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2014年6月1日日曜日

不安のにおい

……自分はどんなつもりで暮らしていたのだろう、と女は寝床の中から振り返って驚くことがあった。人よりは重い性格のつもりでも、何も考えていなかった。まだ三十まで何年かある若さだったということもあるけれど、物をまともに考えるには足もとが、底が抜けたような時代に入っていた。世間は未曾有の景気と言われ、余った金が土地などの投機に走り、その余沢からはずれたところにいたはずの自身も、後から思えば信じられないような額の賞与を手にすることがあった。ましてや有卦に入った会社に勤めて三十代のなかばにかかっていた夫は、当時の自分から見ても、罰あたりの年収を取っていた。

罰あたりという感覚はまだ身についてのこっていたのだ。世の中の豊かになっていくその谷間にはまったような家に育って、両親には早くに死に別れ、兄姉たちも散り散りになった境遇だけに、二十代のなかばにかかるまでは、周囲で浮き立つような人間を、上目づかいはしなかったけれど、額へ髪の垂れかかる感じからすると、物陰からのぞくようにしていた。その眼のなごりか、景気にあおられて仕事にも遊びにも忙しがる周囲の言動の端々から洩れる、投げやりのけだるさも見えていた。嫌悪さえ覚えていた。それなのに、その雰囲気の中からあらわれた、浮き立ったことでも、けだるさのまつわりつくことでも、その見本のような男を、どうして受け容れることになったのか。男女のことは盲目などと言われるけれど、そんな色恋のことでもなく、人のからだはいつか時代の雰囲気に染まってすっかり変わってしまうものらしい。自分の生い立ちのことも思わなくなった。(古井由吉「枯木の林」)
その頃には世の中の景気もとうに崩れて、夫の収入もだいぶしぼんで、先々のことを考えてきりつめた家計になっていた。どんな先のことを考えていたのだろうか、と後になって思ったものだ。会社を辞めることにした、と夫は年に一度は言い出す。娘の三つ四つの頃から幾度くりかえされたことか。なにか先の開けた商売を思いつくらしく、このまま停年まで勤めて手にするものはたかが知れているなどと言って、一緒に乗り出す仲間もいるようで、明日にでも準備にかかるような仔細らしい顔をしていたのが、やがて仲間のことをあれこれののしるようになり、そのうちにいっさい口にしなくなる。その黙んまりの時期に、家に居ればどこか半端な、貧乏ゆすりでもしそうな恰好で坐りこんでいたのが、夜中にもう眠っている妻の寝床にくる。声もかけずに呻くような息をもらして押し入ってくるので、外で人にひややかにされるそのかわりに家で求めるのだろう、とされるにまかせていると、よけいにせかせかと抱くからだから、妙なにおいが滴るようになる。自分も女のことだから、よそのなごりかと疑ったことはある。しかし同棲に入る前からの、覚えがだんだんに返って、怯えのにおいだったと気がついた。なにかむずかしいことに追いつめられるたびに、そうなった。世間への怯えを女の内へそそごうとしている。(同上)

古井由吉には、リルケの「ドゥイノの悲歌」の散文詩訳がある。


しかし心得てほしい。われわれの語るところは、物たち自身が内々、おのれのことをそう思っているだろうところとは、けっして同じではないのだ。恋人たちの心に迫って、その情感の中で何もかもがこの世ならぬ恍惚の相をあらわすように仕向けるのも、滅多には語らぬ現世の、ひそかなたくらみではないのか。敷居はある。たとえ恋人たちがそれぞれ昔からある自家(いえ)の戸口の敷居をいささか、踰えることによって擦り減らしたところで、二人にとって何ほどのことになる。以前の大勢の恋人たちに後(おく)れて、以後の恋人たちに先立って、自身も痕跡を遺すだけのことではないのか……かすかに。

そのリルケには「不安のにおい」(『マルテの手記』)という言葉がある。


街(とおり)が方々からにおいはじめた。かぎわけられるかぎりでは、ヨードホルムや、いためジャガの油や、「不安」などのにおいだった。夏になると、どの町も、におうものだ。それから奇妙な、内障眼(そこひ)のような家にもお目にかかった。それは、地図には見あたらなかったが、ドアの上には、まだかなりはっきり読みとれるように、「簡易宿泊所」と書かれてあった。入口のそばに、宿泊料金がしるされてあった。読んでみたが、高くはなかった。

 それから、ほかには? 置きっぱなしの乳母車のなかのひとりの子ども。ふとっちょで、青白く額の上にはっきりと吹出物がでていた。が、見たところすっかりなおっていて、もう痛みはなかった。子どもは眠っていた。口はあいたままで、ヨードホルムと、いためジャガと、「不安」を、呼吸していた。ほかにどうしようもないのだ。肝心なことは、その子が、生きていることだった。それが肝心なことだった。 (リルケ『マルテの手記』星野慎一訳)

においの作家の系譜というものがある。わたくしの知るかぎり、吉行淳之介、金井美恵子、そしてやはり古井由吉。

立上がると、足裏の下の畳の感覚が新鮮で、古い畳なのに、鼻腔の奥に藺草のにおいが漂って消えた。それと同時に、雷が鳴ると吊ってもらって潜りこんだ蚊帳の匂いや、縁側で涼んでいるときの蚊遣線香の匂いや、線香花火の火薬の匂いや、さまざまの少年時代のにおいの幻覚が、一斉に彼の鼻腔を押しよせてきた。(吉行淳之介『砂の上の植物群』
部屋の空気は湿っていたし、それに、すり切れた絨毯や、 同じようにすり切れてやせた織糸の破れ目から詰め物とスプリングがはみ出ているソファが、古い車輌に乗ったりすると、時々同じようなにおいのすることのある、人々の体臭や汗のしみ込んで、それが蒸されて醗酵したような不快な汚物のようなにおいを発散させていたので、その鼻を刺激する醗酵性のにおいに息がつ まりそうになり、わたし自身の身体からも、同じにおいを発散させる粘り気をおびた汗がにじみだして来ては、体温の熱でにおいをあたりに蒸散させているよう な気がした。(金井美恵子『くずれる水』)
……においと言えば昔、二人きりになって初めて寄り添った男女は、どちらもそれぞれの家の、水まわりのにおいを、いくら清潔にしていても、髪から襟から肌にまでうっすらとまつわりつけていたもので、それが深くなった息とともにふくらむのを、お互いに感じたそのとたんに、いっそ重ね合わせてしまいたいと、羞恥の交換を求める情が一気に溢れたように、そんなふうに振り返っていたものだが、車の排気と言われてみればある時期から、街全体をひとしなみに覆うそのにおいが、家々のにおいに取って代わっていたのかもしれない、と思った。(古井由吉「蜩の声」

詩人たちはどうか? これは(これも)読み手によるのだろうが、西脇順三郎や田村隆一でさえ、においの詩人として魅惑されるときがある。

たとえば田村隆一が、《新しい家はきらいである/古い家で生れて育ったせいかもしれない/死者とともにする食卓もなければ/有情群類の発生する空間もない》とするとき、これは黴の懐かしいにおいのことを書いているとして読む。

田村隆一が、とりわけ愛した西脇順三郎の詩のひとつは「秋 Ⅱ」だ。

タイフーンの吹いている朝
近所の店へ行って
あの黄色い外国製の鉛筆を買った
扇のように軽い鉛筆だ
あのやわらかい木
けずった木屑を燃やすと
バラモンのにおいがする
門をとじて思うのだ
明朝はもう秋だ

ロラン・バルトも匂いの、あるいは触覚の作家である。

プルーストにおいては、五感のうち三つの感覚によって思い出が導き出される。しかし、その木目〔きめ〕という点で実は音響的であるよりもむしろ《香りをもつ》ものというべき声を別とすれば、私の場合、思い出や欲望や死や不可能な回帰は、プルーストとはおもむきが異なっている。私の身体は、マドレーヌ菓子や舗石やバルベックのナプキンの話にうまく乗せられることはないのだ。二度と戻ってくるはずのないもののうちで、私に戻ってくるもの、それは匂いである。(『彼自身によるロラン・バルト』)

視覚の感受性、聴覚の感受性、嗅覚の感受性など、それぞれ作家には感度の鋭さや鈍さがあるだろう。どの作家に惹かれるのかは、これもまた読者の感受性による。たとえば谷崎潤一郎は触覚の作家だろう。一般に視覚の作家が愛でられることの多いのは、読み手も視覚の感受性が他の感受性に比べて際立つひとが多いせいではないか。

ところで、中井久夫には「匂いの記号論」ともいうべき文章がある。だが、ここでは長くなりすぎるので引用しない(参照:遠い日に住みあきらめた海辺の町の小いえ)。かわりに「不安のにおい」という節がある「微視的群れ論」から抜き出す。



◆「不安のにおい」――中井久夫「微視的群れ論」(『精神科医がものを書くき 〔Ⅰ〕』所収)

……人間というのは、においということをあまり重要視していません。においというのは、たいへん低級な感覚だといわれているけれども、どうもそうではないのではないかと、ぼくは思っているんです。

町には町のにおいがあります。それから、それぞれの家にはそれぞれのにおいがあります。普通は気づかないですが、よそを訪問すると、それぞれの家の独特のにおいがあるでしょう。神戸から来ますと、東京も名古屋も、それぞれの町のにおいが違います。そういう町のにおいがどう働くのかわかりませんが、においというのは意外な力をもっていますからね。においは触れることの予感でもあり、余韻でもあり、人間関係において距離を定める力があると思います。においのもたらすものはジェンダー(性差)を超えたエロスですが、そういうものの比重は、予想よりもはるかに大きかろう。

だから、逆に人同士を離すにおいもあるんです。いまは、精神病院も清潔になったし、みんな風呂に入りますから、あまりにおいませんけど、昔の精神病院というのは、独特のにおいがありました。とにかくあのにおいは何のにおいだろうと思ったけれど、長らくわかりませんでした。ただ不潔にしているというのではないんです。浮浪者なんかのにおいとは全然違いますから。

ある患者さんと面接したんですが、その人を不安にさせるようなことを言ってしまったら、途端に、たぶん口の中から出てきたんだと思うんですが、そのにおいがしたんです。口の中というのは、内臓全部のにおいですから。体の中からすぐ何か出たんです。とにかく例のにおいがしたんです。パーッとにおってきた。

ぼくは、これは不安のにおいだなと思いました。不安のにおいというのは、リルケの『マルテの手記』のなかに出てくるんですけれども、こちらを遠ざけるにおいなんです。つまり、その場から去らせたくなるにおいなんですね。不安になった人間が放つにおいというのは、ひょっとしたら他の個体を去らせるような作用をしているのかもしれない。だから、不安になった人が孤独になっていくということは、大いに考えられるわけです。

何でこんなものがあるんだろうと思って考えてみたら、昔むかしのことですが、人間の群れにオオカミとかライオンが来て、それに最初に気づいた人間が、突如不安になって、それがあるにおいをパーッと出すと、周りの人間はその人間から離れたくなる。不安は伝染するといいますけれども、次々にそうなって、お互いの距離が離れますと、一人や二人の人間は食われるかもしれないけれども、全体としては食われる率が減る。

こういうのを警戒フェロモンという名前がついていますけれども、ひょっとしたら、不安になったときに人間が出すにおいというのは、お互いに「遠ざかれ」という警戒フェロモンであるかもしれない。

そんなことを感じたのですが、ただ、いまでは、オオカミが襲ってくるということはあまりありませんので、有効性のほうがなくなって、慢性的に不安になっている人がだんだん孤立していくだけの働きしかない。

そんなことを感じたのですが、ただ、いまでは、オオカミが襲ってくるということはあまりありませんので、有効性のほうがなくなって、慢性的に不安になっている人がだんだん孤立していくだけの働きしかない。

こういうものは、意識させたら役に立たなくなるものだから、意識に上らないようなかたりで、人間の行動を規定しているのかもしれません。この種のものが人間の行動を規定している力というのは、非常に大きいのではないかというふうに、私はだんだん思うようになりましたね。

