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2014年8月30日土曜日

ラカンの“il y a”とハイデガーの “es gibt”

もろもろの喪失のなかで、ただ「言葉」だけが、手に届くもの、身近なもの、失われていないものとして残りました。

 それ、言葉だけが、失われていないものとして残りました。そうです、すべての出来事にもかかわらず。しかしその言葉にしても、みずからのあてどなさの中を、おそるべき沈黙の中を、死をもたらす弁舌の千もの闇の中を来なければなりませんでした。言葉はこれらをくぐり抜けて来て、しかも、起こったことに対しては一言も発することができないのでした、──しかし言葉はこれらの出来事の中を抜けて来たのです。抜けて来て、ふたたび明るい所に出ることができました──すべての出来事に「豊かにされて」。(「ハンザ自由都市ブレーメン文学賞受賞の際の挨拶」『パウル・ツェラン詩文集』より)


…………

◆中井久夫「私の三冊」より

「若きパルク」は「誰が泣くのか、過ぎ行く一筋の風ならで/いやはての星々とともにひとりあるこのひとときに」で始まる。『ドゥイノの悲歌』は「誰が、たとえ私が叫ぼうとも、天使たちの序列の中から私の声を聞いてくれようか」で始まる。いずれも鋭い、答えのない「誰が?」で始まる。

そうして「若きパルク」では個人の意識の中に、『ドゥイノの悲歌』では人間の現存在世界とでもいうべきものの中に、ずんずん下って行く。『荒地』だけは問いかけではなく、「四月は残酷な月だ」で始まるが、中途に「誰が?」「誰だ?」という問いかけをいく度も放ちながら、現代社会の荒廃と索莫の地獄めぐりを行う。いずれの詩も最後近くににわかに上昇に転じ、肯定で終わるが、肯定は唐突であり、どこかに弱さがある。読み終えた者の耳に残るものは不安で鋭い問いかけの方である。

これらの詩を二十世紀後半の詩と隔てるものは何であろうか。

私たちは三歳から五歳以後今まで連続した記憶を持っている。むろん忘却や脱落はあるが、にもかかわらず、自我は一つで三歳以後連続している確実感がある。それ以前の記憶は断片的である。また成人型の記憶は映画やビデオのように、いやもっとダイナミックに動いているが、ある時期の記憶は前後関係を欠き、孤立したスティール写真のような静止画像である。成人型の記憶と違って、言葉に表しにくい。

「若きパルク」も『ドゥイノの悲歌』も、『荒地』でさえも、映像も言語も成人型の記憶のように動き流れていく。断絶や飛躍を越えて連続性がある。前後関係があり遠近がある。

これに対して、二十世紀後半の詩は孤立した鋭い断片であって、成人以前の記憶が禁止を破って突き上げてきた印象がある。このタイプの映像は幼い時の記憶だけでなく、たとえ成人であっても耐えがたい心の傷を負った時には、その記憶がとる形である。

たとえばパウル・ツェランの詩が痛ましさを以て迫るのは、その内容だけでなく詩句もそれが呼び起こす映像も外傷的記憶の形をとっているからであると私は思う。それはもはや冥府下りでなく、冥府からの途切れがちの声である。(中井久夫「私の三冊」『アリアドネからの糸』所収)

中井久夫は、ここでツェランの詩句を《冥府からの途切れがちの声》としているが、外傷的記憶と関連付けられて語られているように、冥府とは、ラカン的には現実界の次元のものである。

外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である。双方共に、主として鮮明な静止的視覚映像である。文脈を持たない。時間がたっても、その内容も、意味や重要性も変動しない。鮮明であるにもかかわらず、言語で表現しにくく、絵にも描きにくい。夢の中にもそのまま出てくる。要するに、時間による変化も、夢作業による加工もない。したがって、語りとしての自己史に統合されない「異物」である。相違点は、そのインパクトである。外傷性記憶のインパクトは強烈である、幼児型記憶はほどんどすべてがささやかないことである。その相違を説明するのにどういう仮説が適当であろうか。

幼児型記憶は内容こそ消去されたが、幼児型記憶のシステム自体は残存し、外傷的体験の際に顕在化して働くという仮説は、両者の明白な類似性からして、確度が高いと私は考える。(中井久夫「発達的記憶論」『徴候・記憶・外傷』所収 53頁)

