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2014年1月31日金曜日

総統のピアニスト





Elly Neyエリー・ナイの名はまったく知らなかった(Rosita Renardの演奏録音を探すなかで見つかったもの)。

エリー・ナイは、総統のピアニストと呼ばれていたそうだ。すなわちヒットラーのお気に入り。ベートーヴェンの目覚しい録音がYoutubeにある。

冒頭のエリー・ナイの演奏、シューマンのEtudes Symphoniques, Variations Posthumes, No. 5にはびっくりした。リヒテルの演奏は次の如し。





ポリーニ(6:40より)




…………

※附記

イギリスの傑出したワグネリアンであるジョン・デスリッジは,かつて次のような注目すべき事実を強調した.ヒトラーが好んだワーグナーのオペラは,露骨にドイツ的な《マイスタージンガー》でも,東方の野蛮な遊牧民からドイツを防衛するために武器を取ることを訴える《ローエングリン》でもなく,名誉や恩義などの象徴的義務にみちた日々の生活という昼を捨て去り,人を夜に埋没させて自己の死を恍惚として受容させる傾向をもつ《トリスタン》だった,ということである.キルケゴール流に言うならば,この「政治的なものの美的な宙吊り」こそが,まさにナチのとった態度の背景としてのファンタスムの中核を成すのだが,そこで重要であったのは何か政治以上のもの,美的なものと化して人を恍惚に誘うある共同体的体験であり,その典型的な例としてニュルンベルクの政治集会で夜な夜な行なわれた儀式をあげることができるだろう.(ジジェク「『アンダーグラウンド』、あるいは他の手段による詩の継続としての民族浄化」)

私はもちろんハイデガーがナチだったと知っています。誰もが知っていることです。問題はそこではないのですよ。問題は、果たして彼が、ナチスのイデオロギーに与することなしに20 世紀で最も偉大な哲学者になり得たかどうかということなのです。(デリダ『哲学の終りと思惟の使命』より)
一時期のめりこんだ政治活動と、童話の創作活動がどういう関係にあったのか。政治活動を否定したことによって、そこからあの童話の世界が生まれたのではなく、このふたつはじつはほとんど同時現象なんですね。あの奇跡のような傑作群と、危険なユートピア思想への傾倒は、深くつながっている。(中沢新一 対談「宮沢賢治と日本国憲法 」)
だが、と最後に急いで付け加えなければならないが、ここには何か恐ろしく不吉なものがある。それは、賢治の見た「二つの風景」(「春と修羅」)、現実空間と異次元の詩的空間とが二重化した場処に孕まれた危うさへの予感だろうか。死に魅入られたこの空間を満たす「水いろ」の透明な情炎、あるいは透明性へのあまりに「まつすぐ」な情炎の禍々しさ。宗教と科学技術とを最先端の過激さで交わらせようとした賢治の想像力が、その切っ先で煌めかせた不穏な何ものかの到来の兆しを、震災後の危機と賢治botとの遭遇、そしてそこに生じたシンクロニシティに認めたことを末尾にこうして記すのみで、この短い「心象スケツチ」めいた記述は閉ざさなければならない。
 テクストでは触れなかったが、この禍々しささえ帯びた透明性への情炎には、ファシストのための「ガラスの家」であるカーサ・デル・ファッショを建てたイタリア・ファシズムの建築家、ジュゼッペ・テラーニの「汚れなきファシズム」を連想した(鳥のさえずり──震災と宮沢賢治bot)。


《わたしは君があらゆる悪をなしうることを信ずる。それゆえにわたしは君から善を期待するのだ。

まことに、わたしはしばしばあの虚弱者たちを笑った。かれらは、自分の手足が弱々しく萎えているので、自分を善良だと思っている。》(ニーチェ『ツァラトゥストラ』手塚富雄訳)


音楽は一見いかに論理的・倫理的な厳密なものであるにせよ、妖怪たちの世界に属している、と私にはむしろ思われる。この妖怪の世界そのものが理性と人間の尊厳という面で絶対的に信頼できると、私はきっぱりと誓言したくはない。にもかかわらず私は音楽が好きでたまらない。それは、残念と思われるにせよ、喜ばしいと思われるにせよ、人間の本性から切り離すことができない諸矛盾のひとつである。(トーマス・マン『ファウスト博士』ーー「悪魔が信じられないような人に、どうして天使を信ずる力があろう」)







2013年12月7日土曜日

無責任体制の「記号」としての「安倍晋三」

             小田実に

総理大臣ひとりを責めたって無駄さ
彼は象徴にすらなれやしない
きみの大阪弁は永遠だけど
総理大臣はすぐ代る

……
(谷川俊太郎「夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった」)

谷川俊太郎自身のあとがきによれば、「夜中に台所で……」の詩14篇は、19725月某夜、なかば即興的に鉛筆書きしたものとのこと。

当時は、第3次佐藤改造内閣であり、佐藤栄作長期政権最後の時期にあたる。

たしかに総理大臣ひとりを責めたって無駄だ。

だが「佐藤栄作」は、戦前からの亡霊の「記号」としても己れを主張していたはずであり、人びとは、意識的であれ無意識的であれ、このいささか疚しいシーニュを、隠しておきたい恥部を刺激する不気味な異物として取り扱っていたには相違ない。もちろんフロイトがいったように、「不気味なもの( unheimlich)」とは本来「親密なもの( heimlich)」であり、自己投射の対象として機能する。

ここで戦前からの亡霊の「記号」というのは、戦前の「公」と戦後の「公」とが連続したまま繋がっており、戦前的思想・政策を戦後の<今>になってもいまだ完全に否定できていないことを否が応でも想起させる「名」ということだ。

生まれる前に何が起ころうと、それはコントロールできない。自由意志、選択の範囲はないのです。したがって戦後生まれたひと個人には、戦争中のあらゆることに対して責任はないと思います。しかし、間接の責任はあると思う。戦争と戦争犯罪を生み出したところの諸条件の中で、社会的、文化的条件の一部は存続している。その存続しているのものに対しては責任がある。もちろん、それに対しては、われわれの年齢の者にも責任がありますが、われわれだけではなく、その後に生まれた人たちにもは責任はあるのです。なぜなら、それは現在の問題だからです。(「加藤周一「今日も残る戦争責任」)

ようするに、小田実や加藤周一らの当時の「左翼知識人」たちは、無責任体制の社会的、文化的条件の存続としての「記号=佐藤栄作」の露骨な流通に、いてもたってもいられない憤りを覚えていたはずでもある。


ところで、第一次安倍政権発足のおり、中井久夫は次のように書いている。

「小泉時代が終わって安倍が首相になったね。何がどう変るのかな」

「首相が若くて貴公子然としていて未知数で名門の出で、父親が有名な政治家でありながら志を得ないで早世している点では近衛文麿を思わせるかな。しかし、近衛のように、性格は弱いのにタカ派を気取り、大言壮語して日本を深みに引きずり込むようなことはないと信じたい。総じて新任の首相に対する批判をしばらく控えるのは礼儀である」

「しかし、首相はともかく、今の日本はいやに傲慢になったね。対外的にも対内的にもだ」

「たとえば格差是認か。大企業の前会長や首相までが、それを言っているのは可愛くない。“ごくろうさま”ぐらい言え。派遣社員もだけど、正社員も過密労働と低収入で大変だ。……」(中井久夫「安部政権発足に思う」ーー2006.9.30神戸新聞「清陰星雨」初出『日時計の影』所収)

ここで中井久夫は、佐藤栄作や岸信介の名を出していない。父(晋太郎)と近衛文麿だけが言及されているが、おそらく、それは「あえて」であり、精神科医としての中井久夫は当然佐藤栄作や岸信介の名に思いを馳せているに相違ないにもかかわらず言わないままでおいたのは、多くの読者を抱える「神戸新聞」という発表の場が促す「節度」からだろう。

さて現在、第二次安倍政権のまっさかりであり、「安倍晋三」という記号は、あたかも戦前の亡霊を喚起する「名」として機能しているかのようである。そして《性格は弱いのにタカ派を気取り、大言壮語して日本を深みに引きずり込む》かのようでもあろう。

そのことに敏感なひとたちが少数であっても存在する。たとえば鈴木創士氏は、ツイッター上で次のように発話する。

あのね、秘密保護法案なんてだめに決まってるでしょうが。安倍が鬱病に再突入するのを待ってる暇はない。安倍はじいさんの元戦犯首相である岸信介と全く同じことをやろうとしている。政治はエディプスコンプレックスの原動力だろうが、それで次々法律をつくろうなんてゴロツキのキチガイがすることだ。(2013.10.29)
「不特定」秘密保護法案に賛成した議員と国民は「死んだ父」を空しく探す安倍の精神病を助長し、どっちがどっちか解らぬままに転移を繰り返し、どの仮面を剥がそうとものっぺらぼうの百面相に死化粧を施し、あまつさえ巨大なESの糞溜めの中でうれしそうにのたうち回り、病院へ直行することになる。(2013.11.27)

