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2014年9月23日火曜日

ジャン・ジュネの「どろぼう」というシニフィアン

”Ordinary psychosis: the extraordinary case of Jean. Genet”(Pierre-Gilles Gueguen) は、ジュネを「倒錯」ではなく、「普通の精神病」タームで解釈し直そうとする小論だが、そこでの議論を簡略に記せば、養母に愛されていたよい子のジュネーー引っ込み思案で少女たちと遊ぶことを好む、あるいは教会の少年合唱団員だったらしいーーその彼が、母親の財布から小銭をくすねて飴玉のたぐいを友人に振舞った十歳前の行為、それに引きつづき、サルトルが『聖ジュネ』で特筆したことで有名な、近所の雑貨屋の些細なものの盗みの際の、年輩の女性からの「あんたはどろぼうよ!」の指弾からジュネが受けた衝撃、更にその直後の養母の死、などの伝記的「事実」から、母親とのイマジネールな関係(鏡像関係)にあったジュネ(あるいは緩やかな「父の名」の排除という精神病的構造にあったとも解釈される)が、「どろぼう」というシニフィアンを、なかば空席の「父の名」の場に押しいれて、それと「同一化」したのではないか、というものだ。

――ただし、この議論によって、ジュネが「倒錯」であるのか「普通の精神病」であるのか、あるいはいわゆるボーダーラインであるのかは、わたしには判然としないし、ここでの話題でもない。

Pierre-Gilles Gueguenはミレール派であり、ここで、若いラカン派の精神科医松本卓也氏のツイートから、J.-A. Miller: Effet retour sur la psychose ordinaire. Quarto94-95, 2009の「父の名」の説明を掲げておこう(一部、編集)。

・身体の外部性.普通の精神病では,身体が自己に接続されず,ズレをはらむことがある.たとえば、ジョイス『若い芸術家の肖像』の身体落下体験.この身体の不安定性に対する対処行動として,ミレールは「タトゥー」をあげている.「タトゥーは身体との関係における父の名になるだろう

・ 主体の外部性については、次のような側面もある。普通の精神病では,独特の空虚感がみられることがある.もちろんこのような外部性は神経症でもみられうるものであるが,普通の精神病の場合はdialectiqueがないこと,つまりその空虚感を弁証法的否定することができないことが相違点であるとされる.

・また、排除の一般化として、後期ラカンはすべてのディスクールは保証が不在であるとする.それゆえ象徴的体系を支えるシニフィアンも,構造をとわず排除されている.固有名としての父の名から,述語名としての父の名へと位置が変わる.父の名に似た機能を果たせば何でもいい

刺青が「父の名」となるのなら、「どろぼう」というシニフィアンが「父の名」となってもなんの奇妙なことはない。

最晩年のラカンは次のように語っている。

“Ce que j'énonce en tout cas, c'est que l'invention d'un signifiant est quelque chose de différent de la mémoire. Ce n'est pas que l'enfant invente — ce signifiant, il le reçoit, et c'est même ça qui vaudrait qu'on en fasse plus. Nos signifiants sont toujours reçus. Pourquoi est-ce qu'on n'inventerait pas un signifiant nouveau? Un signifiant par exemple qui n'aurait, comme le réel, aucune espèce de sens?”(J. Lacan, Le Séminaire XXIV, L'insu que sait de l'une bévue, s'aile a mourre, Ornicar ?, 17/18, 1979)

どんな場合でも、私が今言っていることはシニフィアンの発明は記憶とは異なった何かだということだ。子供が発明するのではないーー彼はシニフィアンを受け取るのだ。そしてこのことでさえ、もっとそうすることはやりがいのあることだ。われわれのシニフィアンはつねに受け取られる。どうして新しいシニフィアンを発明していけないわけがあろう。たとえば、現実界のように、まったく意味のないシニフィアンを。(私訳ーーいいかげん訳)

これはサントームの発明にもかかわるはずだし、ジュネの「どろぼう」のシニフィアンも「刺青」の話も同様。

the sinthome has a universal place as the way in which each subject may singularly knot his psychic structure, or form a social bond with the Other. In such a clinic, the Name-of-the-Father is merely one form of the sinthome. The Name-of-the-Father is merely an especially stable form of knotting. ("Ordinary Psychosis in the era of the sinthome and semblant." Thomas Svolos)

