人間は諸関係の中で死ぬのである限り、死ぬ自由などありはしないと思った。死のうとする意志がどうしようもなくあるのは認めるが、死ぬ自由などないのである。
その考えは、ぼくの倫理でもあるが、ぼくはその時、奇妙なことに、なにひとつまっとうな人間としてものを考えようとしないやつらは、生きてても目ざわりになるから首でもくくって死ね、そうすれば皮でもはいで肉を犬にでもくれてやる、と思ったのだった。おもしろい反応である。(中上健次『鳥のように獣のように』)
もうすこし穏和系も引用しとこう
私はまったく平和的な人間だ。私の希望といえば、粗末な小屋に藁ぶき屋根、ただしベッドと食事は上等品、非常に新鮮なミルクにバター、窓の前には花、玄関先にはきれいな木が五、六本―――それに、私の幸福を完全なものにして下さる意志が神さまにおありなら、これらの木に私の敵をまあ六人か七人ぶら下げて、私を喜ばせて下さるだろう。そうすれば私は、大いに感激して、これらの敵が生前私に加えたあらゆる不正を、死刑執行まえに許してやることだろう―――まったくのところ、敵は許してやるべきだ。でもそれは、敵が絞首刑になるときまってからだ。(ハイネ『随想』――フロイト『文化への不満』から孫引き)
…………
さて冒頭の話とはマッタクカンケイガナイ
@dongyingwenren: 正直、イデオロギー抜きで各論検証した場合、脱原発も秘密保護法反対も集団的自衛権反対もそれなり以上に主張する意味があると思えるのに、実際に支持する人を見ると「生理的に嫌になる(→消極的賛成を示さざるを得ないかと思えてくる)」この現象は何なんだろう。煽り抜きでヤバい気がするのだが。
などとソウメイな方がツブヤカレテオラレ、たくさんのRTやファボを集めてオラレル
ノンフィクション作家、多摩大学「現代中国入門」非常勤講師。著書『中国人の本音』(講談社) 、『独裁者の教養』(星海社)、『中国・電脳大国の嘘』(文藝春秋)ほか。近著に『和僑』(角川書店)amzn.to/YOIgIX 。講談社『COURRiER Japon』誌で「ダダ漏れチャイニーズ」好評連載中です。
マジョリティに好まれる呟きであるに相違ない
闘ってるやつらを皮肉な目で傍観しながら、「やれやれ」と肩をすくめてみせる、去勢されたアイロニカルな自意識ね。いまやこれがマジョリティなんだなァ。(浅田彰『憂国呆談』)
何もしないなら黙ってろ、黙ってるのが嫌なら何かしろ、という性質の話の筈。偉そうにTwitterでどっちもどっち論を繰り返し、動いているのは指先のみ。いま大学人がいかに信用失墜しているか新聞でも眺めればわかる筈なのに、そのざまか。民衆は学び、君を見ているぞ、「ケンキューシャ」諸君。(佐々木中)
「消極的賛成を示さざるを得ないかと思えてくる」とは、ひょっとして《混乱に対して共感を示さずにおくことの演じうる政治性に無自覚であることの高度の政治的選択》(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』P582)かもな
自分には政治のことはよくわからないと公言しつつ、ほとんど無意識のうちに政治的な役割を演じてしまう人間をいやというほど目にしている(……)。学問に、あるいは芸術に専念して政治からは顔をそむけるふりをしながら彼らが演じてしまう悪質の政治的役割がどんなものかを、あえてここで列挙しようとは思わぬが、…… 同『凡庸』P461
…………
私化した個人は、原子化した個人と似ている(政治的に無関心である)が、前者では、関心が私的な事柄に局限される。後者では、浮動的である。前者は社会的実践からの隠遁であり、後者は逃走的である。この隠遁性向は、社会制度の官僚制化の発展に対応する。(中略)原子化した個人は、ふつう公共の問題に対して無関心であるが、往々ほかならぬこの無関心が突如としてファナティックな政治参加に転化することがある。孤独と不安を逃れようと焦るまさにそのゆえに、このタイプは権威主義リーダーシップに全面的に帰依し、また国民共同体・人種文化の永遠不滅性といった観念に表現される神秘的「全体」のうちに没入する傾向をもつのである。(「個人析出のさまざまなパターン」『丸山真男集』第九巻p385---丸山真男とジジェクのシューマ)
《実際に支持する人を見ると「生理的に嫌になる」》とはなんだろう?
あれら原子化した個人の群衆のぶざまな醜態は「原始的集団における情緒の昂揚と思考の制止」ってわけでもあるまい?
あれら原子化した個人の群衆のぶざまな醜態は「原始的集団における情緒の昂揚と思考の制止」ってわけでもあるまい?