ここで「ES」というのは「無意識」のことだとすればーー厳密に言えば『自我とエス』におけるフロイトの説明では、「エス」だけでなく、「自我」や「超自我」にも無意識的な部分があるーー、この「無意識」という言葉は、佐藤優氏の発言にも次のように使われる。

福島)……私は、安倍総理の頭のなかには工程表があると思っています。(……)

佐藤)ただ、本当に工程表があるということならば、それをおかしいと言って潰していく、あるいは修正させることが可能なんです。しかし、実は工程表はないのではないかと感じます。なんとなく空気で動いている、つまり集合的無意識で動いているとすると、この動きをとどめるのはなかなか難しい。(特定秘密保護法案 徹底批判(佐藤優×福島みずほ)

《巨大なESの糞溜めの中でうれしそうにのたうち回り》という詩才溢れる鈴木創士氏のセリーヌやバロウズばりの表現は、《集合的無意識で動いている》という「外務省のラスプーチン」(驚嘆すべき知性の活動家ーー柄谷行人評)の言葉に翻訳できるだろう。

あるいは現代詩ムラの他者」辺見庸氏なら次のように語る。

みなさんはいかがですか、最近、ときどき、鳥肌が立つようなことはないでしょうか? 総毛立つということがないでしょうか。いま、歴史がガラガラと音をたてて崩れていると 感じることはないでしょうか。ぼくは鳥肌が立ちます。このところ毎日が、毎日の時々 刻々、一刻一刻が、「歴史的な瞬間」だと感じることがあります。かつてはありえなかっ た、ありえようもなかったことが、いま、普通の風景として、われわれの眼前に立ち上が ってきている。ごく普通にすーっと、そら恐ろしい歴史的風景が立ちあらわれる。しかし、 日常の風景には切れ目や境目がない。何気なく歴史が、流砂のように移りかわり転換して ゆく。だが、大変なことが立ち上がっているという実感をわれわれはもたず、もたされて いない。つまり、「よく注意しなさい! これは歴史的瞬間ですよ」と叫ぶ人間がどこに もいないか、いてもごくごく少ない。しかし、思えば、毎日の一刻一刻が歴史的な瞬間で はありませんか。(辺見庸「死刑と新しいファシズム 戦後最大の危機に抗して」――2013年8月31日の講演記録)

これも、《議員と国民は「死んだ父」を空しく探す安倍の精神病を助長》している症候を敏感に察知しているひとの言葉だ。辺見庸氏の記事には、「安倍」という語が頻出するが詳しくは上のリンク先の、三時間に及ぶ講演記録全文を参照のこと。

そして講演者としての穏やかさの仮装を脱ぎ、本来の詩人としての辺見庸氏なら、その思いは次のように言葉として炸裂する。

……にしても、「戦争ハ国家ノ救済法デアル」といふ深層心理(欲動)はいつか顕在化するのだろうか。ダチュラをまた見る。「大量のトゲが密生している」。図鑑にそう書いてあったのを、目がわるひものだから、「大量のトカゲが密生している」と読んで異常に興奮したことがある。ほんたうに大量のトカゲが密生すればよひのになあ・・・とおもふ。さても、薄汚いオポチュニストたちの季節である。プロの偽善者ども、新聞、テレビ、学者、評論家・・・権力とまぐわう、おまへたち「いかがわしい従兄弟」(クィア・カズン)たちよ!われらジンミンタイシュウよ!ノッペラボウたちよ!一つ目小僧たちよ!ろくろっ首たちよ!タハラ某よ!傍系血族間に生まれし者らと、その哀しく醜い末裔よ!踊れ!うたへ!よろこべ!そして、ごくありふれたふつうの日に、なにかが、気づかれもせずにおきるのである。戦争トソノ法律ハ国家ノ救済法デアル。(辺見庸ブログ

ここにも《「戦争ハ国家ノ救済法デアル」といふ深層心理(欲動)はいつか顕在化するのだろうか》と、「深層心理(欲動)」という表現があることに注目しておこう。


ところで、逆に、自らのなかに残存する「あなたのなかにあるあなた以上のもの」としての「無責任体制」を否認したい議員や国民は、パラノイア的投射の対象として「安倍晋三」という「無能の主人」を利用していることだってありうる。

ここでの「無能の主人」とは、日本は直接選挙で国の指導者が選ばれるわけではないから、いささか事情が異なるかもしれないが、レーガン元米大統領をそう呼ぶコプチェク起源の用語法だ。

ラカン派のコプチェク(ジジェクの朋友でもある)は、《アメリカ人ヒステリー的な態度によって主人を選出すると言う。必然的に妨げられる欲望は、妨害そのものへの欲望に転化する。満たされない欲望は、決して満たされる ことのない状態への欲望に転倒される。つまりそこでは、誤りを犯すことがわかっているような無能な人物があえて主人に選ばれることになる》と言う。(暗号的民主主義──ジェファソンの遺産 | 田中純


フロイトは、パラノイア的「投射」の機制をめぐって次のように叙述している。
彼らは自分自身の中の無意識なものから注意をそらして、他人の無意識なものに注意をむけている。(フロイト『嫉妬、パラノイア、同性愛に関する二、三の神経症的機制について』)

ラカンの心的構造論によれば、ひとには「神経症」「精神病」「倒錯」のみっつの構造のどれかがあり、いかなる人もこのどれかに当てはまる。

現在は境界例や自閉症、アスペルガーなどの症状の出現でいささかの動揺はあるにしろ、”標準版”のラカン派の疾患分類とは、神経症、精神病、倒錯が3大カテゴリーであり、それぞれ抑圧、排除、否認によって規定されている。神経症の下位分類にヒステリーと強迫神経症があり、精神病の下位分類にパラノイアとスキゾフレニーとメランコリーがある。

いまはそれらを詳細に書くつもりはないが、ラカン派では、投射Projectionとは、自身のうちにある欲望や思考、感情への防衛であり、それらの思いを立ち退かせて、他の主体に移しかえる心的メカニズムであって、精神病のカテゴリーのひとに属する症状のひとつである。

フロイトを再度引用するならば、
嫉妬ぶかい男は、自分自身の不実のかわりに、妻の不貞を思うのであって、こうして、彼は妻の不実を法外に拡大して意識し、自分の不実は意識しないままにしておくのに成功している。(同上 フロイト) 

こうであるならば、議員や国民は、自分自身のなかの「戦前の亡霊」を、首相のなかの「戦前の亡霊」に投射して、彼らのうちの「亡霊」は意識しないままにしているなどとも勘ぐることができる。

投射projection」は、ラカン派的にはパラノイア的イマジネールな症状であるが、フロイト概念を定義しなおしたラカンの厳密化以降も、他の流派では精神病(パラノイア)だけではなく神経症者の症状にもかかわってその概念が使用されているようだ。

他方、「取り込み」、あるいは「摂取」とも訳されるintrojection」が、ラカン派では、神経症のメカニズムとして説明される。投射が想像界、取り込みが象徴界に関連するメカニズムで、前者が想像的同一化(理想自我)、後者が象徴的同一化(自我理想)に関わる。言葉の意味からすれば、一見「投射」と「とりこみ」は、逆転機制かとも思われるが、ラカンはその解釈を拒絶して想像界と象徴界の審級の違いのメカニズムとしている。

Whereas projection is an imaginary mechanism, introjection is a symbolic process (Lacan Ec, 655).

