このブログを検索

2013年11月11日月曜日

浅墓な誤解=浅墓な人間にもできる理解(小林秀雄)

彼は(……)世人に訴え、人々から妙な具合にはぐらかされたり、心外な誤解を受けたりすることで苛立っている。彼は、自分の苛立たしさが正当なものであることを力説する。俺の方が正しいのだぞ、君らは皆間違っているのだぞと、怒鳴ったり、毒づいたり、根気よく弁解したりしている。このことで、彼はずいぶん精力を使っているのだが、彼には何もできない。浅墓だと信ずる誤解を解こうとすれば浅墓な抗議ができあがるだけである。
ある男がさも確信ありげに彼の意見を否定する。永いこと経って彼の意見の方が正しかったという証拠が見つかる。彼はこれで仇が討てたと考えざるを得ない、とともに相手はとっくに忘れていることだと思わざるを得ない。座談会は失敗に終わる。彼は帰途、あの時はああ言うべきであった、ああ言うべきではなかった、としきにり反省する。彼が失敗なくしゃべったとしても会は終に失敗だったかもしれぬ。彼が気にしながらはいて着たみすぼらしいセルの袴がすべての原因だったかもしれない。だが、彼にはそう断ずることができない。人間というものが、それほど軽薄なものとは彼には思えない、思いたくない。あれほど人間の軽薄さをいたる処に嗅ぎつけていながら、なんという不手ぎわなことか。しかし、これが島木健作なのである。彼は告白文学者の好む感傷も頽廃も、皮肉も自嘲も知らぬ。(小林秀雄「島木健作」昭和一六年二月)

――と引用したからといっていまではほとんど誰も覚えていない島木健作をめぐる話などをするつもりはない。ここでは「浅墓な誤解」「人間の軽薄さ」についてだ。

ところで最近は座談会で討論などということは稀だろう。

の、かなりの程度日本に特有な座談文化は、「文化人」をキャラ立ちさせるための簡便な装置か、そうでなければ後日単行本に収録して分量を水増しするために採用されているようなふしもあり、およそ厳密な議論のための場所とは言いがたい。(斎藤環から茂木健一郎への手紙

いや「朝ナマ」のたぐいなら、「ある男がさも確信ありげに彼の意見を否定する」ということはあるのかもしれない。そこでの戦術としては「確信ありげに」が肝要だ。

《ヴィリリオも強調するように,リアルタイムの電子情報の時代の最大の問題は「判断する時間がない」ということでしょう》(浅田彰)であるわけだから、観衆は、確信ありげな方をまずは信用する。

TVやらツイッターなどのリアルタイムの討論の場での公衆コミュニケーション操作の熟知者は、ああ批判されたら、こう言い返す、というパターンを瞬時に捻出するほとんど反射的といえる身体反応の鋭敏さを具えている。そして、その言い返し方が後から考えたらひどい誤魔かしであっても、その場の一般者にはとても理解しやすい釈明なのだ。

もちろん、「確信ありげに」より前に、肝要な事は、いうまでもないかもしれぬが、次の文が示す。

ある証人の言葉が真実として受け入れられるには、 二つの条件が充たされていなけらばならない。 語られている事実が信じられるか否かというより以前に、まず、 その証人のあり方そのものが容認されていることが前提となる。 それに加えて、 語られている事実が、 すでにあたりに行き交っている物語の群と程よく調和しうるものかどうかが問題となろう。 いずれにせよ、 人びとによって信じられることになるのは、 言葉の意味している事実そのものではなく、 その説話論的な形態なのである。 あらかじめ存在している物語のコンテクストにどのようにおさまるかという点への配慮が、 物語の話者の留意すべきことがらなのだ。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』)


この二条件と「確信ありげに」を備えていれば、ことによるとヒットラー的な対応がもっとも功を奏す(小林秀雄「ヒットラーと悪魔」昭和三十五年五月『考えるヒント』所収)。


【とてもつく勇気のないような大嘘】
大衆はみんな嘘つきだ。が、小さな嘘しかつけないから、お互いに小さな嘘には警戒心が強いだけだ。大きな嘘となれば、これは別問題だ。彼等には恥ずかしくて、とてもつく勇気のないような大嘘を、彼らが真に受けるのは、極く自然な道理である。たとえ嘘だとばれたとしても、それは人々の心に必ず強い印象を残す。うそだったということよりも、この残された強い痕跡の方が余程大事である、と。

【大衆の目を、特定の敵に集中させること】
大衆が、信じられぬほどの健忘症であることも忘れてはならない。プロパガンダというものは、何度も何度も繰り返さねばならぬ。それも、紋切型の文句で、耳にたこが出来るほど言わねばならぬ。但し、大衆の目を、特定の敵に集中させて置いての上でだ。

