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2014年9月26日金曜日

この〈オカマホリ〉!

@yoshimichi_bot: 私が道徳的に善いとされていることに従うのは、大多数が善いと思っていることに自分の行為を合わせたほうが、生きるのに便利だから、社会から排斥されないから、つまり快だからであり、それ以上の意味はない。(中島義道『生きるのも死ぬのもイヤなきみへ』)

――わるくない、なかなか巧みな剽窃だ。

さて、前にもいったように、実生活にとっては、きわめて不確実とわかっている意見にでも、それが疑いえぬものであるかのように従うことが、ときとして必要であると、私はずっと前から気づいていた。(……)けっきょくのところ、われわれに確信を与えているものは、確かな認識であるよりもむしろはるかにより多く習慣であり先例であること、しかもそれにもかかわらず少し発見しにく真理については、それらの発見者が一国民の全体であるよりもただ一人の人であるということのほうがはるかに真実らしく思われるのだから、そういう真理にとっては賛成者の数の多いことはなんら有効な証明ではないのだ、ということを知った。(デカルト『方法序説』)

すこしまえ次の文を拾ったのだが、こっちの「剽窃」よりもよい。

ナチスを最も熱心に支持したのは、公務員であり教師であり科学者であり実直な勤労者であった。当時の社会で最も真面目で清潔で勤勉な人々がヒトラーの演説に涙を流し、ユダヤ人という不真面目で不潔で怠惰な「寄生虫」に激しい嫌悪感を噴出させたのである。(『差別感情の哲学』中島義道)
ナチによる大量虐殺に加担したのは熱狂者でもサディストでも殺人狂でもない。自分の私生活の安全こそが何よりも大切な、ごく普通の家庭の父親達だ。彼らは年金や妻子の生活保障を確保するためには、人間の尊厳を犠牲にしてもちっとも構わなかったのだ。(ハンナ・アーレント)

二番目のほうは「剽窃」と言えるのかどうかさえ危うい。

剽窃は、自分の文に他人の文を溶け込ませてこれを消滅させようとする。希釈による掠め取りである。文体模写(パスティッシュ)は逆に他人の肉を纏って、その人に見せかける。こちらは役者の演技練習に似ている。しかしこの練習において自らが偽者であることを洩らすのは、パスティッシュの実践者ではなく、模作それ自体だ。この巧妙な文学的手管は、しかも、<文体>を模倣しようとすればするほど、気づかれやすくなる。つまり、剽窃による奪取とは違って、ジェラール・ジュネットが言うように(『パランプセスト』)、パスティッシュはつねに、これはXがYを真似たテクストであるという<契約>を暗黙の前提にしているのである。パスティッシュはなにがなんでもパスティッシュだと悟られなければならない。さもないと、著者が書いた正真正銘のテクスト、つまり手本となるテクストそのものになってしまう。(ジャン=リュック・エニグ『剽窃の弁明』)

どうも次のような気味もいささかある。

どこかで小耳にはさんだことの退屈な反復にすぎない言葉をこともなげに口にしながら、 なおも自分を例外的な存在であるとひそかに信じ、 しかもそう信じることの典型的な例外性が、 複数の無名性を代弁しつつ、 自分の所属している集団にとって有効な予言たりうるはずだと思いこんでいる人たちがあたりを埋めつくしている。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』)

…………

マンフレート・エーガーは、ニーチェを「受容の天才」と呼んでいる。最近の著書『ニーチェとバイロイトの受難劇』においては、「盗みの天才」とも。ニーチェ自身、その遺稿には、《あらゆる『創造』の九九パーセントは、音楽であれ思想であれ、模倣だ。窃盗、多かれ少なかれ意識して》とある。

ニーチェとディオニュソス : ニーチェのバッハオーフェン受容』(谷本愼介)によれば、ニーチェの『悲劇の誕生』のディオニソス賛は、バッハオーフェンの影響下で書かれている。バッハオーフェンの「バッコス的世界観」は、ニーチェによって「ディオニュソス的世界観」と書き換えられている。バッコスはもちろんディオニソスのことであり、古代ギリシャ・ローマ人たちは、深夜に得体の知れない物音が通過したら「あ、バッカス(ディオニュソス)の楽隊が通る」とした。会話の不意の途切れを「あ、天使が通る」という伝である。どの程度ニーチェが「盗み」を働いているかは、バッハオーフェンとニーチェの論文を並べつつの比較対照がなされている。