そもそもフロイトには、理想自我と自我理想の区別が不鮮明で、これはラカンのセミネール一巻(「フロイトの技法論」)で、フロイトの『ナルシシズム入門』を読み解くなかでの峻別であり、ジジェク曰くは、《ラカンが、自我理想と理想自我との「口がすべったかのような」区別から何を引き出したかを思い出してみようではないか》(『斜めから見る』)ということになる。


 たとえば「安倍晋三」が、パラノイア的投射(想像的同一化)の対象ではなく、自我理想(象徴的同一化)として機能しているならば、自民党議員たちの症状は次のようなこととも考えられる。

同一の対象を自我理想とし、その結果おたがいの自我で同一視し合う個人の集り(フロイト『集団心理学と自我の分析』)

ここでの後半にあるおたがいの自我で同一視(同一化)し合う個人の集まりが、「理想自我」のメカニズムにかかわる。


想像的同一化(理想自我による同一視)とは、われわれが自分たちにとって好ましいように見えるイメージへの、つまり「われわれがこうなりたいと思う」ようなイメージへの、同一化である。

象徴的同一化(自我理想による同一視)とは、そこからわれわれが見られているまさにその場所への同一化、そこから自分を見るとわれわれが自分にとって好ましく、愛するに値するように見えるような場所への、同一化である。(ジジェク『イデオロギーの崇高な対象』)


もっとも安倍晋三の存在を「自我理想」とするならば、それは萎んだファルスであり、《父権的というよりは母性的な形ですべてを包み込み、不在(無能)であるがゆえにいたるところに偏在する中心として機能としての天皇制》(浅田彰)のなれのはてのいかがわしく矮小化された男根でしかありえないだろう。冒頭の谷川俊太郎の詩句から引けば、佐藤栄作でさえ《彼は象徴にすらなれやしない》のだ。

とすれば、やはり想像的な投射に近づく(「父」の象徴的機能、「母」の想像的機能という側面から言えばということだが)。せいぜいサンブラン(見せかけ)としての「父」だ。(参照:「みせかけsemblant」の国(ラカン=藤田博史)

サンブランは自我の置き換えとして機能する。この想像的な二項関係による疑似論理が横行すれば、《微笑を浮かべたソフトな全体主義》(浅田彰『「歴史の終わり」と世紀末の世界』「メディア・ランドスケープの地質学」J・G・バラードとの対話)を生むことにもなりかねない。

もともと一神教ではない日本では「父」の象徴的機能が弱く、戦前の全体主義も浅田彰やバラードのいうような母性的なファシズムであったのではないか、という問いが、例えば柄谷行人の次のような主張をも生む。

ヒットラーが羨望したといわれる日本のファシズムは、いわば国家でも社会でもないcorporatismであって、それは今日では「会社主義」と呼ばれている。(柄谷行人「フーコーと日本」1992 『ヒューモアとしての唯物論』所収ーーいつのまにかそう成る「会社主義corporatism」

いまでも、安倍政権は「日本株式会社」を目指している、などという指摘があるのは衆知だろう。

これらの会社主義や日本株式会社とは創業社長の率いる「会社」とは異なり、次のような権力構造のことである。
事実上は、「誰か」が決定したのだが、誰もそれを決定せず、かつ誰もがそれを決定したかのようにみせかけられる。このような「生成」が、あからさまな権力や制度とは異質であったとしても、同様の、あるいはそれ以上の強制力を持っていることを忘れてはならない。(柄谷行人「差異としての場所」)

すなわち「いつのまにかそうなる」という「生成」の原理を促す権力なのだ。

いずれにせよ、これらの理由によるものかどうかは実のところ窺いしれないが、佐藤優氏が曰くの《この動きをとどめるのはなかなか難しい》という現象をいまわれわれは目の当たりに見ている。


《特定秘密保護法が参院本会議で自民、公明両与党の賛成多数で可決、成立した。》(12.06.23:23)

もちろん萎びた男根にもかかわらず比較的長期政権が予想される安倍晋三の内閣は、官僚たちが自由に裁量をふるえる願ってもない存在である。政治には疎いわたくしには、いくら「一寸先は闇」の日本の政治でも、病気以外の理由で安倍辞職などということは今のところ想像し難い。

どの国でも、官僚たちは議会を公然とあるいは暗黙に敵視している。彼らにとっては、自分たちが私的利害をこえて考えたと信ずる最善の策を議会によってねじ曲げられることは耐え難いからである。官僚が望むのは、彼らの案を実行してくれる強力且つ長期的な指導者である。また、政治家のみならず官僚をも批判するオピニオン・リーダーたちは、自分たちのいうことが真理であるのに、いつも官僚や議会といった「衆愚」によって邪魔されていると考えている。(柄谷行人『終焉をめぐって』――民主主義の中の居心地悪さ

ーーというわけで、安倍晋三という記号をめぐって雑然と書いてきたが、その「記号」の不気味さに限っていえば、それはまあ杞憂だったら杞憂でよろしい。もし「杞憂」でなければ、かりに安倍晋三退陣があって男根的なファシストまるだしの首長になったほうが、議員や国民にとっては、母性的な投射の対象になり辛く、むしろ不気味さは減るのではないか(「母」ではなく仮にも「父」であれば反発が生まれ議員たちの分裂が起る可能性だって高い)。

実際のところは、ひたすら「きなくささ」を感じる。わたくしは海外住まいで、マスコミのニュースのたぐいにもほとんど接していないから、ピントはずれの印象が多いのかもしれないけど、いくつかの記事を追っていると、どうも「NSCは戦争するかしないかを決めるところ。最近の日本政府はナチスの手口に学んでいるんじゃないかと思います(佐藤 優)」という「におい」に、わたくしの感度のわるい鼻は、収斂してゆく。

国家が「秘密」を重視した時は非常時から準戦時体制への転換点であることは歴史が示している。(岩波講座「日本通史」18卷・近代3)いまや軍産複合体だから、民間企業にまで蛸の足のように「秘密」は伸びていく。この法案とともに「武器輸出3原則」が空洞化する法案が、密かに国会に出されている。極端な例だが、「日本核武装」には、原発産業全体に「特定秘密」は拡大されていくだろう。(西島健男「特定秘密保護法」を読む


《「いつのまにかそうなる」という「生成」の原理》--いつのまにか戦争になる、なんてことはないのかね、近いうちに。

戦争の論理は単純明快である。人間の奥深い生命感覚に訴える。誇りであり、万能感であり、覚悟である。戦争は躁的祝祭的な高揚観をもたらす。戦時下で人々は(表面的には)道徳的になり、社会は改善されたかにみえる。(……)これに対し、平和とは、自己中心、弛緩、空虚、目的喪失、私利私欲むきだし、犯罪と不道徳の横行する時代である。平和の時代は戦争に比べ大事件に乏しく、人生に個人の生命を超えた(みせかけの)意義づけも、「生き甲斐」も与えない。平和は「退屈」である。(中井久夫「戦争と平和についての考察」『樹をみつめて』所収)


…………


亡霊として機能する幻想的投射の「対象a」をめぐっては、ジジェクが「ブラック・ハウス」という小説をめぐって書いている文を付記しておく(『斜めから見る』より)。

舞台はアメリカの小さな田舎町。男たちは夕方になると居酒屋に集まり、昔話に花を咲かせて郷愁に浸っている。町に伝わる伝説―――たいていは彼らの若い頃の冒険談―――はどういわけかどれも、町外れの丘に立つ廃屋と関係がある。その不気味な「ブラック・ハウス」には何か呪いがかかっているらしく、男たちの間では、誰もあの家に近づいていけないという暗黙の了解がなされている。あそこに入ると生命の危険があるとすら思われている(あの家には幽霊がいるとか、孤独な狂人が住みついていて浸入する者を片っ端から殺すとか、噂されている)のだが、同時に、男たちの青春の思い出はすべてその「ブラック・ハウス」に結びついている。そこは彼らが初めて「侵犯」、とくに性体験に係わる侵犯を経験した場所なのだ(男たちは、昔あの町でいちばんきれいな女の子と初めてセックスをしたとか、あの家で初めて煙草を吸ったとかいった話を飽きもせずに繰り返し話す)。

物語の主人公は町に引っ越してきたばかりの若い技師である。彼はそうした「ブラック・ハウス」にまつわる神話を耳にして、男たちに、明晩あの不気味な家を探索してみるつもりだと告げる。その場にいた男たちはそれを聞いて、口には出さないが、激しい非難の目で主人公を見る。翌晩、若い技師は、何か恐ろしいこと、あるいは少なくとも予期せぬことが自分の身に起こるのではないかと期待して、問題の家を訪れる。彼は期待と緊張で体をこわばらせ、暗い廃屋に入り、ぎしぎし音を立てる階段を上り、一つ一つの部屋を調べるが、朽ちかけた敷物がいくつか床に散らばっているだけで、他には何もなかった。彼はすぐ居酒屋に戻り、誇らしげに、「ブラック・ハウス」はただの汚い廃屋にすぎず、神秘的なところも魅力的なところもない、と断言する。男たちはぞっとすると同時に強烈な反感を抱く。若い技師が帰ろうとしたとき、男たちの一人が狂ったように襲いかかる。技師は運悪く仰向けに地面に倒れて頭を打ち、しばらくして死ぬ。

どうして男たちは新来者の行動にこれほど激しい反感をおぼえたのであろうか。現実と幻想空間という「もうひとつの光景」との差異に注目すれば、彼らの憤りが理解できる。男たちが「ブラック・ハウス」に近づくことを自分たち自身に禁じていたのは、そこが、彼らが自分たちの郷愁にみちた欲望、すなわち歪曲された思い出を投射できる、からっぽの空間だったからである。闖入者たちは、「ブラック・ハウス」はただの廃屋にすぎないと公言することによって、男たちの幻想空間を陳腐な日常空間へと貶めたのである。彼は現実と幻想空間の差異をなくしてしまい、男たちから、彼らが自分たちの欲望を表現できるような場所を奪ってしまったのである。