ここにある《語りとしての自己史に統合されない「異物」》という表現に注目しよう。

フロイトの『ヒステリー研究』1895には、「異物」と訳される“Fremdkörper”という語が頻出し、トラウマに関連して使用されている。

他方ラカンの「サントーム」セミネールに、”un corps qui nous est étranger”とあるが、これは「異物としての身体Fremdkörper」のことだろう。

l'inconscient n'a rien à faire avec le fait qu'on ignore des tas de choses quan qu'on sait est d'une toute autre nature. On sait des choses qui relèvent du signifiant. (...) Mais l'inconscient de Freud (...) c'est le rapport qu'il y a entre un corps qui nous est étranger et quelque chose qui fait cercle, voire droite infinie - qui de toutes façons sont l'un à l'autre équivalents - quelque chose qui est l'inconscient." (Seminar XXIII, Joyce - le sinthome, lesson of 11th May 1976


シニフィアンによって分節化された象徴界の内部にあって、しかもその内部の異物としてあるものが、現実界としてのFremdkörperのことである。

Fremdkörper, a foreign body present in the inside but foreign to this inside. The Real ex-sists within the articulated Symbolic.(Paul Verhaeghe "Mind your Body ")

※参照:ラカンの三つの身体


中井久夫は、ツェランを語りつつ、ラカンの“il y a”やハイデガーの “es gibt”の次元をめぐって語っているのではないだろうか、--とするには、わたくしはハイデガーについてまったく無知である。

…… 境界例や外傷性神経症の多くが自由連想に馴染まないのは、自由連想は物語をつむぐ成人型の記憶に適した方法だからだと私は考えている。いや、つむがせる方法である。この点から考えると、フロイトが自由連想法を採用したことと幼児期外傷の信憑性に疑問を持ったこととは関係があるかもしれない。語りにならば、それはウソくさくなったかもしれないのである。(中井久夫「トラウマとその治療経験」『徴候・記憶・外傷』所収  p85)

…………

以下、ハイデガーについてまったく知らないものがメモする。



〈存在する〉とは...

古くは、〈存在する〉の意味は一つだった
ギリシア以降、〈存在する〉には〈本質存在〉と〈事実存在〉に分かれた
ギリシア人は、制作(創作)を好み、多くの制作を行っていたことが理由か?
〈事実存在〉は(日本語では)「~〈ガアル〉」と表現できる。ものがある、自然現象として観察できるなど。

〈本質存在〉は(日本語では)「~〈デアル〉」と表現できる。ものを作る前の頭の中にある設計図のようなもの。概念的なものも含まれる。

英語では、be動詞は本来〈本質存在〉を表すときに使う。〈本質存在〉は「A is B」と表す。〈事実存在〉は「There is A」と表す。

ドイツ語やフランス語では、〈本質存在〉では〈sein〉や〈etre〉を使い、〈事実存在〉は〈es gibt---〉や〈il y a---〉と〈geben(与える)〉や〈avoir(持つ)〉を使う。

形而上学(あるいは哲学)は、〈本質存在〉と〈事実存在〉を明らかに区別する。

ジジェクは、jouissance féminine(女性の享楽)、あるいは〈他者〉の享楽について、女性の享楽は存在しない。が、”il y a de jouissance féminine”としている。そして、引き続き、ハイデガーのes gibtが言及されている。

もっとも、こう書かれつつ、同じ書の後半には次のように文も見られるのだが、ハイデガーに無知の身として、それには触れ得ない。

what is totally missing in Heidegger is not only the dimension of the Real of jouissance, but, above all, the dimension of the “between‐two‐deaths” (the symbolic and the Real) which designates Antigone's subjective position after she is excommunicated from the polis by Creon


◆ジジェク『LESS THAN NOTHING』からのメモ。

when Lacan talks about jouissance féminine, he always qualifies it—“if a thing like that were to exist (but it does not)”—thereby confirming its incommensurability with the order of (symbolic) existence.68 Jouissance féminine does not exist, but il y a de jouissance féminine, “there is” feminine enjoyment. This il y a, like the German es gibt which plays such a key role in late Heidegger, is clearly opposed to existence (in English, the distinction gets blurred, since one cannot avoid the verb “to be” in translation). Jouissance is thus not a positive substance caught in the symbolic network, it is something that shines through only in the cracks and openings of the symbolic order—not because we, who dwell within that order, cannot regain it directly, but, more radically, because it is generated by the cracks and inconsistencies of the symbolic order itself.

