外国人差別も市民レベルではなかったといってよい。ただ一つベトナム難民と日本人とが同じ公園に避難した時、日本人側が自警団を作って境界に見張りを立てたことがあった。これに対して、さすがは数々の苦難を乗り越えてきたベトナム難民である。歌と踊りの会を始めた。日本人がその輪に加わり、緊張はたちまちとけて、良性のメルトダウンに終ったそうである。(中井久夫「災害被害者が差別されるとき」『時のしずく』所収)
午前一時。皆、寝静まりました。カフェー帰りの客でも乗せているのでしょうか、たまさか窓の外から、シクロのペダルをこぐ音が、遠慮がちにカシャリカシャリと聞こえてくるほかは、このホテル・トンニャット全体が、まるで深海の底に沈んだみたいに、しじまと湿気とに支配されています。(辺見庸『ハノイ挽歌』)
今は街中は交通事情のためシクロは多くの通りで出入り禁止になってしまった。
こういった景色は、今では中心部から外れた場所でしか見られない。
ところで辺見庸の文章はウェブ上から拾って手元にあるわけではないのだが、妙に印象に残る文章だと思ったら、「シクロ」、「深海」、「沈んだ」、「しじま」、「湿気」、「支配」と頭韻が踏んであるのだな。その前にある「寝静まり」の、シ音さえ響き合う。
「カフェー帰り」、「客」、「遠慮がちにカシャリカシャリ」も「カ」音のも、これはなんというのか、はて押韻だったか? まだほかにも「カ」音があるな
意図的かどうかは知れないが、こういった文章書かなくちゃな。
…………
君たちはどこへでも好きな所に行くがいい、私はこのベンガルの岸に
残るつもりだ そして見るだろう カンタルの葉が夜明けの風に落ちるのを
焦茶色のシャリクの羽が夕暮に冷えてゆくのを
白い羽毛の下、その鬱金(うこん)の肢が暗がりの草のなかを
踊りゆくのを-一度-二度-そこから急にその鳥のことを
森のヒジュルの樹が呼びかける 心のかたわらで
私は見るだろう優しい女の手を-白い腕輪をつけたその手が灰色の風に
法螺貝のようにむせび泣くのを、夕暮れにその女(ひと)は池のほとりに立ち
煎り米の家鴨(いりごめのあひる)を連れてでも行くよう どこか物語の国へと-
「生命(いのち)の言葉」の匂いが触れてでもいるよう その女(ひと)は この池の住み処(か)に
声もなく一度みずに足を洗う-それから遠くあてもなく
立ち去っていく 霧のなかに、-でも知っている 地上の雑踏のなかで
私はその女(ひと)を見失うことはあるまい-あの女(ひと)はいる、このベンガルの岸に
ーーー『美わしのベンガル』ジボナノンド・ダーシュ、臼田雅之訳より
汽車が速度をはやめだしたあいだも私はまだじっとその美しい娘を目で追っていたが、その姿は、私の知っている人生とは何かのふちかざりでへだてられた、べつの人生の一部分のようであり、そこにあっては、物の呼びさます感覚は、もはや普通の感覚ではなく、いまそこから出て元の人生に帰ることは、私自身を永久に見すてるにもひとしかったであろう。すくなくとも、そうした新しい人生につながっていると感じる甘美な気持をつづけてもつには、毎朝ここへきてこの田舎娘からミルク・コーヒーを買うことができるように、この小さな駅のすぐ近くに住めばよかったであろう。しかし、ああ! 私がこれから次第に早くそのほうにはこばれてゆくべつの生活には、彼女はつねに不在なのだ。かならずいつかまたこのおなじ汽車に乗り、このおなじ駅にとまれるようにしよう、そうしたプランを立てないではとても私はあきらめてこれからの生活を受けいれる気にはなれなかった。(プルースト 「花咲く乙女たちのかげにⅠ」井上究一郎訳)
1995年の阪神大震災とオウムの年、日本の生活から逃げるようにした三十代なかばの鬱屈した男は、インドシナのいくつかの土地をたいした目的もなく彷徨い、とりあえずの短い旅だけではなく、ある国に二ヶ月ほど住んでみることにした。
狭い路地に隔てられた向かいのアパートメントで色黒だが可憐な若い家政婦が部屋を掃除したりベランダに出て洗濯物を干したりしている。朝、こちら側のアパート、六階建ての三階にある殺風景な部屋のベランダに下着を干したりしていて、何度かその姿に目をやっていると、少女はそれに気づき互いに挨拶するようになった、覚えたての当地の言葉で、「おはよう、いい天気だね!」と。何日かすると、彼女は仕事が終ると近くの牛鍋家で給仕をしていること身ぶり手ぶりを交えて告げた。
それはプルーストのミルクコーヒー売りの田舎娘の話のようでもあり、あるいは大江健三郎の『懐かしい年の手紙』の次の一節のようでもあった。
《インスルヘンテス大通りのなにやら古風なざわめきが、こちらは今日風な車のクラクションともども階下のガレージから聞こえてくる殺風景なアパートで、僕はあきることがなかった。窓から見おろす妙に奥行きの深い建物の屋上には、いちめんに張りわたしたロープに毎日大量の洗濯物が干されていた。ひとりよく働く洗濯婦は、日中の労働が終ると、建物脇の階段の奥から運び出す大型の七輪に釜を載せて、売り物のタコスを焼きはじめる、そうした眺めをあかず見おろしながら……》。
