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2014年4月6日日曜日

「見えざる手(Invisible Hand)」と「消費税」(岩井克人)

まず経済学に触れたことのある人なら、誰でもが知っているもっとも有名な文章、すなわち「経済学の父」の、「見えざる手(Invisible Hand)」をめぐる文章を掲げる。

通常、個人は、公共の利益を促進しようと意図しているわけでもないし、自分が社会の利益をどれだけ増進しているのかを知っているわけでもない。意図しているのは、自分自身の安全と利得だけである。だが、こうすることによって、かれは、見えざる手に導かれて、自分では意図してもいなかった目的を促進することになる。自分自身の利益を追求することによって、かれは実際にそうしようと思ったときよりもかえって有効に、社会の利益を促進することになる場合がしばしばある。(アダム・スミス『国富論』第四篇第二章)

アダム・スミスはこの文の後、《社会のためだと称して商売している連中が、社会の福祉を真に増進したというような話は、いまだかつて聞いたことがない》ともしている。経済学の知識がわずかでもあるひとたちは、1991年12月、ソ連の崩壊によって、誰もが「アダム・スミスの時代」になったことを、すくなくともその当時は実感したはずだ。

もっともその後、アジア金融危機や、ヘッジ・ファンドの一つLCTM失墜(FRBの元議長と二人のノーベル賞経済学者さえもが参加していた)、あるいはリーマン危機によって、「見えざる手」は働かず、予想の無限の連鎖、ケインズの美人コンテスト理論が実証されてしまったのをわれわれは知っている。すなわち個人の合理性の追求が社会全体の非合理性をうみだしてしまうという、社会現象に固有の「合理性のパラドックス」を。

理論の正しさは経験からは演繹できない。いや、経験から演繹できるような理論は、真の理論とはなりえない。真の理論とは日常の経験と対立し、世の常識を逆なでする。それだからこそ、それはそれまで見えなかった真理をひとびとの前に照らしだす。

アダム・スミスの「見えざる手」の理論ほど、日常の経験と対立し、世の常識を逆なでする理論もないだろう。われわれの日々の経験からいえば、善い人間とは、仲間との信頼関係を重んじ、他人のためを思いやる人間である。悪い人間とは、仲間や他人のことを考慮せず、じぶんの利益のみを追求する人間である。ところが、アダム・スミスはこの常識をひっくり返す。「社会のためだと称して商売している連中が、社会の福祉を真に増進したというような話は、いまだかつて聞いたことがない」。市場経済のなかではひとびとは「公共の利益を促進しようとする意図」する必要などない。ただ「自分自身の安全と利得だけ」を考えればよい。それにもかかわらず、いや、それだからこそ、「見えざる手に導かれて、自分では意図してもいなかった目的を促進することになる」というのである。

(……)理論の批判は、理論によってしか可能でない。そしてそれは、それまでの理論が「思考せずに済ませていたこと」を思考することによってのみ可能なのである。アダム・スミスの理論が思考せずに済ませていたこととは何か? それは、まさに「投機」の問題に他ならない。(……)

アダム・スミスの末裔たちは、投機について思考しながらも、投機について思考せずに済ませていた。すなわち、あくまで市場の「見えざる手」のたんなる延長として位置づけようとしてきたのである。

そのような投機理論の代表として、現代における自由主義思想のチャンピオンであるミルトン・フリードマンの投機理論がある。(岩井克人『二十一世紀の資本主義論』)

岩井克人はこのあと、フリードマン理論を批判し、次のように書くことになる、

真の理論とは日常の経験と対立し、世の常識を逆なでする。だが、日常経験と対立し、世の常識を逆なでするというその理論のはたらきが、真理を照らしだすよりも、真理をおおい隠しはじめるとき、それはその理論が、真の理論からドグマに転落したときである。そしてそのとき、その理論に内在していた盲点と限界とが同時に露呈されることになる。

