このブログを検索

2014年2月28日金曜日

2月28日

微恙あり。

そうだな、貴君の問いに対しては
なんというのかな
アクチュアルの場にしたくないのでね、この場は
誰かが拾ってくれたらいいのだよ
投壜通信なんてかっこいいことはいいたくないけど
表題ってのはむつかしくてね
固有名詞を表題に掲げれば
よりよく読まれることはわかってる
オレもときにはそうする
まあこれは少しは読まれてもいいかな
と思うときだね
でもそうするとケッタイな連中にリンクされて
この場は、たとえばツイッターの下請けみたいな書き物になってしまう
自分の記事はリンクしない方針だな今は
以前に懲りたな

アクチュアルというのはいろんな意味があるのだろうけど
現実に当面しているさま。現実的。時事的だよな、一般的には

ニーチェの『反時代的考察』unzeitgemässe Betrachtung
仏語訳では旧訳がConsidérations intempestives
新訳はConsidérations inactuellesであるそうだ
後者は、反(非)アクチュアル的考察ということになる

ドゥルーズは『ニーチェと哲学』でニーチェの『反時代的考察』から引用しているが、そこでの最近の和訳では次の如し。

能動的に思考すること、それは、「非現働的な仕方でinactuel、したがって時代に抗して、またまさにそのことによって時代に対して、来るべき時代(私はそれを願っているが)のために活動することである」。(ドゥルーズ『ニーチェと哲学』江川隆男訳)

――《「反時代的に」に當る部分が「非現働的な仕方で」と生硬な譯文であるのは佛文原語inactuelと察せられ、やはり時期外れ・流行遲れといった語義であるが、哲學用語だとアクチュアル(現働的・現勢的)の對でvirtuel(潛在的)に近い意味を持つ。現實化(actualisé)してない可能性、といった含みがあるわけである。》との指摘がある(アナクロニズム


さらに上記のリンクから、ドゥルーズとフーコーを孫引く。

現在に抗して過去を考えること。回帰するためでなく、「願わくば、来たるべき時のために」(ニーチェ)現在に抵抗すること。つまり過去を能動的なものにし、外に出現させながら、ついに何か新しいものが生じ、考えることがたえず思考に到達するように。思考は自分自身の歴史(過去)を考えるのだが、それは思考が考えていること(現在)から自由になり、そしてついには「別の仕方で考えること」(未来)ができるようになるためである。(宇野邦一譯ドゥルーズ『フーコー』「褶曲あるいは思考の内(主体)」)

知識人の仕事は、ある意味でまさに、現在を、ないこともありえたものとして、あるいは、現にあるとおりではないこともありえたものとして立ち現れさせながら語ることです。それゆえにこそ、現実的なもののこうした指示や記述は、「これがあるのだから、それはあるだろう」という形の教示の価値をけっして持たないのです。また、やはりそれゆえにこそ、歴史への依拠――少なくともここ二十年ほどの間のフランスにおける哲学的思考の重大な事実の一つ――が意味を持つのは、今日そのようにあることがいつもそうだったわけではないことを示すことを歴史が役割としてもつかぎりにおいて、つまり、諸事物が私たちにそれらがもっとも明白なのだという印象を与えるのは、つねに、出会いと偶然との合流点において、脆く不安定な歴史の流れに沿ってなのだということを示すことを歴史が役割として持つ限りにおいてなのです。(黒田昭信譯「構造主義とポスト構造主義」『ミシェル・フーコー思考集成 Ⅸ 1982-83 自己/統治性/快楽』)

《思考が考えていること(現在)から自由になり》、あるいは《現在を、ないこともありえたものとして、あるいは、現にあるとおりではないこともありえたものとして立ち現れさせながら語ることです》とあるように、「アクチュアル」であることは、場合によっては制度の物語によって隠蔽されたものを見ないようにすることでありうる。

彼らの論が現在、アクチュアルであるなら
書かれた当時アクチュアルでなかったせいじゃないか

《芸術家は自分の作品にその独自の道をたどらせようと思えば(……)その作品を十分に深いところ、沖合いはるかな遠い未来のなかに送りださなくてはならない。》(プルースト「花咲く乙女たちのかげにⅠ」)

これはなにも「芸術家」に限らないのでね

で、なにがいいたいかって?
風邪気味でね

別の貴君のコメントなら

《経済的窮迫や差別・脅迫を受ける側にとって、「これを問題と扱うのは思考収奪装置である」「差別というクリシェに嵌まり込んではいけない」などと言って、意味があるでしょうか。――クリシェだとおっしゃるなら、現実に状況や問題設定を組み換えてくださらないと。》

なんて言われてもね
意味が多いにあるという立場なのだけれどさ、紋切型批判というのは


あらゆる項目がそうだとは断言しえないが、『紋切型辞典』に採用されたかなりの単語についてみると、それが思わず誰かの口から洩れてしまったのは、それがたんに流行語であったからではなく、思考さるべき切実な課題をかたちづくるものだという暗黙の申し合わせが広く行きわたっているからである。その単語をそっと会話にまぎれこませることで一群の他者たちとの差異がきわだち、洒落ているだの気が利いているだのといった印象を与えるからではなく、それについて語ることが時代を真摯に生きようとする者の義務であるかのような前提が共有されているから、ほとんど機械的に、その言葉を口にしてしまうのだ。そこには、もはやいかなる特権化も相互排除も認められず、誰もが平等に論ずべき問題だけが、人びとの説話論的な欲望を惹きつけている。問題となっている語彙に下された定義が肯定的なものであれ否定的なものであれ、それを論じることは人類にとって望ましいことだという考えが希薄に連帯されているのである。(蓮實重彦『物語批判序説』)

これは書かれた当時はあまりアクチュアルとして受けとめられなかったかもしれないが
このインターネットに誰でも書き込む時代、ひどく「アクチュアル」じゃないか

「問題という名の問題」ってのを書こうとしけど
まあやめておくよ
「具体性という名の抽象」とかね
次の文を引用して胡麻化しておくよ

つまりは資本主義的な現実が矛盾をきたしたときに、それを根底から批判しないまま、ある種の人間主義的モラリズムで彌縫するだけ。上からの計画というのは、つまり構成的理念というのは、もうありえないので、私的所有と自由競争にもとづいた市場に任すほかない。しかし、弱肉強食であまりむちゃくちゃになっても困るから、例えば社会民主主義で「セイフティ・ネット」を整えておかないといかない。(浅田彰 シンポジウム『倫理21』と『可能なるコミュニズム』2000.11.27)

やることは彌縫策のための発言じゃないだろうということだな
「差別」はなくならないよ
どれかひとつを抑えたら
ほかの頭がもっとひどく出てくる
社会保障費は削減しなくちゃならない
というほぼ信憑性のある論があるのだから

消費税問題は、日本経済の形を決めるビジョンの問題。北欧型=高賃金、高福祉、高生産性か。英米型=低賃金、自助努力、労働者の生産性期待せずか。日本は岐路にある。(岩井克人

ってあるけれど
今の「システム」を継続するなら
後者の道しかないだろうな
それに実際そう選択しつつある

ちがうかい?

…………

われわれは、権力志向という「人間性」が変わることを前提とすべきでなく、また、個々人の諸能力の差異や多様性が無くなることを想定すべきではない。(柄谷行人『トランスクリティーク』)

差別は純粋に権力欲の問題である。より下位のものがいることを確認するのは自らが支配の梯子を登るよりも楽であり容易であり、また競争とちがって結果が裏目に出ることがまずない。差別された者、抑圧されている者がしばしば差別者になる機微の一つでもある。(中井久夫「いじめの政治学」)

次のふたつの「欲望」から免れている発話というのはお目にかかったことがない(もちろん、いわゆる「エクリチュール」は除く)。そして後者はあきらかに「差別の欲望」だろう。

『法哲学』の中で、ヘーゲルは、人間のモノに対する欲求が、他者によって認められたいという社会的な欲望になり、それが逆にモノをのものあるいはモノの獲得の目的になってしまうことを論じた後、次のように述べている。

[欲望の社会化という]この契機は、さらに直接に、他者との平等への要求をそのうちに含む。一方で、この平等化への欲望および自己を他者と同一化したいという模倣への欲望が、他方で、それと同時に存在している、自己を他者と区別させることによって自己を主張したいという独自性への欲望が、それ自身欲望を多様化しかつそれを増殖していく事実上の源泉となるのである。

すなわち、人間の社会的欲望には、他人を模倣して他人と同一の存在であると認めてもらいたい模倣への欲望と、他人との差異を際立たせ自己の独自性を認めてもらいたい差異化への欲望とのふたつがあるのである。
                    ───岩井克人「ヴェニスの商人の資本論」より

そしてこれは遡れば、人間の原初的な<欠如>にかかわるはずだ。

乳児はおそらく原初の内的な欲動をなにか周辺的なもとのして経験するだろう。どんな場合でも、その欲動は<他者>の現存を通してのみ姿を消すことができるにすぎない。<他者>の不在は、内部の緊張の継続の原因として見なされるだろう。しかしこの<他者>が傍らにいて言動によって応えても、この応答はけっして十全なものではない。というのは、<他者>は継続的に子供の叫び声を解釈しなければならないし、解釈と緊張のあいだに完全な照合はありえないのだから。この時点で、われわれはアイデンティティの形成の中心的な要素に直面する。すなわち、欠如、――欲動の緊張(強い不安)に完全に応答することの不可能性。要求、――それを通して乳児が欲求を表現するとき、残余が生ずること。この意味は<他者>の要求の解釈はけっして本来の欲求とは合致しないというとだ。<他者>の不完全性が、いつでも、内的にうまくいかないことの責めを負わされる最初のもののようにみえる。(ポール・ヴェルハーゲ 私訳)(ポール・ヴェルハーゲ 私訳ーーPaul Verhaeghe, "On Being Normal and Other Disorders: A Manual for Clinical Psychodiagnostics"


《私自身、幼児が、まだ口もきけないのに、嫉妬しているのを見て、知っています。青い顔をして、きつい目で乳兄弟を睨みつけていました。》(アウグスティヌス『告白』)


…………

自由主義資本主義における成功あるいは失敗の「不合理性」の良い点は(市場は計り知れない運命の近代版だという古くからのモチーフを思い出そう)、そのおかげで私は自分の失敗(あるいは成功)を、「自分にふさわしくない」、偶然的なものだと見なせるということである。まさに資本主義の不正そのものが、資本主義のもっとも重要な特徴であり、これのおかげで、資本主義は大多数の人びとにとって許容できるものなのだ。(ジジェク『ラカンはこう読め!』)

仮に自分の低いポジションが「自分にふさわしい」ものだとしたらどうだろう。格差社会では起こらない「怨恨」が、格差のない社会では暴発するというのが、ジジェクやデュピュイの考え方であり、「ヒエラルキー」の仕組みは、社会的下位者が、社会的上位者、特権者に屈辱感を抱かせないシステムとされる。

ジャン=ピエール・デュピュイは、『La marque du sacré(2009)で、ヒエラルキーを四つの様相を挙げている(ZIZEKLess Than Nothingより孫引き)。

<hierarchy itselfヒエラルキーそれ自身>An externally imposed order of social roles in clear contradistinction to the immanent higher or lower value of individuals—I thereby experience my lower social status as totally independent of my inherent value.

<Demystification脱神秘化>The critico‐ideological procedure which demonstrates that relations of superiority or inferiority are not founded in meritocracy, but are the result of objective ideological and social struggles: my social status depends on objective social processes, not on my merits—as Dupuy puts it acerbically, social demystification “plays in our egalitarian, competitive and meritocratic societies the same role as hierarchy in traditional societies” (La marque du sacré, p. 208)—it enables us to avoid the painful conclusion that the other's superiority is the result of his merits and achievements.

<Contingency偶然性>The same mechanism, only without its social‐critical edge: our position on the social scale depends on a natural and social lottery—lucky are those who are born with better dispositions and into rich families.

<Complexity複雑性>Superiority or inferiority depend on a complex social process which is independent of individuals' intentions or merits—for example, the invisible hand of the market can cause my failure and my neighbor's success, even if I worked much harder and was much more intelligent.





2014年2月27日木曜日

神経症的な「知識人」の責任感の「笑劇としての再帰」 蓮實重彦

ひとつの解釈を下すに当たっては、その対象とされているものがとらえられているノルムと、それからそれに解釈を下さなければならないものがとらえられているノルムとが違わなければならない、そして批判すべき対象と、それは批判するために使う諸々のノルムとの批判と両方しなければならない、――この「神経症的な責任感」の笑劇(farce)としての再帰。

かつての「知識人の責任」という神話から「似非インテリの責任」という神話のファルスとしての復活。

物語という点からいま僕にとって問題になっているのは、その知識人の責任という神話、それが何を覆い隠しているだろうということなんです。「知識人の責任」というのは十九世紀にできた神話ですね。先導的な知識人、啓蒙し、予言しなければいけない知識人、それから人々の無責任に対して自分は責任をとることができるという盲信。これがメタレベルを導入している。しかし、十九世紀の歴史を支えて来たのは、そんな知識人の責任じゃあないんです。より無責任な事態の把握が歴史を支えてきたわけで、それを批判するには、より本源的な無責任を引きうける勇気が必要なんだと思う。必ず一段階高いところにいって、それを使ってあるものを批判し、同時にその一段高いところの構造をも批判しなければいけないという立場は、知識人に固執する者の神経症にほかならないわけです。

そのきりのなさというものに、いま梯子かけ競争みたいな感じがあって、どんどんどんどん高いところへいかないといけないという形がある。それを批判するためには、メタレベルを設定しなければいけないという考え方を壊せばいいわけですね。メタレベルに立つことなしに批判できることはいくらもあると思うんです。(……)

つまり、あるレベルでの分析のためには一つ上のレベルが必要だし、またその上のレベルについても分析が必要だと考えることでとり得る責任というのは、そこで設定されている階層的な秩序に対する責任でしかないわけです。それは、結局のところ、きわめて共同体的な責任でしかなく、ほかの知識人に対して恥ずかしくないといった程度のことでしょう。それは、共同体が容認するイメージの翻訳とそれを可能にするものをはっきりとさせておきたいというだけのことで、世の中の方じゃ、そんな責任にまったく無関心だし、そもそもそうした責任のとり方は人生にとって意味がない。生きるってことは、階層的な秩序の上下関係とは無縁のものだし、リゾームじゃないけど、複雑という以上のでたらめさで入り組んだ空間を体験することでしょう。だから、その種の責任は人生を抑圧するものでしかない。(蓮實重彦『闘争のエチカ』)

柄谷行人はこの対談で、蓮實さんの《「物語」という言葉は非常に含蓄が深いので、どんなふうに使われているかもわからないけれど……》と語っているが、蓮實重彦はそれに応じて《たしかに僕の批評は物語の批判というかたちをとっていますが、より直接的には構造主義的な理性批判というほうがあたっているんじゃあないかと思う》とオッシャル。

