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2014年5月31日土曜日

「題をつけるなんて俗物根性だな」

ああわかってるよ
わざと標題ずらしてんだよ
ドンピシャの標題にしたら
辞書かウィキでもみるように
ろくでもない連中が掠め読むだけだからな
それなら読まれないほうがましさ
プレゼン世代や新自由主義に抵抗する
ってのはそういうことじゃないかい?


題なんかどうだっていいよ
詩に題をつけるなんて俗物根性だな
ぼくはもちろん俗物だけど
今は題をつける暇なんかないよ

題をつけるならすべてとつけるさ
でなけりゃこんなところだ今のところとか
庭につづじが咲いてやがってね
これは考えなしに満開だからきれいなのさ
だからってつつじって題もないだろう

つつじのこと書いてても
頭にゃ他の事が浮かんでくるよ
ひどい日本語がいっぱいさ
つつじだけ無関係ならいいんだけど

魂はひとつっきりなんでね

ーー谷川俊太郎 「夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった」

五月卅一日 黒服の婦人の娘のような流し目

木曜日 十一時半

私は読書室で二時間仕事をした。それから、パイプを燻らすために抵当権登記所の中庭に降りた。そこは薔薇いろの煉瓦で舗装された広場であって、十八世紀に落成し、いまはプーヴィル市民の誇りとなっている。シャマード街とシェスペダール街との入口には、古い鎖が車の出入を遮っている。犬を散歩させにきた黒服の婦人たちが、壁に沿ってアーケードの下を通って行く。彼女たちは陽当りのよい場所には滅多に行かないが、娘のような流し目をこっそりと満足げに、ギュスターヴ・アントベトラーの銅像に注ぐ。彼女たちがこのブロンズの巨人の名を知っているはずはないが、フロックコートとシルクハットとによって、この男が上流階級に属していただれかであることを悟るのである。銅像は左手に帽子を持ち、右手を二つ折判の本の山の上に置いている。自分たちのおじいさんが、青銅で鋳造されて、この台の上に立っているかのような感じがいくらかする。あらゆる問題について、彼が自分たちと同じように、ほとんど同じように考えていることを知るために、長い間銅像を眺める必要はない。彼の権威と、彼が重い手で押し潰している二つ折判のたくさんの本の中から汲みとられた絶大な博識とが、彼女たちの狭くて堅実な、取るに足りぬ意見の助けになるのだ。黒服の婦人たちはほっとするのを感じる。心安らかに家事にいそしみ、犬を散歩させることができる。彼女たちが父から受けついだ神聖な考えや思いつきを、守護する責任はもはやない。代りに青銅の男が番人になっているのだから。(サルトル『嘔吐』白井浩司訳 p47-48)


自分たちのおじいさんのような銅像に、黒服の婦人たちは娘のような流し目を送る。それだけで、ほっとするのを感じる。そうすれば、《彼女たちが父から受けついだ神聖な考えや思いつきを、守護する責任はもはやない》。祖先伝来の厳格なモラルは、青銅の男の番人が代って守ってくれる。

ここには「礼儀」の効用がある。信じたふりをする効用がある。それはなにも跪く必要はない。娘のような流し目だけでよい。「おじいさん、分かってるわ、覚えているわよ、あなたの言いつけ」、――こうしておけば、その後、すこし羽目を外しても大丈夫なのだ。われわれも同じく。正月に神社にお参りにしたり、神棚をちらっと横目で見たり、仏壇の線香の香りに束の間うっとりするだけでよい。いや手を合わせて祈ったら、もっと効果がある。さあ、そうすれば、急いだってかまわない、夜の街へ(男を騙しに)。





《自分の信仰を大事にするのではなく、信仰が侵入してくるのを追い払い、一息つくスペースを確保するために跪くのだとしたらどうだろう。信じる--媒介なしに直接に信じる--という苦しい重荷を、儀式を実践することによって誰か他人に押しつけてしまえばいいのだ。(結婚…愛がなくても結婚的生活によって愛が生まれる・・・ではなく、相手を愛しすぎないように儀式化するために結婚する)


以下、上のジジェクの文の前後を、もう少し長く抜き出しておこう。

どうやらわれわれがここで論じているのは、ずっと昔にブレーズ・パスカルが描き出した現象のようだ。パスカルは、信仰を持ちたいのに信仰への飛躍がどうしてもできない非信者への助言の中で、こう述べている。「跪いて祈り、信じているかのように行動しなさい。そうすれば信仰は自然にやってくるだろう」。あるいは、現代の「断酒会」はもっと簡潔にこう言っている。「できるふりをしろ。できるようになるまで」。しかし今日、文化的ライフスタイルへの忠誠心から、われわれはパスカルの論理を逆転する。「あなたは自分が本気すぎる、信じすぎると思うのですね。自分の信心が生々しく直接的すぎるために息苦しいのですね。それならば跪いて、信じているかのように行動しなさい。そうすれば信仰を追い払うことができるでしょう。もはや自分で信じる必要はないのです。あなたの信仰は祈りの行為へと対象化されたからです」。つまり、自分の信仰を大事にするのではなく、信仰が侵入してくるのを追い払い、一息つくスペースを確保するために跪くのだとしたらどうだろう。信じる--媒介なしに直接に信じる--という苦しい重荷を、儀式を実践することによって誰か他人に押しつけてしまえばいいのだ。(結婚…愛がなくても結婚的生活によって愛が生まれる・・・ではなく、相手を愛しすぎないように儀式化するために結婚する)

 ここから、われわれは象徴的秩序の次なる特徴、すなわちその非心理的な性質へと向かうことになる。私が他人を通じて信じる時、あるいは自分の信仰を儀式へと外在化し、その儀式に機械的に従うとき、あるいはあらかじめ録音された笑いを通じて笑うとき、あるいは泣き女を媒介して喪の仕事をおこなうとき、私は内的な感情や信仰に関わる仕事を、それらの内的な状態を動員することなく、やり遂げている。そこに、われわれが「礼儀」と呼ぶものの謎に満ちた状態がある。私は知人に会うと、手を差し出し、「やあ(会えてうれしいよ)、元気?」と言う。私が本気で言っているのではないことは、両者とも了解している(もしその知人の心に「この人は私に本当に関心を持っているのだろうか」という疑念が芽生えたら、その人は不安になるだろう。彼の個人的なことに首を突っ込もうとしているのではないか、と。古いフロイト的なジョークを言い換えるとこうなる。「どうして会えてうれしいなんて言うんだ? 会えてうれしいと本気で思っているくせに」)。ただし、私の行為を偽善的と呼ぶのは誤りだ。別の見方をすれば、私は本当にそう思っているのだから。礼儀正しい挨拶は、われわれ二人の間にある一種の契約を更新しているのだ。同様に、私はあらかじめ録音された笑いを通じて「本気で」笑っているのである(それが証拠に、私は実際に気分が楽になる)。(ジジェク『ラカンはこう読め』




《結婚…愛がなくても結婚的生活によって愛が生まれる・・・ではなく、相手を愛しすぎないように儀式化するために結婚する》については、ジジェクには種々の変奏がある。


ここでは最近の書『LESS THAN NOTHING』(2012)から、ひとつだけ抜き出しておこう。

ラカン派の用語では、結婚は、対象(パートナー)から“彼(彼女)のなかにあって彼(彼女)自身以上のもの”、すなわち対象a(欲望の原因―対象)を消し去ることだ。結婚はパートナーをごくふつうの対象にしてしまう。ロマンティックな恋愛に引き続いた結婚の教訓とは次のようなことである。――あなたはあのひとを熱烈に愛しているのですか? それなら結婚してみなさい、そして彼(彼女)の毎日の生活を見てみましょう、彼(彼女)の下品な癖やら陋劣さ、汚れた下着、いびき等々。結婚の機能とは、性を卑俗化することであり、情熱を拭い去りセックスを退屈な義務にすることである。(私訳)

逆に言えば、「犬のお尻にほれてしまえば、 犬のお尻もばらの花」(プルースト)。

ジジェクの文の<対象a>が結婚によってなくなってしまうとあるが、対象aとはかくの如し。

永遠に退屈な女性的な質問、「どうしてあなたは私のことが好きなの」という質問を例にとって考えてみよう。本当の恋愛においては、この質問に答えることはもちろん不可能である(だからこそ女性はこの質問をするのだが)。つまり、唯一の適切な答えは次の通りである。「なぜなら、きみの中にはきみ以上の何か、不確定のXがあって、それがぼくを惹きつけるんだ。でも、それをなにかポジティヴな特質に固定することはできない」。いいかえれば、もしその質問にたいしてポジティヴな属性のカタログによって答えたなら(「きみのおっぱいの形や、笑い方が好きだからだ」)、せいぜいのところ、本来の恋愛そのものの滑稽なイミテーションにすぎなくなってしまう。(ジジェク『斜めから見る』P194)

もっともさきほど私訳した『LESS THAN NOTHING』の文のあと、しばらくして次のような文がある。

結婚とは崇高化が理想化のあとに生き残るかどうかの真のテストの鍵となるものだったらどうだろう? 盲目的な愛では、パートナーは崇高化されるわけではない。彼(彼女)はただ単純に理想化されるだけだ。結婚生活はパートナーをまちがいなく非―理想化する。だがかならずしも非―崇高化するわけではない。(ジジェク『LESS THAN NOTHING』)

理想化と崇高化? 理想化と崇高化を混同してはならない。


誤った崇拝は理想化をうむ。それは他者の弱さを見えなくする──あるいは、それはむしろ、自己のいだく幻影を投影するスクリーンとして他者を利用し、他者そのものを見えなくする。(ジジェク『信じるということ』)

二流詩人や小説家の「理想化」に耽溺するのには注意しなければならない(場合によっては、一流詩人・作家でさえ)。

宮廷恋愛を考えるにあたってまず避けるべき落とし穴は、<貴婦人>を崇高な対象とする誤った見方である。そんなことを言えば通例、生々しい性的な欲情が浄化されて精神的な思慕へと高められるというプロセスのことが考えられる。かくて<貴婦人>は、ダンテのベアトリーチェのようにより高い次元の宗教的エクスタシーへと人を導く神聖なものだととらえられるのだ。

こうした考え方とは反対に、ラカンは、このような浄化作用に反するような特徴をいくつも指摘している。たしかに、宮廷恋愛における<貴婦人>は、具体的な特徴は一切持たず、ただ抽象的な<理想>として崇められる。そのため、「詩人たちはみな同一人物を称えているようだという点に作家らは着目した。……これらの詩の世界における対象の女性からは、現実的な実体は一切うかがわれない」となるのだ。しかし、<貴婦人>のこうした抽象的な性質は、精神的な純化とは何ら関係はない。むしろこの性質は、冷淡で隔たりのある非人称的な相手にありがちな性質に近い。
つまり、<貴婦人>は、暖かく思いやりがあり人の気持を察するような、われわれ人間の同類などでは絶対にありえない。(……)

したがって、騎士と<貴婦人>の関係は、臣下-隷属者である家臣と、無意味でとてつもない、とうていできそうにないような、勝手で気まぐれな試練を課してくる<封建的主人-支配者>の関係である。

ラカンはまさに、こうした試練が崇高とはおおよそかけ離れていることをはっきりさせようと、<貴婦人>が家臣に文字通り尻の穴をなめるよう命令する詩を引用している。詩人は、その場所で待ち受けていた悪臭に対してぐちをこぼし(中世の人々が恐ろしい衛生状態にあったことはよくご存じだろう)、こうやって務めを果たしている最中に尿を顔にひっかけられるかもしれないという危険をひしひしと感じる……。
これほどさように、<貴婦人>は浄化された神聖なものとはほど遠い。(ジジェク『快楽の転移』)

これらはジジェク独特の極端な例でありーー極端だから愉快になるのだがーー、実際のところは結婚生活では、ほとんどの場合理想化も崇高化も生き残らず、友達化やら母親化などがせいぜいのところだろう。

と書いたところで、また愉快な極端さをもったジジェクの文を想い起こす、《いっしょに暮している女は<女>ではない、結婚生活の平和はつねに脅かされている》。こうして男たちは結婚後も「もう一人の女the Other Woman」を探し求める(参照:ジジェクの愛の定義)。

ーーなどとジジェクばかり引用せずにも、わが野坂昭如の言葉がある。

「男どもはな、別にどうにもこうにもたまらんようになって浮気しはるんとちゃうんや。みんな女房をもっとる、そやけど女房では果たしえん夢、せつない願いを胸に秘めて、もっとちがう女、これが女やという女を求めはんのや。実際にはそんな女、この世にいてへん。いてえへんが、いてるような錯覚を与えたるのがわいらの義務ちゅうもんや。この誇りを忘れたらあかん、金ももうけさせてもらうが、えげつない真似もするけんど。目的は男の救済にあるねん、これがエロ事師の道、エロ道とでもいうかなあ。」(野坂昭如『エロ事師たち』)



ーー実は、昨晩Tumblrを眺めていてこの写真に行き当たり、しばらく茫然としていたのだよな。ああ、失われたもの。日本にノスタルジイを覚えるのはそんなに多くはないけど、これだけは紛れもない喪失感だ。祇園の女が去って行く。これはおそらく宮川町通か? あの店のママの名前だけ憶い出して、店の名が憶いだせない。こじんまりしたほの暗い空間のなか、白木のカウンターの向こうの匂いやかな中年の女のほほえみ。低く穏やかな声。肌理の細かい象牙色の肌。薄暗さのなかの妖艶さは他の国でもあるが、あのほの暗さのなかの清冽さと親密さというのはなかなか出会うことはできない。せつなさ、遣る瀬無さ、沈んだ翳りのなかのつややかさ--谷崎の『陰翳礼讃』でもあり川端の『美しさと哀しみと』でもあるあの感覚。

《けやきの木の小路を/よこぎる女のひとの/またのはこびの/青白い/終りを》(西脇順三郎)

あれはオレの「崇高化」だね、三十前後の青年が、バブルの余沢もあったけど、週に二、三度は通ったからな。「お日様の光のもとでみたら、あたしなんかもうおばあさんよ」などと囁いた声まできこえて来るよ。それとも単なる「理想化」だったのか。厨房に弟子入りしてカウンターの向こうに入ったら究極のシアワセじゃないか、などとまで思い詰めたことがあるからなあ。

さて何の話だったか。結婚?女たち? 彼女たちも母親化にうんざりして、別のアバンチュールを探すんじゃあないかい? もしそうでなかったら、次のようなことになりかねない。

「そう。君らにはわかるまいが、五十六十の堂々たる紳士で、女房がおそろしくて、うちへ帰れないで、夜なかにそとをさまよっているのは、いくらもいるんだよ。」(川端康成『山の音』)

だが、そもそも結婚前の情熱恋愛などというものが稀になっているのかもしれない。いまでは結婚とは「セキュリティ」のためであったり、最初から妥協化によってなされることが多いのだろう。「婚活」などというなんともはしたない言葉の流通は、「新自由主義」ーーその三つの標語「成功」「自己投資」、そして「負け犬」)ーーの猖獗を象徴するものである。その破廉恥を破廉恥とさえ感じなくなっているのが現代日本人というものだ。「女子力」などというものもその類であろう。結婚がいまだ「神聖」なものでありうるのは、同性愛者の間だけかもしれない。





2014年5月30日金曜日

五月卅日 「どうやら気付いておられない」

廣瀬浩司氏というフーコー、メルロ=ポンティの研究者の方が次のようなツイートをされている。

‏@parergon2 メルロ=ポンティ『知覚の現象学』において、「知覚」は意味の生成の全階梯を横断する究極の哲学的実践であった。なのに現象学的心理学に貶められた。「制度化」も同様で、現象学的社会学にとどまる危険に晒されている。フーコーが「制度」の用語を放棄したのもそこにかかわるだろう。

わたくしは、三十年以上前、サルトルとボーヴォワールの若くからの親しい友人の一人のメルロ=ポンティとして、雑に数冊の彼の書を読んだ切りなので、なにやら自分の見解らしきものがあるわけではない。

ドームでメルロー=ポンティに会ったのを覚えている。彼とはジャンソン=ド=サイイー高等中学校での教育実習以来ほとんど顔を合わせたことがなかったが、その日は長いあいだしゃべった。私は彼に、チェコスロヴァキアがイギリスとフランスの裏切りにたいして憤慨するのは当然だが、どんなことでも、もっとも残酷な不正でさえも、戦争よりはましだといった。私の考え方はメルロー=ポンティにも、サルトルにも、近視眼的だといわれた。

《きりもなくヒトラーに譲歩することはできない》
とサルトルは私にいった。しかし彼もたとえ頭では戦争を承知するつもりになっていたにせよ、やはり、ほんとうに戦争が始まることを思うと厭でたまらなかったのだ。(ボーヴォワール『女ざかり』上)

しかしながら、どうもわたくしにも、彼の哲学は「現象学的心理学」に過ぎないのではないか、という偏見が残っているのを否定するわけにはいかない。たとえばメルロー=ポンティの親しい友人だったラカンの「追悼文」Maurice Merleau-Ponty, 1961にこうある。

モーリス・メルロー=ポンティーでさえこの一歩を踏み超えていないようなので言いたいのだが、科学が物理学においてわれわれに捉えさせてくれた現実の構造はもはや知覚理論には関与しないということを、なぜ認めようとしないのだろうか。科学史においても科学の成果においても、知覚から生まれた科学的構築は、常に知覚に立ち戻らなければならないという、彼が自らの探求を正当化し始めるこの動機ほど疑わしいものはない。むしろあらゆることが示しているのは、ガリレオの動力学が天体を大地に組み込むことは重さに関するものやimpetusの知覚的直感の拒否によって得られたのだということである。