ところで、アダム・スミス(Adam Smith1723 - 1790年)の同時代人ジャン=ジャック・ルソー(Jean-Jacques Rousseau, 1712 - 1778年)には「自己愛amour-de-soi利己愛 amour-propre」という概念がある。

素朴な情念はすべて直接にわれわれの幸福をめざしているので、それに関係のある目標しかわれわれをかかわらせず、自己愛amour-de-soiのみを原理としているので、本質的にまったく優しく穏やかなものなのです。しかし障害によって目標からそらされると素朴な情念は到達すべき目標よりも避けるべき障害のほうにかかずらって性質を変えてしまい、怒りっぽく憎しみに満ちた情念になる。まさにこのようにして、善なる絶対感情である自己愛amour-de-soiが、利己愛 amour-propre、すなわちたがいを比較させ選り好みさせる相対感情になるわけです。利己愛のもたらす喜びはただただ否定的なもので、利己愛はもはやわれわれ自身の幸福によってではなく、他人の不幸によってのみ満足させられるのです。(『ルソー、ジャン=ジャックを裁く--対話』)

この文を、アダム・スミスの「見えざる手」とそのまま結びつける愚をおかすつもりは毛頭ないがーー自己愛者が果たして優しく穏やかなものだろうか、これはルソーの私有財産制以前の社会の、孤立と自足の「自由人」の理想モデルに過ぎないーー、しかしながら、個人の《意図しているのは、自分自身の安全と利得だけである》とは、「自己愛amour-de-soi」者のことで、《社会のためだと称して商売している連中が、社会の福祉を真に増進したというような話は、いまだかつて聞いたことがない》における《社会のためだと称して商売している連中》は、利己愛 amour-propre」とすることができないでもない。

もっとも、《(個人が)意図しているのは、自分自身の安全と利得だけである》というとき、すでにその各個人のあいだは生れるまえから、既に社会的条件が違う。その条件とは、一言でいえば「私有財産」であり、《「幸福を追求し、私有財産をもつ権利」 とは、盗む(他人を搾取する)権利である》(ジジェク『ラカンはこう読め』)とするなら、搾取者と被搾取者、あるいは貧富の差の間隙は狭まるどころか、拡大するのが、「見えざる手」の原理の帰結のひとつであるといえる。なぜなら自由の旗印のもと、搾取者はいっそう搾取しようとする「合理的」行動をとるだろうから。

富というものはわれわれをつよくとらえる。われわれはこれを羨望し、かくして奴隷になってしまう。われわれが富をもつとなると、富はさらにいっそうよくわれわれをとらえる。それゆえ、われわれはなにかにつけかせぎたくなる。いいかえれば、より少なくあたえたり、より多く受けとったりしたくなる。そして、この盗みたいという魅力にわれわれが抗しうる徳、あるいは内なる力とは、すなわち正義である。警官や裁判官による強制的な正義ではなく、自由な正義、自己に対する正義、だれもこれについてはなにも知らぬということを前提としての正義である。ところで、この徳は不確実さによってわれわれを疲れさす。というのはわれわれは、自分が四方八方から盗まれているような気がするし、またしばしば自分が、みずから欲せずに、しかも万人にほめられながら、盗人になっているような気がするから。ふつうの人は自分の正義をあかすよりも、その勇気をあかすのにいっそう注意ぶかいと、私がいったのはこのゆえである。このことはつぎの逆説をいくぶん説明してくれる。すなわち、ひとは自分の金よりも自分の命のほうをいっそう無造作にあたえてしまうものだと。(アランの「四つの徳」

かつては「教育」が「私有財産」や「富」の差異を是正すると夢想されたこともあったが、いまでは既に高等教育の機会そのものも、養育者の私有財産の多寡によって限定されてしまっている。現在のイデオロギーは、弱肉強食の「自由主義」を、ある種の人間主資義的モラリズムによって彌縫することでしかないだろう。

