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2013年6月2日日曜日

妻女と子供の共有ーープラトン『国家』より

「最もすぐれた男たちは最もすぐれた女たちと、できるだけしばしば交わらなければならないし、最も劣った男たちと最も劣った女たちは、その逆でなければならない。また一方から生まれた子供たちは育て、他方のこどもたちは育ててはならない。もしこの羊の群れが、できるだけ優秀なままであるべきならばね。そしてすべてこうしたことは、支配者たち自身以外には気づかれないように行わなければならないーーもし守護者たちの群がまた、できるだけ仲間割れしないように計らおうとするならば」

(……)
「さらにまた若者たちのなかで、戦争その他の機会にすぐれた働きを示す者たちには、他のさまざまの恩典と褒賞とともに、とくに婦人たちと共寝する許しを、他の者よりも多く与えなければならない。同時にまたそのことにかこつけて、できるだけたくさんの子種がそのような人々からるつくられるようにするためにもね」
(……)

「で、ぼくの思うには、すぐれた人々の子供は、その役職の者たちがこれを受け取って囲い〔保育所〕へ運び、国の一隅に隔離されて住んでいる保母たちの手に委ねるだろう。他方、劣った者たちの子供や、また他方の者たちの子で欠陥児が生まれた場合には、これをしかるべき仕方で秘密のうちにかくし去ってしまうだろう」

(……)
「またこの役目の人たちは、育児の世話をとりしきるだろう。母親たちの乳が張ったときには保育所へ連れてくるが、その際どの母親にも自分の子がわからぬように、万全の措置を講ずるだろう。そして母親たちだけでは足りなければ、乳の出る他の女たちを見つけてくるだろう。また母親たち自身についても、適度の時間だけ授乳させるように配慮して、寝ずの番やその他の骨折り仕事は、乳母や保母たちにやらせるようにするだろう」


――プラトン『国家』藤沢令夫訳 岩波文庫 上 第5巻「妻女と子供の共有」p367-369

…………

以下は上記のプラトンとは直接係らない。


先ずはマルクスを引用する。

《売春、労働者普遍的身売りの特殊形態にすぎない》(マルクス『経済哲学草稿』)“Prostitution is only a specific expression of the general prostitution of the labourer”


そしてほとんど無知の分野であるフェミニズムをめぐっては、次の記事より(フェミニズム(Feminism))。


3)マルクス主義フェミニズム

エンゲルス『家族、私有財産、国家の起源』
マルクス主義では、労働は自己実現であり人間の本質であると考えられる。(しかし、それを売らなければ生きることが出来ないのが資本主義社会における労働者だ。労働が「商品」であることによって、労働者は自己の本質から疎外される。)

伝統的に、女性には、家事と育児という役割が与えられてきた。
家事と育児は労働を再生産する仕事である。夫の世話をしその労働力をリフレッシュする仕事、そして新たな労働力として子どもを産み育てるという仕事だ。
しかし家事と育児は「交換価値」を持たない(任意の誰かと「交換する=売る」ことが出来ない)ので、資本主義社会においては、女性は従属的な地位に置かれざるを得ない。
父権は、妻を夫の所有物とし、「女性」を「母性」へと限定しようとする。


歴史的に見れば、一夫一妻制は、私有財産を自分の正統な子どもに残すことが出来るように、作られたシステムである。

1)野蛮時代においては、結婚は「群婚」という形態であった。乱婚であるから、男にとってはどの子が自分の子なのか分らない(また子どもも自分の父親が分らない)が、産んだ母親は自分の子が分る。従って、女性中心の家族形態である女系制、そして「母権制」の形態が古代社会においては支配的となる。

2)未開社会においては、結婚は「対偶婚」という形態をとる。これは固定的でない一夫一妻の形態である。生産手段の発達が、財産の蓄積を可能にし、母権制から父権制への移行を促す。