この後半に語られているのは、簡単に言えば次のようなことだ。

近代科学では、仮説にもとづく実験によって、経験的には不可視であるような“関係”を取り出すのである。われわれの経験では、たとえば、重い物の方が軽い物より速く落下するように思われる。ガリレオがそえをくつがえしたが、彼が明らかにしたのは、(……数式が書かれているが割愛:引用者)“関係”である。これは、仮説と実験によって見いだされる。客観性は、われわれの感覚によってではなくそれに反して見いだされる。つまり、それは、主観性によって構成されるということになる。(柄谷行人『探求Ⅱ』P112)
コペルニクス以前にも以後にも太陽はある。それは東に昇り、西に沈む。しかし、コペルニクス以後の太陽は、計算体系から想定されたものである。つまり、同じ太陽でありながら、われわれは違った「対象」をもっているのである。(『トランスクリティーク』p61)

冒頭のツイートに、《メルロ=ポンティ『知覚の現象学』において、「知覚」は意味の生成の全階梯を横断する究極の哲学的実践であった》などとある。この「知覚」が何を意味しているのかは窺い知れないが、上のラカンの指摘をメルロ=ポンティ研究者はどのように処理しているのかというのは、門外漢には不明だし、このようなスローガン的短文による顕揚では読み返してみる気は毛筋ほども芽ばえない。メルロ=ポンティにもかすかな記憶を辿り直せば魅力的な面はあるに相違ないのだが、知覚の「究極の哲学的実践」などという語り口こそ、短文で語らざるをえないツイッターだから止む得ないとは云え、われわれは避けるべきなのではないか。

また浅田彰の『構造と力』にも、ラカンと比較してのメルロ=ポンティ批判があるが、いまさら引用するには及ぶまい(『構造と力』P135~)

ラカンの見解、メルロ=ポンティについての評価すべき点、あるいは否定すべき点については、「APound of Flesh Lacan’s Readingof The Visible and the Invisible Charles Shepherdson」に比較的詳しい。結局、プラト二ズム的な「metaphysical tradition」から逃れていないかという疑義もある。あるいはまたドゥルーズなら次のように語っているようだ(メルロ=ポンティはここから逃れているのかどうかは知るところではないが)。

哲学にとって、光は精神の側にあるもので、意識と呼ばれるものは、さまざまな事物をそれらが本来住んでいる暗闇から引き出してくる光の束である。意識という内面の光が。外側の暗闇に潜んでいる事物を照らし出す。

ドゥルーズによれば、現象学でさえこうした考えに哲学的伝統には忠実だったのであり、ただ現象学はかつて内面性の光とされていたものを、まるで電灯の光線のようにすべて外側に向けて開いていったに過ぎない

これに対して、ベルクソンは、事物というのはどんな光によって照らされているわけでもない、すでにそれ自体が光なのである、と。では意識とは何かというと、この光を屈折させ、停止させ、遮断するもの、言わば光にとっての障害物にほかならない。事物のイマージュは、意識の光によって照らし出されて浮かび上がるのではなく、意識をとおした光の屈折や遮断によって、つまり光の部分的な否定によって視えるものとなる。(前田英樹 「イマージュと美、あるいは感性の形式と悟性のカテゴリー」)

…………

メルロー=ポンティは、「観念連合」説をゲシュタルト心理学の成果にもとづいて批判し、われわれの知覚ははじめから「地」の上の「図」として与えられるのだといった。しかし、おそらくそれが「現象学」的内省の限界であろう。「地」と「図」という把握こそ写真装置が与えたものである。のみならず、エッシャーの絵画のように、「地」と「図」が決定不可能であることこそ、現象学的にはついに接近不可能な分裂病的世界の必然性を開示する。(柄谷行人は異質である。(柄谷行人「「写真という装置」をめぐって」『隠喩としての建築』所収)

…………

冒頭の広瀬氏のツイートは、実はさる人物のリツイートとして読んだのだが、そのリツイートのあと、この「さる人物」は次のような発話をしている。

知覚をめぐる現象学が、メタ言説を気取る「現象学的心理学」でしかないなら、読む意義がない。

制度をめぐる試行錯誤が、メタな学問言説を気取る「現象学的社会学」でしかないなら、読む意義がない。

論じる作業そのものがオブジェクトレベルで問われない議論に、読む意義はない。

この方の言説には特徴があって、他に「彼らは気づいておられません」とか「どなたも分かっておられません」の類のツイートがしばしば見られる。あまり批判はしたくないのだが(ツイッター上におけるさる若い精神医師とこの方の論争時に、いささか応援したことがある)、残念ながら上のような発話こそ「メタ」言説というものではないか。

他の人間が夢をみているだけだから眼ざめさせねばならぬと考える者、つまり自らを”超越的”な立場にあるとみなす者こそ、夢をみているだけなのだ。(柄谷行人『探求 Ⅱ』P90)

なぜ、〈私〉は、他の人が「気づいておられません」「分かっておられません」と言ってしまうのか、ーーたしかにそう思うこともあろうーーだが、他者批判だけでなく、自己を振り返って、そのように繰り返し語ってしまうときに〈私〉は何に囚われているのか、と問うのが、超越的な態度から逃れる重要な方法だろう、《超越論的とは、上方や下方に向うことではない。それはいわば横に出ることだ》(同 柄谷行人)。もっともメタ言説もときには有効ではあり(たとえば挑発の発話として)、わたくし自身はメタに立って敢えて書く場合もある。だが、メタ言説批判自体がメタ言説によってなされてしまうことが反復されれば、これは、なんというか、残念ながら見るに耐えない。

ためしに「気づいて」と「気付いて」だけをtwilogからいくつか拾ってみよう。まさに口癖の如くである(内容はある側面からは正しいものも多いだろう。だがこれをメタ言説と言わずになんというおう)。《ドストエフスキーは、人々は「自由」など望んでいないといったが、同様に、”精神”であることを人々は望んでいない。自分はめざめて、現実を直視し、ほかの人々は幻想に支配されていると説くあの連中のように、夢をみていることを望むのである》(柄谷行人『探求Ⅱ』p95)


・浅田彰氏は、ガタリを単に「過激な交通の人」と言ってるけど、 (1)その交通には《制度分析》が必須であること、 (2)ご自分のドゥルーズ論が、すでにラボルド病院の技法に触れていること に、どうやら気づいておられない。

・「弱者の100%肯定」を気取る、風紀委員みたいなインテリ言説。これが悪のフォーマットであると、どうやったら気づいてもらえるか。

・《単なる甘やかしか、自己責任による競争か》――この単純な対立が、すでに耐用年数を過ぎた論点であることに気づいてほしい。

・医師・学者・評論家は、一方的に誰かを《対象化》する権利があると思い込んでいる。そう論じる自分が実作者として批評《される側》にいると、気づいていない。

・ラボルド病院やグアタリ(Félix Guattari)、メルロ=ポンティなどの《制度》概念も(……)――しかし、研究者や臨床家でこういう《制度》概念に気付いているかたは、あまりおられません。

・なんだか、根本的な趣旨に気付いておられないようですが…
このあなたのツイートこそが、私に対する洗脳努力ではないですか、と申し上げているのです。(私の指摘を、遂行的に証明してしまっているような形です)


人は「気付いて」いても、それを括弧に括って語ることがある。

あるいは、

万人はいくらか自分につごうのよい自己像に頼って生きているのである(Human being cannot endure very much reality ---T.S.Eliot)(中井久夫「統合失調症の精神療法」『徴候・記憶・外傷』P264)

だれもこの「万人」から逃れ得はしない。

さらに付け加えれば、上の「気づいて」をめぐるツイートには、「名詞形」で括って批判する文が散見される。「名詞形」というのも、この人物の口癖である。

名詞形による人間の区切りを
前提にしたままの議論を許すな。
名詞形で区切られた存在を何でもかんでも擁護してメタな正当性を確保するのは、

名詞形で区切られた存在を自動的に排除・否定してメタな正当性を確保するのと、どこが違うのか?
どこもかしこも、名詞形を前提にした決め付けばかり。《差別》という問題について、原理的に思考できる人が一人もいません。

なぜ、己れの発話の名詞形による決め付けに<気づかないで>、平然と語り続けられていくのか。それはむしろ奇妙な感を抱く。《医師学者評論家は、一方的に誰かを《対象化》する権利があると思い込んでいる。》??? この「医師」も「学者」、あるいは「評論家」も名詞形による人間の区切りとは異なるなどとまさか言うまい。それともなにかジョークの一種なのだろうか?

序でに《原理的に思考できる人が一人もいません》などという文に当たってしまったが、なんというか、マジで批判(吟味)するのはもうやめておこう。きっとジョークがオレにはわからないだけなのだろう……。それとも極度の難聴者なのだろうか。

どこにいようと、彼が聴きとってしまうもの、彼が聴き取らずにいられなかったもの、それは、他の人々の、彼ら自身のことばづかいに対する難聴ぶりであった。彼は、彼らがみずからのことばづかいを聴きとらないありさまを聴きとっていた。(『彼自身によるロラン・バルト』)

もっともバルトはこの文のあと次のように続ける、《しかし彼自身はどうだったか。彼は、彼自身の難聴ぶりを聴き取ったことがないと言えるのか。彼は、みずからのことばづかいを聴き取るために苦心したのだが、その努力によって産出したものは、ただ、別のひとつの聴音場面、もうひとつの虚構にすぎなかった。》--誰もが自分自身の言葉にはいささかの難聴者ではあるだろう。だがそれにしても?


…………

人が何ごとかを語るのは、そのことが生起しつつある瞬間から視線をそらせるためである。(蓮實重彦『物語批判序説』)
人がかくも熱心に言葉をとり交し合って止まないのは、背後にさし迫った沈黙の深淵を忘れるためではなかったか? (浅田彰『構造と力』)

というわけで、<あなた>はなにを忘れようとしているのだろうか。この<あなた>は、もちろん<私>としてもよいし、<彼(女)>としてもよい。すなわち、ここからは一般論に近づけて書く。

以下のプルーストの文は、「芸術的なよろこび」をめぐっているが、なにも「芸術」でなくても、あるいはまたなにも「よろこび」でなくてもよい。あらゆる不快は《二重構造になっていて、なかばは対象の鞘におさまり、他の半分はわれわれ自身の内部にのびている》。われわれ自身の内部にのびていることから視線をそらすために、<あなた>は語る。<私>が不快なのは、社会のシステムのせいだ、自分は無実あり潔白である。<私>が不幸であったり病気であったのは、知の「制度」のせいなのだ、と。

人が芸術的なよろこびを求めるのは、芸術的なよろこびがあたえる印象のためであるのに、われわれは芸術的なよろこびのなかに身を置くときでも、まさしくその印象自体を、言葉に言いあらわしえないものとして、早急に放置しようとする。また、その印象自体の快感をそんなに深く知らなくてもただなんとなく快感を感じさせてくれものとか、会ってともに語ることが可能な他の愛好者たちにぜひこの快感をつたえたいと思わせてくれるものとかに、むすびつこうとする。それというのも、われわれはどうしても他の愛好者たちと自分との双方にとっておなじ一つの事柄を話題にしようとするからで、そのために自分だけに固有の印象の個人的な根源が断たれてしまうのである。われわれが、自然に、社会に、恋愛に、芸術そのものに、まったく欲得を離れた傍観者である場合も、あらゆる印象は、二重構造になっていて、なかばは対象の鞘におさまり、他の半分はわれわれ自身の内部にのびている。後者を知ることができるであろうのは自分だけなのだが、われわれは早まってこの部分を閑却してしまう。要は、この部分の印象にこそわれわれの精神を集中すべきであろう、ということなのである。それなのにわれわれは前者の半分のことしか考慮に入れない。その部分は外部であるから深められることがなく、したがってわれわれにどんな疲労を招く原因にもならないだろう。プルースト「見出された時」井上究一郎訳)

<あなた>は自身の内部にのびている苛立ちの原因を閑却するために、他人を批判を繰り返す、彼らはメタ言説ばかりで己れの言説の問い直しができていません。論じ直さなくてはなりません、やり直さなくてはなりません……。「問い直す」「論じ直す」「やり直す」などの語彙が反復される。すなわち背後にさし迫った己れの問い直しから視線をそらせるために(気付かないようにするために)。


人がなにを隠蔽しようとしているのかを窺うには、内容ではなく、言説の繰り返される形式を見るという方法もある。それは「行為」を見るとしてもよいかもしれない。

われわれはこういうことができようーー要するに被分析者は忘れられたもの、抑圧されたものからは何物も「想い出す」わけではなく、むしろそれを「行為にあらわす」のである、と。彼はそれを(言語的な)記憶として再生するのではなく、行為として再現する。彼はもちろん、自分がそれを反復していることを知らずに(行動的に)反復しているのである。(フロイト「想起、反復、徹底操作」人文書院 6)

ただ厄介なのは自分ではなかなか気づかず、他人のほうがより気づく場合があるということだ。

他者の「メタ私」は、また、それについての私の知あるいは無知は相対的なものであり、私の「メタ私」についての知あるいは無知とまったく同一のーーと私はあえていうーー水準のものである。しばしば、私の「メタ私」は、他者の「メタ私」よりもわからないのではないか。そうしてそのことがしばしば当人を生かしているのではないか。(中井久夫「世界における徴候と索引」より)

また、他人からそれを指摘されれば、たとえば「そんなことはないですよ」と否定する。

判断によって何事かを否定するとは、結局、「これが自分の一番抑圧したいものである」ということなのである。(フロイト「否定」)

まあこれは分析関係の場でないのであれば、多くの場合他人の指摘が見当はずれのこともあるだろうし、インターネットに書き込まれる言説に対して、このようにフロイトを援用するのは甚だしい越権行為であるにしろ、大切なのは反復される形式である。表現の仕方にときどき若干の相違はあるにしろ<あの人たちは気づいておられません>あるいは<問いなおさなくてはなりません>という形式的表現に収斂する言葉を<あなた>はしばしば反復する。そして自らの反復を気づいていないこと、そして己れを問い直す気配が窺われないのなら、その言葉は何を露顕しているのかはここまでの文脈からあらためて言うまでもない。いやここでは穏健に、この束の間の越権行為者はある種の錯覚に閉じ篭り得ることがある、とだけしておこう。

たとえば<あなた>のほどよい聡明さをもった「知」の習慣は次のように呟く。

たとえば、同じ不幸にさらされた信頼のおける仲間たちに向って、あなたの場合を些細に語って聞かせる。すると、たがいに慰めあうことで不幸は緩和され、連帯の輪が拡がってゆくだろう。あるいは、自分自身に向かって、その体験を書き記してみてはどうか。小説を書けなどとはいうまい。文学の既存のジャンルを越えて、奪われかすめとられたことの衝撃を幾重にも反芻しながら吟味し、言葉によってその欠落を埋めてみてはどうか。それが可能であれば、向う側から迫ってくる不幸の種子はその無限増殖をやめ、そればかりか、喪失や崩壊が招きよせるもろもろの醜悪さ、猥雑さ、といったものから自由になることができる。この自由への意志こそが健康というものだと「知」と習慣はつぶやき続ける。(蓮實重彦「健康という名の幻想」『表層批判宣言』所収)

この知の習慣が知の制度的思考というものなのであり、その習慣によって《もろもろの醜悪さ、猥雑さ、といったものから自由になることができる》とするのはたんなる錯覚であり幻想に過ぎない。


……フロイトは、疑いもなくそのことを知っていた。というのは、彼は抑圧の偽装よりもより深い証拠を探し求めていたからだ。もっとも彼はそれを“原”抑圧という似たような語彙にて考えていたが。われわれは、抑圧するから反復するのではない。反復するから抑圧するのだ。さらに言えば、――それは結局は同じことだがーー我々は、抑圧するから偽装するのではない。偽装するから抑圧するのだ。そしてわれわれは反復の決定的な核心の力によって偽装する。(ドゥルーズ『差異と反復』英訳からの私訳)

Freud, no doubt, was aware of this, since he did search for a more profound instance than that of repression, even though he conceived of it in similar terms as a so-called 'primary' repression. We do not repeat because we repress, we repress because we repeat. Moreover - which amounts to the same thing - we do not disguise because we repress, we repress because we disguise, and we disguise by virtue of the determinant centre of repetition.”Gilles Deleuze, Difference and Repetition”


 ーーところで、この<わたくし>はこのように書くことによってなにを隠蔽しようとしているのだろうか。

人は自分に似ているものをいやがるのがならわしであって、外部から見たわれわれ自身の欠点は、われわれをやりきれなくする。自分の欠点を正直にさらけだす年齢を過ぎて、たとえば、この上なく燃え上がる瞬間でもつめたい顔をするようになった人は、もしも誰かほかのもっと若い人かもっと正直な人かもっとまぬけな人が、おなじ欠点をさらけだしたとすると、こんどはその欠点を、以前にも増してどんなにかひどく忌みきらうことであろう! (プルースト「囚われの女」井上究一郎訳)

すなわち自己を語る一つの遠まわしの方法なのだろう。

……自己を語る一つの遠まわしの方法であるかのように、人が語るのはつねにそうした他人の欠点で、それは罪がゆるされるよろこびに告白するよろこびを加えるものなのだ。それにまた、われわれの性格を示す特徴につねに注意を向けているわれわれは、ほかの何にも増して、その点の注意を他人のなかに向けるように思われる。(プルースト「花咲く乙女たちのかげに」 Ⅱ 井上究一郎訳)

この文は、あくまで投壜通信である、そして、《海に投げ入れられた壜はいつも戻ってくる。》(ブランショ 投壜通信)







2014年5月29日木曜日

五月廿九日 「こんなに人材が少ないなんて思ってた?」(浅田彰)

In the 1960s and 70s, it was simpler to believe that another world was possible. This is why these years continue to inspire so much nostalgia. During this epoch, one could still imagine that warnings based on the present situation could influence the future in a positive way.Today, we know it, the future is not what it was.(ZIZEK『LESS THAN NOTHING』「Conclusion」より

まずはこういうことなのだろうな、――60年代や70年代のノスタルジアというのは、当時は「思想家」や「活動家」が未来を変えることができると思っていたし、その受け手もそうだったということ。だが68年があり、そしてその後に決定的な89年があった。いまは資本主義、あるいは新自由主義しかなく、それへの抵抗は、あってもゲリラ戦だけで、だれもそんなものにはまともに期待していない。「思想家」たちもほとんど趣味の世界にひきこもるばかりだ。かりに「真摯に」抵抗のふりを示す「思想家」がいても、だれもがまともに受け止めることはない。

新自由主義、それは「成功」と「投資」、そして「負け犬」を作り出すシステム(参照:大学人の踊る音楽「新自由主義」)。そこでは、学生や本の読み手たちは、クライアントなのであり、「思想家」たちもそのクライアント向けの「成功」と「投資」の手引書を書くばかりだ。

ジジェクは、冒頭に引用された文に引き続き、ではどうするかについての一つの提案を、ジャン=ピエール・デュピュイの考え方を援用しつつ書いているけれど、これは『ポストモダンの共産主義  はじめは悲劇として、二度めは笑劇として』にも書かれている(「トルストイと自由の条件」の後半参照)。

「こんなに人材が少ないなんて思ってた?」(浅田彰)というのは時代のせいとも言えるのであり、やっぱり、資本主義とはいわないまでも「新自由主義」に抵抗していない「思想家」はどうしようもないのじゃないか(いや、抵抗してもゲリラ戦でしかないことが分かっているから、あのようであるという言い方もできるのだろうが)。


◆「悪い年」を超えて 坂本龍一 浅田彰 柄谷行人 座談会(『批評空間』1996-9

浅田) それにしても、こんなに人材が少ないなんて思ってた? ぼくなんか、同世代にもっと優秀な人材がいるはずだとずっと思ってたし、今も多少は期待しているけど……。

柄谷) 甘い(笑)。ぼくも昔はそう思っていて、もしかして俺が勝手に威張っているだけなんじゃないかと思ったりしたけどね(笑)。中上健次ともよくそういう話をしたことがあったけど、四五歳を越えたころにやっと見極めがついた。単に、いないんだよ。

坂本) 実際、世界的に見てそうだよね。

柄谷) しかし、世界的に人材が少ないとしたら、どうなってしまうのだろう?  