で、こういうことを書いて何を言おうとするわけでもない。

コピペはやめて優雅に置きかえなさい」、大澤真幸がジジェクを置きかけえたようにーー、などと言うつもりもない。

《自分の曲があるとすると、たぶん僕のオリジナリティは5パーセントあればいい方じゃないか。》(坂本龍一 於シンポジウム「『倫理21』と『可能なるコミュニズム』」)ーーニーチェはオリジナリティは1パーセントと言っているが、坂本龍一は5パーセントと言っている。やや不遜気味だとはいえ今は喉頭癌治療のおりでもあり許さなくてはならない。

という次第で私はここに、現代のぶよぶよの大頭ども(ロートレアモンの言葉)に向けて手短な美学を、つまり剽窃のエロティシズムを素描したいと思う。というのも、私はこれまで剽窃し、また剽窃されてきたが、この〈オカマホリ〉! とか、よくも魂を奪ったな! とか、俺の実体を盗みやがって! とか、そんなくだらないことを叫んだためしはないからである。私は他人の傘下で、他人の傾きに沿って、他人の仕立てで(縫い子が言うような意味において)それぞれの本を書いてきた。しかしそこにはまた手当たり次第、気の向くままに耽った周辺的な読書の記憶が加わっている。そうした読書のなかで私は文の断片を、ときには語を掠め取ってきたが、こんどはその掠め取った文や語のほうが、知らぬがままに行きたがっている場所へと私を引っ張っていってくれた。こうして、すでに書かれた文が、私の未来のエクリチュールになっていったのである。というのも、文章はつねにそれ固有の意味以外にも無数のことを語っていて、剽窃とはアナモルフォーズ〔意図的に歪めて描いた絵画〕の技法以外のなにものでもないのだから。(ジャン=リュック・エニグ『剽窃の弁明』)

間違っても無粋に、この〈オカマホリ〉! などと叫んではならない。

でも、《剽窃とはアナモルフォーズ〔意図的に歪めて描いた絵画〕の技法以外のなにものでもない》だって? 

それにしては素直すぎる「剽窃」が多すぎる。

たとえばつぎの文は、ひどく素直な「剽窃」か。
いや他人の肉を纏ったパスティッシュに決まっている。

そもそもわたくしがわたくしと書くとき、いつも同じわたくしであるとはどうやって確信できよう。わたくしが素直にうけいれがたく思っているのは、昨日のわたくしと今日のわたくしがあっさりと同一人物だと信じこんでしまう、人びとの信じやすさなのである。ここでは和訳すれば閉じた眼という意味の仏語が当ブログの最初の行に大きく示されているだけであり、しかもそのあとには一人称単数の場合はなかば虚構と書かれているではないか。そこにはまた海外住まいとも書かれており、たとえばわたくしはすくなくとも日常会話としては使うことの稀になった日本語を懐かしみ忘れないようにするためだけに虚構の書き手として一人称単数代名詞の「わたくし」を使ってここでの日記を日課として強制しているのかもしれぬ。他のブログやSNSでみられるような夜郎自大の「自己主張」の言葉のつらなりから遠くはなれた書き物であること、自己同一性の無邪気な確信をたやすくは共有してほしくないために、わざわざ「なかば虚構」であるという言葉が示されているのではなかろうか。また他の可能性だってかんがえられる。日本語を学びつつある息子や妻がわたくしの代りにここに日本語で書かれた文章を写経していることだってありうるのだ。そこにときおりわたくしという一人称単数単数代名詞で感想というのか見解というのかが書かれていたら、それがこのわたくしではなく彼らが書いている可能性だってどうしてかんがえられないことがありえよう。


…………

わたくしは日常会話で一人称単数代名詞を使用するときーーいまは滅多に日本語を使うことはないのだがーー、「僕」という、たまには「私〔わたし〕」と言う。たまには「俺」と言った。

ーーところで、「常用漢字音訓表」(1981年10月1日内閣告示)によれば、私の読み方は次のごとくだそうだ。

「私」の読み方として、訓の「わたくし」と音の「シ」が掲げられています。「わたし」という読み方は認められていません。「わたし」と表したいときは、ひらがな表記になります。(「私」の読み方