(世界で支配的なイデオロギーの主流は)資本主義的な現実が矛盾をきたしたときに、それを根底から批判しないまま、ある種の人間主資義的モラリズムで彌縫する機能しか果たしていない。上からの計画というのは、つまり構成的理念というのは、もうありえないので、私的所有と自由競争にもとづいた市場に任すほかない。しかし、弱肉強食であまりむちゃくちゃになっても困るから、例えば社会民主主義で「セイフティ・ネット」を整えておかないといかないーーこのように資本主義的なシニシズムと新カント派的なモラリズムがペアになって、現在の支配的なイデオロギーを構成しているのではないかと思う(浅田彰 シンポジウム「『倫理21』と『可能なるコミュニズム』」2000.11.27)

《後はどうとでもなれ。これがすべての資本家と、資本主義国民の標語である。だから資本は、社会が対策を立て強制しないかぎり、労働者の健康と寿命のことなど何も考えていない。》(マルクス ツイッターbotより)


さて、少し前に戻って、ジジェクの言葉、《「幸福を追求し、私有財産をもつ権利」 とは、盗む(他人を搾取する)権利である》と引用したが、これは次のフロイトの言葉がベースになっているはずだ。

人間は、せいぜいのところ他人の攻撃を受けた場合に限って自衛本能が働く、他人の愛に餓えた柔和な動物なのではなく、人間が持って生まれた欲動にはずいぶん多量の攻撃本能も含まれていると言っていいということである。したがって、われわれにとって隣人は、たんにわれわれの助手や性的対象たりうる存在である ばかりでなく、われわれを誘惑して、自分の攻撃本能を満足させ、相手の労働力をただで利用し、相手を貶め・苦しめ・虐待し・殺害するようにさせる存在でもあるのだ。「人間は人間にとって狼である」(Homo homini lupus)といわれるが、人生および歴史においてあらゆる経験をしたあとでは、この格言を否定する勇気のある人はまずいないだろう。通例この残忍な攻撃本能は、挑発されるのを待ちうけているか、あるいは、もっと穏やかな方法でも手に入るような目的を持つある別の意図のために奉仕する。けれども、ふだんは阻止力として働いている反対の心理エネルギーが不在だというような有利な条件に恵まれると、この攻撃本能は、自発的にも表面にあらわれ、自分自身が属する種族の存続する意に介しない野獣としての人間の本性を暴露する。民族大移動、フン族――ジンギス・カーンおよびティームールにひきいられたモンゴル人――の侵入、信心深い十字軍戦士たちによるエルサレムの征服などに伴って起こった数々の残虐事件を、いや、さらに最近の世界大戦中」の身の毛もよだつ事件までを想起するならば、こういう考え方を正しいとする見方にたいし、一言半句でも抗弁できる人はあるまい。(フロイト『文化への不満』フロイト著作集3 469頁)

ラカンはこの文の一部の抜き出して、次のように語っている。

もし私が諸君にどこからこのテクストを抜き出してきたのかあらかじめ告げていなかったとしたら、これはサドのテクストだと言って通すこともできたかもしれない。(セミネールⅦ)

さあまたしても十八世紀人サド(1740 - 1814年)が現れた。アダム・スミスの言うように、経済学的には《意図しているのは、自分自身の安全と利得だけで》あったにしろ、社会的動物であるわれわれは、他人とかかわらなければならない。そのときなされるのは、

私はきみの体によって享楽する権利を有し、この権利を私は、私が堪能したいと思う気まぐれな濫用ぶりをいかなる限界によっても妨げられることなく、行使するだろう(ラカンによるサドの格率 エクリ 768-769)

