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2014年9月8日月曜日

旧「レイシストをしばき隊」<首謀者>野間易通

反ヘイト集団“しばき隊”は正義なのか? 首謀者・野間易通」という記事を読み、ひさしぶりにあつくなったな

「“カウンターの『帰れ』も排除の一種”というあなたの記事の結論は、価値相対主義の悪い例。その前提には『どんな理由があるにせよ排除はよくない』という考え方がありますよね。僕らは、これにもアンチテーゼを唱えている。あの場でのカウンター側の『帰れ』は、『デモやめて家に帰れ』という意味であって、『外国人は国へ帰れ』という排外主義者の主張とは意味がぜんぜん違う。我々は『レイシストはここにくるな』『この場から排除する』とはっきりと言う。それを意識的にやることに、意味があると思ってる。『レイシストは町から出て行け』というスローガンは世界標準ですよ」

ところで、なんだい、この「首謀者」って?
このインタヴュー記事書いてる吉岡命なる人物は
言葉の使い方知ってるのかい?

首謀者」:(特に不法な行いの)先頭に立つ人、帳本人 ・ 巨魁 ・ 元凶 ・ 首謀 ・ 梟雄 ・ 張本人とあるな

対レイシスト行動集団「C.R.A.C」(旧「レイシストをしばき隊」)の「首謀者」というわけかい?

まあいいさ、オレもえらそうなことはまったくいえないからな。

“しばき隊”の名は知っていたが、「野間易通」という固有名詞はわずかに耳を掠めていた程度の政治音痴だからな。

しかも海外住まいを隠れ蓑にして、「卑怯と勇気とはしばしば紙一重」の問いから免れているつもりになっているテイタラクさ

で、日本住まいのお前ら、この記事RTしたりファボしたりしているけど、どっちの立場なんだい?
「野間易通」を「首謀者」とする立場なのか
それともオレみたいにこの男に「惚れ惚れ」してしまうのか
どっちだい?
まあRTやファボしてんだから、彼にシンパシー感じてんだろうが
その割には威勢がないな

私が思うに、最も傲慢な態度とは「ぼくの言ってることは無条件じゃないよ、ただの仮説さ」などという一見多面的な穏健さの姿勢だ。まったくもっともひどい傲慢さだね。誠実かつ己れを批判に晒す唯一の方法は明確に語り君がどの立場にあるのかを「独断的に」主張することだよ。(「ジジェク自身によるジジェク」私訳)

こうやって「あつく」なって書くのは、まずいんだろうがね
だがひどくあつくさせる男だな、野間易通は

ーーというわけで、熱さましのために、
野間易通のツイートを眺めてみることにしたんだが、
ツイッターの呟きというのは、オーラが消えるね
だだのオッサンだな、
だがさすがに「差別」等をめぐってよく勉強している
とても勉強になる

彼のツイートを眺めて後光を消すことができ
やっと以前メモした《デモの猥雑な補充物としての「享楽」》を読み返してみて
野間易通氏の弱点はないかと疑ってみる心持になったから
今こうやって書いているのだが