後期ラカンにとっては、「父の名」とはサントームのひとつの形に過ぎないのであり、Pierre-Gilles Gueguenの話もミレールの話も、サントームへの言及がないにもかかわらず、サントームの話に相違ない。

《“Sinthome” : symptôme (symptom), saint homme (holy man), Saint Thomas (the one who didn't believe the Other – Christ – but went for the Real Thing).》

ジジェクは90年代初頭にすでにこのように書いている。

外-存在としてのサントームsinthomeの次元は、症候symptomや幻想の次元よりも根源的である。サントームは精神病的な核であり、(症候として)解釈することも(幻想として)通り抜ける "traversed"こともできない。ではどうしたらよいのだ。ラカンの答えは(そしてこれが、精神分析過程の最後の瞬間に対する後期ラカンの定義なのであるが)、サントームと同一化することである。このようにサントームは、精神分析過程の最終的な限界、精神分析が基盤としている暗礁をあらわしている。だが、一方、サントームは根源的に不可能であるという‘この経験こそ、精神分析過程が終ったことを示す究極の証拠ではなかろうか。これこそが、「症候ジョイス」に関するラカンのテーゼの正しい力点である。(ジジェク『斜めから見る』)

最近の見解の一部(『LESS THAN NOTHING』(2012)は、「メモ:「幻想の横断」(症候との同一化)とサントーム)」を参照のこと。


…………

ところで子供の「盗癖」は、ファルスを「持つ」、あるいはファルスで「ある」に関わる大人への抗議、つまり「わたしは男なのか、女なのか」という大人への問いかけであるというのがフロイト以来の精神分析学の通念であるようだ。大岡昇平の『幼年』には、《盗癖は、私の生涯の汚点であり、成長しても私の心に重くのしかかった》とある。大岡氏は「お袋の財布から小遣いをちょろまかす」、おそらく多くの子供がそれをなし、後年になっても取り立てて重大視しないだろう記憶に長年拘ったのが分るが、つまりは「それを悪いと思うか、思わないかにかかって来る」のであり、幼少時に盗癖があったかどうかは肝要ではない(大岡氏は幼い頃仏壇に向かって「自分を女の子にかえて下さい」と祈ったという記述もある)

ーーこの大岡昇平の、後年盗癖を悪いと思う、すなわち生涯の汚点であるとする態度は、遡及的な外傷にもかかわるはずだ。

遡及的な外傷とは次のようなことである。たとえば、子供が最初にある性的な光景を目撃したとき、そこには外傷的なものは何ひとつなく、なんら衝撃を受けたわけではない。意味のよくわからない出来事として記憶に刻み込んだだけ。だが後年性的な袋小路に遭遇して子供は幼いときの記憶を引っ張り出す、それが遡及的に外傷化されるという意味である。内的なトラウマと言われるものはオリジナルな外傷があるのではなくて、多くの場合、このような遡及的な外傷だとされる。(参照:「原初とは最初のことじゃないんだよ」)


あるいはGueguenによるジュネの「よい子」をめぐっては、中井久夫の記述を引いておこう。

分裂病者の幼少期は、多くが「よい子」であるといわれるが、この手のかからず、めだたず、反抗しない、“すなお”な「よい子」とは違う意味で、うつ病者の幼少期も、多くは「よい子」である。ただし、かいがいしい、よく気のつく、けなげな「よい子」であるようだ。(……)どちらも「甘えない」子であるが、分裂病者の幼少期が「甘え」を知らないか「甘え」を恐怖するのに対して、うつ病者の幼少期は「甘え」をよくないこととして断念している印象がある。いや、親をいたわり、「甘えさせる」子であることすら多い。(「執着気質の歴史的背景」『分裂病と人類』所収)