We should be attentive here to the difference between the inexistence of jouissance féminine and the inexistence of a father who would fit its symbolic function. (“If there is no such father, it still remains true that the father is God, it is simply that this formula is confirmed only by the empty sector of the square.”)69 In the case of the father, we have a discrepancy between the symbolic function (of the Father) and the reality of individuals who never fit this function, while in the case of jouissance féminine, we have the Real of jouissance which eludes symbolization. In other words, in the first case, the gap is between reality and the symbolic, while in the second case, the gap is between the symbolic and the Real: miserable individuals called fathers exist, they just do not fit their symbolic function, which remains an “empty sector of the square”; but jouissance féminine, precisely, does not exist.

One standard definition of the Lacanian Real describes it as that which always returns to the same place, that which remains the same in all possible symbolic universes. This notion of the Real as a “hard core” that resists symbolization must be supplemented by its opposite: the Real is also a “pure appearance,” that which exists only when we look upon reality from a certain perspective—the moment we shift our point of view, the object disappears. What both extremes exclude in the standard notion of reality as something which resists in its In‐itself, but changes with regard to its properties: when we shift perspective, it appears different. However, these two opposed notions of reality can be thought together—if one bears in mind the crucial shift that takes place in Lacan’s teaching with regard to the Real. From the 1960s onwards, the Real is no longer that which remains the same in all symbolic universes; with regard to the common notion of reality, the Real is not the underlying sameness which persists through the multitude of different points of view on an object. The Real is, on the contrary, that which generates these differences, the elusive “hard core” that the multiple points of view try (and fail) to recapture. This is why the Real “at its purest” is the “pure appearance”: a difference which cannot be grounded in any real features of the object; a “pure” difference.


《現実は象徴界によって多かれ少なかれ不器用に飼い馴らされた現実界である。そして現実界は、この象徴的な空間に、傷、裂け目、不可能性の接点として回帰する。》

reality is the Real as domesticated—more or less awkwardly—by the symbolic; within this symbolic space, the Real returns as its cut, gap, point of impossibility(François Balmès, Ce que Lacan dit de l'être)――ジジェク『LESS THAN NOTHING』 より孫引きであり、邦訳は私訳



2013年8月23日金曜日

まあ魂も時にはオナラをするさ

いやまだたまには見ているよ

あんたたちのツイートの話だ

あんたたちといってもあんたたちがこのブログをまだ読んでいるのかどうかはしらないがね

つまりイマジネールな「あんたたち」だ

人間観察にはいいからねえ、ツイッターってのは

一九世紀の動物園設立に先立って精神病院の見物が一八世紀都市住民の日曜日の楽しみであった(“人間園”)としても、これにも一つだけよい点、すなわち精神医療を公衆の目にさらすところがあり、精神病院をめぐる忌まわしい事件、とくに遺産横領のために相続人を病院に入れる事件は、むしろ一九世紀の特徴である。(中井久夫『分裂病と人類』)

二一世紀のヴァーチャル「人間園」ってとこさ

オレはあんたたちのツイートのあとに「~と云うアタシを見て!」とつけ加えて読んでいるぜ

どれもこれももピッタリくる

いや参考になる、もって他山の石とする

它山之石 可以攻玉

いやいや買いかぶりすぎかもしれない

あんたたちのなかの何人かのあんたはたんなる文芸愛好家の

《インテレクチュアルなところはとくに感じられない、ごく平凡なあかるい性格の女性》(須賀敦子『ユルスナールの靴』)かもな

一度でもいいから、「~と云うアタシを見て!」をつけてもピッタリこない発語ができるかい?

文体とかエクリチュールとかがたがた云っていないで、まずはそこからだな

人はけっして他人のために書くのではないこと、何を書こうとも、そのことでいとしい人に自分を愛させることにはならぬのだということ、エクリチュールはなにひとつ補償せず、昇華もせぬこと、エクリチュールはまさしくあなたのいないところにあるのだということ、そうしたことを知ることこそが、エクリチュールのはじまりなのである。(ロラン・バルト『恋愛のディスクール』「書く」)

エクリチュールは英語にしたらWRITINGなのだから

まあ書くことはすべてそうだっていうひともいるけどね

アタシを振り向いてのメタメッセージしかない発話さえもそうだっていい

湿った瞳を交わしあうのが好きなタイプなのだろうからお説教をするつもりはない

わかるだろ?