◆福岡伸一「生物の進化と“ におい ”の関係」
生物が、外部環境を識別するために発達させた感覚機能には、視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚の 5つがあります。いわゆる「五感」です。そのなかであえて順位をつけると、生物学的に一番重要だと考えられる感覚は嗅覚です。その理由として、まず「こちらからコンタクトしなくてもその存在が確認できる」という点があげられます。たとえば視覚であれば、対象物が自分の視野に入ってはじめて認識することができます。味覚の場合は、対象物を口に入れる、というこちらからの積極的なコンタクトが必要になります。しかし嗅覚はどうでしょう。嗅覚は、相手が見えなくても、接触しなくても、そのにおい物質が空気中を拡散して伝われば、その存在を認知できるシステムになっています。

もうひとつ、嗅覚の重要説を裏付けるものとして、においの「レセプター(受容体)」について触れておきましょう。人間は、各対象に対応したレセプターを持ってはじめて、対象を感知することができます。たとえば味覚であれば、甘味、苦味、酸味などを感知するレセプターを 5つほど持っていて、その組み合わせによって味を判断しています。視覚も同様で、光の粒子を感知する数種類のレセプターで色を認識しています。そして嗅覚はというと、においのレセプターが発見されたのは、約 20年前のことです。発見したのは女性研究者、リンダ・バック博士。彼女の研究によってわかった人間のにおいレセプターの数は、少なくとも数百種類あります。人間の遺伝子が 2万数千種類であるのに対して、その全体の数パーセントを、においに関する遺伝子が占めていることになります。ここまでたくさんの数の遺伝子を用意している組織は、ほかにありません。人間にとってどれだけ嗅覚が大切か、お分かりいただけるでしょう。


◆フェロモンをめぐって(中井久夫「母子の時間、父子の時間」より『時のしずく』所収

母子の時間の底には無時間的なものがある。母の背に負われ、あるいは懐に抱かれたならば、時間はもはや問題ではなくなる。父子にはそれはない。父親と過ごす時間には過ぎゆくものの影がある。長い時間の釣りでさえ、ハイキングでさえ、終わりがある。終わりの予感が、楽しい時間の終末部を濃く彩る。

友人と過ごす時間には、会うまでの待つ楽しさと、会っている最中の終わる予感とがある。別れの一瞬には、人生の歯車が一つ、コトリと回った感じがする。人生の呼び戻せなさをしみじみと感じる。それは、友人であるかぎり、同性異性を問わない。恋人と言い、言われるようになると、無時間性が忍び寄ってくる。抱き合う時、時間を支配している錯覚さえ生じる。もっとも、それは、夫婦が陥りがちな、延びきったゴムのような無時間性へと変質しがちで、おそらく、離婚などというものも、この弾力性を失った無時間性をベースとして起るのだろう。

この無時間的なものの起源は、胎内で共有した時間、母子が呼応しあった一〇カ月であろう。生物的にみて、動く自由度の低いものほど、化学的その他の物質的コミュニケーション手段が発達しているということがある。植物や動物でもサンゴなどである。胎児もその中に入らないだろうか。生まれて後でさえ、私たちの意識はわずかに味覚・嗅覚をキャッチしているにすぎないけれども、無意識的にはさまざまなフェロモンが働いている。特にフェロモンの強い「リーダー」による同宿女性の月経周期の同期化は有名である。その人の汗を鼻の下にぬるだけでよい。これは万葉集東歌に残る「歌垣」の集団的な性の饗宴などのために必要な条件だっただろう。多くの動物には性周期の同期化のほうがふつうである。

( ……)

胎内はバイオスフェア(生物圏)の原型だ。母子間にホルモンをはじめとするさまざまな微量物質が行き来して、相互に影響を与えあっていることは少しずつ知られてきた。( ……)味覚、嗅覚、触覚、圧覚などの世界の交歓は、言語から遠いため、私たちは単純なものと錯覚しがちである。それぞれの家に独自の匂いがあり、それぞれの人に独自の匂いがある。いかに鈍い人間でも結婚して一〇日たてば配偶者の匂いをそれと知るという意味の俗諺がある。

触覚や圧覚は、確実性の起源である。指を口にくわえることは、単に自己身体の認識だけではない。その時、指が口に差し入るのか、指が口をくわえるのかは、どちらともいえ、どちらともいえない状態である。口 ―身体― 指が作る一つの円環が安心感を生むもとではないだろうか。それはウロボロスという、自らの尾を噛む蛇という元型のもう一つ先の元型ではないだろうか。

聴覚のような遠距離感覚でさえ、水の中では空気中よりもよく通じ、音質も違うはずだ。母親の心音が轟々と響いていて、きっと、ふつうの場合には、心のやすらぎの妨げになる外部の音をシールドし、和らげているに違いない。それは一分間七〇ビートの音楽を快く思うもとになっている。児を抱く時に、自然と自分の心臓の側に児の耳を当てる抱き方になるのも、その名残りだという。母の心音が乱れると、胎児の心音も乱れるのは知られているとおりである。いわば、胎児の耳は保護を失ってむきだしになるのだ。

視覚は遅れて発達するというけれども、やわらかな明るさが身体を包んでいることを赤児は感じていないだろうか。私は、性の世界を胎内への憧れとは単純に思わない。しかし、老年とともに必ず訪れる、性の世界への訣別と、死の世界に抱かれることへのひそかな許容とは、胎内の記憶とどこかで関連しているのかもしれない(私は死の受容などと軽々しくいえない。死は受容しがたいものである。ただ、若い時とは何かが違って、ひそかに許しているところがあるとはいうことができる)。


2014年2月25日火曜日

「夜中の一時だったか/それとも一時半」

「夜中の一時だったか
それとも一時半」

ケイタイ切っとくのを忘れたよ
目が醒めちゃったから
モルトウィスキーを一口
ダイジョウブカナ、痛風
それでとーー

ダンヒルのパイプは寿命だね
美丈夫の生涯独身だった叔父の形見でさ
足掛け四〇年ものだからな
マウスピースがすかすかでね
海泡石のパイプは詰まってるし
刻みタバコも湿ってるな

「ダンヒルのパイプを河原のすすきの中へ
すててヴァレリの呪文を唱えた
「お前さんは曲がつている。すずかけの木よ」
なんてことはできないな
呪文ぐらいは唱えるさ
開け胡麻って
「扉を開く読書、アリババの呪文、魔法の種」

「過去をふり返るとめまいがするよ
人間があんまりいろいろ考えるんで
正直言ってめんどくさいよ
そのくせい自分じゃ何ひとつ考えられない
ぼくは自分を鉛筆の落ちた音のように感ずる
カチャンコロコロ……
過去がないから未来もない音だね

それでとーー
ちょっともう続けようがないなこの先は」






私は、たまたま高等学校において、古代ギリシャ文学を愛する教師に勧められ、当時ようやく出版された独習書を使って古代ギリシャ語を勉強しようとした。哲学よりも詩を好み、ギリシャ詞華集の一部を暗誦しようとした。

この勉強は、京都大学法学部に入学してからも継続した。私は、そのまま行けば、ひそかにギリシャ文学を読む会社員か公務員になっていたであろう。

しかし、私は結核になった。当時、結核の経歴があるということは卒業しても失業を意味した(リッツォスの青春期と似た状況である)。治癒後、私は、独立して生きる可能性が高い医師になろうと思い、医学部に転入学した。(中井久夫「私とギリシャ文学」『家族の深淵』所収)

ーー今でもいるのかね、こういう「教養」を身につけている人は。
すでにヴァレリーやエリオット、リルケなどの原典を
甲南の九鬼文庫で読んでいた後の話だからな
何度読んでも愕然とするね
十代の後半のオレはいったいなにをやっていたというのだろう、と


韓国と日本では知識人の基準が少し違う。日本では何らかの専門家であることが必要である。しかし、それでまあ十分である。韓国では、専門の力量に加えて高度の一般教養がなくてはならない。いま小学生から英語を教え、高校で二ヶ国語を必修としている隣国の教育の凄さに日本人は無知である。この家(中井久夫が下宿したY夫人家:引用者)に来訪する韓国の知識人との交際はこよなく洗練され高度なものであった。夫人との毎晩の四方やま話も尽きなかった。当時の私は韓国から毎日出稼ぎに日本へ行っては毎晩帰っているようなものであった。三年間私は文化的に韓国に住んでいた。おそらく、その最良の部分の一端に触れていた。(中井久夫「Y夫人のこと」『家族の深淵』所収


一八歳の中井久夫が休学中(結核だが、個人的絶望のせいでも、とある)、西脇順三郎氏との間で何度か親密な手紙のやりとりをしたことは、知る人ぞ知る、である。

……自分が妙なことにならないために詩の翻訳を自分に課した。これはその後、精神的な危機の際の私の常套手段となった。占領下、H百貨店の洋書部主任、東大仏文でのY氏の好意で入手した洋書が多かった。また私の高校に寄贈されていた九鬼周造氏の蔵書も教師の名で貸与してもらって筆写していた。後者の中にT・S・エリオットの『荒地』があった。

ノートを作ったりしているうちに、N氏の訳が出た。当時としては豪華な装丁と紙質と活字だった。書評は絶賛が続いた。しかし、私は氏がいくつかの初歩的な誤訳をされているように思われた。(……)大いにためらってから、私は氏に手紙を書いた。著名人に手紙を書くのは初めてである。私が当時、鬱屈していたことは否定できない。

私は、数日後、厚い速達に驚かされた。氏は、感動的な率直さで誤訳を認めておられた。(「N氏の手紙」『記憶の肖像』所収)

浅田彰は十年以上まえの東京大学に於ける講演で次のように発言している、--ということは当時の東大にも当然まれだということだろう。


たとえば自分は医者になるがゲーテは原書で読んだとか、自分はフランス文学をやっているが彗星が来る周期に関しては必死にPCで計算してみたというほうが重要。最低限のスタンダードが教育されている上で一人の人間の中で広く浅くたくさんの人と教養を深めようというより、狭く深くでいいから、それが複数並び立つのがいい。医学をやっている人がゲーテを読んだってあまり普遍的な広がりはないかもしれないが、なくていい。深いが狭い、しかし狭いが深いというようなものが複数あってそれらがネットワークを作ることが重要。

もっというと、それが複数の人の間で拡がっていって、深いが狭い、狭いが深いというようなものがいくつかショートする状況を作ることが重要。情報ネットワークの発達でそれを可能にする条件は整いつつある。昔は物理的に全然関係ない学校の人、いわんや別の場所の人とコミュニケートするだけでずいぶん大変だった。今はそれはネットですぐできる。そういうものを使って良い形でのコミュニケ―ションを作ることが重要。(浅田彰氏講演録「知とは何か・学ぶとは何か」)

まじでまともな「人材」つくり直すのだったら
「3歳から小学校入学前の幼児と母親を対象の
のたぐいをやらなくちゃな
十代後半ではまったくおそいんだよ


…………


「憩いに就く」


夜中の一時だったか
それとも一時半

酒場の隅だったね
板仕切りの後ろ
きみと二人。他には人はいなかったね
ともしびもほとんど届かなくて
給仕はドアのきわで眠っていた

誰にも見られなかったけれど
どうせこんなに燃えたからには
用心しろといっても無理だよね。

……

神のごとき七月の燃えさかる中

大きくはだけた着物と着物の間の
肉の喜び。
肉体はただちにむきだしとなってーー
そのまぼろしは二十六年の時間をよぎって
この詩の中で今憩いに就くのだよ(中井久夫訳  以下同)


◆「酒場の隅」あるいは「からみあい」ヴァリエーション

亭主がまだ部屋から出ていくかいかないうちに、フリーダは、はやくも電燈のスイッチを切るなり、カウンター台の下のKのそばに来ていた。

「好きな人! わたしの大好きな人!」と、彼女は、ささやいたが、Kのからだにはふれなかった。恋のために気が遠くなったみたいに仰向けに寝ころんで、両腕をのばしていた。これからはじまる愛の陶酔をまえにしては、時間も無限であるらしかった。(……)