構造主義が物語の何を抑圧したかを明らかにすること……『物語批判序説』は、そういう意味で、構造分析を物語がいかに生きのびて来たかを示そうとする物語にほかなりません。……著者である僕は、物語と構造主義の階級闘争にあっては、明らかに物語の側に立っているわけです。

その理由は何かといえば、この闘争において明らかに抑圧者の側に立っている構造主義と構造主義的な思考を支えている物語を批判する必要があったからです。構造を分析するということ自体が、ある物語的な要請なしにはありえない。……僕の物語批判という視点は、物語の否定を目指したものではなく、明らかにその擁護だといえる。しかしその擁護は、構造分析的な思考に対しての擁護でしかなく、普遍的な擁護ではない。(『闘争のエチカ』)

『物語批判序説』がそうであるなら『凡庸な芸術家の肖像』も「凡庸さ」の擁護であるという視点を取ってみるべきかもしれない。実際、蓮實重彦はマクシム・デュ・カンをある意味で擁護している。

誰も、 凡庸なマクシムを笑う自由など持っていない。 実際、 これまでマクシムを嘲笑してきた連中は、 等しく彼と同程度に凡庸な人間ばかりである。(『凡庸な芸術家の肖像』)

いまでもマクシムと同じように《善意の生真面目さが……彼の思考や振舞いを凡庸なものにしている》人間を垣間見るにはツイッターを三秒ばかり覗くだけでよい。

凡庸さとはいったい何なのか。 それはたんなる才能の欠如といったものではない。 才能の有無にかかわらず凡庸さを定義しうるものは、 言葉以前に存在を操作しうる距離の意識であり方向の感覚である。 凡庸な芸術家とは、 その距離の意識と方向の感覚とによって、 自分が何かを代弁しつつ予言しうる例外的な非凡さと確信する存在なのだとひとまず定義しておこう。(同上)

以下の文は「文学」という語に、今ならほかの単語を代入して読もう。

凡庸な資質しか所有していないものが、 その凡庸さにもかかわらず、 なお自分が他の凡庸さから識別されうるものと信じてしまう薄められた独創性の錯覚こそが、 今日における文学の基盤ともいうべきものだからである。 文学と文学ならざるものとは異質のいとなみだという正当な理由もない確信、 しかもその文学的な環境にあって、 自分は他人とは同じように読まず、 かつまた同じように書きもしないとする確信、 この二重の確信が希薄に共有された領域が存在しなければ、 文学は自分を支えることなどできないはずだ。(同上)

こういう手合いは、《研究者や臨床家でこういう《制度》概念に気付いているかたは、あまりおられません》などという真摯で誠実な啓蒙的発話を連発する。そして、「制度」吟味をしつつこの発話自体が制度的なメタであることに「気づいておられません」、――すくなくとも明らかにそう受け取られかねない言説構造をもっており、戦略性の欠如が瞭然としている。それに脊髄反射的な鳥肌が立って顔を顰めてみせる「わたくしのような」人間が凡庸さの無限連鎖をつくる。

たとえばもしかりにメルロポンティの「制度化」概念を含意するものであるなら、やはり明確に区別して語るべきだろう。制度批判の「制度」と「制度化」とどう違うのか。「~化」がつけば否定的概念は肯定的になるということはあるだろう。《《制度》概念が実務的で、粘土を捏ねなおすような概念であることが、思想研究のフィールドで扱われていないことが伺えます》では己れの見解が共同体に受け入れられていることが前提としたいかにも「制度的」言説であって、短絡的な誤解を誘発し埒が明かない。また「~化」がつけば粘土を捏ねなおす実務的な概念となるのは、「制度」概念に限らないだろう


彼が好んで使う語は、対立関係によってグループ分けされている場合が多い。対になっている二語のうちの、一方に対して彼は《賛成》であり、他方に対しては《反対》である。たとえば、《産出/産出物》、《構造化/構造》、《小説的〔ロマネスク〕/小説〔ロマン〕》、《体系的/体系》、《詩的/詩》、《透けて見える/空気のような》〔ajouré/aérien〕、《コピー/アナロジー》、《剽窃/模作》、《形象化/表象》〔figuration/ représentation〕 、《所有化/所有物》、《言表行為/言表》、《ざわめき/雑音》、《模型/図面》、《覆滅/異議申し立て》、《テクスト関連/コンテクスト》、《エロス化/エロティック》、など。ときには、(ふたつの語の間の)対立関係ばかりではなく、(単一の語の)断層化が重要となる場合もある。たとえば《自動車》は、運転行為としては善であり、品物としては悪だ。《行為者》は、反“ピュシス〔自然〕”に参与するものであれば救われ、擬似“ピュシス”に属している場合は有罪だ。《人工性》は、ボードレール的(“自然”に対して端的に対立する)なら望ましいし、《擬似性》としては(その同じ“自然”を真似するつもりなら)見くだされる。このように、語と語の間に、そして語そのものの中に、「“価値”のナイフ」の刃が通っている。(『彼自身のよるロラン・バルト』)


この類の「名詞/動詞」のヴァリエーションはくさるほど語られてきた。

ギリシャの思想家はほぼ二つに分けられる、一つは、進化論的なもので、世界は生命のように生まれ成長するという見方、もう一つは、創造説的なもので、世界は芸術作品のようにデザインされている見方。(コーンフォード『書かれざる哲学』)。この二つのタイプは、いいかえれば、「制作」として世界をみるか、「生成」として世界をみるかに分けられる。これらは、現在の批評の言葉でいえば、「作品」――超越論的な意味(シニフィエ)の外化・再現としてある――と、「テクスト」――超越論的な意味あるいは構造をたえず超出しあたかも自ら意味を算出するかのようにみえるものとしてある――に対応するといっていいかもしれない。(柄谷行人『隠喩としての建築』)

より実践的な立場からは中井久夫のマニュアル/レシピがあるだろう。


医学・精神医学をマニュアル化し、プログラム化された医学を推進することによって科学の外見をよそおわせるのは患者の犠牲において医学を簡略化し、擬似科学化したにすぎない。複雑系においては「プログラム」は成立せず、もっと柔軟でエラーの発生を許容する「レシピー」の概念によって止揚されなければならないことは数学者の金子邦彦・津田一郎の述べる通りであると思う(『複雑系のカオス的シナリオ』)。「レシピー」によれば状況に応じていろいろ似たものを使い、仕方を変えてもとにかくそれらしい料理ができる。「レシピー」の実現のために用いられるものが「スキル」であり「技術・戦術・戦略のヒエラルキー」である。(中井久夫「医学・精神医学・精神療法は科学か」)


いずれにせよ、《あたかも彼は自分自身が世界の物語による分節をまぬがれ、風景の汚染に抗いうるとでも信じているかにみえる制度的楽天性がそこに露呈して》いるという気味は免れない、--と文脈上は飛躍はあるがあまりゴタゴタ書きたくないのでーー、ここでそう書いておくのみにしよう。


どこかで小耳にはさんだことの退屈な反復にすぎない言葉をこともなげに口にしながら、 なおも自分を例外的な存在であるとひそかに信じ、 しかもそう信じることの典型的な例外性が、 複数の無名性を代弁しつつ、 自分の所属している集団にとって有効な予言たりうるはずだと思いこんでいる人たちがあたりを埋めつくしている。(『凡庸な芸術家の肖像』)

もっとも、《知識人たちは、知っているものが、知っていることを知らないものに教えてやるという姿勢でものを言っている。》(高橋悠治)ーーすなわちこの態度は、ほとんどどの知識人、あるいはにわか知識人であろうと免れがたいには相違ない。だがすでに書かれてしまったものをわざわざ劣化させて「自分の言葉」で語るには及ぶまい、あたかも既知であるはずのものを未知であるかのようにあつかうふりを演じて。


ところでいまは「凡庸」をめぐって書くつもりはない。「物語」をめぐるメモなのだ。

蓮實:あなたがイデオロギーとしての物語といわれるもの、つまり「真実」との関係に於いて語られる「歴史=物語」、それは別の言葉にするなら制度化された思考とでもすべきものでしょう。わたしは、事態を簡潔にするために「制度」と呼んでいます。思考の制度化は三つの過程を踏んで一般化されるように思われます。その第一の過程は、いわゆる解決すべき問題を捏造する過程です。現代人として誰もが直面し、これと真剣にとり組むべき特権的な課題をでっちあげること。たとえば、現代フランスでいうなら、例の新哲学派がさかんに言及している「人権問題」などがそれにあたると思いますが、われわれが日々直面しているさまざまな困難の中にヒエラルキーを設けて、そのあるものを秀れて現代的な課題として特権化する。これが第一の過程だとするなら、第二の過程は、こうした今日的な課題と真剣にとり組み、それに解決をもたらすべく、隠されていた「真実」を発見するという姿勢になるでしょう。何かが、そしてそれもきわめて重要な何かがどこかに隠されていて視界に姿を見せていない。その貴重なる隠された何物かを探りあて、それを「真実」として可視的なものにする。こうして露呈された「真実」が、今日的な課題として提起された「問題」の解決に役立つだろうというわけです。例の新哲学派の文脈でいうならソルジェニーツィンによる「強制収容所」の現存という「真実」の露呈がある。まあ、誰もがその現存に無知であったとは思えませんが、それは否定しがたい「真実」として露呈されたわけです。第三の段階はこうした「真実」に基づいて提起された「問題」を解決すべく、それにふさわしい ”良い物語” を語ろうとすること……(現代思想12(1978)「イデオロギーとしての物語」対話:アラン・ロブ=グリエ / 蓮實重彦)

すなわち「物語」を「制度」としても事態にさしたる変化は生じまい。「制度」によって語らせられてしまうもの、それが「物語」なのだ。

では「制度」とはなんなのか。

《風景は教育する。…では、 そのとき風景はなぜ風景と呼ばれなければならないのか。 「制度」、 あるいは 「イデオロギー」としてはなぜいけないのか。もちろん、 「制度」は教育すると書き改めても事態にさしたる変化は生じまい。》(『表層批判宣言』)

こうして風景、制度、イデオロギーによって教育され語らされてしまうこと、それが「物語」であることが分かる。

《 制度に抗うには、 少なくとも抵抗すべき対象を見据えうる程よく聡明な視線がそなわっていなければならぬ。 その意味で、 あらゆる反抗者は、いくぶんか制度的な存在たらざるをえないだろう》(『凡庸な芸術家の肖像』)

《制度とは、 語りつつある自分を確認する擬似主体にまやかしの主体の座を提供し、 その同じ身振りによってそれと悟られぬままに客体化してしまう説話論的な装置にほかならない。 それは、 存在はしないが機能する装置なのである。》(『物語批判序説』)

説話論的磁場。それは、誰が、何のために語っているのかが判然としない領域である。そこで口を開くとき、人は語るのではなく、語らされてしまう。語りつつある物語を分節化する主体としてではなく、物語の分節機能に従って説話論的な機能を演じる作中人物の一人となるほかないのである。にもかかわらず、人は、あたかも記号流通の階層的秩序が存在し、自分がその中心に、上層部に、もっと意味の濃密な地帯に位置しているかのごとく錯覚しつづけている。

近代、あるいは現代と呼ばれる同時代的な一時期における自我、もしくは主体とは、この錯覚に与えられたとりあえずの名前にすぎない。(蓮實重彦『物語批判序説』)


《視線が分節化する風景の物語は風景が分節化する視線の物語にそれと知らずに汚染しているということ、しかもその事実によって視線同士がたがいに確認しあう風景の解釈は、遂に風景が語る物語を超えることがないという視点》(『表層批判宣言』)

風景は教育する。風景は、教育装置として機能することではじめて風景となる。とはいえ、そうした教育的資質に自覚的な風景というものはごく稀であろう。ほとんどの場合、風景は悪意を欠いた無邪気さを露呈しながらあらゆる視線にその全貌をさらしているかにみえる。風景は慎ましく彼方にひかえ、みずから視線を選択したりはしないし、瞳という瞳を平等にうけいれてもいる。だから、驚嘆すべき眺めとして存在を刺激し、退屈な眺めとして存在をまどろませるとき、驚嘆し退屈するのは視線の特権だと思われてしまいがちなのだ。心象風景として内的視線を招き寄せるときも、想像力に同じ特権が委ねられているかにみえる。いずれにしろ、美しかったり醜かったり、またそのどちらでもなかったりするのが風景だと考えられているし、風景自身もそう信じこんでいるに違いない。

だが、そうした美的感性の篩などはあっさりかいくぐってしまう風景は、逆にその感性的な篩の網目を入念に組織する装置として機能しながら、視線から、審美的判断を下そうとする特権を奪ってしまう。つまり風景は、感性と思われたものを、想像力や思考とともに「知」の流通の体系に導き入れ、その交換と分配とを統御する教育装置として着実に機能しているのである。教育とは、存在を分節化し、装置としての風景にふさわしい体系に、思考と感性と想像力を馴致せしめる不断の活動にほかならない。だから風景に驚嘆し、退屈しもする感性は、装置としての風景が休みなく語り続ける美しさの物語に、しかるべく組みこまれてゆくまでのことだ。存在が風景を読むのではない。風景が存在を読みとってゆくのである。風景が教育するとは、この風景による解読の運動に存在が徐々に馴れ親しんでゆく過程を意味している。みずから「記号」として交換され、分配され、しかるべき物語の説話論的要素たることをうけいれながら、そこにいかなる痛みも怖れの感情をもいだかずにいられるまで、風景に犯されることを教育と呼ぶのである。(『表層批判宣言』)

『表層批判宣言』は1979年に上梓されており、雑誌『展望』に四回、『現代思想』一回掲載されたものを集めたもので、最初の論は蓮實重彦三十八歳前後の1974に書かれており、すでに四〇年近くたっている。

蓮實重彦は「結局20年経って思うのは、何も驚くべき事はないということで、これが一つの驚きだった」と2010年代末に浅田彰との対談で語っている、いまさら40年経っての驚きなどと言わせないように、制度、物語、イデオロギー、風景論などを、フランスのいわゆる「現代思想」家の文を読み返す暇がないのなら、せめて日本における「知の三馬鹿トリオ」の見解をもう一度振り返ってみる必要がありはしないか。

《昔からいやというほど論じられてきた。そういう記憶が失われているのかもしれない・・・。》やら《21世紀にもなってそんなことを得々と言うか、と。あそこまでいくと、優等生どころかバカですね》などとオッシャル浅田彰もいることだし。

ほんとうに忘れているのか、忘れたふりをしているのかは知らねど、この二一世紀も十四年経たのちに、あらたに発見でもしたかのように、制度論をめぐって語っておらずに。それともやはり「語れることの方がずっと重要」なのだろうか?