まずは参照してみるのは、フロイトの『集団心理学と自我の分析』
ーーラカンが「ヒトラー大躍進への序文」と評した論文と
とそれに対するジジェクの吟味だ。

集団内部の個人は、その集団の影響によって彼の精神活動にしばしば深刻な変化をこうむる(……)。彼の情緒は異常にたかまり、彼の知的活動はいちじるしく制限される。そして情緒と知的活動と二つながら、集団の他の個人に明らかに似通ったものになっていく。そしてこれは、個人に固有な衝動の抑制が解除され、個人的傾向の独自な発展を断念することによってのみ達せられる結果である。この、のぞましくない結果は、集団の高度の「組織」によって、少なくとも部分的にはふせがれるといわれたが、集団心理の根本事実である原始的集団における情緒の昂揚と思考の制止という二つの法則は否定されはしない。(フロイト『集団心理学と自我の分析』)
……フロイト自身、ここでは、あまりにも性急すぎる。彼は人為的な集団(教会と軍隊)と“退行的な”原始集団――激越な集団的暴力(リンチや虐殺)に耽る野性的な暴徒のような群れ――に反対する。さらに、フロイトのリベラルな視点では、極右的リンチの群衆と左翼の革命的集団はリピドー的には同一のものとして扱われる。これらの二つの集団は、同じように、破壊的な、あるいは無制限な死の欲動の奔出になすがままになっている、と。フロイトにとっては、あたかも“退行的な”原始集団、典型的には暴徒の破壊的な暴力を働かせるその集団は、社会的なつながり、最も純粋な社会的“死の欲動”の野放しのゼロ度でもあるかのようだ。(ZIZEK『LESS THAN NOTHING』(2012)の最終章(「CONCLUSION: THE POLITICAL SUSPENSION OF THE ETHICAL」)より私意訳
集団の道義を正しく判断するためには、集団の中に個人が寄りあつまると、個人的な抑制がすべて脱落して、太古の遺産として個人の中にまどろんでいたあらゆる残酷で血なまぐさい破壊的な本能が目ざまされて、自由な衝動の満足に駆りたてる、ということを念頭におく必要がある。しかしまた、集団は暗示の影響下にあって、諦念や無私や理想への献身といった高い業績をなしとげる。孤立した個人では、個人的な利益がほとんど唯一の動因であるが、集団の場合には、それが支配力をふるうのはごく稀である。このようにして集団によって個人が道義的になるということができよう(ルボン)。集団の知的な能力は、つねに個人のそれをはるかに下まわるけれども、その倫理的態度は、この水準以下に深く落ちることもあれば、またそれを高く抜きんでることもある。(フロイト『集団心理学と自我の分析』)
“退行的な”原始集団は最初に来るわけでは決してない。彼らは人為的な集団の勃興の“自然な”基礎ではない。彼らは後に来るのだ、“人為的な”集団を維持するための猥雑な補充物として。このように、退行的な集団とは、象徴的な「法」にたいする超自我のようなものなのだ。象徴的な「法」は服従を要求する一方、超自我は、われわれを「法」に引きつける猥雑な享楽を提供する。(同ジジェク)

しばき隊と男組があるが、しばき隊が“人為的な”集団であり、男組というのが、後から来た“退行的な”原始集団とすることができる、--と断言するほどには、このしばき隊と男組の関係についてわたくしは詳しくない。





ここでは「世界で増殖する差別と憎悪…“反差別”という差別が暴走する(深田政彦ーNewsweek 2014 年 6 月 24 日号)の記事を附記しておくだけにする。

『しばき隊』を率いるのは、フリー編集者の野間易通だ。イラク戦争の際の反戦デモ、北京 五輪のときのチベット人解放運動、福島原発事故後は反原発……と、この 10 年余りの間 に次々と政治運動に参加。2012 年に首相官邸を 20 万人で包囲し、反原発活動家らと野 田佳彦首相(当時)の面会を実現させた官邸前デモで、運動家としての頭角を現した。た だ実際に野田との面会が実現すると、反原発運動はピークを過ぎたかのようにしぼんでい った。ちょうどその頃火が付いたのが、韓国の李明博大統領による竹島(韓国名・独島)上 陸をきっかけにした在特会のヘイトスピーチだ。2012 年末には、日本の政権が民主党か ら原発再稼働に意欲を見せる自民党の安倍晋三に代わった。「反原発運動もリセットしな ければ」という焦燥感。さらに「ファシズム政権に対抗する街頭闘争が重要だ」という使命 感に燃え、野間は反原発運動の仲間を中心に、組織を『しばき隊』に衣替えした。「反原 発運動の基盤が反ヘイト活動に転用された」(在特会を調査する徳島大学の樋口直人准 教授)のだ。

