このブログを検索

2014年9月9日火曜日

ネオナチ・グループ(NSJAP)のリーダー

以下、日本の政治音痴の者の単なるメモ(おそらく多くのひとには周知のことなのだろう)。初老の身として、日本の政治家と政治団体の名に親しむためダケのものである。

…………


ここ日本には、山田一成という国家社会主義者がいる。彼は現在のネオナチ・グループ(NSJAP)のリーダーとして活動している。今回VICEは、山田氏の一日に密着取材。民族の意思同盟と共にアメリカ大使館へ抗議にいく様子も捉えた。


          (「国家社会主義日本労働者党」の山田一成代表)

自由民主党の愛国保守議員というカタガタがいっらっしゃるようだ。

西田昌司議員、稲田朋美議員、高市早苗議員……










昨日も書いたが、野間易通氏のツイッターアカウントを数日前フォローし、彼のツイートに次のような記述があったのだが、タンナル誤記なのだろう、《高那智早苗 稲千田朋美》

ドウモ政治家ノ名ニ疎イ者トシテハ混乱シテイケナイ

混乱シツイデニくんでらノ文ガナゼカウカンデキタ、ハヤバヤトあるつはいまあ気味ナノカモシレナイ

「戦争が男たちによって行われてきたというのは、これはどえらく大きな幸運ですなあ。もし女たちが戦争をやってたとしたら、残酷さにかけてはじつに首尾一貫していたでしょうから、この地球の上にいかなる人間も残っていなかったでしょうなあ」(クンデラ『不滅』)


…………

以下はほぼ一年前の記事であり(2013.09.08)、上のメモとは「マッタク」関係がない。たまたま最近行き当たったのでここに附記する。


作家・辺見庸さん ファシズムの国か

 「現在は平時か。僕は戦時だと思っています。あなたが平時だと思うなら、反論してください。でないと議論はかみあわない」

安倍晋三政権が集団的自衛権の行使に向け、憲法解釈を変えようとしている。なりふりかまわぬ手法をどう見るか、そう尋ねた後だった。

 「十年一日のようにマスメディアも同じような記事を書いている。大した危機意識はないはずですよ。見ている限りね」。いらだち混じりの口調。低くゆっくりとした声が耳の奥深くに重たく響く。

 「日中戦争の始まり、あるいは盧溝橋事件。われわれの親の世代はその時、日常生活が1センチでも変わったかどうか。変わっていないはずです。あれは歴史的瞬間だったが、誰もそれを深く考えようとしなかった。実時間の渦中に『日中戦争はいけない』と認められた人はいたか。当時の新聞が『その通りだ』といって取り上げたでしょうか」

 ずっと以前に有事法制は通っている。そして集団的自衛権の憲法解釈の変更への傾斜、秘密保護法案…。「今が戦時という表現は僕は必要だと思う」。辺見さんは念を押した。

…………

※追記:これもまた「マッタク」関係がない(「寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか」より)。


文学部のなかで、長い戦争に対して疑問をもつ、あるいは反対だということをはっきりとした姿勢で考えていた人は教員80人近くいたと思いますが、ふたりだけ。渡辺一夫先生と、それから言語学科の神田先生。そのふたりは、はっきりと戦争全体に反対。ぼくも、そうですけれどね。あとは、いわゆる日支事変段階ではね「この戦争は一体どこまで泥沼に入ってしまうのか」と懸念をもっている人はいくらかいた。しかし日米戦争で空気はがらっと変わります。ハワイ真珠湾攻撃の日に、たまたま大学へ行ったんです。ある研究室のドアからね、教授、助教授の興奮した声が聞こえました。戦争の性格が変わった、この戦争はアジアの植民地解放戦争なんだ、これで戦争目的ははっきりしたと。そういう声が聞こえてきた。なるほど、これがこれからの日本政府の宣伝のポイントになるだろうという感じを受けました。/僕はアジアの植民地解放のためというスローガンを出すならば、なぜ朝鮮と台湾の問題に触れないのか。朝鮮の自主独立を許す、台湾を中国へ返すということを、日米戦争が始まったときにすぐに宣言していたら、アジアの解放もいいですよ。しかし、自分の植民地はそのままにしておいて、これはアジア解放戦争だと言っても通用しませんよ。(日高六郎『映画日本国憲法読本』2004年)

剥き出しの市場原理と猖獗するネオナチ」より。

私が思うに、極右が力を得ている原因の一つは、左翼 が今や直接に労働者階級 に自らの参照点を置くことに消極的になっていることにある。左翼 は自らを労働者階級 として語ることにほとんど恥を抱いており、極右が民衆の側にあると主張することを許している!左翼 がそれをするときは、民族 的な参照点を用いることで自らを正当化する必要性を感じているようだ。「貧困に悩むメキシコ 人」とか「移民 」云々で。極右 は特別のそして結束力のある役割を演じている。「民主主義 者たち」の大部分の反応は見るとよい。彼らは、ル・ペンについて、受け入れがたい思想 を流布する者だと言いながら、「しかし...」とことばを継ぐ。こうやって、ル・ペンが「ほんとうの問題」を提起していると言外に述べようとする。そうしてそのことによってル・ペンの提起した問題を自分たちがとりあげることを可能にする。中道リベラル は、根本 的には、人間の顔をしたル・ペン主義だ。こうした右翼 は、ル・ペンを必要としている。みっともない行き過ぎに対し距離をとることで自らを穏健派と見せるために。私が、2002年 [大統領選挙 ]の第2回投票 の際の対ルペン連帯について不愉快に思ったのは、それが理由だ。そしていまや少しでも左に位置しようとすると、すぐさま極右 を利用しようとしていると非難される。それが示しているのは、ポスト ・ポリティックの中道リベラルが極右の幽霊 を利用し、その想像上の危険を公的な敵に仕立て上げようとしていることだ。偽りの政治 対立の格好の例がここにあると私は思う。(ジジェク『資本主義の論理は自由の制限を導く』2006