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2013年10月12日土曜日

ロラン・バルトの想起記述と中井久夫の幼児型記憶

想起記述、すなわち、「主体が、希薄な思い出を、拡大もせず、振動させることもなく、ふたたび見いだすために行う作業――享楽と努力の混合――である」(バルト)。

「意味作用を発揮していない、すなわち意味を免除されている」ともされるが、そのためかえって、意味生成の可能性をとことん拡げるような記述。

蓮實重彦は、その想起記述の箇所を、《『彼自身によるロラン・バルト』のありえない中心に位置》とするが、たしかに読む者を惹きつけてやまない。

裂け目の光のなかで保留されているもの、ーーこれがラカンの享楽の定義のひとつだが、バルトの半自伝的エッセイの叙述のなかにある罅割れ、無-意味をなす沈黙とスカンシオンの如きもの。それらはテキストの裂け目の光のなかで保留されている「享楽=ジュイサンス」だ。

「半自伝的エッセイ」としたが、『彼自身によるロラン・バルト』の表紙裏には、《ここにあるいっさいは、小説の一登場人物によって語られているものと見なされるべきである》、あるいは本文中にも重ねて、《ここに書かれているいっさいは、小説の一登場人物――というより、むしろ複数の登場人物たち――によって語られているものと見なされるべきだ。(……)すなわちエッセーはおのれが《ほとんど》小説であること、固有名詞の登場しない小説であることを、自分に対して白状するべきであろう》と書いていることを強調しておこう。


《愛するという感情が不意に訪れるとしたら、それはどのようにしてなのか、とあなたは訊ねる。彼女は答える-たぶん、世界の論理の突然のひびわれから。彼女はいう-たとえば、ひとつの過ちから。彼女はいう-意志からは決して。》(マルグリット・デュラス「死の病い」 )

こうしてロラン・バルトの著作への偏愛者が生まれることになる。

……辞書や何冊かの読みかけの本と一緒に、ここ何年かずっと、いつも寝台のわきの机の上に並んでいる『彼自身によるロラン・バルト』(……)。誰かが何かを愛してしまうことの、物悲しい歓びに共感するために、バルトの本を開いてみる(……)。本全体が浮かべている「よるべなさ」というか、「よるべなさ」のなかに浮んでいる本。ごくささやかなことに、たとえば、バルトの書く、パルマのすみれといった言葉に、アミエルの日記の天候の記述について、きりきりに冷えたビールについて、私は共感するのだが、それはいつも、別の本のページを開くこと、別のイメージの泡立ちへと私を誘い出す。(……)年中、バルトの本のページを開いてみるのにもかかわらず、私はそれをほとんど読んでいないのではないかと思う。(……)私はそれをほとんど読んでいないのではないか、ということは、ほとんどこれは私自身が書いたのではないか、と思ってしまう文章しか、他人の本のなかから読まないということだ。(……)ロラン・バルトを理解したり「わかった」りして、なんになるだろう。「そして私はまだ欲望しおえてはいないのだ」と、自分が書いたのだと、ほとんど思ってしまうことにくらべてーー。(金井美恵子『あかるい部屋のなかで』「あとがき」)

たとえば、「きりきりに冷えたビール」で、グレン・グールドを想いださないひとは、バルト読者のもぐりだ。「《私の好きなもの》、(……)グレン・グールド、よく冷えたビール、 平らな枕、焼いたパン、……」(私の好きなもの(吉岡実、ロラン・バルト)





…………

おそらく、『彼自身によるロラン・バルト』の中で、読む者をとりわけ惹きつけてやまないのは、「中断:想起記述」Pause: anamnèesと呼ばれる断章だろう。そこでは活字がいきなりイタリック体に変わり、遥かな記憶のきれぎれの情景と思われるものが、年月も日付も記されぬまま、ごく短い文章として綴られている。「想起記述」なるものについては、イタリック体を離れた著者自身による説明らしきものがそえられており、「私が想起記述と呼ぶものは、主体が、希薄な思い出を、拡大もせず、振動させることもなく、ふたたび見いだすために行う作業――享楽と努力の混合――である」というのが定義である。そこには十七ほどの断片が順不同で列挙されているのだが、「これらのいくつかの想起記述は、程度の差はあるがともかく、みな艶消しである」と書きそえられている。ここでの「艶消し」とは、これまで「色艶が鈍く」と訳してきた語彙にほかならない。それはまず、現像された写真を紙焼きにする場合の「艶消し」を思わせるが、さらには、バルト自身の言葉によれば、「意味作用を発揮していない、すなわち意味を免除されている」ということでもある。その「色艶が鈍く」、「生彩の乏しい」情景の一つに、次のような文章がある。

