このブログを検索

2013年12月16日月曜日

わたしは聴く耳をもつ者たちに警告の歌をうたってきかせる(ヘルダーリン)

あまり日本語を話す機会はないのだが、話せば一人称単数代名詞の「僕」を主語として使うだろう、たまには「俺」だ。だが文章を書く時はつとめて「わたくし」とする。ときに「オレ」とするが、平仮名や漢字で「おれ」とか「俺」としないのはこれは自己の生ぐささから離れたいからだ。さいきんは書き言葉で「僕」を使ったことはないはずだ。これらは奇妙なこだわりかもしれないが「僕」とすると生身の自分のようでどうもいけない。数年前ツイッターで使って懲りた。

ことさら名文章家の古井由吉を真似るつもりはないのだが、そしてフィクションを書こうとする気など毛筋ほども持ち合わせていないのだが、「僕」ではなく「わたくし」と書くようになったのは次の文を読んでからで、――ということはいま思い出してひさしぶりに読み返してみると冒頭に書いた文はモロにこの文の影響を受けていて気恥ずかしいが消さないままにしておく。

とにかくある人物ができかかって、それが何者であるかを表さなくてはならないところにくると、いつも嫌な気がしてやめてしまう。そんなことばかりやつていたんです。で、なぜ書けるようになったかというと、本当に単純なばかばかしいことなんです。「私」という人称を使い出したんです。……そうしたらなぜだか書けるんです。今から考えてみると、この「私」というのはこのわたしじゃないんです。この現実のわたしは、ふだんでは「私」という人称は使いません。「ぼく」という人称を選びます。この現実のわたしは、ふだんでは「私」という人称は使いません。「ぼく」という人称を選びます。だけど「ぼく」という人称を作品中で使う場合、かえってしらじらと自分から離れていくんです。(中略)

…… この場合の「わたし」というのは、わたし個人というよりも、一般の「私」ですね。わたし個人の観念でもない。わたし個人というよりも、もっと強いものです。だから自分に密着するということをいったんあきらめたわけです。「私」という人称を使ったら、自分からやや離れたところで、とにもかくにも表現できる。で、書いているとどこかでこの「わたし」がでる。この按配を見つけて物が書けるようになったわけです。 (『「私」という白道』)

「わたくし」と書けば、自我を引き寄せるよりも、ひとまず他者の近くまで遠ざける働きをするということはあるもので、それは実際やってみると奇妙にもそうなって変なわだかまりが消える。ツイッターで「僕」と書いて恥ずかしい思いをしたあと、女言葉で「アタシ」としていわゆる「ネカマ」をやってみるとフィクションのなかの主人公のようで心地よいという経験もした(現在はSNSに書き込むことから遠ざかっているが)。もっともまともに物を描写する訓練をしようとしたこともやってみたことも殆どないので、次のような境地にはほど遠い。

私の場合、小説の中で「私」という素っ気ない一人称を思い切りよく多用することを覚えてから、表現の腰がひとまず定まった。この一人称は自我を引寄せるよりも、ひとまず他者の近くまで遠ざける働きをする。それとひきかえに、私は表現といういとなみの中で以前よりもよほどしぶとく自我に付くことができるようになった。描写においてである。見たままを写す、記憶に残るままを写す、そこまではまさに描写だが、描写によって心象が呼び起され、その心象がさらに細部まで描写で満たすことを要請することがある。その時、人は物に向うようにして心象に向いながら、おのずと自我を描写することになる。 ……そして小説は全体として、いくつかの描写による自我の構図となる。 (古井由吉「翻訳から創作へ」 )

古井由吉のように書いて多くの人に読まれるわけではないのは彼の小説の売行き具合が示しているし、たしかに親しむことができるまでには手間暇がかかる。

次の文はさる書評にたいするジジェクのめずらしい駁論だがそこには「今日のファストフード的な知的消費者todays fast-food intellectual consumers」という言葉があり現在よく読まれるだろう文の的確な指摘がある。《深遠に見せかけた挑発的な気の利いたジョークのガラクタに、道義的な義憤というスパイスを加えて》とあり、まあそんなものでありわたくしにしても無知の分野、たとえば政治とか経済の分野ならそのたぐいの文をあり難がって読む口だ。

