前投稿(「プラトンとフロイトの野生の馬」)に引き続き、プラトン『国家』をめぐる資料。
◆アランのプラトンの『国家』について
プラトンは自己抑制について、素晴らしいことを言ひ、内面の統制は貴族的でなければならないことを示してゐる。つまり、優れたものが劣るものを統治するのだ。「優れたもの」で彼がさしたのは、私達の一人ひとりが内に持つ、知り、理解する力である。私達の内にある民衆、それは怒りであり、欲望であり、欲求だ。私はプラトンの『国家』を読んで欲しいと思ふ。それについておしやべりをするため、つまり、普通に言はれてゐるところを再確認するためではなく、自らを統治する術を学び、自らの内に正義を打ち立てるために。
彼の主な考へは、かういふものだ。人が自らをうまく統治できれば、さうしようと考へなくても、他人のためにも善き人、役に立つ人になる。これは全ての倫理の理念だ。それ以外は、野蛮人の取締りに過ぎない。諸君が恐怖といふ手段だけで、人々が争ひを避け互ひに助け合ふやうにすれば、確かに国の中にある種の秩序を築いたことになる。しかし、一人ひとりの内側は、単なる無政府状態だ。暴君に他の暴君が取つて代はる。恐怖が物欲しさを牢に入れてゐる。内側ではあらゆる悪が泡立つてゐる。外側の秩序は不安定だ。暴動、戦争、地震が来ると、牢から囚人達が吐き出されるやうに、私達の内でも牢が開かれ、怪物のやうな欲望が街を占領する。
だから、私は、計算や用心深さに基礎を置く倫理の教へは、凡庸だと判断してゐる。それ以上は言はないが。愛されたいと思へば、優しくしろ。お返しをして貰へるやうに、同胞を愛せ。子供に尊敬されたかつたら、親を敬へ。これは街頭警備に過ぎない。誰もが常に良い機会を、不正を犯しても罰せられない機会を待つてゐる。
私は、若いライオンの仔らが、倫理の教科書や教理問答集、全ての慣習や格子で爪を研ぎ始めたら、すぐに、別のやり方で語るだらう。彼らに、かう言ふだらう。何も恐れるな。自分が望むところを為せ。金の鎖にせよ、花で飾られた鎖にせよ、どのやうな束縛も受け入れるな。ただ、君たちは、自分自身の王になりたまへ。位を譲るな。欲望を、怒りを、そして恐れを支配する者たれ。羊飼ひが犬を呼び戻すやうに、怒りを呼び戻す訓練をせよ。諸君の欲望に君臨する王たれ。怖ければ、諸君を恐れさせるものに静かに歩み寄れ。諸君が怠惰なら、自らに任務を課せ。無気力なら、体を鍛へよ。我慢が足りないなら、縺れた糸の球を自分に与へよ。煮込みが焦げたら、大いなる食欲で食べるといふ王の贅沢を持て。悲しみに襲はれたら、自分に喜びを布告せよ。眠られず、草の上の鯉のやうに寝返りを打つてゐるなら、動かずにゐて、命令により眠る訓練をしたまへ。さうすれば、諸君は、自分の王になつてゐるのだから、王のやうに振る舞ひたまへ。そして、自らが良いと思ふことを為したまへ。
《君たちは、自分自身の王になりたまへ》とある。この勧告をどうどらえるか。前回みたように、フロイトーラカンの考えでは、われわれは自身の王にはなりえない。ここではあまりややこしいことは書きたくないが、ラカンの言い方では、主体の核には欠如がある。言語化されない欲動(欲望ではなく)の蠢きがある。もし己れの王になることを極限まで言うならば次のような定言命令がある。
汝の生み出した発話行為の内なる死の欲動を、決してしらばくれることなしに汝自身のものんと認めよ。(アレンカ・ジュパンチッチ『リアルの倫理』)
だがいまはその話ではない。
◆小林秀雄「プラトンの「国家」」より
「国家」或は「共和国」とも言われているこの対話篇には、「正義について」という副題がついているが、正義という光は垣間見られているだけで、徹底的に論じられているのは不正だけであるのは、面白い事だ。正義とは、本当のところ何であるかに関して、話相手は、はっきりした言葉をソクラテスから引出したいのだが、遂にうまくいかないのである。どんな高徳な人と言われているものも、恐ろしい、無法の欲望を内に隠し持っている、という事をくれぐれも忘れるな、それは君が、君の理性の眠る夜、見る夢を観察してみればすぐわかる事だ、ソクラテスは、そういう話をくり返すだけだ。