(ラカン):幻想とは不可能な視線のことである。幻想の「対象」は、幻想の光景そのもの、つまりその内容ではなく、それを目撃している不可能な視線である。

…………

※附記

以上の内容とは、いささか文脈が違うが、イデオロギー的幻想(投射)ideological fantasy (projection),と、ラカンの「現実界のかたわれ」little bit of the Realを序す次のジジェクの文を参考にしてこの記事は書かれている。

A statement is attributed to Hitler: “We have to kill the Jew within us.” A. B. Yehoshua has provided an adequate commentary: “This devastating portrayal of the Jew as a kind of amorphous entity that can invade the identity of a non‐Jew without his being able to detect or control it stems from the feeling that Jewish identity is extremely flexible, precisely because it is structured like a sort of atom whose core is surrounded by virtual electrons in a changing orbit.” In this sense, Jews are effectively the objet petit a of the Gentiles: what is “in the Gentiles more than the Gentiles themselves,” not another subject that I encounter in front of me but an alien, a foreigner, within me, what Lacan called the lamella, an amorphous intruder of infinite plasticity, an undead “alien” monster which can never be pinned down to a determinate form. In this sense, Hitler's statement says more than it wants to say: against its intended sense, it confirms that the Gentiles need the anti‐Semitic figure of the “Jew” in order to maintain their identity. It is thus not only that “the Jew is within us”—what Hitler fatefully forgot to add is that he, the anti‐Semite, his identity, is also in the Jew. Here we can again locate the difference between Kantian transcendentalism and Hegel: what they both see is, of course, that the anti‐Semitic figure of the Jew is not to be reified (to put it naïvely, it does not fit “‘real Jews”), but is an ideological fantasy (“projection”), it is “in my eye.” What Hegel adds is that the subject who fantasizes the Jew is itself “in the picture,” that its very existence hinges on the fantasy of the Jew as the “little bit of the Real” which sustains the consistency of its identity: take away the anti‐Semitic fantasy, and the subject whose fantasy it is itself disintegrates. What matters is not the location of the Self in objective reality, the impossible‐real of “what I am objectively,” but how I am located in my own fantasy, how my own fantasy sustains my being as subject.(ZIZEK『LESS THAN NOTHING』)


以下も同じ『LESS THAN NOTHING』からだが、ここに書かれる側面は、叙述が複雑化するため敢えて省いた。

It is again anti‐Semitism, anti‐Semitic paranoia, which reveals in an exemplary way this radically intersubjective character of fantasy: the social fantasy of the Jewish plot is an attempt to provide an answer to the question “What does society want from me?” to unearth the meaning of the murky events in which I am forced to participate. For that reason, the standard theory of “projection,” according to which the anti‐Semite “projects” onto the figure of the Jew the disavowed part of himself, is inadequate—the figure of “conceptual Jew” cannot be reduced to being an externalization of the anti‐Semite's “inner conflict”; on the contrary, it bears witness to (and tries to cope with) the fact that the subject is originally decentered, part of an opaque network whose meaning and logic elude its control. On that account, the question of la traversée du fantasme (of how to gain a minimal distance from the fantasmatic frame which organizes one's enjoyment, of how to suspend its efficacy) is not only crucial for the psychoanalytic cure and its conclusion—in our era of renewed racist tension, of universalized anti‐Semitism, it is perhaps also the foremost political question. The impotence of the traditional Enlightenment attitude is best exemplified by the anti‐racist who, at the level of rational argumentation, produces a series of convincing reasons for rejecting the racist Other but is nonetheless clearly fascinated by the object of his critique.

※ジジェクはここで標準的な投射の理論の説明のなかで、《the figure of the Jew the disavowed part of himself》としている。disavowedとは「否認された」と訳される語で、通常、この語が使われるときには「倒錯」の症候を表す。他方、「投射」は上に見たように、パラノイア(精神病)の症候を表す。

「否認」という語が使用されたとき、単純にラカン的な「倒錯」として理解するのは慎まねばならない。すくなくともジジェクは、つねにこの語をラカン的な意味で厳密に使っているわけではない。

さらに言えば、二〇世紀の神経症の時代から二一世紀の「ふつうの精神病」の時代へ(ミレール派)、いや「倒錯」の時代へ(メルマン派)などと言われるように、この見解の相違は、ラカン派のなかでも、精神病と倒錯の区別がつきがたいことを示しているのではないか。


最後に、ジジェクは同書で、ラカンの「エクリ」から引用して、次のようにフェティッシュ(倒錯の一症状)の実態をフロイトに反して指摘していることを追記しておこう。

As Lacan puts it on the very last page of his Écrits: “the lack of penis in the mother is ‘where the nature of the phallus is revealed.' We must give all its importance to this indication, which distinguishes precisely the function of the phallus and its nature.” And it is here that we should rehabilitate Freud's deceptively “naïve” notion of the fetish as the last thing the subject sees before it sees the lack of a penis in a woman: what a fetish covers up is not simply the absence of a penis in a woman (in contrast to its presence in a man), but the fact that this very structure of presence/absence is differential in the strict “structuralist” sense.(資料:フェティシズムと対象選択






2013年11月26日火曜日

民主主義の中の居心地悪さ(ジジェク)

以下、資料の列挙。

ウィンストン・チャーチルの有名なパラドックス( ……)。民主主義は堕落とデマゴギーと権威の弱体化への道を開くシステムだと主張する人びとにたいして、チャーチルはこう答えた。「たしかに民主主義はありとあらゆるシステムのうちで最悪である。問題は、他のどのシステムも民主主義以上ではないことだ」。この発言は「すべてが可能だ。いやもっと多くのことが可能だ」という全体集合を提示する。その中では問題の要素(民主主義)は最悪のように見える。第二前提によれば、「ありとあらゆるシステム」という集合はすべてを包含しているわけではなく。付加的な要素と比べてみれば件の要素がじゅうぶん我慢できるものであることがわかる。この論法は次の事実に基づいている。すなわち付加的要素は「ありとあらゆるシステム」という全体集合に含まれているものと同じであり、唯一の相違はそれらはもはや閉じられた全体の要素としては機能していないという点である。政府のシステムの全体の中では民主主義は最悪であるが、政治システムの全体化されていない連続の中には民主主義以上のものはない。したがって、「それ以上のものはない」という事実から、民主主義が「最良」であるという結論を引き出してはいけない。民主主義の利点はまったく相対的なものでしかないのである。この命題を最上級で定式化しようとしたとたん、民主主義の特質は「最悪」となってしまうのである。(ジジェク『斜めから見る』 P62~ーー「否定判断」と「無限判断」--カントとラカン(ジジェク『LESS THAN NOTHING』より))

次に同じ『斜めから見る』の「形式民主主義とそれに対する不満」の章からだが、この章の原題”Formal Democracy and its Discontents”はフロイトの読者ならすぐ気がつくように、『文化への不満』Civilization and Its Discontents (Das Unbehagen in der Kultur, 1930)からきており、旧訳の『文化への不満』(人文書院版)という題名は、新訳のフロイト全集版(岩波書店)では、『文化の中の居心地悪さ』と変更されている。ジジェクの章題も「民主主義の中の居心地悪さ」と変更してもよい内容になっている。

基本的な問いから出発しなくてはいけないーー民主主義の主体は誰か。ラカンの答えは明快である。ーー民主主義の主体は人間ではない。豊かな欲求、関心、信仰などをもった「人間」ではない。

民主主義の主体とは、精神分析の主体と同じく、抽象化されたデカルト主義的な主体、つまり個別的な内容をすべて除去した後に残る空疎な規則性に他ならない。

いいかえれば、コギト、すなわち空虚な点、あるいは残存物としての再帰的自己指示を生み出す、根源的疑念というデカルト主義的な方法と、あらゆる民主主義的な宣言の序文に見出される「(人種、性別、宗教、財産、社会的地位)にかかわらず、すべての人間は」という表現は、構造的に同質である。

この「にかかわらず」の中には抽象化という暴力的な行為が働いていることを見落としてはならない。

それはすべてのポジティヴな特徴の抽象化、すべての実体的・生来的な繋がりの崩壊であり、このことが、純粋な非実体的主体性の点としての、デカルト主義的なコギトと密接に相関している実体を生み出すのである。

