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2014年9月14日日曜日

リベラルの『お説教』に付き合っている暇はありません

若い人の多くは、ハードな労働環境の下、政治や社会の問題について思考する気力も、その気力を支える社会に対する希望も奪われつつあります。問題を分析したり、社会を漠然と嘆いたりするだけの、リベラルの『お説教』に付き合っている暇はありません》

――悪かったな、オレはこのあたりの「身体」感覚がほとんどゼロだからな
1995年に日本を逃げ出してんだから

ってわけでバブル世代のおっちゃんの言うことなど真に受けなくてもいいんだよ



――現場で取材していると、「ケンポーをーまもーれー」みたいなやや間延びした年長世代のシュプレヒコールが、若者に引きずられてラップ調に変わっていきました。若い世代はなぜ動き出したのでしょうか。

 「意外かもしれませんが、たぶん保守的だからでしょう。私たちより若い世代は、高度経済成長も、多幸感にあふれたバブル期の日本社会も知りません。経済的な繁栄を再びと思ってないし、日本は没落したからはい上がるために抜本改革が必要だという年長世代の焦りもピンとこない。大事にしているのは、いまの日本社会にある自由であり平和であり多様性です。それを守りたい。そして何より素直です。かつての学生運動を知らないので、肩ひじを張らず、嫌なものは嫌だと普通の言葉ですんなり言える強みがあります」

 ――その一方で、若い世代の「右傾化」も指摘されます。

 「インターネットが普及し、人はインスタントな情報に刹那(せつな)的に反応するようになりました。良い悪いではなく、社会のインフラの変化です。集団的自衛権では、ふつうの中高生や大学生が、ツイッターで『戦争いやだ』『安部ふざけんな』とつぶやいていました。『安倍』の漢字がことごとく間違っているんだけど、そういう直感的な怒りを大事なものとして拾っていくことをリベラルの側は怠ってきました。そこは右派がうまかった。中韓が悪い、サヨクが悪いと言い続け、怒りや不満の感情をつかみ、拡大しました」

 「若い人の多くは、ハードな労働環境の下、政治や社会の問題について思考する気力も、その気力を支える社会に対する希望も奪われつつあります。問題を分析したり、社会を漠然と嘆いたりするだけの、リベラルの『お説教』に付き合っている暇はありません。私たちは広告的な発想も使って、正しい『指さし』で人々の感情をつかまえにいく。十分に巻き返せると思います」

それと《直感的な怒りを大事なものとして拾っていくことをリベラルの側は怠ってきました》とあるけれど、左翼は若者の心をつかむのが下手糞なんだろうよ


私が思うに、極右が力を得ている原因の一つは、左翼が今や直接に労働者階級に自らの参照点を置くことに消極的になっていることにある。左翼 は自らを労働者階級 として語ることにほとんど恥を抱いており、極右が民衆の側にあると主張することを許している!((ジジェク『資本主義の論理は自由の制限を導く2006)

………

「バブル世代のおっちゃん」と冒頭に書いたが、定義上はオレはもっと旧い世代のようだ。

バブル世代は、バブル景気(第11循環拡張期、1986<昭和61>11月から1991<平成3>2月)による売り手市場時(概ね1988<昭和63>から1992<平成4>頃)に新入社した世代で、とりわけその時期が大学卒業時と重なる1965年から1969年生まれを指す。短大・専門学校卒であれば1971年、高卒であれば1973年生まれまでが該当する。以前の「モーレツ社員」(団塊の世代)や、それ以降の「就職氷河期」世代などと比較されることがある。(WIKI)

だが、それより旧い世代、いやさらにオレよりやや上の年齢の者たちのことだが、このバブル期(1986から1991年)に住宅購入年齢だった(35歳前後としておこう)サラリーマンは、ひどい目に遭っている連中もたくさんいる(昔は週刊誌などによく書かれた話題だ)。


ひとつだけ例を出せば、90年前後、京都近郊に住宅を購入した友人というか先輩がいた、たしか5000万円超の一戸建てを頭金1500万ほど支払って。すなわち3500万円ほど銀行から借金をした。値上がりが激しいのではやく買っておかなくてはという「錯覚」に陥ったわけだ。すると数年後(ほとんど2年後ぐらいだったと思う)、不動産価格が暴落し始めた。5000万円の住居は、たちまち半額の2500万円程度になってしまった。ということはその当時、住居を売り払っても、まだ1000万円の借金とプラスアルファ利子が残っていることになる。こうなると茫然自失だね、バカらしくてやる気がなくなってしまったのも無理はない。その後、彼はどこかに消えてしまったが。


当時の感覚、すなわち上のインタヴューの高橋若木さんという方が《多幸感にあふれたバブル期の日本社会》とする感覚を、古井由吉は次のように表現している。


……物をまともに考えるには足もとが、底が抜けたような時代に入っていた。世間は未曾有の景気と言われ、余った金が土地などの投機に走り、その余沢からはずれたところにいたはずの自身も、後から思えば信じられないような額の賞与を手にすることがあった。ましてや有卦に入った会社に勤めて三十代のなかばにかかっていた夫は、当時の自分から見ても、罰あたりの年収を取っていた。