そういう人間が集まって集団となれば、それは一匹の巨大な獣になる。みんな寄ってたかって、これを飼いならそうとするが、獣はちと巨き過ぎて、その望むところを悉く知る事は不可能であり、何処を撫でれば喜ぶか、何処に触れば怒りだすか、そんな事をやってみるに過ぎないのだが、手間をかけてやっているうちには、様々な意見や学説が出来上り、それを知識と言っているが、知識の尺度はこの動物が握っているのは間違いない事であるから、善悪も正不正も、この巨獣の力に奉仕し、屈従する程度によって定まる他はない。何が古風な比喩であろうか。
プラトンは、社会という言葉を使っていないだけで、正義の歴史的社会的相対性という現代に広く普及した考えを語っている。今日ほど巨獣が肥った事もないし、その馴らし方に、人びとが手を焼いている事もない。小さな集団から大国家に至るまで、争ってそれぞれの正義を主張して互いに譲る事が出来ない。真理の尺度は依然として巨獣の手にあるからだ。ただ社会という言葉を思い附いたと言って、どうして巨獣を聖化する必要があろうか。
ソクラテスは、巨獣には、どうしても勝てぬ事をよく知っていた。この徹底した認識が彼の死であったとさえ言ってよい。巨獣の欲望に添う意見は善と呼ばれ、添わぬ意見は悪と呼ばれるが、巨獣の欲望そのものの動きは、ソクラテスに言わせれば正不正とは関係のない「必然」の動きに過ぎず、人間はそんなものに負けてもよいし、勝った人間もありはしない。ただ、彼は、物の動きと精神の動きとを混同し、必然を正義と信じ、教育者面をしたり指導者面をしているソフィスト達を許す事が出来なかったのである。巨獣の比喩は、教育の問題が話題となった時、ソクラテスが持出すのだが、ソクラテスは、大衆の教育だとか、民衆の指導だとかいう美名を全く信じていない。巨獣の欲望の必然の運動は難攻不落であり、民衆の集団的な言動は、事の自然な成行きと同じ性質のものである以上、正義を教える程容易な事があろうか。この種の教育者の仕事は、必ず成功する。彼は、その口実を見抜かれる心配はない、彼の意見は民衆の意見だからだ。
もし、ソクラテスが、プロパガンダという言葉を知っていたら、教育とプロパガンダの混同は、ソフィストにあっては必至のものだと言ったであろう。言うまでもなく、ソクラテスは、この世に本当の意味での教育というものがあるとすれば、自己教育しかない、或はその事に気づかせるあれこれの道しかない事を確信していた。もし彼が今日まで生きていたら、現代のソフィスト達が説教している事、例えばマテリアリズムというものを、弁証法とか何とか的とか言う言葉で改良したらヒューマニズムになるというような詭弁を見逃すわけはない。事実を見定めずにレトリックに頼るソフィストの習慣は、アテナイの昔から変わっていない、と彼は言うだろう。
イデオロギイは空言でも美辞でもない、その基底には、歴史の必然による要請がある、と現代のソフィスト達は、口をそろえて言うだろうが、ソクラテスの炯眼をごまかすわけにはいくまい。嘘をつかない方がよい、基底には、君自身が隠し持っている卑屈な根性がある。君達は自己欺瞞がつづき、君たちのイデオロギイが正義の面を被っていられるのも、敵対するイデオロギイを持った集団が君達の眼前にある間だ。みんな一緒に、同じイデオロギイを持って暮さねばならぬ時が来たら、君達は、極く詰らぬ瑣事から互いに争い出すに決っている。そうなってみて、君達は初めて気がつくだろう。歴史的社会という言葉は、一匹の巨獣という言葉より遥かに曖昧な比喩だという事に気がつくだろう。
社会は一匹の巨獣である、では社会学にはならぬ。そんな事を言って、プラトンを侮るまい。いよいよ統計学に似て来る近代社会学には、統計学の要求に屈して、人間を、計算に便利な人間という単位で代置する誘惑が避け難い。この傾向は、人間について何が新しい発見を語る事なのか、それとも来るべきソフィスト達の為に、己惚れの種を播く事なのか。一応疑ってみた方がよいだろう。
ソクラテスの話相手は、子供ではなかった。経験や知識を積んだ政治家であり、実業家であり軍人であり、等々であった。彼は、彼らの意見や考えが、彼等の気質に密着し、職業の鋳型で鋳られ、社会の制度にぴったりと照応し、まさにその理由から、動かし難いものだ、と見抜いた。彼は、相手を説得しようと試みた事もなければ、侮辱した事もない。ただ、彼は、彼等は考えている人間ではない、と思っているだけだ。彼等自身、そう思いたくないから、決してそう思いはしないが、実は、彼等は外部から強制されて考えさせられているだけだ。巨獣の力のうちに自己を失っている人達だ。自己を失った人間ほど強いものはない。では、そう考えるソクラテスの自己とは何か。