あなたは、あなたが批評しているところの著作がどのようなものであるかを全く無視している。あなたは論争の道筋を再構成する試みを全く放棄している。その代わりに、曖昧模糊とした教科書的な通則やら、著者の立場の粗雑な歪曲、漠然とした類推、その他諸々を一緒くたにして放り投げ、そして自身の個人的な従事を論証するために、そのような深遠に見せかけた挑発的な気の利いたジョークのガラクタに、道義的な義憤というスパイスを加えているのだ(「見ろ!あの著者は新たなホロコーストを主張しているみたいだぞ!」といったように)。真実など、ここでは重要ではない。重要なのは影響力である。これこそ今日のファストフード的な知的消費者が望んでいたものだ。道義的な義憤を織り交ぜた、単純で分かりやすい定式である。人々を楽しませ、道徳的に気分を良くさせるのだ。(スラヴォイ・ジジェク:彼の批判に応答して)

…………

自分が見る、自分を見る、見られた自分は見られることによって変わるわけです。見た自分は、見たことによって、また変わる。(古井由吉『「私」という白道』)
「私」が「私」を客観する時の、その主体も「私」ですね。客体としての「私」があって、主体としての「私」がある。客体としての「私」を分解していけば、当然、主体としての「私」も分解しなくてはならない。主体としての「私」がアルキメデスの支点みたいな、系からはずれた所にいるわけではないんで、自分を分析していくぶんだけ、分析していく自分もやはり変質していく。ひょっとして「私」というのは、ある程度以上は客観できないもの、分解できない何ものかなのかもしれない。しかし「私」を分解していくというのも近代の文学においては宿命みたいなもので、「私」を描く以上は分解に向かう。その時、主体としての「私」はどこにあるのか。(中略)この「私」をどう限定するか。「私」を超えるものにどういう態度をとるか。それによって現代の文体は決まってくると思うんです。 (古井由吉『ムジール観念のエロス』)

こうやって古井由吉の評論文ではなく本来はどれかの小説の断片でも引用すべきではあるが、いまは実はほかの目的があって最後の文章を引用した。

なにをメモしておきたいのかというと詩人のヘルダーリンの主体と客体の話であり、これはラカン派の言表行為と言表内容にもかかわるし「主体」と「自我」にもかかわる。あるいは同一化セミネールにおけるエピメニデスの有名なアポリア「すべてのクレタ人は嘘つきだと一人のクレタ人が言った」から《「我思う」というのは、論理的には幾人かの論理学者を困らした「私は嘘をつく」以上に確固としたものではない》、「私は思う」とは《私は「彼女は私を愛している」と思う》以外の何ものでもないとするラカンにもかかわる。

実際に下手に書くと、主体としての私は「彼女は客体としての自分を愛している」と思っているなどと似たようなことを書いているというはしたない気分になることがある。

だが、自分(自己)とは、主体性の実体的な核におけるフェティッシュ化された空想であり、じっさいには、そこにはなにもない。《the Self is the fetishized illusion of a substantial core of subjectivity where, in reality, there is nothing.ZIZEK"LESS THAN NOTHING")

そもそもひとはSNSなどに書き込むときは主体=客体のつもりで書いているだろう。

僕は古井由吉の文章が好きでたまらない、と書き、僕は「自分が古井由吉の文章が好きでたまらない」と思っているなどとは書かない。

 ラカンの「四つの言説」は、主人の言説、大学人の言説、ヒステリーの言説、分析家の言説であるが、最初の「主人」の言説は、字義通り「支配者」の言説でもありながら、主体の分裂を抑圧した言説であり、主体=客体としての言表行為は、みずからの支配者になっている発話として捉えれば、主人の言説としてよい。主人の言説では、斜線を引かれた主体$が抑圧されているのであり、斜線を引かれていない主体として語っているのだ。(参照ラカンの四つのディスクール+資本家のディスクール)(もっとも実際のSNSの発話はヒステリーの言説(隠蔽されているものは愛憎)が多く、ときに大学人(インテリ)の言説(権力欲が隠されている)があるのだが、その側面はここでは無視している)。


だが古井由吉が言うように、主体と客体としての自己(自我)が等しいはずはない。「自分」とは、主体としての「私」が自己を客体化したときーー「自己意識」によって「私」が「自分」を客観視したときーー、初めて「自分」といえる。このようなことをすでにヘルダーリンが書いているのだ。もっとも同年生まれのヘーゲルの著書に引用があるらしくヘーゲル読みなら周知なのだろう。

When I say: I am I, the Subject (Ego) and the Object (Ego) are not so united that absolutely no sundering can be undertaken, without destroying the essence of the thing that is to be sundered; on the contrary the Ego is only possible through this sundering of Ego from Ego. How can I say “I” without self‐consciousness?