3)文明社会において、一夫一妻制という妻を夫の所有物として囲い込む制度が、結婚の支配的な形態となる。
それは、その必然的な補完物として、売春や不倫を伴なう。


「家族史は、1861年に出版された、バッハオーフェンの『母権制』から始まる。ここで著者は、次のように主張している。

(1)人間は当初、「娼婦制」という不当な名前で呼ばれている、縛られることのない性生活を送っていた。

(2)このような交わりは、父性を見分け難くするので、血統は、女系において、母権によってしか辿りえなかった。…

(3)その結果、女性は、子どもにとって確認できる唯一の親である母親として、高い敬意と尊敬を払われ、著者の見解によれば、それが完全な女性支配にまで高まっていた。

(4)女性が一人の男に属する単婚への移行は、太古の宗教的な戒律の侵害を意味していた。…」

「一夫一妻制が決定的な勝利を手にすることは、文明期が始まりつつあることの指標である。それは、誰が父であるか争う余地のない子どもを産むという明白な目的を持って、男性支配の上に築かれている。そして、こういう父の確実性が要求されるのは、その子どもが血の繋がった相続人として、父親の財産を相続することになっているからである。一夫一妻制と対偶婚とが違う点は、結婚の絆が遥かに強固になっており、双方の意のままには解消できないことである。今や結婚を解消し妻を離縁できるのは、原則として夫の側だけである。」(エンゲルス『家族、私有財産、国家の起源』)


「シャドウ・ワーク(shadow work)」という概念(イヴァン・イリイチ)

産業化社会は、個人生活の自立の基礎を破壊し、その自律性を奪い取る傾向を持つ。
「労働」、特に近代の「賃労働」は、それ自体が疎外された労働であるが、それだけでなく、それを支える影の部分に、様々な種類の「不払い労働」を抱えている。女性の家事労働がその典型だ。

「<影の経済>が起こるとともに、賃金も支払われず、かといって家事が市場から自立することに役立つわけでもない、一種の労役が出現する。この新しい種類の活動の最もよい例は、人間生活の自立に無関係な、新しい家事という領域において行なわれる、主婦による<シャドウ・ワーク>である。」(イリイチ『シャドウ・ワーク』玉野井芳郎・栗原彬訳、から一部変更して引用)

「賃労働を補完するこの労働を、私は<シャドウ・ワーク>と呼ぶ。これには、女性が家やアパートで行なう大部分の家事、買物に関する諸活動、家で学生たちがやたらにつめこむ試験勉強、通勤に費やされる骨折りなどが含まれる。押し付けられた消費のストレス、施療医へのうんざりするほど規格化された従属、官僚への盲信、強制される仕事への準備、通常「ファミリー・ライフ」と呼ばれる多くの活動なども含まれる。」(同上)


4)「母性」という神話

フロイトが理論化したように、「母性」と「父性」は、子どもが健康に育つ上で不可欠な二つの要素である。しかし、女性が生得的に母性の持ち主であり、育児に適しているという考え方は、誤謬である。

エリザベート・バダンテール(Elisabeth Badinter)『母性という神話(L'Amour en Plus)』(鈴木晶訳)

「数多くの資料によれば、里子の習慣がブルジョワジーのあいだに広まったのは十七世紀のことである。この階級の女たちは、子育てのほかにすることがたくさんあると考え、そう公言してはばからない。
だが、里子の習慣が都会のすべての階級に浸透するのは十八世紀になってからである。

パリは、例によって、その典型である。子どもたちはパリからはるか遠くへ、時には五十里も離れた、ノルマンディーやブルゴーニュやボーヴェジに送られた。警視庁長官ルノワール氏がハンガリーの女王に送った報告書は貴重である。一七八〇年、首都パリでは、一年間に生まれる二万一千人(総人口は八十万から九十万である)の子どものうち、母親に育てられるものは千人に満たず、住み込みの乳母に育てられるのは千人である。他の一万九千人は里子に出される。」

「一七六〇年頃から、母親にたいして、自分で子どもの世話をするように勧め、子どもに授乳をあたえるように「命ずる」書物が数多く出版された。それらは、女はまず何よりも母親でなければならないという義務を作りだし、二百年後の今日でも根強く生きつづけている神話を生んだ。それは、母性本能の神話、すなわち、すべての母親は子どもたちにたいして本能的な愛を抱くという神話である。」

「著者がいわんとしていることはこうだ――いわゆる母性愛は本能などではなく、母親と子どもの間で育ってゆくものであり、母性愛を本能だとするのは一つのイデオロギーである。このイデオロギーは女性が自立した人間存在であることを認めようとせず、母親の役割だけに押し込める。さらには、子どもにたいして母親としての愛情を感じることのできない女性を「異常」として社会から排除しようとする。」(鈴木晶「あとがき」ちくま学芸文庫)


ところで、ジジェクは『Less Than Nothing』(2012)のなかで、上にも引用されている仏国の女流歴史家かつ哲学者であるÉlisabeth Badinter (1944~)――彼女はフランスで最も裕福な人物の序列で2011年、第58位に入ったひとでもあるらしいーーに言及している。
Badinter is at a certain level right to point out that the true social crisis today is the crisis of male identity, of “what it means to be a man”: women are more or less successfully invading man's territory, assuming male functions in social life without losing their feminine identity, while the obverse process, the male (re)conquest of the “feminine” territory of intimacy, is far more traumatic. While the figure of publicly successful woman is already part of our “social imaginary,” problems with a “gentle man” are far more unsettling.