浅田) 人口だけは多い(笑)。

柄谷) たしかに、フランス現代思想がどうのこうの言ったって、ドゥルーズ、フーコー、デリダで尽きてしまうじゃないか? それも本質的には六〇年代の仕事だった。(……)

しかし、見方を変えれば、かれらの仕事もマルクス、ニーチェ、フロイトの延長上にあるわけだし、ああいうものはずっと古びないとも言える。いまだにマルクスを批判していればいいと思っているやつがいるけどね。

浅田) 共産主義が崩壊した以上、反共ということにはもう意味がない。資本主義が全面化した以上、資本主義をいちばん鋭く分析したマルクスの仕事が残るにきまっている。

ドゥルーズの死の二年前のインタヴュー「思い出すこと」より抜き出すことにしよう(インタヴューそのものはドゥルーズの死後1995年に発表された)。

マルクスは間違っていたなどという主張を耳にする時、私には人が何を言いたいのか理解できません。マルクスは終わったなどと聞く時はなおさらです。現在急を要する仕事は、世界市場とは何なのか、その変化は何なのかを分析することです。そのためにはマルクスにもう一度立ち返らなければなりません。(……)

次の著作は『マルクスの偉大さ』というタイトルになるでしょう。それが最後の本です。(……)私はもう文章を書きたくありません。マルクスに関する本を終えたら、筆を置くつもりでいます。そうして後は、絵を書くでしょう。

…………

言語活動に関してこの《サイクル》(エンジンのサイクルというような意味での)の機構は重要です。強力な体系(「マルクス主義」、「精神分析」)を見てみましょう。最初のサイクルでは、それらは反「愚劣さ」の(効果的な)働きをします。それらを経ることは愚劣さを脱することです。どちらかを完全に拒否する人(マルクス主義、精神分析に対して、気まぐれに、盲目的に、かたくなに、否(ノン)という人)は、自分自身のうちにあるこの拒否の片すみに、一種の愚劣さ、悲しむべき不透明性を持っています。しかし、第二サイクルでは、これらの体系が愚劣になります。凝固するや否や、愚劣が生ずるのです。そこが裏側に回ることができない所です。人はどこかよそに行きたくなります。チャオ(さよなら)、もう結構、というわけです。(ロラン・バルト「イメージ」1977初出 『テクストの出口』所収 沢崎浩平訳)

いったんチャオ、もう結構としたのだから、そろそろ戻ってもよい頃だと思うけどな、ちがうかい?

真に偉大な哲学者を前に問われるべきは、この哲学者が何をまだ教えてくれるのか、彼の哲学にどのような意味があるかではなく、逆に、われわれのいる現状がその哲学者の目にはどう映るか、この時代が彼の思想にはどう見えるか、なのである。(ジジェク『ポストモダンの共産主義  はじめは悲劇として、二度めは笑劇として』)


2014年5月28日水曜日

五月廿八日 『性欲論』におけるBemächtigungstrieb

『ヒトはなぜ戦争をするのか』におけるBemächtigungstrieb」に引き続き、Bemächtigungstrieb(征服欲動)をめぐる。これまでは1920年以降のいわゆる後期フロイトの論文からBemächtigungstriebという語が書かれる叙述を拾ったが、今回は前期フロイトの『性欲論三篇』DreiAbhandlungen zur Sexualthearie 1905(人文書院旧訳)より。

以下は幼児の性感帯は口唇領域や肛門領域が先に芽ばえると書かれた後の箇所。この幼児期性愛の口唇欲動と肛門欲動の指摘により人間はすべてもともと倒錯的である(多形倒錯性)、というフロイトの有名な、ヴィクトリア朝時代のモラルが支配的だった当時としてはスキャンダラスな言葉が生まれている。ラカンの四つの部分対象「乳房」「糞便」「眼差し」「声」のうちの前二つはこのフロイトの論から生まれているといってよいだろう(この部分対象にかかわる部分欲動をめぐっては、「症例ドラの象徴界/現実界、あるいは「ふたつの無意識」」の記事の後半を見よ)。

小児の身体の性感帯のなかには、確かに主な役割を演じているのでもなければ、またもっとも初期の性的興奮の担い手でもないが、しかし将来大事な役目を果たすように定められている一つの性感帯がある。それは男児の場合にも女児の場合にも、排尿に関係づけられており(亀頭、陰核)、それに男児の場合には粘膜嚢に包まれているので、その性感帯は早期に性的興奮を煽るかもしれないような分泌物からうける刺激にこと欠かないのである。実際の性器の一部分となっているこの性感帯の性的活動は、のちの「正常な」性生活の始まりなのである。

解剖学上の位置や分泌物の充溢のため、身体の洗浄や摩擦、さらにはある種の偶然的な刺激(女児のおける体内寄生虫の移動のような)などのために、この身体部位が生みだすことのできる快感が小児の乳幼児に早くも認められるようになったり、これを反復したいという欲求が、めざめさせられたりするというのは、避けがたいことであろう。こうした実状のすべてを概観し、また純潔保持のための方策もかえって不純化の効果しかあげることができないという事実を考えあわせるならば、ほとんどの個人のさけることのできないこの乳児期の手淫によって、この性感帯が将来の性活動に対してしめる優位が確保されるのだ、という見解は拒むことができないだろう。刺激をとり除き、満足感をよび起こす動作の実体は、手で摩擦しながらの接触とか、あらかじめ教えこまれたようになにか反射的に手によって圧迫することとか、太股を密着させることなどにある。このあとのやり方は女児の場合にはるかに多く行なわれるものである。男児の場合にはこのんで手を用いるこということがすでに、男性の性活動に対していずれは占有欲Bemächtigungstriebがいかに重要な貢献をするようになるであろうかということを示唆している。(フロイト『性欲論三篇』フロイト著作集 5 p51)

この訳文では占有欲となっているBemächtigungstrieb(支配欲動)について(欲動そのものの発露の仕方は男女の間に変わりがないのに))、なぜ男性ほうが女性に比べていっそう支配的傾向を帯びるのかについての一つの理由となるものが挙げられている。すなわち陰部が出っ張っているので、男児は性器を掴むことができる(占有しやすい)。これが男性の能動性につながり、逆に女児の場合は、そういうわけにはいかない。太腿を密着させるなど受動性への傾きがあるということになる。後年の筋肉の発達の相違が、男性の攻撃性を女性よりいっそう促すのは当然であるが、それ以前の幼児期段階での男女の肉体的特徴による支配性、能動性の傾きの違いが説かれている。

これ以外にも『欲動とその運命』1915において、サディズムの分析のあと、《覗見本能は、すなわち、その活動の端緒において自体愛的であり、たしかに対象を持ちはするものの、それを自分自身の身体に見出す》とされている(参照:「欲動と原トラウマ」の後半)。覗き見衝動は、男性に強く、女性には少ないだろう。これも能動性=支配欲動の一貫であるが、なぜ男のほうが視姦欲動が強いのか、と言えば、やはり陰茎が出っ張っていることに由来するという説明をしてもよいだろう。これらが後年の女性に比べて男性の支配欲動のより一層の強さの原因のいくつか(少なくとも外面的に現われた)であるに相違ない。

このあたりは、そんな馬鹿な! という反応があるのだろうが、男性ののぞきやフェティシズム的傾向をこれほど巧く説明して納得させる仮説がいまだほかにあるだろうか(ラカンの微調整を除いて)。やはりソーセージをもっているか、がま口をもっているかは決定的な原因のひとつではないか。

彼女は三歳と四歳とのあいだである。子守女が彼女と、十一ヶ月年下の弟と、この姉弟のちょうど中ごろのいとことの三人を、散歩に出かける用意のために便所に連れてゆく。彼女は最年長者として普通の便器に腰かけ、あとのふたりは壺で用を足す。彼女はいとこにたずねる、「あんたも蝦蟇口を持っているの? ヴァルターはソーセージよ。あたしは蝦蟇口なのよ」いとこが答える、「ええ、あたしも蝦蟇口よ」子守女はこれを笑いながらきいていて、このやりとりを奥様に申上げる、母は、そんなこといってはいけないと厳しく叱った。(フロイト『夢判断』 高橋義孝訳 新潮文庫下 P86)
子供が去勢コンプレックスの支配下に入る前、つまり彼にとって、女がまだ男と同等のものと考えられていた時期に、性愛的な欲動活動としてある激しい観察欲が子供に現われはじめる。子供は、本来はおそらくそれを自分のと比較して見るためであろうが、やたらと他人の性器を見たがる。母親から発した性愛的な魅力はやがて、やはりペニスだと思われている母親の性器を見たいという渇望において頂点に達する。ところが後になって女はペニスをもたないことがやっとわかるようになると、往々にしてこの渇望は一転して、嫌悪に変わる。そしてこの嫌悪は思春期の年頃になると心的インポテンツ、女嫌い、永続的同性愛などの原因となりうるものである。しかしかつて渇望された対象、女のペニスへの固執は、子供の心的生活に拭いがたい痕跡を残す。それというもの、子供は幼児的性探求のあの部分を特別な深刻さをもって通過したからである。女の足や靴などのフェティシズム症的崇拝は、足を、かつて崇敬し、それ以来、ないことに気づいた女のペニスにたいする代償象徴とみなしているもののようである。「女の毛髪を切る変態性欲者」は、それとしらずに、女の性器に断根去勢を行なう人間の役割を演じているのである。(『レオナルド・ダ・ヴィンチの幼年期のある思い出』1910  フロイト著作集3 P116)

レヴィ=ストロースは、若き彼の真の二人の師(マルクス、フロイト)を称揚しつつ次のように語っている。

分類から導かれた仮説が、決して真ではありえず、ただより高い説明価値があるかどうかだけが重要。(『悲しき熱帯』)

フロイトは、仮説に立つと、より多くのものを説明ができるといっている。そしてレヴィ=ストロースが言うのと同じように、別のより高い説明価値がある仮説があれば、いつでも乗り換える用意があるともしばしば語っている。

さらにフロイトーラカン派の見解から演繹すれば、これらの理由以外に、男性は標準的には最初の愛の対象である母=女を変える必要がないが、女性はこれも同じく最初の愛の対象、母=女を父=男に変換することによって支配欲動を諦める訓練が幼い頃になされているとすることができる。誰しも《愛しているときのわたしはいたって排他的になる》(フロイト『書簡集』)のだが、女性は母への排他的な愛を転換する成長過程をもっているのだ。また、これは女性のエロトマニア(被愛妄想)的傾向を説明する。


このあたりについて、一般読者向けにとても分かり易く書かれたPaul Verhaegheの、『Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE』における叙述を見よ。いまはそこからいくらか抜粋するだけにする。

・男児はジェンダー的な意味での最初の愛の対象を維持できる。彼はただ母を他の女性に取り替えるだけでよい。

・反対に、女児は愛の対象のジェンダーを取り替えなければならない。具体的にいえば、最初の愛の対象であった母を父に取り替えなければならない。

・この少女たちの愛の対象の変換の最も重要な結果は、彼女たちは関係それ自体により多く注意を払うようになるということだ。それは男たちがファリックな面(部分対象へのフェティッシュ、あるいは対象支配ともしておこう:引用者)に囚われるのと対照的である。

こうして本来男女間に変わりがない欲動であるはずのBemächtigungstrieb(征服欲動)が、たとえばフロイトの別の論文では、《男性特有の獣的な征服欲Bemächtigungstrieb》などと書かれることになる。
抑圧された性的欲求が原因で第一の夢を見て以来、彼の妄想の中心部にその娘の身体の状態にたいする好奇心、嫉妬、そして男性特有の獣的な征服欲Bemächtigungstriebがいったいいかなる口実のもとに、いかなる変装をして現われたのか、そのことについてはすでに指摘しておいた。(W・イェンゼンの小説『グラディーヴァ』にみられる妄想と夢 Der Wahn und die Traume in W. Jensens ‘Gradiva1907 P73)

だが、女性の関係性志向とはいいつつ(たとえば斎藤環の『関係する女 所有する男』)、この抑圧された征服欲動は消滅してしまったわけではなく別の形で奔出する。Quirino Zangrilliが書く「冷感症と支配欲動」はその一例であるし、もっと一般的にはフェラチオそのものが、征服欲動(能動性)に由来するという調査・見解もある。

A recent survey showed that many women experience fellatio as a sense of power—on condition that they take the initiative, and that it is not imposed on them, in other words, on condition that they take the active role.(Love in a Time of Loneliness  THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE  Paul Verhaegheーー低級な人種ですよ!/その種のものとしては最高さ

これは少し異なった文脈で語られた中井久夫の言葉なのだが、《他者巻き込み型》の暴力、ーー男性的な「肉体的」暴力ではなく、女性的な「関係性」のうちに奔出する言葉の暴力ーー「こういう暴力は、端的な物理的な暴力よりもあきらかに破壊的です」「物理的な暴力をふるわれて自殺した患者を私は知らないですから」(こんなとき私はどうしてきたか 中井久夫)ということはあるのではないか。もっともここでの「女性的な」というのは、セックスやジェンダーにおける「女性」とは関係がない。男性にも「関係性」の暴力に「秀でた」タイプはいるだろう。

ところでかつては攻撃欲動の社会的捌け口の仕組みがあった。祭りはその典型だろうし、もっと遡れば「歌垣」の集団的な性の饗宴もあった。いまはインターネットの書き込みか、スポーツぐらいか(個人的な話を書けば、妻がテニスをするようになって家庭にて「攻められる」こと甚だ少なくなった)。

「ヒステリー女が欲するものは何か?……」、ある日ファルスが言った、「彼女が支配するひとりの主人である」。深遠な言葉だ。ぼくはいつかこれを引用してルツに言ってやったことがあったが、彼は感じ入っていた。(ソレルス『女たち』鈴木創士訳)

ファルスはラカン、ルツがアルチュセール(妻エレーヌを絞殺している)がモデルであることが知られている。

ーーと引用して何を言おうとするわけでもない(まさか妻を絞め殺したい心持をもった時期があったなどと間違っても口から洩らすつもりはない)。ここでは、Bemächtigungstrieb(支配欲動)の飼い馴らしの話である。そしてそれは男も女も誰にでもある。《私たちの中には破壊性がある。自己破壊性と他者破壊性とは時に紙一重である、それは、天秤の左右の皿かもしれない。》(中井久夫


いずれにせよ、《愛の基本的モデルは、男と女の関係ではなく、母と子供の関係に求められるべきである》(『Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE』 Paul Verhaeghe)のに相違なく、ここで男性側のみの見解を言えば、自立した存在として幼少の砌の髑髏を振り払うべく男は女=〈母〉に対して受動性に置かれるのを一般的に倦厭するようになる。だがすべての女性には〈母〉の全能性の影が落ちている。ヴェルハーゲによって、ある種の男性の女性蔑視や女性嫌悪の理由が次のように書かれることになる。

The shadow of the mother falls on every woman so that she shares in the power, and even in the omnipotence, of the mother.

母の影はすべての女性に落ちている。つまりすべての女は母なる力を、さらには母なる全能性を共有している。
This is every young policeman's nightmare: a middle-aged woman rolls down her car window and asks, 'What is it, son?'