「わかりたいあなた」たちにとっては、わかったかわからないかを真剣に問うことよりも、なるべくスピーディーかつコンビニエント に、わかったつもりになれて(わかったことに出来て)、それについて「語(れ)ること」の方がずっと重要なのです。『ニッポンの思想』佐々木敦)

ひとはなぜ「ほどよく聡明に」語りたがるのだろうか。

すでに書かれた言葉としてあるものにさらに言葉をまぶしかける軽業師ふうの身のこなしに魅せられてであろうか。さらには、いささか時流に逆らってみせるといった手あいのものが、流れの断絶には至らぬ程度の小波瀾を戯れに惹起し、波紋がおさまる以前にすでに時流と折合いをつけているといったときの精神のありようが、青春と呼ばれる猶予の一時期をどこまでも引き伸ばすかの錯覚を快く玩味させてくれるからであろうか。(蓮實重彦『表層批判宣言』)


もっとも蓮實重彦によっていささか抑圧された感性というものが八十年代のニューアカ時代にさえあったはずだ。《いまは当たり前のことを当たり前にいわなきゃいけないんだ》、と中上健次は死ぬ一年前(1991)語っており、いまではいっそう凡庸さに甘んじて誠実かつ啓蒙的に、あるいはメタに語ってみせるという立場もあるのだろう。とりわけ教師のポジションに立つのであるならそれもやむ得ないことかもしれない。

メタポジションとしての教師、すなわち《教師が何かを示す時、ある種の優越性を表明せざるを得ない。(……)人に優越すると、権威の関係が生ずる。どのようにしてこの動きを止める(そらせるか)のか。どのようにして教師であることを免れるのか。》(ロラン・バルト「セミネールに」『テクストの出口』所収)

1978年4月15日にカサブランカで書かれた日記には、《エクリチュールによる生を統一するために、コレージュをやめること》とある。


 さて「物語」とはなにかを、いささかくどくなるが、蓮實重彦による定義めいたものをつけ加えておこう。

これまでその形式もジャンルをも限定することなくもっぱら物語と呼ばれてきたもの、それは、言語記号のしかるべき配置によって何ごとかを語るという説話論的な実践の意味を持つ体験のすべてを総称したものだ。一つの文章で完結してもよいし、複数の文章の集合からなる言説であっても、そこに何かが語られていればそれが物語なのであり、架空の事象であろうと、現実のできごとであろうと、理念的な論述であろうと、すべてそう呼ばれてさしつかえない。ただし、それはあくまで語られなければならぬ。音声言語としてである文字言語としてであれ、具体的な言語体験があったとき、そこに物語が生産される。したがって物語の生産を統御する説話論的な磁場とは、たんなる幻想領域といってものではなく、言語的な実践と同時に機能する具体的な装置である。だが、その装置は、ある種の言語学的な言説が定義づけるパロールに対してのラング、あるいはメッセージに対するコードといった潜在的な不可視の体験なのではない。それは一方で、しかるべき「問題」体系へと説話論的な欲望を誘きよせる磁場でもあると同時に、また他方、その磁力に従って語ろうとする者から自分の言葉を奪い、語る行為そのものを、他者の物語の説話論的な要素として分節化する装置としても機能するものなのだ。ここにあって語るものは、無意識のうちに他者の問題に同調しつつ、他人の言葉の一部へと自分を組み入れることを容認してしまう。語るものは、決して特権的な個体ではなく、複数の話者たちとの説話論的な関係の中でしか言語的体験を実践することができない匿名の複数者なのだ。だから、現代的な言説の限界とは、誰もが同じ言葉を鸚鵡返しに口にしてしまうという画一化の運動の中に認められるものではない。それぞれに別のことがらを主張しているはずの者たちが、「問題」へと加担する姿勢の対立関係を堅持しながも、補完的な説話論的な機能を演じてしまうところに、現代的な言説の限界が存在しているのである。それはちょうど、無意識という他者の物語に対して、分析医と被験者とが演じる相互補足的な関係といってもよいし、あるいは、制度という他者の問題に対して、その擁護者と反=制度論者とが演じる補完的な関係を考えてもよいだろう。いずれにせよ、問題なのは、思考の画一化そのものではなくあくまで構造の同一化なのだ。(『物語批判序説』)

「制度」という語ならどうなのか。上に一部引用したが、もうすこし長く引用しておこう。

制度とは、 語りつつある自分を確認する擬似主体にまやかしの主体の座を提供し、 その同じ身振りによってそれと悟られぬままに客体化してしまう説話論的な装置にほかならない。 それは、 存在はしないが機能する装置なのである。あるいは、 きわめて人称性の高い個体としてあったはずの発話者を、 ごく類型的な匿名者に変容させてしまう磁場だとしてもよい。 この磁場に織りあげられては解きほぐされてゆく言葉、 それがこの章の冒頭で触れておいた現代的な言説なのである。 その担い手たちは、 知っているから語ろうとする存在ではない。 だからといって知らないことを饒舌に語ってみせる香具師のたぐいでもない。 知ることも語ることもできるはずの主体を装置に譲りわたし、 みずから説話論的な要素として分節化されることをうけいれながら、 それを語ることだと錯覚する擬似主体こをが現代的な言説の担い手なのであって、 誰もが 『紋切型辞典』 の編纂者たる潜在的な資格を持つその匿名の複数者は、 それを意図することもないままに善意の連帯の環をあたり一帯ぶおし拡げてゆく。 おそらくはわれわれもまた、その波紋の煽りを蒙りながら思考し、 語りつづけているのだろう。(『物語批判序説』)


もちろんここに引用を中心に書かれたものは「蓮實重彦」という「制度」に囚われた「田舎者」の物語の断片にすぎない。

若くしてデビューした頃の彼女はきらめくような才能をもった作家で、少女小説をそのまま現代文学にしたような作品を書いていた。彼女がそのままのびのびと書き続けていたらどうなったかはわからない。問題は、彼女がインフェリオリティ・コンプレックスの塊で、精一杯虚勢を張ってすべてをバカにしてみせながら、実は、日本でいちばん賢くてセンスがいい(と田舎者には見える)おじさまに依存せずにはいられないということだった。賢くてセンスがいいといえば、やっぱりフランス文学者、たとえば蓮實重彦。こうして彼女は、おじさまに褒めてもらいたい一心で、必死に勉強し、スタイルを変えていった。「こう書けば、蓮實さんなら、私がジャン・ルノワールを観ているってわかってくれるはず」。

そしておじさまの反応が冷たいと、「いや、蓮實さんより私のほうがルノワールのことを本当に分かっているのよ」。もちろんルノワールの映画は素晴らしいが、ルノワール通であることを仄めかすために書かれた小説は絶望的に退屈で、自分も「通」であることを示したい貧乏な田舎者のグルーピーが喜んで読むだけだ。悲惨な話ではある。(浅田彰 金井美恵子批判 「噂のオールドミス」)


ドゥルーズのマゾッホ論をふまえて語る「自分はユーモアの人だ」という蓮實に対して、 《蓮實のユーモアはイロニーに映ることもあるし、 柄谷のイロニーがユーモアに思えることもある》( 浅田彰 『近代日本の批評』)との如く、まさにユーモアの仮装をしたイロニストというのはなんと厄介な「愛すべき」御仁であることか。


…………

なぜ、何も知らずにいることに自足できないのか。ひたすら無知に安住し、彼らをそれにふさわしい忘却の淵へと追いやっているだけで満足しえない理由は何なのか。それは、われわれの誰もが、(……)凡庸な存在だからかもしれない。もちろん、才能の欠如によって凡庸なのではない。時代そのものが人に凡庸たれと要請しているのであり、しかもその凡庸さは、誰かまわず、ほどよい知を提供してまわる。だから、その気になりさえすれば、誰でもほどよい知を按配しながら、マクシムの物語をいくらでも語ってみせることができるだろう。凡庸さとは、そうした物語の潜在的な可能性で飽和しきった環境にほかならない。そして、無知であることさえが、やがて物語によって充たされるべき細部としてその磁場を支えているのである。人びとは、気軽な納得によってその無知を知へと転換させることさえ心得ているからだ。無知は、決して凡庸さの敵なのではない。(『凡庸な芸術家の肖像』P799)




2014年2月26日水曜日

「ぼくは日本人は百パーセント、レイシストだと思いますよ」

以下、古い文献と新しいレポートを織り交ぜたメモ。


◆中井久夫の「引き返せない道」より(1988初出 産業労働調査所よりの近未来のアンケートへの答え 『精神科医がものを書くとき』〔〕広栄社)。

一般に成長期は無際限に持続しないものである。ゆるやかな衰退(急激でないことを望む)が取って代わるであろう。大国意識あるいは国際国家としての役割を買って出る程度が大きいほど繁栄の時期は短くなる。しかし、これはもう引き返せない道である。能力(とくに人的能力)以上のことを買って出ないことが必要だろう。平均寿命も予測よりも早く低下するだろう。伝染病の流入と福祉の低下と医療努力の低下と公害物質の蓄積とストレスの増加などがこれに寄与する。ほどほどに幸福な準定常社会を実現し維持しうるか否かという、見栄えのしない課題を持続する必要がある。国際的にも二大国対立は終焉に近づきつつある。その場合に日本の地理的位置からして相対的にアジアあるいはロシアとの接近さえもが重要になる。しかし容易にアメリカの没落を予言すれば誤るだろう。アメリカは穀物の供給源、科学技術供給源、人類文化の混合の場として独自の位置を占める。危機に際しての米国の強さを軽視してはならない(依然として緊急対応力の最大の国家であり続けるだろう)。


大和総研レポート 2013年5月14日 「超高齢日本の 30 年展望」(理事長 武藤敏郎 監修)より

世界経済は、 著しく高齢化する中国のプレゼンスが低下し、 経済の中心は依然として米国であり続けるだろう。
世界経済を長期的に展望するとき、各国の栄枯盛衰が見込まれるなか、米国経済が凋落することなく相対的に強いポジションを維持していくという見方は大方で一致していると思われる。良好な経済パフォーマンスが一定の出生や移民を維持しており、反対に出生や移民が経済パフォーマンスを支えるという双方向の因果関係があると考えられるが、現状でも欧米先進国のなかで例外的に人口が増えているという好循環の構図が米国にはあるという点が重要である。欧州のソブリン問題も、結果的に米国の覇権を再認識させていると思われる。
米国の高齢化の進展速度は、中国やブラジル、インドといった新興国と比べても緩やかである。米国が若さを保つチャネルの一つは移民だが、オバマ大統領は 2 期目の就任演説の中で移民制度改革に言及しており、 1,000 万人を超えるとされる不法移民の取り扱いに加えて、 高い技術を持つ者の受け入れに一段と積極的になれば、潜在成長力を押し上げることにつながろう。長期的な強みに綻びが見え始めているといわれる米国だが、他の国々に比べると若さを維持する人口構造になっている。
<世界の構図を変える可能性を持つ米国のシェール革命>:技術革新によって開発・利用可能になったシェールガス・シェールオイルの増産(シェール革命)で、米国は 2020 年頃までには世界最大の原油生産国になると国際エネルギー機関(International Energy Agency :IEA)は見込んでおり、米国内のガス需要は 2030 年頃には石油を抜いてエネルギーのなかで最大のシェアになるという14。 世界的にみても、 ガス需要は大幅に増加すると予想されているため、米国にとってこれは重大な変化である。実際、米国がエネルギー輸入国から輸出国に転換する可能性も示唆されている。
世界の実質 GDP 成長率は、当面は平均年率 4%強で成長するものの、2020 年頃からは成長率が低下していくものと見込まれる。その原因は、世界 GDP 成長率の約半分を占める中国の寄与度が労働力人口の減少により、2020 年前後から低下するためである。予測の最終年である 2040 年においては、世界 GDP 成長率の寄与度はまだ中国が大きいものの、次第に米国とインドの寄与度が高まっていく。米国も高齢化による労働力人口の減少の影響を免れることはできないが、移民の流入でその影響が緩和されることや、インドは他国と比べて人口構成が若いため、労働力人口の低下のスピードが遅く、相対的に高めの成長率が維持されるものと考えられるからである。そのため、世界経済の牽引役は、中国から徐々に、米国やインドへと移り変わるものと考えられる。
米国連邦準備制度理事会(FRB)が大手金融機関に課した 2013 年のストレステストでは、最悪の景気悪化シナリオとして、米国自身の深刻な景気後退に加えて、中国経済の大幅な減速に起因する世界経済の悪化をダウンサイドリスクに想定した。一年前の同テストでは、欧州経済の悪化・金融市場の混乱がリスク要因だったが、今回はやや様変わりし、それだけ中国の存在が無視できなくなっている。
中国の高齢化が急速に進むとみられる背景の一つは、1979 年から導入されている“一人っ子政策”であり、同政策によって出生率は急激に低下した。同時に経済発展によって死亡率が低下した結果、人口ピラミッドの形がいびつになってきた3。2010 年時点で中国の 65 歳以上人口が全人口に占める割合 (高齢化比率) は 8.2%に達し、 経済発展の途上段階で人口構造の成熟化が進んでいる。高齢化に伴う社会的コストが増える一方で、その費用を負担する現役世代の伸び率が鈍化している状態であり、今後中国では現役世代の負担感が大幅に高まっていくと予想される。

具体的に、高齢者人口(65 歳以上)を生産年齢人口(現役世代、15~64 歳)で割った老年人口指数を求めてみると、 2010 年時点では 100 人の現役世代で 11 人の高齢者を支えていたが、 2020年には 17 人、2050 年には 42 人を支えることになり、約 4 倍の負担になる。

今後の中国は、これまでの 2 桁台の高い成長率から質の伴った安定成長へスムーズにシフトするという目標を実現しながら、社会保障制度など膨張する費用を賄わなければならない。例えば、子どもが 1 人しかいない家庭では高齢者介護が大きな負担になるために、年金補助制度などを強化していく方針であるという。

ちなみに、 日本において高齢化比率が中国の 2010 年と同じ 8.2%を上回ったのは 1977 年であった。中国の現在の経済規模は日本を抜いて世界 2 位だが、1 人当たり名目 GDP(2010 年時点)は 4,400 米ドル程度であり、 1977 年当時の日本の 1 人当たり名目 GDP6,100 米ドルを下回っている。この間の生活水準や物価の変化を考えれば、その格差はより大きい。単純な比較はできないが、中国では人々の生活が豊かになる前に高齢化が始まっている。


◆柄谷行人 岩井克人対談集1990『終りなき世界』より

岩井)ぼくは、アメリカの資本主義とは、世界資本主義のなかで特別な位置を占めてきたし、これからも占めていくと思っているのです。没落したと言っても、当分のあいだ没落しえない構造になっている。

