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2014年9月21日日曜日

咲き出でる樹木の白い「死」

ややメモが溜まってきたのでいくつかの下書きを吐き出す。

…………

@hoshinot: すごい言葉を見つけてしまった!「死んでる組織と生きてる組織があるのが木。生きてる組織だけなのが草花です。」ーいとうせいこう・竹下大学『植物はヒトを操る』より。木というのは中心が死んでいるのだそうだ。木は世界そのもの! http://t.co/hpOd63BYrI
@seikoito: 今日、星野智幸君が紹介してくれた「植物はヒトを操る」で竹下大学さんに教わったことは他にも色々あって、純白の花は自然界になく、突然変異でアルビノが出ても虫には見えない。だから虫媒されない。いわば人に好きにさせて人で増える。http://t.co/nxw1MKKCus
@seikoito: あと、前に森林専門家に聞いたら鹿が樹皮をぐるりと剥がして食べちゃうと、木は全血管を切られたように立ち枯れる。樹皮は「現在」の生命で、その内側はいわば樹木の「過去」が固化したもの。鹿は「現在」を断ち切るだけで、時間の堆積した森全体を素早く破壊してしまう。 (いとうせいこう)

《木というのは中心が死んでいる》だって?
《樹皮は「現在」の生命で、
その内側はいわば樹木の「過去」が固化したもの》だって?

樹木の内側だって年々大きくなっていくんじゃないのか
年輪は年毎に変貌していくのじゃないのか

わたくしの「凡庸」な頭には理解できないところがある
にもかかわらず
草花よりは樹木のほうを「特権的」に愛する
そして白い花が咲く樹木をなによりも好むわたくしには
なんとも魅惑的な言葉だ

当地に来て最初に魅せられたのはインドソケイ(プルメリア)の樹だった





そうだな、まずあそこにはリルケがいる

死とは私たちに背を向けた、私たちの光のささない生の側面です。私たちは私たちの存在の世界が生と死という二つの無限な領域に跨っていて、この二つの領域から無尽蔵に養分を摂取しているのだという、きわめて広大な意識をもつように努めなければなりません。まことの生の形体はこの二つの領域に跨っているのであり、この二つの領域を貫いて、きわめて広大な血の循環がなされているのです。此岸というものもなければ彼岸というのもありません。あるのはただ大いなる統一体だけで、そこに私たちを凌駕する存在である『天使』が住んでいるのです。(富士川英郎・高安国世訳『リルケ書簡集2:1914–1926』――『ドゥイノの悲歌』の翻訳者への書簡らしい)

白い花とは樹木の体の中に宿る「神」や「天使」が咲き出でたのではなく
「死」が咲き出でたーー、それでどうしていけないわけがあろう


噴水の管(くだ)にも似ておんみのしなやかな枝々は、
樹液を下へ、上へと送り、それはほとんど醒めることなしに、眠りの中から
甘美な事業の幸福へとおどり入る。
さながら神があの白鳥に転身したように。(リルケ『ドゥイノの悲歌』第六 手塚富雄訳)

もっとも《純白の花は自然界になく》とあるように、
突然変異や人工的な花以外は
どの白も虫媒されない純粋な死の花ではない
ただ喚起されたイメージからの話である

そして花はなにも白でなくても、
すべて死のメタファーであるかもしれない、
という観点はここでは脇にやりつつの話だ。

例えばリルケが「薔薇の花、純粋な矛盾、おびただしい瞼の下で誰の眠りでもないその悦楽」と語るとき、薔薇という隠喩項は、死という抑圧物、すなわちそこでは眠りが帰属する主体が不在であるという冷酷な現実を再帰させ、しかし次の瞬間、その眠りを再び多くの者の瞳へと回収させ、そこに「悦楽」‐幻想を残していく。(樫村晴香『ドゥルーズのどこが間違っているか?』)
薔薇よ、あゝ、純然たる撞着、いや歓喜〔よろこ〕びよ、
それすなわち、あまた伏せられた瞼の下で、
誰しの眠りにもあらぬことの。

Rose, oh reiner Widerspruch, Lust,
Niemandes Schlaf zu sein unter
soviel Lidern.

— (in seiner letztwillige Verfügung, Oktober 1925.)

樫村晴香とはあまり知られていない名かもしれないが
オレとほぼ同年、かつては浅田彰との対談もある
今は仏で肉体労働?やったり、
ミャンマーの山奥で瞑想しているなどということもあるらしい
奥さんのラカン派である愛子さんは、
オレの故郷の私立大学で教師をやっている。





純白にみえる香高いジャスミンの花も
純粋の白ではないということなのだろう
突然変異でアルビノが出た花ではない
虫には見えない花ではない

庭にある何本かのジャスミンは多くの蝶が寄ってきて
油断をすると貪食な幼虫に一晩で葉を食い尽くされてしまう




チューリップの新品種「アルビノ」とは虫には見えないということなのか
ちょっとそのあたりがわたくしにはよくわからない





「ハクモクレン」が登場したところで、この文は、「逃げ水と海へ向かう道」の続きものでもあるのだが、その関連はあえて示さないでおこう。


…………

死というのは一点ではない、生まれた時から少しずつ死んでいくかぎりで線としての死があり、また生とはそれに抵抗しつづける作用である。(フーコー『臨床医学の誕生』(ビシャの言葉引用から)



女が孕んで、立っている姿は、なんという憂愁にみちた美しさであったろう。ほっそりとした両手をのせて、それとは気づかずにかばっている大きな胎内には、二つの実が宿っていた、嬰児と死が。広々とした顔にただようこまやかな、ほとんど豊潤な微笑は、女が胎内で子供と死とが成長していることをときどき感じたからではないか。(リルケ『マルテの手記』)

孕み女の腹を撫でさするように樹肌を愛撫するのは
樹木の「死」の、樹木の「過去」の、
ひそかなざわめきを、掌でまさぐる仕草であったとして、
どうしてわるいことがあろう

昔は誰でも、果肉の中に核があるように、人間はみな死が自分の体の中に宿っているのを知っていた。(同マルテ)

…………

鹿が樹皮をぐるりと剥がして食べてしまう、
すると木は全血管を切られたように立ち枯れる。
丸裸にされた樹木の「死」、あるいは「過去」!

――なんという豊かなイマジャリー
それはリルケの詩と同じくらい

……おお、幼年時代の日々よ
そのときわたしたちの見たもろもろの形象の背後には単なる過去
以上のものがあり、また、わたしたちの行手をおびやかす未来もなかった。
もちろんわれわれは刻々に生長した、ときにはより早く
生長しようと背のびした。。ひとつには成人であること以外には
なんの持ちあわせもない大人たちの喜びを買うために。
けれど、わたしたちがひとりで道を行くときには、
過去も未来もない持続をたのしみ、世界と
玩具とのあいだにある中間地帯の、
大初から、純粋なありかたのために設けられた
ひとつの場所に立ったのだ。
たれが幼いものを、そのあるがままの姿で示すことができよう。たれが
幼いものを星々のあいだに据え、遠隔の尺度をその手に
もたらすことができよう。たれがかたまりゆく灰いろのパンから
幼い死を形成することができよう。――またその死を
甘美な林檎の芯のように幼いもののまろやかな口に
含ませることができよう? ……殺害者たちを
見抜くのはたやすい。しかし死を、
全き死を、生の季節に踏み入る前にかくも
やわらかに内につつみ、しかも恨みの心をもたぬこと、
そのことこそは言葉につくせぬことなのだ。(ドゥイノ 第四の悲歌 手塚富雄訳)

…………

もっともいくら樹木を愛でても
次のような文に、若いうちからーーわたくしのように三十歳前後でーー
魅せられないほうがいいのかもしれないとは言っておこう。

だいたい章の心のなかには、古い大きな木の方が、 なまなかの人間よりよっぽどチャンとした思想を持っている、という考えがある。

厳密な定義は知らぬが、いま横行している思想などはただの受け売りの現象解釈で、 そのときどきに通用するように案出された理屈にすぎない。 現象解釈ならもともと不安定なものに決まってるから、ひとりひとりの頭のなかで変わるのが当然で、 それを変節だの転向だのと云って責めるのは馬鹿気たことだと思っている。

皇国思想でも共産主義革命思想でもいいが、それを信じ、それに全身を奪われたところで、 現象そのものが変われば心は醒めざるを得ない。敗戦体験と云い安保体験と云う。 それに挫折したからといって、見栄か外聞のように何時までもご大層に担ぎまわっているのは見苦しい。 そんなものは、個人的に飲み込まれた営養あるいは毒であって、 肉体を肥らせたり痩せさせたりするくらいのもので、精神自体をどうできるものでもない。

章は、ある人の思想というのは、その人が変節や転向をどういう格好でやったか、やらなかったか、 または病苦や肉親の死をどういう身振りで通過したか、その肉体精神運動の総和だと思っている。 そして古い木にはそれが見事に表現されてマギレがないと考えているのである。

章は、もともと心の融通性に乏しいうえに、歳をとるに従っていっそう固陋になり、 ものごとを考えることが面倒くさくなっている。一時は焼き物に凝って、 何でも古いほど美しいと思いこんだことがあったが、今では、 古いということになれば石ほど古いものはない理屈だから、 その辺に転がっている砂利でも拾ってきて愛玩したほうが余っ程マシで自然だとさとり、 半分はヤケになってそれを実行しているのである(藤枝静男「木と虫と山」)