これが攻撃欲動の抑圧を解かれた「自由主義」の実態であるに相違ない。

自分自身の心の中にも感ぜられ、他人も自分と同じく持っていると前提してさしつかえないこの攻撃本能の存在こそは、われわれと隣人の関係を阻害し、文化に大きな厄介をかける張本人だ。そもそもの初めから人間の心に巣喰っているこの人間相互の敵意のために、文化社会は不断の崩壊の危機に曝されている。本能的情熱は理性的打算より強力だから、労働共同体の利害など持ち出しても、文化社会を繋ぎとめておくことはできないだろう。人間の攻撃本能を規制し、その発現を心理的反動形成によって抑止するためには、文化はその総力を結集する必要がある。さればこそ文化は、人間を同一視や本来の目的を制止された愛情関係へと駆り立てるためのさまざまな方法を動因し、性生活に制限を加え、「隣人を自分自身のように愛せ」などという、本来をいえば人間の本性にこれほど背くものはないということを唯一の存在理由にしているあの理想的命令を持ち出すのだ、しかし、必死の努力にもかかわらず、これまでのところ文化は、この点大した成果はあげていない。犯罪人を力で抑える権利を自分に与えることによって文化は、血なまぐさい暴力が極端に横行することは防ぐことができると考えている。けれども、人間の攻撃本能がもっと巧妙隠微な形であらわれると、もはや法律の網にはひっかからない。われわれはすべて、若いころの自分が他人に託した期待が幻想だったとして捨て去る日を一度は経験し、他人の悪意のおかげでいかに自分の人生が厄介で苦しいものになるかを痛感するはずである。(470頁)

ところでフロイトは同じ『文化への不満』のなかで、「私有財産」をめぐっても語っている。

私有財産の廃止は有益かとか有利であるとかを検討する資格は私には無い。しかし私にも、共産主義体制の心理的前提がなんの根拠もない幻想であることを見抜くことはできる。私有財産制度を廃止すれば、人間の攻撃本能からその武器の一つを奪うことにはなる。それは、有力な武器にはちがいないが、一番有力な武器でないこともまた確かなのだ。私有財産がなくなったとしても、攻撃本能が自分の目的のために悪用する力とか勢力とかの相違はもとのままで、攻撃本能の本質そのものも変わっていない。攻撃本能は、私有財産によって生み出されたものではなく、私有財産などはまたごく貧弱だった原始時代すでにほとんど無制限の猛威を振るっていたのであって、私有財産がその原始的な肛門形態を放棄するかしないかに早くも幼児の心に現われ、人間同士のあらゆる親愛関係・愛情関係の基礎を形づくる。唯一の例外は、おそらく男の子に対する母親の関係だけだろう。物的な財産にたいする個人の権利を除去しても、性的関係についての特権は相変わらず残るわけで、この特権こそは、その他の点では平等な人間同士のあいだの一番強い嫉妬と一番激しい敵意の源泉にならざるをえないのである。(471頁)

この文には、次のような註が附されている、《自然は、すべての人間に不平等きわまる肉体的素質と精神的才能をあたえることによって種々の不正を行っており、これにたいしてはなんとも救済の方法が無いではないか。》

私有財産を排したら、平和で平等な社会が実現されるというのは疑わしい。

自由主義資本主義における成功あるいは失敗の「不合理性」の良い点は(市場は計り知れない運命の近代版だという古くからのモチーフを思い出そう)、そのおかげで私は自分の失敗(あるいは成功)を、「自分にふさわしくない」、偶然的なものだと見なせるということである。まさに資本主義の不正そのものが、資本主義のもっとも重要な特徴であり、これのおかげで、資本主義は大多数の人びとにとって許容できるものなのだ。(ジジェク『ラカンはこう読め!』)


仮に自分の低いポジションが「自分にふさわしい」ものだとしたらどうだろう。格差社会では起こらない「怨恨」が、格差のない社会では暴発するというのが、ジジェクやデュピュイ(日本では『ツナミの小形而上学』で著者として名が知れた)の考え方であり、「ヒエラルキー」の仕組みは、社会的下位者が、社会的上位者、特権者に屈辱感を抱かせないシステムとされる。(参照:不平等きわまる肉体的素質と精神的才能


…………

わたしたちは後戻りすることはできない。共同体的社会も社会主義国も、多くはすでに遠い過去のものとなった。ひとは歴史のなかで、自由なるものを知ってしまったのである。そして、いかに危険に満ちていようとも、ひとが自由をもとめ続けるかぎり、グローバル市場経済は必然である。自由とは、共同体による干渉も国家による命令もうけずに、みずからの目的を追求できることである。資本主義とは、まさにその自由を経済活動において行使することにほかならない。資本主義を抑圧することは、そのまま自由を抑圧することなのである。そして、資本主義が抑圧されていないかぎり、それはそれまで市場化されていなかった地域を市場化し、それまで分断されていた市場と市場とを統合していく運動をやめることはない。