柄谷)もちろんそうですけれどもね。しかし、ぼくはやっぱり戦後アメリカが世界に進出したことが、むしろ彼らの本来もつ孤立主義というかモンロー主義に抵触するように思うんです。没落ではないが、内にこもるという気がする。

岩井)ただぼくね、そのアメリカに関する認識が柄谷さんとちょっと違うなと思うのはね、アメリカの資本主義には二重性があると思ってる点なんですよ。ひとつは、ドイツや日本と同様に国民経済としてのアメリカです。共同体的なアメリカと言ってもよいかもしれない。

ただ、アメリカの場合、もうひとつ、自分の中に世界資本主義そのものを抱えているアメリカというのがあるんです。もちろん共同体としてのアメリカというのは非常にモンロー主義ですね。でも同時にやっぱり、移民を受け入れ、国の中にあらゆる民族がいて、しかも商品も資本もかなり自由に行き来できるというアメリカというのがある。これは、まさに世界資本主義の縮図なんですよ。それゆえ、アメリカはみずからの中に世界資本主義を抱える国として、まさに広義の世界資本主義のなかで特異な位置を占めているわけです。世界はたしかにアメリカ、ヨーロッパ、アジアという三極構造になっていくとは思うんですが、同時に三極の第一番の極であるアメリカのなかに、世界資本主義の縮図が織り込まれているという構造になっていて、必ずしも純粋な三極構造じゃないと思うんですね。三極プラス世界それ自体という、複雑な入れ子構造ですね。

アメリカの内部にあるこの二つの資本主義、それはアメリカにおける民主主義と自由主義ということかもしれないのですが、それはけっして民主党と共和党という対立には還元できない、もっと根源的な内部構造なんだと思います。そして、このアメリカ内部における世界資本主義のダイナミズムが、たんなるアメリカ、ヨーロッパ、アジアという拡大された国民経済の三極のあいだの勢力関係以上のダイナミズムを世界にもたらし続ける気がしますね。日米経済摩擦というのも、やはり同時にアメリカの内部における二つの資本主義のあいだの対立の問題の反映であるとみることもできる。九十年代において、三極構造だけでは理解できないダイナミズムがありうるわけで、これをやっぱりみていかないといけないような気がしますね。

柄谷)それは同感ですが、ぼくが言いたいのは、アメリカにあるモンロー主義の可能性をむしろ見てなきゃいけないということなんですよ。つまりあまりにも戦後のアメリカに慣れすぎて、むしろモンロー主義が基底にあるということを忘れているのではないかと思うんですね。アメリカのナショナリズムの思想的元祖は、エマソンですね。彼は、日本の本居宣長とある意味でよく似ているんです。彼のトランセンデタシズムは、歴史や伝統を切断して、自分の内部と経験に問えということですが、これは別の意味で、アメリカのナショナリズムです。なぜなら、歴史や伝統はヨーロッパのものだからです。

エマソンは「ヨーロッパへ行くな」とも書いている。これは、宣長が「漢意」を批判して、おのれ自身の心(もののあはれ)を重視したのと平行しています。日本の場合と同様に、これは、反インテレクチュアリズムとして根強いですね。ただし、日本と違って、インテリのほうも頑固で根強いですが、と言うのも、インテレクチュアルはヨーロッパから直接に来ていますからね。書物だけが来るのではない。とにかく、このエマソン主義は、政治的な表現をとるかどうかは別としても、アメリカの思想的基底にあるものだと思う。この意味で、ぼくはアメリカは巨大な「島」だと思っているんです。

アメリカが実際に閉鎖的になると、世界的に影響しますね。たとえば明治の末、日本人移民の締め出しが起こった。江藤淳の説によると、石川啄木の「時代閉塞の現状」というのは、アメリカが日本からの移民を拒絶したということから来るらしい。つまり日本の空間から出る道がなくなったったわけですね。それは日本だけじゃない。一九三〇年代、ヨーロッパでファシズムが起こったのは、アメリカの移民制度のせいだという説もありますね。

岩井)全くその認識は正しいと思います。アメリカがみずからの内にある世界資本主義を閉塞させてしまうと、世界は単純な多極的な構造になって、共同体と共同体がじかにぶつかり合うという不安定性が増幅してしまう。今度の東ドイツから西ドイツへ大量の移民が逃げたということもあるけれども、やっぱりアメリカという国が長い間東ヨーロッパやソ連から移民を受け入れてきたということが大きかったんだと思う。これが、東ヨーロッパやソ連を世界資本主義のなかに巻き込んだ現実的な力として働いたんですね。そういう意味での、アメリカの勝利なんですよ。西欧民主主義などという原理の勝利じゃなくて、移民を受け入れるという事実の勝利なんです。

柄谷)そうですね。ぼく自身、亡命ということ、移住ということを考えたとき、やはりアメリカしか考えてないですね(笑)。現在でも、世界で亡命しうる国と言えば、じつはアメリカ以外はない。

岩井)ぼくもそうですよ(笑)。かつてスピノザの両親がポルトガルからオランダに亡命した。あのときはオランダというのが世界資本主義の中心地だった。亡命できる都市と世界資本主義の中心地というのは、必然的に一致するんですね。やっぱりその意味ではアメリカがこれからも亡命の地であるということで、まさにその限りにおいて世界資本主義の中心地としての地位を保っていくんじゃないかと思います。

柄谷)日本は絶対に亡命の地じゃない。ぼくは亡命の地たりうるかどうかにおいて、その国の「自由」の度合い、あるいは、世界資本主義における比重を測りうると思いますね。

岩井)ほんとにそうですね。

柄谷)ある意味で、東欧・ソ連問題というのは、アメリカ人からみたら、みんな親戚の問題ですね。以前たまたまヴィデオを見たんだけど、アルメニアの大地震のときに、BBCがニュースを二時間ぐらい特集しているんですね。アメリカのアルメニア人がみな集まってワイワイ言ってるわけです。地震が起こったところはソ連ですよ。だけど、それに関してものすごい救援活動をやるんですね。テレビも大々的に支援する。これは、日本人がアメリカという国にもっているイメージに合わないところだと思います。

岩井)特にアルメニアなんてのは国自体がなくなったでしょう。ソ連の中に吸収されたし、残りはトルコの中に一部あるということで。アメリカが逆にアルメニアのいちばん利益代表というところがあるでしょう。

柄谷)だから、ぼくは、アメリカの帝国主義としての世界進出という面は確かにあるけれども、もう一方に、本質的に世界的にならざるをえないところがあると思う。というのは、結局外国から生身の人間が来ているということですね。だから、アメリカ人は世界中の人間が潜在的にアメリカ人だと考えており、その意味で「外部」がないんですね。自分たちの原理はどこにでもあてはまるべきだと思っている。それは、「世界の警察」のようにふるまうアメリカ国家とはまたべつのレヴェルですが。

上の柄谷行人の発言のなかに「反インテレクチュアリズム」という語が出てきていることに注目しておこう。

《いまやヤンキー化の進行はとどまるところを知らない。気合とアゲのバッドセンス、ポエム化の蔓延、現場主義のリアリズムと夢を語るロマンティシズム、「知性より感性」の反知性主義。ヤンキー化の源泉をさぐることで、あたらしい「日本人」の姿が見えてくる。》(斎藤環「ヤンキー文化と日本文化」――「日本精神分析2.0」
日本は、岡倉天心が『東洋の理想』で書いたように、アジアの諸文化・思想がどんどん入ってきて、排除もされず累積してきた貯蔵庫のようなところがある。もちろん、排除しないというのは、それ自体が排除の形態なので、つまりは、何の影響も受けないということです。アメリカもじつはそうです。しかし、実際の人間が来る。日本に来るのは文物だけです。たとえば、われわれにとって、中国はいうまでもないけど、インドの哲学とか芸術とか言えば、なにか懐かしいような感じ、われわれの一部であるような感じがあります。しかし、インド人がこの国に来たわけじゃないから、たんにイメージなんですね。

岩井)だからアメリカについて、石原慎太郎がアメリカをレイシズム(人種差別主義)と非難したけれど、あれは的が外れている。とくにアメリカの場合、まず当たり前のこととして、国内に多民族を抱えているでしょう。たとえばフランシス・フクヤマがいい例で、日系人やアジア系がかなりのパーセンテージいるわけだし、そんなに単純なかたちのレイシズムにはなれない。

柄谷)アメリカには現に多数のレイスが共存しているのだから、レイシズムは確かにあるし、陰では悪口を言うかもしれないけれど、けっして公言できませんね。たとえば、「ジャップ」とか言えないのは、日本人が抗議するからではなくて、日系アメリカ人がいるからです。ハワイみたいに、日系人が州知事をやってるようなところもあるわけです。

岩井)それから上院議員が二人ぐらいいますしね。アメリカ政府は戦時中の強制収容所の賠償金を日系人に支払いはじめましたね。これらの議員の尽力ですね。

柄谷)しかし、それじゃ日系人が、プロ・ジャパンかと言うと、そうではないわけですよ。

岩井)そう、全然ない。日系人だから賠償金に関する法律を通すんだというのではなく、一応アメリカ人として、戦時中のアメリカ人が本来の道義性を失った行為を同じアメリカ人にしたことの賠償だという論理を使ってね。

柄谷)だから、ああいう単純なレイシズム非難に対しては、日系人も怒ると思うんですね。レイシズムの一言ですむんだったら、戦後四十五年間の日系人の戦いはなかったことになるんですね。それは、アメリカ人としての、アメリカの理念のための戦いだったわけで、彼らはアメリカ人としての誇りを持っているわけですから。アメリカ人が日本人を人種差別しているという単純な言い方に対しては、むしろ彼らが怒ると思うな。それだったら、日本人のほうがはるかにレイシストですからね。

岩井)ぼくは日本人は百パーセント、レイシストだと思いますよ。日本のコマーシャルに典型的に出てくるあの白人崇拝というのが、逆方向のレイシズムでしょう。アジア蔑視、白人優越主義の裏返しですよね。もちろん、いろいろな肌の色の有名人も出ますけれど、それは有名人だからなだです。つまり下士官根性の現われなわけですよね。上に媚びて、下に威張るというね。明治以来、日本は常にそうだったと思うんですね。そして、それと同時に、白人もふくめた意味での外人排斥的なレイシズムもある。(柄谷行人 岩井克人対談集『終わりなき世界』1990)

…………

※附記:毎日新聞の記事2010、「特集ワイド:この国はどこへ行こうとしているのか 建築家・磯崎新さん」より(リンク切れになっているが、以前メモしたものから)

米軍普天間飛行場移設問題などでは米国との関係に揺れ、中国には今年にもGDP(国内総生産)で追い抜かれる。政権交代はしたものの、鳩山政権は視界不良だ。

 日本は鎖国状態でやっていけますか? 「日本は鎖国状態を恐れる必要はありませんよ。今の日本は、米国から外される、中国から追い抜かれるとビクビクしている。だけど、日本はむしろ孤立した方がいいんです」。意外な答えが返ってきた。

 「僕はこの鎖国状態の期間を『和様化の時代』と呼んでいいと思います。歴史を見れば、和様化の時代は、輸入した海外の技術を徐々に日本化していく時期にあたります。今はこの和様化、つまり『日本化』を徹底する時期だと思いますね」

 磯崎さんに言わせれば伊勢神宮もしかり。漢字とひらがなが入り交じった日本語も、外国語をいかに日本化するかを考えたことから今の形となった。戦 後で言えば、自動車やカメラだ。日本が始めた産業ではないにもかかわらず、実用化、大量化、精密化して世界の群を抜く製品化に成功した。

 「どう言ったらいいんですかね」などと言葉を探しながら語る磯崎さん。

 「歴史を振り返ると、日本人は鎖国状態の時期、非常に細かい技術を駆使して、発案した人たちを脅かすものをつくり続けてきた。そして、その時期にできた日本語や自動車などの日本的なものが、日本の文化や産業の歴史的な主流になってきています」



2014年2月25日火曜日

「夜中の一時だったか/それとも一時半」

「夜中の一時だったか
それとも一時半」

ケイタイ切っとくのを忘れたよ
目が醒めちゃったから
モルトウィスキーを一口
ダイジョウブカナ、痛風
それでとーー

ダンヒルのパイプは寿命だね
美丈夫の生涯独身だった叔父の形見でさ
足掛け四〇年ものだからな
マウスピースがすかすかでね
海泡石のパイプは詰まってるし
刻みタバコも湿ってるな

「ダンヒルのパイプを河原のすすきの中へ
すててヴァレリの呪文を唱えた
「お前さんは曲がつている。すずかけの木よ」
なんてことはできないな
呪文ぐらいは唱えるさ
開け胡麻って
「扉を開く読書、アリババの呪文、魔法の種」

「過去をふり返るとめまいがするよ
人間があんまりいろいろ考えるんで
正直言ってめんどくさいよ
そのくせい自分じゃ何ひとつ考えられない
ぼくは自分を鉛筆の落ちた音のように感ずる
カチャンコロコロ……
過去がないから未来もない音だね

それでとーー
ちょっともう続けようがないなこの先は」






私は、たまたま高等学校において、古代ギリシャ文学を愛する教師に勧められ、当時ようやく出版された独習書を使って古代ギリシャ語を勉強しようとした。哲学よりも詩を好み、ギリシャ詞華集の一部を暗誦しようとした。

この勉強は、京都大学法学部に入学してからも継続した。私は、そのまま行けば、ひそかにギリシャ文学を読む会社員か公務員になっていたであろう。

しかし、私は結核になった。当時、結核の経歴があるということは卒業しても失業を意味した(リッツォスの青春期と似た状況である)。治癒後、私は、独立して生きる可能性が高い医師になろうと思い、医学部に転入学した。(中井久夫「私とギリシャ文学」『家族の深淵』所収)

ーー今でもいるのかね、こういう「教養」を身につけている人は。
すでにヴァレリーやエリオット、リルケなどの原典を
甲南の九鬼文庫で読んでいた後の話だからな
何度読んでも愕然とするね
十代の後半のオレはいったいなにをやっていたというのだろう、と


韓国と日本では知識人の基準が少し違う。日本では何らかの専門家であることが必要である。しかし、それでまあ十分である。韓国では、専門の力量に加えて高度の一般教養がなくてはならない。いま小学生から英語を教え、高校で二ヶ国語を必修としている隣国の教育の凄さに日本人は無知である。この家(中井久夫が下宿したY夫人家:引用者)に来訪する韓国の知識人との交際はこよなく洗練され高度なものであった。夫人との毎晩の四方やま話も尽きなかった。当時の私は韓国から毎日出稼ぎに日本へ行っては毎晩帰っているようなものであった。三年間私は文化的に韓国に住んでいた。おそらく、その最良の部分の一端に触れていた。(中井久夫「Y夫人のこと」『家族の深淵』所収