ラカンは精神分析の主体をこの実体と結びつけ、人間は「非合理な」欲動の集積であるという「精神分析的人間観」に慣れているものを驚かした。

ラカンは、ポジティヴで実体的な同一性を主体に与えるような支えはいっさい構造的に存在しないのだということを示すために、主体を、斜線を引かれたSによってあらわす。

同一性が欠けているからこそ、精神分析理論においては同一化の概念がこれほど大きな役割を演じるのである。

主体は同一化によって、すなわち象徴的ネットワークにおける位置を保証してくれるなんらかの主人のシニフィアンに自分を同一化することによって、みずからの構造的欠損を埋めようとするのである。(……)

「民主主義」は根本的に「反人間主義的」である。「(具体的な、現実の)人間の大きさに合わせて作られた」ものではなく、形式的で冷酷無情な抽象化に合わせて作られたものである。民主主義という観念そのものの中には、具体的な人間の内容の充実とか、共同体の結束の真性とかの入る余地はない。民主主義とは、抽象的な個人と個人の形式的な繋がりである。民主主義を「具体的内容」で満たそうとするすべての企ては、その動機がどんなに真摯なものであろうとも、遅かれ早かれ全体主義の誘惑に屈する。(ジジェク『斜めから見る』P304~)


民主主義は普通選挙制度にもっとも典型的に表われるパラドクスを原理的にはらんでいる。この制度においては、市民が自分の意志を表明することによっ て自らを政治的主体として実現するまさにその瞬間に、彼らは社会生活のネットワークのすべてから分離され、計算単位に還元されてしまう。数字が実体にとっ てかわる。民主主義はこのように、いわばデジタルな計算によって根拠づけられているのである。個人的意志を表明する選挙という機会が諸個人を数に還元し、 つまり、個人の単独性がその単独性を表現する行為によって消去されるというこのパラドクスを通じて、民主主義は主体を常にヒステリー状態に追いやる、と ジョーン・コプチェクは言う。そして、これはアメリカ的民主主義において特に顕著になるヒステリーである。

自らの〈根源的無垢〉というアメリカの感覚は、そのもっとも深い起源を、市民たちの 多様性にはかかわりなく、基本的な人間性が存在するという信念にもっている。民主主義は、〈メルティング・ポット〉、〈移民国家〉としてのアメリカが、自 らを国家として成立させるための普遍的数量詞なのである。すべての市民がアメリカ人と呼ばれうるとすれば、それは、何か実体的な特質をわれわれが共有しているからではなく、むしろ逆に、われわれすべてがこうした特質を脱ぎ捨て、肉体から分離された存在として法の前で自己を表出する権利を与えられたからである。我、自己自身から実体的アイデンティティを剥ぐ、故に、我市民である、ということだ。
私〉の単独性とは、私が包含されるあれこれのカテゴリーの属性ではない、私という主体固有の核である。主体が何らかの属性を表わす記号(白人、黒人、男 性、女性……)において主人に認知されるとき、差異は示差的な体系における相対的なものになり、〈他ならない私〉の単独性は失われてしまう。なぜなら、私 の単独性とは、あれこれの属性の総和ではなく、どんな属性にも還元されない残余にほかならないからだ。すべての実体的属性を剥ぎ取られることによりアメリカ人として登録された主体は、しかし、その普遍性においてではなく、ひとり一人の単独性において〈主人〉に認知されたいと望む。そのような単独性とは、属性として記述しえず記号化しえない、表象不可能で空虚な剰余であるから、この要求は到底実現不可能だ。だからこそ、アメリカ人はそのとき、ヒステリー的な態度によって主人を選出するのだとコプチェクは言う。必然的に妨げられる欲望は、妨害そのものへの欲望に転化する。満たされない欲望は、決して満たされる ことのない状態への欲望に転倒される。つまりそこでは、誤りを犯すことがわかっているような無能な人物があえて主人に選ばれることになるのである。コプ チェクはそれを、「アメリカ民主主義を特徴づける多元主義は、〈不能な他者〉への忠誠に基礎が置かれている」と表現する。大文字の〈他者〉が主体の単独性を認知しそこなうからこそ、この単独性は傷つけられることなく保たれる。というよりもむしろ、〈他者〉によるこの認知の失敗として、主体の単独性が 形成される。アメリカの民主主義において、身体なきこの政治体の権力の場を占める主人=代理人としての大統領は、このように無能であるがゆえに愛される存在になりうる。コプチェクがここで念頭に置いているロナルド・レーガンはまさにそんな無能であるからこそ愛された〈王〉にほかならなかった。

…………

自由な、ないし民主的な統治の組織は、君主政治のそれよりも複雑であり学問的であり、より勤勉ではあるがより電光石火的ではない実践を伴っており、したがってそれはより大衆的ではないのである。ほとんど常に自由の統治の諸形態は、それよりも君主制的な絶対主義を好む大衆によって貴族政治と見なされてきた。ここから進歩的な人間が陥っており、これからも長い間陥るであろう一種の循環作用が生じる。もちろん共和主義者たちがさまざまな自由と保証とを要求しているのは、大衆の運命の改善のためである。したがって、彼らが支持を求めなければならないのは大衆に対してであるが、民主的諸形態への不信ないし無關心によって、自由の障害となるのも民衆なのである。(プルードン『連合の原理』)
国家の最高官吏たちのほうが、国家のもろもろの機構や要求の本性に関していっそう深くて包括的な洞察を必然的に具えているとともに、この職務についてのいっそうすぐれた技能と習慣を必然的に具えており、議会があっても絶えず最善のことをなすに違いないけれども、議会なしでも最善のことをなすことができる。(ヘーゲル『法権利の哲学』)

どの国でも、官僚たちは議会を公然とあるいは暗黙に敵視している。彼らにとっては、自分たちが私的利害をこえて考えたと信ずる最善の策を議会によってねじ曲げられることは耐え難いからである。官僚が望むのは、彼らの案を実行してくれる強力且つ長期的な指導者である。また、政治家のみならず官僚をも批判するオピニオン・リーダーたちは、自分たちのいうことが真理であるのに、いつも官僚や議会といった「衆愚」によって邪魔されていると考えている。だが、「真理」は得体の知れない均衡によって実現されるというのが自由主義なのだ。(柄谷行人『終焉をめぐって』)

…………

国家の状態を研究する場合には、人はややもすると、諸関係の客観的本性を見のがして、すべてを行為する諸個人の意思から説明しようとする。だが、民間人の行為や個々の官庁の行為を規定し、あたかも呼吸の仕方のようにそれらの行為から独立している緒関係というものが存在する。最初からこの客観的立場にたつならば、善意もしくは悪意を一方の面でも他方の面でも例外として前提とすることなく、一見して諸個人だけが作用しているように見えるところに(客観的)緒関係が作用しているのが見られるだろう。ある事物が緒関係によって必然的に生じるということが証明されれば、どういう外的諸事情のもとでそれが現実に生まれざるをえなかったか、またその必要性がすでに存在していたのにどういうわけで生まれることができなかったかを発見することは、もはや困難なことではなくなるだろう。使用された物質がどういう外的事情のもとで化合するものかということを化学者が決定するのとほとんど同じ確実さをもって、人はこのことを決定することができるだろう。(マルクス「モーゼル通信員の弁護」崎山耕作訳)
……マルクスが、ブルジョア独裁をむしろ「普通選挙」において見ていることに注意すべきである。『ブリュメール一八日』の背景に、それがあったことはいうまでもない。では、普通選挙を特徴づけるものは何か。それはたんに、あらゆる階級の人々が選挙に参与するということにだけあるのではない。それと同時に、諸個人があらゆる階級・生産関係から「原理的に」切り離されるということにある。議会は封建制や絶対主義王権製においても存在した。しかし、こうした身分制議会においては「代表するもの」と「代表されるもの」が必然的につながっている。真に代表議会制が成立するのは、普通選挙によってであり、さらに、無記名投票を採用した時点からである。秘密投票は、ひとが誰に投票したかを隠すことによって、人々を自由にする。しかし、同時に、それは誰かに投票したという証拠を消してしまう。そのとき、「代表するもの」と「代表されるもの」は根本的に切断され、恣意的な関係になる。したがって、秘密投票で選ばれた「代表するもの」は「代表されるもの」から拘束されない。いいかえれば、「代表するもの」は実際にそうではないのに、万人を代表するかのように振舞うことができるし、またそうするのである。

「ブルジョア独裁」とは、ブルジョア階級が議会を通して支配するということではない。それは「階級」や「支配」の中にある個人を、「自由な」諸個人に還元することによって、それの階級関係や支配関係を消してしまうことだ。このような装置そのものが「ブルジョア独裁」なのである。議会選挙において、諸個人の自由はある。しかし、それは現実の生産関係における階級関係が捨象されたところに成立するものである。実際、選挙の場を離れると、資本制企業の中に「民主主義」などありえない。つまり、経営者が社員の秘密選挙で選ばれるというようなことはない。また、国家の官僚が人々によって選挙されるということはない。人々が自由なのは、たんに政治的選挙において「代表するもの」を選ぶことだけである。そして、実際は、普通選挙とは、国家機構(軍・官僚)がすでに決定していることに「公共的合意」を与えるための手の込んだ儀式でしかない。(柄谷行人『トランスクリティーク』p230-231)

