このブログを検索

2014年9月29日月曜日

何もしないことのエクスキューズ

またなんたら言ってくるヤツがいるがね
コメントもらったら、一応は読んでみることはするよ、オレは
返事するかどうかは気分しだいさ

コメント欄など閉じたらいいようなもんだが、
設定変更ができなくてね

このブログアカウント、何度もパスワードを換えてください、
という警告があって、それに従って何度も換えたんだが、
そうしたら最後に換えたパスワードを失念してしまったのだな
予備携帯連絡にも応答がなくて、たぶん電話番号も間違えて入力したんだろうが。

いずれにせよオレに反論しても致し方ないぜ
野間易通、ツイッターやってんだから直接文句入れたらいいだろ?


…………

@kdxn: 「正義感」というのは、たとえば痴漢にあってる女の人を見たら痴漢を捕まえるとか、無理なら車掌や警察に通報するとか、そういうときの感覚を言う。そう考えると、疑うべき「正義」と疑いのない「正義」があるとわかるはずなのに、「正義感は目を曇らせる」とか言ってるやつはそのへんが雑い。

まあ、この主張からすると、オレは「正義」の人じゃないがね。
痴漢やいじめは何度か見過してきているからな
というかそれが皆さん同様、オレの「常態」さ


池で溺れている少年、あるいはいじめられようとしている少女を目撃した場合に、見て見ぬふりをして立ち去るか、敢えて救助に向かうかの決定が紙一重となる瞬間がある。この瞬間にどちらかを選択した場合に、その後の行動は、別の選択の際にありえた場合と、それこそハサミ状に拡大してゆく。卑怯と勇気とはしばしば紙一重に接近する。私は孟子の「惻隠〔みてしのびざる〕の情」と自己保存の計算との絞め木にかけられる。一般に私は、救助に向かうのは最後までやりとおす決意とその現実的な裏付けとが私にある場合であるとしてきた。(中井久夫「卑怯と勇気とはしばしば紙一重」)

一度、見過してしまうと、こうなっちまうんだろうな、ハサミ状の拡大さ。

それは、《半分は、ふだんの構えによって決まるが、半分は、いったん一つの構えを取ると、それを取りつづける傾向が強い。》

古人は四つの徳をおしえた。すなわち、彼らは自己把持の四つの敵をみとめていたということだ。もっともおそるべき敵は恐怖である。というのは、恐怖は行動も思想もゆがめてしまうから。それゆえ、勇気こそ徳の第一の面、もっとも尊敬される面となる。もし正義がつねに勇気の相のもとにあらわれるならば、正義はなお大きいものとなろう。(アラン『四つの徳』

ーーこれはプラトンの『国家』起源の話だがね
「チョークの粉がつくる雲の中で教師然としているアラン」(ラカン)
の引用でいまは胡麻化しておくよ

ここでオレの悪い癖で、
マキャベリ=ニーチェの「徳」なんてことは言わないでおくよ
ーーいや、すこしだけ言わざるをえないな

マキャベリの「運ファルトゥナfortuna/力(ヴィルトゥVirtù)」
におけるヴィルトゥ(気概+正義)

「正義」とは実は気概に大きくかかわるもので、
野間易通の「正義」は、「ヴィルトゥ」や「徳」と「翻訳」したいところだな。
すなわち《有能性(ルネッサンス式の徳、Virtù 道徳に拘束されない徳)》(ニーチェ)


野間易通は「ヘイトスピーチ」への「カウンター」をめぐる文脈で
あのようにツイートしているはずだが、
そしていくら在特会に罵倒を駆使しても「オレは正しい」。
安倍死ね! といっても「オレは正しい」、と。

一般に「正義われにあり」とか「自分こそ」という気がするときは、一歩下がって考えなお してみてからでも遅くない。そういうときは視野の幅が狭くなっていることが多い。(中井久夫)

そして、中井久夫のいう入念な自己吟味を搔い潜ったあとの
男の言葉だと「錯覚」に閉じこもり得るのさ、オレには。


要するに次の図が彼の主張を的確に表わしているんだな



「旧「レイシストをしばき隊」<首謀者>野間易通」より


これは罵倒でも「相互性」があるかどうかを指摘しているんだよ

いじめといじめでないものとの間にはっきり一線を引いておく必要がある。冗談やからかいやふざけやたわむれが一切いじめなのではない。いじめでないかどうかを見分けるもっとも簡単な基準は、そこに相互性があるかどうかである。鬼ごっこを取り上げてみよう。鬼がジャンケンか何かのルールに従って交替するのが普通の鬼ごっこである。もし鬼が誰それと最初から決められていれば、それはいじめである。荷物を持ち合うにも、使い走りでさえも、相互性があればよく、なければいじめである。