一八歳の中井久夫が休学中(結核だが、個人的絶望のせいでも、とある)、西脇順三郎氏との間で何度か親密な手紙のやりとりをしたことは、知る人ぞ知る、である。

……自分が妙なことにならないために詩の翻訳を自分に課した。これはその後、精神的な危機の際の私の常套手段となった。占領下、H百貨店の洋書部主任、東大仏文でのY氏の好意で入手した洋書が多かった。また私の高校に寄贈されていた九鬼周造氏の蔵書も教師の名で貸与してもらって筆写していた。後者の中にT・S・エリオットの『荒地』があった。

ノートを作ったりしているうちに、N氏の訳が出た。当時としては豪華な装丁と紙質と活字だった。書評は絶賛が続いた。しかし、私は氏がいくつかの初歩的な誤訳をされているように思われた。(……)大いにためらってから、私は氏に手紙を書いた。著名人に手紙を書くのは初めてである。私が当時、鬱屈していたことは否定できない。

私は、数日後、厚い速達に驚かされた。氏は、感動的な率直さで誤訳を認めておられた。(「N氏の手紙」『記憶の肖像』所収)

浅田彰は十年以上まえの東京大学に於ける講演で次のように発言している、--ということは当時の東大にも当然まれだということだろう。


たとえば自分は医者になるがゲーテは原書で読んだとか、自分はフランス文学をやっているが彗星が来る周期に関しては必死にPCで計算してみたというほうが重要。最低限のスタンダードが教育されている上で一人の人間の中で広く浅くたくさんの人と教養を深めようというより、狭く深くでいいから、それが複数並び立つのがいい。医学をやっている人がゲーテを読んだってあまり普遍的な広がりはないかもしれないが、なくていい。深いが狭い、しかし狭いが深いというようなものが複数あってそれらがネットワークを作ることが重要。

もっというと、それが複数の人の間で拡がっていって、深いが狭い、狭いが深いというようなものがいくつかショートする状況を作ることが重要。情報ネットワークの発達でそれを可能にする条件は整いつつある。昔は物理的に全然関係ない学校の人、いわんや別の場所の人とコミュニケートするだけでずいぶん大変だった。今はそれはネットですぐできる。そういうものを使って良い形でのコミュニケ―ションを作ることが重要。(浅田彰氏講演録「知とは何か・学ぶとは何か」)

まじでまともな「人材」つくり直すのだったら
「3歳から小学校入学前の幼児と母親を対象の
のたぐいをやらなくちゃな
十代後半ではまったくおそいんだよ


…………


「憩いに就く」


夜中の一時だったか
それとも一時半

酒場の隅だったね
板仕切りの後ろ
きみと二人。他には人はいなかったね
ともしびもほとんど届かなくて
給仕はドアのきわで眠っていた

誰にも見られなかったけれど
どうせこんなに燃えたからには
用心しろといっても無理だよね。

……

神のごとき七月の燃えさかる中

大きくはだけた着物と着物の間の
肉の喜び。
肉体はただちにむきだしとなってーー
そのまぼろしは二十六年の時間をよぎって
この詩の中で今憩いに就くのだよ(中井久夫訳  以下同)


◆「酒場の隅」あるいは「からみあい」ヴァリエーション

亭主がまだ部屋から出ていくかいかないうちに、フリーダは、はやくも電燈のスイッチを切るなり、カウンター台の下のKのそばに来ていた。

「好きな人! わたしの大好きな人!」と、彼女は、ささやいたが、Kのからだにはふれなかった。恋のために気が遠くなったみたいに仰向けに寝ころんで、両腕をのばしていた。これからはじまる愛の陶酔をまえにしては、時間も無限であるらしかった。(……)

ふたりは、抱きあった。Kの腕のなかで、小さなからだが燃えていた。彼らは、失神したような状態でころげまわった。Kは、この失神状態からたえず抜けだそうとこころみたが、どうにもならなかった。しばらくころげまわっているうちに、どすんとにぶい音をたててクラムの部屋のドアにぶつかった。それからは、こぼれたビールの水たまりや床一面にちらばったごみのなかに寝ころんでいた。そうして、ふたりの呼吸と心臓の鼓動がひとつになった何時間がすぎていった。そのあいだじゅうKは、自分は道に迷っているのかもしれない、あるいは、自分以前にはまだひとりの人間も足をふみ入れたことがないような遠い異郷の地に来てしまったのかもしれないという感じ、ここでは空気ですらも故郷の空気とは異質で、その異質な空気のために息がつまりそうでありながらも、その妖しい魅力にたぶらかされてこのまま歩きつづけ、道に迷いつづけることしかできないという感じをたえずもちつづけていた。(カフカ『城』前田敬作訳)

ところが、ボーイは、調理場の半ば開いた扉とサイド・テーブルの間の、こちらからは良く見えない陰になっている床の上で、空色のスカート丈の短いユニフォームのウエイトレスと激しくもつれあっているのだった。スカートがまくれあがってしまっているので、ストッキングをつけていない長い脚が宙を泳ぐように動き、ボーイはウエイトレスの脚をすくいあげるようにして、抱え込もうとしていた。食堂には何組かの客が食事をしているのだが、客たちはボーイの振舞いには無関心で、というよりも、まるで気がついていないらしく、二組の夫婦の連れている小さな子供たちだけが、床の上の活劇めいた淫らな行為を熱心に見つめていた。

わたしはすっかりあきれてしまい、それに、はっきり言えば、それはかなり刺激的な光景だったので、どぎまぎして、平然としている彼女の顔を見た。彼女はボーイとウエイトレスの淫らな振る舞いに気づいているのだが、気にするでもなく、自分で食堂の調理場に」近いバーのコーナーに足を運んで、カンパリ・ソーダを拵えて来て、椅子にすわりながら、意味もなくわたしの顔を見て無邪気な様子で微笑みかけるのだった。苛立たしい微笑だ。それから、わたしは唐突に、あのボーイの奴はいつもああなんですか、と批難がましい口調で彼女に質問し、彼女は首をかしげて考え込むような仕草をして、そうねえ、いつもというわけじゃあないけれど、と答える。……(金井美恵子『くずれる水』)

私たちはからみあって組みうちをするのだった。私は彼女をひきよせようとし、彼女はしきりに抵抗する。奮闘のために燃えた彼女の頬は、さくらんぼうのように赤くてまるかった。彼女は私がくすぐったかのように笑いつづけ、私は若木をよじのぼろうとするように、彼女を両脚のあいだにしめつけるのであった、そして、自分がやっている体操のさなかに、筋肉の運動と遊戯の熱度とで息ぎれが高まったと思うまもなく、奮闘のために流れおちる汗のしずくのように、私は快楽をもらした、私にはその快楽の味をゆっくり知ろうとするひまもなかった、たちまち私は手紙をうばった。するとジルベルトはきげんよくいった、

「ねえ、よかったら、もうしばらく組みうちをしてもいいのよ。」

おそらく彼女は私の遊戯には私がうちあけた目的以外にべつの目的があるのをおぼろげながら感じたのであろう、しかし私がその目的を達したことには気がつかなかったであろう。そして、その目的を達したのを彼女に気づかれることをおそれた私は(すぐあとで、彼女が侮辱されたはずかしさをこらえて、からだをぐっと縮めるような恰好をしたので、私は自分のおそれがまちがっていなかったのをたしかめることができた)、目的を達したあとの休息を静かに彼女のそばでとりたかったのだが、そんな目的こそほんとうの目的であったととられないために、なおしばらく組うちをつづけることを承諾した。(プルースト『花咲く乙女たちのかげに』井上究一郎訳)

…………


「午後の日射し」


私の馴染んだこの部屋が
貸し部屋になっているわ
その隣は事務所だって。家全体が
事務所になっている。代理店に実業に会社ね

いかにも馴染んだわ、あの部屋

戸口の傍に寝椅子ね
その前にトルコ絨毯
かたわらに棚。そこに黄色の花瓶二つ
右手に、いや逆ね、鏡付きの衣裳箪笥
中央にテーブル。彼はそこで書き物をしたわ
大きな籐椅子が三つね
窓の傍に寝台
何度愛をかわしたでしょう。

(……)

窓の傍の寝台
午後の日射しが寝台の半ばまで伸びて来たものね

…あの日の午後四時に別れたわ
一週間ってーーそれからーー

その週が永遠になったのだわ


カヴァフィスは登場人物の容貌をほとんどまったく記述しない。せいぜいが、「詩的な眼」などといって済ませる。服装も身のこなしも叙述しない。舞台についても単純な数語である。「自然が出てこない」とは古くから言われたとおりである。まさに仮面劇である。 しかし、カヴァフィス詩を読む時、この寡黙に直面して、われわれは何らかの不足不満を感じるだろうか。イメージが湧いてこないとか、この辺はどうなっているのだと疑問に思ったりなど決してしないと思う。何かが足りないという感覚は生じない。ふしぎな過不足のなさである(「未刊詩編」にはある。彼が自詩を精選した「カノン(正典)にはない)。すなわち詩人の彫琢精選の結果である。 一方われわれは演出の自由を委ねられていると感じる。われわれはカヴァフィス劇の演出家とならされる。これがカヴァフィスの第三の魔法である。これが彼の詩を普遍的なものにしている要素の一つである。われわれはわれわれなりに演出できるし、せざるをえない。 (……) 状況を共有し、演出者となり、「ゴシップ」感覚を享楽するという、一見矛盾した点からであろうが、カヴァフィス詩の読者の中には、あるふしぎな感覚、「コミットしながらも醒めている」という奇妙な状況が生じる。すなわち、われわれはカヴァフィス詩の状況に共感し共振するが、決して主人公に同一化することはない。彼が感傷的になっている時でさえ、われわれは、その感傷からある距離を保ち、決してこの距離を失うことはない。おそらく、詩人自身が対象との距離を失わないからであろう。カヴァフィス詩の現代性は、安易な感情移入と同一化とを許さないというところにある。(中井久夫「劇詩人としてのカヴァフィス」『家族の深淵』所収)


「タベルナ」


ベイルートのタベルナ、あいまい宿をはいずりまわる私。
アレクサンドリアにいたたまれなかった。
タミデスに去られた。ちくしょう。
手に手をとって行ってしまった、長官の息子めと。
ナイルのほとりの別荘がほしいためだ。市中の豪邸もだな。
どんな顔して俺がおれる、アレクサンドリアに?
……
そんな人生にも救いはある。一つだけある。
永遠にあせない美のような、わが身体に残る移り香のような、救いはこれだ。タミデス、
いちばん花のある子だったタミデスがまる二年
私のものだった。あまさず私のものだった

しかも邸やナイルに臨む別荘目当てじゃなかったってこと(カヴァフィス「タベルナにて」)


ギリシャの詩人カヴァフィス(1863-1933)は、人が群れ立つ広がりから出られなかったようですね。彼は、少年時代は英国で教育を受けているわけだけれども、十代の後半からずっとアレキサンドリアにいたわけです。一九三三年に死んでいるけれでも、前の年にアテネで喉頭がんの手術を受けました。そのあと、アテネの郊外のギリシャ神話に名高い山が見えるところで静養するように、友人が設定するんですけれども、脱走してしまう。そして、カヴァフィスならあそこに行ったに違いないと思って、アテネのいちばん雑踏しているところを捜すと、はたしてそこにいたという話です。

彼の公刊されてる詩には、ほとんど自然が出てきません。遺稿集のなかには、多少植物も出てきますけれども。全部、町であり、その町と人間と追憶、そして、追憶のからまった町並みです。ほとんど彼の記憶そのものと化したようなアレキサンドリアの町というものですね。

ボードレールも、若いときは、過激なものを少し書いています。カヴァフィスも、ヨーロッパ人の評論をよむと、最初からアレキサンドリアの町の申し子みたいになっている。しかし実際には、二十代の後半あたりは、イギリスに対して、ギリシャの文化遺産を持ち去っていってことを抗議するような文章を書いています。彼がアレキサンドリアの町を一時逃れてコンスタンティノープルに行くのは、英国の艦隊がアレキサンドリアを砲撃し、カイロに進撃して、事実上エジプトを支配していく過程においてです。そして、その過程において、彼は諦念をもってアレキサンドリアの町にひっそり住み直すわけですが、昼は小役人として働き、夜はホモの世界に生き、もう一つの顔が詩人であるということです。

デカルトだって、ある種の断念のなかで都市のなかに定住するわけですね。中国にも、ほんとうの隠者は市に隠れるという成句があるでしょう。彼がオランダに住み着くのは、一つには、言論の自由ということもあるんだろうと思います。しかしオランダの町のざわめきというのを、森のなかの鳥のさえずり、というようなかたちで表現している。とにかく、都市のなかで森の静寂のようなものを味わっていて、非常に快適だと言っているんです。『方法序説』の終わりのほうかな。群衆のなかこそ隠れ家となんだというわけなんです。群衆のなかに混じって何かをやっているわけではないんですね。

あのころのいちばん近代的な都市、無名性を許容する都市というのは、アムステルダムなどのオランダの都市だったと思うんです。そういう共通性があってーーある人たちは、権力を求めて都市に来るのかもしれないけれどもーーある人は、国内的であれ、国外的であれ、亡命するために都市に来るのかもしれない。実際、農村に亡命することはできませんね。

パリとかロンドンというのは、あらゆる肌の色の人がいますけれども、イギリスの田舎にそういう人がポッと入っているかというと、それはないですね。そういう意味では、都市というものは、元来の群れから出た人間が潜り込めるようなものかもしれない。

ルソーが、森に二十歩入ったらもう自由だといっている。耕地は統制されているのですね。腐葉土のようにいろいろのものが棲めるのが自然発生都市というものかもしれません。計画された都市、たとえばつくば学園都市なんていうと、これはだいぶ違うかもしれない。これは正反対のものかもしれませんね。隠れ棲むということができない。そこがケンブリッジやオクスフォードと違う。

カヴァフィスのアレキサンドリアは、彼の詩からみると、重層した記憶の町でしょうがね。実際は相当雑駁な新興都市だと思うんですよ。アラビアンナイトから出てきたような町を予想する人もいますけれども。ことに西洋人でカヴァフィスが好きな人には、そういう思い入れがあるんだけど、実際は、あれは十九世紀になってから、エジプトが近代化を始めて、タマネギだとか綿だとかタバコだとか、農作物の集散所として栄えたぐらいで、けっしてそんな由緒ある町ではない。むしろ猥雑な町だったんでしょうね。トルコ風のコーヒー屋があるかと思ったら、イギリスのクラブがある。中東ふうの淫売窟があるかと思ったら、ヨーロッパ人のクラブのようなものがある。たぶんそのようなところだったのでしょうね。

