どんなケースにせよ、われわれが欲する場合に、われわれは同時に命じる者でもあり、かつ服従する者でもある、ということが起こるならば、われわれは服従する者としては、強制、拘束、圧迫、抵抗などの感情、また無理やり動かされるという感情などを抱くことになる。つまり意志する行為とともに即座に生じるこうした不快の感情を知ることになるのである。しかし他方でまたわれわれは<私>という統合的な概念のおかげでこのような二重性をごまかし、いかにもそんな二重性は存在しないと欺瞞的に思いこむ習慣も身につけている。そしてそういう習慣が安泰である限り、まさにちょうどその範囲に応じて、一連の誤った推論が、従って意志そのものについての一連の虚偽の判断が、「欲する」ということに関してまつわりついてきたのである。(ニーチェ『善悪の彼岸』ーードゥルーズ『ニーチェ』湯浅 博雄訳より)
〈私〉というのは主体性の実体的核のフェテッシュ化された錯覚にすぎない。実際は、そこにはなにもない。
「私は嘘をつく」、こう言えばそれは真実でありながら、私は確かにうそをつく。なぜなら「私は嘘をつく」と言いながら、逆を主張するのであるから。…「私は思う」に「私は嘘をつく」と同じだけの要求をするのなら…「私は思う」、「彼女は私を愛していると私は思う」と言う場合に言う「私は思う」以外の何でもない。(ラカン『同一化セミネール』)
…………
あなたは、すくなくとも最低限の言語構造をもつためには二つのシニフィアンが必要である。だからわれわれは、すでに二つのタームを持っている、すなわちS1とS2である。S1とは、最初のシニフィアン、フロイトの“境界シニフィアンborder signifier”、“原シンボルprimary symbol”、いや“原症状primary symptom”とさえいえるが、それは特別の地位をしめる。それは主人のシニフィアンなのであり、欠如を埋めようとする。その欠如を覆い隠す過程の保証としてのふりposeをする(みせかける)。最も良い、簡略な例であるならば、シニフィアン“私”である。それは己れのアイデンティティのイリュージョンを抱かせてくれる。S2は残りシニフィアン、シニフィアンのネットワークの連鎖の分母である。その意味で、また“le savoir”の分母、知識の連鎖を包含する知識である。
You need at least two signifiers in order to have a minimal linguistic structure, so we have already two terms: the S1 and S2 . The S1 , being the first signifier, the Freudian “border signifier”, “primary symbol”, even “primary symptom” has a special status. It is the master-signifier, trying to fill up the lack, posing as the guarantee for the process of covering up that lack. The best and shortest example is the signifier “I” which gives us the illusion of an identity of our own. The S2 is the denominator for the rest of the signifiers, the chain or network of signifiers. In that sense, it is also the denominator of “le savoir”, the knowledge which is contained in that chain.(Paul Verhaeghe『 FROM IMPOSSIBILITY TO INABILITY: LACAN'S THEORY ON THE FOUR DISCOURSES』)
というわけだな、主人のシニフィアン”あたし”は。あたしは述語によって決定されるのであり、あるいは話の受け手によって決定されるのだよな。
フロイトにおけるトラウマの考えにあるトラウマの事後性ということについては、ラカンはシニフィアンの遡及性、つまり最初のシニフィアンS1 は次に来るシニフィアンS2によって意味的に決定されるという構造、すなわち主語は述語によって遡及的に決定されるということ、によって大変エレガントに説明しています。(向井雅明「精神分析とトラウマ」ーー心的外傷後ストレス障害PTSD/フロイトのトラウマ)
というわけで、やっぱりマルクスはエライ。
・ 個人は、主観的にはどれほど諸関係を超越していようと、社会的にはやはり諸関係の所産なのである。
・ひとびとはある人を王として取り扱うのは、彼が王だからではない。人々が彼を王として取り扱うから、彼は王なのだ。(マルクス『資本論』)
ーーひとびとはある人を〈私〉として取り扱うのは、彼が〈私〉だからではない。人々が彼を〈私〉として取り扱うから、彼は〈私〉なのだ。
もちろん至高の主人のシニフィアンは、ラカン派においてはファルスである。「ファルス」とは欠如のシニフィアンであり、本来、定義されえない。
the phallus is a “signifier without a signified”—the “minus 1,”