中上健次の夏ふようの白い花に魅せられるくらいだったらいいさ。




空はまだ明けきってはいなかった。通りに面した倉庫の横に枝を大きく広げた丈高い夏ふようの木があった。花はまだ咲いていなかった。毎年夏近くに、その木には白い花が咲き、昼でも夜でもその周囲にくると白の色とにおいにひとを染めた。その木の横に止めたダンプカーに、秋幸は一人、倉庫の中から、人夫たちが来ても手をわずらわせることのないよう道具を積み込んだ。
光が撥ねていた。日の光が現場の木の梢、土に当たっていた。何もかも輪郭がはっきりしていた。曖昧なものは一切なかった。いま、秋幸は空に高くのび梢を繁らせた一本の木だった。一本の草だった。いつも、日が当たり、土方装束を身にまとい、地下足袋に足をつっ込んで働く秋幸の見るもの、耳にするものが、秋幸を洗った。今日もそうだった。風が渓流の方向から吹いて来て、白い焼けた石の川原を伝い、現場に上がってきた。秋幸のまぶたにぶらさがっていた光の滴が落ちた。汗を被った秋幸の体に触れた。それまでつるはしをふるう腕の動きと共に呼吸し、足の動きと共に呼吸し、土と草のいきれに喘いでいた秋幸は、単に呼吸にすぎなかった。光をまく風はその呼吸さえ取り払う。風は秋幸を浄めた。風は歓喜だった。(中上健次『枯木灘』)


2014年3月11日火曜日

「父ちゃん、なぜ女が金玉を磨くだかえ」

前回、表題を「なにが言いたいわけでもない」としたが、正確には「何を言おうとするわけでもない」だった。出典不記載はいいにしろ、敬愛してやまない作家の文の不正確な「剽窃」は堪えがたい。――などと書いたら真に受けてなんたら言ってくるやつらがいるかもしれないから敢えて書いておくが、もちろん半ばジョークで半ば本気だよ。

金剛石も磨かずば
珠の光は添はざらん
人も学びて後にこそ
まことの徳は現るれ


これは昭憲皇太后が作詞して女子学習院に下賜された御歌の冒頭の四行であるが、章は小学生のじぶんに女の教師から習って地久節のたびごとに合唱していたから、今でもその全節をまちがいなく歌うことができるのである。

そのとき章は、この「たま」とは金玉のことであると一人合点で思いこんでいた。それで或る日父に
「父ちゃん、なぜ女が金玉を磨くだかえ」
と訊ねた。すると父は、
「なによ馬鹿を言うだ」
と答えた。しかし後々まで、不合理とは知りながらも、章の脳裡には、裾の長い洋服に鍔広の帽子をかぶった皇太后陛下が、どこかで熱心に睾丸を磨いている光景が残った。今でもこの歌を思い出すたびに(ごく微かにではあるが)同じ映像の頭に浮かぶことを防ぎ得ないのである。

こういうことを書いて何を言おうとするわけでもない。

次手に言うと、章は同じく小学校入りたての七つ八つのころ父から「蒙求」と「孝経」の素読を授けられていたが、ときおり父が「子曰ク」という個所を煙管の雁首で押さえながら「師の玉あ食う」と発音してみせて、厭気のさしかかった章を慰めるようなふうをしたことを、無限の懐かしさで思い起こすことができる。多分、父はかつての貧しい書生生活のなかで、ある日そういう読みかたを心に考えつき、それによって僅かながらでもゆとりと反抗の慰めを得たのであったろう。そしてその形骸を幼い章に伝えたのであろうと想像するのである。(藤枝静男「土中の庭」1970初出)

上の藤枝静男の文は、わたくしには「無限の懐かしさ」を与えてくれる。似たような感慨を与えてくれる「作品」というものは稀だ。侯孝賢の映像作品が僅かにそれに並ぶ。プルーストような文章で、わたくしの幼少年期に馴染んだ風景を描いてくれる作品があればまた別だが、そんなものは現れそうもない、ーーといったら言い過ぎかもしれない。安岡章太郎や大江健三郎、中上健次、最近では田中慎弥の小説の断片に無限の懐かしさを感じたことがないでもない(「今日も割れ目やねえ」)。

あるいはまた昨年の初頭めぐり合った黒田夏子の小説の冒頭近くにある魅されてやまない表現、《またある朝はみゃくらくもなく,前夜むかれた多肉果の紅いらせん状の皮が匂いさざめいたが,それはそのおだやかな目ざめへとまさぐりとどいた者が遠い日に住みあきらめた海辺の町の小いえの,淡い夕ばえのえんさきからの帰着だった.》という文章はこれからも長いあいだ慈しむことになるだろう。

そして西脇順三郎や田村隆一、谷川俊太郎などの詩句をどうして忘れることができよう、--というわけでやや言葉の綾の気味があるが、今その名を出しているのだから堀江敏幸が次のように書くほどではないにしろ、あまり安易に名を出したくない作家なのだ。書けば「濡れすぎる」。

心を寄せていた異性の名を口にできないのとおなじように、ほんとうに好きな作家、好きだった詩人の名はぜったいに明かせない。(堀江敏幸『河岸忘日抄』)


まずは静岡方言がある。わたくしは静岡生まれではないが静岡県との県境の西側にある地方都市に生まれ、多くの親族は静岡県の西部に住んでいた。あの訛りは、わたくしにとって「濡れて」いるのだ。

人間は胎内で母からその言語のリズムを体に刻みつけ、その上に一歳までの間に喃語を呟きながらその言語の音素とその組み合わせの刻印を受け取り、その言語の単語によって世界を分節化し、最後のおおよそ二歳半から三歳にかけての「言語爆発」によって一挙に「成人文法性 adult grammaticality」を獲得する。これが言語発達の初期に起こることである。これは成人になってからでは絶対に習得して身につけることができない能力であると決っているわけではないけれども、なまなかの語学の専門家養成過程ぐらいで身につくものではないからである。

それを疑う人は、あなたが男性ならば女性性器を指す語をあなたの方言でそっと呟いてみられよ。周囲に聴く者がいなくても、あなたの体はよじれて身も世もあらぬ思いをされるであろう。ところが、三文字に身をよじる関西人も関東の四文字語ならまあ冷静に口にすることができる。英語、フランス語ならばなおさらである。これは母語が肉体化しているということだ。

いかに原文に通じている人も、全身を戦慄させるほどにはその言語によって総身が「濡れて」いると私は思わない。よい訳とは単なる注釈の一つの形ではない。母語による戦慄をあなたの中に蘇えらせるものである。「かけがえのない価値」とはそういうことである。(中井久夫「訳詩の生理学」)

そして藤枝静男が父の思出を書く語り口のなんという寡黙な抒情。わたくしにとって幼少期の記憶を蘇らせる「かけがえのない」文章なのだ。ーーと、「寡黙な抒情」と劣化した剽窃をまたしてしまった。ここはやはり次の文を引用せざるをえない。

藤枝文学においてその父親のイメージがまとっている鮮烈な抒情、そして愛と呼ぶにはあまりに寡黙なその言動につつまれて藤枝少年が過ごした大正期の東海地方の風景といったものの美しさについては、すでに度々書く機会を持ったので、もう繰り返すにはおよばない。『藤枝静男著作集』も刊行され始めたので、まさに「毅」の一語がこの作者のために存在しているとしか思えない文章に、じかに触れていただくことにする。と、ここまで書いてきた瞬間、机上の電話が鳴って、受話器のむこう側から、遂に藤枝さんに確定しましたというはずんだ声が鼓膜をふるわせる。本年度の谷崎潤一郎賞が、藤枝静男氏に決定したというニュースを、親しい編集者の安原顯氏が知らせてくれたのである。われわれは、こんなとき誰もが口にする祝福の言葉をかわしあってたがいの喜びを確認しあうのだが、しかしその喜びには、どこかがっかりしたような調子がただよっている。すでにその名声が高まっているとはいえ、これを機に、あれほど絶版が続いて読むのがむずかしかった藤枝文学が、とうとう読者の前にいかにもたやすく投げだされてしまうことを、二人してそれと口にせずに惜しんでいるようだ。

そうか、藤枝氏が谷崎賞を受賞されることになったのか。まるで年甲斐もない恋文のような藤枝静男論を発表したばかりのころ、安原氏の後について行って一度だけお逢いしたことのある藤枝氏に心からの祝福をささげながらも、これでは何かできずぎているような気がする。この一文を『欣求浄土』の「土中の庭」の冒頭の挿話から始めたものの、残りがどんなふうに書きつがれ、どんなふうに書き終わるのか、不意にわからなくなってしまう。藤枝氏にならって、「こういうことを書いて何を言おうとするわけでもない」と書き記し、しかしいつとはなしに一篇がいかにも「毅」の字にふさわしく書きつがれてゆく言葉を絶ち切るといって芸当はどうもできそうにない。いったい、どうすればよいか。(蓮實重彦「皇太后の睾丸」『反=日本語論』所収)

藤枝静男は戦後、奥さんの実家浜名郡積志村(現浜松市に合併)で家業の眼科医を手伝われ、その後四十二歳時(1950年)、浜松市内に眼科医院を開業している。このあたりの土地もわたくしには親しい。わたくしの一家は、浜名湖の古い旅館に宿泊して海水浴する習慣があった。