それもどんどん変わってきて、昔はここにカフェがあったけれども、今は全然なくなっているんだというようなことを、カヴァフィスは詠んでいるし、彼はそういう重層した記憶というなかで住んでいたんでしょうね。(中井久夫「微視的群れ論」 『精神科医がものを書くとき』〔Ⅰ〕所収)


「野蛮人を待つ」  


「市場に集まり 何を待つのか?」

 「今日 野蛮人が来る」

「元老院はなぜ何もしないのか?
 なぜ 元老たちは法律も作らずに座っているのか?」

 「今日 野蛮人が来るからだ。
  今 法案を通過させて何になる?
  来た野蛮人が法を作るさ」

「なぜ 皇帝がたいそう早起きされ、
 市の正門に玉座をすえられ、
 王冠をかぶられ、正装・正座しておられるのか?」

 「今日 野蛮人が来るからだ。
  皇帝は首領をお迎えなさる。
  首領に授ける羊皮紙も用意なすった。
  授与する称号名号 山ほどお書きなすった」

「なぜわが両執政官、行政監察官らが
 今日 刺繍した緋色の長衣で来たのか?
 なぜ紫水晶をちりばめた腕輪なんぞを着け、輝く緑玉の指輪をはめ、
 みごとな金銀細工の杖を握っているのか?」

 「今日 野蛮人が来るからだ。
  連中はそういう品に目がくらむんだ」

「どうしていつものえらい演説家がこないのか?
 来て演説していうべきことをいわないのか?」

 「今日 野蛮人が来るからだ。
  奴等は雄弁、演説 お嫌いなんだ」

「あっ この騒ぎ。おっぱじった。なにごと?
 ひどい混乱(みんなの顔が何とうっとうしくなった)。
 通りも辻も人がさっとひいて行く。
 なぜ 皆考え込んで家に戻るんだ?」

 「夜になった。野蛮人はまだ来ない。
  兵士が何人か前線から戻った。
  野蛮人はもういないとさ」

「さあ野蛮人抜きでわしらはどうなる?
 連中はせっかく解決策だったのに」


この詩は四一歳の作で出発の遅い詩人としては初期の作品であるが、カヴァフィス詩の特徴がよく出ていると思う。

まず、(1)短い。この詩は長いほうで、彼の詩は一般に三ページを滅多に越えず、数行のことも多い。(2)しかも、その中でストーリーが完結する。(3)読むものをいきなり「事件の核心」に降り立たせる。われわれはいきなり状況に投入され、めまいを覚え、息をのむ。(4)現場にいあわせる感覚がある。この詩ではわれわれは対話を小耳にはさむ思いがするが、対話の相手となる場合も、隣室に独語を聞く時もある。しかも(5)読者は登場人物と決して同一化できず、現場にありながら醒めていなければならぬ。この感覚が特にカヴァフィス詩独自であると私は思う。(6)人間を中心とする寸劇、それも仮面劇である。登場人物の容貌も服装も決して与えられず、場面もヒント程度である。自然は出番がない。演出は大幅に読む者にゆだねられている。能か狂言仕立てにならないかと空想したくなる。(7)歴史ものは必ずどんでん返し、あるいは裏の意味がある。この詩の場合は明白だが、よく考えてやっとわかるものもある。(8)古代と現代とが二重写しである。同時代的に感覚されている。(9)ある市井性、世俗性、下世話さ、ゴシップ性といでもいうべきものがある。(10)彼の風刺には読者の中にある「内面化された世論」へのおもねりがない。非常な皮肉家と見る人もいるが、運命の前の人間の小ささというギリシャ悲劇的感覚につながるという見方も可能であろう。(中井久夫「現代ギリシャ詩人の肖像」『精神科医がものを書くとき』〔Ⅱ〕所収 広栄社)


「船上」 


このちいさな鉛筆がきの肖像は
あいつそっくりだ。

とろけるような午後
甲板で一気に描いた。
まわりはすべてイオニア海。

似ている。でも奴はもっと美男だった。
感覚が病的に鋭くて
会話にぱっと火をつけた。

彼は今もっと美しい。
遠い過去から彼を呼び戻す私の心。

遠い過去だ。すべて。おそろしい古さ。
スケッチも、船も、そして午後も。


このぴりっとした寸劇は彼ならではである。いきなり場面に強い照明を当てる第一行。スケッチは当時の同性愛者たちの写真代りであった。そしてイオニア海は、ギリシャに深入りしている楠見千鶴子さんによれば「エーゲ海ほど激しく挑発的で明晰な色合いを持たない代わりに、柔らかく潤んだ大気と混じり合ったけだるい曖昧さで思わず吐息をつかせてしまう」。しかし、この追悼詩の最終行は? スケッチも船も古くて当然。だが「午後」とは? むろん、その午後ははるかな過去だ。だが、はっと疑念がきざす。回想に耽る只今も陳腐だというのでは? そうなれば感傷はすべてくつがえる。(中井久夫「イオニア海の午後」『家族の肖像』所収)


「はるかな昔」


この記憶をぜひ話したい
だが今はもうひどく色あせてーー消え尽きたかのようーー
はるかな昔だから、私の青年時代だから。

ジャスミンの肌――
あの八月の夕べーーはたして八月だったか?――
眼だけは思い出せるーー青――だったと思う
そう。サファイアの青だったね


……一九八九年春、『カヴァフィス全詩集』は、第四十回読売文学賞の研究翻訳賞を受賞した。選考委員たちは、英訳でカヴァフィスを読んでいる人ばかりであるから、日本語の詩としてのカヴァフィスが評価されたのであろうが、カヴァフィスの偉大さが日本語をとおして日本人に評価されたと思いたい。刊行以来四ヶ月で受賞が決まった時、既に限定一五〇〇部はすべて売り切れており、直接売ってくれと私のところに手紙を下さる人さえあった。詩集としては驚くべきことである。詩集の再版は日本でも少ない事件である。

初版を「限定版」としたからには、しばらく再版しないのが紳士的であった。一九九一年に「普及版」が出る前に、私はもう一度原典と各国語にあたった。この普及版が出てからの新しい現象は、大衆雑誌に引用や書評がのるようになったことである。『メンズ・ノンノ』という男性服飾雑誌(一九九一年七月号)がカヴァフィス詩の一部を掲載し、『Hanako』という雑誌の東京版(一九九一年八月十二日号)が推薦図書に『カヴァフィス全詩集』を挙げた。現代人に読むに耐える愛の詩は多くないのであろう。(中井久夫「私と現代ギリシャ文学」『家族の深淵』所収)


「老人」


カフェの騒がしい片隅で
頭をつくえに伏せて老人がすわっている。
連れはない。前に新聞紙。

老年のありきたりのあわれな姿。
老人は思う、強く賢く見目よかった時を、
楽しまずに過ごした歳月の多くを。

ずいぶん歳をとった。知っている。わかる。
感じもある。 若かったのはほんの昨日。 そんな気がする。

時は過ぎた、速く、実に速く。

「分別」が自分を愚弄した。老人は思う、
バカだった。いつも信じた あのごまかし。
「明日にしよう。時間はまだたっぷり」。

思い出す。衝動に口輪をはめた。喜びを犠牲にした。
失ったせっかくの機会がかわるがわる現れて
今あざわらう、老人の意味なかった分別を。

さて考えすぎた。思い出しすぎた。
頭がくらくらする。ねてしまう老人、
頭をカフェのテーブルにやすめて。


ーーまあそこまで言うなよ、カヴァフィスさん




その老学者はまわりの騒がしい若者たちを眺めていたが、突然、このホールのなかで自由の特権をもっているのは自分だけだ、自分は老人なのだから、と思った。老人になってはじめて人は、群集の、世間の、将来の意見を気にせずともすむ。近づいてくる死だけが彼の仲間であり、死には目を耳もないのだ。死のご機嫌をうかがう必要もない。自分の好きなことをし、いえばいいのだ。(クンデラ『生は彼方に』)

(私の魂)といふことは言へない
その證據を私は君に語らう
……

しかも(私の魂)は記憶する
そして私さへ信じない一篇の詩が
私の唇にのぼつて来る
私はそれを君の老年のために
書きとめた

ーーー伊東静雄 【鶯】(一老人の詩)  

自由詩における改行の意味はどういうところにあるだろうか? 散文詩とどこが違うのであろうか。これには、十分な説明を聞いたことがない。私はこう考えている。読む速度をひそかに規定しているのであろう、と。長い行は速い速度で、短い行はゆっくりした速度で読みように、という指示を下しているのである。散文詩とは、ほぼ同じ速度で読まれる詩である。音韻的には、散文とはそういうものであるというのが、私だけの定義である。同じエリティスの詩でも「狂ったザクロの木」は「エーゲ海」よりも速い速度で読まれるのが自然だと私は思い、私の翻訳では、そのように訳してある。思い入れたっぷりの現代日本詩の朗読法は私の好みではない。現代ギリシャ詩の朗読のように、もっと速い速度で、過度の抑揚を付けずに、ほとんど散文的に、しかし行の長さによって速度を変えるか、行間休止時間を変え、頭韻や脚韻に注意して読まれるべきである。そうすれば、日本語においても、母音と母音、子音と子音の響き合いによる美しさが現れるはずである。

ついでにいえば、私にとって、詩とは言語の徴候的使用であり、散文とは図式的使用である。詩語は、ひびきあい、きらめき交わす予感と余韻とに満ちていなければならない。私がエリティスやカヴァフィスを読み進む時、未熟な言語能力ゆえに時間を要する。その間に、私の予感的な言語意識は次の行を予感する。この予感が外れても、それはそれで「快い意外さ  la bonne surprise」がある。詩を読む快楽とは、このような時間性の中でひとときを過ごすことであると私は思う。(中井久夫「私と現代ギリシャ文学」)

…………

中井久夫のカヴァフィス詩訳は「濡れている」のだよなあ
ヴァレリー訳はそれほどまでにも感じないのだけれど
原詩にもよるのか イオニア海によるものか

《学者たちのこごしくこちたい邦訳は私の心の琴線を掻き鳴らすものではなかった(上田敏や永井荷風の言葉もやや遠かった)》と書いているけれども
中井久夫のエッセイにさえも感じることのすくないあの「濡れ」の感覚

私は、詩の翻訳可能性にかんしての議論は表層言語の水準では解決できないものであると考えている。訳詩というものがそもそも果たして可能かという議論はいつまでも尽きない永遠の問題である。これが、ゼノンの逆理に似ているのは、歩行は現実にできているのだが、それを歩行と認めるかどうかという問題だからだ。ゼノンの逆理に対してディオゲネスは「立って歩けば解決できる」と言ったが、それでもなお「歩いているというのは何かの間違いだ」「ほんとうは歩けないはずだ」という反論はありうるだろう。つまり、詩の訳はできているし、あるのだが、それでもなお「それは原詩とはちがう」「ほんとうは詩の訳はできない」ということはできる。

私は、多くのものが他のもので代表象〔ルプラザンテ〕できる程度には詩の翻訳は可能であると考える。それだけでなく、もっと強く、原文を味到できる人も、その人の母語が別の言語であるならばその人の母語によって訳詩を読むことにかけがえのない意義があると考える。

その詩を母語としない外国語学の専門家が原文を母語のように味到できるという可能性は絶無ではないが、言語の生理学からは非常に至難の技である。ましてや詩である。

人間は胎内で母からその言語のリズムを体に刻みつけ、その上に一歳までの間に喃語を呟きながらその言語の音素とその組み合わせの刻印を受け取り、その言語の単語によって世界を分節化し、最後のおおよそ二歳半から三歳にかけての「言語爆発」によって一挙に「成人文法性adult grammaticality」を獲得する。これが言語発達の初期に起こることである。これは成人になってからでは絶対に習得して身につけることができない能力であると決っているわけではないけれども、なまなかの語学の専門家養成過程ぐらいで身につくものではないからである。


それを疑う人は、あなたが男性ならば女性性器を指す語をあなたの方言でそっと呟いてみられよ。周囲に聴く者がいなくても、あなたの体はよじれて身も世もあらぬ思いをされるであろう。ところが、三文字に身をよじる関西人も関東の四文字語ならまあ冷静に口にすることができる。英語、フランス語ならばなおさらである。これは母語が肉体化しているということだ。

いかに原文に通じている人も、全身を戦慄させるほどにはその言語によって総身が「濡れて」いると私は思わない。よい訳とは単なる注釈の一つの形ではない。母語による戦慄をあなたの中に蘇えらせるものである。「かけがえのない価値」とはそういうことである。

この戦慄は、訳者の戦慄と同じでなくてもよい。むしろ多少の違和感があることこそあなたの中にそういう戦慄を蘇えらせる契機となる。実際、訳詩家は翻訳によって初めて原詩の戦慄を翻訳に着手する以前よりも遥かに深く味わうものである。そうでなければ、経済的に報われることが散文翻訳に比してもさらに少ない詩の翻訳を誰が手掛けるだろうか。

翻訳以前の原詩は、いかに精密であり美しくてもアルプスの地図に過ぎない。翻訳は登頂である。ただに頂上を極めることだけではなく、それが極められなくとも、道々の風景を実際に体験する。翻訳を読むことは、あなたが原文を味到することが十分できる方〔かた〕であって、その翻訳にあきたりないところがあっても、登頂の疑似体験にはなる。愛するすべての外国語詩を原語で読むことは誰にもできない相談であるから、訳詩を読むことは、その言語に生まれついていない人には必ず独立の価値があって、それをとおして、原詩を味わうのに貢献すると私は思う。(中井久夫「訳詩の生理学」ーー「女の味」)





2014年2月24日月曜日

「いま殴らないと、これからは一生お前らにこき使われるのだからな」(中井久夫)

以下の文「「疎開体験」に寄せてーー佐竹調査官への手紙から」(中井久夫)は、《戦時中にいじめを受けた自己体験を記された佐竹洋人調査官の記事を贈られたので、それへの私の返事の一部が私の承諾を経てある家庭裁判所の所内報に掲載されたものである》、と注記されている。

私は、疎開学童ではありませんが、伊丹の西郊にいて、私の家を含むごく一部が農村部の学区にはいったため、一年生の昭和十五年から、佐竹先生と同じ苦労をいたしました。疎開学童が来る前、いじめの対象は、メリヤス工場の工員の子とか、用務員の子とか、町工場の子とか、つまり農村社会にしっくりはまっていない家の子に対しては、今と同じく限度がありませんでしたが、農民同士には、見えない序列とルールがあるようでした。国内で差別されている集団と(旧)植民地から移住してきた集団の子は、ふだんは共存していたのですが、時には死闘を演じました。