※ここで言われる「分裂病」は、ラカン理論では、「精神病」の下位分類である。



ジュネが幼少期に育った地は、パリの南東250キロの中央山塊の麓、林業と農業が盛んなアリニィ村で(当時人口1650人)、里親は50歳をこえていたレニエ夫妻でした。このアリニィ村があるモルヴァン地方は、パリの金持ちの赤ん坊の面倒をみる乳母の輩出地として当時名をはせ、あちこちに「乳の家」と呼ばれる豪華な家が建てられました(……)。フランス全土の孤児のなんと3分の1がこの地方に受け入れられていたのです。壊滅した石炭産業の代わりに「里親業」が”地域産業”として促進されたのがその理由でした。ウィキペディア日本語版は、レニエ夫妻のことを単に木こりとして紹介していますが(英語版はcarpenterー大工)、実際にはレニエ夫妻の家は、「教会」と「学校」(この2つは少年ジュネになんと大きな影響を与えたことか!)の間に挟まれて建っていた大きな家でした。

あるいはこうもある、《他の多くの里子と比べ、ジュネはその幼少期、3つ程の点で幸運だったようです。一つは、一日中忙しい農家ではなく職人の家が里親で、しかも比較的裕福で本を読んだり勉強する時間がたっぷりあった(養母はジュネが聖職者になることを望んでいた)。二つめは家の隣が学校だったこと(……)。そのため学校の図書館が自分の部屋の本棚のような感じで、好きな先生にもよく会いに行きいろいろ刺激を受けることができたことでした。ジュネは学校の図書館の本をすべて読んだというほど読書好きだったようです。》《里子は小学校を終えると(13歳)、養家から引き離されることになっていたため、いくら成績がよくとも上の教育を受けることは制度上叶わないことになっていました。職業訓練校に入学したジュネは(擁護施設出身者として滅多にない栄誉と考えられていたという)すぐに失踪事件を起こし退校処分をくらいます。そして送られたパリで、ジュネは過激に変わっていくのです。》

十歳時の「盗み」は、ここで「凡庸」に語ることが許されるなら、まずは、この捨子の宿命を課す社会的システムへの抗議ともいえるだろう(あるいは近い将来、イマジネールな愛に浸っていた養母から引き離されることへの怖れ、絶望)。

《この里親があまりにも立派だったため、ジュネは後年、里親には鞭でよく折檻されたものだと「伝説づくり」をしなくてはならないほどでした(『泥棒日記』にも当初、里親のことを立派な人たちだったと書いたが後に削除している)》ともある。

『泥棒日記』には、たしかに里親の記述はわずかしか出てこない。

次の文は、後年、「泥棒」となり、街を歩いているときの記述。

わたしは不用心な振舞いを次々と行う、――盗んだ自動車に乗ったり、盗みを働いた直後にその店先の前を歩いたり、偽造であることが一目瞭然であるような身分証明書を差出したりする。わたしは、まもなくすべてが壊滅するだろうという気持を味わう。わたしの不用心な行動は重大な結果を招きうるものであり、そしてわたしは、光明の翼を持った大破綻がごく小さな過失から生じるだろうということを承知している。P300

この文の原注にこうある。

誰がわたしの破綻を阻止しうるだろう。大破綻について語った以上、わたしはわたしが見たある夢をここに記さずにはいられない。一台の機関車がわたしを追いかけていた。わたしは鉄道線路の上を懸命に走っていた。すぐ背後に機関車の荒々しい息づかいが聞こえていた。わたしは線路から野原へ走り出た。しかし意地悪にも機関車はあくまでわたしを追いかけてきた。が、ある小さな、か細い木の柵まで来ると、優しく、丁重に、止まった。そしてわたしは、その境界柵が、わたしを育ててくれた農夫の所有地で、子供の頃わたしが始終雄牛の番をしていた草原を囲っていたものだということに気づいたのだった。ある友人にこの夢の話をしたときわたしは言った、「……汽車はおれの少年時代の境界まできて止まったんだ」と。

もう一つ、友人の喪のために花を盗む、そこでの《花を盗むという行為は、死者への訣別の慣例的作法を果たすことができないという絶望感によって招来された》倫理的な、ひとつの英雄的行為なのだ、と語る文脈で次のような記述がある。