というわけですこし堅い訳だが邦訳がみつかったので、それにくわえて英文とまったく読むことができないが原文のドイツ語を並べておく。



 ◆「法・道徳・人倫の原理と偶然的決定―個別的自己意識を通じた内容の獲得」―大   宏より。

資料「ヘルダーリン「存在・判断・可能性」

存在 ― それは主観と客観との結合を表現している。
主観と客観とが単に部分としてのみ合一されているのではなく、したがって分離さるべきものの本質を損なうことなしには分割が行われえないように端的に合一されている場合にのみ、叡知的直観の場合と同様に、端的な存在が問題となりうる。

しかし、この存在は同一性と混同されてはならない。もし私が、自我は自我だというとき、主観(自我)と客観(自我)とは分離さるべきものの本質が損なわれることなしには分離が行われえないように合一されているのではない。逆に、自我は、自我からの自我のこの分離を通じてのみ可能なのである。私は如何にして自己意識なしに、自我!と言い得るのか? しかし自己意識は如何にして可能なのか? 私は私に私自身を対立させることによって、私を私自身から分離するが、しかしこの分離にもかかわらず私を対立の中で同一のものとして認識する。しかしどの程度まで同一のものとしてなのか? そのように私は問い得るし、問わねばならない。というのは、別の観点においては、それは自分に対立しているからである。それゆえ、この同一性は、端的に生じるような主観と客観との合一ではなく、それゆえ、この同一性は、絶対的存在には等しく(=)ない。

判断。それは、最高にして最も厳密な意味において、叡知的直観の中で最も緊密に合一されている客観と主観との根源的分離であり、それによって初めて客観と主観とが可能になるような分離であり、つまり原=分割(Ur=Theilung)である。分割の概念の中にはすでに、客観と主観との相互的な関係づけの概念があり、客観と主観とがその部分であるようなある全体という必然的な前提である。「自我は自我である」は、原=分割というこの概念への最もふさわしい実例であるが、これは理論的な判断としての原=分割である。なぜなら、実践的な判断においては、自我は自分を自分自身にではなく非我に対立させるからである。

現実性と可能性とは、媒介的な意識と無媒介的な意識と同様に、区別される。私が対象を可能的なものとして思惟するとき、私は、対象がそれによって現実的になるところの先行的な意識だけを繰り返す。我々にとっては、現実性でなかったような可能性は思惟できない。それゆえ、理性の対象はそうであるべきものとして意識の中に登場するのではないのだから、可能性の概念は理性の対象には妥当しなくて、必然性の概念だけが理性の対象に妥当するのである。可能性の概念は悟性の対象に妥当し、現実性の概念は知覚や直観の対象に妥当するのである。

【英文】(ZIZEK『LESS THAN NOTHING』より)

Being [Seyn]expresses the joining [Verbindung] of Subject and Object. Where Subject and Object are absolutely, not just partially united [vereiniget], and hence so united that no division can be undertaken, without destroying the essence [Wesen] of the thing that is to be sundered [getrennt], there and not otherwise can we talk of an absolute Being, as is the case in intellectual intuition.

But this Being must not be equated [verwechselt] with Identity. When I say: I am I, the Subject (Ego) and the Object (Ego) are not so united that absolutely no sundering can be undertaken, without destroying the essence of the thing that is to be sundered; on the contrary the Ego is only possible through this sundering of Ego from Ego. How can I say I without selfconsciousness? But how is selfconsciousness possible? Precisely because I oppose myself to myself; I sunder myself from myself, but in spite of this sundering I recognize myself as the same in the opposites. But how far as the same? I can raise this question and I must; for in another respect [Rüksicht] it [the Ego] is opposed to itself. So identity is not a uniting of Subject and Object that takes place absolutely, and so Identity is not equal to absolute Being.

Judgment: is in the highest and strictest sense the original sundering of Subject and Object most intimately united in intellectual intuition, the very sundering which first makes Object and Subject possible, their UrTheilung. In the concept of division [Theilung] there lies already the concept of the reciprocal relation [Beziehung] of Object and Subject to one another, and the necessary presupposition of a whole of which Object and Subject are the parts. I am I is the most appropriate example for this concept of Urtheilung in its theoretical form, but in practical Urtheilung, it [the ego] posits itself as opposed to the Nonego, not to itself.