戦争が進みますと、ここから疎開する人、ここへ疎開する子と両方があり、また工場が来て、たくさんの工員の子が転入してきて、むしろ、私は仲間が出来ました。そのきりかわり点は小学三年で、小学生のバランス・オブ・パワーが一変しました。

あの年齢は、トム・ソーヤー、ハックルベリィ・フィンというギャング・エイジでもあります。しかし、私がかいまみたものは、日本の農村の暗い世界でもありました。

中学へ進むかどうかが、階級の分かれ目を証するものでありました。それははっきりしていました。六年の修了式のあとは、中学へ行く者は、高等科へ行く者に殴られるのですが、この時のせりふが「いま殴らないと、これからは一生お前らにこき使われるのだからな」でありました。十二歳の子に、この自覚がたしかにあったのです。実際、その五年ぐらいあと、いじめっ子(上級生)に道で会いましたが、卑屈な態度で、当惑したものです。

六つのクラスの級長は、市長の息子、女教師の息子、小作人の息子、小農の息子、極貧層の子、そして小生でありましたが(副級長が女の子)、市長の息子は京大を出て、三十歳ぐらいで工学部の教授になりました。あとは、女教師の息子は結核で高校生の時に死に、小農の息子は高卒で工員となりましたが、小作人の息子は、進学を反対され、皆が中学に進む日に首をつりました。極貧層の子は、とても優秀でしたが、都市のガード下の靴みがきとなり、二四の時、郊外電鉄の駅前で靴屋をひらき、私の靴をつくってくれました。クラス会はまったく行われていません。

当時は田圃に囲まれた小学校でしたが、今はすぐそばに市役所が越してきて、市の中心になりました。小作人の息子は、もう少しおそく生まれていたら、土地成金にあんっていたはずです。なんということでしょう……。(「事例研究便り」第二十二号、一九九二年)

昨晩読んで、「いま殴らないと、これからは一生お前らにこき使われるのだからな」という発話文が頭から離れない。ひょっとして今の一部の若いひとたちのなかの攻撃欲動の発顕の猖獗、――それは排外主義でもいい、インターネット上での「ルサンチマン」などでもいいーーその裏には似たような憤りがあるのではないか。

彼らの憤りの対象は誰でもいいということはないのか。かつてナチス時代に、ドイツ経済の行き詰まり、解決策の無さを隠蔽するために浮遊するシニファン「ユダヤ人」が選ばれたように。(《From the rich bankers, it took financial speculation, from capitalists, it took exploitation, from lawyers, it took legal trickery, from corrupt journalists, it took media manipulation, from the poor, it took indifference towards hygiene, from sexual libertines it took promiscuity, and from the Jews it took the name.》(ジジェク

年金、健康保険、生活保護、非正規労働など、すなわち少子化と超高齢化社会による日本におけるいきづまりは、誰もがーー仮にそれとなしにしろーー気づいているはずだ。唯一の公式な意見の表明の機会である選挙におては、高齢者の圧倒的な人口比率によって、現状維持に近い施策の候補者・政党が選ばれてしまう。

人々が自由なのは、たんに政治的選挙において「代表するもの」を選ぶことだけである。そして、実際は、普通選挙とは、国家機構(軍・官僚)がすでに決定していることに「公共的合意」を与えるための手の込んだ儀式でしかない。(柄谷行人『トランスクリティーク』
もっともときには「奇跡」が起こることもあるだろう(2008年の総選挙のように?)。


斎藤環が日本人の「ヤンキー化」、「反知性主義」などと現状分析している具体的な内容は知らない身だが、生半可な「知性」では対抗できないことが分かっているので、やけくそになっているということがあるのではないか。もっとも、この手のことは識者によってあの手この手で指摘されているのだろう。たとえば、「「社会をリセットしたい」という不穏な願望?」(上野千鶴子)などもそのたぐいだ。

実際、「知性」あふれるはずのインテリ諸子のほとんどが、インターネット上で発言しているのをみても、その場かぎりの彌縫策の表明をしているのみだ。教育費の削減は将来に禍根を残すだって? 大学教育の合理化は「教養」の終わりだって? 生活保護費の削減や非正規労働の席巻は、うつ病の蔓延を齎すだって? それぞれごもっとも。だがそれはもぐら叩きのようなもので、どれかの穴の頭が出るのを抑えれば、別の穴の傷口がより大きく拡がる。結局、すべて、少子化、超高齢社会による財政崩壊にかかわる。

もっとも一般のひとたちの、排外主義や反知性主義による群れ化とその攻撃性の発露は、これは日本だけの現象ではなく、インターネットというツールによってより安易に現れるようになったということはあるだろう。そしてその大きな誘因とは、やはりここでもジジェクの指摘を挙げるなら、二十一世紀にはいって、ベルリンの壁ならぬ新しい壁がいたるところに築かれつつあるということに相違ないーー、新しい形態のアパルトヘイト=新しい〈壁〉とスラム》(ジジェク『はじめは悲劇として、二度めは笑劇として』)

…………

《ただおもしろいのは、二十年、三十年前の人間の群れ方というのは、職場とか、血縁とか、そういうかたりでしかあり得なかった。そういうものが主だったと思うんですが、そうでないものが芽を出してきたということなんですね。》(中井久夫)


以下はここでの論旨とはいささか別の文脈で書かれている文なのだが、示唆あふれる文なので、抜き出しておく。

臨床のほうに話を移してしまうと、一つの群れというのは、一次的な家族とか友人とか職場の人です。職場の人でも本当に親しい人の十人前後の集団があって、それから、背景としてのその他大勢という人たちがいる。そして、その中間の人たち、クラスメートとか職場の同僚とかいうのが、人間にとっていちばん処理しにくいものらしくて、少なくとも、日本人では、対人恐怖がいちばん発生するのは、この中間の人たちに対してです。(……)

中間的な距離のものは、人間は非常に扱いにくいらしいです。日本人だけではなく、スイスの学者も、中間の人間が扱いにくいという話をしています。
こんな実験があります。ネズミでも、一つの檻の中に入れてうまくやっていけるのが、七、八匹ぐらいでしょうか。それから三十数匹までは(要するに中間的関係になると)ネズミはやせてくるらしいです。

数が多いために個体としても対応できないし、集団としても対応できない。で、三十何匹以上になると、今度はまたネズミが太りだすんだそうです。もう集団一本槍の対処の仕方になって安定するのでしょうね。生物共通の問題なのかもしれない。

これは、パーキンソンの法則で、会議というのは、七人ぐらいがよく、十人を超えると形式に流れて、実質的にはそのなかに生まれる小集団に決定権が移るんだという話にもつながるし、記憶心理学では有名な仕事があって、人間はそもそも七つプラスマイナス二以上の概念のかたまりを処理することができないんだといいますから、ものを分類するとかいうのも、外界がそんなふうにできているというよりも、人間の頭のつごうによってものを分けたり、見たりしているんだという話と、つながるでしょうね。

(……)

よく日本人の集団精神というけれども、日本人が集団性を発揮して仕事をするのは、だいたい数人でなんです。一人一人の日本人というのは大したことがない。それから、ものすごく大量の集団の日本人というのも、怖いことは怖いけれども、創造的といえるかどうかわからない。ところが、数人の気の合った人間が、行動すると、これはすごいパワーを発揮するんです。

(……)

私は、群れというものを、ほとんど風景のように考えてきたし、実際、都市というのは一種の森で、狩猟民族的なものに回帰しているんだということを、たしか柳宋悦先生だったかが入っておられたと思うんです。都市を森と感じたのは、デカルトが初めてだし、カヴァフィスなんかは、森の中にいたのか、森の腐葉土の中でゴソゴソしていたのかわかりませんけれども……。

(……)

それから、最近のパソコン通信みたいなものはどんなんでしょう。集団そのものを相手にすると大変だから、そのなかで、腐葉土の中をゴソゴソ歩いている生物どうしが、それこそ道をつけ合う。そのようなものなんでしょうね。

ただおもしろいのは、二十年、三十年前の人間の群れ方というのは、職場とか、血縁とか、そういうかたりでしかあり得なかった。そういうものが主だったと思うんですが、そうでないものが芽を出してきたということなんですね。(中井久夫「微視的群れ論」1992『精神科医がものを書くとき』〔Ⅰ〕所収 広栄社)




2014年2月23日日曜日

ピカソの女たち 加藤周一





若い画家は、教師を見習うことから始める。すでに完成された様式のいくつかを次々に試みながら、自分自身の世界を見出そうとする。多くの場合には、そういう時期が生涯にわたり、画家は遂に自分自身を見出さないだろう。しかし彼が天才ならば、あるとき、自分自身の様式、その独特の空間と色彩、個性的な手法と共に彼自身の絵画的世界を発見するだろう。オランダの油絵の伝統的な様式で静物画を描き、印象派の手法で風景を描いていた青年画家が、アルルの町である朝眼をさますと、ファン・ゴッホになる。

一度自己の世界を発見した画家は、二度とその世界から離れることがない。その世界は深まり、その手法は発展する。しかし一つの様式から、根本的に異る他の様式へ移ることはなく、殊に二つの様式を併用することはない。その世界は汲めども尽きず、その様式を通して表現し得ることにはかぎりがないだろうからである。たとえばデュフィは、青い海と空、椰子の樹と露台の花を、ルオーは、道化師の顔と月夜の道を行く人物を、生涯描きつづけてやまなかった。逆に、生涯多くの様式を用いつづけた画家は、デュフィやルオーと同じ意味での一流の芸術家ではなかった。

例外はピカソである。周知のように、ピカソの様式は時期によって異る。また同じ時期にも多くの様式が併存する。しかもその各々が、独立した絵画的世界を作り、一流の画家が生涯をかけて到達した仕事に匹敵していた。たとえば「青の時代」の老婆の肖像や自画像は、今世紀の絵画の最高の作品にちがいない。同じことは、立体主義の時代の静物画についてもいえるし、「アヴィニヨンの娘たち」に代表される時期の裸女の絵についてもいえるだろう。ピカソは自己の様式を探していたのではなく、多くの自己の様式を発見したのである。彼だけは、芸術家としての、複数の生涯を生きた。

しかし表現様式の多様性は、必ずしも題材の多様性を意味しない。ピカソは、生涯を通じて、ほとんど常に、人体を、殊に女の身体を、また殊に「モデル」として特定の女の姿態を、描きつづけた。ピカソこそは、あらゆる意味で、女を愛し、女を描いた芸術家である。

一九五三年の夏にペルビニヤンで出会ったというジャクリーヌ・ロークの肖像画の連作を、翌年七月パリの個展で私は見た。その連作は、写実的な具象画から始めて、抽象化の度合を異にする同じ「モデル」の肖像が、遂に女一般となり、さらに抽象化を進めて、もはや、それが女であることさえ判じ難い「もの」と化するまでの過程を、一望の下に明示していた。しかし、それは抽象化の過程の説明ではなかった。そうではなくて、それぞれの段階における画面の、それとして独立した堅固な世界の展示であった。その一つが「花とジャクリーヌ」(1954年6月)である。青と赤の背景、そこに散らした白い薔薇、太く黒い線で浮きあがらせた若い女。その女の顔の表情は、通った鼻すじと結んだ口もとに、険しくはないが断乎として意思を示し、大きな眼の輝きに、優しくはないが微妙な感情の動きを示す。けだし絵のなかの女の表情のこれ以上に美しい例は、少ないだろう。……(加藤周一『ピカソの女たち」)







◆ジャクリーヌ・ロック(ローク)Jacqueline Roque






1985年に出版された『絵のなかの女たち』(南想社)からの文だが、もともと「マダム」(鎌倉書房)に連載されていたもの(1982.1~1983.12)らしい。ここにもいつものとおり加藤周一の歯切れのよい爽快な文体がある。もし加藤周一のスタイルの欠陥があるとするならば明晰にすぎるということだろう。複雑なことを割り切って書きすぎる、文芸や政治はもっと多くのものが絡み合っているのだ、との批判はありうる。たとえば次のデリダの文の「宗教」の語に「芸術」や「政治」を代入してみよう。

いかに「宗教を語る」か? 宗教について? 今日、とりわけ単数定冠詞つきの宗教について? この日、いかに恐れやおののきなしに、あえて単数で語るか? これほど短い時間に、これほど性急に? いったい誰が、問題は特定できると同時に新しくもある主題だと、恥ずかしげもなく言いはるだろう? いったい誰が、図々しくも宗教に何らかの警句をあてはめるだろう? そのために必要な勇気と尊大さと冷静さを手に入れるには、一瞬、捨象〔=抽象〕を、すべての捨象、あるいはほとんどすべての捨象、あるいはある程度の捨象を行ったふりをしなければならないだろう。最も具体的で近づきやすい捨象を、しかし同様に捨象のなかで最も不毛な捨象を、担保にしなければならないだろう。

捨象によって自らを救う〔=逃げる〕べきか、あるいは捨象から逃げる〔=自らを救う〕べきか?(ジャック・デリダ『信仰と知』松葉祥一・榊原達哉訳)

われわれは二十世紀後半のこういうスタイルを知ってしまっている。だがときに加藤周一の怜悧な断言調はすこぶる快い。小倉朗はかつて、《その結実としての文体は、すぐれた数学者のつくる数式のような美しさがある。》(小倉朗「加藤周一」)と語った。

これらの文は『日本美術文化序説』の序説のようなものだと「あとがき」で書かれている。すなわち、加藤周一の代表作といってよい『日本文学史序説』に続く序説の試みだったということになるが、それは実現されなかった。


何が絵の質を決めるのだろうか。それは客観的には決まらない。それは各人が古典との長いつき合いを通じて、次第に養ってきた絵画に対する一種の態度を唯一の拠りどころとして、みずから決めてゆくほかないものだろう。その態度は、人によってちがう。すなわち当人の個人的な面とも係わる。しかし全く恣意的に人によってちがうのではなく、全く個人的な面のみに係わるのではない。なぜなら個人を超える古典の総体が、それぞれの個人の感受性を特定の方向へ、いわば導くように作用するからである。その結果、ある時代のある文化のなかでは、古典とのながいつき合いを通ってきた個人の間に、芸術に対する態度の共通の枠組が成立する。その枠組こそは、芸術的趣味または価値の体系の「時代性」を示すだろう。個人の態度は、その枠組のなかで、それぞれちがいながら、同じ時代の特性を帯びるのである。

しかし評価することなしに創作することはできない。みずから絵を描くためには、みずから絵を評価しなければならない。画家が古典を必要とするのは、古典を模倣するためではなく、絵画を定義するためである。時代が急激に変わり、何を古典とするのか標準も急に変わってゆくときに、―――したがって絵画の定義そのものが不安定化するときに、仕事を完成しようとする画家には、何ができるだろうか。彼らは、彼ら自身の時代を無視してでも、前の時代から受けとった古典の全体とのつき合いを維持するほかない。それこそは、たとえばジョルジュ・ルオーの、あるいは富岡鉄斎の、創造的時代錯誤にほかならないだろう。(『絵のなかの女たち』「まえがき」)





