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2014年6月22日日曜日

甘く見てはならないとか高をくくってはならないとかなんて言われても

排外主義にしろ戦争準備政権にしろ、つまりは「我われの問題」としてはとらえていない、ということだ。自分たちとは関係ない別世界のお話し。リアリティへの眼差し以前の、無関心と無知と無自覚。

でも、それも仕方ないことだとも思う。例えば、アベノミクスで経済の上向き期待感を与えてくれるならば、起きるかどうか不確かな戦争への傾斜の怖れなんかに気をとめるだろうか。この政策なら明日の給料がすこしでも上がって、すこしでも生活が楽になるかもしれないと思わせてくれるなら、安倍政権の欺瞞と虚偽に目が向くだろうか。

みんなみんな自分の食べることで精一杯。余裕なんてありゃしない。無関心と無知と無自覚なんて言われたら腹が立つ。だってみんな精一杯生きてるんだから。甘く見てはならないとか高をくくってはならないとか、「日常」をねつ造するメディアに流されないようになんて言われても、財布の中身のほうが大切に決ってる。


ーーというのは以下の文のコラージュである。


◆社会思想史を研究しているらしい若い研究者のツイート

・生活保護にしろ在日にしろ、つまりは「我われの問題」としてはとらえていない、ということだ。自分たちとは関係ない別世界のお話し。リアリティへの眼差し以前の、無関心と無知と無自覚。

・でも、それも仕方ないことだとも思う。例えば、就職活動で自分の人生の選択を迫られている時に遠くの土地で起こっている排外デモに気をとめるだろうか。毎日毎日夜遅くまで働かされて家庭のために頑張ってるなかで生活保護をめぐる過剰なバッシングの欺瞞と虚偽に目が向くだろうか。

・みんなみんな自分の食べることで精一杯。余裕なんてありゃしない。無関心と無知と無自覚なんて言われたら腹が立つ。だってみんな精一杯生きてるんだから。これは、生命過程の必然性(アレント)のせいではない。後期資本主義という社会制度のせいである。我われの眼差しは、胃袋からやはり社会構造へ。


甘く見てはならない。高をくくってはならない。相手を見くびってはならない。前例はもうなにもあてにならない。これは、この機に自衛隊を「日本国軍隊」として、どうしても直接に戦争参加させたがっている、戦後史上もっとも狂信的で愚昧な国家主義政権およびそのコバンザメのような群小ファシスト諸派と、9条を守り、国軍化と戦争参加をなんとしてもはばみたいひとびととの、とても深刻なたたかいである。それぞれの居場所で、各人が各人の言葉で、各人が各人のそぶりで、意思表示すること。「日常」をねつ造するメディアに流されないこと。ことは集団的自衛権行使の「範囲」の問題ではない。そもそも集団的自衛権じたいに同意しない、うべなうことができないのだ。9条に踏みとどまること。ひとり沈思すること。にらみ返すこと。敵と味方を見誤らないこと。いまを凝視すること。静かにきっぱりと、反対を告げること。「これ以上ないくらい無邪気な装いで、原ファシズムがよみがえる可能性」をいま眼前にしている。それはよみがえったのだ。虚しくても空疎でも徒労でも面倒でも、たたかいつづけること。怒りをずっともちつづけること。安倍政権はうち倒されるためにのみ存在している。エベレストにのぼった。(辺見庸:私事片々 2014/06/17)

…………

・おい、安倍晋三よ、以下を読め。衆院本会議での答弁。吉田茂首相「戦争放棄に関する本案の規定は、直接には自衛権を否定しておりませぬが、第9条第2項において、一切の軍備と国の交戦権を認めない結果、自衛権の発動としての戦争も、また交戦権も放棄したものであります。従来、近年の戦争は多く自衛権の名において戦われたのであります。満州事変が然り、太平洋戦争また然りであります」「戦争放棄に関する憲法の草案条項におきまして、(質問者は)国家正当防衛権による戦争は正当なりとせらるるようであるが、私はかくの如きことを認むることが有害であると思うのであります(拍手)。近年の戦争は多くは国家防衛権の名において行われたることは顕著なる事実であります。故に正当防衛権を認むることが戦争を誘発するゆえんであると思うのであります。(自衛のための軍隊などという)御意見の如きは有害無益の議論と私は考えます(拍手)」(昭和21年=1946年6月26日。下線は引用者)。安倍、高村、石破よ、よく読め。「正当防衛権を認むることが戦争を誘発するゆえん」。日本の戦後はこうしてはじまり、〈新しい戦前〉のいまがある。(辺見庸「私事片々(2014/06/19)」