鬼ごっこでは、いじめ型になると面白くなるくるはずだが、その代わり増大するのは一部の者にとっては権力感である。多数の者にとっては犠牲者にならなくてやかったという安心感である。多くの者は権力側につくことのよさをそこで学ぶ。(中井久夫「いじめの政治学」ーーマジョリティの「選択的非注意」

で、野間易通は次のように言ってんだから、貴君は貴君なりになんたらの「正義論」--きみのはロールズじゃなくて、ローティらしいがーー言及しないで、まずは文句いったらいいじゃないか

@kdxn: ルソーだのロールズだのカントだのを持ちだして語るのが正義論で、日常の人間心理のしょーもない話はそれとは別、みたいに考えてるから、明らかな不正義を目の前にしても固まって終わりなんだよ。正義が観念の中にしか存在してないんだよね。

まあローティを持ち出したかったら持ち出したらいいさ、
リベラル・アイロニストってやつだろ
だいたいオレはローティなんて知らないからな
ただジジェクや浅田彰のボロクソ批判を知ってるだけさ
《ローティ流のプラグマティズムが、いまもっとも支配的な哲学――というか反哲学》(浅田彰)

ローティにとって、リベラルとは「残酷さこそ私たちがなしうる最悪のことだと考える人びと」のことである。また、アイロニストとは、自分にとって重要な信念や欲求が、時間と偶然の範囲を超えた何ものか、つまり〈真理〉に関連しているのだという考えを捨て去る人のことである。(寛容・普遍性・肯定―「正義論」の脱構築―稲田真人)

ーーってことらしいな
「残酷さこそ私たちがなしうる最悪のことだと考える人びと」だったら
死ね! っていったらダメなんだろ、どんな場合もな

オレはこっちのほうが好みなだけさ

なにひとつまっとうな人間としてものを考えようとしないやつらは、生きてても目ざわりになるから首でもくくって死ね、そうすれば皮でもはいで肉を犬にでもくれてやる、と思った……(中上健次『鳥のように獣のように』)

というわけで、オレに反論するなよな
オレは次のようなことを語る野間易通に「惚れ惚れ」してしまっただけさ
一応は、デモの猥雑な補充物としての「享楽」もおさえつつの
「惚れ惚れ」のつもりだがね

野間易通は運動の「中心者」になることをしきりに避けてようとしている、
「議論しないこと」と「ほっとく」能力という主張から
権力の中心となることを避けようとしていると読めるからな

would it not the true task be precisely to get rid of the very mystique of the PLACE of power? The Parallax of the Critique of Political Economy


反ヘイト集団“しばき隊”は正義なのか? 首謀者・野間易通に直撃!

しばき隊に対する批判的言説への反論は、マスコミ以外にも向けられる。一部の「左翼」 勢力もまた、野間たちに対して「いちゃもんをつけてくる」という。いわく、「ポストモダン、ポ ストコロニアリズムの泥沼のなかで何が正しいのか分からなくなった人たち」。

「彼らはなんでも必要以上に相対的に見る癖がついている。『断罪している我々のほうに も問題があるのだ』みたいなことを言いたがる。ヘイトスピーチ規制法をどうするのか、とい うことに対するマスメディアや知識人の反応も近いものがある。ようは、何もしないことのエクスキューズでしょう。俺は朝日新聞に対して『自分たちのほうに正義がある』とはっきり言 った。ヘイトスピーチ対カウンターというのは“正義と正義のぶつかり合い”ではない。この 問題をそういうふうに捉える時点であなたたちは間違ってますよ。追及しているわけでもな んでもなく、たんに無難なコメントを出しているにすぎない」 見せかけの公平さを装うことは、たしかに「無難」かもしれない。だが、それが報道の精神 ではないのか。