わたくしの遠縁が住んでいた三ケ日近辺にもしばしば小旅行されたことを書き綴る藤枝静男への変則的なオマージュとして、「毅」とは程遠いながら、幼少時の夏の思出とでもすべき文を挿入しよう。

…………

小学校の夏休み、叔父たちにつれられて、奥浜名湖の三ケ日にある谷川での鮎獲りに何度か出かけた。母方の祖父が始めた小さな事業の従業員慰安旅行のようなものだったのだろう、かなり多人数の参加があり、肉体労働の逞しさをみせる男たちが川に潜って銛を使い鮎を突き刺す。三人の伯叔父たちももちろんその仲間に加わり、少年も促されて銛を手に持ってみはしたが巧く扱えない。谷川の深みの上流と下流のそれぞれに川幅いっぱいに網を立てて張ってあり、追い込まれた鮎が彷徨い逃げている。それが潜水眼鏡の端を頻りに掠めるのだが手掴みという具合にはいかない。深い処は、三、四メートルほどは間違いなくあり、臆病で華奢な少年は筋骨隆々とした敏捷な男たちの邪魔にならないように比較的浅い場所でパチャパチャと鮎を追いかけるのが関の山だ。向かいの崖の上には遠縁のみかん農家があり、そそり立った白灰色の岩の壁とその崖上の蒼黒い喬木が日ざしを遮り、深みの水は碧色に沈む。だが石ころだらけの河原はバス何台かで訪れた従業員家族が憩うに十分の広さをもっており、そこでは日の光は十分すぎるほどふり注いでいる。よく乾燥して日なたくさい岩を腰かけのようにした女たちは、川底から水滴をはじき飛ばして浮び上ってくる男たち、その片手を高々と掲げて銛の先に銀色に輝き跳ねるものを見やって、つばびろの麦藁帽の翳になっていた顔を上方に傾け輝かす。《あなたは初夏の光の中で大きく笑った。わたしはその日、河原に降りて笹舟を流し、あふれる夢を絵の具のように水に溶いた。空の高みへ小鳥の群れはひっきりなしに突き抜けていた。空はいつでも青かった。わたしはわたしの夢の過剰で一杯だった。白い花は梢でゆさゆさ揺れていた》(大岡信)捕獲された鮎は手ごろな石を囲炉裏状に組み、串刺しにされ塩をまぶした鮎を炭火で炙ってかぶり喰う。あのときほどに鮎が旨かった記憶はその後ない。それは夏の日のかけがえのない記憶のひとつ。

…………

それ以外にも当地に住むようになって、次男と姪の会話ーー姪とは、ほとんど毎日曜日遊びに来る息子の一歳上の従姉なのだがーーその幼いふたりの風呂場での会話を偶然耳にして苦笑しつつ、藤枝静男の文を痛いように思い起すなどということもあった。

当地の隠語では、女陰をダイヤモンド(金剛石)という意味の言葉でいう(キンクン)。男性器のほうは金の塊という(コプヤン)。

ねえ、あんたコプヤンある?
あたしはキンクンよ

「金剛石も磨かずば/珠の光は添はざらん」とひそかに口ずさむことになる。

キンクンも磨かずば/コプヤンの光は添はざらん


ここでなぜかヴァレリーの「若きパルク」の冒頭三行を挿入する。

《すぎゆく ひとすじの風ならで 誰が泣くのか?
いやはての金剛石〔ほしぼし〕とともにひとりある このひとときに ……
誰が泣くのか? だが その泣くときに かくもわが身に近く。》(中井久夫訳)

彼女は三歳と四歳とのあいだである。子守女が彼女と、十一ヶ月年下の弟と、この姉弟のちょうど中ごろのいとことの三人を、散歩に出かける用意のために便所に連れてゆく。彼女は最年長者として普通の便器に腰かけ、あとのふたりは壺で用を足す。彼女はいとこにたずねる、「あんたも蝦蟇口を持っているの? ヴァルターはソーセージよ。あたしは蝦蟇口なのよ」いとこが答える、「ええ、あたしも蝦蟇口よ」子守女はこれを笑いながらきいていて、このやりとりを奥様に申上げる、母は、そんなこといってはいけないと厳しく叱った。(フロイト『夢判断』 高橋義孝訳 新潮文庫下 P86)





白と云っても実際は薄クリーム色で、実も黄色っぽい色をしている。 十年ほどまえ志賀直哉氏が「珍しいからと云ってこのあいだ植木屋が持ってきてくれたんだ」と喜んで見ておられたが、昭和三十九年の十一月一日にうかがうと客間の南側の間近い低い塀の 前に大きい実をいっぱいにつけていた。氏は満足そうな顔をして私の注意をうながし「うまいから持って帰って食ってみたまえ」と云われて、鋏を鳴らしながら大きめの二個を選んで枝のまま切って下さっ た。私は浜松に帰るとその甘い実を一個食いつくしたのち、種を乾かして蜜柑箱にまいた。(略) 私の蒔いた種は、一年して無数の芽が出たので丈夫そうなのを選んで二回移植したのち鉢に 移し、二年して四〇センチばかりに伸びたところで四本を庭に二本を故郷の家に植えて、一本を弟 にやり二本は鉢のまま志賀さん方に持って行った。その次うかがうと「あれは瀧井と網野さんにやっ た」と言われた。 家の玄関前に植えた二本が、高さ三メートルほどに育ったと思うと 昨年になって急に沢山の花をつけ、続いて細い枝が地に垂れ下るほ ど沢山の実をむすんだ。そのころから志賀さんの身体の衰えがひどくなりはじめたことを聞き、またごく稀にうかがって客間のベッドに静かに寝ておられる姿を拝見したりしたので、家に帰って白柘榴の実がだんだんにふくらんでくるのを見るたびに、早くこれを切っておめにかけたいと願わぬことはなかった。その一粒二粒を口に入れて微笑される場面を空想したが、しかし正直に云うと「もうそんなことは面倒になった」というふうにチラリと見て首をふられる様を心細く思い浮かべることの方が多かったのだ。そのことはもう入院されていた。( 『藤枝静男著作集第一巻「白柘榴」』より)


2013年12月11日水曜日

コビトの国の王様

……現実はむしろ夢魔に似ていたのかもしれない。GHQに挨拶に出かけた天皇が、マッカーサーと並んで立っている写真は、まるでコビトの国の王様のようであった。かと思うと、そのマッカーサー司令部のある皇居と向い合せのビルの前で、釈放された共産党員その他の政治犯たちが、「マッカーサー万歳」を唱えたというような記事が新聞に出ていた。(安岡章太郎『僕の昭和史 Ⅱ』 講談社文庫 P24)




「コビトの国の王様」は、戦後日本において「抑圧されたもの」としてよいだろう。もちろんマッカーサーとの会見の約一年後に米国からいわゆる「押しつけられた」とされる現行憲法もその影を大きく背負っている。

経済発展期や議会運営などがまがりなりにも上手くいっているときは、抑圧されたものはある意味で忘れ去ることができた。なにかが上手くいかなくなったとき、ーーたとえば国内に大きな事故や消費税値上げ、あるいは財政逼迫、少子化などの将来にわたっての「引き返せない道」の苦難が瞭然とすれば、さらには二大大国の狭間で「見栄えのしない課題」に汲々とせざるをえないのならば、ーー「天皇」が直接回帰するだけでなく(天皇制論)、その隠喩としての「現行憲法」も否応なしに回帰する。

……われわれはこういうことができようーー要するに被分析者は忘れられたもの、抑圧されたものからは何物も「思い出す」erinnernわけではなく、むしろそれを「行為にあらわす」 agierenのである、と。彼はそれを(言語的な)記憶として再生するのではなく、行為として再現する。彼はもちろん、自分がそれを反復していることを知らずに(行動的に)反復wiederholenしているのである。

たとえば、被分析者は、「私は両親の権威にたいして反抗的であり、不信を抱いていたことを想い出しました」とはいわないで、(その代わりに)分析医にたいしてそのような反抗的、不信的な態度をとってみせるのである。(フロイト『想起・反復・徹底操作』)

コビトの国の王様にとっての、権威としての親への反撥は、米国だけではないだろう。今後、かつて土足で上がりこんだ本来の「親」の家、中国への気遣いもますます増してゆく。

ブルジョワ的民主国家においては、国民が主権者であり、政府がその代表であるとされている。絶対主義的王=主権者などは、すでに嘲笑すべき観念である。しかし、ワイマール体制において考えたカール・シュミットは、国家の内部において考えるかぎり、主権者は不可視であるが、例外状況(戦争)において、決断者としての主権者が露出するのだといっている(『政治神学』)。シュミットはのちにこの理論によって、決断する主権者としてのヒトラーを正当化したのだが、それは単純に否定できない問題をはらんでいる。たとえば、マルクスは、絶対主義王権の名残をとどめた王政を倒した一八四八年の革命のあとに、ルイ・ボナパルドが決断する主権者としてあらわれた過程を分析している。マルクスが『ブリュメール一八日』で明らかにしたのは、代表制議会や資本制経済の危機において、「国家そのもの」が出現するということである。皇帝やヒューラーや天皇はその「人格的担い手」であり、「抑圧されたもの(絶対主義王権)の回帰」にほかならない。(柄谷行人『トランスクリティーク』p418)