――もっともこの文は1998年の論文”Cogito and the Unconscious“に既に同様な文が見られ、ジジェクはそれを繰り返していることになる(ジジェクが引用しているのは、Badinter ”On Masculine Identity, New York: Columbia University Press 1996. “)。また、”at a certain level right“と書かれているようにジジェクは、Badinter自身、家庭から離れて成功したのであり、「男性的ポジション」から語っているのではないかと批評=吟味しているのだがその詳細はここでは触れない。


Badinterは最近の著書“Le Conflit: la femme et la mère” (“Conflict: The Woman and the Mother”)で次のように語っているようだ。

“A revolution has taken place in our conception of maternity, almost without our realizing it,” she writes. And that revolution, in Ms. Badinter’s view, has reduced women’s freedom and damaged their professional prospects.
(……)
the baby has now become “the best ally of masculine domination.”

Badinterは、知らぬ間に男性的な支配が復権してしまっている、と語っているわけだが、その原因が三つ掲げられる。

First is what she sums up as “ecology” and the desire to return to simpler times; second, a behavioral science based on ethology, the study of animal behavior; and last, an “essentialist” feminism, which praises breast-feeding and the experience of natural childbirth, while disparaging drugs and artificial hormones, like epidurals and birth controlpills.

――このあたりは多くの議論・反論があるだろうし、彼女の著書を読んだわけでもなく、フェミニズムには全く詳しくないので、ここで、彼女の見解の正否を指摘するものではないし、また仏国と日本では大きく状況が異なるだろう。


…………

最近、『日本の男を喰い尽くすタガメ女の正体』の書評を面白く読んだ。

筆者の主張を簡単に言えば、「高度経済成長期以降に増えてきた男性の自殺、離婚、DV、ネグレクト、晩婚化・非婚化の要因は、結婚が専業主婦やそれを志向する女性にとって、生存競争を生き抜くために「幸福の擬装工作」までして男性を”搾取”するシステムとなってしまっているからだ。物質的・経済的な条件に左右される「幸福の指標」は『箍』となって、男性だけでなく女性自身をも呪縛し、今日の日本社会の閉塞状況を引き起こしている。これは、戦後のアメリカ的価値観を無批判に受け入れ、それを「常識」としてきた結果招かれた『魂の植民地化』である」。
(……)
エリートサラリーマンとの「安定」した結婚を望み、結婚したら郊外の一戸建てかマンションのローンを組んで夫を縛り付け、ママ友の間での見栄の張り合いとデパートのブランドショッピングに精を出し、自分が家事をいかに頑張ってるかをアピールし、イベントと「約束」とディズニーランドが大好きで、投資より定期貯金に励みスマホは苦手な「タガメ女」。

もっとも書評されている大野左紀子氏は、《この類型化には、若干の古臭さを感じないでもない。》とつけ加えることを忘れない。

この書評から窺われるこの書の面白いところは、男性が搾取されているとしているところだ。
つまり、《結婚をめぐって従来のフェミニズム的認識とは逆さまの男女の支配関係(女>男)を戯画的に描いて》いるらしい。

そして、大野氏は、《筆者の言うように、「タガメ女」と「カエル男」が多数派だとしよう(自分がこの10年、大学のジェンダーの講義で見てきたささやかな範囲でもそれは感じる)》としている。


…………

附記:ソレルス『女たち』(鈴木創士訳 せりか書房)