しかし、野間たちに唐突な方向転換を悪びれる風はない。それどころか、野間は反原発 運動を通じて確立した『怒りのマーケティング』の手法を反ヘイト活動に活用していることを 半ば得意げに語る。「『私たちは決して許しません』と呼び掛けるのではなく、『ふざけるな、 ボケ』と叫んだほうが人は集まる」。参加者同士が「頑張ろう」と呼び掛け合う生半可なスタ イルではなく、ただひたすら官邸に罵声を浴びせる。野間らの怒りのマーケティングは『炎 上マーケティング』でもある。反原発活動では、当時の民主党政権閣僚の“遺影”を官邸 前に掲げた。不謹慎とネットで炎上したが、その画像はツイッターなどで拡散。後に 20 万 人を動員する官邸前抗議につながった。

反ヘイト活動でも、野間たちは怒りの感情を大いに利用した。しばき隊の支持者が歩道か ら中指を立てて拡声器で罵声を浴びせ、“実戦”を担う男組が刺青をちらつかせて在特会 デモに肉薄し、にらんで怒鳴りつける。その暴力的な画像をネットで拡散して炎上させ、さ らに動員をかけていく。男組“副長”の石野雅之は、自分たちを汚れ役だと自任している。 実際、去年から今年にかけて暴行や傷害の罪で“組長”らが検挙されている。こうした暴力 の嵐の中で在特会デモは衰退し、かつては数百人規模だったデモも今や固定メンバーし か集まらなくなった。中止になることもしばしばだ。





ここでは失礼ながら予断を交えて、後から来た“退行的な”原始集団が予想外に育ってしまったとき、野間易通にはそれをコントロールする力があるのか、という疑念をーーかりに野間易通が男組から距離を置いているにしろーー呈しておこう。



…………

さて今度は野間易通氏がRTしているツイートに注目してみよう。

@whokilledxxxxx 毎日新聞に掲載されてる4コマ漫画のアサッテくん。 ヘイトスピーチとゆ言葉は市民権を得たかもしれないが、ヘイトスピーチとゆ言葉の意味は世間に全く浸透してない事がヨク解る。




すなわち、この漫画のヘイトスピーチの定義は間違っているということだろう。



今年の春ぐらいまではある程度しょうがなかったとも言えるのだが、ヘイト・スピーチという言葉が何を指すかいまだにわかっていない人がネトウヨはおろか左側にもけっこういて、レイシストを「死ね、クソボケ」とか罵っていると、「あなたもヘイト・スピーチをしていますよね?」とか言ってくる。してねえわ。

これをいちいち説明するのがめんどくさいのでここにまとめておく。

ヘイト・スピーチ はこれまで「憎悪表現」と訳されることが多かったが、これだと誤解が多いので有田芳生などが「差別煽動表現」という訳語を提案した。これを、「韓国メディアが旭日旗を戦犯旗と言い換えて嫌悪感を増幅させるやり方に似てい」るとか、知ったかぶりしているネトウヨがいたが、まったく違う。

hate は文字通りには憎悪を意味するが、hate crime / hate speech という熟語においては、「人種差別や性的マイノリティへの憎悪を強く連想させる」ものとなる。なんでそうなるのだ?と言われても、英語圏ではそのように使われてきたのだからしょうがない。

アメリカのヘイト・クライム禁止法(マシュー・シェパード法)(1)では、hate crime を以下のように定義している。

《人種、肌の色、宗教、国籍、民族性、ジェンダー(性犯罪は除く)、障害、性的指向に対する偏見に基づいた犯罪で、偏見に基づいた犯罪であることに合理的疑いの余地のないもの》

hate crime という語が頻繁に使われるようになったのは80年代に入ってからで、比較的新しい概念だ。hate speech は、このhate crime すなわち人種憎悪または性的マイノリティに対する憎悪犯罪を直接連想させる言葉である。

また、人種差別撤廃条約第4条では「人種的憎悪及び人種差別」「人種的優越又は憎悪」となっており、ここでは口語形の hate ではなく正式な名詞形 hatred が使われているが、これが hate crime / hate speech における hate の意味である。

要するに、hate crime / hate speech におけるhate とは、一般的な憎しみや憎悪感情を指すものではない。怨恨を動機とする暴行や傷害、殺人等犯罪には強い憎悪の感情が伴うことが多いが、そうしたものは通常の crime であって hate crime とは言わないのである。