二十一世紀という世紀において、わたしたちは、純粋なるがゆえに危機に満ちたグローバル市場経済のなかで生きていかざるをえない。そして、この「宿命」を認識しないかぎり、二十一世紀の危機にたいする処方箋も、二十一世紀の繁栄にむけての設計図も書くことは不可能である。(岩井克人『二十一世紀の資本主義論』)

ーー《ひとが自由をもとめ続けるかぎり、グローバル市場経済は必然である》とある。おそらくこれが現在に生きる大半のひとたちのコンセンサスなのだろう。だが、ここでジジェクの反対意見を挿入しておこう。


◆「スラヴォイ・ジジェク--資本主義の論理は自由の制限を導く
ーー二極化の世界にあっては、資本主義は「自由世界のショーウィンドウ」として自己宣伝し、そうした自由の約束によって魅力のあるものとなっていた。われわれは、平等を否定するだけでなく自由も砕きつぶしてしまうような資本主義へと向かっているのだろうか。

ジジェク:マルクスの資本主義批判は内在的なものだった。彼は、自由な領域を生み出した資本主義が、最終的にはその自由を保障しないというという事実を分析した今後、資本主義に内在するこの論理が自由を制限するほうへ自らを導くだろう。共産主義の終焉、そればかりでなく社会民主主義の終焉によって、消えていくのは、集団的行動によって歴史を変えることが可能だという考えだ。われわれは「宿命の支配する社会 société du destin」へと戻ってしまった。ここではグローバリゼーションが宿命とされる。それを拒否することはできようが、しかしそれを待つ代償は、排除だ。人類が集団的な約束によって生を変えられるのだという考えそのものが、潜在的に全体主義的なものとして非難される。「新しい強制収容所を作るつもりか!」という批判を受ける。私はといえば、綱領も、政策も、単純な「解決」も持たない。左翼はそれ独自の責任を持っている。哲学者として、私の倫理的・政治的義務は、解答を与えることにではなく、神秘化された問題を新しく定義しなおすこと、そして、アラン・バディウ Alain Badiou が「問題の現われる場所 site événementiel」と呼んだところのものを見つけることにある。それは、なんらかの可能性があるところ、何かがあらわれてくるための潜在的可能性のある場所だ。その意味では、私はヨーロッパに対しいかなるユートピア観も抱いていない。同じ一つのシステムの二つの面を象徴する合衆国と中国のつくる軸の外に位置しようという意欲がヨーロッパにはあるにしても。

今はこの対立見解の是非を問わない。ここでは岩井克人の著書を遡行して、だが名著『貨幣論』をすっとばし、岩井克人が三十代に書いた『ヴェニスの商人の資本論』からもうひとつ引用しよう。

資本主義ーーそれは、資本の無限の増殖をその目的とし、利潤のたえざる獲得を追及していく経済機構の別名である。利潤は差異から生まれる。利潤とは、ふたつの価値体系のあいだにある差異を資本が媒介することによって生み出されるものである。それは、すでに見たように、商業資本主義、産業資本主義、ポスト産業主義と、具体的にメカニズムには差異があっても、差異を媒介するというその基本原理にかんしては何の差異も存在しない。

しかし、利潤が差異から生まれるのならば、差異は利潤によって死んでいく。すなわち、利潤の存在は、遠隔地交易の規模を拡大し、商業資本主義の利潤の源泉である地域間の価格の差異を縮めてしまう。それは、産業資本の蓄積をうながして、その利潤の源泉である労働力と労働の生産物との価値の差異を縮めてしまう。それは、新技術の模倣をまねいて、革新的企業の利潤の源泉である現在の価格と未来の価格との差異を縮めてしまう。差異を媒介するとは、すなわち差異そのものを解消することなのである。資本主義とは、それゆえ、つねに新たな差異、新たな利潤の源泉としての差異を探し求めていかなければならない。それは、いわば永久運動的に運動せざるをえない、言葉の真の意味での「動態的」な経済機構にほかならない。(岩井克人『ヴェニスの商人の資本論』P59)