恐るべき家族の神秘…おびえて、疲れ果てて、のべつ調子外れで、女性化され、虚弱化され、干からびて、女々しく、飼い馴らされ、母性化された男たちの眼差し、ぶよぶよのオッパイ  p31
ぼくは、いつも連中が自分の女房を前にして震え上がっているのを見た。あれらの哲学者たち、あれらの革命家たちが、あたかもそのことによって真の神性がそこに存在するのを自分から認めるかのように …彼らが「大衆」というとき、彼らは自分の女房のことを言わんとしている ……実際どこでも同じことだ …犬小屋の犬… 自分の家でふんづかまって …ベッドで監視され…p98
「女」が「父」に取って代わる …つねにしまりがなく、とらえどころがなく、小説の永遠の流れのなかで重きをなしていない父 …いつまでも繰り返し殺害されつづけ、身を落とし、名前をけがされ、かつがれ、ロマンスと小細工のなかでよろめいている父 … p155
問題となるのは死だ。世界は死である。そして彼女たちが死をもたらすのだから、世界は女たちのものだ、彼女たちは生ではなく、死をもたらす …これ以上に基本的な真実はない …これ以上に体系的に隠蔽され、認められていない明証性はない …きみたちはせいぜいこいつをぼくから書き写すがいい …空しく… なんて奇妙なことだろう …盗まれた手紙… 鏡のなかの自分の姿を見たまえ …いや、きみたちは自分を見たりはしない …いや、きみたちは自分たちの生まれながらのひきつった笑いに気づかない …きみたちにショックに耐えるチャンスがあるのは、時には夢の一番どん底にいるとき、あるいはあっという間のことだが目覚めたときなんだ …十分の三秒… それさえない …きみたちは自分に、自分の中味につまずく …虚無の唾… 諸世紀の鼻汁 …究極の糞… 時間の膿 …持続の血膿… ページの下の汚いどろどろの液 …累積… 没落…幕 …もしきみたちががつがつ詰め込んだ、腐った個人的なやり方に何の口出しもしなかったのなら、黙ってろ …沈黙あるのみだ、この荘厳な穹窿の下では、ぼくは震えながらそこにきみたちを通してやる! …p177

……だからこうして夜になると、パパとママは仲良く腕を組んでお家に帰ってくる、少しばかり千鳥足で。パパが階段でママのスカートをめくる夜 …昔のようにパパがママとセックスする夜、無我夢中で、経験豊かな放埓さをもって …ママが呻き、優しくも淫らな言葉を思わず洩らし、身をよじり、反撥し、寝返りをうって、体の向きを変えて、パパにお尻を差し出す夜 … (…… )自分の家でエロティックであること。自分の女房を享楽し、彼女を悦ばせること、はたしてこれ以上に鬼畜のごとき悪趣味を想像できるだろうか? これこそこの世の終わりだ! 小説の滅亡!  P181

「男は、ひとりの女の振舞いのすべてを分別をもって理解することはできない」、とアントニオーニは言う。「私はスタンダールではないが、二つの性のあいだの関係はつねに文学の中心的課題でした …人々が別の惑星へ行って暮らすようになっても、相変らず事情は同じでしょう! 私のとって、女性は、おそらく男性の知覚よりも深いそれをもつものです。たぶんそれは次のことのよるのでしょうーーでも私の言っているのは愚かなことですーー、つまり彼女は、自分のうちに男性を迎え入れるように物事を受けとることに慣れていて、彼女の快楽はまさにそれを受け入れることにある、ということです。彼女は現実を受け入れるつもりでいる、あえて言うなら、完全に女性的な同じ姿勢のうちに。彼女は、男性以上、場合に応じて、ぴったり合った解答を見つける可能性をもっているのです」


「完璧だ!」、ぼくが言う。「言うことなし! 一等賞! オスカー! 金の棕櫚! 銀のペニス! プラチナのクリトリス! ブロンズのアヌス! 彼は目録に載せられる …総括的レジュメ!…」 ( ……)『ギャッピー』(……)「彼女の不正直にはつける薬がなかった。彼女は自分が不利な立場にあると感じることにさえ我慢できなかった …そんなことはぼくにはどうでもよかった。ひとりの女のうちにある不誠実は、けっして深くとがめられることではない。この女の場合も、ぼくはそれを遺憾なことだとついでに思っただけで、すぐに忘れてしまっていた」 …P327
フェミニズムというのは一種のユダヤ嫌悪じゃないか、という …あほらしい!… そんなことは火を見るよりも明らかだったが、もっと若くて、もっと知識があって、もっと大胆な幾人かのユダヤ女性たちはそいつが耳障りになりだしたにちがいなかった  P410
彼女は反ユダヤ主義者ではない、ちがうさ、いやはや、でもやっぱり聖書によって踏みつぶされたのが何かを見出すべきだろう …別のこと… 背後にある …もうひとつの真実を…

