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2011年2月8日火曜日

資料:ラカンの男性の論理と女性の論理/カントの力学的アンチノミーと数学的アンチノミー)

以下、まず、ラカンの「性別化の図」をめぐって、ポスト郵便都市(ポスト・シティ)──手紙の来歴、手紙の行方 | 田中純からの抜粋。

【デリダの否定神学批判】
ラカンの「『盗まれた手紙』のセミネール」を締めくくる「手紙はつねにその宛先に届く」という言葉に対しては、「手紙[文字]は必ずしもつねに 先に届くわけではない。そしてそれが手紙[文字]の構造に属している以上、それが真に宛先に届くことは決してなく、届くときも、〈届かないこともありう る〉というその性質が、それを一個の内的な漂流で悩ませている」というジャック・デリダの批判がある。その批判は〈盗まれた手紙〉というファルス的 シニフィアン、〈現実的なもの〉という象徴秩序の〈穴〉をふさぐシニフィアンを、ラカンが分割不可能なものと見なしている点に向けられている。対象aはさ まざまな現われ方をするにせよ、手紙が分割不能であるならば、それが立ち現われる場である〈現実的なもの〉自体は一つと見なされてしまうことになろう。東浩紀 述べるように、「郵便制度全体を見渡し、そのシステムの必然的な不完全性から、〈配達がうまく行かない手紙が少なくとも一つはある(=真偽が決定できない 命題が少なくとも一つはある)〉という命題を導き出すゲーデル=ラカン的論理」は確かに否定神学的なものに見える。

【男性の論理=力学的アンチノミー】
「少なくとも一つの例外がある」という命題によって、全体という普遍性を成立させるこの論理は、カントの力学的アンチノミーの形式にほかならないが、それ をラカン自身は一九七二七三年のセミネール『アンコール』で、男性的な形式として示している。性差はそこにおいて、主体を実定的に記述す るものではなく、分割された主体のその分割の二つの様式として、つまり、言語および理性がアンチノミーという形で躓く、その失敗の様式の差異として把握さ れる。こうした意味で、カントがアンチノミーの二つのタイプ(力学的アンチノミーと数学的アンチノミー)の差異を明らかにしたとき、「性差がはじめて哲学 的言説のなかに書き込まれた」と述べることができるのだ。 
その名も「ラブ・レター(Une lettre d'âour)」と題されたラカンのセミネールで示されたこの性別化の定式においては、男性の側がx Φx, x Φxと表記される。Φは無制限でとりとめのない享楽をファルスに結びつける機能=関数、ファルス関数を示す。ファルス関数は象徴的去勢と相関的である。こ の定式はそれぞれ、〈ファルス関数に従わないxが少なくとも一つ存在する〉、および〈すべてのxはファルス関数のもとに包摂される〉と読まれる。この〈男 性的〉アンチノミーは、力学的アンチノミー同様、〈例外〉を通じて構成される普遍性のパラドクスを示している。カントの定言的命法の背後で働いているもの はこの〈例外〉の論理であり、例外を創出する禁止ゆえに、超自我にはファルス関数を逃れる猥雑な剰余享楽が蓄えられることになる。



※引用文の表記が正確になされていないので、アンコールの図式を下記に示す。
左側が、男性の論理、右側が女性の論理。くわしくは資料:ラカン「性的(無)関係の(非)論理」。最もわかりやすいのは、向井雅明氏の ヒステリーの、ヒステリーのための、ヒステリーによる精神分析 の中の「男性の論理」「女性の論理」の説明箇所かもしれない。(これも上手くコピーできないので、ここでは割愛)。






【女性の論理=数学的アンチノミー】
これに対し女性の側はx Φx, x Φxと書かれ、それぞれ〈ファルス関数に従わないxは存在しない〉、および〈すべてのxがファルス関数に包摂されるわけではない〉と読まれる。コプチェク によれば、ここで示されているラカンのいわゆる〈非全体(すべてではない pas-tout)〉のパラドクスは、カントの数学的アンチノミーに対応している。数学的アンチノミーとは、「世界は時間的な始まりと空間的な限界を有す る」というテーゼと「世界は時間的にも空間的にも無限である」というアンチテーゼからなる純粋理性の第一アンチノミーのように、その両者が前提としている 〈すべて〉としての世界の存在が否定されるために、テーゼ、アンチテーゼの双方が偽とされるものである。それは帰結として、われわれの直観に与えられる対 象で現象の領域に属さないものは存在しないにもかかわらず、この領域が決して〈すべて〉ではなく、完結していないという事態を示すことになる。このような 意味で、〈女性においてすべてがファルス関数に包摂されるわけではない〉という命題は、〈女性は非全体である〉という無限判断として理解されなければなら ない。一方、〈女性においてファルス関数に従わないものは何もない〉のであるとすれば、例外は存在しない。しかし、まさに例外が存在しえないからこそ、そ こには限界がありえず、女性の〈全体〉について判断を下すことは不可能になる。いずれにしても、ここでは〈すべて〉の存在が否定される。男性的アンチノ ミーが〈例外〉を伴う〈不完全性〉の障害であるのに対して、女性的アンチノミーは境界を欠いた〈非全体〉の表層における〈矛盾(非一貫性)〉の障害なので ある。