Some decades ago, Lacan invited ridicule when he stated that the meaning of the phallus is “the square of ‐1”—but Kant had already compared the Thing‐in‐itself as ens rationis to a “square root of a negative number.(ZIZEK『LESS THAN NOTHING』)
あるいは、ファルスとは自然が与えてくれたシニフィアンである。"c'est un signifiant
donné par la nature" 象徴界の審級におけるシニフィアンとして、ファルスは完全な空無である。
the phallus is a signifier given by nature, "c'est un signifiant donné par la nature". As a signifier in the register of the Symbolic, the phallus is perfectly empty.(Paul Verhaeghe『NEUROSIS AND PERVERSION: IL N'Y A PAS DE RAPPORT SEXUEL』)
まあ、そうはいってもわれわれ凡庸人は、ファルスは「おちんちん」とイメージしちゃうんだよな。
ワニの恐ろしい口の中で子どもが生きるには、口の中につっかえ棒をすればよいと言う。ファルスとは実はつっかえ棒のようなもので、父親はこのファルスを持つ者である。(鰐なる母=女の口、あるいは象徴的ファルスと想像的ファルス)
という具合の理解でいいんじゃないか、「おちんちん」という誤解を避けるためには、--オレ程度の凡庸な連中はだがね。そして想像的ファルスの欠如や現実界的ファルスの喪失が、遡及的なものであることさえ、分かっていれば。《原初とは最初のことじゃないんだよ》(ラカン)。
ラカンによれば、リビドーの各段階は、自然な発展とは何の関係もない。それらは後の去勢不安から始まって遡及的に組織される。この不安は遡及性Nachträglichkeitによって作動する。
According to Lacan, libidinal stages have nothing whatsoever to do with a natural development; they are retroactively organised starting from the later castration anxiety. This anxiety operates by means of Nachträglichkeit (retroactivity).19
注19セミネールⅩⅠより。母と遡及性の影響についてのラカンの考え方は、すでにセミネールⅣに見れらる。"il s'agit toujours de saisir ce qui, intervenant du dehors à chaque étape, remanie rétroactivement ce qui a été amorcé à l'étappe précédente. Ceci, pour la simple raison que l'enfant n'est pas seul” (Le Séminaire, livre IV)
これは、おそらく遡及性Nachträglichkeit概念の最も重要な応用だろう。シニフィアンとしてのファルスはあまりにも中心的なので、それは、遡及的、かつ率先的に、あらゆる(身体の)喪失の形を、ファリックな解釈にて決定づける。(……)フロイトと対照的に、ラカンは欠如を二重化する。一方に、現実界的な対象aの喪失があり、他方に、二次的な欠如を通して、象徴界と想像界(ファルス化された"phallicized"対象a)と結びついて作用する欠如がる。……
19 Seminar 11, p. 64; (Le Séminaire, livre XI, p. 62). Lacan's ideas about the impact of the mother and retroactivity can already be found in Seminar IV: "il s'agit toujours de saisir ce qui, intervenant du dehors à chaque étape, remanie rétroactivement ce qui a été amorcé à l'étappe précédente. Ceci, pour la simple raison que l'enfant n'est pas seul” (Le Séminaire, livre IV, p. 199, see also Ibid., p. 41ff; my translation: "It always comes down to understand what, intervening from the outside during each stage, reworks in a retroactive way that which had been started at a previous level. This, for the sole reason that the child is not on its own"). This is probably the most important