これはどの若い警察官の悪夢でもある、中年の女性が車の窓を下げて訊ねる、「なんなの、坊や?」
It is this original omnipotence that evokes fear in all its aspects, from sexism to misogyny

この原初の母なる全能性はあらゆる面で恐怖を惹き起こす、女性蔑視(セクシズム)から女性嫌悪(ミソジニー)まで。(同 Paul Verhaeghe 私訳)

もちろん敢えて子供のように振舞って、女性の支配欲動と巧みに操るというマゾヒズム的戦略家たちもいる。

マゾヒストは小さな、頼りない、依存した、ひとりでは生きてゆくことのできない子供、しかもとくにきかん気な子供として取り扱われることを欲している。》(フロイト『マゾヒズムの経済的問題』人文書院旧訳 p302

「きかん気な」はこの旧訳では「いたいけな」となっているが、「きかん気な」に変更した(英訳と原文の参照による)。

マゾヒズム? それは支配されることで支配する倒錯的な戦略なのだ。だが多くの女性がこのマゾヒスト的戦略をとっているとしたら?


…………


さて、--次の投稿にしたらいいのだが、「言葉の暴力」としたところで、ふと思いついたついでにそのまま書くのだがーー、男女のあり方が大きく変わりつつあると言われる現代、男の愛し方、女の愛し方は変わったのだろうか。女の男のもとめ方は、わたくしにはよく分からない。だが男の愛し方、というか、女への欲望のもち様は、かつて例えば、「一盗、二婢、三妾、四妓、五妻」と言われた。これはたちまちラカンの娘婿でもあるミレールの言葉、“You are the woman of the Other, always, and I desire you because you are the woman of the Other.”と重なる。女が〈他者〉の所有になっているから、その女を欲望するのだ。

ところで、ジジェクは『THE REAL OF SEXUAL DIFFERENCE』にて、ファルスの享楽/〈大他者〉の享楽(女の享楽)に関して、サイバースセックスの例を挙げている。

男たちはネット空間にて、自慰行為の愚かな反復に耽ることが女たちに比べて格段に多い。他方、女たちはチャットルームにて、言葉の交換(誘惑的な)に享楽を見出す、と。

これはなにもセックスに限らなくてもよいのであり、たとえばツイッターでの男たちの発話は自慰的ではないか? そして女たちは誘惑的(関係的)ではないか? メンションを送ったり送られることに、男たちよりも格段に喜びを見出しているのではないか。仮に他者とのやりとりを拒んでいるふりをしていても、誘惑的な言葉(「この私を見て!」に象徴されるような)が呟かれることが男よりも格段に多いのではないか。

女性の愛のあり方はフェティシストというよりももっとエロトマニティック(被愛妄想的)です。女性は愛されたいのです。》(ミレール 愛について)ーーこれはフロイトの『性欲論三篇』におけるフェティストの男/エロトマニアの女という区分けに由来する。

Let us clarify this passage apropos of the opposition between the jouissance of the drives and the jouissance of the Other, elaborated by Lacan in Seminar XX, which also is sexualized according to the same matrix. On the one hand, we have the closed, ultimately solipsistic circuit of drives that find their satisfaction in idiotic masturbatory (auto-erotic) activity, in the perverse circulating around object a as the object of a drive. On the other hand, there are subjects for whom access to jouissance is much more closely linked to the domain of the Other's discourse, to how they not so much talk as are talked about: erotic pleasure hinges, for example, on the seductive talk of the lover, on the satisfaction provided by speech itself, not just on the act in its stupidity. Does this contrast not explain the long-observed difference in how the two sexes relate to cybersex? Men are much more prone to use cyber-space as a masturbatory device for their lone playing, immersed in stupid, repetitive pleasure, while women are more prone to participate in chat rooms, using cyberspace for seductive exchanges of speech(ZIZEK.THE REAL OF SEXUAL DIFFERENCE』)

もっとも現在は次のようなことはあるので、自慰的な女、誘惑的な男もそれぞれ漸次増えているのかもしれないが。

現在の真の社会的危機は、男のアイデンティティである、――すなわち男であるというのはどんな意味かという問い。女性たちは多少の差はあるにしろ、男性の領域に侵入している、女性のアイディンティティを失うことなしに社会生活における「男性的」役割を果たしている。他方、男性の女性の「親密さ」への領域への侵出は、はるかにトラウマ的な様相を呈している。(エリザベート・バダンテール)

The true social crisis today is the crisis of male identity, of “what it means to be a man”: women are more or less successfully invading man's territory, assuming male functions in social life without losing their feminine identity, while the obverse process, the male (re)conquest of the “feminine” territory of intimacy, is far more traumatic.(Élisabeth Badinter

…………

ジジェクは言語の世界に耽溺するのは女である、と言う。《woman is more fully “in language” than man.》

あるいは、《it is women who are immersed in the order of speech without exception. 》(The Real of Sexual Difference Slavoj Zizek)

この言語の世界に囚われるというのは、象徴界の囚人ということであり、旧来の通念、女性とは自然、身体などのより現実界的な世界に住まうという思い込み(男とは文化、論理などの象徴界的な生き物)とはやや異なる印象をまずは受けるだろう(たとえば「女は子宮で考える」)。

だがここでは中期以降のラカンの話をしている。前期の想像界/象徴界で語られたラカン理論なら、女性は想像界の住人とされるのはほぼ「常識的」だろう。。だがセミネールⅩⅠ移行のラカン、すなわち、「想像界と象徴界」/「現実界」のラカンであるならばどうだろう。そこでは想像界は象徴界によって構造化されているとされる。この意味で、「想像界と象徴界」=「象徴界」とした上での象徴界/現実界の対比における、女性の象徴界の住人という論旨である。

ここでジジェクとあわせて、同様の見解を示すヴェルハーゲの文を引用しておこう。

It seems as if woman stands for nature, drive, body, semiotic, and so on, and man for culture, symbolic, psyche, and so forth. Yet this is not confirmed by day- to-day experience, nor by clinical practice. Both feminine eroticism and feminine identity seem far more attracted to the symbolic than are their masculine counterparts. Biblically or not, woman conceives for the most part by the ear and is seduced by words. In contrast, an unmediated, drive-ridden sexuality seems much more characteristic of masculine eroticism, whether gay or straight. Nor does motherhood’s apparent linking of woman and Nature stands the test. In my clinical practice, I have seen far too many mothers who reject their children or–even worse–had no interest in them whatsoever. The maternal instinct is a myth, and maternal love is an effect of an obligatory alienation. Many new mothers must face the fact that their reactions to their new baby fail to coincide with this anticipated love.(Paul Verhaeghe『 Phallacies of binary reasoning:drive beyond gender 』)

All one should add here is that there is also a more literal reading of the jouissance féminine which totally breaks with the topos of the Unsayable―on this opposite reading, the “non-All” of the feminine implies that there is nothing in feminine subjectivity which is not marked by the phallic-symbolic function: if anything, woman is more fully “in language” than man. Which is why any reference to pre-symbolic “feminine substance” is misleading. (Slavoj Žižek: The Real of Sexual Difference

ジジェクはここで非-全体の論理(女性の論理)を使って、女性がより象徴界の住人であることを説明しているのだ。《the “non-All” of the feminine implies that there is nothing in feminine subjectivity which is not marked by the phallic-symbolic function》

さらに精神分析臨床家でもあるヴェルハーゲ曰く、《Both feminine eroticism and feminine identity seem far more attracted to the symbolic than are their masculine counterparts.》

「女性の享楽」というラカンの言葉がある。これは快原則の彼岸にある現実界にある享楽ということだが、「女性の享楽」における「女性」という言葉に騙されてはならない。

In a purely differential relationship, each entity consists in its difference from its opposite: woman is not‐man and man is not‐woman. Lacan’s complication with regard to sexual difference is that, while one may claim that “all (all elements of the human species) that is not‐man is woman,” the non‐All of woman precludes us from saying that “all that is not‐woman is man”: there is something of not‐woman which is not man; or, as Lacan put it succinctly: “since woman is ‘non‐all,’ why should all that is not woman be man?” (Slavoj Žižek: Formulae of Sexuation: The Non-All)

もっともこれらはいささか捕捉をしなければならないのは知っている(そうでないと女性に怒られる)。だが、それは次回? あるいはそのうち書くかもしれない。




2014年5月27日火曜日

五月廿七日 「ユーモア」と「超自我」(柄谷行人とフロイト)

今回も前投稿に引き続き、フロイトの『ヒトはなぜ戦争をするのか』に関連する。

柄谷行人のエッセイ「超自我と文化=文明化の問題 には、このアインシュタインとフロイトの往復書簡への言及がある。もっとも「ヒトはなぜ戦争をするのか Why War?」には超自我という語句は一度も出てこない。もっぱらエロスとタナトス(攻撃欲動)、あるいは支配欲動Bemächtigungstriebである。

柄谷行人の『フロイト全集』(岩波書店)「月報」に書かれたらしいこの文章は、今読み返せば、やや疑念を抱かざるをえない叙述がある。

超自我の…性質は何よりも、「ユーモア」という論文(一九二八年)において端的に示されている。フロイトによれば、ユーモアとは、超自我が苦境におかれた無力な自我に「そんなことは何でもないよ」と励ますものなのである。

これは柄谷行人への疑念というよりフロイトのユーモア解釈への疑念である。それはドゥルーズによって示されている。

われわれは、ユーモアというものがフロイトの思惑どおりに強力な超自我を表現するものとは思わない。たしかにフロイトは、ユーモアの一部をなすものとして自我の二義的な特典の必要を認めていた。彼は、超自我の共犯による自我の侮蔑、不死身性、ナルシスムの勝利ということを口にしていた。ところが、その特典は二義的なものではない。本質的なものなのである。だから、フロイトが超自我について提示するイメージーー嘲笑と否認を目的としたイメージを文字通りうけとるのは、罠にはまることにほかならない。超自我を禁止するものが、禁断の快楽獲得のための条件となるのだ。ユーモアとは、勝ち誇る自我の運動であり、あらゆるマゾヒスト的帰結を伴った超自我の転換、あるいは否認の技術なのである。というわけで、サディスムに擬マゾヒスム性があったように、マゾヒスムにも擬サディスム性が存在するのだ。自我の内部と外部とで超自我を攻撃するこのマゾヒスムに固有のサディスムは、サディストのサディスムとはいかなる関連も持ってはいない。(ドゥルーズ『マゾッホとサド』P154 蓮實重彦訳)

『マゾッホとサド』に附された蓮實重彦の解説にはこうある。

ドゥルーズは、精神分析の領域が抽象的な変質をこうむっていた「父親」と「母親」のイメージを修正しつつ、法学的ディスクールをかりて、マゾッホの契約的思考とユーモア、サディスムの制度的思考とイロニーというかたりで、「否定」と「否認」の展開ぶりを明らかにする。それは、とりもなおさず、異質な衝動や本能のあいだに転位は起こりえないと説くフロイトが、なおサディスムを起点としてマゾヒスムの生成を説き続けたことの矛盾を明らかにする役割を果たしている。だが、そのフロイト的自己撞着の指摘によってドゥルーズは精神分析の風土と訣別するのではなく、かえってその領域に深くとどまり、まさに精神のフロイト的基本構造としての「自我」と「超自我」の関係にマゾヒスムとサディスムが対応しているが故に、二つの倒錯症状がたがいに還元性を持ちえない独自の世界であることが立証されるのだ。

フロイト自身の叙述は次の通り。

誰かが他人にたいしてユーモア的な精神態度を見せるという場合を取り上げてみると、きわめて自然に次のような解釈が出てくる。すなわち、この人はその他人にたいしてある人が子供にたいするような態度を採っているのである。そしてこの人は、子供にとっては重大なものと見える利害や苦しみも、本当はつまらないものであることを知って微笑しているのである。(フロイト「ユーモア」 フロイト著作集3 P408)
ユーモアとは、ねえ、ちょっと見てごらん、これが世の中だ、随分危なっかしく見えるだろう、ところが、これを冗談で笑い飛ばすことは朝飯前の仕事なのだ、とでもいうものなのである。

おびえて尻込みしている自我に、ユーモアによって優しい慰めの言葉をかけるものが超自我であることは事実であるとしても、われわれとしては、超自我の本質について学ぶことがまだまだたくさんあることを忘れないでおこう。(……)超自我がユーモアによって自我を慰め、それを苦悩から守ろうとすることと、超自我は両親が子供にたいして持っている検問所としての意味を受けついでいるということとは矛盾しないのである。(同P411)

ドゥルーズはマゾッホのマゾヒズムを調査するなかで、ユーモアは超自我の機能ではないとするのだが、たとえばフロイトの『マゾヒズムの経済的問題』には次のような叙述がある。

マゾヒストは小さな、頼りない、依存した、ひとりでは生きてゆくことのできない子供、しかもとくにきかん気な子供として取り扱われることを欲している (フロイト『マゾヒズムの経済的問題』人文書院旧訳 p302)

「きかん気な」はこの旧訳では「いたいけな」となっているが、英訳を参照して「きかん気な」に変更した。
masochist wants to be treated like a small and helpless child, but, particularly, like a naughty child. (Freud - Complete Works. Ivan Smith 2000, 2007, 2010)

独語はまったく不案内の身だがおそらくこのあたりなのだろう。

der Masochist wie ein kleines, hilfloses und abhängiges Kind behandelt werden will, besonders aber wie ein schlimmes Kind.


訳文のことはこの際どうでもよいが(いや全く逆の意味に受け取れる誤訳ではあるが)、さて、すくなくともマゾヒストのユーモアとは、超自我によるものだという断定は疑ったほうがよいのではないか。むしろ自我が横にずれることによって生じるのではないだろうか。それは「きかん気な」という形容詞が象徴する。超自我の命令とは懲罰的なものであり、受け手が「きかん気な」態度に出る(あるいはドゥルーズのマゾッホ論では契約的な態度を取る)とは相容れないのではないか。

サド=マゾヒスムは、(……)誤って捏造された名前の一つである。記号論的怪物なのだ。みかけは両者に共通するかにみえる記号と遭遇したとき、その度ごとに問題となっていたのは、還元不能の徴候へと解離しうる一つの徴候群だったのである。要約しておこう。

①サディスムと思弁的=論証的能力、マゾヒスムの弁証法的=想像的能力。
②サディスムの否定性と否定、マゾヒスムの否認と宙吊り的未決定性。
③量的な繰り返しと、質的な宙吊り。
④サディストに固有のマゾヒスム、サディストに固有のサディスム、そして両者は決して結合しない。
⑤サディスムにおける母親の否定と父親の膨張、マゾヒスムにおける母親の「否認」と父親の廃棄。
⑥二つの場合における物神的な役割と意味の対立関係、幻影についても同様の対立関係。
⑦サディスムの反審美主義、マゾヒスムの審美主義。
⑧一方の「制度的」な意味、他方の契約的な意味。
⑨サディスムにおける超自我と同一視、マゾヒスムにおける自我と理想化。
⑩性的素質の排除と再強化の対立的二形態。
⑪全篇を要約するかたちで、サド的意気阻喪とマゾッホ的冷淡さとの根源的命題。

以上の十一の命題は、サドとマゾッホの方法の文学的な違いにおとらず、サディスムとマゾヒスムの幾多の違いをも明白に表明すべきものであろう。(『マゾッホとサド』p163)

柄谷行人自身、1992年に書かれた論では次のようにしている。

それがメタレベルに立つのは、同時にメタレベルがありえないことを告げるためである。ヒューモアは、「同時に自己であり他者でありうる力の存することを示す」(ボードレール)ものである。(柄谷行人『ヒューモアと唯物論』)

…………

さて、次の疑念は、柄谷行人自身の記述である次の文にかかわる。

戦争を拒絶するのに必要なのは、罪の感情よりも恥の感情、つまり、そんな下品で野蛮なことはしたくない、という嫌悪感なのである。(『超自我と文化=文明化の問題』)

これも、もともとはフロイトの超自我=自我理想とする叙述(『自我とエス』)に由来するのだが、ラカンやジジェクによれば、超自我=自我理想ではない(もっとも、柄谷行人の「超自我」は標準的な解釈であり、ラカン派視点からみれば異和があるだろう、ということに過ぎない。たとえば日本では中井久夫も、ほぼ柄谷行人が使う意味での「超自我」という語を使っている)


これらはフロイトの『自我とエス』にて、「超自我」は「自我理想」と等号がおかれているためやむえないところがある。いや、ほとんど等号が置かれている、としておこう。すくなくとも第三章の表題は「自我と超自我(自我理想)」となっている。

だがフロイト自身、「自我理想」の二面性を指摘している。

エディプスコンブレクスに支配された性的発達段階の最も一般的な結果として、自我のうちの沈殿物を仮定しうる。それは、何らかのかたちで両立することができる、これら二つの同一化〔父同一化と母同一化〕を生み出すものである。こうして生じた自我変容は、その特権的地位を保ち、自我理想ないし超自我として、それ以外の自我の内容に対立するようになる。

しかし、超自我はエスが最初に対象を選択したさいのたんなる残存物ではなくて、その対象選択にたいする精力的な反動形成の意味ももっている。その自我との関係は「お前はこうで(父のようで)あらねばならない」という勧告につきるものではなく、「お前がこうで(父のようで)あることはゆるされない」すなわち、父のなすことのすべてを行ってはならない、という禁制をもふくんでいる。すなわち多くのことが父のために残されている。自我理想のこの二面は、自我理想がエディプス・コンプレックスの抑圧の労をおわされており、それどころか自我理想の成立が、そもそもこの急転によるものである。(『自我とエス』フロイト著作集 6 P280からだが「フロイト翻訳正誤表」の指摘により一部変更)


90年初めのまだ若いジジェクによれば、フロイトの『自我とエス』を読むポイントのひとつは、次のようである。

フロイトの「自我とエス」というタイトルの見事なアイロニーは、この論文の真の理論的革新を含んでいる決定的に重要な概念を除外していることである。本来ならば、このタイトルは「自我とエスとの関係における超自我」となるべきであろう。