プラトンの描き出したところから推察すれば、それは凡そ考えさせられるという事とは、どうあっても戦うという精神である。プラトンによれば、恐らく、それが、真の人間の刻印である。ソクラテスの姿は、まことに個性的であるが、それは個人主義などという感傷とは縁もゆかりもない。彼の告白は独特だが、文学的浪漫主義とは何の関係もない。彼は、自己を主張しもしなければ、他人を指導しようともしないが、どんな人とも、驚くほど率直に、心を開いて語り合う。すると無智だと思っていた人は、智慧の端緒をつかみ、智者だと思っていた者は、自分を疑い出す。要するに、話相手は、皆、多かれ少かれ不安になる。そういう不安になった連中の一人が、ソクラテスに言う。
「君は、疑いで人の心をしびれさせる電気鰻に似ている」
ソクラテスは答える。
「いかのもそうだ、併し、電気鰻は、自分で自分をしびれさせているから、人をしびれさせる事が出来る、私が、人の心に疑いを起こさせるのは、私の心が様々な疑いで一杯だからだ」と。
(……)
お終いに、ソクラテスが、民主主義政体について語っているところ、これはまことに精妙であって、要約は難しいが(「国家」第八巻)、附記して置こうか。言うまでもなく、この政体の最大の所有物は平等と自由とであるが、この政体に最も適した人間は、自分の内に持つ様々な欲望を平等に自由に解放している人間に相違なく、それ故、又、人間性格の様々な類型を、一人で演ずる事の出来るような人間であり、元気で敏感で、先生は生徒に媚び、老人は青年に順応し、亭主は女房を恐れ、女房は飼犬を尊敬し、というような事は一番苦もない事と言える人間達だ。政治関係にしても、為政者は、圧制者の評判をとるのが一番恐いから、まるで被治者のような治者が尊敬されるだろうし、逆に、自由の名の下に、為政者に反抗する、治者のような被治者が一番人気を集めるだろう。
政治は普通思われているように、思想の関係で成立するものではない。力の関係で成立つ。力が平等に分配されているなら、数の多い大衆が強力である事は知れ切った事だが、大衆は指導者がなければ決して動かない。だが一度、自分の気に入った指導者が見つかれば、いやでも彼を英雄になるまで育て上げるだろう。権力慾は誰の胸にも眠っている。民主主義の政体ほど、タイラントの政治に顛落する危険を孕んでいるものはない。では、何故、指導者がタイラントになるか。この諧謔を交えた仮借ない分析を辿るには全文を要するのだが、プラトンの政治思想の骨組は、はっきり透けて見える。
ソクラテスの定義によれば、指導者とは、自己を売り、正義を買った人間だ。誰が血腥いタイラントになりたいだろう。だから、誰もなるものではない、否応なくならされるのだ、とソクラテスは言う。正義に酔った指導者が、どうして自分のうちに、人間を食う欲望のひそんでいる事を知ろうか。「狼の山」に建てられた神殿にそなえられた生贄の肉の中に、子供の内臓が混じっていたのを知らずに食べたものは、狼になるのが運命だ。彼の運命は劇的でもあり、悲壮でもあるので、よく芝居などにも仕組まれるのさ。
政治の地獄をつぶさに経験したプラトンは、現代知識人の好む政治への関心を軽蔑はしないだろうが、政治への関心とは言葉への関心とは違うと、繰返し繰返し言うであろう。政治とは巨獣を飼いならす術だ。それ以上のものではあり得ない。理想国は空想に過ぎない。巨獣には一かけらの精神もないという明察だけが、有効な飼い方を教える。この点で一歩でも譲れば、食われて了うであろう、と。
小林秀雄の読みはここではアランよりずっとペシミスティックであると言えるだろう。
彼(小林秀雄)の批評の「飛躍的な高さ」は、やはり、ヴァレリー、ベルクソン、アランを読むこと、そしてそれらを異種交配してしまうところにあった。公平にいって、彼の読みは抜群であったばかりでなく、同時代の欧米の批評家に比べても優れているといってよい。今日われわれが小林秀雄の批評の古さをいうとしたら、それなりの覚悟がいる。たとえば、サルトル、カミュ、メルロ=ポンティの三人組にいかれた連中が、いま読むに耐えるテクストを残しているか。あるいは、フーコー、ドゥルーズ、デリダの新三人組を、小林秀雄がかつて読んだほどの水準で読みえているか。なにより、それが作品たりえているか。そう問えば、問題ははっきりするだろう。(柄谷行人「交通について」――中上健次との共著、『小林秀雄をこえて』所収)