application of the concept of Nachträglichkeit: the phallus as a signifier is so central that it determines retro- and pro-actively the phallic interpretation of all forms of (bodily) loss. This is the core of the discussion Lacan had with Dolto at the time of Seminar 11, (p.64, pp.103-104, p.180; Le Séminaire, livre XI, p. 62, pp. 95-96, p. 164). The same line of thought can be read in Freud (A Phobia in a Five-Year-Old Boy. S.E.X., p. 8, n. 2). In contrast to Freud, Lacan redoubles the lack: on the one hand, there is a loss of a real object a, which, on the other hand, will be processed in the combined symbolic and imaginary ("phallicized" object a) through a second lack. As we will see, the interaction between the two lacks is crucial.(Paul Verhaeghe, P. (2001). Subject and Body. Lacan's Struggle with the Real. In: Verhaeghe, P. Beyond Gender. From Subject to Drive)
ラカンは、‘master signifiers’(主人のシニフィアン)を‘points de
capiton’(クッションの綴じ目)と呼んだ。どの「主人のシニフィアン」も瘤のようなものであり、知識、信念、実践などを縫い合わせて、それらが横にずれることを止め、それらの意味を固定する(ジジェク)。”なにが主人のシニフィアンを構成するのかといえば、《語りの残りの部分、一連の知識やコード、信念から孤立化されることによってである》(Fink
1995)。この“empty”(空の)シニフィアン(主人のシニフィアン)が、正確な意味を持たないことによって、《雑多な観点、相相剋する意味作用のチェーン、ある特定な状況に付随する独特の解釈を、ひとつの共通なラベルの下に、固定し保証してくれる》。
ーーというわけで、せいぜい一人称単数代名詞を「はずかしげもなく」使ったらよろしい。
「というわけで」というのを何度も使ったが、というわけで、オレもたいしたことがわかっているわけじゃないぜ、というわけだ。
遡及性といっても、おそらくだれにでも原光景=原幻想というものはあるわけでね。それがトラウマ化されるのが、遡及的だということなんだがーー象徴界の行き詰まりに遭遇して遡及的に外傷化されるーー、ほんとにそれだけなんだろうか? 外部からくるトラウマはここでの議論には含まれないのだが、内的な原トラウマというものは、遡及的なものだけなんだろうか? ワカランネ
ドゥルーズの反復も、フロイトの遡及性概念の流れなんだろうな、おそらく。
プルースト=ドゥルーズの「純粋過去」概念だってそうだ。
《かつて現在であったためしがない純粋過去》、すなわち、
反復されることになる最初の項などは、ありはしないのだ。だから、母親へのわたしたちの幼児期の愛は、他の女たちに対する他者の成人期の愛の反復なのである。(……)反復のなかでこそ反復されるものが形成され、しかも隠されるのであって、そうした反復から分離あるいは抽象されるような反復されるものだとは、したがって何も存在しないのである。。擬装それ自身から抽象ないし推論されうるような反復は存在しないのだ。(ドゥルーズ『差異と反復』財津理訳)
プルースト=ドゥルーズの「純粋過去」概念だってそうだ。
紅茶に浸したマドレーヌを口に含んだ途端、それを誘い水にして、コンブレは、かつて生きられたためしがない光輝のなかで、まさにそうした純粋過去として再び出現する。(ドゥルーズ『差異と反復』p140)
《かつて現在であったためしがない純粋過去》、すなわち、
たとえばプルーストの『失われた時を求めて』において、語り手である<私>は、ある偶然の感覚性にともなって「本質的な意味では忘却していた過去」、コンブレで過ごした子供時代、その家や町や人びとが突如として生き生きと甦ってくるのを経験する。それはだから生き直すことである。しかしそれは人々が通常そう思っているように、なにか始原となるもの、オリジナルをなす出来事があって、それを同じように(あるいは類似したままに)繰り返すということではない。コンブレで過した子供時代は、実のところそのときそこで必ずしも生きられたのではなかった。むしろかなりの歳月がたったあとで、まったく新しいフォルムにおいて、その一つの真実のうちにーー現実世界においては等価物を持たなかった真実――のうちに生きられたのだ。すなわち再び生きられたのであり、かつまた同時に初めて生きられたのである。(ドゥルーズ『ニーチェ』の訳者あとがきにかえられた小論「ドゥルーズとニーチェ」より 湯浅博雄)