【女性の論理は否定神学的ではない】
郵便制度には二つの異なる障害がありうる。ラブ・レターは二つの理由によって届かない。「性的関係は、二つの理由により失敗に終わる。二つの理由とは、そ れが不可能であるということ[女性の宇宙]と、それが禁止されているということ[男性の宇宙]である。この二つの失敗が合体したところで、決して全体を作 るにはいたらない」。少なくとも一つの不可能性(手紙の紛失=外傷的去勢)から、不完全なシステム〈全体〉(郵便制度全体=全体としての象徴秩序) を想定する論理が男性的=力学的アンチノミーのものであるとすれば、女性的=数学的アンチノミーの郵便空間においては、送り届けられない手紙は存在しない にもかかわらず、すべての手紙が届くわけではない。この後者の郵便事情は、東が次のように分析しているデリダのそれにむしろ近いのではないだろうか。「手 紙が行方不明になるのは、郵便制度が全体として不完全だからではない。より細部において一回一回のシニフィアンの送り返しの脆弱さが、手紙を行方不明にする。行方不明の手紙は、その可能性において無数にあることだろう。そして、その送り返しの脆弱さこそが、デリダが〈エクリチュール〉と呼んでいたものに他ならない」。


◆ここで、カントの力学的アンチノミーと数学的アンチノミーの概要。

【力学的アンチノミーと数学的アンチノミー】
四つのカテゴリー(量、質、関係、様相)のそれぞれのアンチノミーがある。

第一のアンチノミー・テーゼ・・・・・・・・世界は時間・空間的に有限である。・アンチテーゼ・・ 世界は時間・空間的に無限である。


第二のアンチノミー・テーゼ・・・・・・・・世界における合成された物は、それ以上分割できない単純なエレメントからなる。・アンチテーゼ・・ 世界には単純なエレメントは存在しない。 空間は無限に分割できる。


第三のアンチノミー・テーゼ・・・・・・・・世界には絶対的なはじめとしての自由がある。・アンチテーゼ・・ 世界における出来事はすべて自然必然の法則、すなわち自然因果の法則によって起こる。 自由は存在しない。


第四のアンチノミー・テーゼ・・・・・・・・世界の因果の鎖の中には絶対的必然的存在者がいる。・アンチテーゼ・・ 世界の因果の鎖の中には絶対的必然的存在者はいない。

最初の二つは数学的アンチノミーに分類され、また後半の二つは力学的アンチノミーに分類される。


これに関して、カントは次のように説明する。(参照:カント「純粋理性批判」#4-2 誤謬推論・二律背反・理想)

カントのは第一、第二の数学的アンチノミーは定立、反定立ともに誤りで、第三、第四の力学的アンチノミーにおいては定立、反定立ともに正しいとする。 数学的アンチノミーにおいては、たとえば、

テーゼ:すべての物体は良い匂いをもつアンチテーゼ。すべての物体は良い匂いをもたない

―――このテーゼ/アンチテーゼ以外に、第三の可能性、つまり「匂いをまったくもたない」がありうる。つまりはテーゼ/アンチテーゼとも、正しくない。

力学的アンチノミーにおいては、どうなのか。第三アンチノミーをすこし詳しくみてみよう。

テーゼ 「自然法則に従う原因性は、世界の現象がすべてそれから導かれうる唯一の原因性ではない。現象を説明するためには、そのほかになお自由による原因性をも想定する必要がある」。アンチテーゼ:「およそ自由というものは存在しない。世界における一切のものは自然法則によってのみ生起する」。


ここで、先ほどの田中純氏の論文から再度「引用」すれば、次のごとし。

これは〈数学的アンチノミー〉と呼ばれる第一、第二のアンチノミーに対して、第四のアンチノミーとともに〈力学的アンチノミー〉と呼ばれる。数学的アンチ ノミーがテーゼ、アンチテーゼの双方を偽とすることによって解決されたのに対し、力学的アンチノミーではこの両方が真とされて解決される。なぜなら、ここ で論じられている自由は、可能な経験の対象、つまり世界の一部としてはとらえられない、異なる存在論的系列である叡知的なものの次元に属しているからであ る。