《三島由紀夫が生きていたら、彼に読まれるということだけで、書けない小説があったはずだ。三島が死んでしまったら、同世代の作家たちの中に、あいつに読まれたら恥ずかしいという意識がなくなって、歯止めがきかなくなってしまった。小林秀雄が現職のときも、そういうことがあったと思う。》——蓮實重彦
恐らく、《作家であること》! というあの幻想をいだいて青春をすごす若者は、もうひとりもいないのだ。いったい同時代の作家の誰からコピーしようとのぞめばいいのか。誰かの作品をではなく、その仕事ぶり、その姿勢、ポケットに手帳を、頭に文をおさめて世間を歩いてゆくあの流儀を、いったい誰について真似すればいいというのか(そんな風に私はジッドを見ていたものだった、ロシアからコンゴまで歩きまわり、気に入った古典を読み、食堂車のなかで料理を待ちながら手帳に書いている姿を。そんな風なジッドを、私は実際に一九三九年のある日、ブラッスリ・リュテシアの奥まったテーブルで、梨をたべながら本を読んでいる姿を、見たことがある)。なぜなら、幻想が強制するもの、それは日記の中に見いだされるような作家の姿だからである。それは《作家からその作品を差し引いたもの》である。神聖なものの至高な形式、すなわちマークつきの空虚である。(『彼自身によるロラン・バルト』)
◆プラトン『国家』(藤沢令夫訳)より
アデイマントス発言)生まれつき不正を忌み嫌うような性質を神から授かっているか、あるいは知を得て不正から身を遠ざける人の場合は例外として、一般には、みずからすすんで正しい人間であろうとする者など一人もいないのだ、ただ勇気がなかったり、年を取っていたり、その他何らかの弱さをもっていたりするために、不正行為を非難するけれども、それは要するに、不正をはたらくだけの力が自分にないからなのだ(366D)
それではまた放埓であることが昔から非難されているのも、同じような理由によるとは思わないかね。すなわち、そのような状態においては、あのおそろしい、あの巨大で複雑怪奇な獣が、しかるべき限度以上に解放されるからなのではないかね?(……)
また強情や気むずかしさが非難されるのは、それがライオン的な部分や蛇的な部分を不調和に大きく成長させ、緊張させる場合ではあるまいか?(……)
他方、贅沢や柔弱が非難されるのは、まさにその部分をゆるめて弛緩させるためではあるまいかーーその部分の内に臆病さを植えつける場合にね(……)
また、へつらいや卑しさが非難されるのは、同じその部分、気概の部分を、あの荒れ狂って始末におえぬ獣の下に屈従させ、金銭のため、またその獣の飽くことなき欲望のために屈辱に甘んじさせ、ライオンであることをやめて猿となるように、若いときから習慣づける場合ではないだろうか(590B)
プラトンの議論では知恵、勇気、節制が国家の正義をもたらすということになる。
《この国家は、<知恵>があり、<勇気>があり、<節制>をたもち、<正義>をそなえていることになる》(427E)
これは前回しめした、魂の三分説<知を愛する人>、<勝利を愛する人>、<利得を愛する人>、あるいは理(ロゴス)を知る「理性的部分」、怒りや情熱をおぼえる部分「気概的部分」、飢えや金銭欲感じる部分「欲望的部分」のそれぞれが「知恵」「勇気」「節制」に対応し、その三つが相俟って「正義」を生むという議論だが、実際は小林秀雄が指摘するように、不正ばかりが書かれている。あるいは同じ小林秀雄が要約するソクラテスの「民主主義政体」については、当時は奴隷や女性の投票権がない小さな民主主義(いまではエリートだけの民主政とでもいうものだろう)にもかかわらず、衆愚政治やファシズムに陥らざるをえない機微が書かれており、あらためて反デモクラシーの言説として読まざるをえない。それはまたフロイトが『ある幻想の未来』で次のように書いていることをも想起させる。
……指導者は、自分たちの影響力を持ちつづけたいと思うあまり、大衆を自分たちに近づけるよりはむしろ自分たちのほうが大衆に迎合してしまう危険にさらされている。そこで、大衆からの独立を保つためには、指導者たちに権力手段を与えることが必要に思われてくる。これは要するに、文化の諸制度維持のためにはある程度の強制が絶対に必要とされる原因は、人間には自発的に働く意志はなく、また、情熱のとりこになった人間は道理に耳をかそうとはしないという、多くの人間に見られる二つの性質に求められるのである。