ふたりは、抱きあった。Kの腕のなかで、小さなからだが燃えていた。彼らは、失神したような状態でころげまわった。Kは、この失神状態からたえず抜けだそうとこころみたが、どうにもならなかった。しばらくころげまわっているうちに、どすんとにぶい音をたててクラムの部屋のドアにぶつかった。それからは、こぼれたビールの水たまりや床一面にちらばったごみのなかに寝ころんでいた。そうして、ふたりの呼吸と心臓の鼓動がひとつになった何時間がすぎていった。そのあいだじゅうKは、自分は道に迷っているのかもしれない、あるいは、自分以前にはまだひとりの人間も足をふみ入れたことがないような遠い異郷の地に来てしまったのかもしれないという感じ、ここでは空気ですらも故郷の空気とは異質で、その異質な空気のために息がつまりそうでありながらも、その妖しい魅力にたぶらかされてこのまま歩きつづけ、道に迷いつづけることしかできないという感じをたえずもちつづけていた。(カフカ『城』前田敬作訳)

ところが、ボーイは、調理場の半ば開いた扉とサイド・テーブルの間の、こちらからは良く見えない陰になっている床の上で、空色のスカート丈の短いユニフォームのウエイトレスと激しくもつれあっているのだった。スカートがまくれあがってしまっているので、ストッキングをつけていない長い脚が宙を泳ぐように動き、ボーイはウエイトレスの脚をすくいあげるようにして、抱え込もうとしていた。食堂には何組かの客が食事をしているのだが、客たちはボーイの振舞いには無関心で、というよりも、まるで気がついていないらしく、二組の夫婦の連れている小さな子供たちだけが、床の上の活劇めいた淫らな行為を熱心に見つめていた。

わたしはすっかりあきれてしまい、それに、はっきり言えば、それはかなり刺激的な光景だったので、どぎまぎして、平然としている彼女の顔を見た。彼女はボーイとウエイトレスの淫らな振る舞いに気づいているのだが、気にするでもなく、自分で食堂の調理場に」近いバーのコーナーに足を運んで、カンパリ・ソーダを拵えて来て、椅子にすわりながら、意味もなくわたしの顔を見て無邪気な様子で微笑みかけるのだった。苛立たしい微笑だ。それから、わたしは唐突に、あのボーイの奴はいつもああなんですか、と批難がましい口調で彼女に質問し、彼女は首をかしげて考え込むような仕草をして、そうねえ、いつもというわけじゃあないけれど、と答える。……(金井美恵子『くずれる水』)

私たちはからみあって組みうちをするのだった。私は彼女をひきよせようとし、彼女はしきりに抵抗する。奮闘のために燃えた彼女の頬は、さくらんぼうのように赤くてまるかった。彼女は私がくすぐったかのように笑いつづけ、私は若木をよじのぼろうとするように、彼女を両脚のあいだにしめつけるのであった、そして、自分がやっている体操のさなかに、筋肉の運動と遊戯の熱度とで息ぎれが高まったと思うまもなく、奮闘のために流れおちる汗のしずくのように、私は快楽をもらした、私にはその快楽の味をゆっくり知ろうとするひまもなかった、たちまち私は手紙をうばった。するとジルベルトはきげんよくいった、

「ねえ、よかったら、もうしばらく組みうちをしてもいいのよ。」

おそらく彼女は私の遊戯には私がうちあけた目的以外にべつの目的があるのをおぼろげながら感じたのであろう、しかし私がその目的を達したことには気がつかなかったであろう。そして、その目的を達したのを彼女に気づかれることをおそれた私は(すぐあとで、彼女が侮辱されたはずかしさをこらえて、からだをぐっと縮めるような恰好をしたので、私は自分のおそれがまちがっていなかったのをたしかめることができた)、目的を達したあとの休息を静かに彼女のそばでとりたかったのだが、そんな目的こそほんとうの目的であったととられないために、なおしばらく組うちをつづけることを承諾した。(プルースト『花咲く乙女たちのかげに』井上究一郎訳)

…………


「午後の日射し」


私の馴染んだこの部屋が
貸し部屋になっているわ
その隣は事務所だって。家全体が
事務所になっている。代理店に実業に会社ね

いかにも馴染んだわ、あの部屋

戸口の傍に寝椅子ね
その前にトルコ絨毯
かたわらに棚。そこに黄色の花瓶二つ
右手に、いや逆ね、鏡付きの衣裳箪笥
中央にテーブル。彼はそこで書き物をしたわ
大きな籐椅子が三つね
窓の傍に寝台
何度愛をかわしたでしょう。

(……)

窓の傍の寝台
午後の日射しが寝台の半ばまで伸びて来たものね

…あの日の午後四時に別れたわ
一週間ってーーそれからーー

その週が永遠になったのだわ


カヴァフィスは登場人物の容貌をほとんどまったく記述しない。せいぜいが、「詩的な眼」などといって済ませる。服装も身のこなしも叙述しない。舞台についても単純な数語である。「自然が出てこない」とは古くから言われたとおりである。まさに仮面劇である。 しかし、カヴァフィス詩を読む時、この寡黙に直面して、われわれは何らかの不足不満を感じるだろうか。イメージが湧いてこないとか、この辺はどうなっているのだと疑問に思ったりなど決してしないと思う。何かが足りないという感覚は生じない。ふしぎな過不足のなさである(「未刊詩編」にはある。彼が自詩を精選した「カノン(正典)にはない)。すなわち詩人の彫琢精選の結果である。 一方われわれは演出の自由を委ねられていると感じる。われわれはカヴァフィス劇の演出家とならされる。これがカヴァフィスの第三の魔法である。これが彼の詩を普遍的なものにしている要素の一つである。われわれはわれわれなりに演出できるし、せざるをえない。 (……) 状況を共有し、演出者となり、「ゴシップ」感覚を享楽するという、一見矛盾した点からであろうが、カヴァフィス詩の読者の中には、あるふしぎな感覚、「コミットしながらも醒めている」という奇妙な状況が生じる。すなわち、われわれはカヴァフィス詩の状況に共感し共振するが、決して主人公に同一化することはない。彼が感傷的になっている時でさえ、われわれは、その感傷からある距離を保ち、決してこの距離を失うことはない。おそらく、詩人自身が対象との距離を失わないからであろう。カヴァフィス詩の現代性は、安易な感情移入と同一化とを許さないというところにある。(中井久夫「劇詩人としてのカヴァフィス」『家族の深淵』所収)


「タベルナ」


ベイルートのタベルナ、あいまい宿をはいずりまわる私。
アレクサンドリアにいたたまれなかった。
タミデスに去られた。ちくしょう。
手に手をとって行ってしまった、長官の息子めと。
ナイルのほとりの別荘がほしいためだ。市中の豪邸もだな。
どんな顔して俺がおれる、アレクサンドリアに?
……
そんな人生にも救いはある。一つだけある。
永遠にあせない美のような、わが身体に残る移り香のような、救いはこれだ。タミデス、
いちばん花のある子だったタミデスがまる二年
私のものだった。あまさず私のものだった

しかも邸やナイルに臨む別荘目当てじゃなかったってこと(カヴァフィス「タベルナにて」)


ギリシャの詩人カヴァフィス(1863-1933)は、人が群れ立つ広がりから出られなかったようですね。彼は、少年時代は英国で教育を受けているわけだけれども、十代の後半からずっとアレキサンドリアにいたわけです。一九三三年に死んでいるけれでも、前の年にアテネで喉頭がんの手術を受けました。そのあと、アテネの郊外のギリシャ神話に名高い山が見えるところで静養するように、友人が設定するんですけれども、脱走してしまう。そして、カヴァフィスならあそこに行ったに違いないと思って、アテネのいちばん雑踏しているところを捜すと、はたしてそこにいたという話です。

彼の公刊されてる詩には、ほとんど自然が出てきません。遺稿集のなかには、多少植物も出てきますけれども。全部、町であり、その町と人間と追憶、そして、追憶のからまった町並みです。ほとんど彼の記憶そのものと化したようなアレキサンドリアの町というものですね。

ボードレールも、若いときは、過激なものを少し書いています。カヴァフィスも、ヨーロッパ人の評論をよむと、最初からアレキサンドリアの町の申し子みたいになっている。しかし実際には、二十代の後半あたりは、イギリスに対して、ギリシャの文化遺産を持ち去っていってことを抗議するような文章を書いています。彼がアレキサンドリアの町を一時逃れてコンスタンティノープルに行くのは、英国の艦隊がアレキサンドリアを砲撃し、カイロに進撃して、事実上エジプトを支配していく過程においてです。そして、その過程において、彼は諦念をもってアレキサンドリアの町にひっそり住み直すわけですが、昼は小役人として働き、夜はホモの世界に生き、もう一つの顔が詩人であるということです。

デカルトだって、ある種の断念のなかで都市のなかに定住するわけですね。中国にも、ほんとうの隠者は市に隠れるという成句があるでしょう。彼がオランダに住み着くのは、一つには、言論の自由ということもあるんだろうと思います。しかしオランダの町のざわめきというのを、森のなかの鳥のさえずり、というようなかたちで表現している。とにかく、都市のなかで森の静寂のようなものを味わっていて、非常に快適だと言っているんです。『方法序説』の終わりのほうかな。群衆のなかこそ隠れ家となんだというわけなんです。群衆のなかに混じって何かをやっているわけではないんですね。

あのころのいちばん近代的な都市、無名性を許容する都市というのは、アムステルダムなどのオランダの都市だったと思うんです。そういう共通性があってーーある人たちは、権力を求めて都市に来るのかもしれないけれどもーーある人は、国内的であれ、国外的であれ、亡命するために都市に来るのかもしれない。実際、農村に亡命することはできませんね。

パリとかロンドンというのは、あらゆる肌の色の人がいますけれども、イギリスの田舎にそういう人がポッと入っているかというと、それはないですね。そういう意味では、都市というものは、元来の群れから出た人間が潜り込めるようなものかもしれない。

ルソーが、森に二十歩入ったらもう自由だといっている。耕地は統制されているのですね。腐葉土のようにいろいろのものが棲めるのが自然発生都市というものかもしれません。計画された都市、たとえばつくば学園都市なんていうと、これはだいぶ違うかもしれない。これは正反対のものかもしれませんね。隠れ棲むということができない。そこがケンブリッジやオクスフォードと違う。

カヴァフィスのアレキサンドリアは、彼の詩からみると、重層した記憶の町でしょうがね。実際は相当雑駁な新興都市だと思うんですよ。アラビアンナイトから出てきたような町を予想する人もいますけれども。ことに西洋人でカヴァフィスが好きな人には、そういう思い入れがあるんだけど、実際は、あれは十九世紀になってから、エジプトが近代化を始めて、タマネギだとか綿だとかタバコだとか、農作物の集散所として栄えたぐらいで、けっしてそんな由緒ある町ではない。むしろ猥雑な町だったんでしょうね。トルコ風のコーヒー屋があるかと思ったら、イギリスのクラブがある。中東ふうの淫売窟があるかと思ったら、ヨーロッパ人のクラブのようなものがある。たぶんそのようなところだったのでしょうね。

それもどんどん変わってきて、昔はここにカフェがあったけれども、今は全然なくなっているんだというようなことを、カヴァフィスは詠んでいるし、彼はそういう重層した記憶というなかで住んでいたんでしょうね。(中井久夫「微視的群れ論」 『精神科医がものを書くとき』〔Ⅰ〕所収)


「野蛮人を待つ」  


「市場に集まり 何を待つのか?」

 「今日 野蛮人が来る」

「元老院はなぜ何もしないのか?
 なぜ 元老たちは法律も作らずに座っているのか?」

 「今日 野蛮人が来るからだ。
  今 法案を通過させて何になる?
  来た野蛮人が法を作るさ」

「なぜ 皇帝がたいそう早起きされ、
 市の正門に玉座をすえられ、
 王冠をかぶられ、正装・正座しておられるのか?」

 「今日 野蛮人が来るからだ。
  皇帝は首領をお迎えなさる。
  首領に授ける羊皮紙も用意なすった。
  授与する称号名号 山ほどお書きなすった」

「なぜわが両執政官、行政監察官らが
 今日 刺繍した緋色の長衣で来たのか?
 なぜ紫水晶をちりばめた腕輪なんぞを着け、輝く緑玉の指輪をはめ、
 みごとな金銀細工の杖を握っているのか?」