手紙で借りる話をまとめておいた家具つきのアパルトマンが、ふさがっていた。彼らは、パリの十一月のある朝、グランシエール街で、トランクと手荷物をかかえて途方に暮れる羽目に陥った。 近所の乳製品のおかみさんが、うちへ入れて、あついショコラとクロワッサンをご馳走してくれた。(「彼自身」一六五頁)

ここでの「彼ら」が誰と誰であるかはあえて明らかにされていないし、また、その詳細を知る必要もないという書き方がされている。これをバルト自身の幼い日の記憶とするなら、父親が戦死している以上、借家の交渉をまとめたのは母親かその家族だろうが、女親だけの家庭として、交渉中に足元を見られたことに由来する行き違いだったのかもしれない。だが、『彼自身によるロラン・バルト』のありえない中心に位置するかのようなこの文章が浮かびあがらせるのは、夜行でたどりついただろう初冬のパリの街頭に途方に暮れて立ちつくす輪郭も定かならざる背丈の違う人影と、見慣れぬ調度品にかこまれて湯気をたてるショコラの陶製のカップにそえられていただろう幼い手ばかりだ。 交わされたはずの会話も、初めて目にする好人物らしい商店主の女性や母親の容貌も、まったく記述されていない。それでいて、読む意識を戸惑わせることもなく、バルトの身にいつ起こっても不思議でない挿話として納得させてしまうこの光景は、主観的とも客観的ともきめがたい、文字通り「中性」的な記述におさまっている。(蓮實重彦「バルトとフィクション」『表象の奈落』所収)

蓮實重彦の「バルトとフィクション」は、「『彼自身によるロラン・バルト』を《リメイク》する試み」、という副題をもっており、 この短い小論のありえない中心に位置するかのような文章が、ロラン・バルトのありえない中心を引用した上の箇所である。つまり『表象の奈落』のP323から始まりP362で終わるこの小論のP342に書かれている。もちろん意図的であるかどうかははっきりとは窺い知れないが、蓮實重彦ならそのくらいのことをやりかねない。

中井久夫が、ヴァレリーの「若きパルク」の黄金分割、『魅惑』の同心円的構造を指摘したのは知る人ぞ知る、--ある種の作家は上の程度の工夫なら朝飯前だろう。中井久夫だって、そのエッセイ集などでやっているのかもしれない。

そもそも『表象の奈落』は、第1部から第5部まであり、そこにはそれぞれ三つの小論がおさめられており、あきらかに構成的工夫への目配りがある。

そして第1部はバルト追悼文「倦怠する彼自身のいたわり」ではじまり、第5部の最後に「バルトとフィクション」があって本は閉じられる。後者は次の文で始まっている。

長いこと、バルトについて語ることを自粛していた。パリ街頭での自動車事故で呆気なく他界してから、その名前を主語とする文章をあえて書くまいとしてきたのである。いきなり視界にうがたれた不在を前にしての当惑というより、彼自身の死をその言葉にふさわしい領域への越境として羨むかのような文書を綴ったのが一九八〇年のことだから、もう二五年の余も、バルトを論じることなくすごしていたことになる。とはいえ、その抑制はあくまで書くことの水準にとどまり、バルトを読むことの意欲が衰えたことなどあろうはずもない。

そして次の文で終わる。
……そのとき、どこにも存在していない『彼自身のロラン・バルト』の「リメイク」は、書かれることのなかったロラン・バルトの「小説」Vita Novaと遥かに饗応しつつ、声としては耳に聞こえぬ共鳴音を低く響かせることになる。