きみが手紙に書いて来たドイツ系の日本研究者のさ、牛に踏み荒らされた泥濘の裏通りに日本風の風呂のあるコンクリートの家を建てて、混血〔メステイソ〕の若妻と暮らしているという暮し向きにね、スルリと入って行きそうな気もするんだ。/きみがひとりで経験しているメキシコ・シティーの長い夕暮の時間がね、きみにとって東京の家族のことはすこしも思わず、ただゆったりした時間の流れにひたっていることのある、そうした奇態なものだと、きみのいうその表現には妙な実感がある。Kちゃんよ、自分もまさに奇態なものをそこにかぎとるふうなんだが……
もっとも、牛鍋屋の娘ばかりではない、当時この土地は平均月収が30ドルほどであり、盛り場の若い女たちは、金ばなれのよさそうな異国の男たちにとても愛想がよかった(ただし目抜き通りの酒場のいくつかは米軍駐留時の酒池肉林に練磨された伝統を持っており、油断すると容赦なかった)。女たちの多くはまさに「泥濘の裏通り」に住んでおり、女の運転するバイクのバックシートやら、シクロに二人掛けで、その家を訪れると、彼女の父母やら兄弟、あるいは祖父母だかにまで歓待される。あれでほとんど危ない目に遭わなかったのは幸運だったのか……、女だと思ったまま部屋についてから男だと気がついたこともあった。
若い女の故郷、メコンデルタにある町にも誘われて何度か訪れた。
夜のことは覚えている。青い色が空よりもっと遠くに、あらゆる厚みの彼方にあって、世界の奥底を覆いつくしていた。空とはわたしにとって青い色をつらぬくあの純粋な輝きの帯、あらゆる色の彼方にある冷たい溶解だった。ときどきヴィンロンでのことだが、母は気持ちが沈んでくると、小さな二輪馬車に馬をつながせて、みんなで乾季の夜を眺めに野原に出た。あれらの夜を知るために、わたしには運よくあのような母がいたことになる。空から光が一面の透明な滝となって、沈黙と不動の竜巻となって落ちてきた。空気は青く、手につかめた。青。空は光の輝きのあの持続的な脈動だった。夜はすべてを、見はるかすかぎり河の両岸の野原のすべてを照らしていた。毎晩毎晩が独自で、それぞれがみずからの持続の時と名づけうるものであった。夜の音は野犬の音だった。野犬は神秘に向かって吠えていた。村から村へとたがいに吠え交わし、ついには夜の空間と時間を完全に喰らいつくすのだった。(デュラス:『愛人(ラマン)』)
空に七つの星が昇ったとき 私はこの草に
座りつづける カムランガの花の赤さの雲が 死んだモニア鳥(どり)のように
ガンジスの河波に沈んでいった-やってきたのは静かな慎ましい
ベンガルの青い夕暮れ-美しい髪の娘が空にあらわれたかのよう、
私の目のうえに 私の口のうえに 彼女の髪は漂う、
地上のどんな道もこの娘を見たことがない-見たことはない これほど
豊かな髪がヒジョル、カンタル、ジャームの樹々にたえまなく口づけをふらすのを
知らなかった こんなにやわらかな匂いが立つとは 美しい女(ひと)の結いあげた髪に
地上のどんな道でも、やわらかな稲の香り-藻草の匂い
家鴨(あひる)の羽、葦、池の水、淡水魚たちの
微かな匂い、若い女の米をとぐ濡れた手-冷たいその手
若者の足に踏まれた草むら-たくさんの赤い菩提樹の実の
痛みにふるえる匂いの疲れた沈黙-これらのなかにこそベンガルの生命(いのち)を
空に七つの星が昇ったとき 私はゆたかに感じる。(同『美わしのベンガル』)
「私はまだじっとその美しい娘を目で追っていたが、その姿は、私の知っている人生とは何かのふちかざりでへだてられた、べつの人生の一部分のようであり、そこにあっては、物の呼びさます感覚は、もはや普通の感覚ではなく、いまそこから出て元の人生に帰ることは、私自身を永久に見すてるにもひとしかった」のであり「ただゆったりした時間の流れにひたっていることのある、そうした奇態な」感覚を捨て去るわけにはいかなかった。
奇態な両義性ということについていえば、メキシコの広大な空のもと微光が瀰漫しているところへ、しだいに赤っぽい粉のような気配がただよいはじめて、そしてついに日が昏れるまでの、長い長い時間、僕は決して当の時間の進行のゆったりさ加減に苛立つことはなかった。時間の汐溜りのなかに、プランクトンさながら漂っている気分だったわけだ。ヒカリが障害を持って生まれて以来、自分とかれの情動のどこかが癒着しているようにしてずっと生きて来たのに、ヒカリのこともその弟妹のことも、かれらの母親のこともまた、まったく考えず一日を終えたことに気がついたりしていた。むしろ僕は、四国の森のなかの谷間ですごした子供の時分に、長い時のゆっくりした進行をいささかも苦にせず、底の深い淵にでもひたっているような気持だった時期の、その再現を経験している思いでもあったのである。(大江健三郎『懐かしい年への手紙』)