で、何が言いたいわけでもない。

「僕」やら「私」という一人称単数代名詞を使わないようにしているだけだ。
使用するのは、「わたくし」であったり、「オレ」であったり
--「俺」とも書かないーー
「小生」であったり、「アタシ」であったりする。

「わたくし」としたり「オレ」としたりすれば、
わずかなりとも自分との距離がとれる気になる。
元来の気質「夜郎自大」がいささかでも隠蔽できるのではないか
という「錯覚」に閉じこもり得る。

ーーというのは古井由吉のパクリさ


わたしは聴く耳をもつ者たちに警告の歌をうたってきかせる」(ヘルダーリン)より

「私」という人称を使い出したんです。……そうしたらなぜだか書けるんです。今から考えてみると、この「私」というのはこのわたしじゃないんです。この現実のわたしは、ふだんでは「私」という人称は使いません。「ぼく」という人称を選びます。この現実のわたしは、ふだんでは「私」という人称は使いません。「ぼく」という人称を選びます。だけど「ぼく」という人称を作品中で使う場合、かえってしらじらと自分から離れていくんです。(中略)

…… この場合の「わたし」というのは、わたし個人というよりも、一般の「私」ですね。わたし個人の観念でもない。わたし個人というよりも、もっと強いものです。だから自分に密着するということをいったんあきらめたわけです。「私」という人称を使ったら、自分からやや離れたところで、とにもかくにも表現できる。で、書いているとどこかでこの「わたし」がでる。この按配を見つけて物が書けるようになったわけです。 (『「私」という白道』)
「私」が「私」を客観する時の、その主体も「私」ですね。客体としての「私」があって、主体としての「私」がある。客体としての「私」を分解していけば、当然、主体としての「私」も分解しなくてはならない。主体としての「私」がアルキメデスの支点みたいな、系からはずれた所にいるわけではないんで、自分を分析していくぶんだけ、分析していく自分もやはり変質していく。ひょっとして「私」というのは、ある程度以上は客観できないもの、分解できない何ものかなのかもしれない。しかし「私」を分解していくというのも近代の文学においては宿命みたいなもので、「私」を描く以上は分解に向かう。その時、主体としての「私」はどこにあるのか。(中略)この「私」をどう限定するか。「私」を超えるものにどういう態度をとるか。それによって現代の文体は決まってくると思うんです。 (古井由吉『ムージル観念のエロス』)

どうだい、そこの「夜郎自大」くん。
試してみたらどうだい?
はしたない自意識の尻尾がすこしは隠せるかもしれないぜ

私は、「私」という語を口にするたびに想像的なもののうちにいることになる。(ロラン・バルト『声の肌理: 1962-1980年の対談集』)

ツイート削除癖のある貴君たちの繊細さは認めるよ

(私はきのう書いたことをきょう読み直す)、印象は悪い。それは持ちが悪い。腐りやすい食物のように、一日経つごとに、変質し、傷み、まずくなる。わざとらしい《誠実さ》、芸術的に凡庸な《率直さ》に気づき、意気阻喪する。さらに悪いことに、私は、自分では全然望んでいなかった《ポーズ》を認めて、嫌気がさし、いらいらする。(痛みやすい果実

最近、記憶力減退が目立ってきたな
「腐りやすい果実」で検索してしまってなかなか見つからなかったのだな
でもそれはそれでいいさ
思いがけない果実に行き当たることが出来る場合もあるから。

ロマン主義的なるものとはこの世のなかでもっとも心温まるものであり、民衆の内面の感情の深処から生まれた、もっとも好ましいもの自体ではないでしょうか?疑う余地はありません。それはこの瞬間までは新鮮ではちきれんばかりに健康な果実ですけれども、並みはずれて潰れやすく腐りやすい果実なのです。適切な時に味わうならば、正真正銘の清涼感を与えてくれますが、時を逸してしまうと、これを味わう人類に腐敗と死を蔓延させる果実となるのです。ロマン主義的なるものは魂の奇跡です―― 最高の魂の奇跡となるのは、良心なき美を目にし、この美の祝福に浴したときでありましょうが、ロマン主義的なるものは、責任をもって問題と取り組もうとする生に対する善意の立場からすれば、至当な根拠から疑惑の目で見られるようになり、良心の究極の判決に従って行う自己克服の対象となってまいります。(トーマス・マンーー1924 ニーチェ記念講演)