以下はふたたびアランだが、ここではプラトンの名は出していないにもかかわらず、明らかに『国家』が下敷きとしてあり、アランは四つの徳を並列的にならべ、最後に知恵=叡知だけが肝要だと説くことになる。この議論はカント的、あるいはフロイト的観点からはそのまま受け容れがたいにしろ、通俗道徳としてはいまでも基本であろう。いま通俗道徳としたが悪い意味ではなく、われわれの生は99パーセント、その道徳によって生きていくことができる。ただそれだけではない、ということが、カントやニーチェ、フロイト、ラカンなどによって言われているのを忘れてはならないということだけだ。
上にプラトンの国家からアデイマントスの発言、《ただ勇気がなかったり、年を取っていたり、その他何らかの弱さをもっていたりするために、不正行為を非難するけれども、それは要するに、不正をはたらくだけの力が自分にないから》と引用したのは、不正ではないが、以下にアランが巧みに書くように’節制の徳がたいして尊敬されず、その理由は人間の器の小ささによると思われがちなことを示すためだ。前記事でしめされた己れの核の享楽(死の欲動)を認めつつのフーコー的な節制であればだれも文句はいうまい。
《節制ということが勇気の妹ということになる。この妹は勇気ほど尊敬されない。なぜか。けだし、節制はつねに拒否へとかたむくもので、それゆえこれは、充分欲しないということからも、あるいは結果をあまりおそれすぎるということからも生じうるものなのだから。だが、そうしたものはすこしも力ではない。すこしも徳ではない。吝嗇家が節制なのは、自分の生活の節約と一種の心のまずしさによってである。》
成熟もしかり。
上にプラトンの国家からアデイマントスの発言、《ただ勇気がなかったり、年を取っていたり、その他何らかの弱さをもっていたりするために、不正行為を非難するけれども、それは要するに、不正をはたらくだけの力が自分にないから》と引用したのは、不正ではないが、以下にアランが巧みに書くように’節制の徳がたいして尊敬されず、その理由は人間の器の小ささによると思われがちなことを示すためだ。前記事でしめされた己れの核の享楽(死の欲動)を認めつつのフーコー的な節制であればだれも文句はいうまい。
《節制ということが勇気の妹ということになる。この妹は勇気ほど尊敬されない。なぜか。けだし、節制はつねに拒否へとかたむくもので、それゆえこれは、充分欲しないということからも、あるいは結果をあまりおそれすぎるということからも生じうるものなのだから。だが、そうしたものはすこしも力ではない。すこしも徳ではない。吝嗇家が節制なのは、自分の生活の節約と一種の心のまずしさによってである。》
成熟もしかり。
《「枯淡」は衰えの美称にすぎず、「老成円熟」は積年の習慣の言い換えにすぎないだろう》(加藤周一「老年について 」1997)
《停滞をとりあえず成熟と呼ぶことで、みんながおのれの貧しさを肯定しあ》う(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』)
プラトンの冒頭近くに印象的な会話がある。
『どうですか、ソポクレス』とその男は言った、『愛欲の楽しみのほうは? あなたはまだ女と交わることができますか?』
ソポクレスは答えた、
『よしたまえ、君。私はそれから逃れ去ったことを、無上の歓びとしているのだ。たとえてみれば、狂暴で猛々しいひとりの暴君の手から、やっと逃れおおせたようなもの』
私はそのとき、このソポクレスの答を名言だと思ったが、いまでもそう思う気持にかわりはない。まったくのところ、老年になると、その種の情念から解放されて、平和と自由がたっぷり与えられることになるからね。さまざまの欲望が緊張をやめて、ひとたびその力をゆるめたときに起るのは、まさしくソポクレスの言ったとおり、非常に数多くの気違いじみた暴君たちの手から、すっかり解放されるということにほかならない。(329D)
ニーチェならひどく嘲弄する言葉だろう、連中の哲学はすべてこのたぐいさ、と。
わたしは君があらゆる悪をなしうることを信ずる。それゆえにわたしは君から善を期待するのだ。
まことに、わたしはしばしばあの虚弱者を笑った。かれらは、自分の手足が弱々しく萎えているので、自分を善良だと思っている。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』「崇高者たち」手塚富雄訳)