 「今日 野蛮人が来るからだ。
  連中はそういう品に目がくらむんだ」

「どうしていつものえらい演説家がこないのか?
 来て演説していうべきことをいわないのか?」

 「今日 野蛮人が来るからだ。
  奴等は雄弁、演説 お嫌いなんだ」

「あっ この騒ぎ。おっぱじった。なにごと?
 ひどい混乱(みんなの顔が何とうっとうしくなった)。
 通りも辻も人がさっとひいて行く。
 なぜ 皆考え込んで家に戻るんだ?」

 「夜になった。野蛮人はまだ来ない。
  兵士が何人か前線から戻った。
  野蛮人はもういないとさ」

「さあ野蛮人抜きでわしらはどうなる?
 連中はせっかく解決策だったのに」


この詩は四一歳の作で出発の遅い詩人としては初期の作品であるが、カヴァフィス詩の特徴がよく出ていると思う。

まず、(1)短い。この詩は長いほうで、彼の詩は一般に三ページを滅多に越えず、数行のことも多い。(2)しかも、その中でストーリーが完結する。(3)読むものをいきなり「事件の核心」に降り立たせる。われわれはいきなり状況に投入され、めまいを覚え、息をのむ。(4)現場にいあわせる感覚がある。この詩ではわれわれは対話を小耳にはさむ思いがするが、対話の相手となる場合も、隣室に独語を聞く時もある。しかも(5)読者は登場人物と決して同一化できず、現場にありながら醒めていなければならぬ。この感覚が特にカヴァフィス詩独自であると私は思う。(6)人間を中心とする寸劇、それも仮面劇である。登場人物の容貌も服装も決して与えられず、場面もヒント程度である。自然は出番がない。演出は大幅に読む者にゆだねられている。能か狂言仕立てにならないかと空想したくなる。(7)歴史ものは必ずどんでん返し、あるいは裏の意味がある。この詩の場合は明白だが、よく考えてやっとわかるものもある。(8)古代と現代とが二重写しである。同時代的に感覚されている。(9)ある市井性、世俗性、下世話さ、ゴシップ性といでもいうべきものがある。(10)彼の風刺には読者の中にある「内面化された世論」へのおもねりがない。非常な皮肉家と見る人もいるが、運命の前の人間の小ささというギリシャ悲劇的感覚につながるという見方も可能であろう。(中井久夫「現代ギリシャ詩人の肖像」『精神科医がものを書くとき』〔Ⅱ〕所収 広栄社)


「船上」 


このちいさな鉛筆がきの肖像は
あいつそっくりだ。

とろけるような午後
甲板で一気に描いた。
まわりはすべてイオニア海。

似ている。でも奴はもっと美男だった。
感覚が病的に鋭くて
会話にぱっと火をつけた。

彼は今もっと美しい。
遠い過去から彼を呼び戻す私の心。

遠い過去だ。すべて。おそろしい古さ。
スケッチも、船も、そして午後も。


このぴりっとした寸劇は彼ならではである。いきなり場面に強い照明を当てる第一行。スケッチは当時の同性愛者たちの写真代りであった。そしてイオニア海は、ギリシャに深入りしている楠見千鶴子さんによれば「エーゲ海ほど激しく挑発的で明晰な色合いを持たない代わりに、柔らかく潤んだ大気と混じり合ったけだるい曖昧さで思わず吐息をつかせてしまう」。しかし、この追悼詩の最終行は? スケッチも船も古くて当然。だが「午後」とは? むろん、その午後ははるかな過去だ。だが、はっと疑念がきざす。回想に耽る只今も陳腐だというのでは? そうなれば感傷はすべてくつがえる。(中井久夫「イオニア海の午後」『家族の肖像』所収)


「はるかな昔」


この記憶をぜひ話したい
だが今はもうひどく色あせてーー消え尽きたかのようーー
はるかな昔だから、私の青年時代だから。

ジャスミンの肌――
あの八月の夕べーーはたして八月だったか?――
眼だけは思い出せるーー青――だったと思う
そう。サファイアの青だったね


……一九八九年春、『カヴァフィス全詩集』は、第四十回読売文学賞の研究翻訳賞を受賞した。選考委員たちは、英訳でカヴァフィスを読んでいる人ばかりであるから、日本語の詩としてのカヴァフィスが評価されたのであろうが、カヴァフィスの偉大さが日本語をとおして日本人に評価されたと思いたい。刊行以来四ヶ月で受賞が決まった時、既に限定一五〇〇部はすべて売り切れており、直接売ってくれと私のところに手紙を下さる人さえあった。詩集としては驚くべきことである。詩集の再版は日本でも少ない事件である。

初版を「限定版」としたからには、しばらく再版しないのが紳士的であった。一九九一年に「普及版」が出る前に、私はもう一度原典と各国語にあたった。この普及版が出てからの新しい現象は、大衆雑誌に引用や書評がのるようになったことである。『メンズ・ノンノ』という男性服飾雑誌(一九九一年七月号)がカヴァフィス詩の一部を掲載し、『Hanako』という雑誌の東京版(一九九一年八月十二日号)が推薦図書に『カヴァフィス全詩集』を挙げた。現代人に読むに耐える愛の詩は多くないのであろう。(中井久夫「私と現代ギリシャ文学」『家族の深淵』所収)


「老人」


カフェの騒がしい片隅で
頭をつくえに伏せて老人がすわっている。
連れはない。前に新聞紙。

老年のありきたりのあわれな姿。
老人は思う、強く賢く見目よかった時を、
楽しまずに過ごした歳月の多くを。

ずいぶん歳をとった。知っている。わかる。
感じもある。 若かったのはほんの昨日。 そんな気がする。

時は過ぎた、速く、実に速く。

「分別」が自分を愚弄した。老人は思う、
バカだった。いつも信じた あのごまかし。
「明日にしよう。時間はまだたっぷり」。

思い出す。衝動に口輪をはめた。喜びを犠牲にした。
失ったせっかくの機会がかわるがわる現れて
今あざわらう、老人の意味なかった分別を。

さて考えすぎた。思い出しすぎた。
頭がくらくらする。ねてしまう老人、
頭をカフェのテーブルにやすめて。


ーーまあそこまで言うなよ、カヴァフィスさん




その老学者はまわりの騒がしい若者たちを眺めていたが、突然、このホールのなかで自由の特権をもっているのは自分だけだ、自分は老人なのだから、と思った。老人になってはじめて人は、群集の、世間の、将来の意見を気にせずともすむ。近づいてくる死だけが彼の仲間であり、死には目を耳もないのだ。死のご機嫌をうかがう必要もない。自分の好きなことをし、いえばいいのだ。(クンデラ『生は彼方に』)

(私の魂)といふことは言へない
その證據を私は君に語らう
……

しかも(私の魂)は記憶する
そして私さへ信じない一篇の詩が
私の唇にのぼつて来る
私はそれを君の老年のために
書きとめた

ーーー伊東静雄 【鶯】(一老人の詩)  

自由詩における改行の意味はどういうところにあるだろうか? 散文詩とどこが違うのであろうか。これには、十分な説明を聞いたことがない。私はこう考えている。読む速度をひそかに規定しているのであろう、と。長い行は速い速度で、短い行はゆっくりした速度で読みように、という指示を下しているのである。散文詩とは、ほぼ同じ速度で読まれる詩である。音韻的には、散文とはそういうものであるというのが、私だけの定義である。同じエリティスの詩でも「狂ったザクロの木」は「エーゲ海」よりも速い速度で読まれるのが自然だと私は思い、私の翻訳では、そのように訳してある。思い入れたっぷりの現代日本詩の朗読法は私の好みではない。現代ギリシャ詩の朗読のように、もっと速い速度で、過度の抑揚を付けずに、ほとんど散文的に、しかし行の長さによって速度を変えるか、行間休止時間を変え、頭韻や脚韻に注意して読まれるべきである。そうすれば、日本語においても、母音と母音、子音と子音の響き合いによる美しさが現れるはずである。

ついでにいえば、私にとって、詩とは言語の徴候的使用であり、散文とは図式的使用である。詩語は、ひびきあい、きらめき交わす予感と余韻とに満ちていなければならない。私がエリティスやカヴァフィスを読み進む時、未熟な言語能力ゆえに時間を要する。その間に、私の予感的な言語意識は次の行を予感する。この予感が外れても、それはそれで「快い意外さ  la bonne surprise」がある。詩を読む快楽とは、このような時間性の中でひとときを過ごすことであると私は思う。(中井久夫「私と現代ギリシャ文学」)

…………

中井久夫のカヴァフィス詩訳は「濡れている」のだよなあ
ヴァレリー訳はそれほどまでにも感じないのだけれど
原詩にもよるのか イオニア海によるものか

《学者たちのこごしくこちたい邦訳は私の心の琴線を掻き鳴らすものではなかった(上田敏や永井荷風の言葉もやや遠かった)》と書いているけれども
中井久夫のエッセイにさえも感じることのすくないあの「濡れ」の感覚

私は、詩の翻訳可能性にかんしての議論は表層言語の水準では解決できないものであると考えている。訳詩というものがそもそも果たして可能かという議論はいつまでも尽きない永遠の問題である。これが、ゼノンの逆理に似ているのは、歩行は現実にできているのだが、それを歩行と認めるかどうかという問題だからだ。ゼノンの逆理に対してディオゲネスは「立って歩けば解決できる」と言ったが、それでもなお「歩いているというのは何かの間違いだ」「ほんとうは歩けないはずだ」という反論はありうるだろう。つまり、詩の訳はできているし、あるのだが、それでもなお「それは原詩とはちがう」「ほんとうは詩の訳はできない」ということはできる。

私は、多くのものが他のもので代表象〔ルプラザンテ〕できる程度には詩の翻訳は可能であると考える。それだけでなく、もっと強く、原文を味到できる人も、その人の母語が別の言語であるならばその人の母語によって訳詩を読むことにかけがえのない意義があると考える。

その詩を母語としない外国語学の専門家が原文を母語のように味到できるという可能性は絶無ではないが、言語の生理学からは非常に至難の技である。ましてや詩である。

人間は胎内で母からその言語のリズムを体に刻みつけ、その上に一歳までの間に喃語を呟きながらその言語の音素とその組み合わせの刻印を受け取り、その言語の単語によって世界を分節化し、最後のおおよそ二歳半から三歳にかけての「言語爆発」によって一挙に「成人文法性adult grammaticality」を獲得する。これが言語発達の初期に起こることである。これは成人になってからでは絶対に習得して身につけることができない能力であると決っているわけではないけれども、なまなかの語学の専門家養成過程ぐらいで身につくものではないからである。


それを疑う人は、あなたが男性ならば女性性器を指す語をあなたの方言でそっと呟いてみられよ。周囲に聴く者がいなくても、あなたの体はよじれて身も世もあらぬ思いをされるであろう。ところが、三文字に身をよじる関西人も関東の四文字語ならまあ冷静に口にすることができる。英語、フランス語ならばなおさらである。これは母語が肉体化しているということだ。

いかに原文に通じている人も、全身を戦慄させるほどにはその言語によって総身が「濡れて」いると私は思わない。よい訳とは単なる注釈の一つの形ではない。母語による戦慄をあなたの中に蘇えらせるものである。「かけがえのない価値」とはそういうことである。

この戦慄は、訳者の戦慄と同じでなくてもよい。むしろ多少の違和感があることこそあなたの中にそういう戦慄を蘇えらせる契機となる。実際、訳詩家は翻訳によって初めて原詩の戦慄を翻訳に着手する以前よりも遥かに深く味わうものである。そうでなければ、経済的に報われることが散文翻訳に比してもさらに少ない詩の翻訳を誰が手掛けるだろうか。

