そもそもオレはなぜ日本のネオナチの醜悪さ・猥雑さに
こんなに不快と苛立ちをこんなに覚えるんだろ?
完全無視してすずしい顔の手合いも多いよな
あるいは嘆かわしく恐ろしい事態として憂う連中
すなわち本気で憂慮するわけではなく、
いつでも身を引くことができる身構えしてるヤツラだな
オレの苛立ちはそうじゃなさそうなんだな
どうだい? フロイトせんせ
…他人に対する一連の非難は、同様な内容をもった、一連の自己非難の存在を予想させるのである。個々の非難を、それを語った当人に戻してみることこそ、必要なのである。自己非難から自分を守るために、他人に対して同じ非難をあびせるこのやり方は、何かこばみがたい自動的なものがある。(フロイト『あるヒステリー患者の分析の断片』(症例ドラ))
オレもナチの資質をもってるのかいな
あいつらにオレの「否認された」内面のどろどろした部分をみせつけられるってわけかな
オマエな、追い討ちかけんなよ
自己を語る一つの遠まわしの方法であるかのように、人が語るのはつねにそうした他人の欠点で、それは罪がゆるされるよろこびに告白するよろこびを加えるものなのだ。それにまた、われわれの性格を示す特徴につねに注意を向けているわれわれは、ほかの何にも増して、その点の注意を他人の中に向けるように思われる。(プルースト『花咲く乙女たちのかげに』井上究一郎訳)
まあいいさ、オマエらふたり完全無視するぜ
ーーというわけにもいかないのか
ネオナチという悪役にじつは魅了されてるだって?
で幻想にたいして最小限の距離をとる?
ーーそんな厄介にも穿ったこというなよ、ジジェクさんよ
まあここではレベルを落としてちょっと疑ってみるだけにするよ
反ファシズムを声高に言い募る「正義」のひとたちは
たとえば実は「権力欲」の強いヤツではないかと
もちろんこれだけではない
次のような「トラウマ」の経験者という側面もあるさ
それに戦争トラウマがなかったら、戦争のにおいを嗅ぎつける嗅覚も弱いに決まってるさ
たとえばヘイトスピーチの「ファシスト」猖獗に
孟子の「惻隠〔みてしのびざる〕の情」なんてことは言わないでおくよ
「理念」で対抗とかな
むしろ《同情は同一化から生まれる》(フロイト『集団心理学と自我の分析』)だな
想いだしておくのは。
同情するから同一化して心配するのではない
同一化が先にあるというヤツだ
ーーというわけにもいかないのか
ここでふたたび、反ユダヤ主義、反ユダヤ人妄想を思い返してみよう、この幻想(ファンタジー)の根源的な間主観的な性質の例として。ユダヤの陰謀という社会的幻想は、“社会は私から何を欲しているのか?”という問いにたいして返答を与える試みなのである。それは私が余儀なく参加させられる後ろ暗い出来事の意味を明るみに出す。この意味で、“投射”の標準的な理論、すなわち反ユダヤ主義者は、ユダヤ人の姿に自らの否認された部分を“投射する”という考え方では不充分である。“概念としてのユダヤ人”の姿は、反ユダヤ主義者の“内面的な葛藤”の外面化に帰すことはできない。逆に、それは次の事実(あるいはこの事実をなんとか処理しようとする)証拠である。すなわち主体はもともと非中心化されており、その意味と論理がコントロールを逃れてしまう不明瞭なネットワークの部分であるという事実である。
この理由で、幻想の横断traversée du fantasmeの問い(ひとびとの享楽を組織する幻想的な枠組みから最小限の距離をとるにはどうしたらいいのか? その効力を宙吊りにするにはどうしたらいいのか?)は精神分析的な治療とその終結にとって決定的なことだけではなく、われわれのこの時代、レイシストの高揚が再活性化された、あるいは世界的な反ユダヤ主義のこの時代において、おそらくまた最前線の政治的な問いでもある。伝統的な啓蒙主義的態度の不能ぶりは、反レイシスト運動の連中がもっともよい例になる。彼らは理性的な議論のレベルでは、レイシストの〈他者〉を拒絶する一連の説得力のある理由を掲げる。しかし、それにもかかわらず、彼らは自らの批判の対象に明らかに魅せられている。結果として、彼らのすべての防衛は、現実の危機が発生した瞬間(たとえば、祖国が危機に瀕したとき)、崩壊してしまう。それはまるで古典的なハリウッド映画のようであり、そこでは、悪党は、――“公式的には”、最終的に非難されるにしろ、――それにもかかわらず、われわれの(享楽の)リビドーが注ぎ込まれる(ヒッチコックは強調したではないか、映画とは、ただひたすら悪人によって魅惑的になる、と)。
最も重要な課題は、敵を弾劾し打ち負かすことではない。その仕事は容易に、敵のわれわれを把持を強めてしまう結果に終わる。肝要なのは、われわれを魅了させる(幻想的な)呪縛をどうやって中断させるかということだ。幻想の横断traversée du fantasmeのポイントは、享楽から免れることではない(旧式の左翼の清教徒気質モードのような)。むしろ、幻想にたいして最小限の距離をとるということは、いわば、幻想的な枠組みから享楽を“鉤から外し取る”ということであり、かつまた享楽は、非決定的な、分割的ない残余であることに気づくことである。すなわちそれは、歴史的な慣性の支持をする固有に“反動的”なものでもなく、かつまた既存の秩序の束縛を掘り崩す解放的な勢力でもないのだ。(ジジェク『LESS THAN NOTHING』私テキトウ訳)
ネオナチという悪役にじつは魅了されてるだって?
