「鼻が赤くなって すんとして 泣きたい感情だけが まだのこっている」
第二十二回萩原朔太郎賞を受賞した詩人、三角みづ紀の「湖面に立つ」(『隣人のいない部屋』所収)からだ。
吉増剛造は《『すんとして』という言葉は女の人らしい、繊細で、膨らみのある表現。この詩人しか感じないような可憐な孤独感、美質が出ている》と絶賛したとある。
「すんとして」――たしかに言われてみれば、ちょっと「すんとくる」。ツイッターなどでの女性のつぶやきには(容易には)出てこないだろう(コカインの白い粉でもすってないかぎりな)。この前後の詩句を読めば、もっと「すんとして」が印象ぶかいのかもしれない。だがそれはネット上には、いまのところ見当たらない。
かつてから詩集をおおく読むほうではないが、日本語と接する機会が稀なせいもあり、よい言葉や詩句に出会えないかという心持はそれなりにある。とはいっても詩の評価というのは、――わかんねえな
吉増剛造のように「すんとして」というような表現をとりあげて評価するなんてことはめったにないし、えっ、この表現だけでそんなに絶賛しちゃうもんなの? とは思いつつ、やっぱりこういう形で評価してほしいね
松浦寿輝は、この《ドイツ、イタリアイタリアやドイツなどを旅し、ほぼ毎日一編ずつ、自ら撮った写真とともに表現した》とされる詩集を、「旅は裸の自分に戻り、孤独になる。それが伝わる静謐な詩集。心にしたたり落ちるようなつぶやきがある」としているが、《心にしたたり落ちるようなつぶやき》をひとつでも示してほしいね。それに松浦寿輝が作品を褒めるときにしばしば使う「静謐」。この言葉はもはや手垢がつきすぎてるぜ、
ところで三角みず紀のブログにある次の詩どうだい?
定点観測
夏至も過ぎたけれど
真昼に灼けた地面に
空から打ち水が降り
ようやく、夜となる
そうして、朝を待つ
はげしく ゆるやかに
瞬間に立つ ひとびと
生きることに慣れないまま
かさなる月日が去っていく
束の間に かがやいて
いつか果てるとして
今年も きみと並び
花火を見上げている
きみに うつりこむ
花火を見上げている
(初出 2014.07.14 読売新聞)
《束の間に かがやいて》にちょっと惚れたね
《真昼に灼けた地面に/空から打ち水が降り》というのもいいな
でもオレだけの感覚かもな
ずっとわたしは待っていた。
わずかに濡れた
アスファルトの、この
夏の匂いを、
たくさんをねがったわけではない。
ただ、ほんのすこしの涼しさを五官にと。
奇跡はやってきた。
ひびわれた土くれの、
石の呻きのかなたから。
灼けた地面に空からの打ち水で、大地が匂いたつという感覚は、それは黒土やアスファルトでもいいのだが、それを愛するひとというのを、オレも愛するな
雨でなくてもいいさ、電気でも。
それだけで《道に満ちてくる水》があるのだよ
真夜中はアスファルトに電気をまき散らし
昼間とは無関係の、
たとえば朝へは通じていない路地。
物の表面から溢れ、道に満ちてくる水。
これらの発育を助長する。
細胞と水と、
一瞬ずつ反応する神経が
私である。
同じ夜にいる、あなたの家の前を通る。
ーー暁方ミセイ「アンプ」
(彼女らは魅力的な顔してるよ、どいつもこいつもいい女たちだぜ)
暁方ミセイの詩がいまのところ一番オレにはピリっとくるな、
三角みず紀の詩ではじめたんだけどさ
《ほらほら、主語せよ、木の芽吹く花鬼宿る//蕾の割れた梅の林から、糸のように漂いやってくる、》(駐アカシック、ニュー稲荷前トゥーム(暁方ミセイ))
不安がもだえそうに淡い炎がゆだっている
道端の青い小さな花を煮る六月十日は、
(ひそひそと話をしている)
(柑子の木のあたり、雨に濡れそぼって、ふたりで、小声で)
(おおそのうえ古語で、)
(聞き取れない話をしている。雨の庭の古い濡れた柑子の木のあたりで)
((ちがうよ、あれは鳩だよ))
(人の様な、くぐもってずっと話している。何十羽もいる。)
何十羽も鳩がいる。茂みのなかで鳴いている。
遠く潰れた緑のうえに、
誰かの面影が、こんもりと盛られて、動かないでいる。
今は時々きらっと反射して、
もうすぐ隠れて
見えなくなる。
暁方ミセイ「極楽寺、カスタネアの芳香来る」(「現代詩手帖」2012年06月号)より
暁方ミセイがいちばん近いな
たとえば将来ひょっとしてこういった詩句を生み出すかもしれないと思わせる詩人だな
つち澄みうるほひ
石蕗の花さき
室生犀星の四行詩「寺の庭」の最初の二行だけどさ
暁方ミセイは宮澤賢治のひとではあるけど
《不安がもだえそうに淡い炎がゆだっている》とか
《蕾の割れた梅の林から、糸のように漂いやってくる、》とか
いいねえ、「惚れ惚れ」するなあ
……三好が詩に於てつとに萩原朔太郎を宗としたことは周知のとほりだが、その詩境をうかがふに、年をふるにしたがつて、むしろ室生さんのはうに「やや近距離に」あゆみ寄つて来たのではないかとおもふ。萩原さんの詩はちよつと引つかかるところがあるけれど、室生さんの詩のはうはすらすら受けとれると、げんに當人の口から聞いたことがあつた。萩原さんをつねに渝らず高く仰いてゐた三好として、これは揣らずもみづからの素質を語つたものだらう。ちなみに、そのときわたしは鑑賞上それと逆だと應へたおぼえがある。また三好が酣中よくはなしてゐたことに、芥川龍之介は百發九十九中、室生犀星は百發わづかに一中だが、のべつにはづれる犀星の鐵砲がたまにぶちあてたその一發は芥川にはあたらないものだといつて、これにはわたしも同感、われわれは大笑ひした。つち澄みうるほひ、石蕗の花咲き……といふ室生さんの有名な詩は三好が四十年あまりにわたつで「惚れ惚れ」としつづけたものである。「つち澄みうるほひ」はまさに犀星の一發。このみがき抜かれたことばの使ひぶりは詩人三好が痩せるほど氣に入つた呼吸にちがひない。(石川淳「三好達治」『夷斎小識』所収)
酒澄みうるほひ
たおやめの頬あからみ
もう秋は女の庭のように
匂いだした
女の庭について語りたいと思うが
キノコの生えた丸太に腰かけて
考えている間に
女の旅人突然後を向き
なめらかな舌を出した正午
キノコはたちまちすんとして萎れた
ーーもちろんほとんどパクリだからな
吉岡実の「夏の宴」の手法だなんていわないがね