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2014年9月24日水曜日

兆候的なもののひしめき

読書の快楽のーーあるいは、快楽の読書のーー類型学を想像することができる。それは社会学的な類型学ではないだろう。なぜなら、快楽は生産物にも生産にも属していないからである。それは精神分析的でしかあり得ないだろう。

そして、読書の神経症とテクストの幻覚的形式とを結びつけるだろう。フェティシストは、切り取られたテクストに、引用や慣用語や活字の細分化に、単語の快楽に向いているだろう。強迫神経症者は、文字や、入れ子細工状になった二次言語や、メタ言語に対する官能を抱くだろう(この部類には、すべての言語マニア、言語学者、記号論者、文献学者、すなわち、言語活動がつきまとうすべての者が入るだろう)。偏執症者(パラノイア:引用者)は、ねじれたテクスト、理屈として展開された物語、遊びとして示された構成、秘密の束縛を、消費し、あるいは、生産するだろう。(強迫症者とは正反対の)ヒステリー症者は、テクストを現金として考える者、言語活動の、根拠のない、真実味を欠いた喜劇に加わる者、もはやいかなある批評的視線の主体でもなく、テクスト越しに身を投げる(テクストに身を投影するのとは全く違う)者といえるであろう。(ロラン・バルト『テクストの快楽』)

強迫神経症、ヒステリー、パラノイア、倒錯という言葉が出てきている。

ラカン派の疾患分類は、神経症、精神病、倒錯が三大カテゴリーであり、それぞれ抑圧、排除、否認の機制によって規定される。神経症の下位分類にヒステリーと強迫があり、精神病の下位分類にパラノイアとスキゾフレニーとメランコリーがある。

ロラン・バルトの上の文には、スキゾフレニー(分裂病=統合失調症)とメランコリーは出てきていないことになる(倒錯はフェティシストとして現れている)。

ここでミレールの説明を掲げておこう。

ラカンが新しい概念をつかんだとき、あるいは臨床的仕事の新しい観点を強調するとき、彼はそれを神経症・精神病・倒錯に適用します。精神分析においては、新しい観点を作るならば、この三つの領域に関連付けて複雑にしなければならないのです。神経症・精神病・倒錯の三つだけが領域なのではありません。例えば、男と女、男性的構造と女性的構造という臨床的カテゴリーもあります。これは三つの主要な臨床的カテゴリーをきれいに横断しています。例えば、ラカンは倒錯は男性的剥奪であり、男と女の二項構造を神経症・精神病・倒錯の三つ組みと結合させるとさらに複雑になると言っています。私たちが言いうるのは、倒錯は男性的剥奪であり、本物の精神病のすべては女性であろうということです。ラカンは精神病を「女性への衝迫[pousse a la femme]」とみなすという、今では有名となったフレーズを作りました。精神病は女性の領域にあるのです。神経症においては、 ヒステリーと強迫が区別され、 一般に女と男に関連付けられます。しかし、だからといってヒステリーの男性がいないと主張するのではありません。…(「ラカンの臨床パースペクティヴへの導入」 ジャック=アラン・ミレール松本卓也訳)

おそらくラカンに依拠しているだろうロラン・バルトの説明をそのまま信じなくてもいいのだが、バルトのような捉え方は、なにも読書に限らない。たとえば芸術一般にかんして、ひとのタイプによりそれぞれの鑑賞の仕方があるはずだ。

わたくしは倒錯的なところがあると自らを見なしているのだが、バルトは《フェティシストは、切り取られたテクストに、引用や慣用語や活字の細分化に、単語の快楽に向いている》としている。ははあ、図星だな、というのは、このブログをすこしでも眺めれば分かるだろう。

「どれがよく見えるかあなたがた自身で見てごらん、このレンズか、あのレンズか、そちらのレンズか。」――プルーストはそう語る、しかし裸眼でもすでに各人異なった光学器械をそなえているには違いない。


私の読者たちというのは、私のつもりでは、私を読んでくれる人たちではなくて、彼ら自身を読む人たちなのであって、私の書物は、コンブレーのめがね屋が客にさしだす拡大鏡のような、一種の拡大鏡でしかない、つまり私の書物は、私がそれをさしだして、読者たちに、彼ら自身を読む手段を提供する、そういうものでしかないだろうから。したがって、私は彼らに私をほめるとかけなすとかいうことを求めるのではなくて、私の書いていることがたしかにその通りであるかどうか、彼らが自身のなかに読みとる言葉がたしかに私の書いた言葉であるかどうかを、私に告げることを求めるだけであろう(その点に関して、両者の意見に相違を来たすこともありうる、といってもそれは、かならずしも私がまちがっていたからそういうことが起こるとはかぎらないのであって、じつはときどきあることだが、その読者の目にとって、私の書物が、彼自身をよく読むことに適していない、ということから起こるのであろう)。本を読むとき、読者はそれぞれに自分自身を読んでいるので、それがほんとうの意味の読者である。作家の著書は一種の光学器械にすぎない。作家はそれを読者に提供し、その書物がなかったらおそらく自分自身のなかから見えてこなかったであろうものを、読者にはっきり見わけさせるのである。書物が述べていることを読者が自分自身のなかに認めることこそ、その書物が真実であるという証拠であり、すくなくともある程度、その逆もまた真なりであって、著者のテキストと読者のテキストのあいだにある食違は、しばしば著者にでなくて読者に負わせることができる。さらにつけくわえれば、単純な頭の読者にとって、書物が学問的でありすぎ、難解でありすぎることがある、そんなときはくもったレンズしかあてがわれなかったように、読者にはよく読めないことがあるだろう。しかし、それとはべつの特殊なくせ(倒錯のような)をもった読者の場合には、正しく読むために一風変わった読みかたを必要とすることもあるだろう。著者はそれらのことで腹を立てるべきではなく、むしろ逆に、最大の自由を読者に残して、読者にこういうべきである、「どれがよく見えるかあなたがた自身で見てごらん、このレンズか、あのレンズか、そちらのレンズか。」(プルーストの『見出された時』井上究一郎訳)