さてようやくアランのプロポ「四つの徳」全文を引用することができる。実は前投稿から引き続き、このアランの文章を吟味するために、プラトンやフロイト、ニーチェ、小林秀雄などを引用しているようなところがある。ようするに十代の後半に出逢ったすばらしい文章であるにもかかわらず、齢を重ねて雑念が積み重なった身の者が引用するにはいささかの留保が必要なのだ(そして少年時にひどく愛したアランをなんとか救いたいという心持がある)。
そう、たとえばラカンならこう言う。
「チョークの粉がつくる雲の中で教師然としているアラン」(ラカン「メルロポンティ追悼」)でありつつ、『セミネール一巻』では、それなりに好意的に取り上げていることを抜かさずにおこうーー《アランは、パンテオンについて心に描くイマージュにおいては人はその円柱の数を数えることはできない、と強調しました。それについては私なら、パンテオンを設計した人を除いては、と答えましょう。これだけでもう、私達は現実的なもの、想像的なもの、象徴的なものそれぞれの関係に入り込んでいます。》(「フロイトの技法論」上 P231 岩波書店)
徳ということばは、まずそれ自身おどろくべき曖昧さをふくんでいる。日常のことばづかいにおいてもそうだ。植物の徳とはなにかは、だれでもこれを理解できる。それは植物に附された有効性のことで、これはけっして欺かず、けっして務めをおこたらず、確実にひとがそこに見出しうるものである。徳とは、これをいかように解そうともつねに力であることはかわらない。他方、徳とはつねに断念である。この矛盾は勇気のない精神の持主をなやます。まったく反対に、この矛盾は、語勢のためにすぎないときでも、まさしく人の個々とを刺激し、目ざめさせ、挑発すべきものなのだ。徳とは、たし
かに無力さゆえの断念ではなく、むしろ力ゆえの断念である。もし私が気狂いじみた怒りゆえに勇気があるのなら、それは徳ではない。もし私が卑怯さからして断念するならば、それはすこしも徳ではない。徳とはなにかといえば、自己の自己に対する力である。なんの役にも立たぬのについに罵りかえしてしまって、これを得意におもうものはない。肉屋の店先で、犬がやるのを見かけるように、快楽をまえにしてハアハアあえいで、これを得意におもうものはない。自分のかせぐお金によって自分の意見を規制するのを得意におもうものはだれもいない。自分の主人にへつらうことの好きなものはだれもない。自分の考えるところをいうこと、そして、まずもって自分の考えるところ、いうところを、そのため失敗をまねくかも知れないとおもわれるその状況のなかで、吟味すること、これが徳である。
古人は四つの徳をおしえた。すなわち、彼らは自己把持の四つの敵をみとめていたということだ。もっともおそるべき敵は恐怖である。というのは、恐怖は行動も思想もゆがめてしまうから。それゆえ、勇気こそ徳の第一の面、もっとも尊敬される面となる。もし正義がつねに勇気の相のもとにあらわれるならば、正義はなお大きいものとなろう。ある人に対して勇敢にいどみつつ正義を体することは、自己の自己に対する正義を体することよりもやさしい。それならば、勇気に対するこの熱情はどこから来るのか。おそらく、勇気のあかしということには論議の余地がないからである。問題は危険な行動をおこなうこと、しかも、躊躇によってであれ、軽率によってであれ、けっして挫かれてしまうことなしにそれをやることだ。そうしたものは、顔や手や声でわかる。それゆえにこそ、いかなる人に対しても勇気のあかしを示すことがもとめられていいこと、またこの条件によってしかなにびとも尊敬されないということが、なん世紀にもわたって人びとにみとめられて来たわけだ。こんにち決闘や挑戦はいささか忘れられている。もっとも、すっかり忘れられているわけではない。むしろ、勇気のあかしということは依然として人びとのうえに君臨している。戦いへの招きはこばみがたいものだが、それもこうした理由によるのである。
人間のいま一つの敵、それは快楽だ。かくして、節制ということが勇気の妹ということになる。この妹は勇気ほど尊敬されない。なぜか。けだし、節制はつねに拒否へとかたむくもので、それゆえこれは、充分欲しないということからも、あるいは結果をあまりおそれすぎるということからも生じうるものなのだから。だが、そうしたものはすこしも力ではない。すこしも徳ではない。吝嗇家が節制なのは、自分の生活の節約と一種の心のまずしさによってである。こういうわけで、この節制という徳は、ややもするといかがわしく思われる。自己の自己に対するばあいでもそうだ。というのは、およそ金づかいというもののほうが、いかにも勇気ありげにみえるものなのだから。それゆえに、人はこのヴェールをかむった徳、節制のまえではためらう。