カウンターからレイシストに対する罵詈雑言は民族的憎悪や性的指向への憎悪を伴っておらず、どこまでいってもヘイト・スピーチではない。したがって桜井誠をいくら「ヘイト豚!」と罵っても差別にはならないので問題はない。単なる罵倒、罵詈雑言にすぎない。まとめると、赤い矢印の部分だけがヘイト・スピーチである。




ところで、「反ヘイト集団“しばき隊”は正義なのか? 首謀者・野間易通」には、次のような記述がある。

昨年、野間は朝日新聞のインタビューを受けている(13 年 8 月 10 日朝刊)。デモ隊もしばき隊も「どっちもどっちだな」という印象を受けるし、デモに抗議するにしても他にやりようはないのか?という朝日記者の問いに対して、野間は、理路整然とした「上品な左派リベ ラル」の抗議行動は「たとえ正論でも人の心に響かない」と答え、「何言ってるんだ、バカヤ ロー」と叫ぶのが「正常な反応」だと主張している。

「結局ね、大マスコミもみんな素人なんですよ。今まで自分たちには関係のないことだと思 っていたわけだから。『議論が必要だ』みたいな通り一遍のことしか言えない。……アホか? なんで『ヘイトやめろよ!』って言ってる俺らと、ヘイトやってるレイシストたちが『どっ ちもどっち』になるんだと。議論を重ねていけばよい、対話が必要だと彼らは言う。だったら 言論機関である新聞がなぜそれをやらない?」 冷静に議論を深めよ――それは「メタ議論」であり、本質を置き去りにしている。そう野間は私見を述べる。

上に黒字強調している文は、野間易通が、9月7日にリツイートしている次の文と重なる。

@bcxxx: ネトウヨの猛然たるデマ言説に対して、左翼の対抗言説はいかにも丁寧で、資料を丹念に挙げたりするのだが、その分長ったらしく、キャッチーさに欠ける。教養のある人が、時間のある時に、ふむふむ勉強になるなあ、と思いながら読む感じ。学習会のノリなんだよね。

朝日新聞の野間易通インタビューからも拾っておこう。

-騒音はひどいし、通行もままならない。汚い言葉の応酬は不愉快です。これが理想的で すか?

「怒りをベースにした行動であれば、言葉も怒りをはらみます。欧米の反ファシスト運動は もっと怒りの要素が多いし、 実力行使もされている。それに比べれば、まったく平和的な光景と言ってもいいぐらいで す。 僕らは彼らを罵倒し続けることで、精神的にへこませ、デモに行く気を失わせようとしてい る」

「2010年から、在特会などへのカウンター行動に参加してきましたが、東京では多くても 数十人しか集まらず、 事実上何もできなかった。一方、彼らは昨年の李明博大統領の竹島上陸で勢いづき、新 大久保デモに加え、 『お散歩』と称する嫌がらせを始めた。通りの店に因縁をつけ、通行人に暴力的に絡む。 何とかしたいと今年1月末、ネットでしばき隊への参加を呼びかけました」

「最初はデモへの直接抗議ではなく、お散歩をやめさせることに重点を置いていました。 だが、2月17日のデモでは、しばき隊以外にもプラカードを掲げて抗議する人が30人ほ ど出て、1カ月後には数百人に膨らんだ。 それでごく自然に、全体がデモへの直接抗議に移行した。 色々な人がさまざまなやり方で抗議していますが、しばき隊はどんどん罵倒するのが基本 方針。 僕がよく使う言葉は、『人間のクズ』『日本の恥』などですが、もっと罵倒の技術を磨かねば、 と考えています」

-デモに抗議するにしても、他にやりようはないのですか?