バルトを語ることの稀な蓮實重彦にとって、ロラン・バルトはほとんど次のような作家ではないかという錯覚にだって閉じこもることができそうだ。

《心を寄せていた異性の名を口にできないのとおなじように、ほんとうに好きな作家、好きだった詩人の名はぜったいに明かせない》(堀江敏幸『河岸忘日抄』)

何かを書くというあてもないままの無言状態の中で、わたくしは、好みのテクストにひたすら読み耽っていた。それは、『ミシュレ』であり、『ラシーヌ論』であり、『サド、フーリエ、ロヨラ』であり、『テクストの快楽』であり、『彼自身によるロラン・バルト』であり、『明るい部屋』でもあったりしたのだが、それらを、ちょうどプルーストを読むバルト自身のように、これという確かな方法もなく、一冊のモノグラフィーにも仕立てあげるというひそかな野心もいだかぬまま、読了するという「はしたなさ」をもおのれに禁じつつ、もっぱら贅沢な暇つぶしとして「消費」していただけなのである。暇つぶしとして「消費」しえないことがその価値を高める書物など、現在の地球に、また歴史的にいっても、ごくまれにしか存在しない。

バルトにとってのプルーストが「永遠」の作家ではなく、とだえることのない永続的な「消費」の対象だったように、わたくしにとってのバルトもまた、とだえることのない永続的な「消費」の対象だった。ごく個人的なものにとどまるその「消費」は、あるとき、間違っても刊行されるあてのない不在の書物の構想へとゆきつく。「消費」する者として気ままに思い描いていたわたくしなりのコンテクストにしたがって、この「批評家=エッセイスト」の声のいくつかをよみがえらせてみたいというとりとめもない思いへと誘われたのである。それは、『彼自身によるロラン・バルト』を自在に「リメイク」するという映画のようなフィクションとして、漠たる輪郭におさまることになる。バルトの「全体像」には背を向け、ある任意の一点でバルトを横切るとき、そこにはバルトが書いたわけではないが、バルトの「くつろいだ」声が低く聞きとれるかに錯覚されるフィクションとしての「リメイク」が切りとられるはずだ。(蓮實重彦「バルトとフィクション」)


…………


中井久夫は、三歳前後以前の幼児型記憶をそれ以後の成人型記憶と分けて、三歳以後は「歴史時代」であり、それ以前は「先史時代」であって「考古学」の対象としている。

そして幼児型記憶を外傷性記憶と類似したものとする。

成人文法性成立以後に持ち越されている幼児型記憶は(1)断片的であり、(2)鮮明で静止あるいはそれに近く、主に視覚映像であり、(3)それは年齢を経てもかわらず、(4)その映像の文脈、すなわちどういう機会にどういういわれがあって、この映像があるのか、その前後はどうなっているかが不明であり、(5)複数の映像間の前後関係も不明であり、(6)それらに関する画像以外の情報は、後から知ったものを綜合して組み立てたものである。(「発達的記憶論」『徴候・記憶・外傷』46頁)

ロラン・バルトの想起記述は時期的には「歴史時代」の記憶が書かれているが、どこか外傷性記憶のにおいがする。

《おやつのときの、つめたい砂糖入りミルク。古い白い茶碗の底に、陶器のきずがひとつあった。かきまわすときにスプーンに当たったものはそのきずだったか、それとも、溶け残りか洗い残しの砂糖のこびりついたものだったろうか。》

《市街電車に乗って、日曜日の夜、祖父母の家から帰る。晩ごはんの居間の、暖炉のそばで、ブイヨンと焼いたパンだった。》

《夏の宵、なかなか日が暮れないとき、母親たちは小道を散歩していた。子どもたちがそのまわりでじゃれていて、まさに祭りであった。》

《こうもりが一匹、部屋へはいって来た。それが髪にとまりはしないかと、おびえた母親は自分の背中に彼をかかえて、ふたりは敷布を頭からかぶり、そして、火ばさみでこうもりを追い払った。》


一見、なんの変哲もない記述と読むひとがいるかもしれない。

だが、これらの記述が偏愛者にとって、《『彼自身によるロラン・バルト』のありえない中心》となる理由のひとつは、別の箇所に書かれた記述を吸収するブラック・ホールの役割を果たすからだろう(すくなくともわたくしにとってはそうだ)。想起記述は、「意味作用を発揮していない、すなわち意味を免除されている」にもかかららず、全ての意味作用を生じさせ、すべての意味を飲み込む「ブラックホール」となる。