富というものはわれわれをつよくとらえる。われわれはこれを羨望し、かくして奴隷になってしまう。われわれが富をもつとなると、富はさらにいっそうよくわれわれをとらえる。それゆえ、われわれはなにかにつけかせぎたくなる。いいかえれば、より少なくあたえたり、より多く受けとったりしたくなる。そして、この盗みたいという魅力にわれわれが抗しうる徳、あるいは内なる力とは、すなわち正義である。警官や裁判官による強制的な正義ではなく、自由な正義、自己に対する正義、だれもこれについてはなにも知らぬということを前提としての正義である。ところで、この徳は不確実さによってわれわれを疲れさす。というのはわれわれは、自分が四方八方から盗まれているような気がするし、またしばしば自分が、みずから欲せずに、しかも万人にほめられながら、盗人になっているような気がするから。ふつうの人は自分の正義をあかすよりも、その勇気をあかすのにいっそう注意ぶかいと、私がいったのはこのゆえである。このことはつぎの逆説をいくぶん説明してくれる。すなわち、ひとは自分の金よりも自分の命のほうをいっそう無造作にあたえてしまうものだと。
この三つの徳を考察してみると、これらのものが第四番目の徳、すなわち叡知によってもたらされた影のようなものだということに気づく。というのは、問題なのはつねに、欺かれぬことであり、自分の明晰な精神を保持することなのだから。そして、情念の第一の作用とは、われわれを盲目にすることである。それゆえ、第一の徳とは、よく判断することであり、よく判別することであり、自分になにがもとめられているか、なにが約束されているか、自分にとってなにが重要なのか、自分はなにを欲し、なにを欲しないのかを知ることである。そして、あきらかなことだが、われわれを連れ去ろうとする人たちは、はなばなしくもそうぞうしい外観の花火により、賞讃により、侮辱により、皮肉により、恥辱により、威嚇によって、われわれの注意をおびえさせ、疲れさせ、がっかりさせることからまずはじめる。じつは、徳という名のもと、つねに目ざされているものは、判断力なのだ。徳は一つしかなく、自己自身をまえにした精神の自由な態度こそそれである。もろもろの徳のかげに姿をみせているのは、うまいことばでいえば、自己尊重ということである。有徳の人とは、自分がいわば精神の捧持者であると知り、またこの高い属性に対しみずから責任あると知る人のことである。それゆえ、賢者はただ自己をしか信ぜず、自己についてはただ自己の精神をしか信じない。かくして彼はときに、徳とはなにものでもないとさえいうにいたる。(アラン『人生語録集』(プロポ集 )彌生選書 1978 井沢義雄・杉本秀太訳)
これらはプラトンだけではなく、わたくしの狭い読書範囲でも、仏モラリストたちの系譜の言葉であることが分る。
たとえば、ラ・ロシュフーコーの箴言集から。
正義とは、自分に属するものを奪われるのでないか、との生ま生ましい危惧にほかならない。隣人のすべての権益に対する配慮と尊重、隣人にいかなる迷惑もかけまいとする、細心の注意はここから生まれるのである。この危惧が人間を生まれや運によって自分に与えられた富の限度内に踏みとどまらせるのであって、これがなければ、人間はとめどなく他人の財産を掠め取ろうとするようになってしまうだろう。
●アランと小林秀雄より
森有正は、「彼(アラン)はアリストテレスを十八回読破したと言う!」と、感嘆の声を発しているが、およそアランほど、徹底して古典を読みこんだ者はいないであろう。
例えば、彼は、トルストイの大作『戦争と平和』を10回以上、あの厖大なサン・シモンの『回想録』を一行も飛ばさずに少くも三度以上反読する。『谷間の百合』、『パルムの僧院』、『赤と黒』に至っては実に五十回以上も読み返し、しかも読むたびに喜びを新にする。
「ステイヴンソンの『宝島』は、はとんど記憶の中に書きとめられている」と言う。おそらく、プラトンやスピノザ 、デカルト、ヘーゲル、(……)などの哲学者も、こんな風にして、その全著作をくり返し彼は熟読したのであろう。