《新たな差異、新たな利潤の源泉としての差異を探し求めていかなければならない》のが資本主義の原理だとしても、たとえば二十一世紀は差異が見出しにくくなっている。


グローバリゼーションもインターネットも、言ってみれば、もはや『外部』はないという宣言です。岬を回りこんで新たな海域に出ようとしても、もはや既知なるものとしかめぐり遭えない。(松浦寿輝 古井由吉との対談『色と空のあわいで』(2007年))

さらには柄谷行人は次のようにさえ言う。
資本主義経済そのものが終わってしまう可能性がある。中国やインドの農村人口の比率が日本並みになったら、資本主義は終る。もちろん、自動的に終るのではない。その前に、資本も国家も何としてでも存続しようとするだろう。つまり、世界戦争の危機がある。(第四回長池講義 要綱

これは商業資本利潤の源泉である遠隔地との差異、あるいは産業資本主義の利潤の源泉である農村ー都市人口の差異の消滅を指摘している。さらに革新的企業の利潤の源泉である現在の価格と未来の価格との差異がインターネットの普及で危うくなっているのであれば、のこるは産業資本主義の利潤の源泉である《閉ざされた内部》における労働力と労働の生産物との価値の差異しかない。たとえば非正規雇用形態は、どんな法案を作ってそれを押し留めようとしても、抜け道を探って類似の雇用形態を取り、労働力の価格を引き下げようとするのが、資本(家)の論理である。

これがジジェクの云う、二十一世紀に入って、ベルリンの壁ならぬ新しい壁がいたるところに築かれつつあるという現象の大きな由来のひとつであろう、ーー、《新しい形態のアパルトヘイト=新しい〈壁〉とスラム》(ジジェク『はじめは悲劇として、二度めは笑劇として』)。

ところで、岩井克人は最近「消費税」をめぐって次のように発言している。

・消費税問題は、日本経済の形を決めるビジョンの問題。北欧型=高賃金、高福祉、高生産性か。英米型=低賃金、自助努力、労働者の生産性期待せずか。日本は岐路にある。

・日本のリベラルは増税と財政規模拡大に反対する。世界にない現象で不思議だ。高齢化という条件を選び取った財政拡大を。(「アベノミクスと日本経済の形を決めるビジョン」より)

これまで日本は、GDP比200%以上という巨額の債務残高にもかかわらず、長期金利がほとんど上がらなかった。その理由は、失われた20年で良い融資先を失った日本国内の金融機関が国債を保有していることもあるが、同時に「消費税率を上げる余地がある」と市場から見られていたことも大きい。社会保障を重視する欧州では20%を超える消費税が当たり前なのに、日本はわずか5%。いざ財政破綻の危機に瀕したら、いくら何でも日本政府は消費増税で対応すると考えられてきたのだ。

 消費増税は、もちろん短期的には消費に対してマイナスだろうが、法人税減税などと組み合わせれば、インパクトを最小限に抑えることができる。重要な点は、消費増税によって財政規律に対する信頼を回復させ、長期金利を抑制することだ。実際、消費増税の実施が決定的となった昨年9月には、長期金利は低下した。

現在、2015年に消費税率を10%に上げることの是非が議論されているが、私は毎年1兆円規模で肥大するといわれる社会保障費の問題を考えても、10%への増税は不可避であり、将来的にはそれでも足りないと思っている。むしろ、アベノミクスの成功に安心して10%への増税が見送りになったときこそ、長期金利が高騰し、景気の腰折れを招くことになるだろう。