さてなんの話だったか
「つけひげ」の話だな
一人称単数代名詞などに過敏になっても
どうせ「つけひげ」ははがれちまうかもな

私は、発表のはじめに、大きなつけひげをつける。しかし、私自身のパロールの波(……)に少しずつひたされて、私はひげが皆の前でぼろぼろとはがれていくのを感ずる。何か《洒落た》考察によって聴衆をほほえませるや否や、何か進歩主義的な常套句で聴衆を安心させるや否や、私はこうした挑発の迎合性を感ずる。私はヒステリー的欲動を遺憾に思う。遅まきながら、人に媚びる言述よりいかめしい言述の方が好ましく思われ、ヒステリー的欲動を元に戻したいと思う(しかし、逆の場合には、ヒステリー的に思えるのは、言述の《厳しさ》の方である)。実際、私の考察にある微笑が応じ、私の威嚇にある賛意が応じると、私は、ただちに、このような共犯の意思表示は、馬鹿者か、追従者によるものと思い込む(私は、今、想像上の過程を描写しているのだ)。反応を求め、つい反応を挑発してしまう私だが、私が警戒心を抱くには、私に反応するだけで十分である。

そして、どのような反応をも冷まし、あるいは、遠ざけるような言述を続けていても、そのために自分が一層正確である(音楽的な意味で)とは感じられない。なぜなら、そのときは、私は自分のパロールの孤独さを自賛し、使命を持った言述(学問、真理、等)というアリバイをそれに与えなければならないからである。(ロラン・バルト「作家・知識人・教師」『テクストの出口』所収)

おのれの発話が他人にウケてしまったとき
つまり、「何か《洒落た》考察によって聴衆をほほえませ」てしまったとき
なにか莫迦なこと言ったんじゃないか、あれは媚態だったんじゃないか、
雄鶏のマネやったんじゃないか
 《coquet という語がある。この語は coq から来ていて、一羽の雄鶏が数羽の牝鶏に取巻かれていることを条件として展開する光景に関するものである。すなわち「媚態的」を意味する》(九鬼周造)

ーーなどと疑念をいささかも抱かない厚顔無恥な輩
ばかりが棲息するネット上の発話には馴染み過ぎるなよ

わたくしは、もともと一人称単数を主語とした文章を書くのが苦手で、『ゴダール マネ フーコ― 思考と感性とをめぐる断片的な考察』で一箇所だけ「わたくし」と書いたほかは、一人称単数を主語とした文章だけは書くまいとして、日本語の慣行と真正面から向かいあうのを避けてきました。古井由吉さんの小説を読むと、一人称単数を主語とした文章を避けようとする姿勢がけしからんと思うほど見事で、思わずため息がでてしまう。( 蓮實重彦+川上未映子対談

ーー厳密に言えば、これはそうではないのだけれど、まあそれはそれでいいさ。

《わたくしは、と、いまこの文章を綴りつつあるものは「作者」たることを怖れずに自分自身をあえて一人称単数の代名詞で呼ぶことにする。……》(『物語批判序説』)

一人称単数?
いや二人称単数や三人称だってヤバイ、「貴君」とか「彼」、「彼女」のね

人称代名詞と呼ばれている代名詞。すべてがここで演じられるのだ。私は永久に、代名詞の競技場の中に閉じこめられている。「私〔je〕」は想像界を発動し、「君〔vous〕」と「彼〔il〕」は偏執病を発動する。……『彼自身によるロラン・バルト』)

前回、このように引用したのだけれど

どこにいようと、彼が聴きとってしまうもの、彼が聴き取らずにいられなかったもの、それは、他の人々の、彼ら自身のことばづかいに対する難聴ぶりであった。彼は、彼らがみずからのことばづかいを聴きとらないありさまを聴きとっていた。

しかし彼自身はどうだったか。彼は、彼自身の難聴ぶりを聴き取ったことがないと言えるのか。彼は、みずからのことばづかいを聴き取るために苦心したのだが、その努力によって産出したものは、ただ、別のひとつの聴音場面、もうひとつの虚構にすぎなかった。(『彼自身によるロラン・バルト』)