これには忍耐が要るが、大衆は、彼が忍耐しているとは受け取らぬ。そこに敵に対して一歩も譲らぬ不屈の精神を読みとってくれる。紋切型を嫌い、新奇を追うのは、知識階級のロマンチックな趣味を出ない。彼らは論戦を好むが、戦術を知らない。論戦に勝つには、一方的な主張の正しさばかりを論じ通す事だ。これは鉄則である。押しまくられた連中は、必ず自分等の論理は薄弱ではなかったか、と思いたがるものだ。討論に、唯一の理性などという無用なものを持ち出してみよう。討論には果てしがない事が直ぐわかるだろう。だから、人々は、合議し、会議し、投票し、多数決という人間の意志を欠いた反故を得ているのだ。

【大衆の無意識界の操作】
間違ってばかりいる大衆の小さな意識的な判断などは、彼には問題ではなかった。大衆の広大な無意識界を捕えて、これを動かすのが問題であった。人間は侮蔑されたら怒るものだ、などと考えているのは浅墓な心理学に過ぎぬ。その点、個人の心理も群集の心理も変わりはしない。本当を言えば、大衆は侮蔑されたがっている。支配されたがっている。獣物達にとって、他に勝とうとする邪念ほど強いものはない。それなら、勝つ見込みがない者が、勝つ見込みのある者に、どうして屈従し味方しない筈があるか。大衆は理論を好まぬ。自由はもっと嫌いだ。何も彼も君自身の自由な判断、自由な選択にまかすと言われれば、そんな厄介な重荷に誰が堪えられよう。ヒットラーは、この根本問題で、ドストエフスキーが「カラマーゾフの兄弟」で描いた、あの有名な「大審問官」という悪魔と全く見解を同じくする。言葉まで同じなのである。同じように孤独で、合理的で、狂信的で、不屈不撓であった。


すこし文脈から外れるが、先ほど引用した浅田彰の「ハイパーメディア社会における自己・視線・権力」(1995)における発言のすこし後につぎのようなものもある。

浅田――ルソーが一般意志というけれど,具体的なモデルとしては小さい共同体を考えているわけで,それを無視して直接民主主義を乱暴に拡大すると,ファシズムと限りなく近いものになってしまうわけです.

たとえば,リンツで「アルス・エレクトロニカ」というのをやっているんだけれど,あそこはヒトラーが生まれた所だから,ヒトラーが演説した広場があって,前回は,そこに巨大なスクリーンを立てて,インタラクティヴなゲームをやったんですね.みんなに赤と緑の反射板を持たせて,全員でTVゲームをやったりね.そこで,市長の人気投票とか,直接民主主義制のゲームもやったんですが,まさに柄谷さんがおっしゃったような感じで,みんながそのつど結果を見て補正するから,およそ一定しないわけです.

フロイトが『集団心理学と自我の分析』で、つぎのシラーの四行詩を挙げているのを思い出しておこう。

《だれも、ひとりひとりみると/かなり賢く、ものわかりがよい/だが、一緒になると/すぐ、馬鹿になってしまう》

 さてここで冒頭の「島木健作」(昭和一六年二月)に戻れば、小林秀雄は、一カ月後にもほとんど同じことを書いている(文面から窺うに、島木健作とも林房雄とも親しい友人関係にあったようだ)。

林房雄の放言という言葉がある。彼の頭脳の粗雑さの刻印の様に思われている。これは非常に浅薄な彼に関する誤解であるが、浅薄な誤解というものは、ひっくり返して言えば浅薄な人間にも出来る理解に他ならないのだから、伝染力も強く、安定性のある誤解で、釈明は先ず覚束ないものと知らねばならぬ。
「俺の放言放言と言うが、みんな俺の言った通りになるじゃないか」と彼は言う。言った通りになった時には、彼が以前放言した事なぞ世人は忘れている。「馬鹿馬鹿しい、俺は黙る」と彼は言う。黙る事は難しい、発見が彼を前の方に押すから。又、そんな時には狙いでも付けた様に、発見は少しもないが、理屈は巧妙に付いている様な事を言う所謂頭のいい人が現れる。林は益々頭の粗雑な男の様子をする始末になる。(「林房雄」昭和一六年三月)

一カ月後といっても、たぶん別の雑誌に書いたのだろうし、たぶん「浅墓な誤解=浅墓な人間にもできる理解」がよほど気に入っていたのかもしれない。たしかに面白い。

これをプロパガンダというつもりはないが、今、『作家の顔』に続けて所収されているのをみると、やや次の文の気味合いがないでもない。

《大衆が、信じられぬほどの健忘症であることも忘れてはならない。プロパガンダというものは、何度も何度も繰り返さねばならぬ。それも、紋切型の文句で、耳にたこが出来るほど言わねばならぬ。》


…………

以上の文は、次の文を読んだことから書かれている(「曾野綾子は、ノーベル賞作家である大江健三郎を、名誉毀損で訴えた「集団自決裁判」を、どう考えていたのだろうか ?」)。

曾野綾子は、「沖縄集団自決裁判」の弁護士の一人・徳永信一にこんなことを言っているらしい。

《判決の前、誤読説のことを曾野氏に尋ねる機会があった。

「そんなくだらないこと、ほっておきなさい。もっと大事なことがあるはずです。すべては、大江さんの悪文から来てることなのよ」》

(徳永信一「ノーベル賞作家のまやかしのレトリック」2008/8「WILL」)