俗』がわれわれにとって、説得点として健在ならば。しかし時代になんとなく流通するものでもって人に説得の感じを吹き込む、そういう文章のうまさ、工夫、これは僕はすべて悪しき意味の通俗だと思う。これがいわゆるオーソドックスな純文学的な文章にも、ミナサンの文学にも等しくあるわけだ。これをどうするのかの問題でね。(古井由吉・松浦寿輝『色と空のあわいで』ーーありきたりな言葉


といっても、大岡昇平の文体だって、なんだか物足りなさを感じるときがある、とくにスタンダールやレイモン・ラディゲを擬した恋愛もの。安吾のいうとおり、《心理描写が行き届いて明快であるが、それは御両者のつかみだしてきた事柄についてのことで、その事柄として明快に心理をつかみとって描いてみせているけれども、その事柄でない方には目をふさいでいる。一方に行き届いて明快であることが、他には全然行き届かぬという畸型を生じております》。まあプルーストと比べてしまうのは、彼らに酷かもしれないけれど、おなじ心理を描くといっても、判断保留の宙吊り感といったものが少ない、プルーストの小説の登場人物の一人、《コタールは《偉大》でも《卑小》でもない。仮に真実があるとすれば、その真実は「他者」の言葉が彼に与える動揺全体にいきわたる言述の真実である。》(ロラン・バルト)――こんな感じは全然ない。ラディゲにもサガンにもない。スタンダールはどうか、あるんじゃないかね、スタンダールの翻訳者大岡昇平にくらべて格段に。あまりにもの明快さへの不満かな。もっともこのあたりはたんに好き嫌いのせいだけではないかと疑ってみる必要はあるのだけれど。


大岡昇平と三島由紀夫は戦後に文章の新風をもたらしましたが、その表現が適切に、マギレのないようにと心がけて、まさしく今までの日本の文章に不足なものを補っております。明快ということは大切です。

ですが、小説というものは、批評でも同じことだが、文章というものが、消えてなくなるような性質や仕組みが必要ではないかね。よく行き届いていて敬服すべき文章であるが、どこまで読んでも文章がつきまとってくる感じで、小説よりも文章が濃すぎるオモムキがありますよ。物語が浮き上って、文章は底へ沈んで失われる必要があるでしょう。

御両所に共通していることは、心理描写が行き届いて明快であるが、それは御両者のつかみだしてきた事柄についてのことで、その事柄として明快に心理をつかみとって描いてみせているけれども、その事柄でない方には目をふさいでいる。一方に行き届いて明快であることが、他には全然行き届かぬという畸型を生じております。

それも要するに、文章が濃すぎるということだ。文章というものは行き届くはずはないものです。行き届くということは、不要なものを捨てることですよ。すると他に行き届かないという畸型は現れません。

そして、捨てる、ということは、どういうことかと云うと、文章は局部的なものでないということです。むろん、文章は局部的にしか書けないし、その限りに於て文章は局部的に明快で、また行き届く必要がありますけれども、文章の運動というものはいつも山のテッペンをめざし、小説の全体的なものが本質として目ざされておらなければならない。言葉の職人にとって、一ツ一ツの言葉というものは、風の中の羽のように軽くなければなりませんな。

どうしても、この言葉でなければならん、というのは、そんな極意や秘伝があるのか、と素人が思うだけのことですよ。職人にとっては仕事というものは、この上もない遊びですよ。彼の手中にある言葉は、必然の心理を刺しぬくショウキ様の刀のようなものではなくて、思いのままに飛んだり、消えたり、現れたりする風の中の羽や、野のカゲロウや虹のようなものさ。

言葉にとらわれずに、もっと、もっと、物語にとらわれなさいよ。職人に必要なのは、思いつき、ということです。それは漫画の場合と同じことですよ。ここを、ああして、こうして、という問題のワクがまだ小さいウラミがあります。

要するに、文章が濃すぎると思うのですよ。もっとも、私の言うのは文章だけに目をおいて、言ってるのですがね。(坂口安吾「戦後文章論」

この後、安吾は、《文章の新風としては、今度の芥川賞の候補にのぼった安岡章太郎という人のが甚だ新鮮なものでありました。私は芥川賞に推して、通りませんでしたが、この人は御両所につづく戦後の新風ですね。》と書いているのだけれど、わたくしも、安岡章太郎の文体には、なんでもない箇所でも魅せられる。

信太郎は、タバコをのんでいる父親の顔がきらいだった。太い指先につまみあげたシガレットを、とがった唇の先にくわえると、まるで窒息しそうな魚のように、エラ骨から喉仏までぐびぐびとうごかしながら、最初の一ぷくをひどく忙しげに吸いこむのだ。いったん煙をのみこむと、そいつが体内のすみずみまで行きわたるのを待つように、じっと半眼を中空にはなっている……。吸いなれた者にとっては、誰だってタバコは吸いたいものにきまっている。けれでも父の吸い方は、まったく身も世もないという感じで、吸っている間は話しかけられても返辞もできないほどなのだ。(『海辺の光景』)

※附記

大江健三郎は『取り替え子』のなかで、妻がモデルである千樫にこう語らせている(千樫との対話が、実際にそうあったのかどうかは問題ではない。千樫との対話は古義人(大江自身がモデル)の内省であり自己対話に近いとしてよいだろう)。


――あなたがまだ若くて、おもに翻訳を読んでいた頃、早口で発音不明瞭というところもあったけれど、話の内容は本当に面白かったのね。輝くような、風変わりなほど新しい表現があって……

それが永いメキシコシティー滞在の後、翻訳じゃなく外国語で本を読むようになってから、あなたの使う言葉の感じが変わったと思う。新しい深さが言葉に反映している、とは思うことがあるのよ。けれども、なにか突拍子もないおかしさ、面白さの言葉には出会わなくなった。小説に使われている言葉もそうじゃないかしら? 成熟ということかも知れないけれど、以前のようにキラキラした言葉はなくなった。そう考えているうちに、私はあなたの小説を読まなくなってしまったのね。それで、この十五年ほどの小説のことはなにもいえないけれど、そうした変化と、翻訳より原語で読む方が多くなったということと、関係があるかも知れないと思って……原書を読む人こそ、日本語にない面白さを持ち込む、と考えるのが普通かも知れないけれど……

――それは本当にそうかも知れないね。僕の本の売れ行きが下降線を示しはじめたのは、四十代後半からだからね。あまり翻訳を読まなくなった時期と一致するよ。きみのいうとおり、キラキラする面白さが薄れたのかも知れない。翻訳されたものを読む面白さには、原語から読みとるのとは別の、いうならば露骨なものがあるんだよ。あれをこう訳すか、これだけやっていいものか、と驚きながら、自分にはこの日本語は生み出せない、と感服することがよくあるものね。とくに若い有能な翻訳者には、異能といっていいほどの力を示す人がいるよ。(……)

――フランス語の新しい作品を翻訳する、若い人の文章には、突飛な面白さがあるねえ、といった。

――まあ、そうだね、アメリカ西海岸の大学の、直接フーコーの影響下にいる連中などは別として、英語の文章はそれ自体地道だものね。とくにイギリスの学者が書くものは…… 僕の文章がキラキラしなくなったというのは、ブレイクからダンテ研究まで、おもにケンブリッジ大学出版局のモノグラフを読んできたことと関係があるかも知れない……P64-65