もう少しその前後を長く引用しておこう。


窓の下の人の足音に睡気の中を通り抜けられる間も、血のさわさわとめぐるのを感じていて、これは自分の内で年月が淀みなく流れはじめたしるしかしら、それなら年と取っていくのはすこしも苦しくない、と思ったりした。隣の部屋では自分から方針を定めて受験の準備にかかった娘が、起きているのか寝ているのか、ひっそりともしない。要求がましいことは言わないかわりに、家の内で日々に存在感を増していく。朝起きて来て母親の顔を見て、元気になったようねと言うので、そんなに落ちこんでいたとたずねると、いえ、ぜんぜん、と答える。あの子が生まれるまで、自分はどんなつもりで暮らしていたのだろう、と女は寝床の中から振り返って驚くことがあった。人よりは重い性格のつもりでも、何も考えていなかった。まだ三十まで何年かある若さだったということもあるけれど、物をまともに考えるには足もとが、底が抜けたような時代に入っていた。世間は未曾有の景気と言われ、余った金が土地などの投機に走り、その余沢からはずれたところにいたはずの自身も、後から思えば信じられないような額の賞与を手にすることがあった。ましてや有卦に入った会社に勤めて三十代のなかばにかかっていた夫は、当時の自分から見ても、罰あたりの年収を取っていた。

罰あたりという感覚はまだ身についてのこっていたのだ。世の中の豊かになっていくその谷間にはまったような家に育って、両親には早くに死に別れ、兄姉たちも散り散りになった境遇だけに、二十代のなかばにかかるまでは、周囲で浮き立つような人間を、上目づかいはしなかったけれど、額へ髪の垂れかかる感じからすると、物陰からのぞくようにしていた。その眼のなごりか、景気にあおられて仕事にも遊びにも忙しがる周囲の言動の端々から洩れる、投げやりのけだるさも見えていた。嫌悪さえ覚えていた。それなのに、その雰囲気の中からあらわれた、浮き立ったことでも、けだるさのまつわりつくことでも、その見本のような男を、どうして受け容れることになったのか。男女のことは盲目などと言われるけれど、そんな色恋のことでもなく、人のからだはいつか時代の雰囲気に染まってすっかり変わってしまうものらしい。自分の生い立ちのことも思わなくなった。
その頃には世の中の景気もとうに崩れて、夫の収入もだいぶしぼんで、先々のことを考えてきりつめた家計になっていた。どんな先のことを考えていたのだろうか、と後になって思ったものだ。会社を辞めることにした、と夫は年に一度は言い出す。娘の三つ四つの頃から幾度くりかえされたことか。なにか先の開けた商売を思いつくらしく、このまま停年まで勤めて手にするものはたかが知れているなどと言って、一緒に乗り出す仲間もいるようで、明日にでも準備にかかるような仔細らしい顔をしていたのが、やがて仲間のことをあれこれののしるようになり、そのうちにいっさい口にしなくなる。その黙んまりの時期に、家に居ればどこか半端な、貧乏ゆすりでもしそうな恰好で坐りこんでいたのが、夜中にもう眠っている妻の寝床にくる。声もかけずに呻くような息をもらして押し入ってくるので、外で人にひややかにされるそのかわりに家で求めるのだろう、とされるにまかせていると、よけいにせかせかと抱くからだから、妙なにおいが滴るようになる。自分も女のことだから、よそのなごりかと疑ったことはある。しかし同棲に入る前からの、覚えがだんだんに返って、怯えのにおいだったと気がついた。なにかむずかしいことに追いつめられるたびに、そうなった。世間への怯えを女の内へそそごうとしている。(古井由吉「枯木の林」) 

ここで、数カ月前のものだが、ある一連のツイートを掲げる。ツイッターで「お前らデモぐらい参加したらどうだい? 」というわたくしの挑発に乗ったわけではないだろうがーーわたくしはツイッターでは個人宛に、すなわち@にてつぶやかない基本方針にしているので、このツイートも直接彼宛てではないーー、「おっちゃん、デモいってきだよ」というたぐいのメンションを若く文才のある(楽才はそれ以上にある)24歳の青年からもらったことがあり(彼の仕事は文筆業でも音楽関係の仕事でもないようだが)、引き続き次の文章が書かれた。その文章の巧みさに舌を捲きつつも「不快だね」と応じてしまったことがある。

この日街頭に出た者どもは、政治から、国家から、そして社会から、この日もっとも遠い場処に居た者どもである。テレビに映ってみたいやつ、三度のメシよりデモが好きなやつ、騒動にまぎれラッパの練習してるやつ...この連中は、このバカどもは、政治に無関心な者よりも尚、遥かに政治に無縁である。

くそイケ好かねえ奴らが言う、「何やったって変わりゃしない」。しかし反体制運動は、群集による社会的スローガンを仮装した、個人による生きざまの問いである。汗にまみれて大声張り上げ、ぶざまな醜態さらけ出し、この街頭で我々バカが対決するのは権力ではなく自分自身、惨めなツラした昆虫である。

警官隊や公安の群を前にして現前する、決して抗い得ぬあの絶望の壁は、平和だの、反戦だの、団結だの、そんなすっとぼけたスローガンから我々個人を引っぺがし、怒りや矛盾や不条理の聲を我々自身に押し戻す。不可能の壁に於いて在る者は、どうにもならない無意味を前に、孤獨の平野につっ立たされる。

その瞬間、壁の前に立つ私自身は、政治から、国家から、そして社会から断絶された異邦人として、己自身に対峙するのだ。不可能と知って引き返す者、不条理に焼かれ地団太踏む者、無意味であろうとよじ登る者...俺はそいつに、そのヌリ壁に、飛び蹴り喰わせて走って逃げた。足が痛かった。それだけだ