音楽における沈黙と音が、ときに、どちらが地と図でわからなくなる瞬間、あるいは「沈黙」がすべての音を飲み込むブラックホールとなるように。(参照:音と沈黙の「地」と「図」

ロラン・バルトは父親をはやく第一次大戦で失っているが(「バルトの父は漁船改造の哨戒艇の艇長として詳しい戦史に二行ばかり出てくる無名の小海戦で戦死している」中井久夫)、うえにいくつか掲げられた想起記述は、たとえば『彼自身によるロラン・バルト』にあるつぎのような記述を飲み込む。


蓮實重彦が引用する想起記述、その母と子の「よるべなさ」からは、

B氏、ルイ=ル=グラン高等中学校の第三学級Aクラスの先生は、小柄の老人で、頭に国家=の付いた社会主義者であった。学年の始めになると彼は、荘重に、生徒の父兄のうちで「名誉ある戦場で倒れた」人々の名を調べて黒板に列挙するのであった。おじさん、いとこなどはざらだったが、父親の名を申告できるのは私ひとりだった。それが私を困惑させた。何か過分の標識を与えられたような気がしたのだ。けれども黒板の文字が消されてしまえば、もう、この晴れがましい哀悼の儀式の跡は何ひとつ残らないのであったーー残るものといえば、それはただ、つねに無口なあの現実の生活という世界のなかでの、社会的な拠りどころのない一家の暮らしの姿であった。たとえ父を殺したくても父はなく、憎もうとしても憎むべき家族というものはなく、非難しようにも周囲には非難すべき確固たる環境もない暮らし、要するにオイディプス的感情がみごとに欲求不満におちいるというありさまであった!
書物から引き離してみると彼の人生は、一貫して流行おくれの主体の生活であった。愛していたとき(その流儀においてもそのこと自体においても)、彼は流行おくれだった。自分の母を愛していたとき(たとえ彼が自分の父をよく知っていたとして、そして不幸にも彼がその父を愛したのだったとしても!)、彼は流行おくれだった。彼が自分を民主主義者だと感じていたとき、彼は流行おくれだった。その他の場合も、同様であった。しかし、“流行〔モード〕”とは、もしもう一まわしネジの螺旋を進めてみるなら、それは、けっきょく、心理的キッチュの一種となるのかもしれない。

 あるいは祖父母の家から郊外電車で帰る想起記述からは、

快楽主義者である彼は(というのも、彼が自分自身をそう思っているのだから)、けっきょく安楽と呼ぶべき状態をのぞんでいる。ただしその安楽は、私たちの社会によってその構成要素のはしばしまで定められているあの所帯じみた安楽よりは複雑なものである。それは、彼が自分で手筈をととのえた、手づくりの安楽だ(ちょうど、私の祖父Bがその生涯の終わり近く、仕事をしながらでも庭がもっとよく見えるように、自分の部屋の窓ぞいに一段高くなった壇をこしらえた、あれのようなものだ)。この個人的な安楽を、《くつろぎ》と呼んでもいいだろう。くつろぎにはある理論的な権威が(彼によって)付与されている(「私たちは形式主義に対して距離をたもつにはおよばない。ただ、くつろぎをたもてばいいのだ。」。その上、くつろぎには倫理的な力も与えられている。それは、ありとあらゆるヒロイズムを進んで失うことであり、しかも《享楽においてさえ》そうすることである。
昔は、白い市街電車がバイヨンヌからピアリッツまでかよっていた。夏になると、それに、前面オープンの、特別室などないワゴンが一両連結されるのであった。散策車である。何とも嬉しくて、みんなそれに乗りたがったものだ。ごてごてとうるさいもののほとんどない沿線の風景を眺めながら、人びとは、眺望と動きと空気とを同時に享楽していた。今はもう、散策車も市街電車もなく、ピアリッツへの旅は、うんざりするような作業である。こんなことを言っても、過去を神秘的に美化したり、失われた青春への愛情を語りたいからではなく、その口実に市街電車を惜しみなつかしんでいるわけではない。言いたいのは、暮らしの流儀には歴史がない、ということなのだ。それは進化するものではない。一度消え去った快楽は永久に消え去り、代入は不可能である。ほかのさまざまな快楽が現れるが、それは何かの代理としてではない。《快楽には進歩がない》、あるのはただ交替のみ。