……そのとき、わたしがまだ子供だった頃のある日曜日に、村の墓地で、わたしを育てていてくれた農婦が、あたりをそっと見回した後、誰のだか知らないま新しい墓から一本の金盞花を抜きとって、それを彼女の娘の墓にさしたのだった。どこからであろうと、愛する死者の柩を飾るために花を盗んでくることは、盗んだ人間の心を決して満足させない行為であることを、ギーも理解していたのだ。P328

具体的に出てくるのはこの二箇所だけだ。そしてその二箇所は、あまりにも多くの解釈を誘発させる叙述ではあるが、そんな愚かな真似をしてジュネの「歌」を汚すことはしまい。

※「泥棒日記』には、「生みの母」をめぐっての叙述はそれなりにある。ここでは一つだけ挙げよう。

もしその頃わたしの母にめぐり会っていたならば、そして彼女がわたしよりもさらに卑しい境涯にあったならば、わたしは彼女と共に上昇をーーもっとも、言語の一般の慣例ではこのかわりに堕落その他いずれにしろ下へ向う運動を表わす言葉を用いることを要求するらしいが、――困難な、苦しい、汚辱へと導く上昇を懸命に遂行しただろう、わたしは彼女と共にこの冒険に従事し、そしれそれを書き記しただろう、最も卑しい言葉――それが表現する行為の点で、あるいは辞句そのものとして、――最も卑しい言葉を愛によって光輝あらしめるために。P127

 いずれにせよ、『泥棒日記』は「半自伝」ではあるにしろ、それが過去を現在によって構成したものにすぎないことにジュネはすこぶる自覚的である。

わたしがこうして言葉によって当時のわたしの精神的態度を再構成しようと試みているとしても、読者もわたしと同様、決して瞞されはしないだろう。我々は、言語がこうしてすでに死に去った状態、したがって現在と異質な状態についてはその反映さえも喚起することができないことを知っている、この日記全体についても、もしそれがわたしがかつてそうであったところのものについての記述を意図しているとしたら、同じことが言えるだろう。それゆえ、わたしはこの日記は、それを書いている現在わたしがそうであるところのものについて何事かを知らせるためためのものだということを明確にしておこう。それは、過ぎ去った時を索めるのではなくて、わたしの過去の生活がその托言材料〔プレテクスト〕であるところの一つの芸術作品なのだ。それは、過去の援けをかりて定着された現在、となるべきものであって、その逆ではない。したがって、ここに語られているいろいろな事実はわたしが述べるとおりのものであったこと、しかし、それからわたしが引出す解釈はわたしが現在そうであるーーそうなったところのものを表すことそ承知していただきたい。p98わたしがサンテ刑務所で、ものを書きはじめたとき、それは決してわたしのさまざまな感動をもう一度生きるためでも、また、それらを人に伝達するためでもなく、それらの感動によって課せられた、それらの感動の表現をもって(まだ第一にわたしにとって)未知の一つの(精神的)秩序を組み立てるためだったのだ。P246


※追記:Pierre-Gilles Gueguenの《泥棒も売淫も他者から何かを抜き出すことであり、所有はジュネにとって重要性を持たない》をめぐって(『泥棒日記』より)。

・才能とは、素材に対する礼譲にほかならず、それは声なきものに歌を与えることなのである。P155

・裏切りと、盗みと、同性愛が、この本の本質的な主題なのだ。それらは互いに連関関係にある。この連関は必ずしも常に露わではないとしても、わたしには少なくとも、わたしの裏切りと盗みへの嗜好とわたしの情事とのあいだに、一種の血脈的交流が認められるように思われるのである。P245

・たとえ彼らが、それが人に害悪を与えるということによってある行為を嫌悪すべきものであるとわたしに証明しうるとしても、ただわたしだけが、それがわたしの裡に湧きあがらせる歌によって、それが美しいかどうかを、それが優雅であるか否かを決定しうるのだ。ただわたしだけが、それを拒否、あるいは是認いするのだ。人は決してわたしを正道に連れ戻すことができないだろう。P279

