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2014年9月6日土曜日

ファシストの頭突きとハンマー投

すこしまえ、Bernardo Bertolucci のNovecento冒頭のスチル写真(すばらしい糸杉並木の画像)貼り付けたのだが、そのせいもあり彼の作品のいくつかを観直す。五時間を超えるNovecentoもベッドに横になりながら、iPadでじっくり観た。

ベルトルッチは、わたくしの好みからしたら、初期の作品以外は、物語すぎる。だいたい齢を重ねると、物語はどうでもよくなる。ただ彼の「絵」には惹き付けられるものが多い。またベルトルッチはあきらかに足フェチなので、これはわたくしの琴線にひどくふれる。以前、彼のその映像を三つばかり貼り付けたことがあるが、あれはこのブログでなかったかもしれない。まあそれもこの際どうでもよろしい。




右手前のまな板に載っているのは、山羊のチーズだろうが、イタリアの赤ワイン(チリワインでもいいが)とイタリア風の中身がいっぱいつまったパン、それに山羊のチーズはいまでも大好物で、とくに贅沢しないときは、それで満足である、--いや、サラミか生ハムがちょっと欲しいぜ、バージンオリーブオイルと塩と胡椒をふっただけのイタリア香菜を齧らないわけにはいかないしな、それにリゾットかポレンタを三口ほど、海の幸サラダはどうなった? キノコ類は?ーーというわけで、それで満足というのは、オオウソだが、それでも最初のみっつは至高の食べ物である(すくなくともチーズは、多くの場合山羊のチーズを食す)。

わたくしは最近街中にでるのがひどく億劫になって、レストランに行くことは稀なのだが、ひと月に一度ほどは、妻が街に出てイタリア食材を仕入れてくる。ハノイのイタリア大使館でコックをしていたイタリア人が、妻の友人と結婚していて、サイゴンでレストランをやっており、その顔見知りの細君から、比較的安く、まとめ買いするのだ(パンも大量に仕入れ、冷凍しておく)。チリワインのおいしさを知ったのは、この元大使館のコックのお爺ちゃんのせいである。お爺ちゃんといっても、ベルリンギエリ家の小作人頭であり主人公のひとりオルモの祖父であるレオ(スターリング・ヘイドン)のようないい男だ。






ところで肉体労働をしたあと、仲間と食事するというシアワセを知ってるかい?


六月    
                 茨木 のり子         

どこかに美しい村はないか
一日の仕事の終わりには一杯の黒ビール
鍬を立てかけ 籠をおき
男も女も大きなジョッキをかたむける

どこかに美しい街はないか
食べられる実をつけた街路樹が
どこまでも続き すみれいろした夕暮れは
若者のやさしいさざめきで満ち満ちる

どこかに美しい人と人の力はないか
同じ時代をともに生きる
したしさとおかしさとそうして怒りが
鋭い力となって たちあらわれる

Bernardo Bertolucci のNovecentoを観たときは、この茨城のり子の詩をとても好んでいたころで、上の場面をみたときは、《一日の仕事の終わりには一杯の黒ビール/鍬を立てかけ 籠をおき/男も女も大きなジョッキをかたむける》の詩句と重なって惚れ惚れしたものだ。だいたいわたくしのイタリア食ごのみは、ベルトルッチのせいかもしれない。それと須賀敦子のエッセイだな、とくにサフランのリゾット好みは、完全に須賀敦子のせいだが、これはもっと後年になる。彼女が上質のエッセイを書き始めたのは、90年前後のことなのだから。

だいたい映画に限らず、芸術作品のたぐいは、それが印象に残るものであればあるほど、それを観たときや出会ったときの記憶にとりまかれている。感受性は深くて免疫のまだ薄い年頃に出会った作品なら、その作品の出来不出来にかかわらず、いつまでも大切な作品でありうるし、またその年頃でなくても、なんらかの「精神的な危機」、--といえば大げさになるが、たとえばひどい恋に陥っていたときに出会った作品は、これはまた掛け替えのない記憶にとりまかれている。






Bernardo Bertolucci のNovecentoは、わたくしにとってそういう作品だ。だが、なんの「精神的な危機」の折に出会ったなどとは、書きたくない。ひとに示すには、いまだイタすぎる。傷は思いのほか深く、三十年ほど経っているのに、癒着したと見えた傷が、かえって肥大して表れたりする。

Novecentoは、石鹸の広告ではないが、わたくしにとっては、いまだ肥沃、かつ危険な作品なのだ。

われわれも相当の年になると、回想はたがいに複雑に交錯するから、いま考えていることや、いま読んでいる本は、もう大して重要性をもたなくなる。われわれはどこにでも自己を置いてきたから、なんでも肥沃で、なんでも危険であり、石鹸の広告のなかにも、パスカルの『パンセ』のなかに発見するのとおなじほど貴重な発見をすることができるのだ。(プルースト「逃げさる女」井上究一郎訳)

ところでNovecentoはEnnio Morriconeの叙情的な音楽と糸杉並木の美しい場面から始まるが、その後すぐさま血が現われる(最後近くにも、この糸杉並木のすばらしい景色が出てくる。わたくしは並木の美にひどく弱い)。

ーーYo-Yo Ma にはEnnio Morriconeの曲集があるが、このNovecentoのテーマ曲はやってないようだな、けしからん!


で、なんの話だったか。Novecentoの血の場面をふたつばかり貼り付けておこう。

わたくしの比較的好みの俳優ドナルド・サザーランドの猫への頭突きと子供のハンマー投回転の映像。


◆Novecento - Attila e il gatto (how to fight communism)



◆BERTOLUCCI Novecento Donald Sutherland