「それなら、母性崇拝よ」、デボラが言う、「明らかだわ! 聖書がずっと戦っているのはまさにこれよ …」


「そうよ、それに何という野蛮さなの!」、エドウィージュが言う。「とにかくそういったことをすべて明るみに出さなくちゃならないわ …」

「結局のところ」、彼女の夫が諦め顔で言う、「フェミニズムは反ユダヤ主義じゃないが、ユダヤ教をそれ自身から救うことを提案しているんだろ?」 P476


そしてニーチェの『この人を見よ!』から。

ここでついでに、わたしは女というものが何かをよく知っていると、あえて仮説的に主張してようだろうか? この知識は、ディオニュソスがわたしに持ってきてくれた財産の一端である。ことによったら、私は、「永遠の女性」の本質に通じた最初の心理学者なのかもしれない。女という女はわたしを愛するーーいまさらのことではない。もっとも、かたわになった女たち、子供を産む器官を失った例の「解放された女性群」は別だ。 ――幸いにしてわたしには、八つ裂きにされたいという気はない。完全な女は、愛する者を引き裂くのだ ……わたしは、そういう愛らしい狂乱女〔メナーデ〕たちを知っている ……ああ、なんという危険な、足音をたてない、地中にかくれ住む、小さな猛獣だろう! しかも実にかわいい! ……ひとりの小さな女であっても、復讐の一念に駆られると、運命そのものを突き倒しかねない。 ――女は男よりはるかに邪悪である、またはるかに利口だ。女に善意が認められるなら、それはすでに、女としての退化の現われの一つである ……すべての、いわゆる「美しき魂」の所有者には、生理的欠陥がその根底にあるーーこれ以上は言うまい。話が、医学的(半ば露骨)になってしまうから。男女同権のために戦うなどとは、病気の徴候でさえある。医者なら誰でもそれを知っている。 ――女は、ほんとうに女であればあるほど、権利などもちたくないと、あらがうものだ。両性間の自然の状態、すなわち、あの永遠の戦いは、女の方に断然優位を与えているのだから。 ――わたしがかつて愛にたいして下した定義を誰か聞いていた者があったろうか? それは、哲学者の名に恥じない唯一の定義である。すなわち、愛とはーー戦いを手段として行なわれるもの、そしてその根底において両性の命がけの憎悪なのだ。 ――いかにして女を治療すべきかーー「救済」すべきか、この問いに対するわたしの答えを読者は知っているだろうか? 子供を生ませることだ。「女は子供を必要とする、男はつねにその手段にすぎぬ。」こうツァラトゥストラは語った。 ――「女性解放」―― それは、一人前になれなかった女、すなわち出産の能力を失った女が、できのよい女にたいしていだく本能的憎悪だーー「男性」に戦いをいどむ、と言っているのは、つねに手段、口実、戦術にすぎぬ。彼女らは、自分たちを「女そのもの」、「高級な女」、女の中の「理想主義者」に引き上げることによって、女の一般的な位階を引き下げようとしている存在だ。それをなしうる最も確実な手段は、高等教育、男まがいのズボン、やじ馬的参政権である。つまるところ、解放された女性とは、「永遠の女性」の世界における無政府主義者、復讐の本能を心の奥底にひめている出来そこないにほかならない。 ……最も悪質な「理想主義」はーーもっともこれは男性にも現われる、たとえば、ヘンリック・イプセン、あの典型的老嬢におけるようにーーこの理想主義は、性愛における明朗さ、自然さに毒を盛ることを目的としている ……そして、この問題に関する正直で、かつ厳正なわたしの信念について、誤解をまねくなんらの余地も残さぬために、わたしはなおわたしの道徳法典の中から、悪徳排撃の一条をお伝えしておこう。「悪徳」という語でわたしが攻撃するのは、あらゆる種類の反自然、もしくは、美しい言葉がご所望なら理想主義のことなどだ。その一条というのはこうだ。「純潔をすすめる説教は、自然に反せよという公然のそそのかしである。性生活の軽蔑、『不純』という概念による性生活の不純化は、すべて、生そのものに対する犯罪であり、 ――生の聖霊に対する真の罪悪である。」 ――(手塚富雄訳 岩波文庫p90~)

※参照:男と女をめぐって(ニーチェとラカン)