 母親たちが夏の宵、小道を散歩していた記述からは、

私の幼い頃、私たちはマラックと呼ばれる町に住んでいた。その界隈は建築中の家だらけで、そういう普請の現場で子供たちは遊んでいた。建物の基礎のために、粘土質の地面に大きな穴がいくつも掘られていた。そしてある日、そういう穴のひとつの中で遊んだあと、腕白どもは私ひとりを除いてみんな登り、出てしまった。私は登れなかったのだ。地面から、つまり上から、彼らは私をばかにした。途方に暮れ、ひとりぼっちで、眺められ、除外され!(除外される、それは外にいるということではない。それは《穴の中にひとりだけでいる》こと、空へは開かれているのに閉じ込められていること、すなわち《閉鎖されている》ことだ)。そのとき、私の母の駆けつけるのが見えた。彼女は私をそこから引きずり出し、子どもたちから離れたところへ連れて行った、彼らに対抗して。

これらはほんの一部であり、さらには同じ『彼自身によるロラン・バルト』からだけではなく、『テクストの快楽』やら『恋愛のディスクール』、『明るい部屋』や晩年の日記のいくつかをも飲み込むブラックホールとして機能する。

私にとって家族は、ずっと前から、母と、血を分けた一人の弟だけだった。後にも先にもそれだけである(ただ、祖父母の思い出だけは別であるが)。家族集団を構成するためにどうしても必要とされる単位、《いとこ》は一人もいなかった。それに、家族というものを、もっぱら拘束と儀式だけで成り立っているかのように扱う、あの科学的態度は、どうにも我慢がならなかった。つまり家族は、直接的な帰属集団としてコード化されるか、または、葛藤と抑圧の結節点と見なされるのだ。われわれの学者たちには、《互いに愛し合う》家族もいるということが想像できないかのようである。(『明るい部屋』)

別の作家の記述だって飲み込む。《夏の宵、なかなか日が暮れないとき、母親たちは小道を散歩していた。子どもたちがそのまわりでじゃれていて、まさに祭りであった。》から、パヴェーゼの読者なら、『美しい夏』の冒頭を想いださないひとがいるだろうか。

あのころはいつもお祭りだった。家を出て通りを横切れば、もう夢中になれたし、何もかも美しくて、とくに夜にはそうだったから、死ぬほど疲れて帰ってきてもまだ何か起こらないかしら、火事にでもならないかしら、家に赤ん坊でも生まれないかしらと願っていた、あるいはいっそのこといきなり夜が明けて人びとがみな通りに出てくればよいのに、そしてそのまま歩きに歩きつづけて牧場まで、丘の向うにまで、行ければよいのに。「あなたたちは元気だから、若いから」と人には言われた、「まだ結婚していないから、苦労がないから、むりもないわ」でも娘たちのひとりの、びっこになって病院から出てきて家にはろくに食べ物もなかったあのティーナ、彼女でさえわけもなく笑った、そしてある晩などは、小走りにみなのあとをついてきたのが、急に立ち止まって泣き出してしまった、だって眠るのはつまらないし楽しい時間を奪われてしまうから。(パヴェーゼ『美しい夏』 La bella estate 河島英昭訳)

もちろん、こういったことはあらゆるテクストにつき物の「インターテクスチャアリティ」ではある。ただバルトの想起記述が艶消しであるがゆえに、つまり「意味作用を発揮していない、すなわち意味を免除されている」せいで、いっそうそういったことが起こる。

英文学者でもないかぎりエリオットなんて今の人は読まないでしょうが、彼が「伝統」とよんでいたのは、いわばインターテクスチャアリティのことなんですね。一つのテクストは、過去のテクストの総体のなかで書かれ、かつそれは過去のテクストの意味を変える、というような考えなんですね。(柄谷行人『闘争のエチカ p145)


