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2014年9月1日月曜日

「卑怯と勇気とはしばしば紙一重」

ところで「良心」ってなんだい?
「憐憫」とか「同情」でもいいけどさ

夜の街を歩いていて
ひとりの人間がチンピラ数人に囲まれて
いじめられているかたかられているかの場面に
遭遇したとしよう
一生のうちには何度かあるよな

きみならどうする?
見て見ぬふりして足早に通りすぎるんじゃないかい?
ナイフの先なんかが光っていたらなおさらだな

「良心」なんて自分に危害がかからない立場に置かれたときのみ
発揮できるていのものじゃないかい?

オレは見て見ぬふりして通り過ぎたことも何度かあるし
見て見ぬふりされたこともあるな

この国ではバイクタクシーというものがあってね
街を歩いているとバイクのあんちゃんが
しきりに寄ってくるんだな
いいとこ紹介しますよってさ
二十年まえは顔見知りも多かったね
バーでいっぱいひっかけた扉口で待ってたりとかさ
深更の街を女のところへ案内してくれるってわけだ




夜更けの街をバックシートにのって疾駆するなか
チンピラたちのバイク四台に取り囲まれたことがあるんだな
二台のバイクが進行方向を左右から斜めに塞いでさ
横にも二台ぴったりつけられて

財布の中身を毟り取られるだけで助かったけどさ
それ以来金は二ヶ所に隠しもつようにしたな



◆中井久夫「一九九六年一月・神戸」『復興の道なかばで  阪神淡路大震災一年の記憶』所収

圧倒的な危機においては、従来の習慣にしがみつく構えと、新しい発想に打って出ようとする構えとの基盤は一見ほどには大きく相違するものではない。沈没しようとする艦船の船腹に最後までしがみつくか、フネを見捨てて敢えて海に飛び込むかという選択のいずれが正しいかはいうことができない。生存のチャンスは全くの賭けなのである。フネが沈没した後、今脇に抱えている板切れにしがみつきとおすか、それを棄てて近づいてくるようにみえる救助船に向かって泳ぎだすかも、全くの賭けである。救助船は私を認めていなくて旋回して去ってゆくかもしれないし、すでに満員であって、ふなべりにかけて私の手は非情にもナイフで切り落とされるかもしれない。

半分は、ふだんの構えによって決まるが、半分は、いったん一つの構えを取ると、それを取りつづける傾向が強い。

もっと一般的に、池で溺れている少年、あるいはいじめられようとしている少女を目撃した場合に、見て見ぬふりをして立ち去るか、敢えて救助に向かうかの決定が紙一重となる瞬間がある。この瞬間にどちらかを選択した場合に、その後の行動は、別の選択の際にありえた場合と、それこそハサミ状に拡大してゆく。卑怯と勇気とはしばしば紙一重に接近する。私は孟子の「惻隠〔みてしのびざる〕の情」と自己保存の計算との絞め木にかけられる。一般に私は、救助に向かうのは最後までやりとおす決意とその現実的な裏付けとが私にある場合であるとしてきた。中途放棄こそ許されないからである。「医師を求む」と車中で、航空機中で放送される度に、外科医でも内科医でもない私は一瞬迷う。私が立つことがよいことがどうか、と。しかし、思いは同じらしく、一人が立つと、わらわらと数人が立つことが多い。後に続く者があることを信じて最初の一人になる勇気は続く者のそれよりも大きい。しかし、続く者があるとは限らない。日露戦争の時に、軍刀を振りかざして突進してくるロシア軍将校の後ろに誰も続かなかった場合が記録されている。将校は仕方なく一人で日本軍の塹壕に突入し、日本軍は悲痛な思いで彼を倒した(日本将校にとっても明日はわが身かもしれない)。