・わたしは今、絶望のただ中における至高の幸福というものの現実に、鋭い注意を注ぎたいーーすなわちそれは、人がただ独りで、突然、自己の急激な破滅に直面したとき、人が自己の作品(事業)と彼自身との取返しのつかない崩壊に直面したとき、である。わたしは、わたしがそれを知っているということを何人も知らない、ひそかな、絶望の状悲を経験するためならばこの世のありとあらゆる財宝を手離すだろうーーそのために事実それらを手離さなければならないのだが。ヒットラーがただひとり、彼の宮殿の地下壕の中で、ドイツ敗北の最後の刻に、確かに、この純粋な光明の一瞬――脆くそして堅固な、曇りない意識――自己の失墜の自覚を、経験したはずだ。P303

・裏切る者が自己の背信を自覚していること、彼がそれを欲し、そして彼を人間仲間に結びつけていたもろもろの愛の絆を断ち切ることができさえすれば十分なのだ。美を得るために不可欠なものーー愛。そして愛をぶち壊す残酷さ。P356

棄子であるということのために、わたしは孤独な少年時代と青春とを持った。泥棒であるということが、わたしに泥棒という職業の独異性を信じさせた。おれは怪物的な例外なのだ、とわたしは自分に言い聞かせていた。事実、わたしの泥棒への嗜好、泥棒としての活動は、わたしの男色癖と関係があったのであり、この、それだけですでにわたしを世の常ならぬ孤独の中に閉じこめるものであった性癖から派生したものだったのだ。盗みという行為がどれほど広く行われているものであるかということに気づいたとき、わたしの驚きは大きかった。わたしは一挙に月並みさの中に投げこまれてしまったのだ。それから抜け出すために、わたしが必要としたのは、ただ、わたしの泥棒としての運命を自己の栄光とし、この運命を希求するだけでよかったのだ。人はこれを負け惜しみと見なし、馬鹿どもはそれを冷笑した。人はわたしのことを悪しき泥棒だと言うかもしれないが、そんなことは問題ではない。泥棒という言葉は、その主要な活動が盗みであるところの人間をさす。そういう人間からーー彼がこう呼ばれているかぎりーー彼の中の泥棒以外のあらゆる点を除去して、その人間を明確化するはらたきをする。彼を単純化するのである。ところで詩〔ポエジー〕は、彼の、泥棒という境涯への最も深い自覚にあるのだ。もちろん、泥棒以外のいかなる境涯の場合でも、その人間に名称を与えるほどに本質的になることができる自覚ならば、それもまた同様に詩であろう。しかし、いずれにしろ、わたしの独異性への自覚が、盗みという一つの非社会的活動によってよばれるということはよいことである。P358


ーーこの最後の引用文をどう読むかは、われわれの自由だが、男色癖は泥棒から派生したものであり、この時点でのジュネにとって「泥棒」というシニフィアンがいかに重要だったかが露さまに書かれているには相違ない。

上の引用のなかにジュネの優雅さをめぐる文がある、《たとえ彼らが、それが人に害悪を与えるということによってある行為を嫌悪すべきものであるとわたしに証明しうるとしても、ただわたしだけが、それがわたしの裡に湧きあがらせる歌によって、それが美しいかどうかを、それが優雅であるか否かを決定しうるのだ。ただわたしだけが、それを拒否、あるいは是認いするのだ。人は決してわたしを正道に連れ戻すことができないだろう。》

この「優雅さ」をめぐって、ジュネは重ねてこう書いている。おそらくジュネが『泥棒日記』にて、最も強調したかったこと、--少なくともその代表的なひとつだろう。

わたしは(……)、それが優雅であるかどうかが行為の価値を決める唯一の規準だといった。わたしが裏切り行為を選びとるということを確信しても、それは上の言葉と決して矛盾しない。裏切るということは、神経的な力と優美さとからなる、優雅な、美しい行為でありうるのだ。

才能とは、素材に対する礼譲にほかならなず、それは声なきものに歌を与えることなのである。わたしの才能は、刑務所や徒刑場の世界を構成するものに対してわたしが寄せる愛以外のものではないだろう。わたしは決してそれらのものを変化させること、それらをあなた方の人生にまでいたらせることを欲するのでもなく、また寛容や憐憫をもってそれらに対するのでもない、―――わたしは泥棒に、裏切り者に、殺人者に、邪悪な者、狡猾な者たちに、あなた方にはないと考える、深い美しさ―――落ち凹んだ美しさ―――を認めるのである。