だいたいまともな詩人やら作家はそれしか云ってないぜ

詩は言葉が現われるひとつの姿なのですから、また、したがってその本質からして対話的なものなのですから、詩はひとつの投壜通信であるのかもしれません。どこかに、どこかの岸に、ひょっとすれば心の岸に打ち寄せられるかもしれないという信念――必ずしもいつも確かな希望をもってではありませんが――のもとに、波に委ねられる投壜通信です。詩は、このようなあり方においてもまた、途上にあるのです。つまり詩は何かにむかって進んでいるのです。何にむかっているのでしょう。開かれている何か、占有しうる何か、ひょっとすれば語りかける『あなた』。語りかけうる現実にむかってです。(パウル・ツェラン)

ひとりごとを云えってわけじゃないんだな

ひとりごとなんて嘘っぱちに決ってる

《ツイッターの中にはひとりごと設定でしゃべる人と、呼びかけ設定でしゃべる人がいる。ごくたまに演説の人もいる。個人的には、すべての語尾に(ぼそっ)をつけた気持ちでツイートしたいと思っている(机ドン)》

小田嶋隆氏のツイートだがね

一見とても機知あふれる短文だ

呼びかけ設定や演説口調のツイートは「うるさいぜ」と読める

「ひとりごと」といわず「ひとりごと設定」としているわけで

なかなかつけいる隙をあたえない

好意的にとれば、ひとりごとの「ふり」ってことだよな

そもそもひとりごとってのは場合によってはこんなだからな

《彼は自分のことを語り、自分のことを繰りかえし、自分を押しつけ、強迫的な独白のように際限もないディスクールのなかに、あたかも閉じこめられているかのようである。》(ロラン・バルト)


書くってのはなんかへの呼びかけさ

ただ肝心なのは小文字の他者への呼びかけか

大文字の他者への呼びかけかってとこだな

小文字の他者ってのは「私に似た」ほかの人たち

競争や相互承認といった鏡像的関係を結ぶ「私」の同類たち

その他者とは結局「自意識」なわけでね

ツェランのいう投壜通信ってのは「大文字の他者」に向けてってことさ

ーー「あんたのお母さん! 私の希望の処女! あんたの胸の二つのレモン!」

「女」へのピロポが究極の「大文字の他者」への呼びかけさ

《未知の女に声を掛け、ひとつのメッセージ、機知、彼女の魅力をたたえる短い詩を送ること》

《男、ピロペアドールは相手の女を引き止めることは求めないし、奇妙なことに、同時にそれは根本的に無欲なもの》

ピロペアドールとは、未知の女が自分の前を通り過ぎていくのを常に眺めている、そして自分の存在を認めてくれる一瞬の間、女を引き止めておこうとする不幸な男、それは女la femmeの裡に体現されている他者Aに聞き入られることを放棄しない男です。(ジャック=アラン・ミレール)

女はだれに呼びかけるだって?

女だって存在しない「大文字の女」へさ

どんな女性であっても、女性によって体現されているものは(……)言語のコードの場である大文字の他Aなのです。ピロポが典型的な状況だと思われたのは、大文字の他Aの構造的な機能が常に他Autreの性を表わしてきた女性によって支えられているからです。他の性といっても、けっして、それが男性に対して他の性である、といえるような意味ではありません。両性は互いに他のもので、それぞれがもうひとつの相手としますが、もっとも深い意味で女性といわれる性が根源的に他者(Autre)なのです。そしてその神秘はずっと男達、分析家も含む、を惹きつけてきました。そして最初の男性の分析家であったフロイトは、一人の女が何を欲するか、という神秘は彼自身も明らかにすることができなかった、と述べていました。そこには精神分析の壁ともいえるものがあるのです。(同ミレール)


まあだからほとんどどの女もナルシシズムにみえるってことはあるがね

よっぼど質が高くなくちゃな

……ヴァージニア・ウルフはこうも書いているーー「彼女は自分がとても若いと感じると同時に、信じられないほど年をとっているとも感じていた。」敏捷であると同時に、緩慢で、すでに目の前にいたかと思えばまだそこに来ていないといった具合で、「彼女は剃刀の刃のようにあらゆるものに分け入っていった。それと同時に、彼女は外に身を置いて眺めていた。(……)生きるということは、たとえ一日だけだとしても、とても危険なことなのだーー彼女は常日頃からそう思っていた。」<此性>、霧、そしてまばゆい光。<此性>には始まりも終わりもないし、起源も目的もない。<此性>は常に<ただなか>にあるのだ。<此性>は点ではなく、線のみで成り立つ。<此性>はリゾームなのである。(ドゥルーズ&ガタリ『千のプラトー』)

さて此性ってなんだったか

《少女は、運動と静止の、速さと遅さの関係によって、また原子の結合や微粒子の放出によって規定されるのである。つまり<此性>である。少女は器官なき身体を駆けめぐる。少女は抽象線、あるいは逃走線なのだ。》

まあこのへんはわかんねえなあ

クモになったら出会えるものじゃないかねえ

《蜘蛛は何も観察しないが、ほんの僅かの兆候、ほんの僅かの震動にも反応して、自分の餌にとびかかる。》(『アンチ・オイディプス』)

ヴェイユでもデュラスでもそういってるんじゃないかい?