武藤国務大臣 (……)

 そのオーストラリアへ参りましたときに、オーストラリアの当時のキーティング首相から言われた一つの言葉が、日本はもうつぶれるのじゃないかと。実は、この間中国の李鵬首相と会ったら、李鵬首相いわく、君、オーストラリアは日本を大変頼りにしているようだけれども、まああと三十年もしたら大体あの国はつぶれるだろう、こういうことを李鵬首相がキーティングさんに言ったと。非常にキーティングさんはショックを受けながらも、私がちょうど行ったものですから、おまえはどう思うか、こういう話だったのです。私は、それはまあ、何と李鵬さんが言ったか知らないけれども、これは日本の国の政治家としてつぶれますよなんて言えっこないじゃないか、確かに今の状況から見れば非常に問題があることは事実だけれども、必ず立ち直るから心配するなと言って、実は帰ってまいりました。(第140回国会 行政改革に関する特別委員会 第4号 平成九年五月九日)
『断腸亭日乗』昭和二十(1945)年 荷風散人年六十七


昭和二十年九月廿八日。 昨夜襲来りし風雨、今朝十時ごろに至つてしづまりしが空なほ霽れやらず、海原も山の頂もくもりて暗し、昼飯かしぐ時、窓外の芋畠に隣の人の語り合へるをきくに、昨朝天皇陛下モーニングコートを着侍従数人を従へ目立たぬ自動車にて、赤坂霊南坂下米軍の本営に至りマカサ元帥に会見せられしといふ事なり。戦敗国の運命も天子蒙塵の悲報をきくに至つては其悲惨も亦極れりと謂ふ可し。南宋趙氏の滅ぶる時、其天子金の陣営に至り和を請はむとして其儘俘虜となりし支那歴史の一頁も思ひ出されて哀なり。数年前日米戦争の初まりしころ、独逸摸擬政体の成立して、賄賂公行の世となりしを憤りし人々、寄りあつまれば各自遣るか たなき憤惻の情を慰めむとて、この頃のやうな奇々怪々の世の中見やうとて見られるものではなし、人の頤を解くこと浅草のレヴユウも能く及ぶところにあらず、角ある馬、雞冠ある烏を目にする時の来るも遠きにあらざるべし。是太平の民の知らざるところ、配給米に空腹を忍ぶ吾等日本人の特権ならむと笑ひ興ぜし ことありしが、事実は予想よりも更に大なりけり。我らは今日まで夢にだに日本の天子が米国の陣営に微行して和を請ひ罪を謝するが如き事のあり得べきを知ら ざらりしなり。此を思へば幕府滅亡の際、将軍徳川慶喜の取り得たる態度は今日の陛下より遥に名誉ありしものならずや。今日此事のこゝに及びし理由は何ぞ や。幕府瓦解の時には幕府の家臣に身命を犠牲にせんとする真の忠臣ありしがこれに反して、昭和の現代には軍人官吏中一人の勝海舟に比すべき智勇兼備の良臣 なかりしが為なるべし。我日本の滅亡すべき兆候は大正十二年東京震災の前後より社会の各方面に於て顕著たりしに非ずや。余は別に世の所謂愛国者と云ふ者に もあらず、また英米崇拝者にもあらず。惟虐げられらるゝ者を見て悲しむものなり。強者を抑へ弱者を救けたき心を禁ずること能ざるものたるに過ぎざるのみ。 これこゝに無用の贅言を記して、穂先の切れたる筆の更に一層かきにくくなるを顧ざる所以なりとす。

…………

だいたい僕は天皇個人に同情を持っているのだ。原因はいろいろにある。しかし気の毒だという感じが常に先立っている。むかしあの天皇が、僕らの少年期の終りイギリスへ行ったことがあった。あるイギリス人画家のかいた絵、これを日本で絵ハガキにして売ったことがあったが、ひと目見て感じた焼けるような恥かしさ、情なさ、自分にたいする気の毒なという感じを今におき僕は忘れられぬ。おちついた黒が全画面を支配していた。フロックとか燕尾服とかいうものの色で、それを縫ってカラーの白と顔面のピンク色とがぽつぽつと置いてあった。そして前景中央部に腰をまげたカアキー色の軍服型があり、襟の上の部分へぽつんとセピアが置いてあった。水彩で造作はわからなかったが、そのセピアがまわりの背の高い人種を見あげているところ、大人に囲まれた迷子かのようで、「何か言っとりますな」「こんなことを言っとるようですよ」「かわいもんですな」、そんな会話が――もっと上品な言葉で、手にとるように聞こえるようで僕は手で隠した。精神は別だ。ただそれは、スケッチにすぎなかったが描かれた精神だった。そこに僕自身がさらされていた。(中野重治『五勺の酒』)
これは文芸時評ではないが無関係ではない─天皇の生まれてはじめての記者会見というテレビ番組を見て実に形容しようもない天皇個人への怒りを感じた。哀れ、ミジメという平生の感情より先にきた。いかに『作られたから』と言って、あれでは人間であるとは言えぬ。天皇制の『被害者』とだけ言ってすまされてはたまらないと思った。動物園のボロボロの駝鳥を見て『もはやこれは駝鳥ではない』と絶叫した高村光太郎が生きていてみたら何と思ったろうと想像して痛ましく感じた。三十代の人は何とも思わなかったかも知れぬ。私は正月がくると六十八歳になる。誰か、あの状態を悲劇にもせず喜劇にもせず糞リアリズムで表現してくれる人はいないか。冥土の土産に読んで行きたい。(藤枝静男(「東京新聞」「中日新聞」文芸時評 昭和五十年十一月二十八日夕刊)
志賀氏が、天皇を天皇制の犠牲者として、自由にものを云うことを奪われた、残念ではあるが気が弱い、人間的には好い人と…見ていたことは…明白である。中野氏の『五尺の酒』を読めば…あの繰り人形さながらの動作とテープ録音そっくりのセリフを棒たらに繰り返す天皇への憐れさへの何とも処理しがたい心持ちと焦立ちを…描いていることもまた明白である。(藤枝静男、「志賀直哉・天皇・中野重治」昭和五十年「文藝」七月号)
今度の戦争で天子様に責任があるとは思はれない。 然し天皇制には責任があると思ふ。‥‥  天子様と国民との古い関係をこの際捨て去つて了ふ 事は淋しい。今度の憲法が国民のさういふ色々な不安 を一掃してくれるものだと一番嬉しい事である。  (志賀直哉  「昭和21. 4.『婦人公論』)
…………

日本は天皇によつて終戦の混乱から救はれたといふが常識であるが、之は嘘だ。日本人は内心厭なことでも大義名分らしきものがないと厭だと言へないところがあり、いはゞ大義名分といふものはさういふ意味で利用せられてきたのであるが、今度の戦争でも天皇の名によつて矛をすてたといふのは狡猾な表面にすぎず、なんとかうまく戦争をやめたいと内々誰しも考へてをり、政治家がそれを利用し、人民が又さらにそれを利用したゞけにすぎない。

日本人の生活に残存する封建的偽瞞は根強いもので、ともかく旧来の一切の権威に懐疑や否定を行ふことは重要でこの敗戦は絶好の機会であつたが、かういふ単純な偽瞞が尚無意識に持続せられるのみならず、社会主義政党が選挙戦術のために之を利用し天皇制を支持するに至つては、日本の悲劇、文化的貧困、これより大なるはない。(坂口安吾『天皇小論』)
たえがたきを忍び、忍びがたきを忍んで、朕の命令に服してくれという。すると国民は泣いて、外ならぬ陛下の命令だから、忍びがたいけれども忍んで負けよう、と言う。嘘をつけ! 嘘をつけ! 嘘をつけ!

我々国民は戦争をやめたくて仕方がなかったのではないか。竹槍をしごいて戦車に立ちむかい、土人形のごとくにバタバタ死ぬのが厭でたまらなかったのではないか。戦争の終わることを最も切に欲していた。そのくせ、それが言えないのだ。そして大義名分と云い、また、天皇の命令という。忍びがたきを忍ぶという。何というカラクリだろう。惨めともまたなさけない歴史的大欺瞞ではないか。しかも我等はその欺瞞を知らぬ。天皇の停戦命令がなければ、実際戦車に体当たりをし、厭々ながら勇壮に土人形となってバタバタ死んだのだ。最も天皇を冒涜する軍人が天皇を崇拝するがごとくに、我々国民はさのみ天皇を崇拝しないが、天皇を利用することには狎れており、その自らの狡猾さ、大義名分というずるい看板をさとらずに、天皇の尊厳の御利益を謳歌している。何たるカラクリ、また、狡猾さであろうか。我々はこの歴史的カラクリに憑かれ、そして、人間の、人性の、正しい姿を失ったのである。(坂口安吾 「続堕落論」)
我々は靖国神社の下を電車が曲がるたびに頭を下げさせられる馬鹿らしさには閉口したが、ある種の人々にとっては、そうすることによってしか自分を感じることが出来ないので、我々は靖国神社についてはその馬鹿らしさを笑うけれども、外の事柄にについて、同じような馬鹿げたことを自分自身でやっている。そして自分の馬鹿らしさには気がつかないだけのことだ。(坂口安吾 「堕落論」)