翻訳以前の原詩は、いかに精密であり美しくてもアルプスの地図に過ぎない。翻訳は登頂である。ただに頂上を極めることだけではなく、それが極められなくとも、道々の風景を実際に体験する。翻訳を読むことは、あなたが原文を味到することが十分できる方〔かた〕であって、その翻訳にあきたりないところがあっても、登頂の疑似体験にはなる。愛するすべての外国語詩を原語で読むことは誰にもできない相談であるから、訳詩を読むことは、その言語に生まれついていない人には必ず独立の価値があって、それをとおして、原詩を味わうのに貢献すると私は思う。(中井久夫「訳詩の生理学」ーー「女の味」)





2013年11月27日水曜日

いつのまにかそう成る「会社主義corporatism」

……思想史が権力と同型であるならば、日本の権力は日本の思想史と同型である。日本には、中心があって全体を統御するような権力が成立したことがなかった。それは、明治以後のドイツ化においても実は成立しなかった。戦争期のファシズムにおいてさえ、実際は、ドイツのヒットラーはいうまでもなく、今日のフランスでもミッテラン大統領がもつほどの集権的な権力が成立しなかったし、実はその必要もなかったのである。それは、ここでは、国家と社会の区別が厳密に存在しないということである。逆にいえば、社会に対するものとしての国家も、国家に対するものとしての社会も存在しない。ヒットラーが羨望したといわれる日本のファシズムは、いわば国家でも社会でもないcorporatismであって、それは今日では「会社主義」と呼ばれている。

ところで、それは、もし「国家」を構築的なもの、「社会」を生成的なものとして区別するならば、この国では、構築と生成の区別が厳密に存在しないということを意味する。あらゆる意志決定(構築)は、「いつのまにかそう成る」(生成)というかたちをとる。国学者の本居宣長が、中国的な思考に対して、日本の原理としてとりだしたのは、そうした生成である。しかし、それはニーチェがいうような生成ではない。また、構築のないところで、生成を唱えることには大して意味はない。

日本において、権力の中心はつねに空虚である。だが、それも権力であり、もしかすると、権力の本質である。フーコーは、精神分析の「抑圧」という概念に反対した。その意味では、日本には「抑圧」とそれが生み出す「主体」はない。しかし、ラカン的にいえば、「排除」があるというべきだろう。すなわち、それは原抑圧の失敗であり、去勢の否認である。日本の言説空間は、外からの原理による去勢を排除してしまった分裂病的な空間であるといえるかもしれない。見かけの統合はなされているが、それは実は空虚な形式である。私は、こうした背景に、母系制(厳密には双系制)的なものの残存を見たいと思っている。それは、大陸的な父権的制度と思考を受け入れながらそれを「排除」するという姿勢の反復である。

日本における「権力」は、圧倒的な家父長的権力のモデルにもとづく「権力の表象」からは理解できない。しかし、そのことに批判的にこだわることは、逆にそれに閉じこめられうことに帰結する。フーコーは「日本」を愛さなかった。そして、私がフーコーに共感するのは、具体的に「生」の形態を変える「自由」を楽天(ゲイ)的に求めようとしたことにおいてである。(柄谷行人「フーコーと日本」1992 『ヒューモアとしての唯物論』所収)

ここで柄谷行人は去勢の排除とか否認と書いているが、古典的なラカンの用語法からすれば、排除と否認は違う。排除は精神病にかかわり、否認は倒錯にかかわる(抑圧は神経症)。

※このあたりは藤田博史氏がそのセミネールで平易な言葉で解説しているメモがあるので参照のこと→「心的装置の成立過程における二つの翻訳」補遺

「去勢を排除してしまった分裂病的な空間」という表現も、ラカン的にはすこし違う。去勢を排除すると「精神病」になる(精神病の下位分類にパラノイアとスキゾフレニー(分裂病)とメランコリーがある)。

もっとも1992年に書かれた論であり、その後二十年の時を経て、今では多くのひとに明らかになっているラカンの用語遣いとの齟齬にこれ以上拘るつもりはない。

否認であろうが排除であろうが、柄谷行人のこの時点での、日本人の精神構造のありようの洞察、「いつのまにかそう成る」や、「会社主義」、「母系的なものの残存」などに注目しなければならない。

たとえば、「父の名」の(隠喩の)排除は、前エディプス期における母の想像的ファルスになるという二項関係に囚われたままであるか、あるいは女性(「母」)化、つまり、父性隠喩の不成立によって「母のファルスになる」という欲望を「ファルスをもつ」に変換できなかった主体が、「母に欠けたファルスになることができないならば、彼には、男性たちに欠如している女性になるという解が残されている」(Lacan E566)ということなのだから、柄谷行人の「母系的なものの残存」という表現は核心をついている。

もっともこの当時、日本のシステムの母性的なあり方は、しばしば論じられていた。

バラード)……そこで聞くのだが、電子情報産業の最先端を行っており、強力なメディア・ランドスケープをもっているはずの日本が、なぜレーガンのような政治上のメディア・パーソナリティを生み出してこなかったのか。どうして流行遅れの官僚みたいな政治家しかいないのか。

浅田彰)父権的・男根的なシンボルを中心に戴く社会というのは、メディア社会としては未熟だと思うんです。メディア社会が発達してくると、縫い目のないメディアのネットワークが、電子の子宮のように、したがって父権的というよりは母性的な形ですべてを包み込み、不在であるがゆえにいたるところに偏在する中心として機能するようになるのではないか。そこで、昔から空虚な中心として機能してきた天皇というプレモダンな象徴が、ポストモダンなメディア社会とうまく適合してしまうのではないか。

バラード)ふむ。たしかに私も、これから全体主義が可能だとしたら、微笑を浮かべたソフトな全体主義になるだろうとは思うね。実際、どこからともなく人の心にすっと入り込むようなソフトな誘導のほうが支配的になってきている。(浅田彰『「歴史の終わり」と世紀末の世界』「メディア・ランドスケープの地質学」J・G・バラードとの対話)




柄谷行人は1990年になされた岩井克人の対談でも「会社主義」をめぐって語っている。

柄谷)コジューヴは五九年に日本へ来たんですけれども、その時に自分は世界史が終わった時点ではアメリカのようになるであろうと思っていたけれども、それは間違っていた。日本のようになると言い出したわけです。精神とか人間というのは闘争においてあるというのがヘーゲルの考えで、闘争が終われば動物的になってしまう。しかし、そうならないで、なおかつポスト歴史的な生の形式でありうる。それが日本人だと言うわけです。ところで日本人は、関ヶ原の戦争以来闘争がない。彼は具体的には江戸時代のことを言っているんだけれども、江戸時代に日本人がつくりあげた生存形式、ジャパニーズ・ウエイ・オヴ・ライフと言うべきだろうけども、これを彼はスノビズムと呼ぶわけです。それは、動物のようになることではない。まだ人間的ではあるんだけれども、いささかも人間的内容なしに、あるいは意味なしに、単に形式的な、戯れだけで行動してしまえること、それが日本的な生活様式であると。これは実際に江戸文化のことですね。(……)

彼が注目したのは、茶道とか生花とか、あるいは自殺、腹切りですね。三島由紀夫がそのあと、十年後に自殺したわけですけど、これは典型的にそういう意味でのスノビズムになってます。ところがぼくは、スノビズムはそういうところにあるよりも、むしろもっとありふれた日本人の「会社」的な生存のし方にあると思います。

つまり日本人、会社では、なんのためか知らないけれど一生懸命働いてしまう。いささかの人間的内容もなく、頑張ってしまう。早くから入学試験にそなえて頑張るのもそうですね。その形態、つまり日本の高度成長段階の生存形態というのが、スノビズムではないかと思うんです。消費社会的なものが猛烈に表面化してきたのが八十年代で、この段階でまさに江戸的になるんですね。意味のない形式的な差異だけを、これは広告でもブランドども何でもいいんですけど、それだけを追いかける。こういう生存のし方が出てきて、しかもそれを吉本隆明なんかが「超西洋的」と呼ぶわけでしょう。

情報というのは観念(意味)よ物質という対立を、差異(形式)に還元してしまう考え方です。まさにそういう意味での「情報社会」というのは、西洋ではなくて、日本のあらゆる領域で実現されたと思う。(『終わりなき世界』)

コジューヴの日本的スノビズムの指摘をめぐって、その後次のような議論があるのを知らぬわけではない。

コジェーブは、歴史の終焉後、日本的「スノッブ化」とアメリカ的「動物化」の二者択一しかないと見たが、東さんは、日本的「スノッブ化」すら過去のもので、今や「動物化」しつつあると。

 スノッブが動物に「なる」とはどういうことか。「あえて」形式と戲れるスノッブですが、コジェーブはそこに人間の自由を、ジジェクは「あえて戯れ『ざるを得ない』」不自由を見出しました。さて「動物的なもの」においては、その「あえて」の契機がスッポリ抜けるのだと東さんは言います。だから、せっかくスノッブがディタッチメントを達成したのに、再び素朴なコミットメントに回帰しているように見えます。同じ戯れでも「あえて」が入るか入らないかの差異が重大だという指摘……(宮台・東対談~『動物化するポストモダン』を読む~

だがこの「あえて」の契機がスッポリ抜ける動物化という指摘も柄谷行人が次のようにいうスノビズムの範囲を出るものであるのかどうかは、著書を読んでいないわたくしにはよく分らない。

もはや「純文学」などという者はいない。しかも、純文学を軽侮することがアイロニーとしてあった時代もとうに終っている。今や新人作家がその二冊目のあとがきにつぎのように書く始末なのだ。《良いもの、つまんないかもしれないものも、ちゃんと読んでくれる人がいて、ごまかしがきかないくらい丸ごと伝わってしまうことはプロの喜び、幸せ、大嬉しいことです。しっかり生きて、立派な職人になりたい。いい仕事をしよう》(『うたかた/サンクチュアリ』)。

「立派な職人になる」と言うのは、一昔前なら、「大問題」を相手にする戦後派的な作家に対して身構えた作家の反語的な台詞としてありえただろう。それは、実際はひそかに“芸術家”を意味していたのである。そういうアイロニーはまだ村上春樹まではある。しかし、吉本ばななは、これを自信満々でいっているのではないかと思われる。それは文字どおり芸能人のファン・クラブ会誌にふさわしい言葉である。そもそも「職人」や「芸人」がどこにもいなくなった時代に、こういう言葉が吐かれていることは、知識人や芸術家が死語にひとしいことを端的に示している。(柄谷行人「死語をめぐって」1990ーー柄谷行人の「構造と反復」をめぐって

 ここで柄谷行人は「あえて」のないアイロニーを語っているということになる。


いずれにせよ、日本的な精神構造の特徴のひとつとして、意味のない形式的な差異だけを追いかけるという側面は、現在でも、インターネット上で、より一層盛んになっているといってよいだろう。それは最近の藤田博史セミネールにて、サンブランを介した鏡像的な他者との関係を日本的幻想の特徴としていることにも繋がる。

aー$ がエス Le Ça 、-φーAsーφ が自我 Le moi、AーΦ が超自我 Le surmoi に呼応しています。したがって、日本的幻想の特徴は、他者のサンブランがあたかも大文字の他者のように振る舞ってしまうところにあります。(資料:ラカンの幻想の式と四つの言説




※ここでの中段の-φーAsーφ 、---φは理想自我(あるいは想像的ファルスの欠如)、φは自我(想像的ファルス)ーーが日本的幻想の式。

サンブランAsを介しての自我ー理想自我のあいだを揺れ動くナルシシズム(「みせかけsemblant」の趣味などを介しての「私に似た」他の人々、競争や相互承認といった鏡像的関係を結ぶ私の同類たちとの湿った瞳の交し合いやら頷き合い、羨望など)は、現在、SNS上などで、顕著な振舞いとしてしばしば見られるとしてよいだろう。