カント的世界市民の〈世界〉を成立させているものは、因果連鎖を宙づりにしてしまう自由という叡知的行為、この例外の存在である。ここでは世界の現象の系 列に、その系列には含まれえないものが否定判断の形でつけ加えられており、アンチテーゼにおける「およそ自由というものは存在しない」という文は、そのよ うなものとして機能している。自由とは現象的な世界の内的な限界にほかならない。「この否定判断によって、自由を思い描くことの不可能性そのものが概念化 され、現象の系列は、開集合ではなくなり閉集合となる。なぜなら、このとき現象の系列は──否定の形式でではあるが──その系列から排除されているものを 含むことになるからである。つまりそれは一切のものを含むことになるのだ」(ジョーン・コプチェク)。〈すべて〉としての世界が措定されるのはこのように、そこから逃れる〈例外〉によってなのである。


 ※なお、カントは孫引きのため、十分な検証はされていないので、あしからず。



ここで、ジジェクが長年、強調しているラカンの「性理論」の一般的な誤解の指摘を引用しよう。

Woman is One of the Names-of-the-Father, or How Not to Misread Lacan's Formulas of Sexuation •..........lacanian ink 10 – 1995より。http://www.lacan.com/zizwoman.htm

第一の誤解】
The usual way of misreading Lacan's formulas of sexuation 1 is to reduce the difference of the masculine and the feminine side to the two formulas that define the masculine position, as if masculine is the universal phallic function and feminine the exception, the excess, the surplus that eludes the grasp of the phallic function. Such a reading completely misses Lacan's point, which is that this very position of the Woman as exception-say, in the guise of the Lady in courtly love-is a masculine fantasy par excellence. As the exemplary case of the exception constitutive of the phallic function, one usually mentions the fantasmatic, obscene figure of the primordial father-jouisseur who was not encumbered by any prohibition and was as such able fully to enjoy all women. Does, however, the figure of the Lady in courtly love not fully fit these determinations of the primordial father? Is she not also a capricious Master who wants it all, i.e., who, herself not bound by any Law, charges her knight-servant with arbitrary and outrageous ordeals?

In this precise sense, Woman is one of the names-of-the-father. The crucial details not to be missed here are the use of plural and the lack of capital letters: not Name-of-the-Father, but one of the names-of-the-father-one of the nominations of the excess called primordial father. 2 In the case of Woman-the mythical She, the Queen from Rider Haggard's novel of the same name for example-as well as in the case of the primordial father, we are dealing with an agency of power which is pre-symbolic, unbridled by the Law of castration; in both cases, the role of this fantasmatic agency is to fill out the vicious cycle of the symbolic order, the void of its origins: what the notion of Woman (or of the primordial father) provides is the mythical starting point of unbridled fullness whose "primordial repression" constitutes the symbolic order.



【第二の誤解】
A second misreading consists in rendering obtuse the sting of the formulas of sexuation by way of introducing a semantic distinction between the two meanings of the quantifier "all": according to this misreading, in the case of the universal function, "all" (or "not-all") refers to a singular subject (x), and signals whether "all of it" is caught in the phallic function; whereas the particular exception "there is one..." refers to the set of subjects and signals, whether within this set "there is one" who is (or is not) entirely exempted from the phallic function. The feminine side of the formulas of sexuation thus allegedly bears witness to a cut that splits each woman from within: no woman is entirely exempted from the phallic function, and for that very reason, no woman is entirely submitted to it, i.e., there is something in each woman that resists the phallic function. In a symmetric way, on the masculine side, the asserted universality refers to a singular subject (each male subject is entirely submitted to the phallic function) and the exemption to the set of male subjects ('there is one' who is entirely exempted from the phallic function). In short, since one man is entirely exempted from the phallic function, all others are wholly submitted to it, and since no woman is entirely exempted from the phallic function, none of them is also wholly submitted to it. In the one case, the splitting is externalized: it stands for the line of separation that, within the set of "all men", distinguishes those who are caught in the phallic function from the 'one' who is exempted from it; in the other case, it is internalized: every singular woman is split from within, part of her is submitted to the phallic function and part of her exempted from it.

However, if we are to assume fully the true paradox of Lacan's formulas of sexuation, one has to read them far more literally: woman undermines the universality of the phallic function by the very fact that there is no exception in her, nothing that resists it. In other words, the paradox of the phallic function resides in a kind of short-circuit between the function and its meta-function: the phallic function coincides with its own self-limitation, with the setting up of a non-phallic exception. Such a reading is prefigured by the somewhat enigmatic mathemes that Lacan wrote under the formulas of sexuation and where woman (designated by the crossed-out la) is split between the capitalized Φ (of the phallus) and S(A), the signifier of the crossed-out Other that stands for the nonexistence/inconsistency of the Other, of the symbolic order. What one should not fail to notice here is the deep affinity between the Φ and S(A), the signifier of the lack in the Other, i.e., the crucial fact that the Phi, the signifier of the phallic power, phallus in its fascinating presence, merely gives body to the impotence/inconsistency of the Other.

これらから、「女性の論理」という観点からは、ラカン理論は「否定神学」的ではない、ということが読み取れるように思われる。


→ 参考:「否定判断」と「無限判断」--カントとラカン(ジジェク『LESS THAN NOTHING』より)