このような議論をすると、「1997年に消費税を3%から5%へ引き上げたあと、日本経済は不況に陥ったのではないか」との反論が上がる。しかし当時の景気減退は、バブル崩壊後の不良債権処理が住専問題騒動で遅れ、日本が金融危機になったことが主因である。山一證券や北海道拓殖銀行の破綻は、小さな規模のリーマン・ショックだったのである。

また、「消費税は弱者に厳しい税だ」という声も多い。だが、消費額に応じて負担するという意味での公平性があり、富裕層も多い引退世代からも徴収するという意味で世代間の公平性もある。たしかに所得税は累進性をもつが、一方で、「トーゴーサン(10・5・3)」という言葉があるように、自営業者や農林水産業者などの所得の捕捉率が低いという問題も忘れてはいけない。(「剥き出しの市場原理と猖獗するネオナチ」より)

この見解に賛同するか否かは問わない。だが世界一の少子超高齢化社会で、極めて低い消費税率(あるいは国民負担率)のままでありえるのかーーいやそんなことはありえるはずがない、と私のようなシロウトは考えてしまうが、そうでない見解も経済学者のなかにはあるようだーーは、それぞれ、とくに日本のリベラルは、もう少し問うたほうがいいのではないか。わたくしは今のところ次のような見解を信頼したい。

@kazikeo: 私は「消費税引き上げの影響は存外に大きい可能性がある」という見方です(植田和男先生とたぶん同じ)。ただし、目先の景気と将来の負担との比較の問題で、目先の痛みは大きいとしても、それをしなかったときの将来の痛みはもっと大きいと考えています。(池尾和人)
消費税率10%への引き上げ見送りが、日銀の政策への最大のリスクになる(黒田東彦日銀総裁インタヴュー

あるいは田中康夫のような問い、《前から言ってるけど、人口構造も逆ピラミッド状態で、制度をいくらいじったって、年金制度が維持できる訳もない今、ベーシック・インカムのようなドラスティックな方法を取る必要があると改めて痛感するね》(「憂国呆談」)でもよい。それがないままで、目先の貧困者擁護などを口実に、いつまでも二十年来の反復である消費税反対の態度でよいのだろうか。むしろそれは、なしくずしに財政逼迫を促進し、困窮者の首をいっそう真綿で絞めることにならないのだろうか。


国民負担率の国際比較




日本の財政は、世界一の超高齢社会の運営をしていくにあたり、極めて低い国民負担率と潤沢な引退層向け社会保障給付という点で最大の問題を抱えてしまっている。つまり、困窮した現役層への移転支出や将来への投資ではなく、引退層への資金移転のために財政赤字が大きいという特徴を有している。(DIR30年プロジェクト「超高齢日本の30年展望」

上で岩井克人のミルトン・フリードマンの「投機」理論批判を紹介したが、たとえば消費税を十五%から二十%にするという前提で(ベーシックインカム制度の実現可能性やその効用が疑わしいとするならば)、フリードマンの「負の所得税」案を視野におけないものか。それは富裕層や引退層から困窮層への資金移転となりうるだろう。もっとも最近の経済理論にはまったく疎い者の云う「思いつき」の範囲を出ないのは重々承知しており、財源の試算もしていないが(「子育て世帯臨時特例給付金」制度は、それは「臨時」であり小粒でありながら、類似した試みなのではないか)。

負の所得税とは所得に関係なく一定の税率を一律にかけ、 基礎控除額を定めることでそれを上回った者から所得税を徴収し、下回った者は逆に所得に応じた負の所得税を払うものである。負の所得税とはすなわち政府からの給付金である。

基本税率 40 パーセント、基礎控除額が年収 200 万円だとすると 年収 1000 万円の者は基礎控除額を超過している 800 万円が課税対象となり 40 パーセントの 320 万円を所得税として支払う。
年収 200 万円の者は基礎控除額を上回りも下回りもしないため所得税を支払わない。

年収 100 万円の者は基礎控除額 200 万円を 100 万円下回るためマイナス 100 万円が課税対象となり、40 パーセントのマイナス 40 万円を支払う。つまり政府から 40 万円を受け取る。この 40 万円が負の所得税である。