ここで、中井久夫が「思い出すままにほとんどすべてを列挙する」として記述される幼児型記憶を掲げる。


(1)「誰かの背に背負われて、青空を背景に、白い花を見上げている

これはそういう写真がないし、話題になったこともない。もっとも、「誰か」は祖父であるがこれは後の推定である。白い花は「アカシア」であると知っていて、それは聖心女学院小林分校への道のアカシア(正確にはニセアカシア)の並木道であるが、いずれも映像ではなく後から加わった命題記憶である。私は六〇年後に行ってみた。わずかに一〇メートルほどのあいだ、ニセアカシアの老木が残っていた。

(2)「母親がガラスの器にイチジクの実を入れてほの暗い廊下を向こうから歩いてくる

イチジクは映像の中にはない。裏庭にイチジクの木が何本も生えていたのは言語(命題)記録である。

(3)「ハコベの生えているところで太陽に向かって祖父と深呼吸をしている。祖父が「新鮮な空気を吸う」と言い、私が真似をしている

記憶には、裏庭にはハコベが生えていたという映像がある。他にいろいろのものがつけ加わっているが、それらは命題記憶だけで、映像を欠いている。

(4)「窓から田んぼをへだてて向こうを走る自動車を眺めて数えている

これは武庫川の堤であるというのは、消去法によって生まれた結論であると思われる。「田んぼ」には視覚的に初めから焦点が合っておらず、したがって季節は不明である。

(5)「応接セットがあってカンバスで覆われたまま、二つ横並びにしてある。そのあいだのひじかけにオモチャの機関銃を据えて撃つマネをしている。「わあ、かなわん。降参」と母方の祖父が言っている

声ははっきりしない。応接セットであるというのも命題記憶である。並んだ椅子の肘かけだけが視覚映像である。機関銃を祖父からおみやげに貰ったというのも、命題記憶であろうと思われる。

(6)「ベランダのようなところから川の流れをみている。向こうに民家、その向こうに山

これは宝塚遊園地の建物(大劇場か)にあった武庫川に臨む「納涼台」という屋外で軽食を食べさせるところから武庫川を眺めているのであろう。この時かどうか、ここの(と思おう)「キツネウドン」の味を覚えている。

(7)「人間が細く映る鏡や太って映る鏡に自分を映している

これも宝塚の建物の中であると推定できる。

(8)「天井に鈴蘭灯が揺れている。天井は白い。鈴蘭灯はくもりガラスで、縁は金色

これは阪急電車の車内に立っていて、大人の乗客のあいだから見上げた天井であろう。「阪急電車」というのは消去法である。

(9)「雑然とした茶褐色の家並みの間の道でおばさんが「ぼっちゃん、じろーじゃ」と言っている。私は「ちがう、じどうしゃ」と言い返す

これは、命題記憶によって、母親の郷里の村のメインロードであり、おばさんが「森本さん」という人だと知っているが、映像の中には手掛かりはない、こういって私をからかって笑っている場面であることは確かである。

(10)「どこかの階段。木がまだ新しい。陽が照っている

これは時も場所も状況も全然見当がつかない(この背後には大きな家族問題が隠れているかもしれない)。そういう記憶映像がいくつかある。朝日新聞が東京-ロンドン間を飛行させた「神風号」のニュース映画を観に行ったはずなのに、覚えているのはパラシュート降下する人の映像で「神風号は落ちたはずはないのに」と思ったとか。(中井久夫「発達的記憶論」『徴候・記憶・外傷』所収ーー黒字強調は原文)

わたくしにとって、この中井久夫の幼児型記憶の記述のいくつかは、ブラックホールとして機能する。つまり氏の別のエッセイのなかの記述を飲み込む。中井久夫の数多くのエッセイの「ありえない中心」として読む。何度も引用した「世界における索引と徴候」の冒頭、『治療文化論』の偽装された自伝箇所等々、『時のしずく』所収の「私が私になる以前のこと」からひとつだけ抜き出しておこう。

父母の結婚は見合いであるが、お互いに失望を生んだ。父親と母親は文化が違いすぎた。そこに私が生まれてきたのだが、祖父母は、父の付け焼き刃の大正デモクラシーが大嫌いで、早熟の気味があった私に家の将来を托すると父の前で公言して、父親と私の間までが微妙になった。