したがって、無意識は野蛮で無法な欲動の「貯水池」であるという通常の考え方は捨てなければならない。無意識は同時に(何よりもまず、とすら言いたくなる)、外傷的で、残酷で、気まぐれで、「理解できない」、「不合理な」、法のテクスト、すなわち一連の禁止と命令の、断片の集積でもある。いいかえれば、「正常な人間は、自分で考えているよりもはるかに反道徳的であるだけでなく、自分が知っているよりもはるかに道徳的である、という逆説的な命題を提出」しなければならないのである。これは『自我とエス』からの引用だが、この「考えている」と「知っている」の区別は、正確には何を意味しているのだろうか。まるでちょっと筆が滑っただけのように見えるし、実際、この部分に添えられた註ではこの区別は失われている。その註において、フロイトは次のように述べているーーこの命題は「たんに、人間の性質は、善に関しても悪に関しても、自分で考えているglaubtよりも、つまり自我がその意識的知覚を通して気づいているよりも、はるかに程度が大きい」ということを言っているのだ、と。ラカンはわれわれに教えてくれたーーこのように一瞬あらわれてはその後すぐに忘れられる区別には最大限の注意を払わなければならない、なぜならそれらを通して、フロイトの決定的に重要な洞察を探り当てることができるからだ、フロイト自信はその洞察の重大な意義に気づいていないのだ、と(一例だけ挙げるならば、ラカンが、これと同様の、自我理想と理想自我との「口がすべったかのような」区別から何を引き出したかを思い出してみようではないか)。

では、「考えている」と「知っている」との束の間の区別は何を意味しているのか。結局のところ、答えは一つしかない。もし人間が、自分が(意識的に)考えているよりも反道徳的で、(意識的に)知っているよりも道徳的だとしたら、いいかえれば、もしエス(禁じられた欲動)に対する彼の関係が「考えている(考えていない)」という関係で、超自我(とその外傷的な禁止と命令)に対する関係が「知っている(知らない)」という関係、つまり無知の関係だとしたら、次のように結論しなけらばならないのではなかろうか。すなわち、エスそのものは抑圧された無意識的な考えからなり、超自我は無意識的な知からなる(その知は、主体の知らない逆説的な知である)、と。すでに見たように、フロイト自身は超自我を一種の知と見なしている(「超自我は無意識的なエスについて自我よりも多くを知っている」)。(『斜めから見る』)

そして自我理想と超自我の関係は次のように書かれることになる。

フロイトは、主体を倫理的行動に駆り立てる媒体を指すのに、三つの異なる術語を用いている。理想自我、自我理想、超自我である。フロイトはこの三つを同一視しがち、……だがラカンはこの三つを厳密に区別した。

<理想自我>は主体の理想化された自我のイメージを意味する(こうなりたいと思うような自分のイメージ、他人からこう見られたいと思うイメージ)。

<自我理想>は、私が自我イメージでその眼差しに印象づけたいと願うような媒体であり、私を監視し、私に最大限の努力をさせる<大文字の他者>であり、私が憧れ、現実化したいと願う理想である。

<超自我>はそれと同じ媒体の、復讐とサディズムと懲罰をともなう側面である。
『ラカンはこう読め』2006)

ここに「同じ媒体の」と書かれているように、「自我理想」と「超自我」を厳密に分けているわけではないように思えるが、続いて次のように書かれることになる。

この三つの術語の構造原理の背景にあるのは、明らかに、<想像界><象徴界><現実界>というラカンの三幅対である。理想自我は想像界的であり、ラカンのいう<小文字の他者>であり、自我の理想化された鏡像である。自我理想は象徴界的であり、私の象徴的同一化の点であり、<大文字の他者>の中にある視点である(私はその視点から私自身を観察し、判定する)。超自我は現実界的で、無理な要求を次々に私に突きつけ、なんとかその要求に応えようとする私の無様な姿を嘲笑する、残虐で強欲な審級であり、私が「罪深い」奮闘努力を抑圧してその要求に従おうとすればするほど、超自我の眼から見ると、私はますます罪深く見える。見世物的な裁判で自分の無実を訴える被告人についてのシニカルで古いスターリン主義のモットー(「彼らが無実であればあるほど、ますます銃殺に値する」)は、最も純粋な形の超自我である。

これらの厳密な区別から、ラカンにとって、超自我は「その最も強制的な要求に関しては、道徳意識とはなんの関係もありません」。それどころか超自我は反倫理的な審級であり、われわれの倫理的裏切りの烙印である。(ジジェク『ラカンはこう読め』)


さらにはまた、2012年に上梓された書にて、「罪の感情は、超自我に由来し、恥の感情は自我理想に由来する」という意味に取れる文がある。

gaze–shame–Ego Ideal, and voice–guilt–superego. (Slavoj Žižek: Presence『LESS THAN NOTHING』 2012)

この解釈であるなら、柄谷行人が「超自我」を語るなかでの《罪の感情よりも恥の感情、つまり、そんな下品で野蛮なことはしたくない、という嫌悪感》という文章における《恥の感情》は自我理想に由来することになる。

さらにはジジェクは同じ書で、死の欲動と超自我の関係を、対象aと関連付けて書いている箇所がある(Slavoj Žižek: The Objet a Between Form and Content)。
Perhaps this double status of the objet a also provides a clue to the relationship between the death drive and the superego.…

One path to take here would be to link this duality of the superego and the drive to the duality in the status of the objet petit a: is not the “superego,” as the name for the excess of the drive, the object in its aspect of material reality, the foreign intruder that “drives me crazy” with its impossible requests; and is not the OwB the object in its aspect of a purely formal structure? Both aspects display the same self‐propelling structure of a loop: the more the subject obeys the superego, the more he is guilty, caught up in a repetitive movement homologous to that of the drive circulating around its object. The passage from the first to the second aspect is itself structurally homologous to that of the Rabinovitch joke, or of the problem which is its own solution: what, at the level of the superego, appears as a deadlock (the more I obey, the more I am guilty …) turns into the very source of satisfaction (which is not the object of the drive, but the very activity of repeatedly encircling it).19

もっともこのジジェク=ラカンの解釈も異論の余地があるのかもしれない。


ここでの文脈とはあまり関係がないが、上の文に附された注に、フロイトの《愛は抑止された欲望から生まれる》をめぐって、愛と欲動の関連が書かれている文があり、これはしばしば語られてきた「標準的な」フロイト=ラカン派の愛の解釈でありながら、その表現がおもしろいので附記しておこう。

19) According to Freud, love arises out of the inhibited desire: the object whose (sexual) consummation is prevented is then idealized as a love object. This is why Lacan establishes a link between love and drive: the space of the drive is defined by the gap between its goal (object) and its aim, which is not to directly reach its object, but to circulate around the object, to repeat the failure to reach it—what the drive and love share is this structure of inhibition.

禁止された愛の対象が理想的なのであり、ひとはその対象aのまわりを永遠的に反復する。禁止されていなかったら「飛んで火にいる夏の虫」であり、性交渉が終ったら熱烈な愛はすぐさま死に終る(いや、シツレイ! そういう傾向が多い、とだけしておこう)。

欲望が、「飛んで火に入る夏の虫」であるなら、欲動は、灯火にむれる蛾の灯りを目ざしてはそれてゆく、その反復運動である(ロメオとジュリエット、ウェルテル……)。






2014年5月26日月曜日

五月廿六日 フロイトの『Why War?』における愛と憎悪

前回の「『ヒトはなぜ戦争をするのか』におけるBemächtigungstrieb」の補遺であり、フロイトの『ヒトはなぜ戦争をするのかーアインシュタインとフロイトの往復書簡』(Warum Krieg? 1933)におけるBemächtigungstrieb(征服欲動)ではなく、ここでは「愛と憎悪」をめぐる。すなわち、フロイトの《エロスと破壊欲動は、愛と憎悪を言い換えたに過ぎない》という叙述をめぐって。

…………

愛と憎悪をめぐっては、最晩年のフロイトの著作『終りある分析と終りなき分析』(1937)‘Die endliche und die unendliche Analyse’にて、「Philia 愛とNeikos闘争」と言い換えている。この論文は、ラカンがフロイトの「遺言」と呼んだことでも有名である。

アクラガス(ギルゲンティ)のエンペドクレスは、ギリシア文化史中もっとも偉大な注目すべき人物の一人のようである。(……)彼は事物がそれぞれにみな異なったものであるという事実を、四つの元素、地・水・火・風の組合せによって説明し、自然のすべてに生命があるということと魂の輪廻とを信じていた。(……)

……この哲学者は、世俗の生活の中の出来事にも、魂の生活の中の出来事にも、互いに永遠の闘争を行っている二つの原理があると教えている。彼はその二つを 愛philia – Liebe と闘争 neikos – Streitと呼んだ。彼にとっては根柢において「本能的にtriebhaft作用する自然力であり、けっして目的を意識した知性ではない」これらの力のうちの一つ、すなわち愛は、四つの元素の原子を集めて一つの統一体をなそうとするものであり、他の一つ、すなわち闘争は反対にこれらの組合せを元に戻して元素の原子をばらばらに分離しようとするものである。彼はこの世界の時間的な発展過程を、さまざまの時期の持続的な、けっして熄むことのない交替と考えている。そして各時期においては二つの基本的な力のうちのいずれかが勝利を得て、あるときは愛が、あるときは闘争がその意図を完全に遂行して世界を支配するのであるが、その後、他の屈服した方の力がその持ち前を発揮して今度は相手を屈服させてしまうというわけである。

エンペドクレスの二つの根本原理――philia 愛とneikos闘争 ――は、その名称からいっても機能からいっても、われわれの二つの根源的本能(欲動;引用者)、エロスと破壊beiden Urtriebe Eros und Destruktionと同じものである。その一方は現に存在しているものをますます大きな統一に包括しようと努め、他のものはこの統一を解消し、統一によって生れたものを破壊しようとする。フロイト『終りある分析と終りなき分析』人文書院 旧訳

ここにも『Why War?』において愛と憎悪がエロスと破壊衝動とされたのと同じように、「philia 愛とneikos闘争」が、エロスと破壊(タナトス)とされているが、注目したいのは、《その一方は現に存在しているものをますます大きな統一に包括しようと努め、他のものはこの統一を解消し、統一によって生れたものを破壊しようとする》という表現だ。エロスがなにか大きなものへの融合の働きであり、タナトスがその融合を破壊する働きとされていること。

とすればBemächtigungstrieb(征服欲動)をタナトスに側に位置づけるのはいささか矛盾があるのではないか。征服とは、融合を破壊することというより、融合を求める側にあるといえるのではないか。もしそうなら、征服欲動はエロスの側にある。だがもちろん他者によって既に融合されている(占有されている)場に割り込んでその他者を排除しようとするのが征服なら、これはタナトスの側になる。

前回も引用した漱石の「断片」の冒頭にはこうあった、《二個の者がsame spaceヲoccupyスル訳には行かぬ。甲が乙を追い払うか、乙が甲をはき除ける二法あるのみぢや。》(夏目漱石「断片」 明治38−39年)

このあたりがフロイトが「欲動融合Triebmischung」(エロスとタナトスが殆ど常に融合して現れること)を語るひとつの大きな理由でもあるのだろう。

このように〈same space〉の占有、あるいは愛の〈対象〉との所有という観点を導入すると、たちまち二つの欲動は混じりあってしまう(そもそも「欲動」にとって対象は重要ではない、というフロイトの『性欲論三篇』の叙述はその論文のBemächtigungstriebの検討に俟つ。ここではただ目的endではなく目標aimが肝要だというラカンの欲動論だけを想起しておく)。だがエロスが、永遠の生、あるいは母なる大地との融合を目指す働きとすればどうだろう。

The loss of eternal life, which paradoxically enough is lost at the moment of birth, that is, birth as a sexed being, because of meiosis (LACAN Seminar XI).

エロスが永遠の生、あるいは母なる大地に回帰する動きであるなら、他者を排除する必要はない。ただし融合が完遂してしまえば、個としての生命は死滅する。タナトスはその死滅を忌避するため、融合から分離する働きとすれば、フロイトの叙述、《その一方は現に存在しているものをますます大きな統一に包括しようと努め、他のものはこの統一を解消し、統一によって生れたものを破壊しようとする》という文の説明になる。

ポール・ヴェルハーゲが、《生の欲動(エロス)は死を目指し、死の欲動(タナトス)は生を目指す》とするのはこのことを言い表わそうとしている。

life drive aims towards death and the death drive towards life (Paul Verhaeghe『Phallacies of binary reasoning: drive beyond gender』

漱石の「〈same space〉の占有、あるいは愛の〈対象〉との所有」における「占有」、「所有」などの語彙はヴェルハーゲによれば快原則の此岸の言語の差異のシステム、象徴界における語彙群にすぎず、欲動、すくなくともエロスは、快原則の彼岸(現実界)にあるとする。

《The whole contains the not-whole, which ex-sists in this whole》.(Paul Verhaeghe "Mind your Body ")ーーすなわち象徴界の全体は非-全体を含んでいる。その非-全体は象徴界の全体の中に外-存在する。それが快原則の彼岸である。


ところで、ヴェルハーゲの論には、タナトスをビオスbios欲動,そしてエロスをゾーエーZoë欲動とする叙述がみられる。

Freud's Thanatos drive ensures the continuation of individual life against its disappearance in the other. Interpreted in this way, the death drive is a bios drive, bios being the ancient Greek name for the individual life that dies but also for how an individual conducts his or her own life. Zoë, on the other hand, is eternal life itself: the thread that runs through the limited bios and is not broken when the particular perishes. Read in this way, Freud's Eros is a Zoë drive, and Thanatos is a bios drive.(Paul Verhaeghe『Phallacies of binary reasoning: drive beyond gender』)

ビオスとゾーエーは古代ギリシャ人が語った概念であり、フロイト派ならぬユング派のカール・ケレーニイの著作に次のように書かれている。

ゾーエーはすべての個々のビオスをビーズのようにつないでいる糸のようなものである。そしてこの糸はビオスとは異なり、ただ永遠のものとして考えられるのである。(カール・ケレーニイ『ディオニューソス.破壊されざる生の根源像(Dionysos.Urbilddesunzerst・rbarenLebens)』1976)

『ディオニューソス.破壊されざる生の根源像』という書名にあるように、ディオニソスは、ゾーエー(破壊されざる生)、エロスの神ということになる。とすれば、ディオニソス/アポロンの対立は、エロス/タナトスの対立となるのか。無限の生(ゾーエー)/一回性の生(ビオス)と。だが前回みたように、フロイトがBemächtigungstrieb(征服欲動)と殆ど同じものとするーー(《破壊欲動とか征服欲動とか権力への意志》(Destruktionstrieb, Bemächtigungstrieb, Wille zur Macht)ーー”Wille zur Macht”(権力の意志)はフロイトの言うようにタナトスだとしたら?

『ツァラトゥストラ』のグランフィナーレの「酔歌」を、だれがタナトスの歌として聴くことができよう。だれがビオスの歌として聴くことができよう。

――いっさいのことが、新たにあらんことを、永遠にあらんことを、鎖によって、糸によって、愛によってつなぎあわされてあらんことを、おまえたちは欲したのだ。おお、おまえたちは世界をそういうものとして愛したのだ、――「悦楽(享楽)と永劫回帰」より

《糸によって、愛によってつなぎあわされてあらんこと》だって? ケレーニイの《ゾーエーはすべての個々のビオスをビーズのようにつないでいる糸のようなもの》は、ニーチェからの剽窃ではないのか? パクリではないのか? 