「カウンター行動は、これまで上品な左派リベラルの人も試みてきました。 ところが悲しいことに、『私たちはこのような排外主義を決して許すことはできません』とい った理路整然とした口調では、 たとえ正論でも人の心に響かない」

「公道で『朝鮮人は殺せ』『たたき出せ』と叫び続ける人々を目の前にして、冷静でいる方 がおかしい。 むしろ『何言っているんだ、バカヤロー』と叫ぶのが正常な反応ではないか。レイシストに 直接怒りをぶつけたい、 という思いの人々が新大久保に集まっています」(聞き手・石橋英昭、太田啓之) 


さあて、きみたちはどっちの立場かい? 罵倒語を許す立場かい?
オレかい? オレはここでは上品さと傲慢さを綯い交ぜにして
「ジャーナリズムは上品じゃいけない」「強盗のようにあるべき」(佐高信、辺見庸両氏の対談)とか、以前の記事をリンクして逃げておくよ、「生きてても目ざわりになるから首でもくくって死ね」(中上健次)

「白状しろよ。いつも下痢がちの安倍のケツを、いったい何人のクソバエ記者たちがペロペロと舐めてきたことか」(辺見庸

こうやって語らなくちゃあな(だが正直なところオレはこの程度だね、《何もしないなら黙ってろ、黙ってるのが嫌なら何かしろ》! 穏和な性格なのさ)。


ーーとすれば一方通行だから、丁寧で、資料を丹念に挙げ、その分長ったらしく、キャッチーさに欠ける「似非教養人」の一種のつもりでいるオレは、次の文を掲げておこう。こいつら、スローガン的言葉を顕揚する具合は、結局、大衆を侮蔑するヒットラーと同じじゃないかい?と。

間違ってばかりいる大衆の小さな意識的な判断などは、彼には問題ではなかった。大衆の広大な無意識界を捕えて、これを動かすのが問題であった。人間は侮蔑されたら怒るものだ、などと考えているのは浅墓な心理学に過ぎぬ。その点、個人の心理も群集の心理も変わりはしない。本当を言えば、大衆は侮蔑されたがっている。支配されたがっている。獣物達にとって、他に勝とうとする邪念ほど強いものはない。それなら、勝つ見込みがない者が、勝つ見込みのある者に、どうして屈従し味方しない筈があるか。大衆は理論を好まぬ。自由はもっと嫌いだ。何も彼も君自身の自由な判断、自由な選択にまかすと言われれば、そんな厄介な重荷に誰が堪えられよう。ヒットラーは、この根本問題で、ドストエフスキーが「カラマーゾフの兄弟」で描いた、あの有名な「大審問官」という悪魔と全く見解を同じくする。言葉まで同じなのである。同じように孤独で、合理的で、狂信的で、不屈不撓であった。(小林秀雄「ヒットラーと悪魔」ーー「汝が人にしてもらいたくないようなことを、他人に対してなすなかれ」)

それに再度、穏やか系の辺見庸も引用しておかなくちゃ誤解があるな

 きょうお集まりのたくさんのみなさん、「ひとり」でいましょう。みんなといても「ひとり」を意識しましょう。「ひとり」でやれることをやる。じっとイヤな奴を睨む。おかしな指示には従わない。結局それしかないのです。われわれはひとりひとり例外になる。孤立する。例外でありつづけ、悩み、敗北を覚悟して戦いつづけること。これが、じつは深い自由だと私は思わざるをえません。(辺見庸「死刑と新しいファシズム 戦後最大の危機に抗して」(2013年8月31日の講演記録


やっぱり、みんなといても「ひとり」を意識することなんだろうな
これがひどく難しいんだな、「ひとり」ではどうしようもないときがあるしさ
「みんな」がいたから大久保のヘイトスピーチを阻止できたということもあるしな


…………


すこし話を方向転換する。

野間易通@kdxnそもそも柄谷行人みたいな大物の哲学者が「日本はデモができる社会になってよかった」とか言ってるのって極めて異常なことで、世界のどの国においてもデモの是非なんて論点にすらなっていない。デモで社会は変わるか?とか。それで社会が変わろうが変わるまいが、デモはあるのが当たり前だから。