オレはよくは知らないけど

人は他者と意志の伝達をはかれる限りにおいてしか自分自身とも通じ合うことができない。それは他者と意志の伝達をはかるときと同じ手段によってしか自らとも通じ合えないということである。

かれは、わたしがひとまず「他者」と呼ぶところのものを中継にしてーー自分自身に語りかけることを覚えたのだ。

自分と自分との間をとりもつもの、それは「他者」である。

(ポール・ヴァレリー『カイエ』二三・七九〇 ― 九一、恒川邦夫訳、「現代詩手帖」九、一九七九年)


ヴァレリーの「他者」はあきらかに「大文字の他者」だ

標準的な解釈ではこの「他者」は「言語」だけれど

言語は大文字の他者だ

ブランショの呼びかけだってこの流れのなかにある

自己が他者を認知し他者のうちにおのれを認知するということに満足するのではなく、自己が他者によって疑問に付されていると感じ、限定されえず涸れることなくおのれを超えてあふれ出る責任によってしか、それに答えることが出来ないというほどまでに疑問に付されていると感じるような、そうしたある先行する関係がはっきりと宣明されうるのでなかったら、倫理の可能性はありえない。(モーリス・ブランショ「恋人たちの共同体」)

最近、次のようなツイートを読んだな、ユンガー研究者のつぶやきだがね

《ヴィシー政権の独語通訳の仕事をしていたらしい元極右のブランショは、ヴィシー政権というフランスの現実を問わず、当初は「脱走兵」「米英の傀儡」のドゴールの方へ逃げた。それが、戦後のブランショの、あの肖像不明性のルーツとすれば、戦後フランスの思想や文学の正体も分かろうというものだ。》

デリダはハイデガーも、ポール・ド・マンも、そしてブランショもかばうんだよな、

政治的な、つまりナチにかかわる攻撃から擁護するんだよ

ブランショの「「死ぬために書く」ってのはなんだろうね

なんかがトラウマになってんじゃないか

疲労は、不幸のうちでもっともつつましいもので、中性的なものの中でもっとも中性的なものだ。それは、選択することが許されるなら、誰もが虚栄心から選択することのなかろう体験である。(……)疲労とは、所有的な状態ではなく、問題視することなく吸収する状態にほかならぬ。(ブランショーー蓮實重彦「バルトとフィクション」より)

まあこれも蜘蛛っぽいがね

私はしばしば他者たちの疲労を知らぬ性格に驚かされる(唖然とするしかない)。(……)エネルギー ――とりわけ言語的なエネルギー ――は、私を唖然とさせる。それは、私には、狂気の徴候としか思えない。他者とは、疲れを知らぬ存在なのだ。(晩年のバルトの日記より『偶景』所収)。

《過度で疲労困憊させる他者の言語的エネルギー、「合理」やら「実証」やら「冷静」、あるいは「誠実」、「無邪気」などの「仮面」を被った自己顕示欲の「厚顔無恥」な書記。それは「エクリチュール」の本来の姿からほど遠い。「「中性」的なるものを構造化するのでもなく分析するのでもなく、ただ「横断」することの「疲労」を代償として維持されるエクリチュール」》(バルト=蓮實)ってわけさ


ーーあだしごとはさておき

日記がひとりごとってのも大嘘さ

すくなくとも公開される日記がひとりごとのわけがない

日記も、読まれることを予想して書かれることがしばしばある。永井荷風の『断腸亭日乗』やジッドの『日記』は明らかにそうであろう。精神医学史家エランベルジェは、日記を熱心に書きつづける人には独立した「日記人格」が生まれてくると言っている。日記をつける人も読む人も、このことは念頭に置くほうがよいだろう。(中井久夫「伝記の読み方、愉しみ方」『日時計の影』所収)

ブログ人格やSNS人格ってのはあるんだろうな

で、いまこうやって書いて

ここのところのブログ人格を壊してるってわけさ

たまには「小文字の他者」にむけて書いたっていいだろ

お前さん、かっこつけてなんかいってたな

「再出発」だと? 