ところで柄谷行人曰くの「日本的な生活様式とは実際に江戸文化のこと」とは具体的にはどういうことだろう。

中井久夫は、「大家族同居の禁」、「刀狩」、「布教の禁」の三つを挙げている。

このシンポジウムで私の前に米山俊直先生が話された中で私の印象に強く残ったのは、信長が比叡山を焼いた事件の大きさである。比叡山がそれまで持っていた、たとえば「天台本覚論」という宇宙全部を論じるような哲学がそれによって燃え尽きてしまう。比叡山が仮に信長に勝っていたらチベットのような宗教政治になったかどうかはわからないが……。それ以降、秀吉と家康がした大きな改革が三点くらいある。一つは「大家族同居の禁」である。江戸時代のほうが明治以降よりも小家族であった。森鴎外の『阿倍一族』のような反乱を起こされたら困るからである。もう一つは刀狩という「武装解除」である。最後の一つは「布教の禁」で宗教は布教してはいけないということである。おそらく幕末のいろいろな宗教運動がものすごい抵抗に遭ったのは、布教の禁に真っ向から対立するからだろうと思う。布教しないということはその宗教は半分死んだようなものかもしれないが、檀家制度という、生活だけは保障する制度をする。以上の三つに付随して「宗教者医療の禁」がある。「医は仁術なり」という言葉は「お医者さんは非常に親切であれ」ということではなくて、「仁」という儒教の道徳にもとづいた非宗教人だけに医術を許すということである。ただし日蓮宗は狐憑きを治療してよいなどいくつかの例外はある。(中井久夫「山と平野のはざま」『時のしずく』所収 P. 98)

こうやって日本的スノビズムが生まれたといってよいのだろう。これは根がらみであり、いまさら生半可な抵抗してもはじまらない。

しかもフロイトやラカンのいう「父の名」の象徴的機能などは、日本には昔からなかったのではないか、あったとしても明治以降の擬似一神教のあいだだけで、しかもとても弱いものではないかという指摘さえあるのであり、それであるならいっそうのことスノビッシュなナルシシズムが跳梁跋扈してもやむえない。

かつては、父は社会的規範を代表する「超自我」であったとされた。しかし、それは一神教の世界のことではなかったか。江戸時代から、日本の父は超自我ではなかったと私は思う。その分、母親もいくぶん超自我的であった。財政を握っている日本の母親は、生活費だけを父親から貰う最近までの欧米の母親よりも社会的存在であったと私は思う。現在も、欧米の女性が働く理由の第一は夫からの経済的自立――「自分の財布を持ちたい」ということであるらしい。

明治以後になって、第二次大戦前までの父はしばしば、擬似一神教としての天皇を背後霊として子に臨んだ。戦前の父はしばしば政府の説く道徳を代弁したものだ。そのために、父は自分の意見を示さない人であった。自分の意見はあっても、子に語ると子を社会から疎外することになるーーそういう配慮が、父を無口にし、社会の代弁者とした。日本の父が超自我として弱かったのは、そのためである。その弱さは子どもにもみえみえであった。(中井久夫「母子の時間 父子の時間」『時のしずく』ーー父なき世代


柄谷行人曰く、日本のスノビズムは、「会社主義」、「会社」的な生存のし方である、と。あるいは、corporatismともされる。これは仲間主義やら協調関係、連帯などということに関わるのだろう。終業時間がきても、仲間が仕事をしていれば、なんとなく居残ってしまう。サービス残業をする。いつのまにかそうしてしまう。曖昧模糊とした春のような気質の日本人、あるいは、《日本社会では、公開の議論ではなく、事前の「根回し」によって決まる。人々は「世間」の動向を気にし、「空気」を読みながら行動する。》(柄谷行人「キム・ウチャン(金禹昌)教授との対話に向けて」)というわけだ。


《ヒットラーが羨望したといわれる日本のファシズムは、いわば国家でも社会でもないcorporatismであって、それは今日では「会社主義」と呼ばれている。

ところで、それは、もし「国家」を構築的なもの、「社会」を生成的なものとして区別するならば、この国では、構築と生成の区別が厳密に存在しないということを意味する。あらゆる意志決定(構築)は、「いつのまにかそう成る」(生成)というかたちをとる。》

ヒットラーがなにを羨望したかははっきりとは窺い知れないが、権力の中心がなくてもファシズム的支配が容易であるということか。これはフロイトのいう《一次的な集団とは、同一の対象を自我理想とし、その結果おたがいの自我で同一視し合う個人の集りである》(『集団心理学と自我の分析』)の「自我理想」の箇所が空虚でありながら、《多くの人々を一体化させるように作用するだろうし、類似した感情的結合を呼び起こす》(フロイト 同)のであるならば、ヒットラーの羨望を生んでもおかしくない。(参照:優しい人たちによる魔女狩り

これもサンブランを介しての想像的同一化の症状ということになる。


で、なにがいいたいというのか。

ことさらなんらかのことを主張したいわけではない。また「いつのまにかそうなってしまった」な、という感慨を抱いて、苛立っているだけだ。しかも今度は戦前の日本ファシズム的「内務省」設置の法案だ。

しかもわたくしの殆ど唯一の情報源のツイッターを眺めると、つながりとか協調とかを大切にしているらしい伝来の「会社主義」の連中が、あいもかわらず、民主主義が終わった日とか民主主義の頽廃とかなんとか上滑りな言葉を発信している。ツイッターという装置は、まさに気軽な断言を誘発する装置としてある。昔からひそかにくり返して暗記していた台詞が、ふと口から洩れてしまったような印象を受ける。その言葉は行動への変容の資質を放棄しているかのようだ。スノビッシュに共感の湿った瞳を交し合っている連中ばかりが目につき、その資質が「いつのまにかそうなってしまう」日本を育んでいるのではないかと疑ったことはいまだないらしい。


つい最近こんな文を読んだのだかね、金井美恵子の最近のエッセイを読んでの感想であり、《金井美恵子に見透かされる。震災にさいして「言葉を失った」などと簡単に言ってしまった欺瞞とか》という表題をもっている。

私たちは、震災にさいして「言葉を失った」とか言う。簡単に言ってしまう。自分がいかに言葉を失っているかを、雄弁に書いたり語ったりしたんじゃなかったっけ?
でも私たちの多くはほんとうは、震災にさいして「言葉を失った」りなんかしていない。

それどころか、震災それ自体ではなく自分の思考ばかりを見て、Twitterで、熱に浮かされたように、ふだんより生き生きと上滑りな言葉を発信したりしたのではないか?

2013年11月8日金曜日

「スカートの内またねらふ藪蚊哉」

断腸亭日乗 昭和十九年甲申歳 荷風散人年六十有六

九月初七。午前驟雨雷鳴あり。無花果熟して甘し。近隣の南瓜早くも裏枯れしたり。鳳仙花白粉花秋海棠満開。萩木芙蓉の花また満開となれり。町会事務所にて鮭の鑵詰の配給をなす。噂によればこれらの鑵詰は初め軍部にて強制的に買上げをなせしもの。貯蔵に年月を経過し遠からず腐敗のおそれありと見るや町会に払下げをなし時価にて人民に売つけ相当の鞘を得るなり。軍部及当局の官吏の利得これだけにても莫大なりといふ。日米戦争は畢竟軍人の腹を肥すに過ぎず。その敗北に帰するや自業自得といふべし。これも世の噂なり。××氏に送る返書の末に、

世の中は遂に柳の一葉かな       残柳
秋高くもんぺに尻の大なり
スカートのいよよ短し秋のかぜ
スカートの内またねらふ藪蚊哉
虫ききに銀座を歩む月夜哉
亡国の調〔しらべ〕せわしき秋の蝉
秋蝉のあしたを知らぬ調かな

…………

「スカートの内またねらふ藪蚊哉」
ーーなんと味わい深き哉

俳句にはまったく不案内不粋の身だが、それにもかかわらず、ここには「一瞬よりはいくらか長く続く間」(大江健三郎)、その「ゆらめく閃光」(ロラン・バルト)を切り取ったものがあるとすることができる。

その効果は切れ味がよいのだが、しかしそれが達しているのは、私の心の漠とした地帯である。それは鋭いが覆い隠され、沈黙のなかで叫んでいる。奇妙に矛盾した言い方だが、それはゆらめく閃光なのである。(『明るい部屋』)

ここでツイッター上で拾った「痛快句」を挿入しておこう。

夕立やモヒカン濡れてワカメ酒(鈴木創士)

《ツイートの別な使い方。「ボット」のように、自由間接話法の、だれとも知れない声の仮の置き場所として使えないか》と高橋悠治はいうが、夜郎自大の「わたし」「ぼく」の跳梁跋扈や意味の過剰、湿って纏わりつく下品な抒情などへの清涼剤として、束の間を叙事する俳句・川柳のたぐいがもっとあってよいのではないか(もっとも才能の有無が際立つので、凡人にはなかなか遣り難いともいえる)。


寄り道から引き返し、「蚊」のキスに戻る。

・秋の蚊に踊子の脚たくましき(吉岡実)

・みんなは盗み見るんだ/たしかに母は陽を浴びつつ/ 大睾丸を召しかかえている/(……)/ぼくは家中をよたよたとぶ/大蚊[ががんぼ]をひそかに好む(吉岡実「薬玉」)

亜麻色の蜜蜂よ きみの針が/いかに細く鋭く命取りでも、/(……)/刺せ この胸のきれいな瓢を。/(……)/ほんの朱色の私自身が/まろく弾む肌にやってくるように!//素早い拷問が大いに必要だ。/…… (ヴァレリー「蜜蜂」中井久夫訳)

ヴァレリーの「カイエ」には蛇の絵が頻出する。中井久夫は、ヴァレリーの詩を翻訳する過程で、《ヴァレリー詩には独特の奇妙な毒が確かにあると私は感じている。それはしばしば行間から立ちのぼって、私の手を休ませずにはおかなかった。時には作業は何日も停滞するのであった》(「ヴァレリーと私」)としている。

あるいは、《上の傍線部分を、「鮮やかな緑の毒蛇よ きみの毒牙が/いかに細く鋭く命取りでも」と置き換えたい誘惑を感じた》、と。

ーーなどと引用していけば、詩句はやはり隠喩的読みを促すものがあり、俳句的な束の間の閃光の味わいとはいささか異なる。薮蚊の句から、「みんなは盗み見るんだ」ーー荷風のほとんど終生やむことのなったらしいその覗き見趣味に思いを馳せてみるなどという不粋な振舞いはやめておこう。


…………


《西欧はすべてのものを意味で湿らせてしまう》としつつ、ロラン・バルトは俳句への羨望を語っている(『記号の国』)。

俳句は、自分でもたやすく作ることができるとたえず思わせてしまうような、そんな幻想をあたえる性格をいくぶんかもっている。つぎの句(蕪村の)を見ると、自然に生れ出てくるエクリチュールにとって、この句ほど近づきやすいものがあるだろうか、と思ってしまう。

父母のことのみ思ふ秋のくれ

俳句は、羨望をおこさせる。どれほど多くの西欧の読者が夢みたことだろうか。手帳をたずさえて、あちこちで「印象」を書きとめながら歩きまわることを実生活でしてみたいものだ、と。その「印象」記では、簡潔さは完璧さを保証するものとなり、素朴さは深遠さを証明するものとなるだろう。(……)

俳句においては、意味は一瞬の閃光、光の浅い傷跡にすぎない。シェイクスピアは「見えない世界を照らしだした閃光とともに、意味の光が消えてゆくとき」と書いていたが、俳句の閃光にはなにも照らしださないし、明らかにもしない。

※ここでの「シェイクスピア」は翻訳者石川美子さんによれば、実際はワーズワースの自伝詩『序曲――詩人の魂の成長』から。


ロラン・バルトの『記号の国』における日本文化の顕揚はあくまでバルトのフィクションであり、意味過剰の西欧文化にたいしての意味の中断、あるいは非―意味のユートピアへの憧憬として捉えるべきというのは、少なくともバルト読みたちの「常識」だろう。バルトの書を日本文化論としてとらえて批判するのは愚の骨頂である、と。

俳句がロラン・バルトのいうようなものかどうかは、俳句について殆ど無知のわたくしにはわからない。ただ短歌の心情的・抒情的な「意味」の吐露、ときに粘つくその重とは異なった印象を受けることが多い(短歌だって、ときに素朴・おおらかな万葉歌集、あるいは、小林秀雄の「西行」、あるいは折口信夫や子規の歌論などを読んで感心した程度だから口幅ったいことはいうつもりはないが)。