※蛇足ながら、マルクスにおいて、「ブルジョア独裁」はもちろん「プロレタリア独裁」に対して否定的に語られている。


…………

◆附記:小林秀雄「ヒットラーと悪魔」『考えるヒント』所収より。


【人生の根本は獣性】
彼の人生観を要約することは要らない。要約不可能なほど簡単なのが、その特色だからだ。人性の根本は獣性にあり、人生の根本は闘争にある。これは議論ではない。事実である。それだけだ。簡単だからといって軽視できない。現代の教養人達も亦事実だけを重んじているのだ。独裁制について神経過敏になっている彼等に、ヒットラーに対抗出来るような確乎とした人生観があるかどうか、獣性とは全く何の関係もない精神性が厳として実存するという哲学があるかどうかは甚だ疑わしいからである。ヒットラーが、その高等戦術で、利用し成功したのも、まさに政治的教養人達の、この種の疑わしい性質であった。バロックの分析によれば、国家の復興を願う国民的運動により、ヒットラーが政権を握ったというのは、伝説に過ぎない。無論、大衆の煽動に、彼に抜かりがあったわけがなかったが、一番大事な鍵は、彼の政敵達、精神的な看板をかかげてはいるが、ぶつかってみれば、忽ち獣性を現わした彼の政敵達との闇取引にあったのである。

【狂的なものと合理的なもの】
人間にとって、獣の争いだけが普遍的なものなら、人間の独自性とは、仮説上、勝つ手段以外のものではあり得ない。ヒットラーは、この誤りのない算術を、狂的に押し通した。一見妙に思われるかも知れないが、狂的なものと合理的なものとが道連れになるのは、極く普通な事なのである。精神病学者は、その事をよく知っている。ヒットラーの独自性は、大衆に対する徹底した侮蔑と大衆を狙うプロパガンダの力に対する全幅の信頼とに現れた。と言うより寧ろ、その確信を決して隠そうとはしなかあったところに現れたと言った方がよかろう。

【大衆の無意識界】
間違ってばかりいる大衆の小さな意識的な判断などは、彼には問題ではなかった。大衆の広大な無意識界を捕えて、これを動かすのが問題であった。人間は侮蔑されたら怒るものだ、などと考えているのは浅墓な心理学に過ぎぬ。その点、個人の心理も群集の心理も変わりはしない。本当を言えば、大衆は侮蔑されたがっている。支配されたがっている。獣物達にとって、他に勝とうとする邪念ほど強いものはない。それなら、勝つ見込みがない者が、勝つ見込みのある者に、どうして屈従し味方しない筈があるか。大衆は理論を好まぬ。自由はもっと嫌いだ。何も彼も君自身の自由な判断、自由な選択にまかすと言われれば、そんな厄介な重荷に誰が堪えられよう。ヒットラーは、この根本問題で、ドストエフスキーが「カラマーゾフの兄弟」で描いた、あの有名な「大審問官」という悪魔と全く見解を同じくする。言葉まで同じなのである。同じように孤独で、合理的で、狂信的で、不屈不撓であった。

【とてもつく勇気のないような大嘘】
大衆はみんな嘘つきだ。が、小さな嘘しかつけないから、お互いに小さな嘘には警戒心が強いだけだ。大きな嘘となれば、これは別問題だ。彼等には恥ずかしくて、とてもつく勇気のないような大嘘を、彼らが真に受けるのは、極く自然な道理である。たとえ嘘だとばれたとしても、それは人々の心に必ず強い印象を残す。うそだったということよりも、この残された強い痕跡の方が余程大事である、と。

【大衆の目を、特定の敵に集中させること】あるいは【論戦の戦術】
大衆が、信じられぬほどの健忘症であることも忘れてはならない。プロパガンダというものは、何度も何度も繰り返さねばならぬ。それも、紋切型の文句で、耳にたこが出来るほど言わねばならぬ。但し、大衆の目を、特定の敵に集中させて置いての上でだ。

これには忍耐が要るが、大衆は、彼が忍耐しているとは受け取らぬ。そこに敵に対して一歩も譲らぬ不屈の精神を読みとってくれる。紋切型を嫌い、新奇を追うのは、知識階級のロマンチックな趣味を出ない。彼らは論戦を好むが、戦術を知らない。論戦に勝つには、一方的な主張の正しさばかりを論じ通す事だ。これは鉄則である。押しまくられた連中は、必ず自分等の論理は薄弱ではなかったか、と思いたがるものだ。討論に、唯一の理性などという無用なものを持ち出してみよう。討論には果てしがない事が直ぐわかるだろう。だから、人々は、合議し、会議し、投票し、多数決という人間の意志を欠いた反故を得ているのだ。

【教養の見せかけ】
ヒットラーは、一切の教養に信を置かなかった。一切の教養は見せかけであり、それはさまざまな真理を語るような振りをしているが、実はさまざまな自負と欲念を語っているに過ぎないと確信していた。

【悪魔と天使】
悪魔が信じられないような人に、どうして天使を信ずる力があろう。諸君の怠惰な知性は、幾百万の人骨の山を見せられた後でも、「マイン・カンプ」に怪しげな逆説を読んでいる。

…………

浅田彰氏講演録「知とは何か・学ぶとは何か(2001年4月28日 東京大学駒場

……50~60年代の近代的な常識を叩き込むのはフランス革命に遡る思想。コンドルセらが、民主主義で全員が投票するのなら、全員の知識をかさ上げしなければ間違った判断が出されかねないから、民主制を衆愚政治から守るために最低限のパブリックな振る舞いを含めた最低限の知識を共有することが大事だと言っていて、日本も特に戦後、それを強調。ところがそれは押し付けられた西洋的理念であり建前だと相対化され、70~80年代になると教える側も自信をなくす。正しい近代の常識を身につけることが戦後の民主的な社会を合理的に作る基礎だとして、かつて教える側は過剰に自信を持っていた。だが今度は過剰に自信を喪失して、これは建前だけれども効率的に覚えて受験戦争を勝ち抜くために必要だという感じになった。そこで妙なことが起こった。68年までは自信を持った権威があって、それに対して学生が異議申し立てする図式があったが、今度は権威が空洞化し、相手に擦り寄った。性急な近代へのシニシズムが起こり、最低限の近代の良識が失われたのが80年代から90年代にかけて。
状況は絶望的だがここまでくれば怖いものはないというか、絶望的楽観主義という点において前進するしかないというのが今の状況。シニカルに構えるのがかっこよかった時代は終わっている。かっこ悪くても個々のローカルな場所で手探りしながら実践していく時期にきている。そういう実践がネットワークを作っていくと大変いいのではないか。




2013年7月3日水曜日

無能な主人

第一次安倍政権発足のおり、中井久夫は次のように書いている。

「小泉時代が終わって安倍が首相になったね。何がどう変るのかな」
「首相が若くて貴公子然としていて未知数で名門の出で、父親が有名な政治家でありながら志を得ないで早世している点では近衛文麿を思わせるかな。しかし、近衛のように、性格は弱いのにタカ派を気取り、大言壮語して日本を深みに引きずり込むようなことはないと信じたい。総じて新任の首相に対する批判をしばらく控えるのは礼儀である」
「しかし、首相はともかく、今の日本はいやに傲慢になったね。対外的にも対内的にもだ」
「たとえば格差是認か。大企業の前会長や首相までが、それを言っているのは可愛くない。“ごくろうさま”ぐらい言え。派遣社員もだけど、正社員も過密労働と低収入で大変だ。……」(中井久夫「安部政権発足に思う」『日時計の影』所収)

さて二度目の安部政権がしばらく経った今、「性格は弱いのにタカ派を気取り、大言壮語して日本を深みに引きずり込むようなことはない」と信じてよいのだろうか。


日本は国の指導者を直接選挙で選ぶわけではないから、たとえば米国と同じようなことはいえないが、ジジェクの朋友コプチェクは、《アメリカ人ヒステリー的な態度によって主人を選出すると言う。必然的に妨げられる欲望は、妨害そのものへの欲望に転化する。満たされない欲望は、決して満たされる ことのない状態への欲望に転倒される。つまりそこでは、誤りを犯すことがわかっているような無能な人物があえて主人に選ばれることになる》と。(暗号的民主主義──ジェファソンの遺産 | 田中純

そこにおいてアメリカ市民の忠誠はもはや主人が送り返す答のなかに向けられてはおらず、この大文字の〈他者〉そのものの存在に託されている。とすれば、この〈他者〉はアメリカ民主主義の主体にとってひとつのフェティッシュと化しているのではないだろうか。ここで露わになっているものもまた、フェティシズム特有の〈知〉と〈信念〉の矛盾ではないか。選出された主人が無能であることを、アメリカ人誰もが知っている。しかし、にもかかわらず、無意識においてはこの主人の万能が信じられているのである。「〈他者〉が無能であることは知っている、それでもやはり……(〈他者〉は万能だと信じている)」。(同上)

このようなメカニズムが起こっているなどということはないだろうね、日本でも?