ただいかんせん書名に『絵のなかの女たち』とあるように、絵画以外のこと(女たちのことなど)が主に書かれているという感は否めない。《私はしばしば「絵」から逸脱して、空想を「女」の方へ伸ばしたり、また「絵」にたち戻って画面にとどまったりした。またさらに、その画面を作った芸術家の方へ話しをつなげて(……)考えたりした。(……)そこから何が浮んでくるのだろうか。要するに、私の「絵」に対する、または「女」に対する愛着ということになるのかもしれない、私が愛した、あるいは愛したでもあろう女たちの。》


……私にとっては、或る人間について重要に思われることは彼の生涯における偶発的な諸事件ではなく、彼の生れとか、彼の恋愛事件とか、種々の不幸とか、その他、彼について実地に観察することができる事実の殆どすべては、私には何の役にも立たない。すなわちそれらの事実は、或る人間にその真価を与え、彼と彼以外のあらゆる人間との、また彼と私との決定的な相違を生ぜしめている事柄について、私に何事をも教えてはくれない。

そして私としてもしばしば、この種類の、我々の認識を実質的には少しも深めはしない生活上の消息について、相当な好奇心を抱くことがあるのだが、私の興味を惹く事柄が必ずしも私にとって重要なものであるとは限らないのであって、これは私だけでなく、だれの場合にしても同じことが言える。要するに、我々は、我々を面白がらせることに対して常に警戒していなければならない。(ヴァレリー『ドガ・ダンス・デッサン』 吉田健一訳)


もっともこの書の「まえがき」にある文は、再三引用しているが加藤周一が書いた最も蠱惑的な文のひとつであると、わたくしは思う。

人は忘れ得ぬ女たちに、偶然の機会に、出会う、都会で、旅先の寒村で、舞台の上で、劇場の廊下で、何かの仕事の係わりで。そのまま二度と会わぬこともあり、そのときから長いつき合いが始まって、それが終ることもあり、終らずにつづいてゆくとこもある。しかし忘れ得ないのは、あるときの、ある女の、ある表情・姿態・言葉である。それを再び見出すことはできない。

再び見出すことができるのは、絵のなかの女たちである。絵のなかでも、街のなかでと同じように、人は偶然に女たちに出会う。しかし絵のなかでは、外部で流れ去る時間が停まっている。一〇年前に出会った女の姿態は、今もそのまま変わらない、同じ町の、同じ美術館の、同じ部屋の壁の、同じ絵のなかで。

私はここで、想い出すままに、私が絵のなかで出会った女たちについて、語ろうとした。その眼や指先、その髪や胸や腰、その衣裳や姿勢……その一瞬の表情には、――それは歓びに輝いていたり、不安に怯えていたり、断乎として決意にみちていたり、悲しみにうちひしがれていたりするのだが、――私の知らない女の過去のすべてが凝縮され、当人にさえもわからない未来が影を落としている。

私は場面を解釈し、環境を想像し、時代を考え、私が今までに知っていたことの幾分かをそこに見出し、今まで知らなかった何かをそこに発見する。現実の女が、必ず他の女たちに似ていて、しかも決して他のどんな女たちとも同じでないように。(加藤周一『絵のなかの女たち』「まえがき」)


フロイトがいうように《「美」という概念が性的な興奮という土地に根をおろしているものであり、本来性的に刺激するもの(「魅力」die Reize)を意味している》(女神の舌)のであるならば、男は女のことをめぐってばかり書いてなにが悪いというのだろう。いやそう書けばすぐさま、美の形式性を強調する岡崎乾二郎やボードレールの言葉が浮んでこないわけではないが。

「軽薄にソネットを扱いそこにピタゴラス的な美をみないのは馬鹿げている」(ボードレール)。ピタゴラス的な美とは、”現実”や”意味”と無関係に形式的な項の関係のみで成り立つものである。(柄谷行人『隠喩としての建築』)
だからぼくの立場はやはり形式主義ということになります。そんな得体の知れないものが対象としてあるように見えて、実際は掴むこともできないのはわかっている。よってそれを捉まえるよりも、具体的に手にすることのできる道具や手段でそれ---その現象を産みだすにはどうすればよいのか、そういうレヴェルでしか技術は展開しない。(岡崎乾二郎

すくなくとも創作者はそうでなくてはならないだろう。だが鑑賞者は?

プルーストの音楽への態度は次のようであった(カペー四重奏とプルースト)。


・音楽が「有益な夢想」を与えてくれさえすれば、詩人の賞賛する音楽の客観的クオリティは問題ではない

・粗悪な音楽を嫌悪したまえ、しかし侮ることなかれ。いい音楽以上にうまく演奏したり歌つたりすれば、音楽は徐々に夢と人の涙で満たされる。粗悪な音楽には芸術の歴史に居場所はないが、社会の情緒の歴史において、その地位は絶大なのだ。

だがここでジャン・ジュネ=ジャコメッティの至高の文をも忘れないでおこう。


美には傷以外の起源はない。どんな人もおのれのうちに保持し保存している傷、独異な、人によって異なる、隠れた、あるいは眼に見える傷、その人が世界を離れたくなったとき、短い、だが深い孤独にふけるためそこへと退却するあの傷以外には。(ジャン・ジュネ『アルベルト・ジャコメッティのアトリエ』宮川淳訳)

わたくしはこの文を、《エロスは死をめざしタナトスは生をめざす》(Paul Verhaeghe)となんとか重ねあわせてみたい誘惑に駆られる。あるいはロラン・バルトのプンクトゥムと。

プンクトゥムとは、刺し傷、小さな穴、小さな斑点、小さな裂け目のことであり――しかもまた骰子の一振りのことでもあるからだ。ある写真のプンクトゥムとは、その写真のうちにあって、私を突き刺す(ばかりか、私にあざをつけ、私の胸をしめつける)偶然なのである。(『明るい部屋』)

プンクトゥムはラカン用語の享楽に限りなく近い。そして、S・シュナイダーマンの『ラカンの《死》』によれば、ラカンは精神分析理論の中心軸を、フロイトの「性」から、「死」へとずらしたい願望を密かに抱いていたとのこと。

なんらかの事情があって(シュナイダーマン曰く、トラブルを回避すべく)、「死」ではなく「享楽jouissance」にすり替えるという妥協の道を選んだと。こうして性→享楽→死→エロス、そしてエロス=性の円環をこじつけたい誘惑に駆られる。だがいまはその場ではない。






さてごく標準的な「女」をめぐる好みの文章に戻って、プルーストの『失われた時をもとめて』から抜き出そう。
若い娘たちの若い人妻たちの、みんなそれぞれにちがった顔、それらがわれわれにますます魅力を増し、もう一度めぐりあいたいという狂おしい欲望をつのらせるのは、それらが最後のどたん場でするりと身をかわしたからでしかない、といった場合が、われわれの回想のなかに、さらにはわれわれの忘却のなかに、いかに多いことだろう。(プルースト「ゲルマントのほう 二」井上究一郎訳)
……それどころか、じつをいうと私が、さっきのようにアルベルチーヌをながめながら、絶妙の古色を帯びたこんな奏楽天使像を自分は占有しているのだと得意になりかけたとき、彼女は早くも私にとって興味のない女になっているのであった。やがて私は彼女のそばにいることがやりきれなくなってくるのだ、しかしそういった瞬間も長つづきしたためしはなかった。人が何かを愛するのは、その何かのなかに近よれないものを人が追求しているときでしかない、人が愛するのは人が占有していないものだけである、だからすぐに私も、自分がアルベルチーヌを占有していないことにふたたび気づきはじめるのだった。彼女の目のなかに私は読みとるのだ、私には予想もつかないよろこびが、あるときは希望になり、あるときは思出もしくは追懐となって、ちらちらと通りすぎてゆくのを。(「囚われの女」)






ふたたび、加藤周一の別の書から次のような文を抜き出すこともできる。
私はながく彼女を愛していると持っていたが、ひとりの女にほんとうに夢中になったときに、彼女と私の間の関係がそれとちがうものであったことに気づいた(……)。相手の責任のない不幸を、私が相手の生活のなかにつくり出す、ということを承知の上で、私が行動するーー行動せざるをえない、というときに、その当の相手と話すことのあるはずがない。私は喋り、喋ることの無意味さを感じ、疲れきった。私は放心状態で彼女に別れ、二度と会うまいと考えた。もはや相手のことを考えつづける気力もなかった。それは完全に自己中心的な状態である。しかしそういう状態が成立すると同時に、私はそういう自分自身を第三者のように眺めていた。この「自己」とは何だろうか。一人の女から去って、別のもう一人の女へ向う人間の内容は何であろうか。その二人の女との関係を除けば、私のなかには何も残らず、ただ空虚だけが拡がっているように思われた。(加藤周一『続 羊の歌』)



あるいはまた、『絵のなかの女たち』に戻れば。

理解するとは、分類することである。一人の女が他の女に似ている点に注目する(「スイもアマイもかみわけた」見方は、そうでなければ、成立しないだろう)。あるいは、一人の男がもう一人の男に似ている点に(「男はみんなこういうものだ」)。しかし愛するとは、分類を拒むことである。その女を愛するのは、他の誰にも似ていないから、つまりかけ替えがないからである(「オレとオマエの仲だもの……」)。故に理解の内容は、社会的であって―――社会的でない理解はそもそも成立しない―――、愛の内容は、本来非社会的であり、純粋に私的であり、余人に伝え難い。

しかし恋人たちの感情もゆれ動くだろう。ある時の感情が、次の瞬間に、どう変わってゆくのか、たしかな保証はない。相手の心理を忖度しても然り、自分自身の気分を省みてもなおかつ然り。みずからそこにたしかな持続をもとめ、拠りどころを築き、全く衝動的ではない一聯の行動の動機をそこから抽きだすためには、それが「愛」であるとか「恋」であるとかみずからいうほかない。しかるに「愛」にしても「恋」にしても、何かを名づけ、何かをいうためには、言葉を用いざるをえない。しかるに言葉は決して純粋に私的ではなく、社会的なものである。いうことは、社会化することであり、余人を私的空間に引き込むことである。どうすれば余人に伝え難いことを余人に伝えることができるだろうか。

別の言葉でいえば、非社会的なものの社会化は、いかにして可能であろうか。個別的対象の個別性=かけ替えのなさを、切り捨てて分類するのではなく、それを特殊な時と特殊な場所のなかに固定したまま、安定化し、明確化し、その時と場所を越えての意識に対し―――それが自分自身の意識であろうと、第三者の意識であろうと―――、到達可能なものにするためには、どういう手段を用いることができるだろうか。その手段は芸術的表現である。〔『絵のなかの女たち』「まえがき」)






…………


レナード・バーンスタインは『音楽のよろこび』(1954)のなかで次のように書いている。

彼は、音楽における意味を四種のレベル、すなわち①物語的=文学的意味 ②雰囲気=絵画的意味 ③情緒反応的意味 ④純粋に音楽的な意味 に分類したうえで、 ④だけが音楽的な分析を行うに値すると述べる。

さらに「音楽を説明すべきものは音楽そのものであって、その周囲に寄生虫のように生じた、音楽以外のもろもろの観念ではない」と。


たとえば画家古谷利裕氏が十年以上前に書いた「ピエール・ボナールを巡って(ピカソ/マティス)」を読んでみると、ここには確かに「純粋に絵画的な」ことが書かれている。

最初の印象はピカソの作品は圧倒的だ。だが《じっと見ている「時間」によって、視覚に様々な不純なものがじわじわ侵入して、感覚が解けて》ゆくという眩暈を起こさせる経験を促すものは比較的少ない。

他方、マティスは《「解けた時間」のなかで対象との安定した距離を失い、それによってほとんど距離零で色彩や絵具の質感を官能的な震えとともにまさぐるように触知する資質(痴呆的な資質)に恵まれた》とされている。《しかしそこに強引に批評的な距離(絵画の形式性、あるいは媒介性)を導入せずにはいられない》と。この二重性の指摘は、マティスという画家のピカソとは異なる魅力を言い当てている。

もっとも絵画については、ごくシロウトの鑑賞者として、ピカソのある時期の作品(オルガやマリ・ヴァルテルからドラ・マール時代)を好んでいたが、マティスの魅力というものに齢を重なるごとに傾いてゆくということはある。

しかしながら、若い頃、ブリヂストン美術館で最初に出あったピカソの小さな作品《生木と枯木のある風景》の白い雲と樹は、いまでも、ある風景にめぐり合ったとき、ああピカソの空、ピカソの樹幹や枝! と感じることから逃れられない。




こんにちならよい趣味の人たりはわれわれに向ってこういう、――ルノワールは十八世紀の大画家である、と。しかし、そういうことを口にするとき、彼らは忘れているのだ、時を。すなわちルノワールが大芸術家としての待遇を受けるには十九世紀のただなかにあってさえ多くの時を必要としたことを。そのようにして世に認められることに成功するには、独創的な画家にしても、独創的な芸術家にしても、いずれも眼科医のような方法をとる。そんな画家とか芸術家とかが、絵や散文の形でおこなう処置は、かならずしも快いものではない。処置がおわり、眼帯をとった医師はわれわれにいう、ーーさあ、見てごらん。するとたちまち世界は(世界は一度にかぎり創造されたわけではない、独創的な芸術家が出現した回数とおなじだけ創造されたのだ)、われわれの目に、古い世界とはまるでちがって見える、しかも完全にはっきり見える。女たちが街のなかを通る、以前の女たちとはちがう、つまりそれはルノワールの女たちというわけだ。われわれがかつて女だと見るのを拒んだあのルノワールの女たちというわけなのだ。馬車もまたルノワールである、そして水も、そして空も。はじめて見た日どうしても森とは思えず、たとえば無数の色あいをもっているがまさしく森に固有の色あいに欠けているタペストリーのようだった、そんな森に似た森のなかを、われわれは散歩したくなってくる。そのようなものが、創造されたばかりの、新しい、そしてやがて滅びるべき宇宙なのである。その宇宙は、さらに独創的な新しい画家や作家がひきおこすであろうつぎの地質的大変動のときまでつづくだろう。(プルースト「ゲルマントのほう Ⅱ」井上究一郎訳)



◆ドラ・マール Dora Maar







◆オルガ  Olga Konkova






◆マリ・テレーズ・ヴァルテル Marie-Thérèse Walter



◆リー・ミラー Lee Miller



◆フランソワーズ・ジローFrqncoise Gilot




◆エレーヌ・パルムランHelene Parmelin




 シルヴェット・ダヴィッド Sylvette David





※画像は、すべてhttp://www.all-art.org/contents.htmlより