Actuality and possibility are to be distinguished as mediate and immediate consciousness. When I think of an object [Gegenstand] as possible, I merely duplicate the previous consciousness in virtue of which it is actual. There is for us no thinkable possibility, which was not an actuality. For this reason the concept of possibility has absolutely no valid application to the objects of Reason, since they come into consciousness as nothing but what they ought to be, but only the concept of necessity [applies to them].The concept of possibility has valid application to the objects of the understanding, that of actuality to the objects of perception and intuition.


Urtheil und Seyn Urtheil. ist im höchsten und strengsten Sinne die ursprüngliche Trennung des in der intellectualen Anschauung innigst vereinigten Objects und Subjects, diejenige Trennung, wodurch erst Object und Subject möglich wird, die Ur=Theilung. Im Begriffe der Theilung liegt schon der Begriff der gegenseitigen Beziehung des Objects und Subjects aufeinander, und die nothwendige Voraussezung eines Ganzen wovon Object und Subject die Theile sind. "Ich bin Ich" ist das passendste Beispiel zu diesem Begriffe der Urtheilung, als Theoretischer Urtheilung, denn in der praktischen Urtheilung sezt es sich dem Nichtich, nicht sich selbst entgegen.

Wirklichkeit und Möglichkeit ist unterschieden, wie mittelbares und unmittelbares Bewußtsein. Wenn ich einen Gegenstand als möglich denke, so wiederhohl' ich nur das vorhergegangene Bewußtseyn, kraft dessen er wirklich ist. Es giebt für uns keine denkbare Möglichkeit, die nicht Wirklichkeit war. Deswegen gilt der Begriff der Möglichkeit auch gar nicht von den Gegenständen der Vernunft, weil sie niemals als das, was sie seyn sollen, im Bewußtseyn vorkommen, sondern nur der Begriff der Nothwendigkeit. Der Begriff der Möglichkeit gilt von den Gegenständen des Verstandes, der der Wirklichkeit von den Gegenständen der Wahrnemung und Anschauung.

Seyn – drükt die Verbindung des Subjects und Objects aus.Wo Subject und Object schlechthin, nicht nur zum Theil vereiniget ist, mithin so vereiniget, daß gar keine Theilung vorgenommen werden kan, ohne das Wesen desjenigen, was getrennt werden soll, zu verlezen, da und sonst nirgends kann von einem Seyn schlechthin die Rede seyn, wie es bei der intellectualen Anschauung der Fall ist.

Aber dieses Seyn muß nicht mit der Identität verwechselt werden. Wenn ich sage: Ich bin Ich, so ist das Subject (Ich) und das Object (Ich) nicht so vereiniget, daß gar keine Trennung vorgenommen werden kann, ohne, das Wesen desjenigen, was getrennt werden soll, zu verlezen; im Gegenteil das Ich ist nur durch diese Trennung des Ichs vom Ich möglich. Wie kann ich sagen: Ich! ohne Selbstbewußtseyn? Wie ist aber Selbstbewußtseyn möglich? Dadurch daß ich mich mir selbst entgegenseze, mich von mir selbst trenne, aber ungeachtet dieser Trennung mich im entgegengesezten als dasselbe erkenne. Aber in wieferne als dasselbe? Ich kann, ich muß so fragen; denn in einer andern Rüksicht ist es sich entgegengesezt. Also ist die Identität keine Vereinigung des Objects und Subjects, die schlechthin stattfände, also ist die Identität nicht = dem absoluten Seyn.


最後にヘルダーリンの未完の詩(1800年の後半(ヘルダーリン三十歳)に創作されたとされる)の断片を引用しておく。

わたしは天上の者たちを観に近づいたのだといおうとも、
その者たちは、おのが手で、わたしを、この偽司祭を
地に生きる者たちのもとへ、暗闇のなかへと投げおとすのだ、
そしてわたしは聴く耳をもつ者たちに警告の歌をうたってきかせる。

そこで……(高木繁光「ヘルダーリンの讃歌『あたかも- 祝祭の日に…』 : 詩人の使命をめぐって」より)

この未完の詩は、「そこで」で終っている。

ーー《わたしは聴く耳をもつ者たちに警告の歌をうたってきかせる。》