…………

昭和63年、昭和天皇が病床に就かれ、多くの人が陛下のご平癒を祈って宮城を訪れ、記帳した。その光景を見た浅田彰曰く、『連日ニュースで皇居前で土下座する連中を見せられて、自分はなんという「土人」の国にいるんだろうと思ってゾッとするばかりです(「文学界 平成元年二月号)』)
さて、高度成長と、それによる高度大衆社会の形成は、共同幻想の希薄化をもたらした。 いいかえれば、国家のレヴェルが後退し、家族のレヴェルが、それ自体解体しつつも、前 面に露呈されてきたのだ。......そもそも対幻想を対幻想たらしめていた抜き差しならぬ他 者との「関係の絶対性」の契機がそれ自体著しく希薄化し、対幻想は拡大された 自己幻想に限りなく近付いていく。そうなれば、そのような幻想の共振によって共同体を構成することも不可能ではなくなる。公的というより私的、言語的(シンボリック)というより前言語 的(イマジナリー)、父権的というより母性的なレヴェルで構成される共感の共同体。......それ はむしろ、われわれを柔らかく、しかし抗しがた い力で束縛する不可視の牢獄と化している。それがハードな国家幻想に収束していく可 能性はたしかに小さくなったかもしれないとしても、だからといってソフトな閉塞に陥らない という保証はどこにもないのである。」浅田彰「むずかしい批評」(『すばる』1988 年 7 月号)


◆『柄谷行人 中上健次全対話』(講談社文芸文庫)より

中上)…しかし、西洋史のあなた達柄谷さんと浅田彰さんが、対談(「昭和の終焉に」・文学界1989年2月号)して、天皇が崩御した日に人々が皇居の前で土下座しているのを、「なんという”土人”の国にいるんだろう」と思った、と言う。

柄谷)でも、あの”土人”というのは北一輝の言葉なんだよ。(笑)

…だから天皇って何かというと、…女文字・女文学と切り離せない。つまり母系制の問題というところにいくと思う。

中上)…何故ここで被差別部落のような形で差別が存在するか、被差別部落が存在するか、と問うのと、なぜここに天皇が存在するのかと問うのとは、同じ作業ですよ。

柄谷)…あれは、あの対談の前に僕が北一輝の話をしていたんですよ。北一輝は、明治天皇をドイツ皇帝のような立憲君主国の君主だと考えていた。それ以前の天皇は土人の酋長だ、と言っているわけす。

《実のところ、私は最低限綱領のひとつとしての天皇制廃止を当時も今も公言しているし、裕仁が死んだ日に発売された『文學界』に掲載された柄谷行人との対談で、「自粛」ムードに包まれた日本を「土人の国」と呼んでいる。それで脅迫の類があったかどうかは想像に任せよう。……》(図像学というアリバイ 浅田彰)


北一輝は、明治以前の天皇は「土人の酋長」と変わらないといっている。事実、先にのべたように、元号も明治までは自然を動かす呪術的な機能であった。「一世一元」とはそれを否定することであり、天皇を近代国家の主権者とみなすことである。北一輝にとって、明治天皇は立憲君主であり「機関」としてある。つまり、天皇個人もその儀礼的本質も、彼にとっては本質的にはどうでもよかったのである。ヘーゲルもいっている。≪君主に対し客観的な諸性質を要求するのは正当ではない。君主はただ「イエス」といって最後の決定を与えるべきなのだ。そもそも頂点とは、性格の特殊性が重要でなくなるようにあるべきものだからである≫(『法哲学』280補遺)。(柄谷行人「一九七〇年=昭和四十五年」『終焉をめぐって』所収P27-28)

◆柄谷行人『倫理21』より抜粋
1970年天皇をかついだクーデターを訴えて自決した三島由紀夫のような人は、死ぬ前のインタビューでも、昭和天皇に対する嫌悪と軽蔑を隠していません。また、天皇の戦争責任を認めて右翼から襲撃された長崎市長本島等は、左翼どころか、どちらかといえば「右翼的」な人物です。総じて、天皇の戦争責任を認める者は、蜷川新のように「明治気質」の人間です。日本国家の戦争責任を認めるならば、天皇の責任を認めるべきであり、そうでないなら、戦争責任を全面的に否定すべきだ、その二つに一つしかありません。
今日において史料的に明らかなことは、戦争期において、天皇がたんなる繰り人形でもなく、平和を愛好する立憲君主でもなく、戦争の過程に相当積極的に加担していたということです。さらに、天皇自身がその地位の保全のために画策したということです。戦争末期にそれは「国体の維持」という言い方をされたのですが、つまりは天皇制および天皇個人の地位の護持ということが、当時の権力の最大の目的でした。
イタリアはいうまでもなく、ナチス・ドイツが降伏した後でさえ日本が戦争を続けたのは、なんら勝算や展望があったからではなく、降伏の条件として天皇制の「護持」をはかって手間取ったのです。その結果として、何百万人の兵士、市民が戦場や都市爆撃、さらに二度の原子爆弾によって死ぬことになりました。
にもかかわらず、敗戦の決定は、天皇自身の「御聖断」によってなされたという神話ができています。そのような神話づくりには、占領軍のマッカーサー将軍も加担しています。彼は「国民が救われるなら、自分はどうなってもいい」と語った天皇に感動したということを伝記に書いていますが、これは明らかに虚構です。「自分はどうなってもいい」のなら、もっと前に終戦をいうべきだったし、もし「立憲君主」のためにそのような介入ができない立場にあるなら、敗戦においてもそれはできなかったはずです。
実際には、天皇制を保持し天皇を免責することを決めたのは、ソ連あるいはコミュニズムの浸透をおそれたアメリカ政府です。また、マッカーサーは、東京裁判のあと天皇が退位することを当然とする日本の識者の意見に対して、それを抑えました。

※参考:三島由紀夫の天皇論


浅田彰の共感の共同体批判、《公的というより私的、言語的(シンボリック)というより前言語 的(イマジナリー)、父権的というより母性的なレヴェルで構成される共感の共同体。......それ はむしろ、われわれを柔らかく、しかし抗しがた い力で束縛する不可視の牢獄と化している》という文章は、ラカン用語で仮装されているが、丸山真男や、あるいは加藤周一らのモダニスト系譜のものだろう。


◆加藤周一『日本文化における時間と空間』より

日本社会には、そのあらゆる水準において、過去は水に流し、未来はその時の風向きに任せ、現在に生きる強い傾向がある。現在の出来事の意味は、過去の歴史および未来の目標との関係において定義されるのではなく、歴史や目標から独立に、それ自身として決定される。(……)

労働集約的な農業はムラ人の密接な協力を必要とし、協力は共通の地方心信仰やムラ人相互の関係を束縛する習慣とその制度化を前提とする。この前提、またはムラ人の行動様式の枠組は、容易に揺らがない。それを揺さぶる個人または少数集団がムラの内部からあらわれれば、ムラの多数派は強制的説得で対応し、それでも意見の統一が得られなければ、「村八分」で対応する。いずれにしても結果は意見と行動の全会一致であり、ムラ全体の安定である。

加藤周一が89歳でとうとう亡くなったね。全共闘以後、「朝日・岩波文化人」はもう古いなんて言われたけど、若い世代が好きなことを言えたのも、基準となる文化人がいてのことだった。最後の大知識人だった加藤周一の死で、そういう基準がなくなったことをあらためて痛感させられる。実際、もはや「朝日・岩波文化人」と呼ぶに足る人なんて朝日を見ても岩波を見てもほとんどいないもん。戦前・戦中の日本が情緒に引きずられたことへの反省から、加藤周一はとことん論理的であろうとした。老境の文化人がややもすれば心情的なエッセーに傾斜する日本で、彼だけは最後まで明確なロジックと鮮やかなレトリックを貫いた。晩年になっても、日本料理よりは西洋料理や中華料理、それも血のソーセージみたいなものを選ぶわけ。で、食べてる間はボーッとしてるようでも、いざ食後の会話となると、脳にスイッチが入って、一分の隙もない論理を展開してみせる。彼と宮脇愛子と高橋悠治は約10年ずつ違うけれど、誕生日が並んでるんで何度か合同パーティをした、そんなときでも彼がいちばん元気なくらいだったよ。とくに国際シンポジウムのような場では、彼がいてくれるとずいぶん心強かった。英語もフランス語もそんなに流暢ではないものの、言うべきことを明晰に言う、しかも、年齢相応に威厳をもって話すんで海外の参加者からも一目置かれる、当たり前のことのようで実はそういう人って日本にほとんどいないんだよ。むろん、ポスト全共闘世代のぼくらからすると、加藤周一は最初から過去の人ではあった。でも、先月号(2009年1月号/talk13)で触れた筑紫哲也の場合と同様、死なれてみるとやっぱり貴重な存在だったと思うな。(加藤周一の死)

2013年10月1日火曜日

「おっかさんと蛍」(小林秀雄)

資料をまとめるといっておいて、投稿していないのだけれど、とりあえずいくつかの抜粋のみ。

未定稿としておこう(小林秀雄批判をもっとも厳しくしたのは高橋悠治なのだが、悠治を読んでいて関心が別のところにいってしまった)。

…………

以下、「戀戀風塵と童年往事(侯孝賢)」に関連していくつかの資料を並べる(あるいは、「小林秀雄の勾玉の話」、ロラン・バルトの「ベルト付きの靴と首飾り」にかかわる)。