で幻想にたいして最小限の距離をとる?
ーーそんな厄介にも穿ったこというなよ、ジジェクさんよ
まあここではレベルを落としてちょっと疑ってみるだけにするよ
反ファシズムを声高に言い募る「正義」のひとたちは
たとえば実は「権力欲」の強いヤツではないかと
われわれは、権力志向という「人間性」が変わることを前提とすべきでなく、また、個々人の諸能力の差異や多様性が無くなることを想定すべきではない。(柄谷行人『トランスクリティーク』)
差別は純粋に権力欲の問題である。より下位のものがいることを確認するのは自らが支配の梯子を登るよりも楽であり容易であり、また競争とちがって結果が裏目に出ることがない。差別された者、抑圧されている者が差別者になる機微の一つでもある。(……)
些細な特徴や癖からはじまって、いわれのない穢れや美醜や何ということはない行動や一寸した癖が問題になる。これは周囲の差別意識に訴える力がある。何の意味であっても「自分より下」の者がいることはリーダーになりたくてなれない人間の権力への飢餓感を多少軽くする。(中井久夫「いじめの政治学」)
もちろんこれだけではない
次のような「トラウマ」の経験者という側面もあるさ
……心的外傷には別の面もある。殺人者の自首はしばしば、被害者の出てくる悪夢というPTSD症状に耐えかねて起こる(これを治療するべきかという倫理的問題がある)。 ある種の心的外傷は「良心」あるいは「超自我」に通じる地下通路を持つのであるまいか。阪神・淡路大震災の被害者への共感は、過去の震災、戦災の経験者に著しく、トラウマは「共感」「同情」の成長の原点となる面をも持つということができまいか。心に傷のない人間があろうか(「季節よ、城よ、無傷な心がどこにあろう」――ランボー「地獄の一季節」)。心の傷は、人間的な心の持ち主の証でもある(「トラウマとその治療経験――外傷性障害私見」『徴候・記憶・外傷』所収P93)
それに戦争トラウマがなかったら、戦争のにおいを嗅ぎつける嗅覚も弱いに決まってるさ
戦争を知る者が引退するか世を去った時に次の戦争が始まる例が少なくない。(中井久夫「戦争と平和についての観察」ーー「政治からは顔をそむけるふりをしながら彼らが演じてしまう悪質の政治的役割」)
たとえばヘイトスピーチの「ファシスト」猖獗に
孟子の「惻隠〔みてしのびざる〕の情」なんてことは言わないでおくよ
「理念」で対抗とかな
むしろ《同情は同一化から生まれる》(フロイト『集団心理学と自我の分析』)だな
想いだしておくのは。
同情するから同一化して心配するのではない
同一化が先にあるというヤツだ
ところで、だいたいネオナチなんてヨーロッパで席巻してんだから
それに苛立つことすくなく日本のネオナチに頭に血がのぼるってのは
「愛国者」なんだろうか
だったら「愛国保守議」員と同じ穴の狢じゃねえか、はあ?