言うまでもないことだが、短歌というものは天皇を頂点とする文化のヒエラルキーにつらなる言葉によって形成される詩形で、浅田彰風に言うならば、さだめし、「土人の詩」ということにでもなろうか。(金井美恵子『本を書く人読まぬ人とかくこの世はままならぬ』)

――このように短歌にひどい悪口をいう金井美恵子だって俳句についての悪口は言わない。それは彼女が敬愛の念を漏らす二人の作家、ロラン・バルトや、俳句的な詩句もある吉岡実に遠慮してかどうかは知らねど。


実際、《四人の僧侶/畑で種子を播く/中の一人が誤って/子供の臀に蕪を供える/驚愕した陶器の顔の母親の口が/赭い泥の太陽を沈めた》(吉岡実「僧侶」)やら、《水べを渉る鷭の声に変化した女の声を聴く》(「感傷」)などは、ほとんど俳句の変種が挿入されていると読める。

それは吉岡実が崇敬する西脇順三郎の詩句のかなりの箇所が俳句的であるのと同様。

たとえば西脇から出典を示さずに断片をいくつか拾ってみよう、--要するに気に入っている詩句を順不同に抜き書きしてあるもののなかからであり、そこでは出典が記されていないためだがーー、有名過ぎる「(覆された宝石)のやうな朝」のようなものは除きつつ。

・露にしめる /黒い石のひややかに /夏の夜明け
・もう秋は四十女のように匂い始めた
・野原をさまよう時 /岩におぎようやよめなをつむ/ 女のせきがきこえる
・黒い畑の中に白い光りのこぶしの木が /一本立つている
・まだこの坂をのぼらなければならない/とつぜん夏が背中をすきとおした
・石垣の間からとかげが /赤い舌をペロペロと出している
柿の木の杖をつき /坂を上つて行く /女の旅人突然後を向き /なめらかな舌を出した正午
・けやきの木の小路を/ よこぎる女のひとの /またのはこびの/ 青白い/終わりを
・ちようど二時三分に /おばあさんはせきをした /ゴッホ


さてここで公平を期すために、――つまり短歌を貶すつもりでは毛頭ないことを示すためにーー、次の文を掲げる。

俳句と短歌とで見ると、俳句は遠心的であり、表現は撒叙式である。作家の態度としては叙事的であって、其が読者の気分による調和を、目的としているのが普通である。短歌の方は、求心的であり、集注式の表現を採って居る。だから作物に出て来る拍子は、しなやかでいて弾力がある。読者が、自分の気持ちを自由に持ち出す事は、正しい鑑賞態度ではない。ところが芭蕉の句はまだ、様式的には短歌から分離しきって居ない。それは、きれ字の効果の、まだ後の俳句程に行って居ない点からも観察せられる。芭蕉の句に、しおりの多いのも、此から出て居る。併しながら元々、不離不即を理想にした連俳出の俳句が、本質の上に求心的な動きを欠いて居る事は、確かである。(折口 信夫『歌の円寂する時 』)

しかし荷風などの漢文体起源の文章を読んでいると、短歌よりも俳句的なものに魅惑されるということはある。

俳句とは如何なるものかという問に対して先生の云った言葉のうちに、俳句はレトリックのエッセンスであるという意味の事を云われた事がある。そういう意味での俳句で鍛え上げた先生の文章が元来力強く美しい上に更に力強く美しくなったのも当然であろう。また逆にあのような文章を作った人の俳句や詩が立派であるのは当然だとも云われよう。実際先生のような句を作り得る人でなければ先生のような作品は出来そうもないし、あれだけの作品を作り得る人でなければあのような句は作れそうもない。後に『草枕』のモニューメントを築き上げた巨匠の鑿のすさびに彫んだ小品をこの集に見る事が出来る。(寺田寅彦『夏目先生の俳句と漢詩』)


ところで『彼自身によるロラン・バルト』に次のような文がある。

「いろいろの本の企画」の項には、そのひとつとして、

『偶景(アンシダン)』(ミニ=テクスト、短い書つけ、俳句、寸描、意味の戯れ、すべて木の葉のように落ちてくるもの)

「それはどういう意味か」の項には、

千の偶発事(アンシダン)を記述して、しかもそれこら一行の意味を引き出すことも差し控えるような。それはまさに俳句の本になるだろう。

花輪光氏は、「偶景」について、上の『彼自身』、あるいは『新=批評的エッセー』の叙述から、次のようにまとめている。(ロラン・バルト『偶景』 解題代わりの小論「小説家ロラン・バルト?」より)

偶景(incident)――偶発的な小さな出来事、日常の些事、事故(アクシダン)よりもはるかに重大ではないが、しかしおそらく事故よりももっと不安な出来事、人生の絨毯の上に木の葉のように舞い落ちてくるもの、日々の織物にもたらされるあの軽いしわ(プリ)、わずかに書きとめることができるもの、何かを書くために必要となるちょうどそれだけのもの、表記のゼロ度、ミニ=テクスト、短い書つけ、俳句、寸描、意味の戯れ、木の葉のように落ちてくるあらゆるもの。

ここに「事故よりももっと不安な出来事」とある。この「不安」を花輪氏はどのような意味で使っているのかは窺いしれないが、バルトとも親しい関係にあったラカンにとっての「不安」とは、現実界reelに近づき過ぎたとき生じるものである。ここではラカンの「不安」セミネールの長ったらしい説明ではなく、ジジェクの簡潔な文を引用しよう。

ラカンによれば、不安は欲望の対象=原因が欠けているときに起こるのではない。不安を引き起こすのは対象の欠如ではない。反対に、われわれが対象に近づきすぎて欠如そのものを失ってしまいそうな危険が、不安を引き起こすのだ。つまり、不安は欲望の消滅によってもたらされるのである。(スラヴォイ・ジジェ ク:『斜めから見る』:p27)

ゆらめく閃光、その欲望の裂け目を掠め取る俳句的手法は、現実界(リアル)の深遠を垣間見る試みである、としておこう。「裂け目の光のなかに保留されているもの」(ラカン)の出現―消滅をわずかに書き留めるのだ。そこでは「享楽の垣根における欲望の災難[Mesaventure du desir aux haies de la jouissance]」(ラカン)があり、秀句は「欲望」ではなく「享楽」--現実界的なものーーの審級に属するものが多いのではないか。

その表記のゼロ度、意味の戯れは、現実(リアリティ)でも、象徴界、あるいは想像界の領域でもない。ーー《見えない世界を照らしだした閃光とともに、意味の光が消えてゆく》


さて『偶景』は、けっきょく生前出版されなかったが、そのテクストのいくつかは『テル・ケル』誌に掲載することを考えて印刷できる状態にあったようだ。

没後発表された『偶景』からロラン・バルトの俳句的なエクリチュールをいくつか引いてみよう。


モロッコにて、最近のこと……

・列車のバーテンダーが、ある駅で降り、赤いジェラニウムの花を摘み、水を入れたコップにさして、汚れた茶碗やナプキンを放り込んでおくかなり汚い物入れとコーヒー沸しの間に置いた。
・二人のアメリカの老婦人が背の高い盲目の老人を力づくでつかまえ道を渡してやる。しかし、このオイディプスはお金の方を好んだであろうに。金、金、相互扶助ではなく。 
・手はもうすでに少し分厚いが、華奢で、ほとんどなよなよした少年が、突然シャッターのようにすばやく、男であることを表す仕草――爪の裏でたばこの灰を落とすーーをする。
・一人の立派なハジ。短い灰色のひげをよく手入れし、手も同様に手入れし、真白い上質のジェラバを優雅にまとって、白い牛乳を飲む。
しかし、どうだ。鳩の排泄物のように、汚れが、きたないかすかなしみがある。純白の頭巾に。


さらに重ねて『彼自身によるロラン・バルト』における「俳句」という語が出現する箇所を引けば、「想起記述」は、まさに俳句である、とある。

私が《想起記述》を呼んでいるものは、被験者が、稀薄な思い出を《拡大もせず、それを振動させることもなしに》ふたたび見いだすためにおこなう作業―――享楽と努力の混合―――である。それは俳句そのものだ。《伝記素》とは、つくりものの想起記述以外の何ものでもない。私が自分の愛する著作者に想定する想起記述である。

これらのいくつかの想起記述は、程度の差はあるがともかく、みな《つや消し》である(意味作用を発揮していない、すなわち意味を免除されている)。それらをうまくつや消しのものにすることに成功すればそれだけ、それらは想像界からうまく逃れることになる。

「想起記述」とは中井久夫の説く幼児型記憶の記述に近い。そして幼児型記憶は、トラウマ的なものであり、やはり「現実界」に属する(参照:ロラン・バルトの想起記述と中井久夫の幼児型記憶


最後にロラン・バルトの想起記述のいくつか。

《おやつのときの、つめたい砂糖入りミルク。古い白い茶碗の底に、陶器のきずがひとつあった。かきまわすときにスプーンに当たったものはそのきずだったか、それとも、溶け残りか洗い残しの砂糖のこびりついたものだったろうか。》

《市街電車に乗って、日曜日の夜、祖父母の家から帰る。晩ごはんの居間の、暖炉のそばで、ブイヨンと焼いたパンだった。》

《夏の宵、なかなか日が暮れないとき、母親たちは小道を散歩していた。子どもたちがそのまわりでじゃれていて、まさに祭りであった。》

《こうもりが一匹、部屋へはいって来た。それが髪にとまりはしないかと、おびえた母親は自分の背中に彼をかかえて、ふたりは敷布を頭からかぶり、そして、火ばさみでこうもりを追い払った。》


中井久夫の幼児期記憶の記述をもひとつ。

《母親がガラスの器にイチジクの実を入れてほの暗い廊下を向こうから歩いてくる》

…………

最近、自己主張の少ない端正なバッハのシンフォニアの演奏録音(1963)に出逢うことができたのでーーこのアナトリー・ヴェデルニコフの演奏を俳句的なものなどとするつもりはないがーー、ここに貼り付けておく。







※俳句的な音楽なら、まずはシューマン(そしてウェーベルン)が想起させられるのは、ロラン・バルトや奥泉光が言う通り。そしてシューマンがバッハの曲に多くを学んでいるのはこれも周知の通り。

「シューマンはね、突然はじまるんだ。ずっと続いている音楽が急に聴こえてきたみたいにね。たとえば野原があったとして、シューマンの音楽は見渡す限りの、地平線の果てにまで広がっている。そのほんの一部分を、シューマンは切り取ってみせる。だから実際に聴こえてくる音楽は、全体の一部分にすぎないんだ」(奥泉光 『シューマンの指 』)


断章は(俳句と同様に)《頓理》である。それは無媒介的な享楽を内含する。言述の幻想、欲望の裂け目である。文としての思考、という形をとって、断章の胚種は、場所を選ばず、あなたの念頭に現れる。それはキャフェでかもしれず、列車の中かもしれず、友だちとしゃべっているときかもしれない(それは、その友だちが話していることがらの側面から突然出現するのだ)。そういうときには、手帳を取り出す。が、その場合書きとめようとしているものは、ある一個の「思考」ではなく、何やら刻印のようなもの、昔だったら一行の「詩句」と呼んだであろうようなものである。 何だって? それでは、いくつもの断章を順に配列するときも、そこには組織化がまったくありえないとでも? いや、そうではない、断章とは、音楽でいう連環形式のような考えかたによるものなのだ(『やさしき歌』、『詩人の恋』)。個々の小品は、それだけで充足したものでありながら、しかも、隣接する小品群を連結するものでしかない。作品はテクストの外にしか成立しない。断章の美学を(ウェーベルン以前に)もっともよく理解し実践した人、それはだぶんシューマンである。彼は断片を「間奏曲」と呼んでいた。彼は自分の作品の中に、間奏曲の数をふやした。彼がつくり出したすべては、けっきょく、《挿入された》ものであった。しかし、何と何の間に挿入されていたと言えばいいのか。頻繁にくりかえされる中断の系列以外の何ものでもないもの、それはいったい何を意味しているのか。 断章にもその理想がある。それは高度の濃縮性だ。ただし、(“マクシム〔箴言、格言〕”の場合のように)思想や、知恵や、真理のではなく、音楽の濃縮性である。すなわち、「展開」に対して、「主調」が、つまり、分節され歌われる何か、一種の語法が、対立していることになるだろう。そこでは《音色》が支配するはずである。ウェーベルンの《小品》群。終止形はない。至上の権威をもって彼は《突然切り上げる》のだ! (ロラン・バルト『彼自身によるバルト』)