とくに次の文、これは古谷利裕氏がかなり前に書いたものなのだけれど(岡崎乾二郎などに依拠しつつ)、ひとが芸術についてあれやこれや語っているのを垣間見るとき、いつもこの文のことを思う。

ようするに、何かを感じてしまったとき、どうしてひとに語りたくなるのだろう、という問い。


◆《ある作品を観てそこから決定的な「何か」を感じてしまったとする。その時に感じられた「何か」を、その作品の物理的な組成や仕掛けられた仕組み(構造)に還元し切る事は出来ないだろう。だからその時感じた「何か」が恣意的な気まぐれではないということ、つまり外的な状態と関係なく「私」の頭が勝手につくりだした幻影ではなく、幻影ではあっても、その作品に由来するものであることを証明することは難しい。

ではなぜ、作品から感じられた「何か」が、恣意的な気まぐれではなく作品に由来するということが証明されなければならないのか。それは何も、作品というものを擁護するためではない。もしそれが示さないならば、「私」の感覚が、「私」の外側にある客観的な世界とどのように繋がっているのか分からなくなってしまうからだ。》

◆《ある作品から「何か」を感じたとしても、その「何か」を直接他者に示すことは出来ない。それどころか、その「何か」という感覚を自分自身でもう一度再現出来るかどうかも分からない。》

◆《「他人が見ている青と自分が見ている青が同じかどうか確かめられない」どころか、「自分が見ている青が自分が見ている青と同じかどうかすら確かめられない」という条件を我々の感覚はもっている》(岡崎乾二郎『ルネサンス・経験の条件』「あとがき」)


まあいずれにせよ、空腹のときの「赤」と満腹のときの「赤」は違う。気分のいいときの「赤」と悪いときの「赤」は違う。

自分の青や赤さえこうなのだから、他人の青と自分の青はちがう。たとえば他人と同じ「作品」を愛していた、とする。同好者として、ひとはウレシクなることがあるかもしれない。しかし、互いに微笑み交わし頷きあったりなどしていると、自分だけの固有の印象、経験の質が絶たれてしまうことになりかねない。

人が芸術的なよろこびを求めるのは、芸術的なよろこびがあたえる印象のためであるのに、われわれは芸術的なよろこびのなかに身を置くときでも、まさしくその印象自体を、言葉に言いあらわしえないものとして、早急に放置しようとする。また、その印象自体の快感をそんなに深く知らなくてもただなんとなく快感を感じさせてくれものとか、会ってともに語ることが可能な他の愛好者たちにぜひこの快感をつたえたいと思わせてくれるものとかに、むすびつこうとする。それというのも、われわれはどうしても他の愛好者たちと自分との双方にとっておなじ一つの事柄を話題にしようとするからで、そのために自分だけに固有の印象の個人的な根源が断たれてしまうのである。(プルースト『見出されたとき』)

ちょっと例としてはふさわしくないかもしれないけれど、日本に住んでいたときには、それなりに聴いていたドイツロマン派の音楽を、この亜熱帯の国に住むようになって、めっきり聴かなくなった(ブラームス、ワーグナーなど)ということはある。なぜかシューマンやシューベルトはいける。

あるいは、もともとリルケやトーマス・マンなどを好んでいたのに、いまではフランス以南の文学を好むなどということがある。これも同じ北方でもイギリス文学だったらいける。



【諸君の朝は、事物の上に夕暮れとは違った輝き方をしてはいないか?】

諸君は自分が何を望んでいるか実際に知っているか? ――自分たちは真であるものを認識するには全く役に立たないかもしれない。この不安が諸君を苦しめたことはないか? 自分たちの感覚はあまりにも鈍く、自分たちは敏感に見ることさえやはりあまりにも粗っぽすぎるという不安が? 自分たちが見ることの背後に昨日は他人よりも一層多くを見ようとしたり、今日は他人とは違ったように見ようとしたり、あるいは諸君がはじめから、人々が以前に見つけたと誤認したものとの一致あるいは反対を見出そうと渇望していることに、気づくとすれば! おお、恥辱に値する欲望! 諸君はまさに疲れているためにーーしばしば効果の強いものを、しばしば鎮静させるものを探すことに、気づくとすれば! 真理とは、諸君が、ほかならぬ諸君がそれを受け入れるような性質のものでなければならないという、完全で秘密な宿命がいつもある! あるいは諸君は、諸君が冬の明るい朝のように凍って乾き、心に掛かる何ものも持っていない今日は、一層よい目を持っていると考えるのか? 熱と熱狂とが、思考の産物に正しさを調えてやるのに必要ではないか? ――そしてこれこそ見るということである! あたかも諸君は、人間との交際とは異なった交際を、一般に思考の産物とすることができるかのようである! この交際の中には、等しい道徳や、等しい尊敬や、等しい底意や、等しい弛緩や、等しい恐怖感やーー諸君の愛すべき自我と憎むべき自我との全体がある! 諸君の肉体的な疲労は、諸事物にくすんだ色を与える。諸君の病熱は、それらを怪物にする! 諸君の朝は、事物の上に夕暮れとは違った輝き方をしてはいないか? 諸君はあらゆる認識の洞窟の中で、諸君自身の幽霊を、諸君に対して真理が変装した蜘蛛の巣として再発見することをおそれてはいないか? 諸君がそのように無思慮に共演したいと思うのは、恐ろしい喜劇ではないのか? ――(ニーチェ『曙光』539番)



…………

さて、以下資料。


【おっかさんと蛍】


終戦の翌年、母が死んだ。母の死は、非常に私の心にこたえた。それに比べると、戦争という大事件は、言わば、私の肉体を右往左往させただけで、私の精神を少しも動かさなかった様に思う。日支事変の頃、従軍記者として私の心はかなり動揺していたが、戦争が進むにつれて、私の心は頑固に戦争から眼を転じて了った。私は「西行」や「実朝」を書いていた。戦後、初めて発表した「モオツァルト」も、戦争中、南京で書き出したものである。それを本にした時、「母上の霊に捧ぐ」と書いたのも、極く自然な真面目な気持からであった。私は、自分の悲しみだけを大事にしていたから、戦後のジャーナリズムの中心問題には、何の関心も持たなかった。

母が死んだ数日後の或る日、妙な体験をした。仏に上げる蝋燭を切らしたのに気付き、買いに出かけた。私の家は、扇ヶ谷の奥にあって、家の前の道に添うて小川が流れていた。もう夕暮であった。門を出ると、行手に蛍が一匹飛んでいるのを見た。この辺りには、毎年蛍をよく見掛けるのだが、その年は初めて見る蛍だった。今まで見た事もないような大ぶりのもので、見事に光っていた。おっかさんは、今は蛍になっている、と私はふと思った。蛍の飛ぶ後を歩きながら、私は、もうその考えから逃れる事が出来なかった。

ところで、無論、読者は、私の感傷を一笑に付する事が出来るのだが、そんな事なら、私自身にも出来る事なのである。だが、困った事がある。実を言えば、私は事実を少しも正確には書いていないのである。私は、その時、これは今年初めて見る蛍だとか、普通とは異って実によく光るとか、そんな事を少しも考えはしなかった。私は、後になって、幾度か反省してみたが、その時の私には、反省的な心の動きは少しもなかった。おっかさんが蛍になったとさえ考えはしなかった。何も彼も当り前であった。従って、当り前だった事を当り前に正直に書けば、門を出ると、おっかさんという蛍が飛んでいた、と書く事になる。つまり、童話を書く事になる。

以上が私の童話だが、この童話は、ありのままの事実に基いていて、曲筆はないのである。妙な気持になったのは後の事だ。妙な気持は、事実の徒らな反省によって生じたのであって、事実の直接か経験から発したのではない。では、今、この出来事をどう解釈しているかと聞かれれば、てんで解釈なぞしていないと答えるより仕方がない。という事は、一応の応答を、私は用意しているという事になるかも知れない。寝ぼけないでよく観察してみ給え。童話が日常の実生活に直結しているのは、人生の常態ではないか。何も彼もが、よくよく考えれば不思議なのに、何かを特別に不思議がる理由はないであろう。(小林秀雄「感想」)

【主人とハツカネズミ】

 われわれが、ある一定の条件のもとにある主体に呼びかけるとき、同一化という事実、一種の誤認現象は様々な報告、証言によると限りなくあるということは常に知られてきたことであるし、われわれも確認できることである。

問題なのはどうしてこれらのことが人間存在に起こるのかということである。私の犬とは違って人間存在は、ある動物が出てくるとき、自分の失った人、家族とか、首長あるいは部族のほかの重要人物とかの姿をそこに認めるのである。あの野牛、それは彼だ、というわけである。

もうひとつの例をあげてみよう。ケルトのある農家の使用人の話しからきた民話がある。そこの主人、領主が死んだとき、一匹のハツカネズミが現れ、彼はそれについていった。小さなハツカネズミは領地を一回りして戻って来、農具のある納屋に入り、鋤、鍬、シャベルなどの農具の上を動き回り、それから消えてしまった。ハツカネズミが何を意味するかもうわかっていた使用人はこの後、主人の亡霊が現れるのを見て確信を得るのであった。この亡霊は次のように告げる。「私はあの小さなハツカネズミだった。別れを告げるために領地を一周したのだ。農具を見なければならなかったのは、それが他の何にもまして愛着を感じていた大切なものだからだ。一回りしてやっと開放されることができた。等々」