…………


だれが何病である(精神病理として)というのは、しばしばピント外れのように思えるものも多いし、あまりこういったことは書くべきではないのかもしれないが、国立音楽大学教授で医学博士の阪上正巳さんという方が、《シェーンベルクにパラノイア性,ベルクに循環病性および神経症性,ウェーベルンに統合失調症性》とされている記事にたまたまめぐり合った。

これにはなるほどと思わせるものがあり、ベルクについてはどうかは分からないが、シェーンベルクがパラノイア親和型で、ウェーベルンが分裂病親和型というのは、その音楽から受ける印象とぴったりである。

とくにウェーベルンについては、いままでに何度か、中井久夫の分裂症状のあり方を捉えようとする表現とともにその印象を書いている(たとえば「中井久夫と創造の病い」)。


・《奇妙な静けさとざわめきとひしめき》

・《もっとも遠くもっとも杳かな兆候をもっとも強烈に感じ、あたかもその事態が現前するごとく恐怖し憧憬する》





そもそもウェーベルンを聴いて「亡霊たちのざわめき」を聴かないでいるのはむずかしい(これはわたくしの場合であり、それぞれのひとにより、別の曲に「亡霊たちのざわめき」を聴く場合もあれば、そんな「ざわめき」に関心がないひともいるだろう。だが、たとえばシューベルトにデモーニッシュな響きを聴くというのとは、わたくしの場合、ウェーベルンは異質の感覚がある)。

青年期に一過性に分裂病を経験した人の数は予想以上に多数ではあるまいか。その後、社会的に活躍している人のなかにも稀れでないことは、狭い経験からも推定される。外国の例を挙げれば、哲学者ヴィトゲンシュタインは一九一三年にほとんど分裂病状態に陥っていたらしいことが最近刊行された書簡集によって知られるーー「亡霊たちのざわめきの中からやっと理性の声が聞こえてきました。……それにしても狂気からほんの一歩のところにいたのに気づかなかったとは」と。逆に二〇年以上分裂病を病んだロシアの舞踏家ニジンスキーは、大戦末期、医療をまったく受けえない状態で晩期寛解に至っていたのではあるまいか。(中井久夫『分裂病と人類』ーー中井久夫と創造の病い





あるいは、自転車で人ごみを突っ走って、切れ切れに耳に入ってきた音でももちろんよい(ウェーベルンは、しかしながら、もし統合失調症であったならば、後年やや回復したのではないか、後期の作品は兆候的なもののひしめきは、比較的穏やかになっている感を受ける。わたくしがよく聴くのは作品五から作品十一まで)。

オランダの臨床精神医学者リュムケは、正常者でもすべていわゆる分裂病症状を体験する、ただしそれは数秒から数十秒であると述べている。この持続時間の差がなにを意味するのか、と彼は自問する。

私は回復期において一週に一、二回、数十分から二、三時間、“軽症再燃”する患者を一人ならず診ている(慢性入院患者がごく短時間「急性再燃」を示すという報告も別にある)。なかでも、自転車で人ごみのなかを突っ走ると起こりやすい場合があるのは興味がある。当然、追いぬく人の会話の一句二句をひろって走ることになる。この切れ切れに耳に入ってきた人のことばは、それ自体はほとんどなにも意味しないのだが、いやそれゆえにと言うべきか、聴きのがせぬ何かの(たとえば自分への批評の)兆候となる。そこからさまざまな“異常体験”への裂け目がはじまる。しかし、じっとして“ふりまわされぬ”ようにしていれば、この兆候的なもののひしめく裂け目は閉じ、すべてが過ぎ去ることが判ってきて、そのようにしているとーーー決して愉快な時間ではないがーーーいつのまにか消えてゆく。この場合、ガラスにひびの走るように拡がって急速なパニックには陥らないわけで、どうやら多くの“分裂病性異常体験”は、その基底にある不安あるいは(対人的)安全保障喪失感の“量”というか根の深さいかんで、恐慌状態になる場合からほとんど看過ごされる場合まで実に大きな幅があるようだ。幻聴でも、すこし聴こえただけで参ってしまう人もあるが、「大学教授なら停年までつとめられる例がある」とも聞いた。もっとも、持続時間を決定している因子はまた別かも知れない。(同中井『分裂病と人類』)