ここでジジェクの「象徴的同一化」をめぐる文を並べてみよう。

想像的同一化とは、われわれが自分たちにとって好ましいように見えるイメージへの、つまり「われわれがこうなりたいと思う」ようなイメージへの、同一化である。

象徴的同一化とは、そこからわれわれが見られているまさにその場所への同一化、そこから自分を見るとわれわれが自分にとって好ましく、愛するに値するように見えるような場所への、同一化である。(ジジェク『イデオロギーの崇高な対象』)

ジジェクの説明では、「想像的同一化」が「理想自我」に、「象徴的同一化」が「自我理想」にかかわるということになる。

フロイトの『集団心理学と自我の分析』からひいてみる(「同一視」は「同一化」として読もう)。
同一視の場合は、対象は失われているか、放棄されてしまっている。そのとき対象は自我の中で再建され、自我は失われた対象の手本にしたがって、部分的に変化する。ほれこみの場合には、対象は保たれており、そのまま自我によって、自我を犠牲にして過大評価(過剰備給)される。しかしこれについても疑念がある。同一視が対象備給の放棄を前提とするのは、いったい確実なことなのだろうか、保持された対象にたいする同一視はありえないのだろうか、この微妙な問題の論議に入る前に、われわれには、すでに次のような洞察がほのぼのと開けてくる。つまり、他の二者択一、すなわち、対象は自我のかわりになるのか、それとも自我理想のかわりになるのか、という問題がこの事態の本質をふくんでいるという洞察である。(「フロイト著作集 6」P229


このあと、指導者の選択をめぐって、次の図が示され、《一次的な集団とは、同一の対象を自我理想とし、その結果おたがいの自我で同一視し合う個人の集りである。》とされる。




この集団とは、象徴的同一化で「指導者」を選択し、その結果、想像的同一化しあう個人の集まり、ということになる。


指導者への象徴的同一化、すなわち、《そこからわれわれが見られているまさにその場所への同一化、そこから自分を見るとわれわれが自分にとって好ましく、愛するに値するように見えるような場所への、同一化》。

われわれが何らかの疚しい感情をもっているとする、だが、ある種の「指導者」に象徴的同一化することによって、そこから自分を見ると自らが好ましく愛するに値する存在にみえる首長があり、彼はわれわれの疚しい心を慰安してくれる(都道府県の長であるなら、直接選挙であるのだから、端的にこのようなことが起こっているのではないか、ーー思いがけない人物が指導者として君臨する機微のひとつだろう)。



さてさて……。



2011年2月8日火曜日

資料:ラカンの男性の論理と女性の論理/カントの力学的アンチノミーと数学的アンチノミー)

以下、まず、ラカンの「性別化の図」をめぐって、ポスト郵便都市(ポスト・シティ)──手紙の来歴、手紙の行方 | 田中純からの抜粋。

【デリダの否定神学批判】
ラカンの「『盗まれた手紙』のセミネール」を締めくくる「手紙はつねにその宛先に届く」という言葉に対しては、「手紙[文字]は必ずしもつねに 先に届くわけではない。そしてそれが手紙[文字]の構造に属している以上、それが真に宛先に届くことは決してなく、届くときも、〈届かないこともありう る〉というその性質が、それを一個の内的な漂流で悩ませている」というジャック・デリダの批判がある。その批判は〈盗まれた手紙〉というファルス的 シニフィアン、〈現実的なもの〉という象徴秩序の〈穴〉をふさぐシニフィアンを、ラカンが分割不可能なものと見なしている点に向けられている。対象aはさ まざまな現われ方をするにせよ、手紙が分割不能であるならば、それが立ち現われる場である〈現実的なもの〉自体は一つと見なされてしまうことになろう。東浩紀 述べるように、「郵便制度全体を見渡し、そのシステムの必然的な不完全性から、〈配達がうまく行かない手紙が少なくとも一つはある(=真偽が決定できない 命題が少なくとも一つはある)〉という命題を導き出すゲーデル=ラカン的論理」は確かに否定神学的なものに見える。

【男性の論理=力学的アンチノミー】
「少なくとも一つの例外がある」という命題によって、全体という普遍性を成立させるこの論理は、カントの力学的アンチノミーの形式にほかならないが、それ をラカン自身は一九七二七三年のセミネール『アンコール』で、男性的な形式として示している。性差はそこにおいて、主体を実定的に記述す るものではなく、分割された主体のその分割の二つの様式として、つまり、言語および理性がアンチノミーという形で躓く、その失敗の様式の差異として把握さ れる。こうした意味で、カントがアンチノミーの二つのタイプ(力学的アンチノミーと数学的アンチノミー)の差異を明らかにしたとき、「性差がはじめて哲学 的言説のなかに書き込まれた」と述べることができるのだ。 
その名も「ラブ・レター(Une lettre d'âour)」と題されたラカンのセミネールで示されたこの性別化の定式においては、男性の側がx Φx, x Φxと表記される。Φは無制限でとりとめのない享楽をファルスに結びつける機能=関数、ファルス関数を示す。ファルス関数は象徴的去勢と相関的である。こ の定式はそれぞれ、〈ファルス関数に従わないxが少なくとも一つ存在する〉、および〈すべてのxはファルス関数のもとに包摂される〉と読まれる。この〈男 性的〉アンチノミーは、力学的アンチノミー同様、〈例外〉を通じて構成される普遍性のパラドクスを示している。カントの定言的命法の背後で働いているもの はこの〈例外〉の論理であり、例外を創出する禁止ゆえに、超自我にはファルス関数を逃れる猥雑な剰余享楽が蓄えられることになる。



※引用文の表記が正確になされていないので、アンコールの図式を下記に示す。
左側が、男性の論理、右側が女性の論理。くわしくは資料:ラカン「性的(無)関係の(非)論理」。最もわかりやすいのは、向井雅明氏の ヒステリーの、ヒステリーのための、ヒステリーによる精神分析 の中の「男性の論理」「女性の論理」の説明箇所かもしれない。(これも上手くコピーできないので、ここでは割愛)。






【女性の論理=数学的アンチノミー】
これに対し女性の側はx Φx, x Φxと書かれ、それぞれ〈ファルス関数に従わないxは存在しない〉、および〈すべてのxがファルス関数に包摂されるわけではない〉と読まれる。コプチェク によれば、ここで示されているラカンのいわゆる〈非全体(すべてではない pas-tout)〉のパラドクスは、カントの数学的アンチノミーに対応している。数学的アンチノミーとは、「世界は時間的な始まりと空間的な限界を有す る」というテーゼと「世界は時間的にも空間的にも無限である」というアンチテーゼからなる純粋理性の第一アンチノミーのように、その両者が前提としている 〈すべて〉としての世界の存在が否定されるために、テーゼ、アンチテーゼの双方が偽とされるものである。それは帰結として、われわれの直観に与えられる対 象で現象の領域に属さないものは存在しないにもかかわらず、この領域が決して〈すべて〉ではなく、完結していないという事態を示すことになる。このような 意味で、〈女性においてすべてがファルス関数に包摂されるわけではない〉という命題は、〈女性は非全体である〉という無限判断として理解されなければなら ない。一方、〈女性においてファルス関数に従わないものは何もない〉のであるとすれば、例外は存在しない。しかし、まさに例外が存在しえないからこそ、そ こには限界がありえず、女性の〈全体〉について判断を下すことは不可能になる。いずれにしても、ここでは〈すべて〉の存在が否定される。男性的アンチノ ミーが〈例外〉を伴う〈不完全性〉の障害であるのに対して、女性的アンチノミーは境界を欠いた〈非全体〉の表層における〈矛盾(非一貫性)〉の障害なので ある。