(……)

同一化の現象を自然なものと考えるために民話に参照することによって、たとえ民話という限界を取り去ってしまうにせよ、私が多少とも満足できると考えることは、私の期待にはそぐわないものである。なぜなら、このことを経験の根底にあるものとして認めたとしても、われわれはそれ以上のことはまったく分からないのである。というのも皆さんにとって、例外を除けば、このようなことは起こり得ないからである。もちろん今でも人里離れた田舎でこういうことが起こることはありえる。しかし、皆さんにはこのようなことは起こり得ないことは明らかである。それゆえこの問題はこれ以上追及できないのである。それが皆さんには起こり得ないという以上、何も理解できないわけであるが、何も理解できないからといって、この出来事に関して冒頭に、レヴィ・ブリュールに倣って「神秘的参入」とか「前論理的思考」とかいう題目をつけるだけで十分だとは考えてはならない。われわれにとって重要なのはこの同一化と呼ばれる可能性の関係を、言語においてそして言語によってのみ存在するもの、つまり真理がそこから出てくるという意味において把握することである。先ほどの農場の召使いにとってはわかっていない同一化がその真理の中にあるのだ。「AはAである」の上に真理を置くわれわれにとってそれは同じことである。(ラカン『同一化セミネール』向井雅明訳)要約:セミネール9巻「同一化」第I講〜第X講

【蛍と勾玉】

●ある作品を観てそこから決定的な「何か」を感じてしまったとする。その時に感じられた「何か」を、その作品の物理的な組成や仕掛けられた仕組み(構造)に還元し切る事は出来ないだろう。だからその時感じた「何か」が恣意的な気まぐれではないということ、つまり外的な状態と関係なく「私」の頭が勝手につくりだした幻影ではなく、幻影ではあっても、その作品に由来するものであることを証明することは難しい。

ではなぜ、作品から感じられた「何か」が、恣意的な気まぐれではなく作品に由来するということが証明されなければならないのか。それは何も、作品というものを擁護するためではない。もしそれが示さないならば、「私」の感覚が、「私」の外側にある客観的な世界とどのように繋がっているのか分からなくなってしまうからだ。

私の感じる「何か」がたんに私の内部に由来するのではなく、外側にある世界に対応するものだということを示すのは実は簡単なのかもしれない。それは私が私の生命を維持することが出来ているという事実によって証明される。私は私の感覚によって生命を維持するのに必要な行動をし、危険を察知してそれを避ける。もし私の感じる「何か」が恣意的なものに過ぎなかったとしたら、私は生きていることが出来なくなってしまう。

しかし、私は決して私がそのような動物的な感覚だけで生きているわけではないことを知っている。

例えば、「絵に描いた餅」を、それが絵で食べられないことを知っていたとしても、よだれが分泌されてしまったりする。その時、それが絵であって食べられないと知っていることと、にも関わらずよだれが出てしまうこと(ある「何か」を感覚してしまうこと)とは分裂している。作品を観てそこから「何か」を感じ否応なく心が動かされてしまうとき、まさにこのような分裂が生じている。作品そのものと、そこから得られる感覚=経験は別のものであるのだが、しかしその感覚=経験は作品に由来する、というように。


●このような事態について、「文學界」2002年6月号に掲載された座談会『小林秀雄の「恥ずかしかった」』(福田和也、山城むつみ、岡崎乾二郎)は興味深い考察を示している。

●ある作品から「何か」を感じたとしても、その「何か」を直接他者に示すことは出来ない。それどころか、その「何か」という感覚を自分自身でもう一度再現出来るかどうかも分からない。もう一度同じ作品の前に立てば再び「何か」を感じることは出来るだろうが、その「何か」が前の「何か」と同じなのか違うのかを比較することは出来ない。しかし、にもかかわらず、ある作品から「何か」を感じ取ってしまったという事実は動かせないものとして残る。

『感想』の冒頭で小林秀雄は、蛍を見てそれを「おっかさん」だと感じたという話を書いている。これはとても複雑な事柄だ。玄関の前に死んだはずのおっかさんが立っていて、よく見るとそれは蛍だった(あるいはいつの間にか蛍に変わっていた)というわけでもないし、おっかさんが蛍の姿であらわれたという事でもない。はじめからそれは蛍として知覚されているにも関わらず、しかし同時におっかさん(という感覚)でもあるのだ。

それは、絵に描いた餅が絵であることを知っているのに、よだれが垂れてしまうのと同様に、蛍であるのにおっかさんという感覚を生み出すのだ。蛍という知覚と、おっかさんという感覚は別のものなのだが、その時に感じられたおっかさんという感覚は目の前の蛍に由来するとしか思えない、という経験。このような経験を他者に対して示そうとするとき、どうしてもそれを物語として組み立てるしかなくなる。しかしその物語は、母親を失った男性の心情を表現するものとして読まれたり、あるいは霊魂が存在することを信じるという話に置き換えられたりしてしまうだろう。(だから小林秀雄は、そのような物語を書きながら、これはそういうことではない、こういうことでもない、ただこれだけのことだ、と否定を積み重ねるしかない。)

このような「感覚」の話はとても微妙なものだろう。ただ、その蛍が「私」にはおっかさんとしか思えなかった、というならば、その経験がいかにその「私」にとってリアルで切実なものであったとしても、それは他者を必要としない。そんな話をされても、ああ、そうですか、という以外に受けようがないだろう。(もしこれが、おっかさんを亡くして悲しいから、何でもかんでも、何を見てもおっかさんを思い出してしまう、という話だったら、本人にとっては切実でも全く詰まらない話でしかないだろう。そうではなくて、厳密に、その蛍こそがおっかさんであった、という話でなければ重要ではない。)

そのような経験の「質」は、それを経験した「私」の外側からは判断のしようがない。しかし、それを経験した「私」にしたところで、現在の私は、まさにそれを感覚=経験している時の「私」ではないのだから、判断のしようがないわけなのだ。

しかし、芸術作品とは、まさにそのような、判断しようのない「経験の質」にこそ関わるものであるだろう。芸術作品の質を判断するということは、それを経験した「私」にも判断しようのない経験の質を、それでも判断するということであるし、芸術作品を分析し批評するということは、本来他者を必要としないものかもしれない「経験の質」を、それでも外に向けて露わにして、他者に供するものとすることだと言えるかもしれない。

なぜそんなことが必要かと言えば、私の感じた感覚=経験が、決して私の内部のみに由来するものではなく、この世界の有り様に対応して生じたものであるということが信じられるために、つまりこの世界の実在が信じられるために必要なのだと、とりあえずは言えるだろうか。(註・ぼくは新しく出た小林秀雄全集で『感想』を全部読んではいません。古本屋で買った筑摩書房の「小林秀雄・集」で連載の第1回めを読んでいるだけです。)
(つづく)

●昨日挙げた「文學界」の座談会で岡崎乾二郎が、小林秀雄の蛍体験をベルグソンの『道徳と宗教の二源泉』のなかのエピソードと重ね合わせている。それは、ある女性が、エレベーターのドアが開いているのでそれに乗ろうと急いで接近してゆくと、点検係の男に後ろから引っ張られて立ち止まった。しかし実は点検係などそこには存在しなかった。よく見るとドアは間違って開いているだけでエレベーターなど来てはおらず、点検係に引っ張られなければそこから落下していたかもしれない、という話だ。だが、この話が小林氏の蛍の話と決定的に違うのは、たしかにこの女性の感覚=経験の質をその外側から計るとこは出来ないにしても、その点検係の幻影によって女性は生命の危機を回避することが出来たのだから、その感覚=経験の現実性(つまり女性の恣意的なきまぐれではなかったということ)が、事後的に確認出来るということだろう。確かに点検係の男は幻影かもしれないし、その幻影がどのようなメカニズムによってあらわれるのかはわからないが、その幻影には現実的な根拠があることが確認できる。(黒沢清風に言えば、幽霊の「実在性」が確認出来る。)

だからこの話は、どちらかというとフロイトが(確か)『機知』で書いていた話、嫌な奴のことを思いだして会いたくないと思っていたら、そいつが向こうからやってきたという話、つまり見えているのに会いたくないからその事実を否定して「見えていない」ことにし、一度否定したものに再び出会った、という話に近いように思う。

対して、小林氏の蛍= おっかさんという経験の質や現実性は、その当人である小林秀雄自身にしか、いや、正確には小林氏本人でさえも判断することは困難であるし、それを外的な事象によって確認することは出来ない。

ある作品を観ることで生じる感覚、あるいはイメージというのは(そして、作品を作ろうとするとき、あるいは作ってしまうときに生じている感覚、イメージは)、小林氏の言う「おっかさん」のようなものの方に近い。なぜか確信をもってそれを「おっかさん」だと感じてしまい、しかしその確信の根拠はどこにも見つけられない。その感覚=イメージの正当性を確認する術はない。感覚=イメージを扱うこと、それをつくり出そうとすること、感覚=イメージについて思考しようとすることの困難にはこのような理由がある。