ーーというのはこの際どうでもよろしい。

さて、ケレーニンによって、女性はゾーエーの象徴であり、男性はビオスの象徴である、という言い方がされる。女性は「無限の生」(zoe)の体現者であり、男性は[一回的な生](bios)の体現者でしかない、と。ゾーエーとは、ひとつかぎりの真珠(ビオス)のビーズを繋げる糸なのであり、《破壊を受け容れず遺伝子のように固体を越えて連続する生》であるとされる。

女たちは、生み、育て、そして老いて死ぬ。「創造→維持→破壊」の循環、「死と再生」の体現者である女性は、「無限の生命zoe」の象徴であり、男性は一回限りの「有限の生命bios」でしかないコンプレックスを持っていたなどという見解もある。《当時の男たちの「去勢」の試みは、ゾエzoeへの憧憬からなされた》と(「古代母権制社会研究の今日的視点―神話と語源からの思索・素描」松田義幸・江藤裕之ーー参照:バッハオーフェンの「母権制」と、ニーチェ、あるいはドゥルーズ=マゾッホ)。

ビオスは《タナトス(死)に対置された特徴ある一回的な生》であり、ゾーエーとは《破壊を受け容れず遺伝子のように固体を越えて連続する生》とするケレーニイに依拠するヴェルハーゲのエロスとタナトス解釈は、ジジェクにみられるタナトス(死の欲動)解釈とは一見大きく相反する。

フロイトの「死の欲動」(……)。ここで忘れてはならないのは「死の欲動」は、逆説的に、その正反対のものを指すフロイト的な呼称だということである。精神分析における死の欲動とは、不滅性、生の不気味な過剰、生と死、生成と腐敗という(生物的な)循環を超えて生き続ける「死なない」衝動である。フロイトにとって、死の欲動とはいわゆる「反復強迫」とは同じものである。反復強迫とは、過去の辛い経験を繰り返したいという不気味な衝動であり、この衝動は、その衝動を抱いている生体の自然な限界を超えて、その生体が死んだ後まで生き続けるようにみえる。(ジジェク『ラカンはこう読め!』)

敢えて図式化して言えば、ヴェルハーゲの解釈ではエロス(無限の生であるゾーエー)の掌に乗って活動するのがタナトス(一回性の生ビオス)であり、ジジェクに叙述によれば、循環を超えて生き続けるタナトスの掌に乗って活動するのがエロスということになる。ジジェクは、《すべての欲動は実質的に死の欲動である》(Ec, 848)とするラカンに大きく依拠しているに相違ない。

ジジェクの考え方を、エロスはタナトスの掌に乗って(反復)活動する、としたのは、ジジェクは反復欲動に関しては、ドゥルーズの『差異と反復』の叙述を全面的に受け入れているからだ。

eros and thanatos differ in that eros has to be repeated, can be experienced only in repetition, while thanatos (as the transcendental principle) is that what gives repetition to eros, what submits eros to repetition.”ーー「ドゥルーズとジジェクの死の欲動」より

ジジェクは、フロイトは自らの発見の視野を誤解してしまっている、とさえ書いている、《he himself misunderstood the scope of his own discovery》


いずれにせよ「死の欲動」という言葉に騙されてはならない。それは「死」とはあまりかかわりがない。ジジェクに言わせれば「死なない欲動」なのであり、ヴェルハーゲに言わせれば、融合によって個が死滅してしまうことを忌避する分離欲動なのだ。「死の欲動」の「死」は死ぬことではないという点ではふたりの見解は一致する。

ラカン理論の精力的な紹介者でもあるヴェルハーゲは、エロスとタナトスにかんしては、フロイトに戻って考えている。ヴェルハーゲのエロス融合から分離しようとする欲動をタナトスとする考え方は、たとえば『文化への不満』におけるフロイトの叙述にもある。

文化は、最初は個々の人間を、のちには家族を、さらには部族・民族・国家などを、一つの大きな単位――すなわち人類――へと統合しようとするエロスのためのプロセスである。われわれにわかるのは、それがエロスの仕業だということだけで、なぜぜひともそうでなければならないのかの理由はわからない。これらの人間集団は、リピドーの力によってたがいに結びつけられなければならない。(……)ところが、人間に生まれつき備わっている攻撃欲動――万人がたがいに抱いている敵意――がこの文化のプログラムに反対する。この攻撃欲動は、われわれがエロスと並ぶ二大宇宙原理の一つと認めたあの死の欲動から出たもので、かつその主要代表者である。ところで、ここまでくれば、文化の発展の持つ意味はすでに明らかと言ってよいだろう。文化とは、人類を舞台にした、エロスと死のあいだの、生の欲動と死の欲動とのあいだの戦いなのだ。この戦いこそが人生一般の本質的内容であるから、文化の発展とは、一言で要約すれば、人類の生の戦いあのだ。それなのにわれわれの乳母たちはこれら両巨人のこの争いを「来世についての子守歌」(ハイネ)を歌ってなだめようとするのだ。(フロイト『文化への不満』フロイト著作集3 P477)

エロスのプロセスが、大きな単位へと統合しようとすること、攻撃欲動(敵意)がそれに反対することとある。これはまさにヴェルハーゲのエロスとタナトス解釈と同じ内容である。繰りかえせば、彼の解釈は、母なる大地へと個が統合しようとするのがエロス、その統合の完遂してしまえば個が消滅してしまうので、そこから分離しようとするのがタナトスというものであった。無限の生ゾーエーへの融合/一回性の生ビオスへの分離ということである。

この統合と分離の現象は、われわれの日常的な印象にもある。友愛と同一化の日本植民地政策は、被支配民に不分明な憎悪を生んだ。ヨーロッパ共同体が統合に向えば、分離のナショナリズムの衝動が芽生える。

もっとごく一般的に言ってしまえば、ヘーゲル流の「人間の社会的欲望には、他人を模倣して他人と同一の存在であると認めてもらいたい模倣への欲望と、他人との差異を際立たせ自己の独自性を認めてもらいたい差異化への欲望とのふたつ」があり、これも統合/分離の対比である。


さて、ここでドゥルーズのマゾッホ論における三人の女の叙述を想い起しておこう。

マゾッホによる三人の女性は、母性的なるものの基本的イメージに符号している。すなわちまず原始的で、子宮としてあり古代ギリシャの娼妓を思わせる 母親、不潔な下水溝や沼沢地を思わせる母親がある。―――それから、愛を与える女のイメージとしてのエディプス的な母親、つまりあるいは犠牲者として、あ るいは共犯者としてサディストの父親と関係を結ぶことになろう女がある。―――だがその中間に、口唇的な母親がいる。ロシアの草原を思わせ、豊かな滋養を さずけ、死をもたらす母親である。(……)滋養をさずけ、しかも無言であることによって、彼女は他を圧する……。彼女は最終的な勝利者となる。(ドゥルーズ『マゾッホとサド』蓮實重彦訳ーーエロスとゆらめく閃光

このドゥルーズの叙述はフロイトのシェイクスピア論の三人の女たち、《母それ自身と、男が母の像を標準として選ぶ愛人と、最後にふたたび男を抱きとる母なる大地》((フロイト『小箱選びのモティーフ』1913)にも依拠しているのだが、マゾッホ自身はニーチェの師でもあったバッハオーフェンに依拠しているはずである(ニーチェの『悲劇の誕生』の「ディオニュソス的世界観」はバッハオーフェンの「バッコス的世界観」の剽窃ーーとまでは言いたくないが、BakkhosはDionȳsosの別名である)。

ーー「あ、バッカス(ディオニュソス)の楽隊が通る」(古代ギリシャ・ローマ人たちは、深夜に得体の知れない物音が通過したらこのように言った)。

ドゥルーズはマゾッホ論のなかでわざわざ次のように記している、《マゾッホは、偉大な人類学者でヘーゲル派の法律学者でもある同時代人のバッハオーフェンを読んでいた。》(ゾーエーとビオスを語るユング派ケレーニイにもバッハオーフェンの臭いがしてくるのは、ユングが熱心なバッハオーフェン読みであったことから当然であろう)。

問題は、ドゥルーズの書く口唇的な母親、《ロシアの草原を思わせ、豊かな滋養を さずけ、死をもたらす母親》に回帰しようとするのが、エロスなのか、タナトスなのか、ということだろう。フロイトやヴェルハーゲは、この大地の母に回帰しようとするのをエロスとする。ドゥルーズやジジェクならば、ここに死の欲動(タナトス)の永遠の反復運動をみる。いやタナトスの反復の隠れた力に促されたエロスの動きをみる。エロスはタナトスの掌に乗った動きでしかない。すなわち一元論なのだ。《there is only one drive, libido, striving for enjoyment》


このジジェクの欲動(死の欲動)の考え方は90年代初めから変わってはいない。

……ラカンが言わんとしたのは、欲動の真の目的はその終点(充分な満足)ではなく、その目標である。欲動の究極的目標は、たんに欲動それ自身が欲動として再生産されること、つまりその循環的な道に戻り、いつまでも終点に近づいたり遠ざかったりしつづけることである。享楽の真の源泉はこの閉回路の反復運動である。(ジジェク『斜めから見る』)

ところで、『枯木灘』の秋幸は、ある欲動に衝き動かされて大地をつるはしで掘る官能のうちに「死」を垣間見る。

秋幸はまた働いた。自分が考えることもない一本の草の状態にひたっていたかった。過去も未来もない。風を受けとめ、光にあぶられて働く。土がつるはしを引くと共に捲れ、黒く水気をたくわえた中を見せる。それは土の肉だった。土の中に埋まって掘り出された石はさながら大きな固い甲羅を持つ動物が身を丸めて眠っている姿だった。いや死体に見えた。土の中の石は死そのものだ。肉も死も日に晒され、においを放ち、乾いた。掘り出され十分もすればそれらは風景の中に同化した。(中上健次『枯木灘』)

これはエロスの涯の「個」の死滅の象徴なのか、それとも母なる大地との性交を果たした後の反復される「小さな死la petite mort」のひとつなのか。ここで私見を語ることは敢えて慎むが、今、束の間に過ぎないにしても、どのように考えているのかは、下記に続く叙述におそらく露顕せざるをえないだろう。

…………

フロイトには、エロスとタナトス、愛と憎悪、愛と闘争の二項対立以外にも、愛とアナンケANANKEの二項がある。

人類の共同生活は、外部からの苦難によって生まれた労働への強制と、愛の力 ――男性の側からいえば性欲の対象である女性を、そして、女性の側からいえば自分の分身である子供を、手許にとどめておこうとする愛の力 ――という二重の楔によって生まれたのだ。すなわち、エロス(愛)とアナンケ(宿命)は、人間文化の生みの親ともなったのだ。(『文化への不満』P460)
「文化過程とは、生過程が、エロスによって与えられアナンケーー現実の苦難ーーによって触発された使命の影響によって変形を蒙って生れたもので、この使命とは、個々の人間を統合し、たがいにリピドーによって結び合わされた共同体を作ることである」と。(同 P491)

ーーこう書いた後、「けれども……」と続けるフロイトがいる(「けれども」の後はここでは敢えて割愛する)。また『自我とエス』で次のように書くフロイトもいる。

完全な性的満足の後の状態と死は類似しているし、下等動物では死と交尾とが一致する。これらの生物が生殖行為の中で死ぬのは、満足によってエロスが後退してしまったのちに、死の衝動が自由になって、その目的を遂行することができるからである。(フロイト『自我とエス』)

《le chemin vers la mort n'est rien d'autre que ce qui s'appelle la jouissance》 (Lacan"Le Séminaire, livre XVII)

すなわち、《死への道は享楽と呼ばれるものに他ならない》(私訳)だが、ヴェルハーゲはこれを次のように解釈するのだ。

Eros belongs to the other jouissance, but kills the individual; Thanathos belongs to the phallic enjoyment, which ends in la petite mort (Verhaeghe, P. (2001). Subject and Body. Lacan's Struggle with the Real. )

すなわち、エロスは〈他者〉の享楽、--快原則の彼岸にある享楽(現実界の享楽)ーーであり、〈個〉を殺す。タナトスはファリックな享楽(快楽)ーー典型的には性交によるオーガズムで、快原則の此岸にある快楽(象徴界の享楽)ーーであり、小さな死la petite mortに終る。

この2001年に上梓された論の叙述は、「標準的な」タナトス解釈からは、一見ひどく懸け離れているように見える。これを額面通り受け取ると、エロスが現実界サイドの欲動であり、タナトスは象徴界サイドの欲動ということになるのだから。もちろん、ここで非ー全体の論理、《象徴界の全体は非-全体を含んでいる。その非-全体は象徴界の全体の中に外-存在する。それが快原則の彼岸である。》や「欲動融合Triebmischung」(エロスとタナトスが融合して現れること)想い起こさねばならない。

だが、こうも言える。われわれは社会的存在として〈母〉との融合を拒絶する能動的なかつ自立的な、(エロスの融合欲動ではなく)タナトスの分離欲動に促された日常を送っている。それは象徴界の存在、快原則の此岸の存在である。だがその快原則の彼岸の現実界には、常に母なる大地との受動的融合を願う絶え間ないエロス欲動に囚われた衝動がある、と。

現実、それは言語(シニフィアン)の差異の体系(象徴界)によって歪められた現実界である。《現実は現実界のしかめっ面》(ラカン『テレヴィジョン』)であり、そこには《裂け目の光のなかに保留されているもの》(ラカン)の出現―消滅がある。世界の罅割れがある。《愛するという感情が不意に訪れるとしたら、それはどのようにしてなのか、とあなたは訊ねる。彼女は答える-たぶん、世界の論理の突然のひびわれから。彼女はいう-たとえば、ひとつの過ちから。彼女はいう-意志からは決して》(マルグリット・デュラス「死の病い」 )

現実は象徴界によって多かれ少なかれ不器用に飼い馴らされた現実界である。そして現実界は、この象徴的な空間に、傷、裂け目、不可能性の接点として回帰する。

reality is the Real as domesticated—more or less awkwardly—by the symbolic; within this symbolic space, the Real returns as its cut, gap, point of impossibility(François Balmès, Ce que Lacan dit de l'être)――ジジェク『LESS THAN NOTHING』 より孫引きであり、邦訳は私訳

ファリックな享楽、あるいは性的享楽は象徴界の領域のものである。象徴界の彼方には、ノンファリックな享楽、〈他者〉の享楽、精神病的な享楽がある。

there is a jouissance beyond the pleasure principle; on the other hand, we have a pleasure within the pleasure principle. According to Lacan, the pleasure principle is a phallic principle, and the phallic or sexual jouissance always stays within the realm of the signifier. The phallic signifier is what introduces the dimension of gender to both sexes, and thus induces a concentration on signified parts of the body. In contrast to this, there is non-phallic jouissance, the "other" jouissance, the "psychotic jouissance", "jouissance of the being" or "jouissance of the Other". This jouissance lies outside of language and thus beyond the gender differentiation; it belongs to the body as an organism.(Paul Verhaeghe, "SUBJECT AND BODY. Lacan's Struggle with the Real.")

ヴェルハーゲのこれらの叙述には、すこし前に引用した文には《phallic or sexual jouissance》とあり、ここでは《phallic enjoyment》とあって表現の混在がある。また別に《phallic pleasure》ともある。

・Phallic pleasure is, first of all, a pleasure through the signifier

・On the one hand there is a jouissance through the signifier, meaning the pleasure principle, meaning phallic. On the other hand something has to be situated beyond this but at the same time incorporated in it, providing jouissance to the Other.

これらの表記の混在は、意図的であるのだろうがーー文脈の流れのなかでの表現なのか、あるいは非-全体の論理を念頭に置いたものなのか、あるいはまた別の理由なのかーーこのあたりは瞭然としない。

なお、このヴェルハーゲの『SUBJECT AND BODY』は、もともと『Byond Gender』(2001)の第五章であり、すこし前に掲げた『Subject and Body』は同じ書の第六章である。この第六章が、ブルース・フィンク他の編集による『Reading Seminar XX Lacan's Major Work on Love, Knowledge, and Feminine Sexuality』(Editor Suzanne Barnard& Bruce Fink 2002)にそのまま変更なしに掲載されている。他の論文の著者は、フィンクの論も含め、Colette Soler、Slavoj Zizek、Renata Saleclほか錚々たる執筆群の八人である(フィンクは、最近二十年近く前の著書『後期ラカン入門:ラカン的主体について』(1996)が漸く邦訳され、日本でも少しはその名が知られるようになったはず。かなり前に書かれたジジェクのこの書の書評を読むことができる→  Love beyond Law •Slavoj Zizek)。







2014年5月25日日曜日

五月廿五日 『ヒトはなぜ戦争をするのか』におけるBemächtigungstrieb

『マゾヒズムの経済的問題』におけるBemächtigungstrieb」に引き続き、フロイトの「ヒトはなぜ戦争をするのかーアインシュタインとフロイトの往復書簡」(Warum Krieg? 1933におけるBemächtigungstrieb(征服欲動)。だがこの論文は手元に邦訳がなく、フロイトの標準的な英訳(Freud - Complete Works. Ivan Smith 2000, 2007, 2010)から抜粋することにする。“instinctと出て来る語は“driveと読み替えなければならない。下に黒字強調した”the instinct for mastery”が”Bemächtigungstrieb”である。

Why War?

I can now proceed to add a gloss to another of your remarks. You express astonishment at the fact that it is so easy to make men enthusiastic about a war and add your suspicions that there is something at work in them - an instinct for hatred and destruction - which goes halfway to meet the efforts of the warmongers. Once again, I can only express my entire agreement. We believe in the existence of an instinct of that kind and have in fact been occupied during the last few years in studying its manifestations. Will you allow me to take this opportunity of putting before you a portion of the theory of the instincts which, after much tentative groping and many fluctuations of opinion, has been reached by workers in the field of psycho-analysis? According to our hypothesis human instincts are of only two kinds: those which seek to preserve and unite - which we call ‘erotic', exactly in the sense in which Plato uses the word ‘Eros' in his Symposium, or ‘sexual', with a deliberate extension of the popular conception of ‘sexuality' - and those which seek to destroy and kill and which we group together as the aggressive or destructive instinct. As you see, this is in fact no more than a theoretical clarification of the universally familiar opposition between Love and Hate which may perhaps have some fundamental relation to the polarity of attraction and repulsion that plays a part in your own field of knowledge. But we must not be too hasty in introducing ethical judgements of good and evil. Neither of these instincts is any less essential than the other; the phenomena of life arise from the concurrent or mutually opposing action of both. Now it seems as though an instinct of the one sort can scarcely ever operate in isolation; it is always accompanied - or, as we say, alloyed - with a certain quota from the other side, which modifies its aim or is, in some cases, what enables it to achieve that aim. Thus, for instance, the instinct of self-preservation is certainly of an erotic kind, but it must nevertheless have aggressiveness at its disposal if it is to fulfil its purpose. So, too, the instinct of love, when it is directed towards an object, stands in need of some contribution from the instinct for mastery if it is in any way to obtain possession of that object. The difficulty of isolating the two classes of instinct in their actual manifestations is indeed what has so long prevented us from recognizing them.