つまりまったく収入が無い者はマイナス 200 万円の 40 パーセントである 80 万円を受け取ることになり、これが最低レベルの所得の者に支払われる生活保護額となる。(「再分配方法としての負の所得税」ネット上PDFよりーー「民主主義の始まり」より)

ーーここで例に挙げられている数字は、いささか富裕層の所得への過剰な課税であるだろう。それをもうすこし抑制し、その代わりの消費税増という考え方である。

もっとも、上に引用したDIR30年プロジェクト「超高齢日本の30年展望」では、ベーシックインカムや負の所得税とは関係なしに、財政再建と社会保障費維持のための、楽観的なシナリオとして消費税25%案が示されている。

しかも、ここで消費税率25%とは、かなり控えめにみた税率である。①医療や介護の物価は一般物価よりも上昇率が高いこと、②医療の高度化によって医療需要は実質的に拡大するトレンドを持つこと、③介護サービスの供給不足を解消するために介護報酬の引上げが求められる可能性が高いこと、④高い消費税率になれば軽減税率が導入される可能性があること、⑤社会保険料の増嵩を少しでも避けるために財源を保険料から税にシフトさせる公算が大きいこと――などの諸点を考慮すると、消費税率は早い段階でゆうに30%を超えることになるだろう。

このプロジェクトを取り仕切った元財務次官、日銀副総裁の武藤敏郎氏のインタヴュー記事でも、消費税20%が語られている→ 「2013年9月12日 「中福祉・中負担は幻想」 武藤敏郎氏

…………


最後に、上の文脈からはすこし毛色の異なる中井久夫の文章を引用しておこう。

中井久夫によれば、精神医学史家であると同時に犯罪学者でもあるエランベルジェ(エレンベルガー)は、犯罪学と医学が科学でない理由として、疾患の研究、犯罪の研究からは「疾患は治療すべきであり、犯罪は防止すべきであるということが理論的に出てこない」ことを強調している。すなわち、彼によれば、犯罪学と医学は「科学プラス倫理」である、と。

だが中井久夫はこの文に引き続き、医学はまず倫理的なものであるが、それでは不十分だ、とする(「医学・精神医学・精神療法は科学か」『徴候・記憶・外傷』所収)。

少なくとも、もう一点で、医学は科学と相違する。それは、囲碁や将棋が数学化できるかどうかという問題と本質的に同じである。囲碁や将棋は数学化できない。それは、科学とちがって徹底的に対象化することのできない「相手」があるからである。「対象」ではなく「相手」である。わかりやすいために、殺伐な話だが戦争術を考えてみるとよい。実験的法則科学はいつも成立しなければならないが、「必ず勝てる」軍事学はない。もしできれば、人間に理性がある限り、戦争は起こらない。それでも起これば、それは心理学か犯罪学という「綜合知」の対象である。経済学でもよい。インフレやデフレなどの経済学的不都合を絶対に克服する学ではなく、その確実な予測の学でさえない。これらが向かい合うものは「相手」である。科学は向かい合うものを徹底的に対象化する。そしてほどんどつねに成り立つ「再現性のある」定式の集合である。対象化と再現性は表裏一体である。すなわち、「相手」が予想外に動きをしては困るのである。ところが、囲碁や将棋や戦争術は相手の予想外に出ようとする主体間の術である。なるほど、経済学は、常に最大利益を得ようとして行動する「経済人(ホモ・エコノミクス)」というものを仮定しているが、これは人工的な対象化であって、経済学が経済の実態の予測を困難にしている一因である。それは、経済学の対象すなわち経済行動を行う人間の持つ、利益追求の欲望以外の心理学的要素の大きさを重々自覚しながら、これを数理化できないために排除しているからである。つまり、科学的であろうとする努力が経済学をかえって現実から遠ざけてきた。現在、むき出しの「市場原理」が復権をとげている。「市場原理」ならばローマ時代、いや太古からあった。(186頁)