集団内部の個人は、その集団の影響によって彼の精神活動にしばしば深刻な変化をこうむる(……)。彼の情緒は異常にたかまり、彼の知的活動はいちじるしく制限される。そして情緒と知的活動と二つながら、集団の他の個人に明らかに似通ったものになっていく。そしてこれは、個人に固有な衝動の抑制が解除され、個人的傾向の独自な発展を断念することによってのみ達せられる結果である。この、のぞましくない結果は、集団の高度の「組織」によって、少なくとも部分的にはふせがれるといわれたが、集団心理の根本事実である原始的集団における情緒の昂揚と思考の制止という二つの法則は否定されはしない。(フロイト『集団心理学と自我の分析』)
《フロイト自身、ここでは、あまりにも性急すぎる。(……)フロイトにとっては、あたかも“退行的な”原始集団、典型的には暴徒の破壊的な暴力を働かせるその集団は、社会的なつながり、最も純粋な社会的“死の欲動”の野放しのゼロ度でもあるかのようだ。
(だが……)“退行的な”原始集団は最初に来るわけでは決してない。彼らは人為的な集団の勃興の“自然な”基礎ではない。彼らは後に来るのだ、“人為的な”集団を維持するための猥雑な補充物として。このように、退行的な集団とは、象徴的な「法」にたいする超自我のようなものなのだ。象徴的な「法」は服従を要求する一方、超自我は、われわれを「法」に引きつける猥雑な享楽を提供する。》(ジジェク『LESS THAN NOTHING』――デモの猥雑な補充物としての「享楽」)
それとも連中は「賤民」ってわけかい? まさか!
権力をもつ者が最下級の者であり、人間であるよりは畜類である場合には、しだいに賤民の値が騰貴してくる。そしてついには賤民の徳がこう言うようになる。「見よ、われのみが徳だ」と(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第四部「王たちとの会話」手塚富雄訳)
憎悪だけで寄り集まった連中だってわけでもないだろ?
特定の個人や制度にたいする憎悪は、それらにたいする積極的な依存と同様に、多くの人々を一体化させるように作用するだろうし、類似した感情的結合を呼び起こすであろう。(フロイト『集団心理学と自我の分析』フロイト著作集6 P219)
なんにもしないよりなんかしたほうがマシじゃないのかい?
私は政治を好まない。しかし戦争とともに政治の方が、いわば土足で私の世界のなかに踏みこんできた。(加藤周一「現代の政治的意味」あとがき 1979)
私は、たとえば、ほんの少量の政治とともに生きたいのだ。その意味は、私は政治の主体でありたいとはのぞまない、ということだ。ただし、多量の政治の客体ないし対象でありたいという意味ではない。ところが、政治の客体であるか主体であるか、そのどちらかでないわけにはいかない。ほかの選択法はない。そのどちらでもないとか、あるいは両者まとめてどちらでもあるなどということは、問題外だ。それゆえ私が政治にかかわるということは避けられないらしいのだが、しかも、どこまでかかわるというその量を決める権利すら、私にはない。そうだとすれば、私の生活全体が政治に捧げられなければならないという可能性も十分にある。それどころか、政治のいけにえにされるべきだという可能性さえ、十分にあるのだ。(ブレヒト『政治・社会論集』ーー「涙もろいリベラルが「ファシズムへ の道」だと非難するなら、言わせておけ!」(ジジェク))
インテリくんたちは、どっちかしかないことぐらいワカッテルダロウナ?、権力の道具か権力を批判する道具か
けだし政治的意味をもたない文化というものはない。獄中のグラムシも書いていたように、文化は権力の道具であるか、権力を批判する道具であるか、どちらかでしかないだろう。(加藤周一「野上弥生子日記私註」1987)
岡崎乾二郎の昨日のツイート、削除してしまってるな
@kenjirookazaki: まさか、自分の国が道ならぬ道を歩むこといになるとは思ってもみなかった 花 でした。てっ!
ところで、《自分の国が道ならぬ道を歩むこといになるとは思ってもみなかった》という痛恨の思いに囚われている人でも、「脱原発も秘密保護法反対も集団的自衛権反対もそれなり以上に主張する意味があると思えるのに、実際に支持する人を見ると「生理的に嫌になる」なんて呟くもんだろううか?
いやいや、まだ若い人の囀りなのだ、なんのウラミもない、寡聞にして、はじめて知った名でね
《私はまったく平和的な人間だ。私の希望といえば、粗末な小屋に藁ぶき屋根、ただしベッドと食事は上等品、非常に新鮮なミルクにバター、窓の前には花、玄関先にはきれいな木が五、六本……》、犬が四匹、人間の皮をはいで肉をあたえたことはまだない