西田昌司議員、稲田朋美議員、高市早苗議員さんたちとさ
それとも日本独自のネオナチが不快なんだろか
いつのまにかそうなる「会社主義」ってヤツだな
ヒットラーが羨望したといわれる日本のファシズムは、いわば国家でも社会でもないcorporatismであって、それは今日では「会社主義」と呼ばれている。(柄谷行人「フーコーと日本」)
「母性的な共感の共同体」ってヤツだな
公的というより私的、言語的(シンボリック)というより前言語的(イマジナリー)、父権的というより母性的なレヴェルで構成される共感の共同体。......それ はむしろ、われわれを柔らかく、しかし抗しがたい力で束縛する不可視の牢獄と化している。それがハードな国家幻想に収束していく可能性はたしかに小さくなったかもしれないとしても、だからといってソフトな閉塞に陥らない という保証はどこにもないのである。(浅田彰「むずかしい批評」(『すばる』1988 年 7 月号ーー「おみこしの熱狂と無責任」気質(中井久夫)、あるいは「ヤンキー」をめぐるメモ)
これだってオレにはまったく馴染めなかった会社主義や共感の共同体
それに見事に馴染み切って人生泳いでいる手合いへの羨望ってわけかな
ラカンは、ニーチェやフロイトと同じく、平等としての正義は羨望にもとづいていると考えている。われわれがもっていない物をもち、それを楽しんでいる人びとに対する羨望である。正義への要求は、究極的には、過剰に楽しんでいる人を抑制し、誰もが平等に楽しめるようにしろという要求である。(ジジェク『ラカンはこう読め!』)
排外主義にしろ戦争準備政権にしろ、つまりは「我われの問題」としてはとらえていない、ということだ。自分たちとは関係ない別世界のお話し。リアリティへの眼差し以前の、無関心と無知と無自覚。
でも、それも仕方ないことだとも思う。例えば、アベノミクスで経済の上向き期待感を与えてくれるならば、起きるかどうか不確かな戦争への傾斜の怖れなんかに気をとめるだろうか。この政策なら明日の給料がすこしでも上がって、すこしでも生活が楽になるかもしれないと思わせてくれるなら、安倍政権の欺瞞と虚偽に目が向くだろうか。
みんなみんな自分の食べることで精一杯。余裕なんてありゃしない。無関心と無知と無自覚なんて言われたら腹が立つ。だってみんな精一杯生きてるんだから。甘く見てはならないとか高をくくってはならないとか、「日常」をねつ造するメディアに流されないようになんて言われても、財布の中身のほうが大切に決ってる。(「甘く見てはならないとか高をくくってはならないとかなんて言われても」)
器質的な痛苦や不快に苦しめられている者が外界の事物に対して、それらが自分の苦痛と無関係なものであるかぎりは関心を失うというのは周知の事実であるし、また自明のことであるように思われる。これをさらに詳しく観察してみると、病気に苦しめられているかぎりは、彼はリピドー的関心を自分の愛の対象から引きあげ、愛することをやめているのがわかる。(……)W・ブッシュは歯痛に悩む詩人のことを、「もっぱら奥歯の小さな洞のなかに逗留している」と述べている。リビドーと自我への関心とがこの場合は同じ運命をもち、またしても互いに分かちがたいものになっている。周知の病人のエゴイズムなるものはこの両者をうちにふくんでいる。われわれが病人のエゴイズムを分かりきったものと考えているが、それは病気になればわれわれもまた同じように振舞うことを確信しているからである。激しく燃えあがっている恋心が、肉体上の障害のために追いはらわれ、完全な無関心が突然それにとってかわる有様は、喜劇にふさわしい好題目である。(フロイト『ナルシシズム入門』フロイト著作集5 p117)
やっぱり日本は貧しくなったんだろうな
「引き返せない道」(中井久夫)歩んでるんだよ
@hazuma: ぼくは第二次大戦については、戦争悪いとかとは別に、いちどあれだけリベラルでモダンになった日本が急速に竹槍とかモンペ一色になっていく、その文化的墜落にいつも衝撃を受けるのよね。その点では、この15年ほど似たような墜落が生じていると感じていて、このあと戦争がなかったとしても嫌だ
@hazuma: いまはバブル世代や団塊ジュニアって評判悪いけど、95年までの日本はどうのこうのいいながら余裕があって、嫌韓本がベストセラーになったりすることはなかった。それは単純にいいことなんじゃないですかね。「戦わなければ生き残れない!」とか、そりゃそうかもしれないけど、基本下品ですよ。 (東浩紀)