【女性の論理は否定神学的ではない】
郵便制度には二つの異なる障害がありうる。ラブ・レターは二つの理由によって届かない。「性的関係は、二つの理由により失敗に終わる。二つの理由とは、そ れが不可能であるということ[女性の宇宙]と、それが禁止されているということ[男性の宇宙]である。この二つの失敗が合体したところで、決して全体を作 るにはいたらない」。少なくとも一つの不可能性(手紙の紛失=外傷的去勢)から、不完全なシステム〈全体〉(郵便制度全体=全体としての象徴秩序) を想定する論理が男性的=力学的アンチノミーのものであるとすれば、女性的=数学的アンチノミーの郵便空間においては、送り届けられない手紙は存在しない にもかかわらず、すべての手紙が届くわけではない。この後者の郵便事情は、東が次のように分析しているデリダのそれにむしろ近いのではないだろうか。「手 紙が行方不明になるのは、郵便制度が全体として不完全だからではない。より細部において一回一回のシニフィアンの送り返しの脆弱さが、手紙を行方不明にする。行方不明の手紙は、その可能性において無数にあることだろう。そして、その送り返しの脆弱さこそが、デリダが〈エクリチュール〉と呼んでいたものに他ならない」。


◆ここで、カントの力学的アンチノミーと数学的アンチノミーの概要。

【力学的アンチノミーと数学的アンチノミー】
四つのカテゴリー(量、質、関係、様相)のそれぞれのアンチノミーがある。

第一のアンチノミー・テーゼ・・・・・・・・世界は時間・空間的に有限である。・アンチテーゼ・・ 世界は時間・空間的に無限である。


第二のアンチノミー・テーゼ・・・・・・・・世界における合成された物は、それ以上分割できない単純なエレメントからなる。・アンチテーゼ・・ 世界には単純なエレメントは存在しない。 空間は無限に分割できる。


第三のアンチノミー・テーゼ・・・・・・・・世界には絶対的なはじめとしての自由がある。・アンチテーゼ・・ 世界における出来事はすべて自然必然の法則、すなわち自然因果の法則によって起こる。 自由は存在しない。


第四のアンチノミー・テーゼ・・・・・・・・世界の因果の鎖の中には絶対的必然的存在者がいる。・アンチテーゼ・・ 世界の因果の鎖の中には絶対的必然的存在者はいない。

最初の二つは数学的アンチノミーに分類され、また後半の二つは力学的アンチノミーに分類される。


これに関して、カントは次のように説明する。(参照:カント「純粋理性批判」#4-2 誤謬推論・二律背反・理想)

カントのは第一、第二の数学的アンチノミーは定立、反定立ともに誤りで、第三、第四の力学的アンチノミーにおいては定立、反定立ともに正しいとする。 数学的アンチノミーにおいては、たとえば、

テーゼ:すべての物体は良い匂いをもつアンチテーゼ。すべての物体は良い匂いをもたない

―――このテーゼ/アンチテーゼ以外に、第三の可能性、つまり「匂いをまったくもたない」がありうる。つまりはテーゼ/アンチテーゼとも、正しくない。

力学的アンチノミーにおいては、どうなのか。第三アンチノミーをすこし詳しくみてみよう。

テーゼ 「自然法則に従う原因性は、世界の現象がすべてそれから導かれうる唯一の原因性ではない。現象を説明するためには、そのほかになお自由による原因性をも想定する必要がある」。アンチテーゼ:「およそ自由というものは存在しない。世界における一切のものは自然法則によってのみ生起する」。


ここで、先ほどの田中純氏の論文から再度「引用」すれば、次のごとし。

これは〈数学的アンチノミー〉と呼ばれる第一、第二のアンチノミーに対して、第四のアンチノミーとともに〈力学的アンチノミー〉と呼ばれる。数学的アンチ ノミーがテーゼ、アンチテーゼの双方を偽とすることによって解決されたのに対し、力学的アンチノミーではこの両方が真とされて解決される。なぜなら、ここ で論じられている自由は、可能な経験の対象、つまり世界の一部としてはとらえられない、異なる存在論的系列である叡知的なものの次元に属しているからであ る。

カント的世界市民の〈世界〉を成立させているものは、因果連鎖を宙づりにしてしまう自由という叡知的行為、この例外の存在である。ここでは世界の現象の系 列に、その系列には含まれえないものが否定判断の形でつけ加えられており、アンチテーゼにおける「およそ自由というものは存在しない」という文は、そのよ うなものとして機能している。自由とは現象的な世界の内的な限界にほかならない。「この否定判断によって、自由を思い描くことの不可能性そのものが概念化 され、現象の系列は、開集合ではなくなり閉集合となる。なぜなら、このとき現象の系列は──否定の形式でではあるが──その系列から排除されているものを 含むことになるからである。つまりそれは一切のものを含むことになるのだ」(ジョーン・コプチェク)。〈すべて〉としての世界が措定されるのはこのように、そこから逃れる〈例外〉によってなのである。


 ※なお、カントは孫引きのため、十分な検証はされていないので、あしからず。



ここで、ジジェクが長年、強調しているラカンの「性理論」の一般的な誤解の指摘を引用しよう。

Woman is One of the Names-of-the-Father, or How Not to Misread Lacan's Formulas of Sexuation •..........lacanian ink 10 – 1995より。http://www.lacan.com/zizwoman.htm

第一の誤解】
The usual way of misreading Lacan's formulas of sexuation 1 is to reduce the difference of the masculine and the feminine side to the two formulas that define the masculine position, as if masculine is the universal phallic function and feminine the exception, the excess, the surplus that eludes the grasp of the phallic function. Such a reading completely misses Lacan's point, which is that this very position of the Woman as exception-say, in the guise of the Lady in courtly love-is a masculine fantasy par excellence. As the exemplary case of the exception constitutive of the phallic function, one usually mentions the fantasmatic, obscene figure of the primordial father-jouisseur who was not encumbered by any prohibition and was as such able fully to enjoy all women. Does, however, the figure of the Lady in courtly love not fully fit these determinations of the primordial father? Is she not also a capricious Master who wants it all, i.e., who, herself not bound by any Law, charges her knight-servant with arbitrary and outrageous ordeals?

In this precise sense, Woman is one of the names-of-the-father. The crucial details not to be missed here are the use of plural and the lack of capital letters: not Name-of-the-Father, but one of the names-of-the-father-one of the nominations of the excess called primordial father. 2 In the case of Woman-the mythical She, the Queen from Rider Haggard's novel of the same name for example-as well as in the case of the primordial father, we are dealing with an agency of power which is pre-symbolic, unbridled by the Law of castration; in both cases, the role of this fantasmatic agency is to fill out the vicious cycle of the symbolic order, the void of its origins: what the notion of Woman (or of the primordial father) provides is the mythical starting point of unbridled fullness whose "primordial repression" constitutes the symbolic order.



【第二の誤解】
A second misreading consists in rendering obtuse the sting of the formulas of sexuation by way of introducing a semantic distinction between the two meanings of the quantifier "all": according to this misreading, in the case of the universal function, "all" (or "not-all") refers to a singular subject (x), and signals whether "all of it" is caught in the phallic function; whereas the particular exception "there is one..." refers to the set of subjects and signals, whether within this set "there is one" who is (or is not) entirely exempted from the phallic function. The feminine side of the formulas of sexuation thus allegedly bears witness to a cut that splits each woman from within: no woman is entirely exempted from the phallic function, and for that very reason, no woman is entirely submitted to it, i.e., there is something in each woman that resists the phallic function. In a symmetric way, on the masculine side, the asserted universality refers to a singular subject (each male subject is entirely submitted to the phallic function) and the exemption to the set of male subjects ('there is one' who is entirely exempted from the phallic function). In short, since one man is entirely exempted from the phallic function, all others are wholly submitted to it, and since no woman is entirely exempted from the phallic function, none of them is also wholly submitted to it. In the one case, the splitting is externalized: it stands for the line of separation that, within the set of "all men", distinguishes those who are caught in the phallic function from the 'one' who is exempted from it; in the other case, it is internalized: every singular woman is split from within, part of her is submitted to the phallic function and part of her exempted from it.

However, if we are to assume fully the true paradox of Lacan's formulas of sexuation, one has to read them far more literally: woman undermines the universality of the phallic function by the very fact that there is no exception in her, nothing that resists it. In other words, the paradox of the phallic function resides in a kind of short-circuit between the function and its meta-function: the phallic function coincides with its own self-limitation, with the setting up of a non-phallic exception. Such a reading is prefigured by the somewhat enigmatic mathemes that Lacan wrote under the formulas of sexuation and where woman (designated by the crossed-out la) is split between the capitalized Φ (of the phallus) and S(A), the signifier of the crossed-out Other that stands for the nonexistence/inconsistency of the Other, of the symbolic order. What one should not fail to notice here is the deep affinity between the Φ and S(A), the signifier of the lack in the Other, i.e., the crucial fact that the Phi, the signifier of the phallic power, phallus in its fascinating presence, merely gives body to the impotence/inconsistency of the Other.

これらから、「女性の論理」という観点からは、ラカン理論は「否定神学」的ではない、ということが読み取れるように思われる。


→ 参考:「否定判断」と「無限判断」--カントとラカン(ジジェク『LESS THAN NOTHING』より)