・《human instincts(drives) are of only two kinds》、すなわち人間の欲動はふたつの種類しかないとあり、エロス欲動と並べて、「殺害し破壊するを追求する」欲動とされており、「攻撃欲動」ともある。《those which seek to destroy and kill and which we group together as the aggressive or destructive instinct.》。

・エロスと破壊欲動は、愛と憎悪を言い換えたに過ぎない、とされる。だが速断してならないのは、これらの二つの欲動はどちらも欠かすことができないことだ、と。《Neither of these instincts is any less essential than the other》。

・エロスと破壊欲動は独立して働くことは稀にしかない。《an instinct of the one sort can scarcely ever operate in isolation》。

・愛の欲動(エロス)は、“the instinct(drive) for mastery”の助けがあって初めて可能になるとある。《the instinct of love, when it is directed towards an object, stands in need of some contribution from the instinct for mastery if it is in any way to obtain possession of that object.》

ここでフロイトはアインシュタインへの手紙ということもあり、専門的な語彙を極力使用せずに語ろうとしている。「タナトスthanatos」という用語も出てこないし、「欲動融合Triebmischung」(エロスとタナトスが融合して現れること)とも言わない。そのとき現れるのが、「支配欲動the instinct for mastery」である。

the instinct for mastery”とは繰りかえせば、Bemächtigungstrieb(征服欲動)のことであり、ここでフロイトは殆ど「殺害し破壊を追及する」欲動、攻撃欲動と征服欲動を同じものとして扱っている。もちろん愛の対象を所有するためには、征服欲動が欠かせないには相違ない。もし「征服」という言い方に異和があるのなら、こう言ってもいい、――《愛しているときのわたしはいたって排他的になる》(フロイト『書簡集』)――すなわち「排他欲動」と。

「排他」、すなわち排除と選別の運動であり、そこには攻撃する力が要請される。夏目漱石は「排除」と「差別」ではなく「融合」と「共存」と日本的風土のまどろみから目覚めさせられた衝撃を、英国留学から帰還後次のように書き綴っている。

二個の者がsame spaceヲoccupyスル訳には行かぬ。甲が乙を追い払うか、乙が甲をはき除ける二法あるのみぢや。甲でも乙でも構はぬ強い方が勝つのぢや。理も非も入らぬ。えらい方が勝つのぢや。上品も下品も入らぬ図々敷方が勝つのぢや。賢も不肖も入らぬ。人を馬鹿にする方が勝つのぢや。礼も無礼も入らぬ。鉄面皮なのが勝つのじや。人情も冷酷もない動かぬのが勝つのぢや。文明の道具は皆己を節する器械ぢや。自らを抑える道具ぢや、我を縮める工夫ぢや。人を傷つけぬ為め自己の体に油を塗りつける[の]ぢや。凡て消極的ぢや。此文明的な消極な道によつては人に勝てる訳はない。― 夫だから善人は必ず負ける。君子は必ず負ける。徳義心のあるものは必ず負ける。清廉の士は必ず負ける。醜を忌み悪を避ける者は必ず負ける。礼儀作法、人倫五常を重んずるものは必ず負ける。勝つと勝たぬとは善悪の問題ではない ―powerデある ―willである。(夏目漱石「断片」 明治38−39年)

ここで『マゾヒズムの経済的問題』にてみた《破壊欲動とか征服欲動とか権力への意志》(Destruktionstrieb, Bemächtigungstrieb, Wille zur Macht)を想い起こし、ニーチェの「権力への意志」をめぐる叙述を引用してもよい。

善とは何か? ――権力の感情を、権力への意志を、権力自身において高めるすべてのもの。
劣悪とは何か? ――弱さから由来するすべてのもの。
幸福とは何か? ――権力が生長するということの、抵抗が超克されるということの感情。
満足ではなくて、より以上の権力。総じて平和ではなくて、戦い。徳ではなくて、有能性(ルネッサンス式の徳、Virtù 道徳に拘束されない徳)。(ニーチェ『反キリスト者』)

この意志を飼い馴らすためには、どうあるべきかをめぐる示唆については、「『マゾヒズムの経済的問題』におけるBemächtigungstrieb」の後半を見よ。


ところで愛と憎悪をめぐっては、最晩年のフロイトの著作『終りある分析と終りなき分析』(1937)‘Die endliche und die unendliche Analyse’にて、「Philia 愛とNeikos闘争」と言い換えているのだが、それをめぐっては長くなりそうなので次の投稿に続く、→「フロイトの『Why War?』における愛と憎悪」。




2014年5月24日土曜日

五月廿四日 『マゾヒズムの経済的問題』におけるBemächtigungstrieb

引き続き、Bemächtigungstrieb(征服欲動)をめぐる。フロイトの『マゾヒズムの経済的問題』1924(人文書院旧訳)より。

《破壊欲動とか征服欲動とか権力への意志》(Destruktionstrieb, Bemächtigungstrieb, Wille zur Macht)の形で出て来るが、前後を含めて、すこし長く引用する。ドゥルーズのマゾッホ論におけるサディズムとマゾヒズム解釈と一見、著しく相反する箇所であるということもある。

サド=マゾヒスムは、(……)誤って捏造された名前の一つである。記号論的怪物なのだ。みかけは両者に共通するかにみえる記号と遭遇したとき、その度ごとに問題となっていたのは、還元不能の徴候へと解離しうる一つの徴候群だったのである。(ドゥルーズ『マゾッホとサド』P163)

ドゥルーズが書く笑い話に、《マゾヒストが、「いためつけてくれ」という。するとサディストが「ごめんこうむる」》(P52)というものがある。これはサディストはマゾヒストを求めはしないし、逆も真なりということだが、この箇所では、フロイトとドゥルーズはまったく異なった水準でサド=マゾを語っているということも言える。フロイトの叙述には《有機体内で作用する死の欲動ーー根源的サディズムーーはマゾヒズムと一致するといってさしつかえない》とあるのだが、死の欲動=根源的サディズムとは、ドゥルーズによって死の欲動=反復と言い換えられ、《快感原則は、〈エス〉にあっての心的生活を統轄する(例外なしに)。だが、その領域を原則に従属せしめるもの》(P139)を「死の欲動」としている(これは《すべての欲動は実質的に死の欲動である》(Ec, 848)とするラカンの立場に一致する)。

エロスとタナトスは二つの相反する欲動ではない。それらは競合し、エロス化されたマゾヒズムとしての二つの力を結合させるものではない。ただ一つの欲動、リビドーがあるだけであり、そのリピドーはただひたすら享楽を追い求める。(ドゥルーズ『差異と反復』英訳からの私訳)

eros and thanatos are not two opposite drives that compete and combine their forces (as in eroticized masochism); there is only one drive, libido, striving for enjoyment(Jouissance)ーー「ドゥルーズとジジェクの死の欲動」より

さて、『マゾヒズムの経済的問題』の邦訳そのものにわたくしにはやや分かりづらい箇所があるので、今回はフロイト郵便氏の「翻訳正誤表」を参照することなく(冒頭一部正誤表案に則って訂正したが)、フロイトの標準的な英訳(Freud - Complete Works. Ivan Smith 2000, 2007, 2010)から抜粋して併記することにする。なお以前にも書いたが、この英訳の”instinct”の訳語(原語 treib)は、”drive”と読み替えなければならない。

私は、『性欲論三篇』中の一章において幼児期性愛の源泉に関してこう主張した。性的興奮は、きわめて数多くの内的事象がある量的限度を越えて強烈なものになるや否や、その副作用として発生する。いやおそらく、有機体中に生起する一切の重要なことは、かならずその構成要素を性欲動興奮のために役立たせるような性質を持っているのであろう。したがって、苦痛興奮や不快興奮もまたそのような作用をおよぼすにちがいない。苦痛・不快緊張におけるこうした随伴的リピドー興奮は後年には枯渇するところの幼児的生理的機制なのではあるまいか。この随伴的リビドー興奮は性的体質の異なるに応じて異なった発達度を持ち、いずれにせよ、のちに心理学的には性愛的マゾヒズムというものを作りあげるところの生理学的基盤をなすものではあるまいか。

In my Three Essays on the Theory of Sexuality, in the section on the sources of infantile sexuality, I put forward the proposition that ‘in the case of a great number of internal processes sexual excitation arises as a concomitant effect, as soon as the intensity of those processes passes beyond certain quantitative limits'. Indeed, ‘it may well be that nothing of considerable importance can occur in the organism without contributing some component to the excitation of the sexual instinct'. In accordance with this, the excitation of pain and unpleasure would be bound to have the same result, too. The occurrence of such a libidinal sympathetic excitation when there is tension due to pain and unpleasure would be an infantile physiological mechanism which ceases to operate later on. It would attain a varying degree of development in different sexual constitutions; but in any case it would provide the physiological foundation on which the psychical structure of erotogenic masochism would afterwards be erected.
しかし、この説明には不充分なところがあって、マゾヒズムと、欲動生活の上でその敵対者となっているところのサディズムとの規則的で緊密な関係は、このような説明では少しも明らかにはならない。さらにもう一歩遠く遡って、生物体中にはたらいていると考えられるところの二種類の欲動という仮説にまでたちもどると、われわれは上述のものと矛盾することのない、別の筋道に到達する。(多細胞)生物においてリピドーは、細胞中に支配する死あるいは破壊の欲動にぶつかる。この欲動は、細胞体を破壊し、個々一切の有機体単位を無機的静止状態(たといそれが単に相対的なものであるとしても)へ還元してしまおうとする。リピドーはこの破壊欲動を無害なものとし、その大部分を、しかもやがてある特殊な器官系、すなわち筋肉の活動の援助のもとに外部に放射し、外界の諸対象へと向わせる。それが破壊欲動とか征服欲動とか権力への意志とかいうものなのであろう。この欲動の一部が直接性愛機能に奉仕させられ、そこである重要な役割を演ずることになる。これが本来のサディズムである。死の欲動の別の一部は外部へと振り向けられることなく、有機体内部に残りとどまって、上記の随伴的性愛興奮作用によってリピドーに奉仕する。これが本来の、性愛的マゾヒズムである。

The inadequacy of this explanation is seen, however, in the fact that it throws no light on the regular and close connections of masochism with its counterpart in instinctual life, sadism. If we go back a little further, to our hypothesis of the two classes of instincts which we regard as operative in the living organism, we arrive at another derivation of masochism, which, however, is not in contradiction with the former one. In (multicellular) organisms the libido meets the instinct of death, or destruction, which is dominant in them and which seeks to disintegrate the cellular organism and to conduct each separate unicellular organism into a state of inorganic stability (relative though this may be). The libido has the task of making the destroying instinct innocuous, and it fulfils the task by diverting that instinct to a great extent outwards - soon with the help of a special organic system, the muscular apparatus - towards objects in the external world. The instinct is then called the destructive instinct, the instinct for mastery, or the will to power. A portion of the instinct is placed directly in the service of the sexual function, where it has an important part to play. This is sadism proper. Another portion does not share in this transposition outwards; it remains inside the organism and, with the help of the accompanying sexual excitation described above, becomes libidinally bound there. It is in this portion that we have to recognize the original, erotogenic masochism.
リピドーによる死の欲動のかかる繋縛がどのような道程を経て、どのような手段で遂行されるかを生理学的に理解することは、われわれには不可能である。精神分析学的思考圏内でわれわれが推定できるのは、両種の欲動がきわめて複雑な度合でまざりあい絡みあい、その結果われわれはそもそも百パーセントに純粋な死の欲動や生の欲動というものを仮定して事を運んでゆくわけにはゆかず、それら二欲動の種々なる混合型がいつも問題にされざるをえないのだということである。同様にして、ある種の作用の下では、いったん混合した二欲動がふたたび分離することもあるらしいが、死の欲動が性愛欲動の繋縛をどの程度免れうるものであるのかは、目下のところ推察できない。

We are without any physiological understanding of the ways and means by which this taming of the death instinct by the libido may be effected. So far as the psycho-analytic field of ideas is concerned, we can only assume that a very extensive fusion and amalgamation, in varying proportions, of the two classes of instincts takes place, so that we never have to deal with pure life instincts or pure death instincts but only with mixtures of them in different amounts. Corresponding to a fusion of instincts of this kind, there may, as a result of certain influences, be a defusion of them. How large the portions of the death instincts are which refuse to be tamed in this way by being bound to admixtures of libido we cannot at present guess.
もしわれわれが若干の不正確さを気にかけなければ、有機体内で作用する死の欲動ーー根源的サディズムーーはマゾヒズムと一致するといってさしつかえない。その大部分が外界の諸対象の上に転移され終わったのち、その残余として有機体内には本来の性愛的マゾヒズムが残る。それは一方ではリピドーの一構成要素となり、他方では依然として生命体そのものを自己の対象とする。かくてこのマゾヒズムは、生命にとってきわめて重要な死の欲動とエロスとの合金化が行なわれたあの形成過程の証人であり、名残なのである。ある種の状況下では、外部に向けられた投射されたサディズム、あるいは破壊欲求がふたたび摂取され内面に向けられうるのであって、かかる方法で以前の状況に組みいれられると聞かされても驚くには当たらない。これが二次的マゾヒズムなのであって、これは本来の(一次的)マゾヒズムに合流する。(フロイト『マゾヒズムの経済的問題』フロイト著作集 6 P303-304)

If one is prepared to overlook a little inexactitude, it may be said that the death instinct which is operative in the organism - primal sadism - is identical with masochism. After the main portion of it has been transposed outwards on to objects, there remains inside, as a residuum of it, the erotogenic masochism proper, which on the one hand has become a component of the libido and, on the other, still has the self as its object. This masochism would thus be evidence of, and a remainder from, the phase of development in which the coalescence, which is so important for life, between the death instinct and Eros took place. We shall not be surprised to hear that in certain circumstances the sadism, or instinct of destruction, which has been directed outwards, projected, can be once more introjected, turned inwards, and in this way regress to its earlier situation. If this happens, a secondary masochism is produced, which is added to the original masochism.(The Economic Problem Of Masochism)

サディズムとマゾヒズムの反転をめぐっては、ジジェクに次のような叙述がある。

……ニューヨークには「私どもは奴隷です」と呼ばれる団体があって、人のアパートの部屋を無料で掃除し、その家の主婦に乱暴に扱われたいという人を提供している。この団体は、掃除をする人を広告を通して集める(その謳い文句は「隷従そのものが報酬です」である)、応募してくる人の大半が,高い報酬を得ている重役や医者や弁護士で,彼らは動機を聞かれると,いつも責任を負っていることがいかに気分が悪いかを力説する――乱暴に命令されて仕事をし、どなりつけられることをこよなく楽しむのだ。<存在>への通路を得る手段として彼らに開かれているのはそれだけだからである。ここで見逃してならない哲学的に大事な点は、<存在>への唯一の通路であるマゾヒスムは、近代のカント的主観性、つまり、自己関係する否定性という空虚な点に帰着する主体と、厳密に相関しているということである。(ジジェク『サイバースペース、あるいは幻想を横断する可能性』松浦俊輔 訳)

より日常的な感覚で《自己破壊性と他者破壊性》の反転が書かれる文としては、次の中井久夫の文がよいだろう。

日常生活は安定した定常状態だろうか。大きい逸脱ではないが、あるゆらぎがあってはじめて、ほぼ健康な日常生活といえるのではないだろうか。あまりに「判でついたような」生活は、どうも健康といえないようである。聖職といわれる仕事に従事している人が、時に、使い込みや痴漢行為など、全く引き合わない犯罪を起こすのは、無理がかかっているからではないだろうか。言語研究家の外山滋比古氏は、ある女性教師が退職後、道端の蜜柑をちぎって食べてスカッとしたというのは理解できると随筆に書いておられる。外に見えない場合、家庭や職場でわずらわしい正義の人になり、DVや硬直的な子ども教育や部下いじめなどで、周囲に被害を及ぼしているおそれがある。

四季や祭りや家庭の祝いや供養などが、自然なゆらぎをもたらしていたのかもしれない。家族の位置がはっきりしていて、その役を演じているというのも重要だったのかもしれない。踏み越えは、通過儀礼という形で、社会的に導かれて与えられるということがあった。そういうものの比重が下がってきたということもあるだろう。もっとも、過去をすべて美化するつもりはない。

一般に健康を初め、生命的なものはなくなって初めてありがたみがわかるものだ。ありがたみがわかっても、取り戻せるとは限らない。また、長びくと、それ以前の「ふつう」の生活がどういうものか、わからなくなってくる。

私たちの中には破壊性がある。自己破壊性と他者破壊性とは時に紙一重である、それは、天秤の左右の皿かもしれない。先の引き合わない犯罪者のなかにもそれが働いているが、できすぎた模範患者が回復の最終段階で自殺する時、ひょっとしたら、と思う。再発の直前、本当に治った気がするのも、これかもしれない。私たちは、自分たちの中の破壊性を何とか手なずけなければならない。かつては、そのために多くの社会的捌け口があった。今、その相当部分はインターネットの書き込みに集中しているのではないだろうか。(中井久夫「「踏み越え」について」『徴候・記憶・外傷』P322)

Bemächtigungstrieb、すなわちdrive for masteryは、フーコーの自己統治self-masteryにもかかわる。征服欲動がわずかしかない人間は、自らの欲動を征服することもすくない、というニーチェのテーマも現れる。ニーチェの次のような文は、フロイトの言うようなサディズムーマゾヒズム反転の文脈で読んでみる必要がある。

勇気にみち、泰然としており、嘲笑的で、暴力的であれーーそう知恵はわれわれに要求する。知恵はひとりの女性であって、つねに戦士だけを愛する。(『ツァラトゥストラ』(手塚富雄訳)
わたしは君があらゆる悪をなしうることを信ずる。それゆえにわたしは君から善を期待するのだ。まことに、わたしはしばしばあの虚弱者たちを笑った。かれらは、自分の手足が弱々しく萎えているので、自分を善良だと思っている。(同上)
強さに対してそれが強さとして現われ"ない"ことを要求し、暴圧欲・圧服欲・支配欲・敵対欲・抵抗欲・祝勝欲で"ない"ことを要求するのは、弱さに対してそれが弱さとして現われないことを要求するのと全く同様に不合理である。(ニーチェ『道徳の系譜』)

もちろん、このようなことは柄谷行人や浅田彰がすでにさらっと語ってしまっている。

柄谷)文化に対して自然を回復せよというロマン派と、それを成熟によって乗り越えよというロマン派がいて、それらは現在をくりかえされている。後期フロイトはそのような枠組を脱構築する形で考えたと思います。文化あるいは超自我とは、死の衝動そのものが自分に向かったものだという、これはすごく大きな転回だと思う。彼はある意味で、逃げ道を絶ってしまった。