「いや、それは思考停止。判断をしていない。報道は公正であるべきで、“見せかけの公 平さ”なんてものに意味はない。マイノリティを攻撃して差別し、排除しようとする在特会を 叩くことこそが、社会的に見て“公正”であり公平さを重視した態度にきまっているでしょう。 しかし彼らを叩くと、自分たちに攻撃の矛先が向く。それが面倒だからやらないだけでしょ。だから、一応公平に書きましたよ、みたいな形式をとる。これによってなにが起きるか。そ れは、議論の当事者になることの放棄です。マスコミは“議論すべきだ”と言うが、自身は その議論に参加ないわけ。そのうえに公正なジャッジすらできない」

野間はこれまでずっと、「冷笑主義者」の「どっちもどっち論者」と戦ってきたと語る。彼ら は「自分をリベラルだと思って」おり、「正義と言っている側にもじつは不正義があるのだ」と いう話を好む。たしかに、思い当たる節がないわけではない。だがそれでも、ひとつの立 場を絶対的な正義と位置づけることが危険性を孕むのは、歴史的に明らかだ。

「そらそうかもしらんけどさ。今、『正義のなかにも不正義がある』と言うのがそんなに重要で すか? あれだけひどいレイシズムが蔓延しているなかで、それを正そうとする人たちだっ て聖人君子ではない。ポリティカリー・インコレクトな場合もあるでしょう。レイシズムの方が 不正義としては断然問題が大きいのに、『ニューズウィーク』の深田のように『正義の中に も不正義が…』ってことばかり言いたがるのって、単なるサボりでしょ。何がいちばんの問 題か。それをちゃんと共有していこうよ。賢くない人であればあるほど、ちゃんとそれができ るわけです。ヘイトスピーチはおかしいと分かる。自分はちょっと賢いぞ、と思ってるような、 でも実際にはアホなやつらが、いろいろとこねくり回して『本当の正義などないのだ』みた いな、クソくだらない結論に至って悦に入る。安い理屈で価値の相対化をする前に、もっと 普通に考えろよということです」

野間によれば、この「価値の相対化」こそが、在特会的なるものを生み出す背景になっ ているという。

「在特会自体も、そういう価値相対主義の上でなりたっている。〈「反差別」という差別が暴 走する〉を書いた深田政彦みたいなやつはレイシストだとは言わないが、そうした価値観 の混乱こそが今の日本のレイシズムの温床であり、本体でもあるんだよね。ようするに、ポ ストモダンの失敗例なんです」

ーーで、わかるだろうな
きみだけではなく、この記事自体が
「何もしないことのエクスキューズ」であることが。

ただオレの言いたいのは、何かをしかかっている若者を
何もしないように誘う言葉だけはやめとけよ、ということだけさ


行為とは、不可能なことをなす身振りであるだけでなく、可能と思われるものの座標軸そのものを変えてしまう、社会的現実への介入でもあるのだ。行為は善を超えているだけではない。何が善であるのか定義し直すものでもあるのだ。(ジジェク「メランコリーと行為」『批評空間』2001 Ⅲ―1所収ーー「なんでおまえらえらそうに言うわりになんの役にも立たないの?」)

ーーとだけ引用するのはマズイかな
肝要なのは、入念な自己吟味を搔い潜ったあとの「行為」だからな

人は何かを変えるために行動するだけでなく、何かが起きるのを阻止するために、つまり何ひとつ変わらないようにするために、行動することもある。これが強迫神経症者の典型的な戦略である。現実界的なことが起きるのを阻止するために、彼は狂ったように能動的になる。たとえばある集団の内部でなんらかの緊張が爆発しそうなとき、強迫神経症者はひっきりなしにしゃべり続ける。そうしないと、気まずい沈黙が支配し、みんながあからさまに緊張に立ち向かってしまうと思うからだ。(……)

今日の進歩的な政治の多くにおいてすら、危険なのは受動性ではなく似非能動性、すなわち能動的に参加しなければならないという強迫感である。人びとは何にでも口を出し、「何かをする」ことに努め、学者たちは無意味な討論に参加する。本当に難しいのは一歩下がって身を引くことである。権力者たちはしばしば沈黙よりも危険な参加をより好む。われわれを対話に引き込み、われわれの不吉な受動性を壊すために。何も変化しないようにするために、われわれは四六時中能動的でいる。このような相互受動的な状態に対する、真の批判への第一歩は、受動性の中に引き篭もり、参加を拒否することだ。この最初の一歩が、真の能動性への、すなわち状況の座標を実際に変化させる行為への道を切り開く。(ジジェク『ラカンはこう読め!』P54)