 というわけで、柄谷行人を続けて引用する。

昔、哲学者の久野収がこういうことを言っていました。民主主義は代表制(議会)だけでは機能しない。デモのような直接行動がないと、死んでしまう、と。デモなんて、コミュニケーションの媒体が未発達の段階のものだと言う人がいます。インターネットによるインターアクティブなコミュニケーションが可能だ、と言う。インターネット上の議論が世の中を動かす、政治を変える、とか言う。しかし、僕はそう思わない。そこでは、ひとりひとりの個人が見えない。各人は、テレビの視聴率と同じような統計的な存在でしかない。各人はけっして主権者になれないのです。だから、ネットの世界でも議会政治と同じようになります。それが、この3月11日以後に少し違ってきた。以後、人々がデモをはじめたからです。インターネットもツイッターも、デモの勧誘や連絡に使われるようになった。

 たとえば、中国を見ると、「網民」(網はインターネットの意味=編集部注)が増えているので、中国は変わった、「ジャスミン革命」のようなものが起こるだろうと言われたけど、何も起こらない。起こるはずがないのです。ネット上に威勢よく書き込んでいる人たちは、デモには来ない。それは日本と同じ現象です。しかし、逆に、デモがあると、インターネットの意味も違ってきます。たとえば、日本ではデモがあったのに、新聞もテレビも最初そのことを報道しなかった。でも、みんながユーチューブで映像を見ているから、隠すことはできない。その事実に対して、新聞やテレビ、週刊誌が屈服したんだと思います。それから段々報道されるようになった。明らかに世の中が変わった。しかし、それがインターネットのせいか、デモのせいかと問うのは的外れだと思います。(「反原発デモが日本を変える」 柄谷行人


 …………

ところで、東浩紀氏は、デモには参加しない態度をながいあいだ表明していた。
たとえば、東浩紀 hiroki azuma@hazuma20130721()

ぼくはもともと、ネットでの動員の革命→官邸前デモの流れは在特会や橋下徹とかわらないポピュリズムだと言っていて、反原発左翼にマジ憎まれたりしていたのだけど、今回の山本太郎当選でそれが正しいことがわかった。

 ところが2014年09月07日(日)のツイートではこんなことを呟いている。

個人的には、野間さんとの最後の対話が収穫でした。野間さんはそういう表現をしなかったけれど、なるほど、(野間さんや五野井さんにとって)デモとは、自己正当化の論理でガチガチになっていた「正義」の感覚を解きほぐすための<リハビリ>だったのかと腑に落ちました。それは賛成です。

目の前で起きていることについて「これは悪だ」と直観が告げているにもかかわらず、「いやいや、もう少し考えてみよう」「そう決めつけるのこそ悪では」「そもそもおれになんの権利もない」と逡巡しているあいだに時間が経ち、被害者を見殺しにしてしまうことはよくあります。(→)

(→)最近さらにその逡巡の傾向が強まりました。ネットには「行動や判断を無限に引き延ばすための言葉遊び」が満ちています。たとえば人権を守れというだけでも、「まず人権を定義してください」「人権を守れも一種の差別ですよね」「人権の無視を排除するのは人権無視ではないんですか」……となる。

→)そういう状況でがちがちに強ばってしまった正義の感覚を、もういちど解きほぐし、一般市民でも適度に意見や感情を表明できるようにしてあげること。それはとても大切なことで、『一般意志2.0』『弱いつながり』の主張とも一致します。なるほど、デモをそう捉えているのかと腑に落ちました。

(→)この点ではぼくのほうが「頭が固かった」と反省しました。ぼくは率直に言って、大文字の政治においてデモが効果を上げているとは思わない(野間さん五野井さんは意見が違うと思いますが)。けれども、多くの市民の政治への接し方を変えているのは確かで、それは重要なことですよね。

(→)というわけで、行け行けと言われながらもどうしても躊躇して行けなかったデモの現場に、近日中に、取材に、というか、『弱いつながり』の言葉で言えば「観光」に行きたいと思います。それでよいのだ、いやむしろそれでよいのだと考え直しました。だれかお勧めのデモ(?)を教えてください。

これは東浩紀氏の決定的な「転回」の言葉のように思える。ただし若者たちにおおいに影響力があるようにみえる東浩紀氏に、若者がついていくかどうかは別問題ではある。

そしてこの発言は、《野間さんとの最後の対話》から生れたようだ。


※補遺:罵倒の技術の練磨、あるいは「問題はそこではないのさ」