このあと次のように続くのだな

だからこそ、彼はエクリチュールに自分を託す。エクリチュールとは、《最終的な返答》をしてみせることをあきらめた言語活動のことではないか。そして、他人にあなたのことばを聴き取ってもらいたいという願いをこめて、自分を他人に任せることによって生き、息をする、そういう言語活動ではないか。(『彼自身によるロラン・バルト』)

エクリチュールというのは修業がいるからねえ
オレには手強いな

彼はいかなる点においても、自分の書物を述語とする主語にはならない。(『作者の死』)
作者、語り手、主人公のいずれを指すのか決定し難い一人称代名詞《私》を用いた独特な言表行為(「マガジーヌ・リテレール」誌〔1979年1月〕のプルースト論)
エクリチュールによって私は、きびしい除外作用に支配されることを余儀なくされる。それは、エクリチュールによって私が世間の常用の(「民衆の」)ことばづかいから分け距てられてしまう、という理由のみによるのではない。もっと本質的な理由は、エクリチュールが私に「自分を表現する」ことをさまたげるというところにある。だいいち、エクリチュールは《誰か》を表現しうるものだろうか。主体の非固形性、そのアトピー〔場所を問わないこと〕を裸かにしてさらし、想像界の疑似餌を撒きちらすことによって、それは、叙情表現(中心的な「心の動揺」をあらわす語法として)いっさいをなりたたなくさせてしまう。エクリチュールは、乾いた、禁欲的な、およそ心情の吐露といったもののない、享楽である。(『彼自身によるロラン・バルト』)

一時期有名になり過ぎた「引用の織物」もいまでは引用しておくべきか

テクストとは、無数にある文化の中心からやってきた引用の織物である。プヴァールとペキッシュ、この永遠の写字生たちは崇高であると同時に喜劇的で、その深遠な滑稽さはまさしくエクリチュールの真実を示しているが、この二人に似て作家は、常に先行するとはいえ決して起源とはならない、ある〔記入の〕動作を模倣することしかできない。彼の唯一の権限は、いくつかのエクリチュールを混ぜあわせ、互いに対立させ、決してその一つだけに頼らないようにすることである。仮に自己を実現しようとしても、彼は少なくとも、つぎのことを思い知らずにはいないだろう。すなわち、彼が《翻訳する》つもりでいる内面的な《もの》とは、それ自体完全に合成された一冊の辞書にほかならず、その語彙は他の語彙を通して説明するしかない、それも無限にそうするしかないということ。(ロラン・バルト『作家の死』) 

ーーとすればエクリチュール至上主義のように思われるかもしれないから
長くなるがやっぱりネット上ではつけ加えておかなくちゃならない

・『作家の死』を書くという曖昧さと浅く戯れているが故に犯さざるをえない軽率さは、それじたいが浅さの美徳につながるバルトの最大の魅力を構成する。だから、こうした軽率さをいたるところに指摘してまわり、そのことでバルトの理論的な欠陥を批判したつもりになることほど滑稽な振舞いもまたとないだろう。それは、自分を「作者」として登録せずにはいられない「批評家」の、コードへの執着を露呈するのみである。また、バルトに倣って、「作者」はいまや死に絶え、白々とした地平に拡がり出すエクリチュールの時代が始まっていると主張するのも愚かなことだろう。それは二重の意味で愚かな主張である。まず、「作者」はいつでも存在可能だし、エクリチュールもまたつねに存在しているからだ。バルトは、エクリチュールの支配を深く確信してなどいはしない。ごく浅く、それを遊戯に導入してみる楽しみを提案しているまでにすぎない。そもそも、かつて「作者」が支配したようにこんどはエクリチュールの支配する時代が到来するなどといったことが起ろうはずもないのである。支配しないことこそが、エクリチュールのあり方にほかならぬからだ。

・人がエクリチュールに言及しうるのは、それがごく浅い環境として存在と触れあっているからにすぎない。かりに、エクリチュールなるものが濃密な環境として文学の全域に充満していたなら、バルトは間違いなく『作者の死』ではなく『エクリチュールの死』を書いていたことだろう。それは文学の未来を約束する絶対的な善なのではなく、それとごく浅く戯れることでかろうじてコードの「《裏をかく》」ことがありえるかもしれぬ虚構の楽しみの一つなのである。バルトはただ、「作者」を確信する人びとにこの楽しみの共有を慎ましく提起しているのだが、それとて深い意図からでたものではあるまい。