例えば、近代絵画的な「趣味」ということが言われる時、ある特定の趣味(=感覚=イメージ)がある程度共有されていることが前提とされるが、しかし、その「趣味」のあり方そのものを直接明示することは出来ない。それは個々の具体的な作家や作品に対する評価や分析の仕方によって暗示したり推測したりできるだけだ。

このとき、実は趣味などという具体的な感覚があるわけではなく、趣味とよばれる(特定の言説空間にだけ有効な)特定の言語の「用法」があるだけだ、と言語ゲーム的に言うことも出来るし、当面はそう考えてやってゆくのが正しいようにも思える。ただ、それだけではやはりどうしても「足りない」のだ。そこには「幽霊」がいるのだ。

●同じ座談会で福田和也は、ベルグソンのエレベーターの話と小林秀雄の蛍の話との違いを、小林氏における「骨董」から「勾玉」への関心の移行とパラレルであると述べている。《『感想』以前の小林秀雄のある種の精神衛生によかったのは、骨董を買っていたことでしょう。買うというのはある意味で賭けることで、全部複製かもしれないけど、(略)所有することのなかにある一種の致命的な選択をしているわけです。》《自分が大枚を出して買って所有することで、物の相対性を売買という社会化された選択のなかで決着をつけてゆくということでしょう。》

つまり、ほとんどインチキと区別出来ない骨董の世界で、自分が「これは良い」と感じてしまったこと(感覚=幻影)の、その判断の確実性を示す根拠はどこにもないとしても、それを売買することで、社会化された言語ゲームの場へとその「質的な判断」を開き、そこに否応なく侵入してくる他者性によって、自らの判断を決着(証明)しようとした、ということだろう。(座談会では、福田氏は岡崎氏が持ち出した「言語ゲーム」という言葉に微妙な抵抗を示しているので、福田氏としては、売買によって「社会化する」というよりも、所有することで自分自身で「決着をつける」というニュアンスを言いたかったのだろう。)

自分が経験してしまった幻影としての感覚=イメージは、それに基づく判断が社会化されること、簡単に言えばその「判断」に他者の承認が得られるということによって、「感覚=イメージ」の現実性が暫定的に証明(決着)できる、とする。そこには実在しなかった点検係という幻影の「現実的な根拠」が、エレベーターが来ていなかったという事実によって事後的に承認されるように、目の前にあるたんなる事物が与えてくる「感覚=イメージ」の価値は、その事物が売買という流れのなか(他者との交換のネットワーク上)に置かれることで、かろうじて保証されるのだ。

しかし『感想』以降の小林秀雄は骨董をあまり買わなくなり、その興味を「勾玉」へと移す。《勾玉は仏教美術屋が扱うものですが、彼らは一番いいかげんで、骨董としてはどうかと思いますが、勾玉になってしまうと信仰の対象になってしまう。》

もはやここでは、ある経験の質が、他者性を招き入れるということでは判定できないというところにまで行ってしまう。あの蛍はおっかさんだと言うしかない。それがどういう性質の経験なのかは知らないが、それを経験してしまったという事実は動かせない、という話になると、その経験は、他者はおろか自分自身でさえも検証不可能なものになってしまうだろう。(小林氏は勾玉を見て、「ここよく見ろ、光が見える」とか言っていたそうだ。)

これはとても危険だ。はっきりと批判されるべきだと言えるかもしれない。しかし、感覚=イメージというものを追求してゆくと、このようなやばいところを避けて通ることは出来ないのではないかという直感は、感覚=イメージを扱い、それについて、それによって考える者なら誰でも持っているのではないだろうか。このような危険な地点でもなお、経験の質が問われ、判断されなければならないとしたら、一体どうすればよいのだろうか。

●このような危険な地点こそが、岡崎氏が『ルネサンス・経験の条件』の「あとがき」で《自分が見ている青が自分が見ている青と同じかどうかすら確かめることはできない》と書いているような地点であるだろう。(しかし実は『ルネサンス・経験の条件』では、徹底して形式的な議論を追求することで、この問題の一番危険な部分を賢明にも周到に避けていると思う。)そして、人が芸術作品などをつくってしまおうと思ったりするのは、このような地点においても「経験の質」の判断は可能であると無根拠に信じ込んでしまうからなのだ。(勿論、いつもいつも確実に信じられているわけではなく、常に揺れているのだが。)

しかし、冷静に考えて本当にそんなことが可能なのだろうか。山城むつみは、勾玉に行ってしまうような小林秀雄を自分は理解できない、他者性を巻き込んでいるような部分にしか興味を感じない、ときっぱり言い切っているのだが(そしてそれはおそらく正しいのだが)、福田氏は、山城氏からの「小林の可能性の中心は骨董と勾玉との切断にあるということですか」という問いに対して、それはわからない、そこで間違ったのかもしれない、という曖昧な保留をしている。ぼくとしてはこの曖昧な保留に同意するしかない。あきらかに「そこで間違った」のだろうけど、間違わざるを得ない何かがそこには確実にあるのだし、そこで間違いを避けてあくまで「正しく」あろうとすることが必ずしも「面白い」とは思えない。(古谷利裕「岡崎乾二郎に関するテキスト」)


上に、《自分が見ている青が自分が見ている青と同じかどうかすら確かめることはできない》と書かれているのは、もうすこし詳しく言うなら、「他人が見ている青と自分が見ている青が同じかどうか確かめられない」どころか、「自分が見ている青が自分が見ている青と同じかどうかすら確かめられない」という条件を我々の感覚はもっている、という岡崎乾二郎の文を受けて書かれている。


もっとも岡崎乾二郎の立場は次のようであることを忘れてはならない。


岡崎氏は言う。《だからぼくの立場はやはり形式主義ということになります。そんな得体の知れないものが対象としてあるように見えて、実際は掴むこともできないのはわかっている。よってそれを捉まえるよりも、具体的に手にすることのできる道具や手段でそれ---その現象を産みだすにはどうすればよいのか、そういうレヴェルでしか技術は展開しない。》


これは決して「得体の知れないもの」を軽視しているのではなく、逆に得体の知れないものの「得体の知れなさ」を熟知しているからこその態度なのだ。「得体の知れないもの」の「得体の知れなさ」を固定化してそれにに溺れてしまうことは、その「得体の知れないもの」に触れている時の「経験」の本質を取り逃がしてしまうことでしかないのだ。《だからイメージに取り憑かれて、つまりそう見えてから分析をはじめていてはすでに手後れであると僕は思います。いわば、そう見えなかったものが、そう見えるようになったこの転換こそを、記憶術たらしめるいわば想起の問題として捉まえなければならないと思うのです。》



【小林秀雄の勾玉】

最初の人間が、何か自然の中から、好きな姿を自分で造ろうといった場合の、何て言いますかね、表現、表現、エキスプレッションなんてこと言いますけど、僕らこういうふうにつくったり話したり何かするのはみんなエキスプレッションだけども、今日のようなこの時代は、エキスプレッションは実に複雑に分岐して大変なことになっておりますが、そういうふうなエキスプレッションの元をずっーと尋ねていくと、人間が何もないところから自然の中から、何かをつくり出す。何かの姿をつくり出すという、そういうふうなね、ものがね、感じられるんですよ。それで僕はね大変楽しんですよ。それは非常につよい力で感じられるんです。そういうふうなものを忘れていては、いろんな事が出来ないんです。これが肝心要のものだ。僕は宣長を読んでいて結局書きたいのがそれなんです。宣長がそれを感じていたに違いないということなんですね」(小林秀雄『勾玉について』講演から文字起こし)


※小林秀雄の「勾玉」に関連して、骨董愛玩をやめて古い石を愛するようになった藤枝静男の小説の登場人物(「私小説」であり、ほぼ本人だろう)の話を附記しておこう。


だいたい章の心のなかには、古い大きな木の方が、 なまなかの人間よりよっぽどチャンとした思想を持っている、という考えがある。

厳密な定義は知らぬが、いま横行している思想などはただの受け売りの現象解釈で、 そのときどきに通用するように案出された理屈にすぎない。 現象解釈ならもともと不安定なものに決まってるから、ひとりひとりの頭のなかで変わるのが当然で、 それを変節だの転向だのと云って責めるのは馬鹿気たことだと思っている。

皇国思想でも共産主義革命思想でもいいが、それを信じ、それに全身を奪われたところで、 現象そのものが変われば心は醒めざるを得ない。敗戦体験と云い安保体験と云う。 それに挫折したからといって、見栄か外聞のように何時までもご大層に担ぎまわっているのは見苦しい。 そんなものは、個人的に飲み込まれた営養あるいは毒であって、 肉体を肥らせたり痩せさせたりするくらいのもので、精神自体をどうできるものでもない。

章は、ある人の思想というのは、その人が変節や転向をどういう格好でやったか、やらなかったか、 または病苦や肉親の死をどういう身振りで通過したか、その肉体精神運動の総和だと思っている。 そして古い木にはそれが見事に表現されてマギレがないと考えているのである。

章は、もともと心の融通性に乏しいうえに、歳をとるに従っていっそう固陋になり、 ものごとを考えることが面倒くさくなっている。一時は焼き物に凝って、 何でも古いほど美しいと思いこんだことがあったが、今では、 古いということになれば石ほど古いものはない理屈だから、 その辺に転がっている砂利でも拾ってきて愛玩したほうが余っ程マシで自然だとさとり、 半分はヤケになってそれを実行しているのである(藤枝静男「木と虫と山」)