例えば『谷間の百合』が退屈だとかつまらぬとか言う者がいるが、彼等はかけ足でページからページへと急いだだけで、ろくによく読みもしないで勝手な言辞を弄している、これこれしかじかの素晴らしい個所を引用してみると、彼等はそんな部分があったことにさえ全く気づいていない。
肝心の作品をよく読みもしないで、手前勝手な理屈をこねまわす文学研究者の何と多いことよ、とアランは嘆くのである。
ーー森有正もアランに熱中した同じ頃熱愛したのだが、彼を救うための文章を書こうとして書き切れていない(もちろん救うといっても、わたくしの個人的な読書歴のなかで「救う」のであって、他人に強要するつもりはないが、少年時の愛は森有正のかんしては救い切れていないのだ)。
…………
アランは第一次大戦に自ら望んで従軍している。《46歳で兵役義務はなかったにもかかわらず、そして戦争を憎んでいたにもかかわらず、しかもアンリ四世校という名門中の名門の学校で哲学教師の職を得ていたにもかかわらず、志願して従軍しました。それも、アランの年齢と地位に配慮して後方任務が用意されたのを断り、重砲兵を希望して前線に赴いたのです。》(村井章子)
《アランが世に知られるきっかけとなったのも、ドレフュス事件(1894年)の際に、スパイ容疑をかけられたドレフュス大尉を擁護し軍部を攻撃する論陣を張ったことでした。》
アランは第一次大戦に自ら望んで従軍している。《46歳で兵役義務はなかったにもかかわらず、そして戦争を憎んでいたにもかかわらず、しかもアンリ四世校という名門中の名門の学校で哲学教師の職を得ていたにもかかわらず、志願して従軍しました。それも、アランの年齢と地位に配慮して後方任務が用意されたのを断り、重砲兵を希望して前線に赴いたのです。》(村井章子)
ほかにも一九三六年に組織された反ナチズム知識人連盟の会長になっている。
ボーヴォワールの日記を読むと、ふたつの大戦間、いかにアランが敬愛されよく読まれていたかを知ることができる。ただし第二次世界大戦間際には、あのオプティミズムは、ナチの侵攻に対しては通用しない、という意味のサルトルかあるいは他の友人との会話が書かれていたはずだが、いま確めてみることはしない。
ボーヴォワールの日記を読むと、ふたつの大戦間、いかにアランが敬愛されよく読まれていたかを知ることができる。ただし第二次世界大戦間際には、あのオプティミズムは、ナチの侵攻に対しては通用しない、という意味のサルトルかあるいは他の友人との会話が書かれていたはずだが、いま確めてみることはしない。
アラン( 1868-1951)は、彼がプロポと名づけたこの種の短文を、 1906年いらい三十数年間、一日に一つ書くのを原則として、ほぼこの間の日数の半分に匹敵するおびただしいプロポをのこした。「君に天分があろうとなかろうと、毎朝、二時間ずつ書きたまえ。」というスタンダールのことばをアランは好んで引用するが、しかし彼はこうした短文をいたずらに書きためていたのではない。「自分の原稿を日ごとに活字にする人は、大理石ないし石材に彫刻する人んい似たところがある。彼は慎重をまなぶのである。」アランは 1906年2 月16日から 14年9 月1日にいたる間、『ルーアン日報』紙に「一ノルマン人のプロポ」と題して毎日かならず一篇の短文を、つまり合計して三千九十八篇のプロポを掲載したのである。以後も、数種の新聞・雑誌に定期的にプロポを発表しつづけた。慎重さは、まさに彼がいうように、翌朝には印刷されもはや修正加筆のきかない形にされた自分の文章が、無数の読者の手もとに配されてしまうという余儀なさによってまなばれる。まなばれた慎重さは、書き手のペン先を規制し、方向逸脱を監視するであろう。それにしても、まずはじめには決断をもってペンを動かすことが、つねに必要であろう。翌日の記事はさし迫っているからである。ところで、あつかう題目は、新聞の読者がよく知っている日常的な経験と毎日の報道のなかに求められねばならない、という余儀なさが、さらに加わる。人々が述べあう諸問題、しかも決して支配者ではなく民衆が語る話題。政治・社会体制は、そこで広い部分を占める。労働、情念、家庭、学校、小説、祭り、その他。以上が、アランのプロポの独特な展開とその文体とを鍛練した主たる条件だと考えられる。そして proposという語は、これらの条件をそのまま一語のうちに含むのである。プロポーー決意・主題・時宜・話題。(『アラン人生語録』弥生書房 1978 杉本秀太郎「あとがき」より)