2013年11月7日木曜日

春さん蛸のぶつ切りをくれえ  それも塩でくれえ  酒はあついのがよい





日本酒が飲みたしが
尿酸高値にて
米焼酎のみにて堪える日々なり

庭球仲間月一で各家にて宴する慣わし
当家の定番は純米酒をドバドバ注ぐ鼈鍋に決りしが
昨日の宴は鼈プリン体多しが為鴨鍋にす
鴨では物足りぬのか酒肴に卵つきの雌蝦蛄を
山のように持参するものあり

鴨も蝦蛄も尿酸には好ましくなき
のを知らぬではなく
鴨肉はわずかにて遠慮し
蝦蛄は五尾ばかりで我慢すべしと思いしが
結局十五尾ほど食すなり

鴨鍋といえば野菜は菊菜に決まりしが
はて鴨の脂をぞんぶんに吸った
好物の菊菜は大丈夫なりしか
ほうれん草はプリン体多きを知る身なり

乾季訪れ涼しく心地よき季節なり
ああ酒が飲みたし

母さん「蛸のぶつ切りをくれえ
それも塩でくれえ
酒はあついのがよい

それから枝豆を一皿」

…………

勧酒  于武陵 井伏鱒二訳

コノサカヅキヲ受ケテクレ (勧君金屈巵)
ドウゾナミナミツガシテオクレ (満酌不須辞)
ハナニアラシノタトヘモアルゾ (花発多風雨)
「サヨナラ」ダケガ人生ダ (人生足別離)


春暁   孟浩然  井伏鱒二訳

ハルノネザメノウツツデ聞ケバ (春眠不覚暁)
トリノナクネデ目ガサメマシタ (処処聞啼鳥)
ヨルノアラシニ雨マジリ (夜来風雨声)
散ツタ木ノ花イカホドバカリ (花落知多少)


静夜思       李


牀前看月光    牀前〔しょうぜん〕 月光を看る
疑是地上霜    疑うらくは是地上の霜かと
挙頭望山月    頭〔こうべ〕を挙げて山月を望み
低頭思故郷    頭を低たれて故郷を思う


井伏鱒二訳

ネドコニユクトキイイ月ガデテ
ニハハマッシロ霜カトミエタ
月ノヒカリヲミテイルト
ヒトリ妻子ニアタマガサガル
(昭和十年二月、随筆「中島健蔵に」)

井伏鱒二訳

ネマノウチカラフト気ガツケバ
霜カトオモフイイ月アカリ
ノキバノ月ヲミルニツケ
ザイショノコトガ気ニカカル
  (昭和十二年「厄除け詩集」)


(井伏鱒二夫妻 昭和二十七年)

ーーこの写真というのは、少し品を落とせば、母方の祖父母に驚くほど似てるんだよな、縁側というのか渡り廊下というのか、その感じも幼少年時育った祖父母の古い家に。

オレの「この一枚」だね


ある写真が私におよぼす魅力を(とりあえず)言い表わすとしたら、もっとも適切な語は、冒険(=不意にやって来るもの)という語であると私には思われた。ある写真は私のもとに不意にやって来るが、他の写真はそうではないのである。(ロラン・バルト『明るい部屋』)





(これは京都の杉本家住宅であり、祖父の家や庭はまさかこんな美しくはない)

ここで前にすこし湿った記憶を辿るようにして書いた文を挿入しておこう(今の気分とはすこし異なるが)


……庭には昔ながらの天然の飛び石が埋め込んであったが、よく磨かれた黒光りのする渡り廊下が右手の座敷の傍らを西に延びてゆく。廊下を隔てて庭に面したその座敷は庇が深いせいでいつも薄暗かったが、渡り廊下の側に寄れば、季節によって、大きく開けはなれた戸から、あるいは窓硝子を透して光が斜めに射し込んでいた。廊下突当りの左手には母のすぐ下の叔父の部屋がL字型に出っ張って庭を取り囲んでおり、右手に曲がれば厠に通ずる扉があり、扉を開ければそこにも渡り廊下があって、大小用の小部屋が三室西側に並んでおり、さらに廊下の奥の引き戸を開ければ一番下の叔父の部屋であって、そこにはその狭い部屋にある蓄音機でジャズやらクラッシックのレコードを叔父の身振りやら鼻歌とともに聴いて魅惑された少年がしばしば座り込んでいた。その小さな部屋を東側に引き返せば、座敷の北側にある仏間に通ずる。つまりは座敷の南側と西側を鉤型に渡り廊下が廻らしてあり仏間まで含めれば凹型に祖父の寝室兼居間の座敷を取り囲む形である。座敷の床の間の脇には、木製の鎧をつけた最初期のカラーテレビが古い家具のようにして新旧技術の成果を混淆させた奇妙な匂いと重々しい威光を放って沈座していた。

当時、仏間には少女時代に勤労奉仕で工場で働いていて爆撃に遭って吹き飛ばされたという母の姉の写真が飾ってあり、線香の香りと煙がいつも漂っていた記憶があるが、それは重苦しさともに湿った懐かしさの印象を齎す。柱も廊下もすべて黒々と艶光りをしていたのは、どこからから古材を仕入れてきて建てられたためらしいが、それが祖父の趣味だったのか節約のためだったのかは知るところではない。幼い少年は訪れた友人とよくかくれんぼをしたが、扉のある三つの厠の小部屋は隠れ場所としてすこぶる有効に活用された。ときおり皺深い小柄な「お手伝いさん」が少年たちの立てる騒音に嗄れた怒声をあげた以外は祖父母たちに怒られた記憶はない。お手伝いさんは「かあばあちゃん」と呼ばれ、牛川という近隣の田舎出であって、川婆ちゃんが訛ったものだった。かあばあちゃんは梅干壺のようなもののなかに入れた小さな白い虫を持参し、「精力」だか「健康」のためだか、時折蠢く虫を抓んで口に入れた。


母が病をえて、母方の祖父の敷地内の裏庭の北側に家を建てて移り住んだのは、六歳のときだが、母は祖母に看病されて祖父の家で寝ていたので少年の生活はほぼ祖父母の家で為された。母の寝ていた部屋は渡り廊下の東の突き当たりにある玄関の間のさらに東側にあり、その向こうは台所であり、その角にはこれは西洋式の小さな厠が一室あった。




……町を歩いていると、いきなりその家の扉が内側から開いて女に招じ入れられ、 お父さまがお待ちかねです、と言われたのだ。微かに熱のにおいのする薄暗がりが、ぬるい風呂のなかに浸っている時の湯のように全身を包み込み、皮膚全体が 微かな熱のにおいにべったりとまとわりつかれたようにぞっとして、みるみるうちに皮膚が鳥肌立つのだった。
わたしを招じ入れた女に案内され、低い 天井と不規則に起伏するへこみのある長い廊下を通って、荒れ果てた雑草の生い繁っている中庭に面した部屋に入り、その間中、部屋のなかにも、消毒薬や甘苦 い刺激のある薬品と病人の身体から発しているらしい粘り気のある淀んだ熱のにおいが混じりあった重苦しい空気がたなびきつづけていた。(金井美恵子『くずれる水』)


母の寝込んでいた部屋にいけば、病人の軀から発している粘り気のある淀んだにおいがあったには相違ないが、庭には雑草など生えておらず、刈り込まれた灌木や灯篭や庭石などをめぐらし、かつては小さな池もあったが事故があって埋められてしまった。祖父の小さな事業を継いで新しく工場を建てて別の場所に住んでいた一番上の伯父の幼児が少年と座敷でふたりきりで遊んでいた折、池にはまって溺死したらしい。だが少年にはその記憶はなくただ大人たちが殺気だって慌てふためく印象だけが残っている。これが機縁となり祖父は池を埋めてて伯父夫妻は離婚した。

祖父の始めた事業は一時的に盛況を誇り、二番目の叔父などは旧式の丸い形をしたシルバーグレーのベンツを愛車とし、独身を通した彼の脇にしばしば乗せられた少年は、地方の田舎都市にすぎないその町では、いくらか特別なまなざしで周囲から扱われた時期もある。この叔父の女友達は夜道、車にひとりで乗って家に帰る途中故障して道路に佇んで助けを求めていた際、親切を装って近づいた暴漢に襲われて、婚約していた叔父はそれが許せず結局彼女は自殺してしまった。酒場の女をときに家に連れてきたりはしつつ独身のままこの叔父も母と同じ齢、五十歳で死んでしまった。
首筋から肩へとかけて背後から寡黙に注がれていたはずの親しい視線のぬくもりが不意に途絶えてしまったり、目をつむったままでも細部を克明に再現できるほど見馴れていたあたりの風景にいきなり亀裂が走りぬけ、幾重にも交錯しながら数をますその亀裂が汚点のように醜く視界を乱してしまったり、肌身をはなさず持ち歩いていたはずのものが突然嘘のように姿を消し、その行方をたどる手がかりもつかめぬばかりか、それを身近に感じていた自分の過去までが奇妙によそよそしい存在に思われてきたり、足もとの地盤がいつのまにか綿なんぞのように頼りなげな柔らかさへと変容し、しかも鳥もちさながらに粘っこく肢体にまつわりついて進もうとする意志を嘲笑しはじめたり、あるいはまた、ことさら声を低めたわけでもないのに親しい人の言葉がうまく聞きとれず、余裕ありげに微笑する相手の口から漏れる無意味な音のつらなりを呆然としてうけとめるだけで、いったんは何か悪い冗談だろうと高を括ったもののいつしかそんな事態が日常化してしまうといった体験をしいられたりすると、人は、何かが自分から不当に奪われた、誰もが何のためらいもなく信じていた秩序が崩れ落ちてしまった、そんなことが起こってはならないはずだと思い、こちらは何も悪いことはしていないのに、向うからしのび寄ってきた邪悪なる意志が、この崩壊を、この喪失をあたりに波及させたのだと無理にも信じこむことで、そのとり乱したさまを何とかとりつくろおうとする。(蓮實重彦「健康という名の幻想」『表層批評宣言』所収)



今でもときおりかつての小さな事業の創始者としてテレビで紹介されたりするとは唯一生き残っている一番下の叔父から先年聞いてはいた。しかしわたくしの記憶のなかでは祖父はいつも俯いている。そして祖母はそれをいつも遠目にみやっている。以前、縁先に坐る井伏鱒二夫妻の写真を見て、はっとしたことがある(こんなに上品なふたりではなかったが)。あの写真は、今みてもあの屋敷での祖父母の姿とともに庭に面した縁側の光の感覚、そして同時に蚊取線香の匂いなのか仏壇の線香の薫りかに襲われる(もちろん年長者に見守られ縁側に坐って西瓜にかぶりつきながら種を飛ばす少年の平凡でありながら幸福な時間の記憶がないではない)。





今の気分は、祖父のこんな声だな

ーー「お前さん、蛸のぶつ切りは塩でなくちゃあいけない」

昨日の宴の発話を和訳しておこう。

「おい、シャコは塩にちょいと檸檬汁をたらして喰うもんだぜ」
「焼酎じゃあだめだね、辛口の日本酒じゃないとな」



逸題

今宵は仲秋名月
初恋を偲ぶ夜
われら万障くりあわせ
よしの屋で独り酒をのむ
春さん蛸のぶつ切りをくれえ
それも塩でくれえ

酒はあついのがよい
それから枝豆を一皿
ああ 蛸のぶつ切りは臍みたいだ
われら先づ腰かけに坐りなほし
静かに酒をつぐ
枝豆から湯気が立つ
今宵は仲秋名月
初恋を偲ぶ夜
われら万障くりあわせ
よしの屋で独り酒をのむ(『井伏鱒二詩集』)