浅田)ニーチェが言っていたのもそういうことなんじゃないか。力が自由に展開されるとき、それが自分自身に回帰して、自分自身を律するようになる。ドゥルーズやフーコーがニーチェから取り出したのもそういう見方なんで、それがさっきストア派的と言っていた姿勢にも結びつくわけでしょ。(「「悪い年」を超えて」『批評空間』1996 Ⅱ-9 坂本龍一 浅田彰 柄谷行人 座談会)







2014年5月23日金曜日

五月廿三日 『快原則の彼岸』におけるBemächtigungstrieb

冷感症と支配欲動Bemächtigungstrieb」に引き続き、フロイト用語 Bemächtigungstrieb(支配欲動、あるいは征服欲動)をめぐるメモ。

以下は、フロイト著作集6(人文書院旧訳)からだが、著作集の "Bemächtigungstrieb" 訳語そのものは「支配欲動」となっている。だが、ここではかねてからウェブ上で精神医学系の著書における訳語の吟味を積極的になされているフロイト郵便氏の「フロイト翻訳正誤表」の提案に則って、大幅に訳文を変更した(一部人文書院訳のままにした箇所もある)。この正誤表の提案には“Bemächtigungstrieb”は「征服欲動」となっている。

論文『快感原則の彼岸』(1920)からであり、フロイトのエロスとタナトス概念が初出した最も有名な論文のひとつであることがよく知られている。

フロイトのあらゆるテクストのうちで、傑出した書物たる『快感原則の彼岸』は、おそらくこれこそ哲学的と呼ぶほかない考察のうちに、最も直線的に、しかも驚くべき才能をもって、透徹せる視線を注いだテキストであるに違いない。(ドゥルーズ『マゾッホとサド』蓮實重彦訳)

その論文のなかでも、もっともしばしば言及される箇所のひとつ、子どものfort-da(いないいないばあ)の糸巻き遊びの箇所。なぜfort(いない)だけが倦むことなく繰り返される場合があるのか、という問いが書かれた後の文。

こうなれば遊戯の意味は、ほぼ解かれたもおなじである。それは子供のみごとな躾の効果と関係があった。つまり母親が立ち去るのを、さからわずにゆるすという欲動断念(欲動満足に関する断念)を子供がなしとげたことと関係があった。子どもは自分の手のとどくもので、同じ消失と再来を上演してみて、それでいわば欲動断念を埋め合わせたのである。この遊戯を情動の面から評価するさい、子供がみずから案出したのか、それとも何かに誘発Anregungされてわがものにしたのかは、むろん問題ではない。われわれの関心は、他の一点にむけられるであろう。母親の出発Fortgehenは、子供にとって好ましかったはずはなく、またどうでもよかったこととも考えられない以上、子供が苦痛な体験を遊戯として反復することは、どうして快感原則に一致するのであろうか。出発はよろこばしい再出現の前提条件として演じられるのに相違なく、再出現にこそ本来の遊戯の目的があったはずだ、と答えたくなるかもしれない。しかし、最初の行為、つまり出発が単独で遊戯になって演出され、しかもそれが、快い結果にみちびく完全形よりも、比較にならないほどたびたび演じられたという観察は、その答に矛盾することになるだろう。

このようなただ一つだけの場合の分析から、確実な結論はみちびけない。しかし、偏見なしに観察すれば、子供は別な動機から自分の体験を遊戯にしたてたのだという印象をうける。子供はこの場合、受け身だったのであって、いわば体験に襲われたのであるが、いまや能動的な役割に身を置いて、体験が不快であったにもかかわらず、これを遊戯として反復しているのである。この志向は、記憶そのものが快に充ちていたかどうかには関わりのない、征服Bemaechtigung欲動に帰することもできるかもしれない。しかしまた、別の解釈を試みることもできる。見えなくなるように、物を投げすてることは、子供〈のもと〉から出発fortgehenした母親にたいする、日ごろは禁圧された復讐欲動の満足でもありうる。さあ、出発fortgehenしろよ、お母さんなんかいらない、ぼくがお母さんをあっちへやっちゃうんだ、という反抗的な意味をもっているのかも知れないのだ。(……)ここで論議されたいくつかの例では、この衝迫が不愉快unangenehmな印象を遊戯のなかに反復したのは、この反復に、種類がちがってはいるが、ある直接的な快獲得が結びついているからでしかないかもしれないからである。

(……)子供たちは、生活のうちにあって強い印象をあたえたものを、すべて遊戯の中で反復すること、それによって印象の強さをしずめて、いわば、その場面の支配者になることは、明らかである。しかしこの反面、彼らの遊戯のすべてが、この彼らの年代を支配している願望、つまり大きくなりたい、大人のようにふるまいたいという願望の影響下にあることも充分に明白である。また、体験が不快だからといって、その不快という性格のせいで、体験を遊戯に利用できなくなるとはかぎらないことも観察されている。たとえば医者が子供の喉の中をのぞきこんだり、ちょっとした手術を加えたりすると、この恐ろしい体験は確実にすぐあとの遊戯の内容になるであろうが、そのさい他の理由から快感を獲得することも見落とすわけにはいかない。子供は体験の受動性から遊戯の能動性に移行することによって、遊び仲間に自分の体験した不快を加え、そして、この代理のものに復讐するのである。(フロイト『快感原則の彼岸』p156-158 人文書院旧訳)


これはラカンの有名な別解釈があるが、いまはフロイト解釈における「征服欲動」の能動性と受動性の反転の叙述にのみ注目したい。そもそもラカンのfort-da解釈では、上に引用された最後のパラグラフの《医者が子供の喉の中をのぞきこんだり》するのを、どのように解釈し直したらよいのか、やや困惑をおぼえる。

とはいえラカン解釈を示さないと、ジジェクの脅しのような言葉が浮かんでこないでもない。

フロイトの『快感原則の彼岸』にでてくる「いない-いた Fort- Da」遊びは、フロイトに関する理解度をはかる上で恰好のテストになるかもしれない。標準的な解釈によれば、フロイトの孫は、糸巻きを投げることによって、母親の不在と回帰を象徴化している。「いない Fort!」──そして糸巻きをたぐり寄せて──「いた Da!」というふうに。したがって、事態は明確であるようにみえる。母親の不在というトラウマを経験した子供は、その不在を象徴化することによって不安を克服し、状況を操作するのである。母親を糸巻きに置き換えることによって、この子供は、母親の出現と消失を演出する舞台監督になるのだ。かくして不安は、子供がこの支配力を嬉々として行使するなかで、首尾よく「止揚される aufgehoben」。(ジジェク『操り人形と小人』)

しかしながら、と続くのだが、ウェブ上では、この箇所のみの引用しかみつからず(なぜこの箇所の引用だけなのだろう? 次が肝要なのに)、さてわたくしは原文しか手元にない。既存の訳があるのに、まさか拙訳を附すわけにもいかないだろう。

The Fort-Da story from Freud’s Beyond the Pleasure Principle can perhaps serve as the best test to detect the level of understanding of Freud.According to the standard version, Freud’s grandson symbolizes the departure and return of his mother by throwing away a spool— “Fort!”—and retrieving it—“Da!” The situation thus seems clear: traumatized by the mother’s absence, the child overcomes his anxiety, and gains mastery over the situation, by symbolizing it: through the substitution of the spool for the mother, he himself becomes the stage-director of her appearance and disappearance. Anxiety is thus successfully “sublated [aufgehoben]” in the joyful assertion of mastery.

以下は「しかしながら……」の原文である。ポイントは糸巻きは母の代わりではなく、対象aであるというラカン=ジジェクの指摘だが、『ジジェク自身によるジジェク』によれば、この糸巻き遊びの例をあげ、ラカンの解釈はつねに変遷していく、としており、「ナイーブな=標準的な」解釈が完全に否定されるものでもないだろう。象徴界の時代のラカンから、現実界のラカン(もうひとりのラカン)の解釈が示されることがあったなら、標準的な想像界的解釈に近づく可能性もありうるのだ。だがそのときでも小文字の母ではなく、〈(m)Other〉、すなわち大文字の他者である〈母〉であり、あるいは究極の愛の対象としての〈母〉との関係であろう。であるならやはり対象aということになるのか。

However, are things really so clear? What if the spool is not a stand-in for the mother, but a stand-in for what Jacques Lacan called objet petit a, ultimately the object in me, that which my mother sees in me, that which makes me the object of her desire? What if Freud’s grandson is staging his own disappearance and return? In this precise sense, the spool is what Lacan called a “biceptor”: it properly belongs neither to the child nor to his mother; it is in-between the two, the excluded intersection of the two sets.Take Lacan’s famous “I love you, but there is something in you more than yourself that I love, objet petit a, so I destroy you”—the elementary formula of the destructive passion for the Real as the endeavor to extract from you the real kernel of your being. This is what gives rise to anxiety in the encounter with the Other’s desire: what the Other is aiming at is not simply myself but the real kernel, that which is in me more than myself, and he is ready to destroy me in order to extract that kernel. . . .Is not the ultimate cinematic expression of the ex-timate character of the objet petit a in me that of the “alien” in the film of the same name, which is quite literally what is “in me more than myself,” a foreign body at the very heart of myself, and can therefore be extracted from me only at the price of my destruction?

Consequently,we should invert the standard constellation: the true problem is the mother who enjoys me (her child), and the true stake of the game is to escape this closure. The true anxiety is this being caught in the Other’s jouissance. So it is not that, anxious about losing my mother, I try to master her departure/arrival; it is that, anxious about her overwhelming presence, I try desperately to carve out a space where I can gain a distance toward her, and so become able to sustain my desire.Thus we obtain a completely different picture: instead of the child mastering the game, and thus coping with the trauma of his mother’s absence, we get the child trying to escape the suffocating embrace of his mother, and construct an open space for desire; instead of the playful exchange of Fort and Da, we get a desperate oscillation between the two poles, neither of which brings satisfaction— or, as Kafka wrote: “I cannot live with you, and I cannot live without you.” And it is this most elementary dimension of the Fort- Da game that is missed in the cognitivist science of the mind. (ZIZEK 『The Puppet and the Dwarf』)

《the ultimate cinematic expression of the ex-timate character of the objet petit a in me that of the “alien” in the film of the same name, which is quite literally what is “in me more than myself,” a foreign body at the very heart of myself》とある。

ここには、ラカンの対象aの説明のなかのex-timateが出て来ると同時に(この語はラカンの造語であり、最もintimateなものは外部exにあるということ),a foreign body at the very heart of myselfともある。ところで初期フロイトはすでに”foreign body”という用語を使っている(フロイト『ヒステリー研究』1895)。

それは”Fremdkörper”であり、英訳ではまさに”foreign body”、邦訳では「異物」と訳されている。フロイトはこの語を言葉にできないトラウマに関連させて主に使っており、すなわち快感原則の彼岸にある言語の世界(象徴界)にex-sist(外ー存在)するものであり、ここでもex-timateとの関連がある。

Fremdkörper, a foreign body present in the inside but foreign to this inside. The Real ex-sists within the articulated Symbolic.(Paul Verhaeghe "Mind your Body ")

結局、これらのやや親しみにくいラカン造語は、ほとんどすべて現実界をめぐる思考にかかわり、非ー全体の論理もそれである。たとえば、言語によって分節化された快原則の此岸の象徴界にあるファリックな享楽(快楽)に対して、分節化されえない快原則の彼岸に<他者>の享楽がある。その後者の享楽が<女>の享楽と言い換えられ、そして<女>の享楽が、非全体の論理にかかわる。上のジジェクの文脈では、「自我」には、対象aやトラウマなど言葉にならない現実界に属するFremdkörper(異物、寄生虫)がいる。

The not-whole whole insistently undertakes attempts to assume and colonise this foreign body that ex-sists in the not-whole itself.(同ヴェルハーゲ)

あるいは、ジジェクが『LESS THAN NOTHING』で、讃嘆してやまないFrançois Balmèsの美しい表現ならこうなる。

現実は象徴界によって多かれ少なかれ不器用に飼い馴らされた現実界である。そして現実界は、この象徴的な空間に、傷、裂け目、不可能性の接点として回帰する。

reality is the Real as domesticated—more or less awkwardly—by the symbolic; within this symbolic space, the Real returns as its cut, gap, point of impossibility(François Balmès, Ce que Lacan dit de l'être)――ジジェク『LESS THAN NOTHING』 より孫引きであり、邦訳は私訳

ところで、テクストでさえも、そこに書かれていない外-存在を視野に入れながら、われわれは読むはずだ。すなわちテクストも非ー全体であるだろう。詩には明らかに外ー存在があるが、言語による分節化に汲々としているだけの父性原理のみに侵された二流論文ではなく、一流論文、たとえばフロイトの論文にも〈詩〉はある。

詩とは言語の徴候的側面を主にした使用であり、散文とはその図式的側面を主にした使用である。(中井久夫『現代ギリシャ詩選』序文)

わたくしに言わせれば、中井久夫の「徴候」概念は、現実界のことを言い表わそうとしている。

《もっとも遠くもっとも杳かな兆候をもっとも強烈に感じ、あたかもその事態が現前する如く恐怖し憧憬する》とする中井久夫の分裂症状の心理状態を表わす美しい言葉は、Fremdkörperや心的外傷の感覚を言い表わそうとする言葉でもある。

あるいは蓮實重彦の「表象の奈落」とは言語による分節化の先にふと垣間見える、象徴界の裂け目、すなわちこれも「現実界」のことを言い表わしている。

「批評」は、本質的に言い換えの作業にほかならない。翻訳とも呼べるその作業は、言い換えるべき対象としての他者の言説の中でまどろんでいるしかるべき記号に触れ、それを目覚めさせることから始まる。数ある記号のどれに触れて目覚めさせるかで、読む主体の「動体視力」が問われることにもなろうが、それは、読むことで、潜在的なものを顕在化させる作業だといってよい。その覚醒によって、他者の言説は、誰のものでもない言説へと変容する。その変容は、“できごと”として生起し、「批評」の主体をもいくぶんか変容させずにはおくまい。言い換えれば、その二重の変容を通して、とりあえずの翻訳におさまるのだが、「批評」は、それがあくまでとりあえずのものでしかないことを知っている。また、それを知らねば、たんなる「厚顔無恥」に陥るほかはない。

決定的な翻訳にたどりつくことなく、「厚顔無恥」に陥ることも避けながら、とりあえずの翻訳にとどまるしかない「批評」は、あるとき、その宿命として、「表象の奈落」を目にする。そこには、もはや、他者の言説など存在せず、覚醒すべき記号さえ見あたらない。(蓮實重彦『表象の奈落』「あとがき」)

繰りかえせば、蓮實重彦は「表象の奈落」という概念で、象徴界の裂け目を語ろうとしている。象徴界におけるたえまない「翻訳」により潜在的なものを目覚めさせること。たとえば現実界を垣間見るとは、子供のスライドするパズル遊戯の「穴」を顕在化させることである。


just think of a child's toy like those sliding puzzles. This mini symbolic system works on one condition: that there is a gap. One compartment has to be empty, thus permitting the necessary displacements in the system itself. (Verhaeghe, P. (2001). Subject and Body. Lacan's Struggle with the Real. )

以下はすこし異なった文脈で若き浅田彰が書いているのだが、現実界の類の言葉は、「それをいっちゃあおしまい」のところがあり、優れた書き手は分かっていながらあまり多くを語らないだけである。

クリステヴァが差異の共時的体系とその外部の相互作用を分析するのに千語万語を費やしているのを後目に、デリダは初めから差異と同一性や共時態と通時態の双対性をとびこえた差延化のたわむれを語ってみせるのである。それにしても、差延化といい、パルマコンといい、hymenといい、デリダがのっけからあからさまに舞台に上せるこれらの言葉たちは、蓮實重彦が述べたように(『事件の現場』)、それを言ってしまえば何もかもおしまいだという類の言葉ではなかったろうか? 口に出して言わずにおいたまま、それに無限に漸進していく長い長い道筋を辿る方が、有効な戦略なのだとしたら? (浅田彰『構造と力』 7《女》について)


《じゃあ絶対にやらなければいけないことは何かといったとき、ラカン的な意味での「réel(現実)」について論ずることがそうかというと、そうではないと思う。その種の「réel」について論ずることには形式的にある種の安易さがあって、その安易さは、ニーチェもいうようにカントの「物自体」から始まったといってもいいですけれど、やたらな人間がそれに言及すると、世界を必要以上に単純化してしまう。》

「 réel」と口にするひとは、そう口にしてしまった自分にその資格があるかどうかという疑いを持たねばなりません。ところが、「 réel」について語ることは、その資格もないひとたちがもっとも楽天的に戯れうる制度になってしまった。この制度は、なんらかのかたちでもう一度わさわさと揺り動かさなければならない。無限の翻訳の連鎖に組み入れられた体験を持たないひとが、「原 =翻訳」なんていっちゃいけないわけですよね、本来は。にもかかわらず、現代では、自分に果たしてその権利があるのかどうかを誰も反省しなくなっているという怖さがあります。それは、思考の頽廃でしかありません。自分がそれを語るにふさわしい人間か、また、そのかたちで語っていいのかということに対する反省が、いたるところで失われてゆきます。そのとき、職業ではなく、体験としての批評が改めて意味を持ち始めるのですが、言い換えの無限の連鎖に取り込まれるより、ひとこと「 réel」といっているほうが、疲れなくていいのかもしれません。(蓮實重彦インタビュー ──リアルタイム批評のすすめ vol.2

ーーというわけで、それを語るにふさわしくない〈わたくし〉が、いささか安易に現実界を語ってしまったことに、すくなくともわたくしは自覚的であるつもりだ……。