加藤周一国会参考人の議事録(「第150回国会 憲法調査会 第2号 平成十二年十一月二十七日(月曜日) 」)。

それで、日本に関してもう一言申し上げておきたいと思うんですが、現実には日本の再武装があるわけですね。自衛隊があって、強い軍事力があって、そして憲法と矛盾しているじゃないかという議論が当然あると思うんです。しかし第一に、一般的に言えば、法律は現実と矛盾しているから法律があるんです。もし矛盾がなければ、だからほとんど現実と法 律との乖離は法律のレーゾンデートルです。泥棒がいなければ刑法は要らないんだから。 しかし、それは一般論です。 特に今の第九条に関しては、今まで申し上げたことがある程度それを説明していると思いますが、これはいわゆる解釈改憲で、政策をとってだんだんに軍備が増大したから現実と離れたんでね、そうでしょう。だから現在の問題は、憲法を現実に近づけるか現実を憲法に近づけるか、どっちかということになると思う。それが根本的な仕方ですね。 今までの私のお話ししたことで、ちょっとはしょりますが、結論は、今後の日本の行き先と しては、先取りの憲法は世界で早く徹底した平和主義をとったから先取りというだけではな くて、日本の将来にとって有効な政策を憲法が先取りしているというふうに私は考えます。 ですから、変えるよりも変えない方がいい。なぜならば、憲法にあらわれていることを実現することが日本の将来を開くのであって、憲法を変えて現在の現実に近づけることが将来を開くんじゃないんですね。 その状況はほとんど米国憲法のシビルライツに似ていますね。人種の平等をうたっているわけだから、米国憲法は。ところが、差別は非常に強かった。憲法を変えてそれを現実 に合わせたんじゃなくて、憲法に現実を合わせようとしたのがシビルライツです。そして、 その成果はかなり大きかった、六〇年代から七〇年代にかけて。ですから、日本国憲法 の場合にも同じような構造があると私は考えます。(資料:憲法の本音と建て前

…………

ところで、社会思想史研究者のツイートにこうあった、《後期資本主義という社会制度のせいである。我われの眼差しは、胃袋からやはり社会構造へ》

後期資本主義という社会制度とは、「新自由主義」システムとしてよいだろう。あるいは「市場原理主義」のそれと。89年の冷戦の終焉以後しだいにその姿が露骨になり、現在はいっそうのこと「市場原理主義」がむきだしの素顔を見せ、「勝ち組」「負け組」という言葉が羞かしげもなく語られるようになっている。

成功、投資、生産性、競争性、革新、成長、アウトプットーーこれらはすべて経済のディスクール、――ラカン派的に言えば「資本主義のディスクール」ーーの語彙群であるが、大学人もこれらの評語の音楽に乗って「踊る」ことを余儀なくされているに相違ない。(参照:Paul Verhaeghe“ Identity, trust, commitment and the failure of contemporary universities http://gfm.statsvet.uu.se/Portals/1/UppsalaUfourdec2013.pdf


だが、そもそも研究者や学者たちが、「無関心と無知と無自覚」でありうるのは、「財布の中身」だけの問題ではないだろう。フロイトさえ次のようであった。

◆ジジェク『LESS THAN NOTHING』より

フロイトの選挙投票の選好(フロイトの手紙によれば、彼の選挙区にリベラルな候補者が立候補したときの例外を除いて、通例は投票しなかった)は、それゆえ、単なる個人的な事柄ではない。それはフロイトの理論に立脚している。フロイトのリベラルな中立性の限界は、1934年に明らかになった。それは、ドルフースがオーストリアを支配して、共同体国家(職業共同体)を押しつけたときのことだ。そのときウィーンの郊外で武装した衝突が起った(とくにカール マルクス ホーフの周辺の、社会民主主義の誇りであった巨大な労働者のハウジングプロジェクトにて)。この情景は超現実主義的な様相がないわけではない。ウィーンの中心部では、有名なカフェでの生活は通常通りだった(ドルフース自身、この日常性を擁護した)、他方、一マイルそこら離れた場所では、兵士たちが労働者の区画を爆撃していた。この状況下、精神分析学連合はそのメンバーに衝突から距離をとるように指令していた。すなわち事実上はドルフースに与することであり、彼ら自身、四年後のナチの占領にいささかの貢献をしたわけだ。(ジジェク 私意訳)

Freud's voting preferences (in a letter, he reported that, as a rule, he did not vote—the exception occurred only when there was a liberal candidate in his district) are thus not just a private matter, they are grounded in his theory. The limits of Freudian liberal neutrality became clear in 1934, when Dolfuss took over in Austria, imposing a corporate state, and armed conflicts exploded in Vienna suburbs (especially around Karl Marx Hof, a big workers housing project which was the pride of Social Democracy). The scene was not without its surreal aspects: in central Vienna, life in the famous cafés went on as normal (with Dolfuss presenting himself as defender of this normality), while a mile or so away, soldiers were bombarding workers' blocks. In this situation, the psychoanalytic association issued a directive prohibiting its members from taking sides in the conflict—effectively siding with Dolfuss and making its own small contribution to the Nazi takeover four years later.(ZIZEK “LESS THAN NOTHING”)

ジジェクは大著『LESS THAN NOTHING』(2012)の最終章(「CONCLUSION: THE POLITICAL SUSPENSION OF THE ETHICAL」)にて、フロイトばかりでなく、ラカンや自らの師であるラカンの娘婿ジャック=アラン・ミレールをも、その「政治的」姿勢を批判している。だがその具体的内容については、ここでの話題とは異なり、いま触れることはしない。そもそも上の文は、フロイトの『集団心理学と自我の分析』における考え方ーー《フロイトのリベラルな視点では、極右的リンチの群衆と左翼の革命的集団はリピドー的には同一のものとして扱われる。これらの二つの集団は、同じように、破壊的な、あるいは無制限な死の欲動の奔出になすがままになっている云々》ーーこの考え方への批判(吟味)文の註記である。

いまは冒頭の話に戻って、ジジェクがリーマン・ショック後、しばしば引用する(好んで?)アイン・ランドの言葉を掲げておくだけにする。

お金があらゆる善の根源だと悟らない限り、あなたがたは自ら滅亡を招きます。(アイン・ランド『肩をすくめるアトラス』)