・足首のところまではコードに浸り、いくぶんか「作者」の役を演じ、しかも深みへの埋没をおのれに禁じつつ遊戯を演じつづけようとするとき、その曖昧な虚構をどこまでも維持するために必然的に分泌する汗のようなものとして、軽率さが存在の表皮を保護することになる。(蓮實重彦『物語批判序説』)

ところで次の文を読んでみよう。

長いこと、バルトについて語ることを自粛していた。パリ街頭での自動車事故で呆気なく他界してから、その名前を主語とする文章をあえて書くまいとしてきたのである。いきなり視界にうがたれた不在を前にしての当惑というより、彼自身の死をその言葉にふさわしい領域への越境として羨むかのような文書を綴ったのが一九八〇年のことだから、もう二五年の余も、バルトを論じることなくすごしていたことになる。とはいえ、その抑制はあくまで書くことの水準にとどまり、バルトを読むことの意欲が衰えたことなどあろうはずもない。(蓮實重彦「バルトとフィクション」

上の『物語批判序説』は、一九八五年に上梓されており(この箇所の初出は『海』昭和五十九年三月号)、ここでは厳密に言わなくても、「バルトとフィクション」に書かれた言葉は「嘘」であることが知れる。

で、「嘘」が多い人ね、蓮實さんって、ーーなどとは言わないでおこう、「はったり」屋? そんなことはとっくの昔からわかってる。《知ったかぶりさえできないのはまあ批評のプロじゃないよ》(『闘争のエチカ』P144)

とはいえ、そもそも文章にどうして「嘘」を書いていけないというのか?

ここでまた余談になるが、「野球」評論において、一世を風靡した謎の覆面野球評論家「草野進」女史が実は蓮實重彦のペンネームであったのではというのはそれなりの信憑性のある噂であろう。

・三塁打は今日のプロ野球にあって一つの不条理であるが故にその存在理由があるのだ。

・権利としての走塁を阻止する送球の殺意が試合をおもしろくする。

・セーブはどこか堕胎を思わせて不愉快である。

・爽快なエラーはプロ野球に不可欠の積極的プレーである。

(『世紀末のプロ野球』角川文庫より)

この勇ましい「女性」の言葉と、次のように言う「後期高齢者」のぼやきに同じひとの語りを見ないのは難しい。

「国民や国の期待を背負うと、どれほどスポーツがスポーツ以外のものに変化していくか。それを見せつけられた何とも陰惨なW杯でした。サッカーとは本来『ゲーム』であり、運動することの爽快感や驚きが原点のはずですが、W杯は命懸けの『真剣勝負』に見えてしまう。お互いもう少しリラックスしなければ、やっている選手もおもしろいはずがないし、見ている側も楽しめない」(インタビュー)W杯の限界 仏文学者・蓮實重彦さん 2014.7.19)

ーーで、やっぱり最近の若い人は「真面目で行儀よくて誠実」すぎるんじゃないかい?

…………

ところで、「賞賛」されると、照れてしまうタイプのひとがいるのであって
下手な称賛は慎むべきなのだろうな

賞讃の効果。 ――ある人たちは、大きな賞讃によってはにかみ、他の人たちは、あつかましくなる。(ニーチェ『曙光』 525番)

このあたりも「繊細さ」の問題さ、わかるかい、お嬢さん?

称賛することには、非難すること以上に押しつけがましさがある。(ニーチェ『善悪の彼岸』 170番)
思い上がった善意というものは、悪意のようにみえるものだ。(『善悪』 184番)

このところ喋りすぎだな
貴嬢貴君の病気がうつったかな
デュラスは「書くことは語らないこと」っていっているわけだしさ
ツイッターやらブログやらはどうしても「語る」ことになりがちなのさ

全然黙っているっていうのも悪くないね
つまり管弦楽のシンバルみたいな人さ
一度だけかそれともせいぜい二度
精一杯わめいてあとは座っている

ーー谷川俊太郎「夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった」より