笑わしちゃあいけない

まず大嘘を拭いされよ

根っからの猫っかぶりめ!

アタシがツイッターやめたら真実がわからなくなる! とか云ってたじゃないか

とんでもないやつだぜ

真実はアタシは大嘘つきってことだろ?

《とにもかくにも、嘘を糧にしてわが身を養って来たことには、許しを乞おう。そして出発だ。》(ランボー)

いずれにせよ、その齢でいまだ「青春」まっただなかなって感じだぜ

そのオクターヴの高さ

……中村武羅夫氏は青春という時期の陰湿さを大そう強調している。一方、私に質問した学生は、その時期の明るさを大そう強調している。そして、その強調の仕方がいずれも一オクターヴ高い感じがする。

この一オクターブ高いという感じが、いつも青春というものにつきまとう。そして、陰湿さも明るさも、いずれも楯の両面のような気がする。(吉行淳之介「鬱の一年」

あんたたちのだけでなく、自分の文にだって反吐ばっかりさ

オレに跳ね返ってこないことは書いても致し方ない

死ぬ前までには微調整ぐらいしたくてね

君は死にかけていてぼくはぴんぴんしている
ぴんぴんしているだけでぼくは君に対して残酷だが
もし君が死んで墓に入ってしまえば
今度は残酷なのは君のほうだ

君はもう利口ぶった他人に吐き気をもよおすこともないし
利口ぶった自分に愛想をつかすこともない
君の時間はゆったりと渦巻き
もうどこへも君を追い立てたりはしない(谷川俊太郎「コーダ」より『モーツァルトを聴く人』

なぜ書くかって? 毎日のように

言い訳は用意してるさ

……私が何も書かなかったら、どうなっていたであろうか。振り返ってみれば、あまりよいことになっていないのではないか。ひょっとすると独善的になるか、あるいは無内容になっていたと思う。

トーマス・マンは、「もし自分が書かなかったら限りなく憂鬱になっていただろう」と言っているが、重い鬱病になっていたかもしれない。独善的あるいは無内容になる前にまず憂鬱になっていただろう。それは、臨床経験が日々供給する無数の観念や命題の萌芽的状態が乱れ飛ぶ状態に頭を長い間置いておくことだからである。

これは結構苦しいものだ。書くことは明確化であり、単純化であり、「減圧」である。何よりも、書くことに耐えない多くの観念が消え去る。あるものは、その他愛なさによって、あるものは不整合によって、あるものは羞恥によって却下される。(中井久夫『精神科医がものを書くとき』)

まあオレの場合は、これは半ば嘘だがね

ほとんど引用が多いわけで、メモなら別に公表しなくてもいいわけだ

本を読んでて同じようなことを誰かが書いてたな、と探して時間を失うことは少なくなった、そんな便利のため、ーーなんてのも嘘っぽいわけだ

単なる個人的なメモと、象徴界に登録した、つまり公表したメモってのは、後者の方が格段に覚えているってのはあるがね

まあこれもていのいい言い訳さ

己れにウンザリし過ぎたら急にやめるかもな

この文だって自分に愛想つかすために書いてるかもな

まあでもそんなことはどうでもよろしい

《完全に不埒な「精神」たち、いわゆる「美しい魂」ども、すなわち根っからの猫かぶりども》(ニーチェ『この人を見よ』)

まあ魂も時にはオナラをするさ

でも美しい魂ってのはオナラばっかりだな


…………


My Favorite Things  谷川俊太郎

raindrops on roses and whiskers on kittens
bright copper kettles and warm woolen mittens
brown paper packages tied up with strings
these are a few of my favorite things……
       Oscar Hammerstein 2nd

どんなに好きなものも
手に入ると
手に入ったというそのことで
ほんの少しうんざりするな

どんなに好きなものも
手に入らないと
手に入らないというそのことで
ほんの少しきらいになるんだよ
 
バラの上の雨のしずくに
仔猫のひげ
みがきあげた胴のヤカンに
あったかなウールの手袋か

かわいそうなオスカー
脚韻てのは踏んずけると
ずいぶんひどい音がするね
まあ魂も時にはオナラをするさ

コップに水が一杯欲しいんだ
のどがかわいているから
半杯じゃ少なすぎるし百杯じゃ溺死する

水は好きだよ